澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

これが国際社会の良識から見た「日本の言論・表現の自由の惨状」だーデービッド・ケイの暫定調査結果を読む

安倍内閣発足以来、日本の言論・表現の自由は、惨憺たるありさまとなっている。
ほかならぬNHK(NEWS WEB)が、「報道の自由度 日本をはじめ世界で『大きく後退』」と報じている。本日(4月20日)の以下の記事だ。

「パリに本部を置く「国境なき記者団」は、世界各国の「報道の自由度」について、毎年、報道機関の独立性や法規制、透明性などを基に分析した報告をまとめランキングにして発表しています。4月20日発表されたランキングで日本は、対象となった180の国と地域のうち72位と、前の年の61位から順位を下げました。これについて「国境なき記者団」は、おととし特定秘密保護法が施行されたことなどを念頭に、「漠然とした範囲の『国家の秘密』が非常に厳しい法律によって守られ、記者の取材を妨げている」と指摘しました。」

日本は180国の中の72位だという。朝日は、「日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、14年は59位、15年は61位だった。今年の報告書では、『東洋の民主主義が後退している』としたうえで日本に言及した。」と報じた。アベ政権成立のビフォアーとアフターでこれだけの差なのだ。

ところで、72位? 昨年から順位を下げたとはいえ、まだ中位よりは上にある? 果たして本当だろうか。この順位設定の理由は、「特定秘密保護法が施行されたこと」としか具体的理由を挙げていない。しかし、実はもっともっと深刻なのではあるまいか。

昨日(4月19日)、日本における言論・表現の自由の現状を調べるため来日した国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が、記者会見して暫定の調査結果を発表した。英文だけでなく、日本語訳も発表されている。その指摘の広範さに一驚を禁じ得ない。この指摘の内容は、到底「言論・表現の自由度順位72位」の国の調査結果とは思えない。

最も関心を寄せたテーマが、放送メディアに対する政府の「脅し」とジャーナリストの萎縮問題。次いで、特定秘密保護法による国民の知る権利の侵害。さらに、慰安婦をめぐる元朝日記者植村隆さんへの卑劣なバッシング。教科書からの慰安婦問題のが削除。差別とヘイトスピーチの野放し。沖縄での抗議行動に対する弾圧。選挙の自由…等々。

ケイ報告についての各メディアの紹介は、「特定秘密の定義があいまいと指摘」「特定秘密保護法で報道は萎縮しているとの見方を示し」「メディアの独立が深刻な脅威に直面していると警告」「ジャーナリストを罰しないことを明文化すべきだと提言」「政府が放送法を盾にテレビ局に圧力をかけているとも批判」「政府に批判的な記事掲載の延期や取り消しがあつた」「記者クラブ制度は廃止すべき」「ヘイトスピーチに関連して反差別法の制定も求めた」などとされている。また、「(当事者である)高市早苗総務相には何度も面会を申し入れたが会えなかった」という。政府が招聘した国連の担当官の求めがあったのに、担当大臣は拒否したのだ。

今回が初めてという国連特別報告者の日本調査。あらためて、日本のジャーナリズムの歪んだあり方を照らし出した。これから大きな波紋を起こすことになるだろう。

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国連報告者メディア調査 詳報に若干のコメントを試みたい。()内の小見出しは、澤藤が適宜付けたもの。

【メディアの独立】
(停波問題)
「放送法三条は、放送メディアの独立を強調している。だが、私の会ったジャーナリストの多くは、政府の強い圧力を感じていた。
 政治的に公平であることなど、放送法四条の原則は適正なものだ。しかし、何が公平であるかについて、いかなる政府も判断するべきではないと信じる。
 政府の考え方は、対照的だ。総務相は、放送法四条違反と判断すれば、放送業務の停止を命じる可能性もあると述べた。政府は脅しではないと言うが、メディア規制の脅しと受け止められている。
 ほかにも、自民党は二〇一四年十一月、選挙中の中立、公平な報道を求める文書を放送局に送った。一五年二月には菅義偉官房長官がオフレコ会合で、あるテレビ番組が放送法に反していると繰り返し批判した。
 政府は放送法四条を廃止し、メディア規制の業務から手を引くことを勧める。」

事態をよく把握していることに感心せざるを得ない。放送メデイアのジャーナリストとの面談によって、政府の恫喝が効いていることを実感したのだろう。また、安倍政権の権力的な性格を的確にとらえている。権力的な横暴が、放送メデイアの「自由侵害のリスクある」というレベルではなく、「自由の侵害が現実化」しているという認識が示されている。危険な安倍政権の存在を前提にしての「放送法四条廃止」の具体的な勧告となっている。

(「記者クラブ」「会食」問題)
「日本の記者が、独立した職業的な組織を持っていれば政府の影響力に抵抗できるが、そうはならない。「記者クラブ」と呼ばれるシステムは、アクセスと排他性を重んじる。規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し、密接な関係を築いている。」

権力と一部メディアや記者との癒着が問題視されている。癒着の原因となり得る「記者クラブ」制度が批判され、「規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し密接な関係を築いている」ことが奇妙な図と映っているのだ。これを見れば、72位のレベルではなかろう。二ケタではなく三ケタの順位が正当なところ。

(自民党改憲案批判)
「こうした懸念に加え、見落とされがちなのが、(表現の自由を保障する)憲法二一条について、自民党が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との憲法改正草案を出していること。これは国連の「市民的及び政治的権力に関する国際規約」一九条に矛盾し、表現の自由への不安を示唆する。メディアの人たちは、これが自分たちに向けられているものと思っている。」

