(2023年3月15日)
対象弁護士(被懲戒請求人)代理人の東京弁護士会の澤藤と申します。23期です。1971年4月に弁護士となって以来、司法はどうあるべきか、司法の一翼を担う弁護士は、あるいは弁護士会は如何にあるべきかを考え続けてきました。その立場から本件綱紀委員会の議決を拝読して、どうしても一言したいと思い立ち、その機会を得ましたので、意見を陳述いたします。
まず申しあげたいことは、弁護士の社会的発言に対して、とるべき弁護士会の基本姿勢についてです。弁護士会が、弁護士の品位保持の名のもとに、軽々に弁護士の表現の自由を規制してはならないということです。
弁護士の言論に対して、権力的な、あるいは社会的な圧力があった場合に、断固として当該弁護士を擁護すべきが弁護士会本来の責務です。綱紀委員会の議決には、その基本姿勢が欠落していると指摘せざるを得ません。
今の状況を大局的に見れば、対象弁護士がツィッターで少数者の人権を擁護する立場からの社会的発言をし、これを快しとしない社会の多数派を代表する形で、懲戒請求人がその表現の規制を求めて弁護士会に懲戒請求をしている、という構図です。
本件綱紀委員会議決の理由にも意識されていますが、一般の「表現の自由保障範囲」と、弁護士がその使命である基本的人権擁護のためにする「表現の自由の保障範囲」とは自ずから異ならざるを得ません。弁護士が弁護士であることを前提に社会的な発言を行うに際しては、それに対する異論があることは当然として、その表現の自由はより広く保障されなければなりません。「弁護士の表現の自由は制約されてしかるべき」などと、弁護士会が言ってはなりません。
いま本件において貴弁護士会がなすべきことは、少数者の人権擁護を趣旨とする対象弁護士の当該発言の自由を保障する立場を貫くとともに、懲戒請求者と社会に対して、その理由の説明を尽くすべきことと考えます。
弁護士法1条1項に定める弁護士の使命としての「基本的人権の擁護」は、けっして法廷活動のみにおいてなされるものではありません。弁護士は、多面的な社会的活動に携わります。その中で最も貴重なものは、埋もれている新たな人権を見つけ、育て、確立して行く活動です。対象弁護士がいま携わっているのは、まさしくそのような活動です。
少数者の人権は、権力や社会的な多数者の圧力と抗う中で、育まれて確立に至ります。今、生成中の新たな人権の芽を、弁護士会が摘むことに加担してはなりません。
弁護士法1条1項は、『弁護士の使命』として「人権の擁護」を掲げています。56条によって弁護士に求められる「品位」という要請は、人権の擁護という大原則の遂行に附随して求められるものです。本来、弁護士の使命である人権擁護の姿勢に徹することを以て、弁護士の品位評価の基準となると考えるベではありませんか。
「人権の擁護」と「品位の保持」。この両者を統一的に理解すべきではありますが、しからざるものとしても、両者の重みの違いを十分に認識しなければならないところです。弁護士の活動の根幹と枝葉とを混同することのないよう、お願いする次第です。
人権擁護活動の一端である対象弁護士の行為を、極めて曖昧で分かりにくい「品位に欠ける」との評価で、懲戒処分を科するようなことをしてはなりません。
(2023年3月12日)
安倍晋三という重しがとれて、安倍政権時代の負のレガシーの覆いが少しずつ剥がれつつある。「放送法解釈変更問題」の行政文書流出はその典型だろう。官邸の理不尽な圧力に切歯扼腕していた人物が、ようやくにして外部に訴える決断をしたものと推察される。安倍晋三、なおこの世にあればこの決断はできなかったのではないか。
この文書を一読すれば、官邸の圧力は至るところに無数にあって、この文書はその氷山の一角に過ぎないことがよく分かる。例えば、この文書は2015年5月12日、参院総務委員会での高市早苗による『放送法4条解釈変更答弁』で終わっているが、続編があったに違いない。翌16年2月8日衆院予算委員会での「停波言及答弁」についても、これに至るやり取りがあったはずである。おそらくはその議論は、より熾烈なものであったと推察される。
総務省に限らず、官邸からの圧力を苦々しく思っていた良心的官僚諸氏による内部通報が続いて、アベ政治の負のレガシーの清算が行われることを期待したい。
本日、朝日・毎日両紙の社説が、この安倍政権時代の放送法解釈変更問題を取りあげた。切り口はそれぞれのもので、問題把握の視点が異なる。
朝日はストレートに「(社説)放送法の解釈 不当な変更、見直しを」という表題。朝日の見識を示すものとなっている。
この社説の基本は、放送法4条不要論である。「政治的公平であること」や「報道は事実をまげないですること」などを求めている同条が、政治権力の放送番組作成への介入の口実を与えている、という認識。少なくも、安倍政権時代に高市がその手先となって変更した《放送法4条の政権寄りの骨抜き解釈》を元へ戻せ、と言っている。
「2015年、当時の高市早苗総務相は、放送番組が政治的に公平かどうか、ひとつの番組だけで判断する場合があると国会で明言した。これは、その局が放送する番組全体で判断するという長年の原則を実質的に大きく転換する内容だった。放送法の根本理念である番組編集の自由を奪い、事実上の検閲につながりかねない。民主主義にとって極めて危険な考え方だ」「本来は国会などでの開かれた議論なしには行うべきでない方針転換が、密室で強行された疑いも持たざるをえない」「こうした経緯が明らかになった以上、高市氏の答弁自体も撤回し、法解釈もまずはそれ以前の状態に戻すべきだろう。制作現場の萎縮を招き、表現の自由を掘り崩す法解釈を放置することを許すわけにはいかない」
