「中国 人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決」のニュースには、暗澹とせざるを得ない。中国よ、革命の理想はどこに追いやったのか。人権も民主主義も法の支配も捨て去ったというのか。野蛮の烙印を甘受しようというのか。
弱者の権利を擁護するために法があり、適正な法の執行のために司法制度がある。脆弱な国民の人権を擁護するために、司法の場で法を活用するのが本来の弁護士の役割である。「人権派」弁護士こそが、本物の弁護士である。
権力に屈せず、カネで転ばぬ「人権派」弁護士は、権力にとっても、体制内で甘い汁を吸っている経済的強者にとっても目障りな存在である。しかし、文明社会の約束事として、法の支配も人権派を含めた弁護士の存在も受け入れざるを得ない。
この文明社会の約束事を放擲して弁護士を弾圧すれば、野蛮の烙印を甘受しなければならない。野蛮極まる天皇制政府は、それをした。治安維持法違反で起訴された共産党員を弁護した良心的弁護士を、治安維持法違反(目的遂行寄与罪)で集団として逮捕し起訴して有罪とした。有罪となった弁護士は資格を剥奪されたが、残念なことに、時の弁護士会はこれに抗議をしなかった。
今、中国でリアルタイムに同じことが起こっている。人権保障のための最低限に必要な、法廷の公開や弁護権の保障もなされていない。
BBCの下記の記事が、怒りをもって事態をよく伝えている。
中国、人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決? 国家政権転覆罪で
https://www.bbc.com/japanese/47025148
中国・天津の裁判所は28日、人権派弁護士の王全璋氏(42)に国家政権転覆罪で4年6カ月の実刑判決を言い渡した。王氏は政治活動家や土地接収の被害者、政府が禁止している気功集団「法輪功」の信者を弁護していた。
2015年に中国政府が何百人もの弁護士や活動家を弾圧した際に逮捕されたが、昨年12月まで裁判が行われていなかった。
中国はここ数年、人権派弁護士の取り締まりを加速させている。
裁判所は王氏を国家政権転覆罪で有罪とし、「4年6カ月の禁錮刑のほか、5年間の政治的権利のはく奪」を言い渡した。
裁判は非公開で行われ、ジャーナリストや外国の外交官なども裁判所への立ち入りを禁止された。
「国連の恣意的勾留に関する作業部会では、王氏の勾留を恣意的なものと認定した。つまり国際法上では、王氏はまず起訴されるべきではなく、よってどんな判決も受けてはならないことになる」
また、人権団体アムネスティ・インターナショナルはこの裁判を「いかさま」と呼び、判決は「非常に不公正なものだ」と批判した。
アムネスティの中国研究員ドリアン・ラウ氏は「王全璋氏中国で、人権のために平和的に立ち上がったことで罰せられるのは許しがたい」と述べている。
2015年7月9日に起きたことから「709事件」と呼ばれている中国政府による弁護士弾圧は、習近平国家主席の政権下で反体制に対する不寛容が広がってきた兆候だと活動家たちは見ている。709事件では200人以上が拘束され、多くが懲役刑や執行猶予、禁錮刑などを科せられている。」
その記事の最後を締め括る、次の指摘には、背筋が寒くなる。
北京で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、弁護士が今回有罪になったのは、共産党が支配する司法制度に中国の法律そのものを使って対抗しようとしたからだと指摘する。
「共産党は近年、態度を明示してきた。立憲主義や司法の独立といった概念は、危険な西洋式理想なのだという立場だ」、今回の判決も「ぞっとするようなその主張を補強するためのものだ」と解説している。
この解説は恐い。世界の経済大国であり軍事大国でもある中国が、文明とは隔絶した恐怖国家となるかも知れないというのだ。既に中国では、人権や、人権擁護のための立憲主義や権力分立、司法の独立などを無視した、むき出しの権力が暴走している。中国国内での批判が困難であれば、国際世論が批判しなければならない。我々も、できるだけのことをしなければならない。
(2019年1月31日)
赤池誠章という参議院議員がいる。自民党の文部科学部会長。文部科学省の陰に隠れて前川喜平攻撃をしたことで、人に知られるようになった。極右の教育を行う日本航空総合専門学校長を務めていたことでも、私のブログに取りあげたことがある。
前川さん 負けるな 民意はここにあり
https://article9.jp/wordpress/?p=10101
またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」
https://article9.jp/wordpress/?p=9740
「『日々勉強!結果に責任!』を信条とする赤池まさあきです。国家国民のために全身全霊を尽くす覚悟をもって取組んでおります。」というのがこの人のキャッチフレーズ。「国家国民」という言葉使いに、国家主義者であることがあらわれている。だからであろう、「日の丸・君が代」への執着が強い。下記のブログの一節を、原文のママ引用させていただく。
https://blogos.com/blogger/akaike_masaaki/article/
日の丸は、聖徳大使の「日出ずる国」という国名の謂れ通り、太陽を象ったもので、簡素で明確に我が国柄を表しています。既に戦国時代の武将の旗印などにも用いられ、江戸時代には将軍家の船印として使用されて定着していました。長い歴史の中で、慣習法として定着してきた国家「日の丸」や国歌「君が代」は、戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、平成11年には明文法化されました。
短い文章の中に間違いが盛り沢山。さすが、自民党文科部会長。今後は是非とも、「日々勉強!結果に責任!」を。以下、勉強のお手伝い。
「聖徳大使」は、聖徳太子の間違いなんでしょうね。大使役は小野妹子でしたから。こんな間違い、聖徳太子に失礼ではありませんか。
「日出ずる」は、民族派ならきちんと「日出づる」と書かなくちゃ。また、「日出づる国」という国名は隋書東夷傳には出てきません。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)ですから、「日出づる処」でしかありません。なお、念のためですが、「云々」は、ウンヌンと読みます。くれぐれも、デンデンとはお読みにならぬよう。
戦国時代の武将の旗印に使われていたことが、国旗として定着していた根拠というんですか? 将軍家の船印として使用されていたから慣習法的に国旗? はて、面妖な。
国家「日の丸」は、国旗「日の丸」の間違いですね。「国家」も「国旗」も「日の丸」も、あまり大切には思っていらっしゃらないから、こんな間違いになるのでは。少し心配ですね。