この指摘は鋭い。自民党・安倍政権のホンネがこの改憲草案に凝縮している。政権は、こんなものを公表して恥じない感覚が批判されていることを知らねばならない。

【歴史教育と報道の妨害】
(植村氏バッシング問題)
「慰安婦をめぐる最初の問題は、元慰安婦にインタビューした最初の記者の一人、植村隆氏への嫌がらせだ。勤め先の大学は、植村氏を退職させるよう求める圧力に直面し、植村氏の娘に対し命の危険をにおわすような脅迫が加えられた。」

植村さんを退職させるよう求める圧力は、まさしく言論の自由への大きな侵害なのだ。この圧力は、安倍政権を誕生させた勢力が総がかりで行ったものだ。植村さんや娘さんへの卑劣な犯罪行為を行った者だけの責任ではない。このことが取り上げられたことの意味は大きい。

(教科書検定問題)
「中学校の必修科目である日本史の教科書から、慰安婦の記載が削除されつつあると聞いた。第二次世界大戦中の犯罪をどう扱うかに政府が干渉するのは、民衆の知る権利を侵害する。政府は、歴史的な出来事の解釈に介入することを慎むだけでなく、こうした深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない。」

安倍晋三自身が、極端な歴史修正主義者である。「自虐史観」や「反日史観」は受容しがたいのだ。ケイ報告は、政府に対して、「歴史的な出来事の解釈に介入することを慎む」よう戒めているだけでない。慰安婦のような「深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない」とまで言っているのだ。

【特定秘密保護法】
(法の危険性)
「すべての政府は、国家の安全保障にとって致命的な情報を守りつつ、情報にアクセスする権利を保障する仕組みを提供しなくてはならない。しかし、特定秘密保護法は、必要以上に情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす。」

特定秘密保護法は、情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす、との指摘はもっともなこと。「市民の関心が高い分野」だけではなく、「国民の命運に関わる分野」についても同様なのだ。

(具体的勧告)
「懸念として、まず、秘密の指定基準に非常にあいまいな部分が残っている。次に、記者と情報源が罰則を受ける恐れがある。記者を処分しないことを明文化すべきで、法改正を提案する。内部告発者の保護が弱いようにも映る。」
「最後に、秘密の指定が適切だったかを判断する情報へのアクセスが保障されていない。説明責任を高めるため、同法の適用を監視する専門家を入れた独立機関の設置も必要だ。」

もちろん、法律を廃止できれば、それに越したことはない。しかし、最低限の報道の自由・知る権利の確保をという観点からは、「取材する記者」と「材料を提供する内部告発者」の保護を万全とすべきとし、秘密指定を適切にする制度を整えよという勧告には耳を傾けなくてはならない。

【差別とヘイトスピーチ】
「近年、日本は少数派に対する憎悪表現の急増に直面している。日本は差別と戦うための包括的な法整備を行っていない。ヘイトスピーチに対する最初の回答は、差別行為を禁止する法律の制定である。」

これが、国際社会から緊急に日本に求められていることなのだ。

【市民デモを通じた表現の自由】
「日本には力強く、尊敬すべき市民デモの文化がある。国会前で数万人が抗議することも知られている。それにもかかわらず、参加者の中には、必要のない規制への懸念を持つ人たちもいる。
 沖縄での市民の抗議活動について、懸念がある。過剰な力の行使や多数の逮捕があると聞いている。特に心配しているのは、抗議活動を撮影するジャーナリストへの力の行使だ。」

政府批判の市民のデモは規制され、右翼のデモは守られる。安倍政権下で常態となっていると市民が実感していることだ。とりわけ、沖縄の辺野古基地建設反対デモとヘイトスピーチデモに対する規制の落差だ。デモに対する規制のあり方は、表現の自由に関して重大な問題である。

【選挙の規制】 (略)
【デジタルの権利】 (略)

さて、グローバルスタンダードから見た日本の実情を、よくぞここまで踏み込んで批判的に見、提言したものと敬意を表する。指摘された問題点凝視して、日本の民主運動の力量で解決していきたいと思う。

但し、残念ながら、二つの重要テーマが欠けている。一つは、学校儀式での「日の丸・君が代」敬意強制問題。そして、もう一つがスラップ訴訟である。さらに大きく訴えを続けること以外にない。

国境なき記者団もこの報告書を読むだろう。さらには、来年(17年)国連人権理事会に正式提出される予定の最終報告書にも目を通すだろう。そうすれば、72位の順位設定が大甘だったと判断せざるを得ないのではないか。来年まで安倍政権が続いていれば、中位点である90位をキープするのは難しいこととなるだろう。いや、市民社会の民主主義バネを働かせて、安倍政権を追い落とし、72位からかつての11位までの復帰を果たすことを目標としなければならない。
(2016年4月20日)

南京大虐殺の日に「中国一撃論」を考える。これは抑止論と同根の思考ではないか。

12月13日である。世界に「南京アトロシティ」(大虐殺)として知られた恥ずべき事件が勃発した日。笠原十九司「南京事件」(岩波新書)と、石川達三「生きている兵隊」(中公文庫)、そして家永三郎「太平洋戦争」に改めて目を通してみる。累々たる、殺戮・略奪・破壊・強姦の叙述。これが私の父の時代に、日本人が実際にしでかしたことなのだ。陰鬱な冬の雨の日に、まったくやりきれない気分。しかし、歴史に目を背け、過去に盲目であってはならないと自分に言い聞かせる。

