(2022年10月3日)
私と、澤藤大河とで担当している医療過誤損害賠償請求事件が、本日結審となった。東京地裁医療集中部の一つに係属している術後脳梗塞発症事案である。この手術の執刀者は、「神の手」とメディアからもてはやされた心臓外科医。原告は、チーム医療の不備を問題としてきた。被害者となった患者は開業医で、被告は都内の大学病院である。
本日、最終準備書面を陳述し、原告訴訟代理人澤藤大河が10分余の、「主張の要点」を口頭で陳述した。最終準備書面の冒頭部分と、意見陳述要旨の冒頭をご紹介しておきたい。医療事故や医療過誤訴訟の一端をご理解いただきたい。
最終準備書面冒頭
第1 事案の概要と主たる争点
1 人は病を得て診療を受ける。疾病を治療するために通院し入院し治療を受け、疾病を治癒しあるいは寛解を得て、日常に復帰する。病人として入院し、健康を回復して退院するのである。少なくとも、当初の疾患における症状を軽減して診療を終える。これが、患者の期待であり、通常の診療の推移である。そのために、医療はある。
ところが本件においては、原告は開業医としての稼働に支障のない健康状態で、不要不急の入院治療を受け、労働能力を完全に喪失する医原性の疾患を得て退院した。健康体として入院し、重篤な障害者として退院した。障害は、被告の過失による医原性の事故によるものである。
2 原告の施術は、無症候性心筋虚血を原疾患とするものであった。原告に心疾患の自覚症状はなく、開業医としての原告の職業生活にまったく支障のないものであった。原告が敢えて不要不急の手術を受けたのは、被告病院の心臓外科に、「神の手」ともてはやされる練達の医師を迎えたという惹句によるものである。
被告は、原告とその家族に対して、「神の手」による執刀の手術成績を誇大に喧伝し、術前になすべき手術の正確な危険性(リスク)についての説明を懈怠した。
3 原告は、被告病院心臓外科において不要不急の冠動脈バイパス(5枝)手術(以下、本件手術という)を受け、術直後に施術に起因する術後脳梗塞を発症し、間もなく症状固定して、後遺障害等級1級に相当する後遺障害が残存して今日に至っている。
入院直前まで開業医として稼働していた原告が、術直後から労働能力を完全に喪失して今日に至り回復の見込みはない。
4 本件術後脳梗塞は、術中低血圧の継続に起因する低還流型と呼ばれる典型症状である。
心臓外科手術中における患者の適正血圧維持は極めて重要な術者の義務であるところ、被告は臨床医学の知見において許容される術中患者の血圧の下限値を超えた血圧管理における明らかな過誤によって、原告に低還流型術後脳梗塞を発症させたものである。血圧管理過誤の存在が原告の低還流型術後脳梗塞発症を推認させるものであり、また、低還流型術後脳梗塞発症が被告の血圧管理の過誤、すなわち適正血圧維持の注意義務懈怠を物語るものでもある。
5 以上の事案の概要に即して、下記の各点が本件の争点となっている。
(1) 術中における患者の適正な血圧管理の懈怠
(2) 術前における手術リスクについての説明義務違反
(3) 各過失と損害との因果関係
(以下略)
原告主張の要約を陳述する。
1.術中血圧管理における過失について
被告には、適切な術中血圧管理によって十分な脳血流を維持し、患者の安全を確保すべき注意義務がある。
脳は、生存に不可欠な重要臓器として極めて多量の酸素と栄養分を必要とし、これを脳血流から得ているが、その欠乏には脆弱である。必要で十分な脳血流を維持するために、人体には自動調整能が備わっている。
通常、血圧に応じて血流量が決まる。しかし、様々な要因で変動する血圧に応じて脳血流量が変化するのでは、脳機能の維持に障害が生じ脳細胞の生存にも危険が生じる。一定の範囲では、血圧の変化にかかわらず、過不足ない脳血流を確保するための仕組みが自動調整能である。
しかし、自動調整能の働く血圧範囲にも限界がある。血圧が低くなりすぎて自動調整能が作動する範囲を逸脱した場合、直ちに血流が途絶えることにはならないが、必要な脳血流量を維持することはできず、脳虚血が生じる。
その血圧の下限には個体差もあり、個々のケースで脳虚血が生じる血圧下限を明確に知ることはできない。だからこそ、患者の安全のために、長年の経験の蓄積によって、間違いなく安全であると確認されている成書の記載に従うほかない。
最も権威ある麻酔科の教科書『ミラー麻酔科学』には、端的にMAP(平均血圧)70mmHgとされている。被告提出の成書『神経麻酔』によっても、同65mmHgである。これを下回ることのないよう術中血圧を維持すべきが医療水準として求められ、術中血圧管理における被告の注意義務の根拠となる。
本件手術中の血圧記録によれば、主位的な主張であるMAP70mmHg維持義務違反で3時間16分間、全手術時間に対して65.8%に及ぶ。また、予備的な主張であるMAP65mmHg維持義務違反で2時間44分間、全手術時間に対して55%である。
被告の過失は明白で、術中長時間にわたり脳に深刻な虚血が生じたことも明らかというべきである。
被告の血圧管理についての反論は、結局のところ、術中血圧管理の基準はないという驚くべきものであった。実際、術前に血圧管理の目標値を定めた事実はなく、術終了まで、基準を意識した形跡もない。
被告は、オフポンプのバイパス手術であることを低血圧が許容される理由としているが、明らかな誤りである。自動調整能は、人間の生体としての機能であって、その作動の範囲が手術の目的や態様で左右されることはありえない。人間の体は、オンポンプであれば脳血流を維持しえないが、オフポンプであれば脳血流を頑張って供給するという便利な仕組みにはなっていない。
医療水準を無視した危険なオフポンプ手術の例をいくら並べても、本件手術における被告の過失がなくなるわけではない。そのような例においては、安全のために見込まれたマージンをギリギリまで使っただけであって、本件で脳虚血が生じていない証拠にはならない。被告がこの点の根拠として引用する文献や医師意見書については、甲B6落合亮一医師の厳密な医学的見地からの反駁をご理解いただきたい。
なお被告は、繰り返し術中のセンサーにより脳虚血を検知できる態勢をとっていたと述べているが、全く無意味な主張である。現実に本件脳梗塞を生じさせた脳虚血は検知できていないし、本件術中の検査態勢はそもそも患者の脳梗塞を検知するためのものではない。(中略)
3.説明義務違反について
手術適応の有無に関する術前検査が終了した時点で、医師は患者に対して、最終的な術前説明の義務を負う。具体的な検査結果を一般的な医学的知見に照らして、予定された当該手術のリスクとメリットを正確に患者に伝達し、手術を受けるか否かの最終判断を可能とするための説明である。これは、医師の専門家責任の一端でもあり、患者の自己決定権が要求するところでもある。
被告は果たしてそのような説明を行ったか。明らかに否である。(以下略)
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医療過誤訴訟は患者の人権擁護の問題である。他の現代型訴訟と同様に、原告(患者)と被告(医師・医療機関)とは、けっして平等ではない。診療記録は全て被告側にあり、専門的知見にしても、また鑑定人や証人の準備にしても、訴訟にかける費用負担能力にしても、圧倒的な格差がある。いかにして、この格差を埋め、民事訴訟における実質的平等を実現するか。その営々たる努力がつみ重ねられてきた。
本件を担当して、あらためて、その道半ばであることを痛感する。判決は来年1月。期待して待つ以外にないが、裁判所にはこの点についての十分な認識を得たい。
(2020年7月24日)
注目の、民医連柳原病院・乳腺外科医師「冤罪」事件。一審判決は予想のとおりに無罪だったが、控訴審で意外の逆転有罪となった。しかも、執行猶予のない実刑。愕然とせざるを得ない。
7月13日、東京高裁第10刑事部(朝山芳史裁判長・代読細田啓介裁判長)は、一審無罪判決を破棄して、懲役2年の実刑判決を言い渡した。冤罪の可能性が高い。
事件は、2016年5月、全身麻酔下に乳腺腫瘍摘出手術を受けた女性患者が、執刀した外科医師から「術直後に左胸を砥めるなどのわいせつ行為をされた」と訴えたもの。医師は、同年8月に「準強制わいせつ罪」で逮捕されて105日間勾留されているが、一貫して無実を主張している。
一審での主要な争点は、
?患者証言の信用性 (麻酔覚醒時のせん妄の有無や程度に関連する)
?科捜研のDNA鑑定及びアミラーゼ鑑定の証拠としての信用性及び証明力
19年2月20日の一審判決は、各争点について、有罪とするには合理的疑いを入れる余地が残る、として無罪判決を言い渡した。これが、文明社会のゴールデンルール。