戦後になって軍国主義の象徴として一部で批判されてきました。という記載だけはそのとおりですね。もっとも、「一部で」を、「多くの良識ある人々から」「戦争の辛酸を2度と繰り返してはならないと決意した主権者から」などとすれば、より正確ですね。
「平成元年に、学習指導要領に明記されて、学校の入学式や卒業式には義務付けられ、」「平成11年には明文法化されました。」には驚きました。まるで、法が、全国民に国旗・国歌(日の丸・君が代)の義務付けを認めているかのごとき書きっぷり。大まちがいです。改定学習指導要領も、国旗国歌法も、「日の丸・君が代」の義務付けなんてしていません。法が義務付けしてはいないのに、職務命令で教員に義務付けできるのか、それが裁判で激しく争われているのです。
赤池さん。多様性の時代ではありませんか。人種も、民族も、宗教も、LGBTも、そして何よりも思想や良心のありかたについても、多様な立場が共存しなければならないことを、認めていただけませんか。
あなたのように、「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。でも、人の思想はいろいろなのです。どうして国民すべてに、「日の丸・君が代」を「義務付けたい」とおっしゃるのでしょうかね。
赤池さん、あなたの立論には憲法が出てこない。「日の丸・君が代」の強制を憲法に照らしてどうお考えですか。思想・良心の自由の保障や、信仰の自由の保障、あるいは教育の自由の保障とどう関わっているのか、関心がおありではないのでしょうか。それとも、都合が悪いから言及は避けている、ということでしようか。
赤池さん。一つ、提案があります。国会議員はお辞めになって、本気で「日々勉強!」に励んでみてはいかがでしょうか。国語も、歴史も、憲法も。そして、教育とは何であるかについても。きっと、前川喜平さんが親切に基本から手ほどきしてくれますよ。そして、次に立候補するなら、教育の神髄や日本国憲法の理念を学んだ後にしてはどうでしょうか。もっとも、そのときには、自民党からの立候補はあり得ないと思いますがね。
(2019年1月30日)
和歌のジャンルといえば、まずは相聞。そして挽歌。他には叙情・叙景歌。その他は傍流、釣りでいう外道の類。
紀貫之も、古今和歌集の序でこう言っている。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。…生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
「猛き武士の心をも慰むるは歌なり」に同意する。これこそが、やまとうたの本流であり本領ではないか。ところがその正反対もあるのだ。戦意昂揚歌というトンデモ・ジャンル。今、国会でそれが問題となっている。
敷島の 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
これは日露戦争の際に、ときの天皇(睦仁)が詠んだ歌とのこと。「ことある時」とは、大国ロシアとの戦争。臣なる民の命をかけた戦闘を、安全なところから、「大和心のをゝしさ」と、上から目線で督戦している歌である。
この戦意昂揚歌と対をなすのが、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の厭戦詩である。晶子は、旅順の弟の命を案じて、天皇にプロテストしている。
「すめらみことは、戰ひにおほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、獸の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、大みこゝろの深ければ もとよりいかで思されむ。」
晶子の怨嗟の詩のとおり、天皇は宮中で「大和心のをゝしさ」を嘉していた。いうまでもなく、「大和心のをゝしさ」とは、多くの兵士の死を意味する。
安倍晋三が、この歌を施政方針演説で引用した真意はどこにあるのだろうか。天皇・戦争・国家主義・帝国主義・国民統合のイメージは、普通なら避けたいところだ。しかし、彼が敢えてこんな歌を引用したのは、自分のコアな支持者への共感を意識してのことなのだろう。それは、不安と危機感を掻きたて、かつての「強い日本」への郷愁をアピールすることと重なる。
日露戦争は、朝鮮の覇権を争った帝国主義戦争だった。これに勝った日本は朝鮮の併合に至る。現在の日韓問題は日本が朝鮮を植民地化したことに起因する。創氏改名も、日本軍「慰安婦」問題も、徴用工問題も、在日差別も…、すべてが日露戦争から始まると言ってまちがいではない。
敢えて今、その日露戦争についての天皇の督戦歌。当然に韓国の民衆の感情を逆撫でするだろうし、日本の平和勢力をも刺激する。しかし、これであればこそ、右翼は大歓迎なのだ。たとえば産経。
「天皇陛下のもと、苦難乗り越えた日本人の強さ強調 平成最後の施政方針演説で首相」という見出しの記事。
「首相は、明治天皇の御製を引用した。大和魂は平時には見えにくくても、有事にはおのずと立ち現れる。大日本帝国憲法下の明治天皇と、現行憲法における象徴天皇で制度は異なるが、首相は近代以降、日本人が天皇陛下の下で結束し、幾多の試練を乗り越えてきた歴史を強調した。」
戦後の日本の言論空間は、少なくとも矜持のある新聞には、こんな論調を許して来なかったのではないか。恐るべし産経。恐るべし安倍晋三というしかない。
こんな人物に、憲法を取り扱わせてはならない。一日も早く安倍退陣の実現を。第198通常国会冒頭の改めての決意である。
(2019年1月29日)
あれからもう40年以上も経っている。私が弁護士になって4年目か5年目ころのこと。どう呼び出されたか記憶にないが、東京弁護士会の談話室で、大阪の弁護士Iさんと面談した。
彼は、「実は、おしえおやが…」と切り出した。「おしえおや」とは、二人の間では説明不要だった。ある教団の教主が、刑事再審を請求したいと考えている。ついては受任の気持はないか、という打診だった。飽くまで打診で、依頼ということではなかったが。
I弁護士も私も、その教団が経営する私立高校の卒業生だった。彼の方が、一学年上だったが親しい間柄。彼は、文芸部の部長で私が部員という関係でもあった。大学時代には交流がなかったが、思いがけなくこの人と同じ23期司法修習生となって再会した。彼は、青年法律家協会の活動や、任官拒否を許さぬ修習生運動の良き理解者だった。修習終了後私は東京で弁護士登録し、彼は大阪弁護士会に所属して教団の法律事務を担当していたようだった。