同社説は、最後にこう力説している。「解釈変更は、政府与党が放送局への圧力を強めるなかで起きた。文書からは、安倍氏が礒崎氏の提案を強く後押ししていた様子もうかがえる。責任は高市氏や礒崎氏だけではなく、政府与党全体にあると考えるべきだろう。放送法ができた1950年の国会で、政府は『放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない』と述べている。近年のゆゆしき流れを断ち切り、立法の理念に立ち返るべきときだ。」
毎日は、アベ政治の危険性や報道の自由の問題ではなく、行政文書の重要性を強調して、これをないがしろにする高市早苗批判に徹している。表題が、「高市氏の『捏造』発言 耳を疑う責任転嫁の強弁」というもの。要旨は以下のとおり。
「放送法の『政治的公平』を巡る第2次安倍晋三政権内部のやりとりを記した総務省の文書について、当時の総務相だった高市早苗・経済安全保障担当相が『捏造だ』と繰り返している」「行政文書は、公務員が業務で作成し、組織内で共有、保管される公文書だ。政策の決定過程が分かるやりとりを残すことは、法律で義務付けられている。総務省幹部は『一般論として行政文書の中に捏造があるとは考えにくい』と国会で答弁した」
「ありもしない事実を公文書に記したのなら、犯罪的行為である。疑惑を掛けられた総務省は徹底調査すべきだ。高市氏は立証責任は小西氏にあると言うが、事実解明の責任を負うのは本人である。高市氏は発言者に確認を取っていないことを理由に「正確性が確認されていない文書」だと強調する。だが、それだけで当時の部下が作成した文書を「捏造」だと決めつける強弁は耳を疑う」
「公文書は政策決定の公正さを検証するために不可欠な国民の共有財産だ。自らの発言でその信頼性を損なわせた高市氏である。閣僚としての適格性が問われている。」
この毎日社説の趣旨に異議はない。が、結論が甘いのではないか。「閣僚としての適格性が問われている」だけではない。この人、議員の職も賭けたのだ。議員も辞めてもらわなければならない。もちろん、社会人としても失格である。
アベ政治に厚遇を得て、ぬくぬくとしていた一群の人たち。いま批判の矢面に立たせねばならない。民主主義擁護の名において。
(2023年3月8日)
3月2日夕刻、立憲民主党の小西洋之参院議員が記者会見で公表した《放送法の「政治的公平」に関する文書》、7日の午前までは「小西文書」だったが、同日の午後には総務省の「行政文書」という折り紙が付いた。
公文書管理法や情報公開法で定義されている「行政文書」とは、「行政機関の職員が職務上作成し又は取得した文書で、組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」と言ってよい。堂々たる「公文書」である。捏造文書でも、怪文書でもない。
公文書の内容が全て正確であるかといえば、当然のことながら、必ずしもそうではない。しかし、公務員が職務上作成した文書である。その偽造や変造には処罰も用意されている。特段の事情がない限りは、正確なものと取り扱うべきが常識的なあり方である。
内容虚偽だの一部変造だのという異議は、異議申立ての側に挙証責任が課せられる。ましてや、高市早苗は総務大臣であり、この文書を管轄する責任者であった。しかるべき理由なくして、「捏造」などと穏当ならざる言葉を投げつけるのは醜態極まる。単に、不都合な内容を認めたくないだけの難癖なのだ。
この文書、総務省のホームページに公開された。下記のURLで、誰でも読める。これを一読したうえでなお、捏造論に与する者がいるとは思えない。
https://www.soumu.go.jp/main_content/000866745.pdf
全体を通読すれば、真面目な総務官僚が、放送法の理念(とりもなおさず、「表現の自由」「報道の自律性」)を擁護しようと、理不尽な官邸からの圧力に抵抗して、必ずしも本意でない結果を招いたとするストーリーが見えてくる。せめて、その経過を正確に残しておきたいという気持が滲み出ている。捏造や改ざんの動機は、まったく窺うことができない。
この文書は、A4用紙で78枚のまとまったもの。《「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)》と表題が付いている。この文書中での、悪役は礒崎陽輔(首相補佐官)である。もちろん安倍晋三が究極の黒幕だが、その威を借りて、民主主義の仇役を演じているのが礒崎。高市は自主性に欠けた脇役という役どころ。際だった悪役を演じているわけではない。官邸からの圧力に呼応して、その支持に従っただけのことなのだ。ところが、「怪文書」「捏造文書」「首を懸ける」と騒いだために、自らの存在をクローズアップして墓穴を掘った感がある。こうなれば、潔く議員辞職するしかないだろう。頼りの安倍晋三は既に亡いのだ。
《「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)》では、ジュゲムジュゲムだ。「安倍官邸の放送法解釈介入圧力記録文書」が正確なところだが、これも長い。「放送法解釈介入記録」くらいで良しとしよう。その記録の冒頭2頁が経過の要録となっている。年号を西暦に直して、ここだけを抜粋しておきたい。
この一連のストーリーの発端は、放送事業を監督する立場の総務省に対して、官邸側(礒崎)から「放送法における「政治的公平」解釈」についての「整理」をすべきという要求。官邸が納得するような回答が得られるまで、総務省から礒崎へのレクチャーが繰り返された。ようやく官邸の圧力で放送を萎縮させるに足りる解釈が得られると、総務委員会で自民党の議員にデキレースの質問をさせて、予定どおりの高市大臣答弁となる。これが、2014年11月26日から、翌15年5 月12日までの半年間のこと。