二審では、「術後のせん妄の有無」を争点として審理。高裁判決は、せん妄の専門家ではない検察側証人の見解を採用し、一審段階からのオーソドックスな専門家の知見を排斥した。ゴールデンルールが崩壊した。
DNA鑑定及びアミラーゼ鑑定については、データや抽出液廃棄が行なわれて再現性・科学的信頼性に欠けることが問題となったが、一審と二審で判断が分かれた。科捜研鑑定の採用について、記者会見での高野隆主任弁護人は、こう厳しく批判している。
「非常識かつ非科学的な判決。科捜研の技官が『ちゃんとやった』と言いさえすれば、何の裏付けがなくても裁判所は信用する。…こんなに非科学的な裁判が行われ、冤罪が生まれていることに衝撃を受けている」
判決後、外科医師は改めて「私はやっていません」と発言。「公正であるべき裁判官が公正な判断をしないことに怒りを覚えている。一度壊れた生活を、やっとここまで立て直してきたのに、再びこれが壊される。この生活を守るためにたたかっていく」と訴えた。
この件に関する、医師の立場からの二つの見解をご紹介したい。
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2020年7月17日
東京高裁 第10刑事部の乳腺外科医裁判逆転有罪判決に対する声明
一般社団法人 東京都保険医協会 代表理事 須田昭夫
(文責)同協会 勤務医委員会担当理事 佐藤一樹
東京高等裁判所第10刑事部(朝山芳史裁判長 本年5月2日定年退官)は、本年7月13日、いわゆる乳腺外科医裁判控訴審(平成31年(う)第624号 準強制わいせつ被告事件)において、東京地方裁判所刑事第3部の無罪判決を破棄し被告人に懲役2年の実刑を言い渡した。
原審では、乳腺腫瘍摘出術後の女性患者の診察時に、執刀医が健側の胸をなめ回し、二度目の診察時に自慰行為をしたという事件があったとするには、合理的な疑いを挟む余地があると判示していた。
本控訴審判決における、1非科学的誤謬、2反医学的判断、3非当事者対等主義による人権侵害、4「疑わしきは被告人の利益に」の原則否定などは、医師団体としても一般市民としても絶対に許容できない。当協会はこの冤罪判決に強く抗議する。以下上記4項目についての当協会の見解を述べる。
1.非科学的誤謬:
科捜研の鑑定は、採取資料を証拠物として保存せず廃棄し、呈色反応結果を撮影せず、検査結果を消しゴムと鉛筆で数回にわたって修正するなどしており、科学的検証が行えないものである。再現性のないものには、科学的信用性もない。しかし、裁判所は、そのような科捜研のアミラーゼ活性検出試験結果やリアルタイムPCRによるDNA型検出検査結果と検証実験結果を基に、舐めた場合の唾液量と飛沫の唾液量の比較定量評価を行っている。これでは、非科学的誤謬があると言わざるをえない。
さらに、裁判所は、これらのアミラーゼ鑑定とDNA鑑定に関する、検察側証人である元科捜研職員の原審証言を弾劾した、DNA鑑定の専門家医師の証言を根拠なく排斥している。
2.反医学的判断:
有罪の根拠とされた原告の証言の真実性の評価を左右するせん妄について、学術的に世界共通認識であるせん妄の診断基準を根拠にした延べ3人のせん妄の専門医(精神科医2人、麻酔科医1人)の証言を排斥し、反医学的判断をしている。具体的には、プロポフォールなどによるせん妄状態での性的幻覚出現の可能性が高い点、LINEメッセージ送信は、せん妄状態であっても「手続記憶による行動」で可能である点などを根拠なく否定していることがある。これに対し、裁判官が依拠する医師証人はせん妄の専門家ではない司法精神医学の専門家であり、本訴訟の証人としてふさわしくない、いわば「検察お抱え医師」である。
3.非当事者対等主義による人権侵害:
一審で証言した看護師証言を完全に排斥し、カルテの記載事実を実臨床に即さない恣意的解釈で評価している。例えば、「不安言動は見られていた」と記載があるのに「せん妄である旨の記載はない」ことを理由にせん妄症状ではないと判断している。看護師が実臨床において、医師のように診断して診断名をカルテに記載しないからといって、症状が存在しなかったことの証明にはなるはずがない。
なお、客観的な立場にある病室患者の証言について何も判示していない。
4.「疑わしきは被告人の利益に」の原則否定:
証拠調べを尽くして事実の存否が明確にならないときは被告人の不利益に扱ってはならないという刑事訴訟法の原則を無視している。「原判決は、合理性の観点から疑問を入れる余地がある」「DNAは、被告人の口腔内細胞を含む唾液に由来する可能性が高い」などと疑問を残したり絶対的真実性が存在しないのに、明確な根拠もなく被告人の不利益になる判断を行っている。
また、せん妄に幻覚が生じるのは、原審証拠で30%程度、控訴審証拠で20から50%あることを認めながら、性的幻覚体験の出現を完全に否定している。
なお、原審では被告人が自慰行為をしたという患者の証言の信用性を徹底的に否定しているが、控訴審判決では判決結果に不都合となる事柄について何の判示もされていない。
総じて、本控訴審判決では、明確に判示できない判断根拠については何の論証もなく唐突に「論理則、経験則等に照らして」という文言が随所に見られ、飛躍した結論を導いている。これは、有罪を支えようとする恣意的判断を論理的には説明ができないために、誤魔化しているとしか考えられない。ある著名な法律家が、「東京高等裁判所は、東京地検公判部東京高裁出張所(というべきで)、東京地検公判部の後ろ盾である」と評した通りである。
現在、世界的COVID-19の感染拡大によって、一般国民であっても会話時の飛沫の動態や、PCR検査の評価方法や、各検査間の感度や特異度の相違などの医学的基礎知識が高まり、サイエンスリテラシーやメディカルリテラシーのレベルが上がっている。そのような背景において、「検証可能性の確保が科学的厳密さの上で重要であるとしても、これがないことが直ちに本件鑑定書の証明力を減じることにはならないというべきである。」と嘯く傲慢な姿勢は、医師や医療者だけでなく一般国民からも批判を浴びている。誰が読んでも、常識から大きく乖離した冤罪判決である。
裁判官は科学の専門家ではない。だからこそ、科学技術の専門家証人の意見に公正に耳を傾けねばならない。本控訴審判決で真の専門医の証言を排斥し、科学的証拠の認定よりも裁判官の経験則を優先したことは、医療界を愚弄し、日本の刑事司法への絶望感を増長するものである。
最高裁においては、誤った原判決を破棄のうえ被告人を無罪とするか、あるいは原審裁判所へ差し戻して、被告人とされている医師を冤罪から救済しなければならない。
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令和2年(2020年)7月16日(木) / 「日医君」だより / プレスリリース
乳腺外科医控訴審判決に関する日医の見解について
今村聡副会長は、7月13日に東京高等裁判所が、一審で無罪判決を受けた医師に対し、無罪を破棄し、懲役2年の実刑判決を言い渡した控訴審判決について日医の見解を発表した。
同副会長はまず、平成31年2月20日の一審の無罪判決についての記者会見時に、判決は妥当であり、検察は控訴を控えるべきと主張したことなど、本件に関する経緯を説明。
今回の控訴審判決については、
(1)報道等によれば、控訴審判決では、せん妄の診断基準について、学術的にコンセンサスが得られたDSM?5(米国精神医学会の精神疾患診断分類)に当てはめずに、独自の基準でせん妄や幻覚の可能性を否定した医師の見解を採用している、
(2)全身麻酔からの回復過程で生じるせん妄や幻覚は、患者にとってはリアルな実体験であり、現実と幻覚との区別がつかなくなることもある。このような場面は全国の医療機関で起こる可能性があり、もし、それが起こった場合には、医師や看護師が献身的にケアに当たっているのが実際であるにもかかわらず、そのことが理解されていない、
(3)科捜研のDNA鑑定等では、1.データを鉛筆で書き、消しゴムで消す、2.DNAの抽出液を廃棄する、3.検量線等の検査データを廃棄するなど、通常の検査では考えられない方法がとられるなど、一審の無罪判決の記者会見時でも述べた通り、再現性の乏しい杜撰な検査であるにもかかわらず、検査の信用性を肯定している―ことなどの問題点を挙げ、「もし、このような判決が確定すれば、全身麻酔下での手術を安心して実施するのが困難となり、医療機関の運営、勤務医の就労環境、患者の健康にも悪影響を及ぼすことになる」とした。
その上で同副会長は、「医師を代表する団体として、控訴審の有罪判決に強く抗議する」と述べるとともに、日医として今後も支援を続けていく考えを示した。
(2020年5月30日)
私も編集委員の一人なのだから自画自賛となるのだが、最近の「法と民主主義」は充実している。「新型コロナウイルス問題を考える」を特集した5月号(5月27日発刊)も出来栄えがよい。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