同時に思う。今日は、中国の民衆も78年前のこの日の事件を、怒りと怨嗟の入りまじった沈痛な気持で想い起こしていることだろう。昨年からは、今日が「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」となった。足を踏まれた側の心情の理解なくして、友好は生まれない。不再戦の固い誓いもなしえない。

笠原十九司の次の指摘が重要だと思う。
「中国では、南京事件は新聞報道だけでなく口コミを通じてやがて中国人全体に知られた。中国国民政府軍事委員会は写真集『日寇暴行実録』を発行(38年7月)して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。とくに日本軍の中国女性にたいする凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心をわきたたせ、大多数の民衆を抗日の側にまわらせ、対日抵抗戦力を形成する源泉となった。当時の日本人が軽視ないし蔑視していた中国民衆の民族意識と抗戦意志は、さらに発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、日本軍がひきおこした暴虐事件は、中国を屈伏させるどころか、逆に抗日勢力を強化・結束させる役割をはたしたのである。

松井岩根や武藤章(いずれも、東京裁判で絞首刑)は、「中国一撃論」の立場をとった。
「支那は統一不可能な分裂的弱国であって、日本が強い態度を示せばただちに屈従する。この際、支那を屈服させて北支五省を日本の勢力下に入れ、満州と相まって対ソ戦略態勢を強化する…願ってもない好機の到来」「首都南京さえ攻略すれば支那はまいる」というもの。

現地の高級軍人の功名心が戦線不拡大方針だった大本営の意向を無視した。11月19日上海派遣軍は独断で上海から南京へ300キロ余の進軍を開始し、さらに上海にとどまるよう命令を受けていた中支那方面軍もこれに続く。首都への一撃で、日中戦争は終わる、との甘い見通しに基づいてのことである。日本のメディアも、南京が日中戦争のゴールであるかの如く喧伝し、国民もその煽動に乗った。そして12月1日、大本営も方針を転換して南京攻略を是認した。

南京は陥落した。国内は提灯行列で沸き返った。しかし、そのとき、国民政府の首都は既に長江を遡った武漢に移っていた。その後首都はさらに奥地の重慶に移ることになる。何よりも、南京攻略の一撃で、中国の戦意を挫くことはできなかった。

「一撃論」は空論に終わった。大失敗の空振りに終わった、というにとどまらない。取り返しようのない誤りを犯したのだ。内地の日本人が知らぬうちに南京大虐殺が起こり、そのニュースが世界に日本軍の残虐性・野蛮性を深く印象づけていた。やがて日本は世界からその報復を受けることになる。

「一撃論」は、「抑止論」と連続した思考である。「抑止論」が「強大な軍事力を持つことで敵国の攻撃意欲を失わしめて自国の安全を保持する」と発想するのと同様に、「一撃論」は「強大な軍事力行使によって敵国の戦闘持続の意欲を失わしめて早期に戦争を終結させる」という理屈なのだ。軍事力の積極的有効性を説く立論として同根のものではないか。どちらも、自国の強大な軍事力が、相手国を制圧することによって自国の安全が保持されるという考え方。だがどちらも、相手国の敵愾心を煽りたて、却って自国の安全を害することになる危険な側面を忘れてはいないだろうか。

南京攻略の「一撃論」は、強大な軍事力の集中行使で中国の戦意を挫くことができると考えたが、現実の結果は正反対のものとなった。

「それ(南京大虐殺)はまさに、日本の歴史にとって一大汚点であるとともに、中国民衆の心のなかに、永久に消すことのできぬ怒りと恨みを残していることを、日本人はけっして忘れてはならない。」「この南京大虐殺、特に中国女性に対する陵辱行為は、中国民衆の対日敵愾心をわきたたせ、中国の対日抵抗戦力の源泉ともなった。」(藤原彰)
との指摘のとおりである。

平和を維持するための教訓として、一撃論・抑止論の思想を克服しなければならないと思う。

なお、この事件の報道についての内外格差に慄然とせざるを得ない。
「南京アトロシティ」は、当時現地にいた欧米のジャーナリストや民間外国人から発信されて世界を震撼させた。しかし、情報管理下にあったわが国の国民がこれを知ったのは、戦後東京裁判においてのことである。」

「当時の日本社会はきびしい報道管制と言論統制下におかれ、日本の大新聞社があれほどの従軍記者団を送って報道合戦を繰りひろげ、しかも新聞記者の中には虐殺現場を目撃した者がいたにもかかわらず、南京事件の事実を報道することはしなかった。また、南京攻略戦に参加した兵士の手紙や日記類もきびしく検閲され、帰還した兵土にたいしても厳格な箝口令がしかれ、一般国民に残虐事件を知らせないようにされていた。さらに南京事件を報道した海外の新聞や雑誌は、内務省警保局が発禁処分にして、日本国民の眼にはいっさい触れることがないようにしていた。」

「南京事件は連合国側に広く知られた事実となり、日本ファシズムの本質である侵略性・残虐性・野蛮性を露呈したものと見なされた。東京裁判で、日中戦争における日本軍の残虐行為の中で南京事件だけが重大視して裁かれたのは、連合国側の政府と国民が、リアルタイムで事件を知っており、その非人道的な内容に衝撃を受けていたからであった。」(以上、笠原)

まことに、戦争は秘密を必要とするのだ。また、秘密は汚い戦争をも可能とする。今日はいつにもまして、戦争法と特定秘密保護法とが、また再びの凶事招来の元凶になるのではないかと、暗澹たる気持にならざるを得ない。冬の冷雨の所為だけではない。