そして、この文書には出てこないが、翌16年2月8日衆院予算委員会での「政治的公平が疑われる放送が行われたと判断した場合、その放送局に対して放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性を否定しない」という、高市の「停波処分もあり得る」という、恫喝発言につながる。この段階では、高市は脇役から主役に躍り出ている。おそらくは、これについても、官邸からの介入の裏面史があったのだろう。
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「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)
2014年11月26日(水)
磯崎総理補佐官付から放送政策課に電話で連絡。内容は以下の通り。
・ 放送法に規定する「政治的公平」について局長からレクしてほしい。
・ コメンテーター全員が同じ主張の番組(TBS サンデーモーニング)
は偏っているのではないかという問題意識を補佐官はお持ちで、「政治的公平」の解釈や運用、違反事例を説明してほしい。
28 日(金):磯崎補佐官レク
磯崎補佐官から、「政治的公平」のこれまで積み上げてきた解釈をおかしいというものではないが、?番組を全体で見るときの基準が不明確ではないか、?1つの番組でも明らかにおかしい場合があるのではないか、という点について検討するよう指示。
12 月 18 日(木)、25 日(木):磯崎補佐官レク
さらに前向きに検討するよう指示。(補佐官は年明けに総理に説明したうえで、国会で質問したいとのこと。)
2015年
1 月 9 日(金):磯崎補佐官レク
総務省からの説明を踏まえた資料を補佐官側で作成するので、本資料に関する協議を事務的に進めるよう指示。
16 日(金)、22 日(木):磯崎補佐官レク
総務省からの補佐官資料に対する意見は先祖帰りであり、前向きに検討するよう指示。
29 日(木):磯崎補佐官レク
補佐官了解。今後の段取り(国会質問等)について認識合わせ。
2 月 13 日(金):高市大臣レク(状況説明)
17 日(火):磯崎補佐官レク(高市大臣レク結果の報告)
24 日(火):磯崎補佐官レク(官房長官レクの必要性について相談)
3 月 2 日(月):山田総理秘書官レク(状況説明)
厳重取扱注意
3 月 5 日(木):磯崎補佐官から安倍総理に説明(今井・山田総理秘書官同席)
※3/5 山田総理秘書官から、3/6 磯崎補佐官から、総理への説明模様を報告。
9 日(月):平川参事官から安藤局長に連絡(高市大臣と安倍総理の電話会談結果)
13 日(金): 山田総理秘書官から安藤局長に連絡(高市大臣と安倍総理の電話会談結果)
4 月 1 日(水)?4 月 7 日(火):答弁案の調整
※山口補佐官付と放送政策課・西潟補佐の間でやりとり。
5 月 12 日(火):参・総務委員会
(自)藤川政人議員からの「政治的公平」に関する質問に対し、磯崎補佐官と調整したものに基づいて、高市大臣が答弁。
以上の5月12日総務委員会での高市答弁までに、関係者間にどんな発言があったか。朝日新聞の熱のはいった報道の中で、次のようなものが指摘されている。
総務省の行政文書に記された主なやりとり(肩書はいずれも当時)
●礒崎陽輔首相補佐官「『全体でみる』『総合的に見る』というのが総務省の答弁となっているが、これは逃げるための理屈になっているのではないか」(2014年11月28日)
●礒崎陽輔首相補佐官「政治的公平に係る放送法の解釈について、年明けに総理にご説明しようと考えている」(2014年12月18日)
●高市早苗総務相「そもそもテレビ朝日に公平な番組なんてある?」「官邸には『総務大臣は準備をしておきます』と伝えてください。(中略)総理も思いがあるでしょうから、ゴーサインが出るのではないかと思う」(2015年2月13日)
●山田真貴子首相秘書官「今回の話は変なヤクザに絡まれたって話ではないか」「どこのメディアも萎縮するだろう。言論弾圧ではないか」「結果的に官邸に『ブーメラン』として返ってくる話であり、官邸にとってマイナスな話」「総務省も恥をかくことになるのではないか」(2015年2月18日)
●礒崎陽輔首相補佐官「これは高度に政治的な話。官房長官に話すかどうかは俺が決める話。局長ごときが言う話では無い。この件は俺と総理が二人で決める話」「俺の顔をつぶすようなことになれば、ただじゃあ済まないぞ。首が飛ぶぞ」(2015年2月24日)
●安倍晋三首相「政治的公平という観点からみて、現在の放送番組にはおかしいものもあり、こうした現状は正すべき」「(NHKの)『JAPANデビュー』は明らかにおかしい」(2015年3月5日)
●礒崎陽輔首相補佐官「けしからん番組は取り締まるスタンスを示す必要があるだろう。そうしないと総務省が政治的に不信感を持たれることになる」(2015年3月6日)
これは民主主義の根幹に関わる大事件である。安倍晋三とその取り巻きによる、報道の自由への介入という重大事であって、高市のクビや、礒崎の尊大さなど、実は傍論でしかない。
(2023年3月5日)
戦前、廣田弘毅内閣時代の帝国議会で、古参議員と陸軍大臣との間で「腹切り問答」と言われたやり取りがあった。2・26事件翌年の1937年1月21日衆議院本会議でのこと。立憲政友会の浜田国松(議員歴30年、前衆議院議長)が、軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。そのさわりは以下のとおりである。
「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」
「恪循」とは、何とも難しい言葉だが、ことさらに分かり難い言葉を選んだのかも知れない。「謹んで従う」という程度の意味のようだ。