特集の意図や内容については、下記を参考にされたい。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202005_01.pdf
以下は、私の私的な感想である。
巻頭論文の「グローバル化のなかのコロナ危機ー市民社会と科学の役割 … 広渡清吾」論文は、さすがの格調。「1 COVID-19のグローバル化」「2 市民社会と国家緊急権」「3 市民社会と科学者の社会的責任」の3節からなり、それぞれが完成度の高い論文となっている。市民社会の本質論からの緊急事態考察にも、元学術会議会長が語る科学者の社会的責任論の展開も、読み応え十分である。
そして、医療、国際比較、経済、憲法、改憲、立法、政権手法などの各分野の論文が続いている。
医療の分野での、「後手後手から迷走した安倍政権─新型コロナ対策迷走の真相と今後の課題 … 上昌広」は、市民読者に対する本号目玉の論稿である。忖度とはまったく無縁の医学研究者が、歯に衣きせぬ貴重な論述で、多くのことを教えてくれる。「医系技官の責任」を語り、政権が感染症蔓延の初期対応を誤り、その軌道修正もできなかったことの経過が具体的に論じられる。戦争や災害の失敗の歴史の再現を見せつけられる思いである。
「世界各国のCOVID-19と緊急事態法制 … 稲正樹」論文は、短いスペースに、各国の対応を比較して興味深い。「成功している国」として、オーストラリア、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ニュージーランド、台湾を挙げ、「失敗している国」として、インド、インドネシア、ブラジル、メキシコを挙げている。また、立憲主義の観点から問題のある国として、アメリカ、ハンガリーが検討されている。その他は、「新法の制定で対応した国」「緊急事態を発動していない国」「緊急事態を発動した国」とのカテゴリーで説明している。
「コロナ禍の経済政策 … 阿部太郎」は、誰しも関心をもたざるを得ない「財源論」において、「将来的には租税負担率を増やしていくのもひとつの手」とした上、消費増税ではなく、「この機に、所得税、法人税の累進性を高めること」を提案している。「各国が同時に累進性を高める方法もあり得る」と示唆的である。
憲法学者二人の専門性が高い論稿もお薦め。
「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法における『緊急事態宣言』と野党の対応 … 成澤孝人」と、「新型コロナ感染症対策に便乗する緊急事態条項改憲論 … 小沢隆一」の両論を併せて読むと、憲法レベルでの「緊急事態」と、法律レベルでの「緊急事態」の区分の整理のうえ、ことさらにこれを混同しようとしている改憲派の思惑が見えてくる。
「改正コロナ特措法の制定と緊急事態宣言 … 海渡雄一」は、弁護士の目から見た、立法と宣言の経過を追って、問題点を指摘している。
最後の論稿が、「惨事便乗、場当たり対策から改憲まで ─ コロナ対策の経緯と安倍政権の手法 … 丸山重威」 惨事に便乗した安倍政権のこの手法。このように、まとめて提示されると、なるほど凄まじいばかり。貴重な記録となっている。
そして、もう一つの特集の目玉が、『「新型コロナ問題」私はこう考える』である。各界の然るべき15人が、新型コロナ感染問題を。それぞれの切り口で問題意識を語っている。
自然科学、社会科学、法学、教育学などの知性を代表する方、中国や韓国の事情に詳しい方、コロナ禍がもたらす、格差や差別と対峙している方、医療や薬学と切り結んでいる実務法律家。お一人の字数を敢えて800時に抑えた寄稿をいただいた。
島薗 進/池内 了/右崎正博/矢吹 晋/堀尾輝久/吉田博徳/鈴木利廣/李 京 柱/藤江- ヴィンター 公子/徐 勝/角田由紀子/井上英夫/水口真寿美/大森典子/田島泰彦
特集以外でのもう一つの目玉は、西川伸一(明治大学教授)さんの「最高裁裁判官の指名・任命手続について─第二次安倍政権による異例の人事から考える─ 」 これは、今年の司法制度研究集会・プレシンポでの講演内容の書き下ろし。来年(2021年)が、「司法の嵐」と言われたあのときから、50周年となる。あらためて、裁判官人事の在り方は、大切な論点となっている。
お申し込みは、下記のURLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
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「法と民主主義」5月号
特集●新型コロナウイルス問題を考える
◆特集にあたって … 編集委員会・飯島滋明
◆グローバル化のなかのコロナ危機
──市民社会と科学の役割 … 広渡清吾
◆後手後手から迷走した安倍政権
── 新型コロナ対策迷走の真相と、今後の課題 … 上 昌広
◆改正コロナ特措法の制定と緊急事態宣言
── 日本政府のコロナ禍への対応がもたらす、いのちの危機と自由の危機 … 海渡雄一
◆世界各国のCOVID-19と緊急事態法制 … 稲 正樹
◆新型コロナ感染症対策に便乗する緊急事態条項改憲論 … 小沢隆一
◆コロナ禍の経済政策 … 阿部太郎
◆改正新型インフルエンザ等対策特別措置法における
「緊急事態宣言」と野党の対応 … 成澤孝人
◆惨事便乗、場当たり対策から改憲まで
── コロナ対策の経緯と安倍政権の手法 … 丸山重威
◆「新型コロナ問題」私はこう考える … 島薗 進/池内 了/右崎正博/矢吹 晋/堀尾輝久/吉田博徳/鈴木利廣/李 京 柱/藤江- ヴィンター 公子/徐 勝/角田由紀子/井上英夫/水口真寿美/大森典子/田島泰彦
◆特別寄稿
最高裁裁判官の指名・任命手続について
─第二次安倍政権による異例の人事から考える─ … 西川伸一
◆連続企画●憲法9条実現のために〈29〉
国際法から読み解くソレイマニ司令官殺害事件と自衛隊中東派遣 … 山形英郎
◆司法をめぐる動き(57)
・湖東記念病院事件再審無罪判決のご報告 … 井戸謙一
・4月の動き … 司法制度委員会
◆追悼●追悼 森英樹先生 … 米倉洋子
◆追悼●もっとご一緒に闘いたかった … 南 典男
◆メディアウオッチ2020●《コロナ危機とメディア環境の変化》
「つぶやき」が「火事場泥棒」を退治した…真実の伝達と民主主義への信頼を … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈No.24〉
「国民の命と健康を守るため、
……政策を総動員して各種対策を進めています」と発言した安倍首相 … 飯島滋明
◆BOOK REVIEW●全集から全て書き出して編集に4年かけた力作
── 市橋秀泰著『立憲主義をテーマにマルクスとエンゲルスを読む』(東銀座出版社) … 井上幸夫
◆時評●異例ずくめの憲法記念日 … 丹羽 徹
◆ひろば●火事場泥棒を許さない─ウェブ集会などの取り組み─ … 江夏大樹
昨日が3月10日、東京大空襲によって無辜の非戦闘員10万人が虐殺された日。戦争被害だからとして到底甘受しえない、あまりに巨大で悲惨な体験。それまで多くの国民にとって、戦争とは外地で行われるものであり、危険は出征した男たちが引き受けるはずのものであった。1945年のこの日は、戦争とはすべての国民に否応のない深刻極まる惨禍をもたらすものと思い知らされた日でもある。
戦争は天災ではなく人災である。起こした人がおり責任者がいる。その戦争責任の追及が求められる。中国に対しても米英に対しても、戦争を仕掛けたのは日本の側なのだから、虐殺された10万人の怨みは、戦争をたくらんだ日本の為政者・天皇制政府にも向けられなければならない。最高責任者天皇の責任を追及しなかったことが、歴史的禍根である。
そして、本日が3月11日。2011年の東日本大震災の記憶は生々しい。東北3県の2万余の人が津波でかけがえのない命を失った。天災の被害者には、哀悼の意を捧げるしかない。しかし3・11には、天災にとどまらず戦争と本質を同じくする人災がそれに続いた。福島第1原発の事故による放射線被害である。地震大国日本において原発を国策とし、しかも津波対策を怠った者の責任を不問に付してはならない。今、民事・刑事の訴訟を通じて、この大事故の責任追及が行われている。なお、当時の私の思いは、下記のブログに書き尽くしている。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563
あの日から9年経った今、世はコロナウィルス禍に萎縮した事態にある。これも、一面は天災であり、またもう一面は人災でもある。安倍政権のコロナ対策は、納得しうる根拠に欠け、無為無策のうちに感染被害を拡大した。そして、無為無策を非難されるや、一転して根拠を示すことなく、根拠に欠けた過剰な対策をとるようになった。