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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。

その第1回口頭弁論期日は、
 クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
 法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月13日・連続第987回)

「南無十万の火の柱」 ? 東京大空襲70周年

本日の東京新聞「平和の俳句」を心して読む。
    三月十日南無十万の火の柱

70年前の今日、東京が地獄と化した惨状をつぶさに目にした古谷治さん(91歳)の鎮魂の一句。
東京新聞は、古谷さんを取材して、「黒焦げの骸 鎮魂の一句」「戦争を知る世代の使命」という記事を掲載している。その記事の中に、「古谷さんは戦後、中央官庁の役人として働き、政治家を間近で見てきた。今、戦争を知らない世代の政治家たちが国を動かすことに『坂道を転げ落ちていくような』不安を覚える。」とある。そして、古谷さん自身の次の言葉で結んでいる。

「戦争を知っているわれわれが、暴走しがちな『歯車』を歯を食いしばって止めないとどうなるのか。その使命の重大さ、平和のありがたさをかみしめて、鎮魂の一句をささげた」

日露戦争後、3月10日は陸軍記念日であった。1945年の陸軍記念日の早暁、テニアン・サイパンから飛来した325機のB29爆撃機が東京を襲った。超低高度で人家密集地に1600トンの焼夷弾の雨を降らせた。折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。死者10万、消失家屋27万、被災者100万に上ったと推計されている。これが、3時間足らずのできごとである。防空法と隣組制度で逃げれば助かった多くの人命が奪われた。

東京大空襲訴訟の証言で、早乙女勝元さんが甚大な被害の理由をこう解説している。
「1番目は退路のない独特の地形です。東京の下町は荒川放水路と、隅田川に挟まれて無数の運河で刻まれた所。2番目はその夜の気象状況にあったと思います。春先の猛突風が9日の夜から吹き荒れていて、火が風を呼び、風が火を呼ぶという乱気流状態になったことが挙げられましょう。そして3番目は防空当局のミスであります。ミスといいますのは、空襲警報が鳴らないうちに空襲が始まっております。4番目は‥、昭和18年に内務省が改訂版で『時局防空必携』というのを各家庭に配りました。それを守るべしということですが、1ページ目を開きますとこう書いてあります。『私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります』と。国は東京都民を戦士に仕立てあげたんではないのでしょうか。そういうことが大きな人的被害を生む理由になったのではないかと考えます。」

多くの都民が、命令され洗脳されて、文字どおり「持ち場を守って命を投げ出した」のだ。

同じ証言で、早乙女さんはこうも述べている。
「3月10日の正午になりますと、焼け残りの家のラジオは大本営発表を告げました。公式の東京大空襲の記録といっていいのですが、翌日の新聞にももちろん出ております。その中でたいそう気になりますのは、次の1節であります。『都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮(しゅめりょう)は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり』。100万人を超える罹災者とおよそ10万人の東京都民の命は、『其の他』の三文字でしかありませんでした。戦中の民間人は民草と呼ばれて、雑草並みでしかなかったと言えるかと思います。残念ながら、大本営発表の、『其の他』は戦後に引き継がれまして、今、被災者遺族の皆さんは私を含めて高齢ですけれども、旧軍人、軍属と違って、国からの補償は何もなく、今日のこの日を迎えています。国民主権の憲法下にあるまじき不条理であります。法の下に平等の実現を願っております。」

大日本帝国の公式発表は、10万の都民の命よりも皇室の馬小屋の方に関心を示したのだ。こうして、1945年の陸軍記念日は、「我が陸軍の誉れ」の終焉の日となった。それでも、この日軍楽隊のパレードは実行されたという。

無惨に生を断ち切られた10万の死者の無念、遺族の無念に、黙祷し合掌するしかない。空襲の犠牲者は、英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることもない。それどころか、戦後の保守政権はこの大量殺戮の張本人であるカーチス・ルメイに勲一等を与えて、国民の神経を逆撫でにした。広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと祈りと怒りと理性が、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。安倍政権がこれに背を向けた発言を繰り返していることを許してはならない。今日は10万の死者に代わってその決意を新たにすべき日にしなければならない。

たまたまドイツのメルケル首相が来日中である。共同記者会見でメルケルと安倍がならんだ。同じ敗戦国でありながら、罪を自覚し徹底した謝罪によって近隣諸国からの信頼を勝ち得た国と、しからざる国の両首相。それぞれが国旗を背負っている。

1940年、日独伊三国同盟が成立したとき、並んだ旗はハーケンクロイツと日の丸であった。戦後、ドイツは、ハーケンクロイツから黒・赤・金の三色旗に変えた。日本は、時が止まったごとくに70年前の「日の丸」のままである。変えた旗と変えない旗。この旗の差が、日独両国の歴史への対峙の姿勢の差を物語っている。

さて、東京大空襲70年後のこの事態である。火の柱となった十万の魂は鎮まっておられるのだろうか。
(2015年3月10日)

「文官統制」という「文民統制の中心手段」をなくしてはならない

昨日(3月6日)、防衛庁設置法改正案が閣議決定され、同日国会上程された。その内容は、防衛省内の「文官統制」を廃止するというもの。ややわかりにくい。私も、先日の日民協の学習会で、小澤隆一さんや内藤功さんからこの問題を指摘されるまでよく飲み込めていなかった。