これを聞いた寺内寿一陸相は答弁に立って「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承り」と反駁。浜田は2度目の登壇で逆襲した。「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆質問。寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直したが、浜田は執拗に3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と厳しく詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となったという。
議会は停会となり、陸海軍の確執なども絡んで、結局広田内閣は閣内不統一を理由に総辞職した。閣内に、陸軍大臣・海軍大臣などが存在し、天皇大権を背に威を張っていた時代の椿事である。
時は遷って一昨日、3月3日参議院予算委員会でのこと。スケールは小さいが、よく似た「事件」が生じた。役者は代わって、小西洋之(立憲民主党)と高市早苗(元総務相・現経済安保相)である。
小西は2日「総務省職員から提供を受けた内部文書」として、A4用紙78ページの文書を公表した。「総務省の最高幹部に共有され、超一級の行政文書」だとしている。小西自身が総務省(当時は郵政省)出身だということが、この文書の信憑性に一役買っている。内容は、「個別の番組への介入を可能とする目的」で、放送法の行政解釈を変更するよう、安倍政権が総務省に圧力をかけたものだという。真面目な総務官僚が不当に行政を枉げられたという義憤からの情報提供という構図。
これをもとに2014〜15年に、安倍政権や総務大臣が放送メディアに政治的圧力を掛けたという。政権による表現の自由への介入として大問題であるし、アベ政治の負のレガーシーとして書き加えなければならない。
同資料には当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省幹部に放送法の解釈をただしたやり取りが記されていただけでなく、当時の高市総務相、安倍晋三首相への報告記録なども含まれている。
そう言えばその頃、高市が居丈高に停波の可能性などに言及していたことが忘れがたい。安倍は過去の人になったが、いまや、高市問題となっている。
3日の参院予算委員会で、小西はこの文書に基づいて高市に質疑。「安倍総理からは今までの放送法の解釈はおかしい旨の発言、実際に問題意識を持っている番組を複数例示」と内容に言及。『サンデーモーニング』(TBS系)などの具体的番組名が出てくる。
ところが高市は、「全くのねつ造文書だ」と突っぱねた。「信ぴょう性に大いに疑問を持っている」「礒崎氏から放送法について私に話があったことすらない」と強調した。安倍氏と「放送法について打ち合わせやレクをしたことはない」とも明言した。そして、「本物なら閣僚や議員を辞職するか」問われて「結構だ」と明言した。腹は切らないが、首を懸けるというのだ。
具体的なやり取りは次のとおり。
小西洋之 「仮にこれが捏造文書でなければ、大臣そして議員を辞職するということでよろしいですね。」
高市早苗 「結構ですよ。…小西委員から頂いた資料を見ましたけれども、ご指摘の文書、私の名前出て来るの4枚だったと思うんですが、私が行ったとされる発言について、私はこのようなことは言ってませんし、当時の秘書官も同席してましたので確認しましたが言ってません」
高市の閣僚としての地位のみならず、議員としての地位がいつまで保つのか。まだ分からない。
このやり取りは、森友学園をめぐる公文書偽造問題を思い出させる。2017年2月17日、安倍晋三は、国会で「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」と明言した。が、彼は自分の言葉に「恪循」しなかった。世上、こういう人物を卑怯者という。少なくも、信用できる人物ではない。高市が、自分の発言に責任をもつ人物であるか否か、見極めなければならない。
(2023年2月2日)
一昨日(1月31日)、横浜地裁川崎支部で、やや奇妙な判決の言い渡しが報じられている。この奇妙な判決、統一地方選を目前にした今、軽視し得ない。
「選挙ヘイト」という言葉は以前からあったのかも知れないが、4年前の統一地方選挙戦で大きな問題となった。差別を専らにする団体が候補者を立て、選挙運動の名を借りて、大っぴらに差別をあおるヘイトスピーチが行われた。選挙制度が想定してこなかった事態である。我が国の民主主義の成熟度が劣化していることを象徴する現象と言ってよい。
差別的言動で知られる桜井誠を党首とする「日本第一党」なる政党が、2019年4月の統一地方選挙に、12の地方議会議員選に候補者を擁立した。当然のごとく全員落選ではあったが、彼らはけっして当選を目指して立候補したわけではない。彼らの目的は、選挙による言論の形式を借りて、差別的言論を有権者に発信しようということなのだ。ヘイトスピーチの場の獲得を目的とした立候補と言ってよい。
このとき、「日本第一党」は、川崎市議選に公認候補は立てなかったが、佐久間吾一という人物を大っぴらに支援した。この人、2回目の立候補。選挙公報に「保守系政党の主催する政治塾の塾生として政治に関する勉強と人脈を広げてきました」とある。そして「不法占拠池上町の解決」「表現の自由弾圧条例絶対反対」などを公約に掲げている。彼が反対する「表現の自由弾圧条例」とは、民族差別のヘイトスピーチ規制条例のこと。要するに、「ヘイトスピーチを規制するな」というのだ。
この選挙での佐久間の得票は959票で落選だった。最下位当選者の得票の約4分の1で、得票率は1・4%。ヘイトに反対する立場の市民団体からは、「(佐久間候補は)第一党と組んだことで差別する目的がはっきりし、当て込んだ保守層の支持も得られなかったのでは」とみられている。