その理由の一つは桜疑惑に代表される自らの不祥事の糊塗であるが、それにとどまらない。コロナ禍の蔓延を奇貨とした、改憲への国民の誘導を考えているのだ。
泥棒とは、不名誉な人物であり、あるいは行為である。火事場泥棒という言葉の語感は、単なる泥棒の比ではない。なんという忌まわしく、汚い、怪しからん、奴というイメージがある。安倍晋三がやろうとしているのは、その類である。
「火事場」とは、新型コロナウィルスの蔓延の事態をいう。国民が戦々恐々としているというだけではない。現実に多くの人の就業や営業に差し支えが生じて苦しんでいるときに、その事態を自己の野望の実現に利用しようというのだ。
「泥棒」とは、新型インフルエンザ特措法の改正をいう。盗まれようとしているのは、立憲主義にほかならない。憲法は、国民の人権を擁護するために為政者の権力行使を制約する体系として作られている。ところが、国家の緊急事態を口実に、為政者にフリーハンドを与えるという危険極まりない例外の設定が、「緊急事態」。この特措法はその危険を内包している。
安倍晋三は、「緊急事態宣言」をやってみたいのだ。その実績が、次には憲法改正につながるとのではないか魂胆あればこそ。しかし、緊急事態条項は、憲法レベルでも、法律レベルでも、危険極まりない。国政を私物化し、嘘とごまかし、公文書の隠匿改竄を日常とする安倍政権にこんな危険なオモチャを与えてはならない。
(2020年3月11日)
お集まりの記者の皆様に、二つのことを申しあげます。
一つは、原理的な問題。いったい今、憲法原則に関わるどのような問題が起きようとしているのかということ。そしてもう一つは、ほかならぬ安倍内閣が手がけようとしているからこその危うさです。安倍内閣に、こんな危険なたくらみをさせてはならない。とんでもないことになってしまうということ。
言うまでもないことですが、近代憲法の最重要のテーマは、人権と権力の対抗関係の調整です。すべての個人に備わる人権こそが憲法上の最高価値です。権力の行使には、人権を侵害せぬよう抑制が求められます。権力は強大にならぬよう分立され、その行使には厳重な手続が課されます。主権者は、権力を生み、同時に権力を規制します。これが、近代立憲主義にほかなりません。
しかし、その例外を強調する考え方があります。「国家緊急権」といわれるものです。確かに権力には人権を侵害せぬよう配慮をすべき義務があることは認めざるを得ない。が、それは飽くまで平時の場合の原則であって、国家存亡の緊急時には例外が認められなくてはならない。国家存亡の緊急事態に、国民の人権への配慮などと悠長なことは言っておられない。平時の憲法秩序を一時停止し、権力に対する制約を解除してこれを強化し、人権に対する制約を許容しなければならない、というのです。
《国家がもつ権力》と《国民個人の人権》とが、対抗関係にあるのですから、権力を強化すれば人権が危うくなります。権力を与る者は、国民の人権を危うくする権力を誇示したいという衝動をもちます。国家の緊急事態には、権力は最大限化するとともに、人権の保障は最小限化されることになりますから、権力者にはたいへん魅力的な事態なのです。
今、目の前にあるのは、感染症の蔓延という災害を理由にした、「緊急事態」の発動です。その要件は限りなく曖昧で、その人権制約の効果には恐るべきものがあります。
「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点を、再確認しなければなりません。
そして、二つ目。安倍政権が特措法を改正して、新型コロナウィルスの蔓延を適用対象とし、緊急事態宣言を行おうとしていることです。
2012年4月の自民党憲法改正草案に、詳細な緊急事態条項の構想が、条文化されています。民主主義と人権にとって死活的な内容と言って過言ではない代物。おそらく、これが、安倍政権の本音だと思います。国権の最高機関である国会をないがしろにして内閣が制定する政令で法律に代えることができる、人権の制約は顧慮されません。これを、今やろうとしているのではないか。
安倍晋三とは、国政を私物化しようという人物。安倍内閣とは、嘘とごまかし、文書の破棄・改竄を厭わない政権。決して国民に対する説明責任を果たそうとはしません。このような人物、このような政権に、危険な刃物をもたせてはなりません。それは、国民を傷つけることになる。
真に有効な感染症対策をしょうとするなら、なによりも専門知を結集して現状を正確に認識して科学的な検証に耐える対策を建てるとともに、これを国民に十分に説明して、その納得を得ることです。場当たりな素人判断で事態を悪化させ、緊急事態宣言の条件を作ろうなど、もってのほかと言わねばなりません。
そのような視点から、この声明に目をお通しください。
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新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明
新型コロナウイルスの感染拡大が深刻さを増すなか、安倍政権は現行の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下「特措法」と略記)の対象に新型コロナウイルス感染症を追加する法改正(ただし、2年間の時限措置とする)を9日からの週内にも成立させようと急いでいる。
しかしながら、特措法には緊急事態に関わる特別な仕組みが用意されており、そこでは、内閣総理大臣の緊急事態宣言のもとで行政権への権力の集中、市民の自由と人権の幅広い制限など、日本国憲法を支える立憲主義の根幹が脅かされかねない危惧がある。
そのような観点から、法律家、法律研究者たる私たちは今回の法改正案にはもちろん、現行特措法の枠内での新型コロナウイルス感染症を理由とする緊急事態宣言の発動にも、反対する。あわせて、喫緊に求められる必要な対策についても提起したい。
1 緊急事態下で脅かされる民主主義と人権
特措法では、緊急事態下での行政権の強化と市民の人権制限は、政府対策本部長である内閣総理大臣が「緊急事態宣言」を発する(特措法32条1項。以下、法律名は省略)ことによって可能となり、実施の期間は2年までとされるものの、1年の延長も認められている(同条2項、3項、4項)。
問題なのは、絶大な法的効果をもたらすにもかかわらず、要件が明確でないことである。条文では新型インフルエンザ等の「全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるもの」という抽象的であいまいな要件が示されるだけで、具体的なことは政令に委ねてしまっている。また、緊急事態宣言の発動や解除について、内閣総理大臣はそれを国会に報告するだけでよく(同条1項、5項)、国会の事前はおろか事後の承認も必要とされていない。これでは、国会による行政への民主的チェックは骨抜きになり、政府や内閣総理大臣の専断、独裁に道を開きかねず、民主主義と立憲主義は危うくなってしまう。
緊急事態宣言のもとで、行政権はどこまで強められ、市民の自由と人権はどこまで制限されることになるのか。特措法では、内閣総理大臣が緊急事態を宣言すると、都道府県知事に規制権限が与えられるが、その対象となる事項が広範に列挙されている。例えば、知事は、生活の維持に必要な場合を除きみだりに外出しないことや感染の防止に必要な協力を住民に要請することができる(45条1項)。また、知事は、必要があると認めるときは、学校、社会福祉施設、興行場など多数の者が利用する施設について、その使用を制限し、停止するよう、施設の管理者に要請し、指示することができる。また施設を使用した催物の開催を制限し、停止するよう催物の開催者に要請し、指示することができる(同条2項、3項)。
外出については、自粛の要請にとどまるとはいえ、憲法によって保障された移動の自由(憲法22条1項)を制限するものである。また、多数の者が利用する学校等の施設の使用の制限・停止や施設を使用する催物の開催の制限・停止という規制は、施設や催物が幅広く対象となり、しかも要請にとどまらず指示という形での規制も加え、強制の度合いがさらに強められており、憲法上とりわけ重要な人権として保障される集会の自由や表現の自由(憲法21条1項)が侵害されかねない。
また、特措法の下で、NHKは、他の公共的機関や公益的事業法人とならんで指定公共機関とされ(2条6号など。民放等の他の報道機関も政令で追加される危険がある)、新型インフルエンザ等対策に関し内閣総理大臣の総合調整に服すだけでなく(20条1項)、緊急事態宣言下では、総合調整に基づく措置が実施されない場合でも、内閣総理大臣の必要な指示を受けることとされている(33条1項)。これでは、報道機関に権力からの独立と報道の自由が確保されず、市民も必要で十分な情報を得られず、その知る権利も満たせないことになる。