「文官統制」とは憲法原則でもなければ、世界共通の理念ではない。我が国独特の、防衛庁時代からの省(庁)内自衛隊コントロール・ルールだ。防衛省は、文官(背広組)と、幕僚監部(制服組)とから成っている。この関係は、従来文官が圧倒的に優位で、自衛隊側から見ると「背広にあごで使われていた」(毎日)ということのようだ。この文官優位のシステムが「文官統制」。文官優位には、制服組の不満がくすぶってきた。今回の法改正はこの不満を解消するためのものという。

文官統制の位置づけは、朝日が紹介している1970年4月の佐藤栄作発言が分かり易い。
「自衛隊のシビリアンコントロールは、国会の統制、内閣の統制、防衛庁内部の文官統制、国防会議の統制による四つの面から構成される制度として確立されている」

また、政府が2008年にまとめた報告書でも、日本独特のあり方として、「防衛庁内部部局が自衛隊組織の細部に至るまで介入することが、文民統制の中心的要素とされてきた」と認めていた(朝日)。

自衛隊に対するシビリアンコントロール(=文民統制)を防衛庁(省)のレベルで担保するものとしてきたのが「文官統制」で、これは自衛隊発足(1954年)後一環した保守政権の方針だった。この度の改正案は、これを撤廃しようというもの。防衛省内の文官優位は崩れ、背広組と制服組とは対等になる。具体的には、制服組は文官の監督や指示から離脱して、自衛隊の部隊運営については文官の承認なしに、直接防衛大臣を補佐することになる。機動的な隊の運用は文官を通さずにおこなわれることが通例になるのかも知れない。

言うまでもなく、軍とは取扱いのやっかいな危険物である。とりわけ戦前の皇軍は、文民統制を嫌ってしばしば暴発して、政党政治や議会制度を破壊し、さらには国家の存立を崩壊せしめた。その弊を除くためのシビリアンコントロール(文民統制)である。

もっとも日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。だから、憲法に文民統制の在り方が具体的に書き込まれてはいない。「自衛隊は違憲でない」「自衛隊は危険ではない」と力説しなければならない立場にあった自衛隊成立直後の政権は、自衛隊を厳重にシビリアンコントロールされているもので危険性のないものと説明しなければならなかった。その説明材料の一つが「防衛庁内における文官統制」であった。今、厳重なシビリアンコントロールを説明する必要はなくなったとして、文官統制をなくそうとしているのだ。

オリンピック誘致の時は、「放射能は、完全にコントロールされ、ブロックされています」と言わなければならないが、決まってしまえば知らん顔。あのやり口とよく似ている。

このような政策転換の際に政府の意図を読み取るには、産経社説を読むのが手っ取り早い。政府広報紙であり、政府の意図忖度広報紙でもあるのだから。

本日(3月7日)の産経社説は、「制服組と背広組 自衛隊の力生かす運用を」というもの。

「内局官僚が自衛官に指示・監督する「文官統制」の弊害を是正する措置が、ようやく取られることになった。」
これまでの文官優位のシビリアンコントロールを「弊害」と言うのが産経の立場。産経が「弊害」と言っているのだから、大切にしなければならない制度であることは当然である。

「政府は防衛相を補佐する上で防衛省の内局(背広組)と自衛隊の各幕僚監部(制服組)を対等に位置づける同省設置法改正案を閣議決定した。自衛隊の実際の部隊運用について、制服組のトップである統合幕僚長が防衛相を直接補佐する仕組みが整う。これまでは、部隊を動かす専門家ではない文官が、陸海空の自衛隊の運用などに指示・承認を行うことが認められていた。」
そもそもシビリアンコントロールとは、軍事専門家でない文官が軍を監督し統制することなのだ。軍を運営する効率よりも、その暴発を幾重にもチェックすることの方が重要だという考え方にもとづく。自衛隊トップの統合幕僚長といえども、内局に呼び出されて説明を要求されることが必要なのだ。

「法改正で、自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れるようになる意義は大きい。防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態にも対応できる。実現を急いでほしい。」
シビリアンコントロールを弱体化することを「自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れる」というのだから恐れ入る。防衛出動にも、慎重を要するグレーゾーン事態への対応にも、シビリアンコントロールを嫌う自衛隊の立場を代弁しているのだ。

「これまでの「文官統制」を評価する立場から、今回の見直しは文民統制を弱めるとの指摘もあるが、それはおかしい。有権者が選んだ政治家が、実力組織である自衛隊をコントロールし、政治が軍事に対する優位を保つ。文民しか就けない首相や防衛相が自衛隊を指揮監督し、国会は予算や法制面からチェックする。こうした原則は、法改正後もまったく変わらない。」
産経のいうことこそ、明らかにおかしい。「今回の見直しが文民統制を弱めるとの指摘」は否定しようもない。産経が言えるのは、「今回の防衛省設置法改正が実現した場合の『文官統制撤廃』は、文民統制を弱めるものではある。しかし、文官統制だけが文民統制のすべてではないのだから、文民統制がなくなったとは言えない」との範囲のこと。そうは言えても、「文民統制の中心的要素」とまで言われた、シビリアンコントロールの重要な制度を失うことの危険ははかり知れない。

産経のいうとおり、「防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態への対応」を急ぎたいことからの法改正案の提出である。産経が「実現を急いでほしい」と言っているのだから、集団的自衛権行使容認の動きと一体となった危険な改正案であることには疑いの余地がない。

しかも、強く警戒すべきは、「緊急を要する防衛出動やグレーゾーン事態への対応」のすべてに特定秘密保護法の、情報秘匿の網がかけられることである。

違憲なはずの自衛隊が、次第に大手を振って一人前の軍隊としての体裁を整えようとしている。今回の改正案上程も、その重要なステップの一つとして強く反対せざるを得ない。そして、自衛隊への運用に対するコントロールは何よりも国民の目でおこなわねばならない。