その教団は、戦前天皇制政府から苛酷な大弾圧を受けて解散に追い込まれた歴史をもつ。相当数の幹部が治安維持法で検挙されたが、初代教祖とその長男の二代目教祖は、治安維持法違反ではなく、いずれも不敬罪で起訴された。初代は、判決以前に衰弱して亡くなり、二代目は有罪判決を受けて確定し下獄した。その後間もなく終戦を迎えGHQの指示によって解放された。このあたりの教団史のあらましは、高校の「宗教の時間」で教えられていた。特高警察や思想検事の取り調べの酷さなども、直接体験した教団幹部から聞かされていた。
戦後二代目は教団を再興し、当時相当の教勢となっていた。「教主(おしえおや)」となっていたこの人の「ご親講」は、高校生時代に何度となく拝聴した。さすがに、人を惹きつける魅力を持った人物だという印象。
I弁護士の話では、その教主が、「他の罪ならともかく、不敬の罪名を背負ったままでは、日本人として死ぬに死ねない」という思いを抱えているという。そこで「再審によって不敬の汚名を晴らしたい」との意向だというのだ。
I弁護士は、天皇制と闘うのだから、澤藤なら引き受けると考えていた様子だった。私は、考え込んだ。直ぐには返答できなかった。
一面、やってみようかと気持は動いた。事件としては面白い。弁護士としてやりがいがあるとは思った。法的な道筋は見えていなかったが、取り組むに値するし、歴史の発掘になるかも知れないとも思った。
しかし、ある程度のことを知っていただけに、躊躇の気持も強かった。この教団は、天皇制に抵抗して弾圧されたのではなく、天皇制に従順であったにもかかわらず、弾圧されたのだ。だから、教主の主張にいつわりのないことはそのとおりなのだが、そのことが引っかかった。
不敬罪は天皇や皇族に対して「不敬の行為」あったことが構成要件とされている。この教団の場合は、布教した教義の内容が「不敬」とされた。天皇制政府は、天皇を神聖なる存在として維持するために、天皇を天皇たらしめている神話と抵触する宗教教義の一切を認めず、弾圧した。その弾圧の手段の一つが不敬罪だった。にもかかわらず、弾圧された当人の希望は、「自分は天皇や皇室への不敬の気持はまったくなかった。むしろ、自分の皇室崇敬の気持ちの篤いことを訴えて、不敬罪の汚名を雪ぎたい」というのだ。天皇に弾圧された者が天皇への崇敬の念を強調しているこの奇妙。天皇制というものの異様な本質を見た思いだった。私には、皇室崇敬の気持など毛頭ない。はたして信頼関係を形成できるだろうか。私が適任と言えるだろうか。また、何より私が時間と情熱をかけて取り組む事件なのだろうか。
そして、当時30代初めの私には、あの宗教団体のリーダーを相手に、自分のペースを守りながらことを処理できる自信は到底なかった。
考えた末に、お断りした。そのときI弁護士には、「不敬罪は、今の世では汚名ではなく、むしろ勲章みたいなものじゃない。不名誉と思うことも、勲章返上の必要もないと思うよ」と、半分冗談、半分本音を言っている。
なお、私の父は、戦前からのその宗教の信仰者だった。戦後のあるとき、回心あって安定した職を捨ててこの教団の職員となった。このとき、母がよく同意したものと思う。当時4歳(か5歳になったばかり)だった私の意見は聞かれなかった。私も、Iさんも、このような教団職員の子弟として育っち、教団が経営する私立高校に入学したのだ。
Iさんは、弁護士となって教団の法律事務を担当することで、親孝行をしたはず。私は、高校卒業後、教団と無縁となっただけでなく、再審の打診も断って親不孝を重ねた。
天皇の代替わりが近づいて、天皇制とは何だろうかと考えることが多い。そのとき、真っ先に思い出すのがこの件。不敬罪というものの存在を、身近に感じた機会は他になかった。今にして思えば、I弁護士と一緒に、貴重な再審事件をやっておけばよかったと思っている。その結果がどうであったにせよ…。
再審請求がなされたとは聞かないうちに、あのときの「教主」は亡くなった。私の父も世を去り、I弁護士も早逝して今は世にない。往時茫々だが、象徴天皇制はいまだに健在で、あの当時から2回目となる天皇の代替わりを迎えようとしている。
(2019年1月28日)
毎日新聞日曜版に連載の「松尾貴史のちょっと違和感」。毎回楽しみに目を通している。「ちょっと違和感」とは、政権やこの社会の多数派の俗論へのプロテスト。「断固反対!」ではない「ちょっと違和感」というところがセンスのよさ。論旨明快で文章のリズムもイラストも立派なものだ。
しかし、いつも感心というわけは行かない。本日の「『平成』誕生の公文書公開延期 勝手に起点変えるインチキ」の記事には、「ちょっと違和感」を禁じ得ない。タイトルとなっている「公文書公開要件期間の起点を勝手に変えるインチキ」の指摘には同感で何の違和感もない。問題は元号というものに対する彼の感覚への「ちょっと違和感」である。
元号というものは、「不便・不合理・非効率」なものである。これは誰もが認めざるを得ないところ。時間的にも空間的にも通有性を欠く。グローバルの時代に普遍性がない。西暦との換算の必要は明らかに不要なコストである。元号の本家・中国はこんなものの使用を止めた。同じ分家スジの韓国・朝鮮も止めた。日本でも、かつて元号が廃れそうな時代があった。元号の自然消滅は間もなくかと思われたその時代に、危機感を募らせた右翼の運動が元号法の制定に成功して、この絶滅危惧種を永遠の消滅から救った。ひとえに、天皇制と元号との結び付きがあるからである。
かくも、「不便・不合理・非効率」な元号の使用が法的制度となり、事実上その使用が強制される理由は、天皇制の維持強化に関わっているからにほかならない。だから、国民主権や国民の主権者意識を大切に思う立場からは、元号とは天皇制維持の小道具として有害なものというほかない。松尾貴史氏には、この「有害性」の感覚がない。むしろ、新元号積極的受容の印象さえ受ける。そこが、「ちょっと違和感」なのだ。そもそも、「新元号の制定こそが、時間の起点を勝手に変えるインチキ」ではないか。天皇の都合での改元に大いに違和感あり、ではないか。
まず、書き出しの「巷(ちまた)では、『新元号は何になるのか』と持ちきりである。いや、誰かが情報を持っているわけではないので、持ちきりというほどでもないかもしれないが、とにかく多くの人が気になっているようだ。」は、本当だろうか。少なくとも私の周りでは、「この際、元号廃止になれば良い」「すっぱり元号使用を止める絶好のチャンス」「あらためて元号使用の強制はまっぴら」という声が強い。あるいは、「元号の変更、不便極まりない」「もったいぶるほどの改元か」という冷めた意見。
同氏の「昭和天皇が崩御し、次の元号が『平成』であると当時の小渕恵三官房長官が額装された新元号の書を示して発表した時の厳粛というか、改まったような感覚は訪れるのだろうか。そういう意味での小渕氏の雰囲気というのはなかなかに適任だったのではないか。」という書きぶりのセンスにも驚く。