この選挙が終わった後に、名誉毀損損害賠償請求の提訴があった。日本第一党の支援を受けた佐久間のヘイトスピーチ被害者が裁判を起こしたのではない。佐久間が原告となって、佐久間のヘイトスピーチを批判した新聞記者(神奈川新聞の石橋学記者)を被告とした裁判である。しかも、提訴は2件起こされ、併合して審理され判決になった。新聞社は被告にされていない。
併合前の各事件の請求金額はいずれも140万円で、併合されて合計280万円となった。1件は石橋記者が執筆した神奈川新聞の記事が、もう1件は街頭での選挙演説現場における石橋記者の発言が、原告の名誉を毀損したと主張されている。
判決の結論は、「神奈川新聞記事」の正当性を認めて請求棄却としたが、「選挙演説現場における記者の発言」の一部は違法とされ15万円の支払を命じた。これは信じがたい、表現の自由に対する裁判官の感覚を疑わざるを得ない。
この点について、東京新聞の記事を引用する。
「判決などによると、佐久間氏は19年2月の集会で川崎区池上町について『旧日本鋼管の土地をコリア系が占拠』『共産革命の拠点』などと発言。記事は(この発言を)『悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗(ひぼう)中傷』と断じた。判決は、記事は公益目的であり重要な部分について『真実』として請求を退けた」
「一方、同年5月の街頭演説中に石橋記者が『デタラメを言っている』などと指摘した発言については、『虚偽やデタラメと一方的に断じることはできない』として請求を認めた」
石橋記者の『デタラメを言っている』は、もとより同記者の意見ないし見解である。その発言が名誉毀損に当たるか否かは、背景事情や具体的な状況によって左右される。仮に、名誉毀損に当たるとしても、その意見の前提となる事実の真実性の立証は十分に可能ではないか。
「石橋記者の弁護団は『判決は記者の批判の正当さを認めた。池上町の住民の名誉は守られた』と評価。その上で演説中の名誉毀損の認定は『取材や批判を萎縮させ、表現の自由を揺るがす』として東京高裁に控訴する方針を示した」という。控訴審に期待したい。
2013年から川崎市内でヘイトデモが激化。これに対抗する反差別の運動が高まり、国のヘイトスピーチ解消法や市条例の制定につながったという。
「石橋記者は『外国人には選挙権もない。法律や社会を変えられるのは(われわれ)多数派だけだ』と確信し、取材を続けている。判決を受けて『声を上げてくれたマイノリティーの勇気と犠牲によって、差別を批判し、命を守る記事を書いてきた。私は少しも萎縮させられないし、萎縮しない』と話した」(東京新聞記事より)
「私は少しも萎縮しない」という石橋記者。その意気や良し、である。この記者の意気に応えて、高裁判決も「その理念や良し」「その憲法感覚や良し」となってほしいものである。
(2023年1月28日)
仙台高裁の岡口基一判事は、ものを言う裁判官として知られる。ものを言う裁判官は、最高裁当局のお好みではない。そのことを十分に知りつつ、岡口判事はSNSでものを言い続けてきた。最高裁当局の統制に服さない裁判官として、貴重な存在である。
しかし、ものを言い続けることはリスクを背負うことでもある。今、彼は、これ以上はない大きなリスクに直面している。しかも、彼が向き合っているリスクは、司法の独立のリスクでもあり、民主主義のリスクでもあって、とうてい傍観してはおられない。
昨日、岡口判事を被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決があった。東京地裁(清野正彦裁判長)は、請求の一部を認容して彼に計44万円の支払いを命じた。
裁判官たる者の民事訴訟での敗訴判決である。不名誉なことではあろう。しかし、裁判官とて訴えられることがあり、その結果として敗訴判決を受けることがあったとしても、けっして騒ぐほどのことではない。問題は、民事訴訟の帰趨にはなく、彼がいま受けている国会議員で構成される弾劾裁判の判決への影響を懸念せざるを得ないということなのだ。その 弾劾裁判 3回目の期日が2月8日に予定されている。
弾劾裁判における訴追事由13件のうち10件は殺人事件被害者遺族に関するもので、昨日の判決もこの殺人事件被害者遺族に関するものであった。このSNS発信が名誉毀損と認定されて民事訴訟に敗訴しても「44万円を支払え」というレベルの負担に過ぎない。ところが、同じSNSが罷免事由にあたると認定されれば、彼の裁判官としての職業生活が断たれる。のみならず、退職金は不支給となり、法曹資格も剥奪される。つまり、弁護士に転職することもできなくなる。表現行為への制裁として、量定の均衡を逸脱した明らかに苛酷に過ぎる措置。弾劾裁判の結論は、「罷免の可否」だけで中間段階の判断はない。これが、この上ないリスクである。
岡口個人について苛酷というだけでなく、裁判官の表現行為や市民的自由を束縛し、私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。司法行政による、全国の裁判官に対する統制も強まることを懸念せざるを得ない。
ところで、昨日の判決、私は判決書きをまだ見ていない。報道されている限りでのことだが、大いに疑問のある判決だと考えざるをえない。この判決は、判例が積み上げた法理に照らして間違っていると思う。民主主義社会に不可欠な表現の自由をないがしろにしているとも思う。担当裁判官が、司法行政当局の意向を忖度してのものと考える余地もある。
この民事訴訟の原告は、東京都江戸川区の女子高校生殺害事件被害者の両親。岡口裁判官の3件の投稿で侮辱されたとして、計165万円の損害賠償を求めた。そのうち2件は請求棄却となったが、残る1件について名誉毀損と認定された。