それにつけても、特定秘密保護法の罪の深さを嘆かざるを得ない。
(2015年3月7日)

「イスラム国人質救援活動と特定秘密保護法」憲法学習会にて

「根津・千駄木憲法問題学習会」は、毎月1回の例会を10年間も継続していらっしゃるとのこと。その地道な活動に敬意を表します。

本日は、2月の例会に特定秘密保護法の問題点についてお話しするようお招きを受けました。自分なりに、考えていることをお話しさせていただきます。

☆本日の「毎日」新聞投書欄に『謙虚な気持ちで名誉挽回を』という60歳男性の投稿があります。
「ウクライナ東部の停戦合意…これこそ外交、これこそ政治家…。対照的なのが、イスラム過激派組織『イスラム国』人質事件での日本政府の対応のお粗末さだ。有効な手立てもなく、交渉力ゼロ、有能な政治家ゼロの実態を世界にさらけ出してしまった。安倍首相の施政方針演説も説得力に乏しく、上すべりしているように感じられる。まずは事件を総括して、非があれば隠さず、国民の批判を仰ぎ、謙虚な気持ちで名誉挽回の道を歩み出すべきだ」

日本中の誰もの思いをズバリと代弁してくれた感があります。不祥事が起こったときには、
  事実検証→総括→公表→批判→政策の改善→次の選挙での審判
というサイクルが作動しなければなりません。さて今回、はたしてこのサイクルが有効に作動するでしょうか。

大切なことは、この検証の過程が国民の目に見えるよう保障すべきこと。主権者国民は、暫定的に権限を負託した政府の行為を監視し批判しなければなりません。これに、障碍として立ちふさがるのが、あらたに施行となった特定秘密保護法。これまでは、言わば机上の空論だったのですが、今回初めて現実の素材が提供されたことになります。

既に、「岸田文雄外相は2月4日の衆議院予算委員会で、中東の過激派「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、特定秘密保護法の対象となる情報がありうるとの認識を示した」と報じられています。

改めて、この間にシリアで起きたことを思い起こして、特定秘密保護法の別表とを見比べてください。「法」別表の第1号(防衛に関する事項)はともかく、第2号(外交関連)、第3号(特定有害活動=スパイ防止)、第4号(テロ防止)のいずれにも該当する可能性は極めて大きいといわざるを得ません。しかも、そのどれに該当するかも、指定があったかも明らかにされることはないのです。

権力の源泉は情報の独占にあります。政権を担う者は、常に情報を私物化し操作したいとの衝動をもちます。だから、情報の公開を義務づけることこそが重要なので、秘密保護法制は合理的で不可欠な、厳格に最低限度のものでなくてはなりません。

特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」ということです。そして、「情報から遮断される国民」には、国会議員も裁判官も含まれるのです。

これは民主々義・立憲主義の思想ではありません。国民は、いかなる政府も猜疑の目で監視しなければなりません。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはなりません。

情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」です。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。歴史を見れば明白ではありませんか。

☆特定秘密保護法の前史について、おさらいしておきたいと思います。
戦前の軍機保護(防牒)関係法として、国防保安法・軍機保護法・陸軍刑法・海軍刑法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などがありました。また、基本法である「刑法」の第83?86条が「通謀利敵罪」を規定していました。その他、治安維持法・出版法・治安警察法・無線電信法などが治安立法として猛威を振るいました。

ゾルゲと尾崎は、国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法の4法違反に問われて死刑となりました。なかでも、「最終形態としての国防保安法」(1941)は、軍事のみならず政治・経済・財政・外交の全過程を権力中枢の「国家機密」として「治安」を維持しようとするものでした。今回の特定秘密保護法は、処罰範囲の広さにおいてこれに似ています。

戦前の軍事機密法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものでした。「戦争は秘密から始まる」とも、「戦争は軍機の保護とともにやって来る」と言ってもよいと思います。

日本の国民は、敗戦によって身に沁みて知ることになりました。国民には正確な情報を知る権利がなければなりません。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障しました。これはメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の「真実を知る権利」を保障したものであります。

民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっていますが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要です。そのためには、国民が正確な情報を知らなければなりません。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがします。戦前のNHKは、その積極的共犯者でした。

戦後の保守政治は、憲法改正を願望としただけでなく、戦前への復帰の一環として、防諜法制の立法化を企図し続けました。

たとえば、1958年自民党治安対策特別委員会「諜報活動取締法案大綱」、1961年「刑法改正準備草案」スパイ罪復活案、そして1985年国家秘密法(スパイ防止法)案上程の経過があります。国家秘密法案は、国民的な反撃でこれを廃案に追い込みましたが、その後の作土は続きました。

そして、特定秘密保護法制定の動きにつながります。2011年8月8日の「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議報告」が発端となりました。第二次安倍政権が、これを法案化して上程、2013年12月6日に強行採決して成立に持ち込みます。そして、2014年12月10日施行となりました。

☆特定秘密保護法は、戦前の軍事機密法・治安法の役割を果たすものです。
問題点として指摘されるのは、重罰化、広範な処罰、要件の不明確、秘密取扱者の適性評価などです。