いうまでもなく、新元号は新天皇の即位と結びついている。時の海部首相は、現天皇(明仁)の就任式(即位礼正殿の儀)で、高御座の天皇を仰ぎ見て、「テンノーヘイカ・バンザイ」とやった。天皇と臣下との関係を可視化して、国民に見せたのだ。もちろん、そうすることが、この国の国民を統御するに有効だとの思惑あっての喜劇である。これをも、同氏のセンスでは「厳粛というか、改まったような感覚」というのだろうか。きっと、安倍と菅もこの「テンノーヘイカ・バンザイ」をやる。海部だったから喜劇だが、安倍と菅だと救いようのない悲劇になる。
同氏の今日のコラムでは、新元号の予想に紙幅が費やされている。これは、安倍政権や官房長官の思惑へのお付き合い。安倍と菅を「不誠実の権化」と考えるセンスの持ち主であれば、新元号など関心をもたずに無視すべきなのだ。
実は、最近になって、みずほ銀行の通帳の表記が、いつの間にか西暦に変わっていることに気が付いた。こちらの方のセンスが良い。
同銀行のホームページを閲覧したところ、次の記事に出会った。
通帳の「お取引内容欄」を見やすくするため、新システム移行時に印字文言を一部変更しています。主な変更点は以下の通りです。
■お取引日付
通帳の取引年月日の表記を和暦から西暦へ変更しています。
なお、西暦は下2桁を表示しています。
(例えば、2018年11月30日の場合、18-11-30と表記)
みずほ銀行の藤原弘治頭取は、いま全銀協の会長である。
昨年5月17日その会長記者会見で、全銀協として改元にどう対応するかという質問に、彼はこう答えている。
全銀協の会長として銀行界の対応について申しあげれば、今、言われたような和暦を使用するような帳票、申込書、契約書、店頭のポスターやパンフレット、これらの差替えの事務やシステムを中心とした対応が出てくるが、これは元号が国民生活に広く浸透していることの表れだと思う。
全銀協としても、旧元号が記載された手形や小切手の、改元以降の取扱いをどうしていくかなど、業界全体で決めることが望ましいルールについてもこれから検討していく。
また、システム面でも、改元の対応に加えて、仮に即位の日である来年5月1日が祝日となった場合、前後を含めて10連休ということになり、その準備も必要になると思っている。全銀システムなど、業界インフラの対応をしっかり行い、会員各行への注意喚起を行うなど万全の対応をして参りたいと思う。
そつのない回答だが、「和暦・西暦の併用は面倒極まるがやむを得ない」と言っているように聞こえる。全銀協会長としては、そうは言いつつも、みずほ銀行では、西暦統一に踏み切ったわけだ。
これまでは、労金や城南信用金庫が西暦派として知られてきた。みずほの西暦派移行は、天皇の生前退位がもたらした、この社会の元号離れを象徴する出来事だろう。警察庁も運転免許証の有効期限表示について、原則を西暦表記とし、元号をかっこ書きとすると発表している。これは今年の3月以後、システム改修を終えた都道府県から順次実施されるという。
また、ある経済ニュースのサイトで、こんな記事を見つけた。「2019年4月30日を越えると、平成を使った和暦の表現が困難になる」ことから、5月期決算企業で財務諸表の日付を和暦から西暦使用に変更した上場企業があるという。
企業社会の合理性は、明らかに西暦使用を必要としている。これに、保守政権や国民の一定部分に根を下ろした権威主義が抵抗している構図だ。政権の思惑や天皇制への郷愁に無批判な議論には「ちょっと違和感」あって、どうしても一言せざるを得ない。
(2019年1月27日)
辺野古新基地建設に伴う大浦湾埋め立ての是非を問う2月24日沖縄県民投票。ようやく、県内の全市町村で実施される見通しとなった。まずは、安堵の思い。「県民投票」の具体的内容については、県の公報が丁寧に解説している。末尾にこれを引用するので、ご参考にされたい。
ここまで来る道は平坦ではなかった。県民世論の所在を明確にするための「埋め立ての賛否を問う」投票に、これだけの抵抗と妨害があるのだ。県民世論が明確になることを快く思わぬ勢力が根強いことをもの語っている。もちろん、その勢力の裏側には、中央政権の存在がある。
県民投票を求める運動が具体的に動き出したのは、前翁長雄志知事生前の昨年(2018年)5月。「『辺野古』県民投票の会」(代表・元山仁士郎)が県民投票条例制定の直接請求署名運動を開始し、9月までに必要数(有権者の50分の1・2万3千筆)の約4倍にあたる92,848筆の署名を集めて県議会に提出した。
これを受けて、県政与党(オール沖縄派)は回答の選択肢を「賛成」「反対」の2択とした県民投票の条例案を作成して上程。これに対し、県政野党である沖縄・自民党と、中立派の公明党は「賛成」「反対」に、「やむを得ない」「どちらとも言えない」を加えた4択とする案を提出。結局、野党案(4択案)は否決され、与党案(2択案)が賛成多数で可決成立して、県民投票条例は10月31日公布となり、その後投開票実施日は2019年2月24日とされた。ここまでは、順調だった。
ところが、投票事務の実施をすることとされた、県内市町村の首長や議会は、必ずしも県政与党派と同じ立場ではない。選挙事務執行のための補正予算が市町村議会に上程されたが、うるま市・沖縄市・宜野湾市・糸満市・宮古島市・本部町・金武町・与那国町の8市町で補正予算案を否決。最終的に宮古島・宜野湾・沖縄・石垣・うるま5市の市長が県民投票不参加を表明した。これによって、全有権者の31%に当たる約36万7千人が投票の機会を失う事態となった。
この事態を打開したのは県民の運動だった。県内全域で、とりわけ県民投票不参加を表明した5市で、「投票権奪うな」の声が巻きおこった。このことは、記憶に留めておかねばならない。
県は各市長に、事務を行うべき「法的義務」があるとして助言や勧告を行った。玉城知事や謝花副知事は、足を運んで各市長へ協力の要請を重ねた。また、行政法や地方自治の専門家からは、参政権を奪うことの違憲・違法を指摘する意見も相次いだ。
そして、県民投票の会元山代表のハンガーストライキが事態を動かした。
琉球新報は、「県民の熱意が政治を動かした 元山さんのハンストで事態急展開 辺野古県民投票」との記事で、「事態が急展開したのは、県民投票条例を直接請求した「辺野古」県民投票の会の代表で、大学院生の元山仁士郎さんが15日に始めた宜野湾市役所前での24時間のハンガーストライキだった。投票を実施しない市長への抗議の意思を示す元山さんのストライキは19日まで続き、同時に集めた全県実施を求める請願には5千人が署名した。」「一連の出来事は、政治の流れを決めるのは、政治家でも行政でもなく、主権者である市民なのだということを改めて示した。」としている。
結局は、県議会与野党の再議で、回答の選択肢を「賛成」「反対」の2択から、「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択に修正することでの合意が成立した。