さらに、知事は、臨時の医療施設開設のため、所有者等の同意を得て、必要な土地、建物等を使用することができるが、一定の場合には同意を得ないで強制的に使用することができる(49条1項、2項)。これも私権の重大な侵害であり、憲法が保障する財産権にも深く関わる措置である(憲法29条)。
2 政府による対策の失敗と緊急事態法制頼りへの疑問
政府は、特措法改正の趣旨を、新型コロナウイルス感染症の「流行を早期に終息させるために、徹底した対策を講じていく必要がある」(改正法案の概要)と説明している。
しかし、求められる有効な対策という点から振りかえれば、中国の感染地域からの人の流れをより早く止め、ダイヤモンドプリンセス号での感染を最小限にとどめ、より広範なウイルス検査の早期実施と実施体制の早期確立が必要であった。にもかかわらず、国内外のメディアからも厳しく批判されてきたように、初期対応の遅れとともに、必要な実施がなされない一方で、専門家会議の議論を踏まえて決定されたはずの「基本方針」にもなかった大規模イベントの開催自粛要請、それにつづく全国の小中高校、特別支援学校に対する一律の休校要請、さらに中国と韓国からの入国制限などが、いずれも専門家の意見を聞かず、十分な準備も十分な根拠の説明もないまま唐突に発動されることによって、混乱に拍車をかけてきた。
本来必要な対策を取らないまま過ごしてきて、この段階に至って緊急事態法制の導入を言い出し、それに頼ることは感染の抑止、拡大防止と具体的にどうつながるのか、大いに疑問である。根拠も薄弱なまま、政府の強権化が進み、市民の自由や人権が制限され、民主主義や立憲主義の体制が脅かされることにならないか、との危惧がぬぐえない。現に、特措法改正を超えて、この際、今回の問題を奇貨として憲法に緊急事態条項を新設しようとする改憲の動きさえ自民党や一部野党のなかにみられることも看過しがたい。
3 特措法改正ではなく真に有効な対策をこそ
今回の特措法改正はあまりにも重大な問題が多く、一週間の内に審議して成立させるなどということは、拙速のそしりをまぬかれない。私たちは、政府に対し今回の法改正の撤回とともに、特措法そのものについても根本的な再検討を求めたい。加えて、次のことを急ぐべきである。すなわち症状が重症化するまでウイルス検査をさせないという誤った政策を転換し、現行感染症法によって十分対応できる検査の拡大、感染状況の正確な把握とその情報公開、感染者に対する迅速確実な治療体制の構築、マスクなどの必要物資の管理と普及である。感染リスクの高い満員通勤電車の解消、テレワークを可能にする国による休業補償、とりわけ中小企業への支援、経済的な打撃を受けている事業者に対するつなぎ融資や不安定雇用の下にある人々や高齢者、障がい者など生活への支援を必要とする人々への手厚いサポートが必要である。そのため緊急にして大胆な財政措置が喫緊である。
強権的な緊急事態宣言の実施は、真実を隠蔽し、政府への建設的な批判の障壁となること必至である。一層の闇を招き寄せてはならない。
2020年3月9日
梓澤和幸 (弁護士)
右崎正博 (獨協大学名誉教授)
宇都宮健児 (弁護士、元日弁連会長)
海渡雄一 (弁護士)
北村 栄 (弁護士)
阪口徳雄 (弁護士)
澤藤統一郎 (弁護士)
田島泰彦 (早稲田大学非常勤講師、元上智大学教授)
水島朝穂 (早稲田大学教授)
森 英樹 (名古屋大学名誉教授) (*あいうえお順)
(2020年3月9日)
日課となった早朝の散歩では、東大の医学図書館の前をほぼ毎日通る。ここに、「ヒポクラテスの木」と呼ばれるスズカケの木(プラタナス)がある。今、小さなスズが成りはじめたところ。
むかし、ギリシャのコス島に西洋医学の祖と言われるヒポクラテスがいた。彼は、スズカケノキ(プラタナス)の老大木の木陰で弟子達に医学を教えたという。のどかな時代のことだ。ヒポクラテスは、紀元前460頃?377頃の人とされる。
東大にある「ヒポクラテスの木」は、ギリシャから寄贈されたかの老大木の種子から発芽したという由緒正しい若木を育てたものだとか。万世一系の「ヒポクラテスの木」ということらしい。
ヒポクラテスの医学や医学思想は、医学史の専門家以外には興味を惹くものではなさそうだ。彼が有名なのは、医師の倫理としての「ヒポクラテスの誓い」による。
下記は、日本医師会のホームページからの「ヒポクラテスの誓い(訳:小川鼎三)」である。
医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
1. この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。
2. その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
3. 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
4. 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
5. 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
6. 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
7. いかなる患家を訪れる時もそれはただ病者を益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。
8. 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
9. この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。
一見して、大いに体系性に欠ける9項目羅列の誓いである。この人の思考能力は、医師として大丈夫だったろうか。
第7項の、すべての患者を平等視する思想は素晴らしいものだ。例示として、「女と男、自由人と奴隷の違いなく」が挙げられている。王侯貴族であろうとも庶民であろうとも、貧富の差、人種や民族、宗教の別なく、患者には平等に接するべしとする教えであり誓約。
「ヒポクラテスの誓い」は、この第7項の1項目だけでよかったのに、と思う。あるいは、第3項・4項・8項あたりの、医師としての患者に対する責務についての誓約だけであれば、彼は後世もっと尊敬されたであろうに。
1項と2項は、ギルドの掟。これが先頭にあるから、印象が悪くなる。日本国憲法が第1章を「天皇」としている如くに、である。
「ヒポクラテスの誓い」ほど有名ではないが、我が国の医師の倫理を記したものには、貝原益軒の養生訓がある。次の一節を引用しておきたい。
(冒頭の「醫」は、医師のこと。益軒は、医師を「君子醫」と、「小人醫」とに分類して、医師となるからには「君子醫」たれとする。そして、「醫は仁術なり」と、儒教的立場から医の倫理を説く。)
醫とならば、君子醫となるべし。小人醫となるべからず。
君子醫は人の為にす。人を救ふに志専一なるなり。小人醫はわが為にす。我身の利養のみ志し、人を救ふに、志専ならず。
醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。是、人の為にする君子醫なり。人を救ふに志しなくして、只、身の利養を以て志とするは、是、わが為にする小人醫なり。
醫は病者を救はんための術なれば、病家の貴賎貧富の隔てなく、心を盡して病をなおすべし。病家より招きあらば、貴賎をわかたず、はやく行くべし。遅々すべからず。人の命は至っておもし。病人をおろそかにすべからず。是、醫となれる職分をつとむるなり。小人醫は醫術流行すれば、我身にほこりたかぶりて、貧賎なる病家をあなどる。是、醫の本意を失へり。
その一部を分かり易く現代語訳してみよう。
医業とは、患者を救うための職責なのだから、患者を貴賎貧富で区別することなく、心を盡して診療に努力しなさい。患者の要請があれば、患者の身分に関わりなく、速やかに治療に着手しなければなりません。ぐずぐずしてはいけません。人の命は、とても重く貴重なものなのですから、けっして患者をおろそかにせぬように。
ここには、近代的な人権思想が読み取れる。患者の権利の思想、医師の応召義務にも言及されている。貝原益軒、大したものではないか。
世を見わたせば、確かに「君子醫」がおり、「小人醫」がある。翻って、弁護士にも、「君子たる弁護士」と「小人たる弁護士」があろうか。鈴掛の木を見て思う。「君子たる弁護士」になるのは難しくとも、けっして「小人たる弁護士」にはなるまい。願わくは真っ当な弁護士であり続けたい。
(2019年8月27日)