何よりも、重罰による「三猿化」強制強化が狙いです。内部告発の抑止ともなります。
これまでの国家(地方)公務員法違反(秘密漏示)の最高刑が懲役1年です。自衛隊法の防衛秘密漏洩罪でも懲役5年。これに対して、特定秘密保護法違反の最高刑は懲役10年。しかも、未遂も過失も処罰します。共謀・教唆・扇動も処罰対象です。将来、更に法改正で重罰化の可能性もあります。

気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、未遂で終わっても、犯罪となり得ます。民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」の制度では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できることです。国民はこれを検証する手段をもちません。国会も、裁判所もです。

さらに、国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制に宿命的な罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との矛盾です。地雷は踏んで爆発して始めてその所在が分かります。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。起訴されてはじめて、秘密に触れていたことが分かるのです。

国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為であります。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなります。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害します。人権が危うくなります。

法律は、国会で改正も廃止もできます。超党派の議員での特定秘密保護法廃止法案は昨年(2014年)11月に国会に提出されています。これを支援する国民運動の展開が期待されます。小選挙区下での現行の国会情勢では直ぐには実現できないかも知れません。しかし、訴え続け、運動を継続していくことが大切で、その運動次第で、運用は変わってくるはずです。ジャーナリストが最前線に立たされていますが、国民運動はその背中を押し、支えて励ますことによって確実に萎縮を減殺することができるはずです。

ジャーナリストの萎縮は、国の運命を左右する最重要な情報について、国民の知る権利を侵害することになり、国民に取り返しのつかない被害をもたらすことになりかねません。

まずは、学ぶことから、そして考え話し合うことから始めようではありませんか。
(2015年2月18日)

人質事件の首相責任解明に特定秘密保護法の壁

毎日の「万能川柳」欄の充実ぶりはたいしたものだが、欠点は「遅い」こと。選考に手間取るのだろうが、投句から掲載までの期間が長く、句によっては鮮度が落ちてしまう。その点、「朝日川柳」の鮮度は高い。

本日の掲載句中に、鮮度命の以下のものが見える。
  壮士かと思えばわしらの安倍首相  (埼玉県 椎橋重雄)
  好きですね「私が最高責任者」    (神奈川 桑山俊昭)
  知っていて蛮勇奮い歴訪し      (東京都 大和田淳雄)

川柳子の明言はないが、「蛮勇奮って歴訪中」の「壮士風言動」が、日本人2人の命を奪うことになったのではないか。「わしらの安倍首相」の「最高責任者」としての言動のあり方が厳しく問われねばならない。

首相官邸のホームページに、「1月17日 『日エジプト経済合同委員会合』における安倍首相の政策スピーチ」の動画がアップされている。スピーチ全文も起こされて掲載されている。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0117speech.html

標題からもわかるとおり、経済人を引き連れての中東歴訪であり、経済的な交流を主目的とする会合でのスピーチである。かなりの長文だが、言わずもがなの「壮士風の蛮勇」をひけらかしたのは、下記の部分である。

「今回私は、「中庸が最善(ハイルル・ウムーリ・アウサトハー)」というこの地域の先人の方々の叡智に注目しています。「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー」、伝統を大切にし、中庸を重んじる点で、日本と中東には、生き方の根本に脈々と通じるものがあります。
この叡智がなぜ今脚光を浴びるべきだと考えるのか。それは、現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感からであります。中東の安定は、世界にとって、もちろん日本にとって、言うまでもなく平和と繁栄の土台です。テロや大量破壊兵器を当地で広がるに任せたら、国際社会に与える損失は計り知れません。

イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」

ISILを1度ならず2度までも名指しして、「ISILと闘う周辺各国への支援をお約束」と明言した。しかも、「現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感」表明に繋げてのことだ。明らかに、ISIL敵対当事者への支援宣言であり、有志連合への積極加担のアピールである。

安倍スピーチは、国際武力紛争の一方当事者を「過激主義・テロ勢力」と決め付けたうえで、「これと闘う」対立当事国側へと明示しての支援の約束である。日本国憲法の平和主義・国際協調主義から許されものか、まずこの点の吟味が必要である。国論が沸騰するときにこそ、冷静でなければならない。

さらに、政府は、1月17日当時、後藤さんが拘束され身代金の要求があったことまで知っていた。
「岸田文雄外相は5日の参院予算委で『(後藤さんの)奥様から(昨年)12月3日、犯行グループからメール接触があったと連絡を受けた。11月1日、後藤さんが行方不明になったと連絡をいただいた後、緊密に連絡をとった」と語った(朝日)。

この状況における中東歴訪の強行であり、紛争当事国となっている各国への経済支援をぶち上げ、明確にイスラム国と闘う国への人道支援を約束したのだ。この壮士風発言が、イスラム国側をいたく刺激したであろうことは推測に難くない。

首相は「私の責任でスピーチを決定した」として、「(自身の)判断について正しかったかどうかを含め検証していく」と答えてはいる。

問題は、特定秘密保護法の存在である。
「『イスラム国』から後藤さんの妻へのメールの内容や、日本政府とヨルダン政府の交渉の内容なども明らかになっていない。首相は4日の衆院予算委で『一切言わないという条件で情報提供を受けている。特定秘密に指定されていれば、そのルールの中で対応していくことに尽きる』と述べ、公開できない情報もあるとの考えを示した。」(朝日)という。

早くも、特定秘密保護法がその期待された役割を果たすことになりそうだ。こんな文脈になるのだと思われる。
「最高責任者としての自分の責任を糊塗する意図は毛頭ない」「しかし、ことは防衛・外交に深く関わることで、責任追求に誠実に対応しようとした場合に、特定秘密保護に抵触することは十分に考えられる」「その場合には、特定秘密保護法のルールにしたがって対応するしかない。これが法治国家の当然のあり方だ」「当然のことだが、その場合にいかなる秘密に抵触しているのかについては一切あきらかにできない。それが、法に基づいて行政を司る者の責務である」