しかしこれもけっしてすんなり決まったわけではない。自民党は、「普天間飛行場移設のための辺野古移設はやむをえない」「反対」「どちらともいえない」とする3択案を主張した。これを与党である“オール沖縄”側が拒否して、与党も妥協した「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択案で全会派一致となった。これが、一昨日のこと。正式には、1月29日の県議会で、条例改正案が可決成立となる予定という。
県自民党が折れたのは、このままでは、県民世論の風圧に耐えられなくなるとの判断によるものだろう。5市を抜きにした県民投票が実施され、しかも、圧倒的に「埋立反対」の結果が出た場合、投票を妨害した責任を問われることになる。ボルテージの高い民意を敵にまわして、到底支えきれないと読んだのだろう。これが、沖縄県民の運動の成果である。
とはいえ、本来は投票の選択肢は2択であるべきだったろう。いま、恒久的な新基地建設のために、辺野古の海が埋め立てられつつある。埋立を止めさせるのか、続けさせるのか。とるべき政策は一つでしかない。投票回答は、埋立に「反対」か、「賛成」かのどちらかでなければ意味をなさない。「どちらでもない」とは、いったい何のことだ。どうしようというのか、さっぱり分からない。この回答は、主権者として無責任ではないか。
考えられるのは、「反対」の意見をもつ人に、「賛成」票を投じるよう説得は難しい。「せめて、『どちらでもない』に投票していただきたい」という切り崩しに役に立つ、という思惑なのだろう。
雨降って地固まる、というではないか。この間の県民の全県での投票を求める運動の昂揚は、辺野古新基地建設反対に弾みをつけたのではないだろうか。2月24日には、圧倒的な県民世論の「反対」の声を聞きたい。
それにしても、この件についての本土における関心の低さが気になってならない。自分の問題としてとらえられていないのだ。ことあるごとに、訴えなければならないと思う。
(2019年1月26日)
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沖縄県広報
平成31年2月24日(日曜日)は県民投票です。
この県民投票は、辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う
県民投票条例(平成30年沖縄県条例第62号)に基づき、
「普天間飛行場代替施設建設のための辺野古埋立てについて」
の賛否を問うものです。
通常の選挙とは異なり、特定の候補者に投票するものではなく、
投票用紙の賛成欄又は反対欄に〇の記号を記載する方法で投票を行います。
この投票により、県民の皆様の意思を明確に示すことができます。
?県民投票の意義
?この県民投票は「米軍基地建設のための名護市辺野古の埋め立て」 に対し、県民の皆さまの賛否を明確に示すことを目的としています。
日本政府は、普天間飛行場の代替施設となる米軍基地建設のため、名護市辺野古の埋立てを計画しています。
県経済や子育て施策などさまざまな課題について政策を訴える候補者に票を投じる選挙とは異なり、今回の県民投票で問うのは、名護市辺野古の埋め立てに「賛成」か「反対」かの賛否のみです。県民一人一人が改めて、辺野古の基地建設のための埋め立てについて考え、意思を明確に示すことができます。
投票の結果、「賛成」「反対」どちらか多い方が一定数に達した場合、日本の総理大臣、アメリカ大統領にも通知します。
県民投票条例制定について
この県民投票は、県民の9万2848筆の署名の提出を伴った住民投票条例制定の直接請求※1を受け、沖縄県が条例案を県議会に提案、県議会の審議・可決制定を経て、実施が決定しました。
沖縄県は条例案の可決を受け、平成30年10月31日に「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例」を公布し、投票運動や投票できる資格者、投票に必要な事項を次のように定めています。
投票資格者(第5条) 平成31年2月13日時点で以下に当てはまる人。
日本国籍のある満18歳以上(2月14日生まれも含む)で、沖縄県内の市町村に3カ月以上住所があり、その後も沖縄県内に住所がある人で、投票資格者名簿に登録されている人。
投票数(第6条)1人1票投票の秘密保持(第8条)投票した人が、投票した内容を明かす義務はありません。県民投票の情報提供(第11条) 沖縄県は、県民の皆様が賛否を判断するため必要な広報活動、情報の提供を客観的、中立的に行うものとする。
※1 住民の直接請求は地方自治法によって定められています。
投票の結果について
1 辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例 第10条
知事は、県民投票の結果が判明したときは、速やかにこれを告示しなければならない。
2 県民投票において、本件埋立てに対する賛成の投票の数又は反対の投票の数のいずれか多い数が投票資格者の総数の4分の1に達したときは、知事はその結果を尊重しなければならない。
3 前項に規定する場合において、知事は、内閣総理大臣及びアメリカ合衆国大統領に対し、速やかに県民投票の結果を通知するものとする。
東洋大学と竹中平蔵、哲学とゼニの取り合わせ。高邁な理想を掲げる大学に、政治絡みでの儲け方だの節税手口だのを教えようというのだろうか。この違和感に、学内から批判の声が上がったのは真っ当な反応ではないか。
話題の人、同大学4年生の船橋秀人君は「竹中平蔵による授業反対!」と書いた立て看板を学内に掲げ、ビラを撒いた。船橋君のビラの内容は次のとおりだ。至極真っ当で、立派な意見ではないか。私は全面的に賛意を表する。一人立ち上がった彼に、敬意も表したい。これを大きく拡散しよう。
この大学はこのままでいいのだろうか?
我々の生活が危ない!
竹中氏の過悪、その一つは大規模な規制緩和である。特に2003年の労働者派遣法の改悪がこの国にもたらしたものは大きい。それまで限定されていた業種が大幅に拡大されることで、この国には非正規雇用者が増大したのである。「正社員をなくせばいい」や「若者には貧しくなる自由がある」といった発言は、当時の世論を騒がせた。しかしながら、この男まるで反省の素振りを見せない。「朝まで生テレビ!」という番組では、自らの政策の肝であったトリクルダウン(お金持ちが富むことでその富が貧しい者にも浸透するという理論)について、「あり得ない」というある種開き直ったかのような発言をしており、まるで自分がやった責任について無自覚なようだ。また、昨年可決された高度プロフェッショナル制度については、「個人的には、結果的に(対象が)拡大していくことを期待している」などという驚くべき思惑を公言している。つまり、初めは限定的なものだからという理由で可決された労働者派遣法が、今これほどまでに対象を拡大したように、高度プロフェッショナル制度は、今後とも更なる拡大が予想されるのである。無論、我々も例外ではない。労働者はこれから一層使い捨てにされることになるのだ!!