今、取り組んでいる医療過誤訴訟を紹介したい。
Sちゃんは、生後46日で短い命を落した。そのことに、どうしても納得できないお父さんとお母さんが原告となって、診療を担当した病院に対して、損害賠償請求の訴訟を提起した。提訴の動機は、同じ病の子を救いたい、自分たちのような悲劇を繰り返させたくない、という思いからだ。
Sちゃんの死亡原因は、先天性の心疾患で「総肺静脈還流異常症」という。心臓と連結する血管の正常な構造においては、左右の各肺から各2本計4本の肺静脈が左房に接続しているところ、総肺静脈還流異常症においては先天的にその接続が欠けている。
本来、体内の血液循環過程において肺胞でガス交換を終えて十分な酸素の供給を得た高酸素飽和濃度血は、肺静脈を経て左房に流入し、左房から左室を経て拍動しつつ大動脈に流出して全身の細胞に酸素を供給することになる。つまり、肺静脈は高酸素飽和濃度血(体循環における動脈血)の心臓への流入口である。ところが、総肺静脈還流異常症においては、肺静脈を経ての左房への酸素血の流入がないため、胎児期はともかく、出生後の生存は極めて困難となる重篤な心疾患なのだ。
この先天性心疾患は、Sちゃんの出生当時、その機序も診断方法も臨床に知られており、胎児期にも、出生直後にも、退院時にも、そして1か月健診時にも、その特異的、非特異的な症状が児に表れ、その児に表れた症状を的確に把握することによる診断が可能だった。さらに、同疾患の心臓外科手術による治療方法は確立していて、胎児期、あるいは出生直後に診断さえできれば救命可能であったことは当事者間に争いはない。
その診断ができずに看過されれば、総肺静脈還流異常症患児は、出生後ほぼ確実に死に至る。ちょうど、Sちゃんのように。
その疾病の機序と生命に関わる重篤性とがよく知られ、かつその疾病の診断が可能である以上は、人の生命と健康に携わる医師・医療機関には、患者との診療契約において負担する「最善の注意義務」の具体的内容として、これを診察し診断する義務があった。それが、最高裁判例の立場だ。そう、原告側は主張している。
Sちゃんは、胎児期に胎児エコー専門医の胎児心エコー検査を受けている。そのとき、カラードプラに切り替えて心臓を見てもらえば、おそらくは肺静脈が左房に接続していないことが確認できたはずなのだ。ところが、専門医は、モノクロモードだけで心臓を診て、心臓が終わってからカラードプラに切り替えている。お父さんとお母さんにしてみれば残念でならない。
被告側の主張は、「医師の診断マニュアルでは、肺静脈の接続まで確認せよとされていない。だから診断しなかったのはミスとは言えない」という。
総肺静脈還流異常症は、患者の数が少ないから、手間暇かけて診てはおられない、そこまで診断する義務はない、というのが医療現場のホンネのところ。しかし、その手間は、妊娠期間中1回か2回ルーチンの胎児心エコー検査の際に、数十秒ないし2分の検査で済むのだ。もちろん、全例診断を尽くしている病院や医師もある。アメリカのマニュアルでは診断せよとなっている。中国の大病院も悉皆検査をしていると報告している。本件の担当医も、「本件事故以後は全例肺静脈の正常な接続を確認することとしている」と法廷で証言している。
医療過誤訴訟では、医師が依拠すべき医療水準が常に問題となる。判例は、この医療水準を客観的に定まる規範としての規準であると言い、現実の医療慣行を規準としてはならないという。患者の人権を重視し、医療の改善につながる医療水準論でなくてはならないと思う。
先天性心疾患は、新生児100人に約1人の割合で認められるという。そして、総肺静脈還流異常症は、先天性心疾患児100人に約1?2人の確率で発生するとされる。つまり、1万人の新生児出生に対して、約1?2人の割合で総肺静脈還流異常症が発症していることになる。
毎年日本では約100万人の新生児が誕生しているのであるから、毎年約100人?200人の総肺静脈還流異常症罹患の新生児が誕生している。総肺静脈還流異常症は、診断さえできれば、外科手術によってほぼ確実に救命できる。しかし、診断できなければ、死亡に至る可能性が極めて高い。現実に、総肺静脈還流異常症と診断されて、専門病院に搬送されて救命されるのは好運な事例で、多くは診断されることなく死亡に至っている。
産科・新生児科の医師に総肺静脈還流異常症の診断の義務がないとすれば、今後も毎年100人?200人の新生児の疾患が見逃され、せっかく得た尊い生命が失われる悲劇の現状が続くことになる。判決が、総肺静脈還流異常症の診断義務を認めるとすれば、今後、毎年100?200名の新生児の命が救われ、同数の悲劇が歓喜に変わることになる。
確実に一定の割合で生じる将来の患児の生命が、救われるか見捨てられるか。Sちゃんも見守っている。
(2018年12月12日)
私も、依頼を受けて講演をする。月に1度、ときに2度というペース。テーマは、ほとんどが憲法・改憲・平和・靖国・政教分離・「日の丸・君が代」・司法制度・天皇制…、そしてDHCスラップ訴訟。どんな講演のときにも、アベ改憲阻止の運動への参加を呼びかける。そして、忘れずに「DHCの製品を購入しない」よう実践をお願いする。それが、民主主義を守ることになるからだ。
一昔以前には、消費者問題での講演依頼が多かった。弁護士として具体的に携わる消費者問題を通して見えてくるこの経済社会の具体的な矛盾。それをを語って、賢い消費者の選択と行動が、より暮らしやすい世の中を作ることになると訴えるもの。それなりに有益なものだったと思う。いま、「賢い消費者として、DHC製品の購入はやめましょう」と呼びかける素地は、40年来の弁護士活動で培われたものなのだ。
もう一つ。10年前に肺がんの手術で体力を消耗する以前は、医療問題についての講演依頼も少なくなかった。患者側専門で医療訴訟に携わる弁護士として見えてくるものをお話しすることは、自分なりに有意義なものとの自負があった。
書類を整理していたら、たまたま、医療者に向けての講演のレジメが出てきた。10年前の2008年3月10日という日付。私は、その2週間後の24日に国立がんセンター東病院に入院して、26日に右肺上葉切除の手術を受けている。この講演は、手術直前のことだった。
このときの肺がんが私の人生最大の罹病。診察・診断・インフォームドコンセント、そして入院・手術。自らが患者の立場で医師・医療従事者と接する体験をした。その時期ならではの、切実に親切でよい医師・医療機関を望む気持での講演だったと思う。
そのレジメを、以下に全文掲載する。
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2008年3月10日
医師・医療従事者の皆様へ
医療者が患者・家族とのより良い関係を築くには
ー患者・家族は医療に何を望むか、
患者の権利、医療の法律論についてなどを含めて
誰もが患者になります。
あなたも私も‥。
医師も看護師も‥。
患者・家族は、医療従事者に命を預けます。この上なく重く大きな責任と期待を背負う任務にふさわしく、医療従事者は感謝と敬意の対象となり、生き甲斐も生じます。すべては、患者の願いに応えるゆえに‥。
より良い医療は、すべての患者と家族の願い。
私が望むより良い医療とは、患者の人格が尊厳あるものとして遇されるというものです。
もっぱら患者の立場で法廷に立つ実務法律家として、「患者の人格を尊重された医療」についてお話しをさせていただきます。
1 法というものの基本的な考え方
法は弱者のためにある ー? 法の存在意義
強者は法の規制を嫌い、弱者は法による保護を必要とする。
法は、個人の生命と健康を至高の価値と考える ー 人権という法思想
法は良識を反映するー法解釈の基本 良識(≠常識)=社会通念+理念
2 消費者問題の一分野としての医療
人の暮らしは消費生活として営まれ、すべての人が消費者となる。
消費者は生活の安全と快適を事業者の提供する商品と役務に依存する。
消費者に対する事業者の責任の根拠
力量の格差・非対等性(巨大企業対一個人)
形式的平等→実質的平等の原則
専門性 商品役務の高度化? 買い手注意→売り手注意
危険性 薬品・食品・製品 無過失責任を基本とする製造物責任法
報償責任? 利益あるところ責任もある。
医療においても、医療機関(事業者)と患者(消費者)とは非対等。
専門性と危険性は際だっている。
3 医療を規律する法の2系統
公法ー行政取締の法 厚労省・保健所
医師法・歯科医師法・保健師助産師看護師法・医療法
・薬事法・薬剤師法‥‥ 刑法・特別刑法
私法ー医療機関と患者との関係を契約として把握する。
どんな内容の契約で、どのような債権債務を発生するか。
*医療機関の権利(患者の義務)
報酬請求権・診療への協力を求める権利
*患者の権利(医療機関の義務)
法律で細かく決められているわけではない。