2019年11月に岡口判事がフェイスブックに投稿した「遺族は俺を非難するようにと、東京高裁事務局及び毎日新聞に洗脳されてしまい」との文言について、判決は「遺族の名誉を毀損し、人格を否定する侮辱的表現」と認定した。さらに、裁判官として「一般のSNS利用者と一線を画する影響力があった」とし、原告である両親に各20万円の慰謝料を認めた。
私は間違った判決として、上級審で覆るとは思うが、仮にこの判決が確定するようなことがあったとしても、それゆえに岡口判事を罷免するようなことがあってはならない。司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。裁判官は、政治権力からも、社会的同調圧力からも、行政府からも、立法府からも独立していなければならない。そのために、裁判官には憲法上の身分保障がある。
にもかかわらず、現実の裁判官は、独立の気概に乏しい。その中にあって、司法行政の統制に服することなく意識的に市民的自由を行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。
そのような貴重な存在としての裁判官として、岡口基一裁判官が目立った存在となっている。明らかに、司法当局の目にも、政権・与党の目にも、目障りな存在となっている。いま、この貴重な裁判官が訴追され、国会の弾劾裁判所にかけられている。その成り行きは、我が国の「司法の独立」の現状を象徴することになる。
けっして、岡口基一判事を罷免させてはならない。
(2023年1月3日)
あらたまの年のはじめである。正月にふさわしく、格調高く明るい希望を語りたい。…とは思えども、なかなかそうはならない。結局は本日も、格調もなく楽しくもない話題を取りあげることになる。
「世界日報」が、12月31日付けで「22年の日本 保守の後退と民主主義の危機」と題する【社説】を書いている。統一教会の立場を代弁するものだが、自民党と安倍晋三を持ち上げつつも、関係断絶宣告されたことへの怨みを述べて、自民党にすがりつき抱きつこうとする姿勢を露わにしている。自業自得とは言え、自民党にとっては迷惑この上ない「深情け」であろう。
【社説】は、「7月8日、奈良市で起きた安倍晋三元首相暗殺は、日本の保守政治を大きく後退させ、民主主義をかつてない危機にさらすことになった」と断じる。しかし、「日本の保守政治を大きく後退させた」のは、安倍晋三銃撃それ自体ではない。安倍銃撃の動機として明るみに出た『統一教会と安倍・自民党との長年にわたる醜悪な癒着の実態』なのである。問題をすり替えてはいけない。
隠されていた保守政治の大きな汚点がようやく語られるようになって、実は、虚飾のイメージで国民の信頼と政権与党の地位を騙し取っていた自民党が、等身大の正体を現したというだけのことなのだ。「民主主義をかつてない危機にさらすことになった」は、見当外れも甚だしい。安倍晋三と自民党の正体が露見して、支持率が下がるのは「民主主義が健全に機能している証左」以外のなにものでもない。
また、【社説】は「脅かされる信教の自由」の小見出しで、「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みが動機であったとの容疑者の供述が警察から流されると、マスメディアの関心は旧統一教会叩(たた)きに集中した。一方的な中世の「魔女狩り」を思わせる報道によって形成された世論を意識して、岸田文雄首相は自民党と教団との関係断絶を宣言した」とも言う。
私は、「日本の報道は信頼するに値する」とも、「世論は常に正しい」とも思ってはいない。むしろ、日本の報道は権力や政権与党に甘く、その報道に誘導された日本の世論は適正な自民党や安倍晋三批判をなし得ないことを残念に思ってきた。その私の目からは、統一教会に対するメディアや世論の批判が『一方的な中世の魔女狩り』を思わせるものとはとうてい思えない。
さらに、【社説】は、「(岸田首相の)旧統一教会との絶縁宣言は、日本政治をワイドショー政治に堕としめるものである」とも言う。悔しさや怨みだけは伝わってくる。「今までさんざん利用しておいて、具合が悪いとなったらポイ捨てか」と言わんところは分からぬでもない。が、悲しいかな。この一文には、人を説得し、人に訴える何物もない。
【社説】は、安倍晋三を天まで持ち上げている。「『日本を取り戻す』を目標に、国家の安寧と民族の誇り回復のために活発に行動してきた安倍氏がいなくなったことで、保守政治は大きな柱を失った」「安倍氏亡き後、誰が日本を取り戻す主体となるのか、大きな課題である」という。なるほど、安倍晋三と統一教会、思想的には気の合った双子みたいな間柄。かくも一体、かくも紐帯が強いのだ。
そして、【社説】は本音を語る。「国会でも信教の自由の重みに対する認識を欠いた発言が、平然と飛び交うようになっているのは憂慮すべき状況だ」「政府は同教団への解散命令請求を視野に質問権を初めて行使したが、信教の自由をないがしろにすれば民主主義の基盤を揺るがす。日本を中国のような全体主義国家に転落させてはならない」と。
要するに、これまで統一教会には安倍晋三という強力な後ろ盾があった。安倍亡き後も、細田、下村、萩生田等々の頼むに足りるコアな同志的関係の政治家がいる。その支持をつなぎ止めておきたいのだ。そのための呪文が「シンキョウノジユウ」である。「シンキョウノジユウは民主主義の基盤である。だから、統一教会のシンキョウノジユウを貶める言動は、民主主義の基盤を揺るがす」という「論理」ないしは「屁理屈」。
全ての基本権は尊重されないが限界を有している。ヘイトスピーチは表現の自由(憲法21条)の限界を超えて許容されない。裁判を受ける権利(32条)の限界を超えたスラップの提訴は違法となる。信教の自由も、他の基本権に優越する特別の地位をもっているものではない。他者の基本権と衝突する局面での調整において限界を有する。