かくして、安倍首相の責任追及は闇に葬られることになりかねないのだ。それこそが、特定秘密保護法に期待された狙いのひとつの実現のかたちである。

  セールスは重視人命は軽視
  国民を煙と闇の果てに捨て
  責任を秘密のベールで包み込み
  間に合ったこの日のための秘密法
(2015年2月6日)

四党修正合意ーけっして「勝負あった」という事態ではない

「維新」も「みんな」も改憲志向政党である。改憲と軌を一にする特定秘密保護法案の審議においては、衆院段階ではやばやと法案修正の協議に応じて、自民党の補完勢力であることを露呈している。人権や民主々義の観点から、その存在自体が有害というべきである。

しかし、そのメンバーのすべてが、等しく国家主義的で、新自由主義的で、どうしようもない改憲志向であるかといえば、必ずしも一色ではなさそうだ。というのは、本日の毎日「特定秘密保護法案に言いたい」欄に掲載された「みんな」の井出庸生議員の意見にいたく感心したからだ。彼は、衆議院本会議の秘密法採決で党議に反して反対に回った。毎日紙上の発言で、その行動に筋が通っていることを知った。

彼は、次のように言う。
「法案は国家が国民に足かせをはめかねない。作るなら最低限の内容に抑えるべきだが、修正案は運用面に不安が残る。…納得できなかったのは、違法な秘密指定を告発する者を守る制度が担保できなかったことだ。告発ができなければ取材への情報提供もない。秘密の範囲から警察情報を外せなからたのも問題だ。…秘密が裁判の場で明かにならない可能性があることにも疑問が残る。…政治家は自分の発言、行動を封じ込めてはいけない場面がある。後悔していない。後悔があるとしたら、与党との交渉の場で、党内の慎重な意見をくめなかったことだ。」
「拙速審議に反対」の立場だが、その見解を行動で貫こうとする姿勢の真摯さには頭が下がる。

彼だけではない。井出議員が言及しているとおりに、「党内の慎重な意見」が確実にあるのだろう。「みんな」の参議院議員では、国家安全保障委員会審議での活躍が目立つ小野次郎議員に期待がかかる。議事録を見ると、その迫力たるや相当なものだ。本気で法案の危険性を追求している。到底、四党修正案で手を打とうという姿勢ではない。

もう一人、川田龍平議員にも期待をしたいところ。彼は特別委の委員ではなく、ブログを見る限り、法案の内容にさしたる理解があるようには見えない。しかし、情報公開を求める立ち場にある彼が、「みんな」の党議に拘束されて、この法案に賛成の立場にまわれば、その政治生命(が今あるものとして)は完全に断たれる。彼は、たまたま居所を間違えて「みんな」という政党に所属しているのか、実は「みんな」べったりがふさわしいのか。きちんと説明責任を果たさなくてはならない。

彼が、「公式ブログ」で表明している特定秘密保護法案に対する姿勢は、次のとおり。
「自分はこの法案の拙速な成立に、一貫して反対の立場を訴え続けてきました。薬害も原発問題も、その根底にあるのはすべて国による情報統制であり、この法案もまた、同じ危険性を帯びているからです。」

見てのとおり、「法案反対」とは言わない。反対なのは、「拙速な成立」に対してのこと。「拙速でなければ賛成」「審議が尽くされれば賛成」という余地を残す発言となっている点においてもどかしい。これまでの「公式ブログ」を読み返しても、自分が政治家として関わってきた問題に、この法案が具体的にどう影響するのかという掘り下げた思索がない。自分の言葉で語る迫力もない。

川田龍平議員よ、この法案に反対であれば今の時点で速やかに意見を述べるべきではないか。是非とも「廃案を目指す」と言ってほしい。「拙速成立批判」も結構だが、具体的に「どこをどう改めない限り賛成はできない」と言わねばならない。「政治家は自分の発言、行動を封じ込めてはいけない場面がある。」という井出議員に倣った覚悟を見せていただきたい。本会議での不起立で、後出しの抵抗ポーズをとっても、時既に遅し。法案成立の阻止には無意味ではないか。

国会情勢は、いまなお流動的である。
民主、みんな、共産、維新、社民、改革、生活の野党7党全会派の参院国会対策委員長は28日夕、国会内で会談し、
 「特定秘密保護法案に関し国家安全保障特別委員会での徹底審議」
を合意した。
さらに本日、この合意は、7党の幹事長・書記局長会談でも確認されている。維新・みんなを含めて、この合意は誠実に実行されている。四党修正ができたからこれで盤石、安心して採決の強行ができるという事態ではない。いま、全野党が結束して要求する「徹底審議」を無視することは容易なことではない。

このような状勢は、院外の運動が作り出したものだ。院内の議席数では、少数でも、「今国会の成立にこだわらない徹底審議」は国民の圧倒的多数の声だ。実は、世論の渦の中に孤立しているのは安倍政権と与党の側である。

院外の集会の声が、彼らの耳に「テロ行為のごとく」突き刺さるのは、彼らの焦りの故である。与党中枢にも、反対運動の声は確実に届いている。維新や「みんな」の良心派議員の耳にも届いていないはずはない。もしかしたら、心ある公明党議員の胸にだって。
(2013年12月2日)

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