大まかな法原則と社会の良識に基づいて、判例として形成される。
説明を求める権利・情報の開示を求める権利
臨床医学の水準に基づく安全のための最善注意義務・万全注意義務
4 医療機関(医師)の診療における義務の特殊性
結果債務(与える債務)ではなく、手段債務(なす債務)である。
診療経過における医師としての注意義務違反→過失
過失とは臨床のセオリーとして、
してはならないことをしてしまった(作為態様の過失)
しなければならないことを怠った(不作為態様の過失)
5 法は判決で実現される
患者の権利が侵害されて損害が生じたときに、損害賠償請求訴訟となる。
患者が提訴によって求めるもの
事実の解明
謝罪
生活保障
義憤・公憤
患者の死を意義あらしめること
6 何よりも大切なものは医療者と患者の信頼関係の形成
そのためには、医師・医療従事者としての技量への信頼
情報の開示・十分な説明による信頼
不信の要素としての3つの壁 専門性の壁
密室性の壁
「組織の論理」の壁
患者の求める医療水準と、医療機関の意識とのギャップ
患者と共同する医療
インフォームドコンセント(患者の自己決定権を十全ならしめる基礎)
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レジメだけでは、言わんとするところが必ずしもよくは分からない。しかし、雰囲気程度は伝わるものと思う。最後の「患者の求める医療水準と、医療機関の意識とのギャップ」について、詳しくお話しした記憶がある。「医療者と患者が共同する医療」、具体的には「インフォームドコンセントのあり方」が最重要問題となる、ということだったはず。
過不足なく、十分なお話しができただろうか。医療者の皆さんに、患者の気持ちが届けられただろうか。講演のたびに悔いは残る。
(2018年4月25日)
本日(10月28日)は、医療問題弁護団(略称「医弁」)設立40周年記念シンポジウム。イイノホール4階ルームAでの4時間余の集会。270名の参加で盛会だった。
医療問題弁護団とは、「患者側」を標榜する在京の医療事件専門弁護士集団。現在、250人の会員を擁している。設立の目的を「医療事故被害者の救済及び医療事故の再発防止のための諸活動を行い、これらの活動を通して医療における患者の権利を確立し、安全で良質な医療を実現することを目的とします。」と謳っている。
弁護士集団なのだから、「医療事故被害者の救済」すなわち医療過誤訴訟受任のシステムを整え、医療事件専門弁護士としてのスキルを磨き、後輩を育てることを任務にするのは当然。しかし、それだけにしないところが真骨頂。「安全で良質な医療を実現すること」を究極の目標と位置づけているところに、人権派弁護士集団としての道義的な矜持が表れている。
看板だけでなく、実際に患者側弁護士の立場から「安全で良質な医療を実現する」活動に携わっているところがたいしたもの。個別事件の受任を超えた、医療に関する政策提言活動が太い柱として定着している。
本日のシンポジウムテーマも、「この40年に医弁会員が獲得した医療過誤事件判例紹介」「40年で医療過誤判例はどこまで進歩したか」「判例をリードし続けた医弁の活動」「今、医療訴訟の焦点はどこにあるか」「医弁の窓口を叩いた医療過誤被害者の顧客満足度」…などでも良さそうなものだが、そうはなっていない。「医療問題弁護団40周年記念シンポジウム『医療現場に残された現代的課題』ー40年前の『医療に巣くう病根』と比較してー」というものなのだ。
シンポジウムの趣旨はこう語られている。
「私たち医療問題弁護団は、医療被害の救済・医療事故再発防止・患者の権利確立を目的として1977年に結成して以来、40周年を迎えました。40年前、私たちは『医療に巣くう病根』を4つの視点から分析しました。40年後の現在、私たちが取り組んできた医療被害救済に関する事件活動もふまえ、医療現場に残された現代的課題について、団員の報告やパネルディスカッションを通じて探っていきたいと思います。」
医弁に集う患者側弁護士の関心は、医療過誤訴訟それ自体よりは、医療事故を生み出す医療現場の状態にある。患者の人権という観点から、医療現場にはいったいどこにどんな問題があるのだろうか。40年前に見つめ考えたことが、今どうなっているのかを検証してみよう。そして今、医療現場に残された現代的課題について、報告し意見交換をしよう。それが今日のシンポジウムなのだ。この趣旨は、本日の配布資料(A4・220頁)の冒頭に、医弁代表の安原幸彦さんが、「巻頭言」としてよく書き込んでいる。その全文を末尾に添付しておく。
さて、40年前に、患者側医療弁護士を志した若い弁護士たちが、医療事故を起こす原因と意識した「医療に巣くう病根」とは次の4点であった。
?医師、医療従事者と患者の関係が対等平等ではないこと
?保険診療の制約が医療安全を阻害していること
?医師の養成・再教育が不十分であること
?医師、医療従事者の長時間・過密労働
いずれも思い至ることではないか。
40年後の現在、この『医療に巣くう4病根』は、次のように敷折したテーマとなっているというのが本日の報告である。
(1) 医師と患者との希薄な信頼関係ー「医師・患者関係」
(2) 患者安全を実現できない保険診療と「営利」追求型医療の横行
(3) 体系的・継続的な教育制度の未整備ー「教育」
(4) 医療現場での人員不足・劣悪な労働環境ー「労働」
そして、新たに検討が必要なテーマとして、
(5) 医療従事者間の不十分な「連携」
(6) 適正な医療が行われていることを「チェック」するシステムの不存在、不十分
さらに、以上の各テーマに通底するキーワードとして、医師の「プロフェッション論」が取り上げられた。
以上の、「医師・患者関係」「営利」「教育」「労働」「連携」「チェック」、そして「プロフェッション論」が、医療現場の現代的課題としてシンポジウムのテーマとされた。
私も、医弁の古参会員の一人である。おそらくは、最古参となっている。いつの間にか世代は着実に交代しているのだ。
とはいえ、私はいまだに現役の患者側医療弁護士である。かつてのように、同時に十指におよぶほどの医療事件の受任はできないが、事件受任が途切れることはない。事件を通じて、医療を考え続けてきた。幾つかの感想を述べておきたい。
言うまでもないことだが患者にとって医師は敵ではない。医療訴訟において対峙することはあっても、医師は患者にとって不可欠な専門技術提供者である。医師との信頼関係なくして、真っ当な医療はなく、医師の自覚と献身的な寄与なくして患者の人権は守られない。
これまで事件を通じて、多くの医師を見てきた。医師のあり方を論じるときには、弁護士としての自分のあり方を顧みなければならないことになる。依頼者への接し方、事態の現状や採るべき対応の方法についての説明の仕方、そして事態が思わしく進行しなかったときの対処の仕方。セカンドオピニオンを求められたときの対応…。私は、これまで何人もの立派な医師の対応を見てきた。これを学びたいと思っている。そしてまた、立派とは言いがたい医師も見てきた。これも、反面教師としたい。
「医師・患者関係」で論じられたのは、インフォームドコンセントのあり方についてである。インフォームドコンセントの理念は単なる説明ではない。「医師と患者の医療情報の共有」でも、「十分な医師の説明と、その説明を理解した上での患者の同意」と言っても、不十分だ。「医師と患者の共同意思決定へのプロセス」としてとらえるべきだと理解した。
本日の報告で、アメリカにおけるインフォームドコンセント概念として、「大統領委員会報告書(1983年)」の「相互の尊重と参加による意思決定を行う過程」という定義が紹介された。なるほど、そのようなものだろう。これを訴訟に活かすことができれば、医療の現場も変わってくるに違いない。
医療における「営利」は、永遠の課題である。医師不足も医師の過密労働も、その改善は営利との関連を抜きには考え難い。医療の安全は直接には営利を生まないが、いったん事故を起こしたときの経営への打撃を考えれば、資金の投入が必要なのだ。また、医療機関にとって、患者の安全に配慮しているとの評判は、営利に結びつくものとなるだろう。
パネラーの一人が、「テール・リスク」という概念について語った。「確率分布の裾野にあり、発生の確率は極めて小さいが、一旦起こるとおおきな損失になる潜在リスク」ということ。問題はその事故の補償ができるか、ということになる。予見可能である限りは、補償の財源を確保しておかねばならない。その財源は、価格設定に折り込まなければならない。価格の設定の仕方を間違える(ミスプライス)と補償ができなくなる。どの範囲の保障や賠償のコストを想定して価格対応するかが政策的な課題となっている、という。