人の弱みに付け込んだ霊感商法の勧誘、非常識な高額寄附の要請、真意に基づいたと言えない婚姻の斡旋、未成年の子供の人権への配慮のない養子縁組…。どれもが、信教の自由の限界を超えたものとして違法たりうる。その指摘は、けっして「」民主主義の基盤を揺るがす」ものではなく、「中国のような全体主義国家への転落」を意味するものでもない。人権を大切に思う人々が、統一教会の所業を黙過してはならない。
(2022年11月28日)
真っ白い一枚の紙。
デモの市民の一人の手に、
高く掲げられたその紙の白さが、
万人の心を打つ。
万言の言葉を伝える。
この白い紙には、
どんな字も、どんな文章も書ける。
どんな形も、どんな色も描くことができる。
一番書きたい言葉は、
「自由!」
わけても「言論の自由」。
権力を批判する自由
独裁を弾劾する自由
言論統制に抵抗する自由
国旗への敬礼を拒否する自由
国歌斉唱の強制を無視する自由
不合理を不合理と指摘する自由
人間の尊厳を蹂躙する者への不服従の自由
しかし、なんという理不尽
今、この白い紙に、
書くべきことを書くことができない。
権力への批判も抵抗も、
罪になるのだという。
北京・上海だけのことではない。
香港でも、ロシアでも、
そしてそれ以外の、
野蛮な世界の各地でも。
だから、白紙をかざす人がまぶしい。
その決意のほどを受けとめよう。
その白い紙に込められた
万感の思いを汲みとろう。
権力に屈しない誇りある人々との
連帯を求めて。
(2022年9月8日)
猪瀬直樹が、朝日新聞社と三浦まり(上智大学教授)両名を被告に1100万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起した。一昨日(9月6日)のこと。これがスラップではないかと、話題になっている。
6月12日、東京・JR吉祥寺駅前で参院選の街頭演説の際、維新の応援弁士であった猪瀬が隣にいた東京選挙区の候補者海老沢由紀=落選=の肩や胸元付近を手で触っている動画が交流サイト(SNS)上に拡散した。この行為をセクハラと報じられたことによって名誉を傷つけられたとするのが、猪瀬の主張。猪瀬は同月17日、自身のツイッターで「軽率な面がありました」と投稿したそうだ。が、どこで気が変わったか、朝日とコメンテーターを訴えたのだ。
報道では、訴状では《 朝日新聞は6月17日付の電子版記事に、猪瀬の行為について「間違いなくセクハラではないでしょうか」などと批判する三浦のコメントを掲載した》とし、これが名誉毀損と主張されている。
朝日の電子版を見ると、問題とされたのは『「たとえ本人がよくても…」 演説中に女性触った猪瀬氏、その問題点』と題する記事。その中での三浦コメントの主要部分は次のとおりである。
「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか。その場では女性本人も拒絶することができない、そういう瞬間だったと思います。
今回の猪瀬氏は応援弁士の立場。応援してくれる人に対して、この立候補予定者は余計に立場が弱く、抗議しにくい背景があります。
(立候補予定の女性本人は16日午後、「まったく気にしてませんでした」「胸にあたってもいない」などとツイート)
たとえ、本人がよくても、見ていた人たち、特に若い女性にとっては、立候補しようとする人はセクハラを我慢しないといけないという誤ったメッセージになってしまいます。」
私は、このコメントを適切で立派なものと思う。このような言論を妨害してはならない。到底、違法を追及されるような内容ではない。しかし、猪瀬の主張は、《海老沢氏本人がセクハラではないとの見解を示していることなどから「三浦氏の発言は事実ではない」というもの》と報じられている。以上を前提に、猪瀬の提訴はスラップであるのか、そうではないのか。
スラップとは、法律用語ではない。法や訴訟が社会の中でどのような役割を果たしているのかについての言わば法社会学的な概念であって、厳密な定義があるわけではない。だが、正当な言論を萎縮せしめる効果を狙っての民事訴訟というダーティなイメージに満ちた用語ではある。
法的問題として捉える以前に、憲法感覚やジェンダー感覚、社会的良識が問われねばならない。国政選挙の女性候補者が、同じ政党の男性候補者の応援演説で、女性候補の身体を触るという奇妙な行為に及んだ。その不審で無神経な行為に「間違いなくセクハラではないでしょうか」という批判が果たして不適切だろうか。非難に値するものであろうか。
三浦コメントも指摘しているとおり、女性の身体を触ったのは、同じ党に所属する著名な年配の男性応援弁士。これにセクハラ抗議の声を上げることの困難さは言わずもがな。とすれば、この女性が猪瀬をかばってなんと言おうとも、猪瀬の行為を批判する言論は、適切なものでこそあれ、到底非難に値するものではない。
法的にはどうであろうか。猪瀬の行為は動画にも写真にも記録されている。隠しようも誤魔化しようもない。三浦は、その動画を観て、猪瀬の行為を「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか」と述べたのだ。
常識的には、「映像では、胸に触れていたように見えました」は《事実の摘示》で、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は《意見の表明》である。
名誉毀損訴訟では、《事実の摘示》と《意見ないし論評》の区別が重要になる。
これは、判例に定着している「公正な論評の法理」にもとづくもので、「名誉毀損記述」となる文章を「事実の摘示」と「論評(ないし意見)」とで構成されているとして、そのどちらかに区分する。裁判所の対応の姿勢は「事実摘示」の名誉毀損言論に対しては厳格であるが、「論評(ないし意見)」の表明には頗る寛容である。論評・意見の表明の自由は幅広く認められ、極端な人格攻撃をともなわない限り、論評(ないし意見)は自由と考えてよい。