?
様々な利権への関与!?
竹中氏が人材派遣会社のパソナグループの会長を務めているということも忘れてはならない。というのも労働者派遣法の改悪は、自らが会長を務める会社の利権獲得に通じていたからだ。まさに国家の私物化である。また、最近では昨年法案の正当性について全く審議されずに可決された水道法改正案と入管法改正案についても関与していたことが明るみになっている。更に加計学園との関連も取りざたされており、今後ともこの男の暴走を追及する必要がありそうだ。
?今こそ変えよう、この大学を、この国を
皆さんは恥ずかしくないですか、こんな男がいる大学に在籍していることが。僕は恥ずかしい。そして、将来自分や友達や自分の子どもが使い捨てにされていくのを見ながら、何も行動を起こさなかったことを悔いる自分が、僕は恥ずかしい。意志ある者たちよ、立ち上がれ! 大学の主役は、我々学生なのだ。右も左も前も後も何にも分からない人も、みんな集まれ。民主主義は決して難しいものではない。共に考え、議論し、周りに訴えながら、もう一度みんなでこの社会を立て直そう!!
船橋君によれば、これに対する大学の対応は、次のようなものだった。
「21日朝9時から立て看板を出し、ビラを配り始めたら、10分と経たないうちに学生課の職員がビラ配布の中止と看板の撤去を求めてきました。その後、学生課の部屋に連れていかれ、職員5、6人から約2時間半にわたって詰問されました」
「職員らは学生生活ハンドブックの条項を示しながら、『大学の秩序を乱す行為』に該当するとし、退学処分をちらつかせてきました。さらに『君には表現の自由があるけど、大学のイメージを損なった責任を取れるのか』と大きな声で言われたり、『入社した会社で立場が危うくなるのでは』とドーカツされたりしました」
複数の報道では、男性職員から「性行不良で改善の見込みがないと認められる者」「本学の秩序を乱し、その他学生に反した者」など、退学に関して規定された学則第57条を示しながら「表現の自由には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」などと追及されたという。
「表現の自由には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」は、特筆すべき迷言! 要するに、「表現の自由なんてここにはない。だから、ものを言うな。言えば処分が待ってるぞ。」と脅しているわけだ。
企業は組合幹部にこう言うだろう。「団結権には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」
防衛省は、「平和には責任が伴う。戦争に行ってもらおう」
厚労省にはこう言いたい。「統計には責任が伴う。何らかの形で責任を取ってもらう」
東洋大のホームページには、こうある「今や11学部44学科、10研究科32専攻、法科大学院を擁し、学生数が約3万人という、大変大きな総合大学となりました。いずれの学部・研究科等においても、建学の精神に基づいて人財養成の目的や教育目標を定め、物事を自ら深く論理的・体系的に考え、判断し、行動することができる、社会に有為な人財の育成に心を砕いています」。その規模には驚かざるを得ない。近時急成長している大学であることには間違いない。
竹村牧男学長は、そのメッセージで、「物事を自ら深く論理的・体系的に考え、判断し、行動することができる、社会に有為な人財の育成に心を砕いています。」と言っている。船橋秀人君こそ、学長メッセージにピッタリの人物ではないか。
船橋君は、こうも言っている。
「日本大学のアメフト部の悪質タックル問題で、学生の側から意見を言わない、言えない状況をニュースで目の当たりにして「こんなので良いのかと思ったし、自分も批判されているような気持ちになった」と感じたことも、行動を起こした理由」
「(在籍した)4年間で、校内に立て看板が立つことはなかった。僕は卒業間際まで動くことが出来なかったけれど、単身で声を上げたことで組織の問題などを考えて欲しいし、根本的な議論につなげて欲しい。後輩にも受け継いで欲しい」
東洋大(白山キャンパス)は、我が家からは散歩圏内。地域との連携も良く、親近感がある。これまでの評判は悪くない。立派になって欲しいと思う。竹中平蔵の採用はともかく、これを批判する人物を育てたのだから、東洋の希望は大いにある。
大学に望むことを、一言申しあげたい。学内を「学則」が支配する世界だと思い込んではおられないか。大学こそ、最も風通し良く憲法の理念が行き渡る空間であって欲しい。船橋君の憲法上の権利主張を、「学生生活ハンドブック」の細則で押さえ込もうというのは、研究機関や教育機関の発想として貧弱ではないか。どうだろう。この問題、公開の場で真摯な意見交換をしてみては。
(2019年1月25日)
毎月、 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」から、「たより」が届く。24頁建の立派なもの。やっていることは米軍や自衛隊との対決なのだから深刻なはずなのだが、ゆるーい運動のセンスが、素晴らしい。
本日(1月24日)届いた「たより」が、実は12月号のようだ。まずは「いずも」空母化決定への抗議行動の記事。抗議のヨットと較べて、「いずも」の巨大さに目を瞠る。いかにも、市民手作りの運動なのだ。そして、9頁のお知らせを見て驚いた。
突然のお知らせですが、このたび「非核市民宣言運動・ヨコスカ」は、第23回神奈川県弁護士会人権賞をいただくことになりました。ご支援いただいているすべての皆様に、謹んでご報告致します。
受賞理由
1972年に米空母ミッドウェイが横須賀港を母港としたことを契機に発足し、基地のない町を作ろうと、平和の声を上げ続けてきた。「糾弾より対話」をモットーに、敵を作らない地道な活動を続け、1976年2月に始まった月例デモは、2017年に500回に達した。基地問題を解説したブックレットの発行や自衛官の人権問題にも取り組んでいる。
「地道な運動」は続けてきましたが、なにかをなし得たと言えるものはほとんどなく、「人権賞」受賞にふさわしいか、とまどいもあるのですが、小さな運動への励ましと受け止め、贈呈式に望みたいと思います。なにより、反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。 安保関連法成立後の横須賀は、米艦防護、米イージス艦への給油等、関連法発令の現場であり、海上自衛隊施設の増強等の課題が目白押しです。「人権賞」に背中を押してもらいながら、地域の皆さんとともに、対話を重ね、平和構築の歩みを続けていきたいと思います。