法的観点からの指摘でなく、マネージメント論としての解説だったが、「原発事故から手術の合併症まで」とパワポに書き込まれていた。これは訴訟実務の重要論点ではないか。説明義務の対象の範囲の問題としても、予見可能性や結果回避可能性の存否にしても、どこまでの低確率の事故なら免責されるのか、実は一義的な解答はない。あらためて考え込まされた。
(2017年10月28日)
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巻頭言?医原問題弁護団 代表 安原幸彦
本日は、医療問題弁護団創立40周年記念企画にご参加いただきありがとうございました。
医療問題弁護団は、1977(昭和52)年9月3目、医療事故の被害救済と再発防止を目的として結成されました。その歩みは、報告概要編・イントロダクションでご紹介しています。
結成後間もなく、私たちは、医療事故が起こる原因として、?医師、医療従事者と患者の関係が対等平等ではないこと、?保険診療の制約が医療安全を阻害していること、?医師の養成・再教育が不十分であること、?医師、医療従事者の長時間・過密労働の4点を挙げ、これを「医療に巣くう病根」と呼びました。
この指摘は、医療事故被害と向き合った自分たちの実践から導いたものではありましたが、いかんせん、結成から間もない時期に取りまとめたものでもあり、その後の実践を通した検証が必要でした。また、医療を取りまく環境や医療政策の変化、それに伴う患者や社会の意識変化などにも対応する必要がありました。現在弁護団員も250名に達しています。その団員が40年にわたって様々な活動を積み重ねる中で、医療事故の原因と防止策について、考え、学ぶところが多くありました。
そこで、私たちは結成40周年を迎えるにあたり、「医療に巣くう病根」として取りまとめた分析を出発点としつつ、それを現代的課題として整理する試みを行いました。その成果を取りまとめたのが報告書編の各論稿です。医療問題弁護団は団員を4つの班に分けていますが、各班にテーマを割り振り、約1年間、調査・研究してきた内容がそこに書かれています。
そして、今回、各テーマを統括して、医療現場に残る現代的課題を医療におけるプロフェッション性の阻害とその回復と集約しました。詳しくは報告書編・プロフェッション論をご覧ください。
本報告書は、医療事故を通して、主として患者の視点から、より安全で、より良い医療の実現を目指して分析したものです。各界の皆様から、忌憚のないご意見をいただき、今後の私たちの活動の指針とエネルギーにしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
2017(平成29)年10月
冬晴れの空に映える冠雪の岩手山。今日一日は、美しき山のある幸せの地に。
新幹線の車窓から岩手山を望むと、いつも啄木の歌を思い出す。
汽車の窓はるかに北にふるさとの山見え来れば襟を正すも
タクシーの運転手さんが、誇らしげに言う。
「私らいつも見ていますが、見飽きるということがありません」「特にこの開運橋からの岩手山がみごとでしょう」「この橋で岩手山を見ると運が開けるって、受験生がやって来るんですよ」
本日は「浜の一揆」事件の対岩手県(水産振興課)交渉。その日程に合わせて、吉田さんから岩手県(県立中央病院)に対する医療過誤訴訟の提訴日とした。
盛岡地裁正門の前に地元テレビのカメラがならんだ。分かり易い事案の内容について幹事社を通じての事前のブリーフィングの効果もあったろうが、何よりも原告吉田さんが、自分の名前も顔も出して取材に応じるという勇気が大きな反響を呼んだのだと思う。
この吉田さんの事件はOさんの紹介。Oさんも、県立病院で奥さんを医療過誤事件で亡くされた方。羊水塞栓症での死亡とされ、県は発症の予測も結果回避も不可能として争った。一審盛岡地裁は羊水塞栓症の罹患を否定しての認容判決だったが、控訴審の仙台高裁判決は羊水塞栓症の罹患を肯定しながら医師の発症責任を認めた。羊水塞栓症の発症責任を認めた認容判例は空前である。もしかすると絶後かも知れない。
その困難な訴訟の最中に、Oさんが述懐したことがある。「私は、この裁判に負けたら地元に住み続けることはできません」というのである。県を相手に訴訟を起こすとは、そのくらいたいへんなことなのだ。よほど思いつめ、よほどの覚悟での提訴だということが痛いほどよくわかった。幸いに、一審、二審とも勝訴判決を得て、Oさんは昔のまま地元での暮らしを続けている。
ことほどさように、県を相手に裁判を起こすなどとは勇気のいること。吉田さんは本件事故当時20歳。その吉田さんが、胸を張って、名前を出して、カメラの前で県立中央病院の医原性医療事故の不当と、医療事故に関しての病院の対応の酷さを訴えた。
私が配布したレジメの概要は以下のとおりである。
※本日、盛岡市在住の吉田さんから県立中央病院の医療過誤にもとづく損害賠償請求訴訟を盛岡地裁に提訴した。請求金額は270万円だが、後遺障害未定のため、症状固定後に請求拡張の予定。
※本件は医療過誤事件としては小さな事件である。しかし、誰にでも起こりうる医療事故であり、医療機関側の対応の不誠実さは、患者の権利の問題として到底看過しえない。
☆「過失1」 典型的な医原性医療過誤。医療による過失傷害事件である。
研修医2名が大腿動脈穿刺による採血に失敗。採血は4回試行されていずれも失敗。患者の懇請で看護師に交替して5回目にようやく成功。患者は未熟な研修医の実験台にされた。その直後から下肢の痛み、しびれ、麻痺が生じて緊急入院。大腿神経の損傷があったものと推察される。2か月後に寛解し退院して現在リハビリ継続中。退院5か月後の現在なお松葉杖歩行。
☆「過失2」病院は自ら起こした事故に謝罪せず、不誠実極まる対応。
被告病院副院長は原告に対して、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「吉田さんの体に問題があって、このようなことになりました」「吉田さんの態度に問題があったからこうなったんじゃない? 自業自得だよね」と言っている。
この不誠実対応自体が、損害賠償の根拠になる。
※原告は、本件医療事故によって、店員としての職を失い現在無職無収入。
被告病院は、暫定的な収入仮払い要求を拒絶。提訴やむなきに至った。
記者会見は1時間余に及んだ。記者から、吉田さんに、「名前も、顔も隠さずに、訴えたいというお気持ちになられたという動機を」との質問が何度か繰り返される。それに対する吉田さんの答えをまとめると以下のとおり。
「私には陰に隠れなければならない恥ずかしいことは何ひとつありません」「中央病院の名を挙げて自分の憤りを発言するのですから、自分の方も隠れず名前を出した方がよいと思いました」「私が勇気を出して名前を出して訴えることで、多くの人を元気づけ、医療事故で泣き寝入りをすることがなくなるよう願っています」
匿名の発言は無責任で卑劣、心ある人の耳に届くはずもない。吉田さんの姿勢はその対極。メディアに名前を出し、カメラに向かっての堂々の発言であってこその迫力である。吉田さんを映すテレビの幹事社名が「めんこいテレビ」。人を軽んじプライドを傷つける理不尽に対して、素直な怒りの発露を支えることが私の努めだ。
午後は浜の一揆の幹部の面々と一緒に、岩手県(漁業調整課長)との交渉。零細漁民からの「サケ漁の許可」を求める申請書類の補正をめぐって、形式的な打ち合わせがメインのアポではあったが、当然それだけでは終わらない。「なぜ、県は三陸の漁民に三陸のサケを獲らせないんだ」というテーマをめぐっての発言になる。漁民の声は切実でもあり、厳しくもある。
「今のままでは後継者が育たない。岩手の漁業は衰退の一途だ」「漁民の声に耳を傾けないで岩手の漁業を衰退させているのは行政じゃないか」「こんな苦しいときだから、復興のためにサケを獲ることを認めてもらわねばならない」「どうして、サケ漁を浜のボスの巨大な定置網だけ許可して、俺たち漁民には禁止するんだ」「県が漁業界の意見を聞いて判断するというのは納得できない」「県政がボス支配に追随しているというだけではないか」「漁民にサケを獲らせない理由として、浜のボスたちの利益を守ること以外にどんな理屈が立つのか」「どうして、漁民のための県政にならないで、ボスのための県政になってしまっているんだ」「私たちだって、岩手の漁業界の中にいる。どうして県は漁連の幹部の言うことだけを聞いて漁民の声を聞かないのか」「歴代の水産行政の幹部が漁連に天下りしているではないか。あなた方はどうなんだ」「海区調整委員会が県政のチェックにならないことは、メンバーを見れば明らかでないか」…。
漁民の生活を軽んじ、浜のボスと一体となった県行政の理不尽に対して、怒りの発露を法的な手段として支えることが私の努めだ。
岩手県立病院にも、岩手県の水産行政にも、岩手山を見て襟を正していただきたいと思う。夕暮れの岩手山も見応え十分だった。
(2015年1月21日)