事実の摘示としての「映像では、胸に触れていたように見えました」には、当該記述の「真実性」ないしは、真実であると信じたことの「相当性」が問われる。その立証あれば、違法性が阻却され、あるいは過失がないとして、請求は棄却されることになる。「映像では、胸に触れていたように見えました」の真実性立証が困難なはずはない。ましてや、相当性においておやである。
そして、「間違いなくセクハラではないでしょうか」は、「映像では、胸に触れていたように見えました」という真実たる事実を前提にした《意見の表明》であって人格攻撃の要素などもない。この部分の有責はあり得ない。
結局のところ、猪瀬側に勝ち目のない訴訟と評せざるを得ない。そのことを猪瀬自身が知らぬはずもない。ではなぜ、敢えて提訴か。自分に対する批判の言論に対する萎縮効果を狙ってのものと考えるしかない。これがスラップである。
むしろ本件は、明らかに法的・事実的な根拠を欠いた民事訴訟の提起とされる可能性が高い。猪瀬がその根拠を欠くことを知りながら提訴におよんだか、あるいは、通常人であれば容易にそのことを知り得たのに敢えて提訴におよんだと認定されれば、この民事訴訟提起自体が不法行為となり、猪瀬に損害賠償が命じられかねない。それが判例のとる立場である。
猪瀬は今、危ない橋を渡り始めたのだ。
(2022年7月10日)
DHCスラップ訴訟・DHCスラップ「反撃」訴訟では、多くの皆様に、お世話になりました。2014年4月に始まったこの訴訟。まずは私が被告にされた訴訟が、東京地裁から最高裁まで3ラウンドで私が勝訴し、さらに攻守ところを変えた「反撃」訴訟が、これも東京地裁から最高裁まで3ラウンド。合計6ラウンドの闘いで、全て私の完勝となりました。
この訴訟は、昨年1月に全て終了しましたが、その顛末をようやく一冊の書にまとめて、7月中に発刊の運びとなりました。既に、日本評論社のホームページに、「これから出る本」として紹介されています。「スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」という副題。弁護団長・光前幸一さんの丁寧な解説が付されています。
8年前の5月のある日、突然に理不尽なスラップを仕掛けられた当初に思ったことは、ともかくこの訴訟を勝ちきらねばならない、ということだけ。しかし、多くの人たちからのご支援を得て余裕ができてくると、これは私一人の問題ではないと実感するようになって思いは変わりました。
単に仕掛けられたスラップを斥けて良しとするのでは足りない。スラップ反撃の成功の実例を作らねばならない。そして、スラップを仕掛けた側に、典型的な失敗体験をさせなければならない。DHCと吉田嘉明に、「スラップなんかやってたいへんなことになってしまった。スラップなんかやるんじゃなかった」と反省させなければならない。そしてそのことを世に伝えなければならない。そう思うようになったのです。
この本の中では、DHC・吉田嘉明に「スラップの成功体験をさせてはならない」と書いたのですが、本当のところは「スラップの失敗体験をさせなくてはならない」という決意でした。
まずは、自分の言論を萎縮してはならないという思いから、「澤藤統一郎の憲法日記」に、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを猛然と書き始め、これは既に第200彈を超えています。そして、反撃訴訟を提起して、これも勝ちきることができました。DHC製品の不買運動も呼びかけています。私の思いはほぼ達成できたとの満足感があります。
残るのは訴訟の顛末を世に報告するということ。この書の出版によって、ようやく重荷を下ろすことになりそうです。多くの人に支えられ、多くの人を頼っての勝利であって、私はこの間誰よりも幸せな被告であり原告であり続けました。これは私が恵まれた立場にあったからですが、それだけに、スラップへの対抗例を報告しなければならないと思い、読みやすい形でまとめることができたと思います。
この書を、スラップ批判の世論を形成するために広めていただき、さらには実践的なスラップ対応テキストとしてご活用いただけたらありがたいと思っています。
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「DHCスラップ訴訟 ー スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」
著者 澤藤統一郎
予価:税込 1,870円(本体価格 1,700円)
発刊年月 2022.07(中旬)
ISBN 978-4-535-52637-2
判型 四六判 256ページ
内容紹介
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。
目次
はじめに
第一部 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1部解説】DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価……光前幸一
第二部 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2部解説】DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義……光前幸一
第三部 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3部解説】スラップ訴訟の現状と今後……光前幸一
あとがき
資料
DHCスラップ訴訟|日本評論社 (nippyo.co.jp)