神奈川県弁護士会のホームページにはこうある。
2019年2月3日(日)に開催される『人権シンポ in かながわ2019』において贈呈式を行います。当日は受賞者から受賞のお言葉をいただく予定です。贈呈式は12時45分から横浜開港記念会館講堂で行いますので、ぜひご参加下さい。
神奈川県弁護士会人権賞とは
当会は、横浜市緑区で発生した米軍機墜落事故訴訟弁護団からの寄付をきっかけに、平成4年3月に人権救済基金を設立しました。その有意義な使途のひとつとして、人権擁護の分野で優れた活動をした個人、団体を表彰することにより、人権擁護の輪を広げ、人権の更なる発展と定着に寄与したいと考え、平成8年に人権賞を創設いたしました。
表彰の対象としている活動は、次のような人権擁護活動をされたものです。
人権の侵害に対する救済活動
人権思想の普及・確立のための活動
その他、人権擁護のための活動
憲法が定める様々な基本的人権の擁護、確立のための活動、特に高齢者・障がい者・子ども・外国人・刑事被告人・被疑者・犯罪被害者等の人権に関する問題、両性の平等に関する問題、消費者問題、公害環境問題、労働問題、平和問題等の人権課題など、人権の保障がまだ十分でない状態にある人たちの人権の擁護・確立のための諸活動を行い、優れた功績を挙げた民間の個人、グループ、団体に賞を贈っております。
今年(2019年)の神奈川県弁護士会人権賞 受賞決定者は2名。
もうひとりは、西野博之さん。不登校児童の問題が社会に提起され始めた頃から、子ども達の居場所作りに献身的に取り組み、生きづらさを抱える若者達、様々な障がいのある人達に、ともに地域で育ち合う場を提供するなどの活動を続けてきた方だという。
非核市民宣言運動・ヨコスカについてはこんな記事もある。
「表彰事項」
「基地の街横須賀で、40年以上持続して平和の声を上げ続けてきた。基地問題をわかりやすく解説した各種ブックレットを発行している(30冊)。自衛官ホットライン、アンケート、裁判支援等、自衛官の人権問題にも取り組んでいる。
「糾弾より対話」をモットーに、「敵を作らない活動」を続けている。
推薦理由
「平和なくして人権なし」平和憲法の理念を守る当団体の活動はまさに人権賞にふさわしいと考える。
「たより」が、「反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。」と言っているのが、印象的である。弁護士会は、当然のごとく、人権課題の例示として平和問題を挙げている。人が平和に暮らすことは人としての権利なのだ。しかも、平和でなくては精神的自由も、経済的権利も成立し得ない。多くの人権をなり立たせるものとしての基礎的な人権。平和的生存権という名称を冠するか否かにかかわらず、平和は人権である。まさしく、「平和なくして人権なし」なのだ。
なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。
なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。
申込先は、下記のとおり。
横須賀市本町3?14 山本ビル2F
電話/FAX 046?825?0157
(2019年1月24日)
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『人権シンポ in かながわ2019』
2月3日(日)
横浜開港記念会館講堂
9:30
映画「新・あつい壁」上映
製作:「新・あつい壁」製作上映実行委員会
監督:中山 節夫
出演:趙 珉和、安藤 一夫、ケーシー高峰
講演 死刑廃止に向けた日弁連の取り組み
講師:小池 振一郎さん(弁護士・第二東京弁護士会)
詳細はこちら
12:45
神奈川県弁護士会人権賞贈呈式
受賞者
西野 博之さん(NPO法人フリースペースたまりば理事長)
非核市民宣言運動・ヨコスカ
14:00
シンポジウム「自衛隊は必要」と考えるあなたへ
?でも、「憲法に明記」はこんなに危険?
講演?「憲法に自衛隊を書かないことの意味」
長谷部 恭男さん(早稲田大学法学学術院教授・憲法学)
講演?「いま軍隊化する自衛隊」
半田 滋さん(東京新聞論説兼編集委員)
情報通の友人から、こう聞かされた。
安倍首相は、「衆議院の解散・ダブル選挙など、頭の片隅にもない」と繰りかえしている。しかしあれは、「ダブル選挙は、ワタシの頭の片隅にあるんじゃない。頭のドマンナカにあるんだ」と理解しなければならない。最近、多くの野党議員がそう言い始めた。
先日の日民協執行部会でのこと。今年7月21日参院選の重要性が語られた。安倍改憲の成否も、安倍内閣の消長も、この選挙の結果にかかっているという認識で異論がない。改憲を阻止するためには、この選挙での野党勢力の共闘態勢をつくらなければならない。その対抗策として、10月予定の消費増税を先送りを発表して、あるいは6月の「大阪G20」で何らかの成果を上げての衆議院解散・衆参同時選挙の目は本当にないのだろうかと話題になって、この発言を聞かされた。
その真偽のほどは分からないが、「ご飯論法の、あのアベの言うことだ。信用できるはずはない」ことには、一同納得だった。「アベの言うことだ。信用してはならない」は、野党議員だけではなく、今や天下の共通認識と言ってよい。
1月19日(日)は、毎月19日(「戦争法」成立の日)と予定された定例の国会前抗議集会だった。統一のプラカードはなく、参加者が手にしていたのは、それぞれの思いを絵にし、文章にした手作りのプラカード。圧倒的に目立ったのが、「嘘つき晋三」「ごまかし内閣」「記録改竄隠蔽政府」「政治の私物化を許すな」というものだった。
これだけ多くの国民から、「嘘つき」「ごまかし」と呼ばれる一国の政治的リーダーも珍しいのではないだろうか。「嘘つき晋三」と「フェイク・トランプ」、朋友仲良きも少しも麗しくはない。
安倍政治は、政治的な理念や政策以前の問題として、国民から信を措けないと烙印を押されているのだ。一国の政治は「信なくば立たない」。安倍政治は現に、立っていない。一見まだ立っているように見えるのは、無自覚・無関心層が支えているという錯覚でしかない。
さて、信の措けない安倍政権の数々の問題の内、韓国の広開土大王艦(駆逐艦)が自衛隊P1哨戒機にレーダー照射をしたとされる件。これだけは、自衛隊側の言い分が事実だと思い込まされていた。だから、安倍晋三が強気で映像を公開したのだと。
しかし、公平な目で見るとこれも大いに怪しいという。教えられて、ハーバービジネス・オンラインというサイト(運営主体は、あの「扶桑社」)に掲載された、牧田寛氏の下記の記事に目を通した。これは衝撃的な内容。もちろん、この記事も結論を単純に断定していない。軍事機密の壁に阻まれて断定的な判断は困難という。しかし、明らかなことは、日本側の情報はフェイクだらけ。韓国の言い分の方が、遙かに一貫していて説得力があるというのだ。日本のメディアの甘さを嘆いてもいる。「レーダー照射問題」を論じるには、ともかくこのサイトを読みこなしてからのこととしなければならない。
慰安婦問題も、徴用工判決も、そしてレーダー照射事件も、なんと我々は権力によって誘導されやすい環境に置かれていることか。背筋が寒くなる。こんなことで、嫌韓世論や民族差別感情の形成を許してはならない。もしかしたら、安倍内閣は、ナショナリズム昂揚の世論誘導実験をしているのではないだろうか。やはり、「アベの言うことだ。まずはウソだろう」と、疑う姿勢が正しいのだ。
2019.01.08
日韓「レーダー照射問題」、何が起きていたのか、改めて検証する
https://hbol.jp/182872
2019.01.12
日韓「レーダー照射問題」、際立った日本側報道の異常さ。そのおかしさを斬る
https://hbol.jp/183226
2019.01.15
レーダー照射問題、「千載一遇の好機」を逃したかもしれない「強い意向」
https://hbol.jp/183410
2019.01.18
日韓「レーダー照射問題」、膠着状態を生み、問題解決を阻む誤情報やフェイクニュース
https://hbol.jp/183653
2019.01.21
レーダー照射問題、韓国国防部ブリーフィング全文訳からわかる、日本に跋扈するデマの「曲解の手法」
https://hbol.jp/183842
(2019年1月23日)
天神様は、いまが書き入れ時。さぞかしお忙しいことで。
いやいや、忙しいのは神職や売り子だけのこと。私が忙しいわけではございませんな。
さすがに入学試験の直前。合格祈願の人々が山をなしているじゃないですか。
それが、何しろこの人数でな。合格定員の何倍もの祈願者でして。お参りの全員を合格させるのは無理な話。いったい誰を合格させてやればよいのやら。
こんなのはどうでしょうかね。祈祷料の金額でランクをつける。各学校5人限定で100%合格コース100万円、確率75%合格コース50万円。50%コース5万円なんてね。
それは愚案ですな。途端に合格祈願と合格実績の相関関係の皆無がバレてしまう。
やっぱりね。実は、ウチも同じ悩みを抱えていましてね。ウチの初詣はもっぱら企業関係者。ライバル企業の両者が、絶対にあの会社には負けたくはない、という祈願。
それこそ、お賽銭の額で決めればよろしいのでは。私ら、所詮は資本主義の世の神や仏なのですからな。
商売繁盛と祈られても、経営にリスクは付きものですからね。皆を儲けさせることなどできるわけがない。
学業もそうですな。合格する者、落第する者。両者がくっり分かれるから、私らの商売が成り立つ。
それにしても、儲けたい、もっと儲けたいと言う人々の、ぎらぎらとした執念を見せつけられると、こちらのほうの身がすくむ。
明神様がそんな気弱なことを言ってはいけませんな。いつの世にも、人の欲しいものはカネでしょう。カネが儲かる御利益という需要を見つけた、商売お上手な明神様でしょうが。
いやあ、天神様こそ、学歴社会の入学試験難に目を付けて、あらたな御利益を見つけ出した大したヤリ手じゃないですか。
ほかに人が望むものは、長寿に無病息災でしょうかな。それに、家内安全と良縁・安産。このあたりが、神仏需要の古典的な王道。
最近では、交通安全に当選祈願。過労死退散、パワハラ・セクハラの厄除け、痴漢冤罪退散祈願まであるそうですがね。ニッチの神さま連中も相当なもの。
人の世の不幸がある限り、神や仏にすがろうという庶民の願いはなくなりませんな。その点、私らの商売、しばらくは安泰ということ。
同感ですな。安倍晋三政権が続いてくれることは心強い。経済格差を拡大して多くの人を不幸にしてくれているのだから。安倍さんありがとうだ。
いいや、とんでもない。安倍晋三ありがたくなんかない。私ら平和産業だ。何より平和あっての庶民の願いではないか。わたしゃ9条改憲絶対反対じゃ。
ウチは、その点チト難しくてね。軍事産業関係者の参詣だってないわけじゃない。もともとワタシ自身が武士の頭領だったしね。文人の天神様とは、すこうし違うのかも。
最近は、初詣の参詣者に呼びかけて、神社が憲法改正に賛成の署名運動をやっているところもあるとか。古来神社は平和を願うところ。自衛隊を憲法に書き込めなどとは、世も末じゃ。
さて、本当に古来神社は平和を願うところだったのでしょうかね。戦勝祈願だの怨敵退散祈祷だの、結構ヤバイことお願いされた記憶はございませんか。神社とは、敵と味方をきちんと分けて、徹底して味方の利益ばかりを祈ってきましたでしょ。
ふーむ。もともとが神社とは産土の神を祀る場としてつくられたという。地域共同体の利益を守ることが神社の第一義だった。だから敵味方峻別主義という側面は当然といえば当然。世情次第で、地域コミュニティ・ファースト主義は、戦勝祈願にも、怨敵退散祈祷にもなる。しかし、それは神社に罪があるのではなく、世に戦乱があるからのことで、やむを得んじゃろ。
そうはおっしゃいますがね。そこに付け込まれての国家神道だったんじゃありませんか。地域コミュニティ・ファースト主義は、すんなりと「日本民族ファースト主義」、「大日本帝国ファースト主義」に置き換えられたのでしょう。神社には、そういう素地があったのですよ。
とはいえね、神社と言っても一色ではない。民間信仰の神社と官製神社とは大違いだ。私もあなたも、社格はたかが府社だ。庶民の信仰が支えで、天皇制権力との結びつきは希薄だから、自由にものが言える。しかし、伊勢神宮だの、靖国神社だの、明治神宮ともなれば、出自が天皇家と関わるのだから、完全に体制派。アチラは安倍改憲バンザイなんだろうね。
その体制派神社。初詣にしても、結婚式らの副業にしても、けっこう繁盛のご様子。昨年が明治維新150周年。今年は、天皇の代替わり。なにかと、官製神社が話題となって、こっちの商売への影響を心配しなけりゃなりませんな。
まことにそのとおり。官製神社の民業圧迫はいけません。首相や閣僚の靖国神社参拝も、伊勢詣りも、ありゃ憲法違反でしょうが。
憲法違反でも政教分離いはんでも、隙あらばやってしまおうというのが、安倍の安倍たる所以。ことしは、大嘗祭やら代替わりの儀式やらが目白押しでしょう。何とかならんものでしょうかね。
裁判所の利用も難しいようだし、マスコミも頼りない。結局は神頼みしか残されていないようでね。
ああ、嘆かわしい。神さま、なんとかなりませんか。この世には、カミもホトケもないのでしょうか。
(2019年1月22日)