(2023年7月8日)
安倍晋三銃撃の衝撃から、本日で1年である。あの衝撃の正体が何であったか、自分のことながらまだ掴みかねている。「棺を蓋うて事定まる」とはいうが、安倍国葬の愚を経てなお、事は定まっていない。
事件翌日の毎日新聞社説の表題が、「安倍元首相撃たれ死去 民主主義の破壊許さない」であった。記事の冒頭に、「暴力によって民主主義を破壊しようとする蛮行である。…強い憤りをもって非難する」とあった。1年前、その表題の社説を違和感なく受け容れた。標的にされた者がいかに非民主的な劣悪政治家であろうとも、政治テロを許してはならない。民主主義的秩序の崩壊を恐れる気持ちが強かった。要人に対する襲撃の連鎖が起るのではないかと、本気で心配もした。
しかし、間もなく事態が明らかになるにつれて、評価の重点は明らかに変わってきた。「暴力によって民主主義を破壊しようとする蛮行を許さない」ことは当然として、「悲劇の死をもって、劣悪政治家やその政治を美化してはならない」のだ。
板垣が自由民権運動の裏切者であるにせよ、また史実がどうであれ、「板垣死すとも自由は死なず」は名言である。自らの死を賭して、自由民権の理念に身を投じた政治家の心意気を示すものとして、民衆の喝采を浴びた。
安倍晋三には、そのような神話が生まれる余地がない。もし可能であったとして、死の間際に彼は何と言ったろう。「晋三死すとも、疑惑は死なず」「安倍は死すとも、改憲策動は死せず」「晋三死すとも、強兵は死なず」「安倍は死んでも、政治の私物化はおさまらない」「晋三亡ぶも、皇国は弥栄」…。およそ、様にならない。
何よりも、安倍晋三の死は、統一教会との癒着と結びついている。安倍と言えば統一教会、銃撃と言えば統一教会、安倍晋三と言えば韓鶴子・UPF・ビデオメッセージ。そして、誰もが安倍の死に関して連想するのが、祖父の代からの統一教会との深い癒着である。自民党なかんずく安倍3代と、この金まみれの人を不幸にするカルトとの醜悪な癒着は徹底して暴かれなくてはならず。また、徹底して批判されなければならない。
統一教会問題だけでなく、安倍政治を、いささかも美化してはならない。今、岸田政治は、安倍の亡霊に憑依されているからだ。安倍政治から離脱することで、世論に迎合するかに見えた岸田政権だが、党内の安倍残党に支配されているからなのだ。
安倍政治とはなんだったか、日本国憲法に敵意を剥き出しにし、教育基本法を改悪し、集団的自衛権の行使を容認して戦争法制定を強行し、政治を私物化してウソとごまかしを重ね、行政文書の捏造と隠蔽をこととし、国会を軽視して閣議決定を万能化し、恣意的な人事権の行使で官僚を統制した。
沖縄問題を深刻化し、核軍縮に背を向けた。経済政策では、新自由主義をこととして格差と貧困を拡大し、その無能で日本の経済的な地位を極端に低下させた。外交では、対露、対中、対韓関係に大きく失敗し、拉致問題では1ミリの進展もみせなかった。オリンピックでは腐敗と放漫支出を曝け出し、コロナ対策ではもっぱらアベノマスクでのみ記憶されている。
政治テロは許さない決意を固めつつも、銃撃死したことで、安部政治を美化したり、聖化したりしてはならない。非業の死を遂げた人を批判するにしのびない、などと躊躇してはならない。大いなる、醜悪な負のレガシーを持つ最悪・最低の首相だったこんな人物。こんな人物を長く権力の座に据えていた日本の民主主義のレベルを恥じなければならない。
(2023年6月9日)
本日、現職の天皇(徳仁)の結婚30年だとか。各紙の朝刊に宮内庁提供の最近の家族写真が掲載されている。「結婚30年」、当事者や身内には感慨あっても、とりたてての慶事ではない。もちろん、まったく騒ぐほどのことでもない。
通常、結婚は私事だが、生殖を任務とする世襲君主の場合は特別である。結婚と出産が最大の公務となる。とりわけ、男系男子の血統の存続を至上目的とする天皇後継者の結婚は、男子出産のための公務と位置づけられる。愚かなことではあるが、男子出産を強制される立場の当事者にとっては、さぞかし辛いプレッシャーなのだろう。
周知のとおり、このプレッシャーによって、皇太子(徳仁)の妻は「適応障害」となったと発表されて療養生活を余儀なくされた。周囲からの冷たい目に心折れた、ということだろう。夫は健気にも、妻のことを「僕が一生全力でお守りします」と宣言し続けてきた。何から守ると明言してはいないが、この夫婦も「天皇制なるもの」を相手に闘ってきたごとくである。まことに気の毒な境遇と言えなくもない。
本日朝刊の宮内庁提供の天皇夫婦とその子の家族写真を見て思う。実に質素で飾り気がない。あの儀式の際の、滑稽極まるキンキラキンの洋装和装とはまったく趣が異なる。威厳や、神秘性や、気品や、華美や、伝統やらの虚仮威しがない。この家族写真の天皇は、雲の上の人でも、大内山の帳の向こうの人でもない。徹底して、「中産階級の核家族」「マイホーム・ファミリー」を演出しているのだ。
この事態、右翼諸氏には苦々しいことではなかろうか。本来は神秘的な宗教的権威があってこその天皇である。国民に、「天皇のためになら死ねる」「天皇の命令とあれば死なねばならない」との信仰が必要なのだ。それゆえに、かつて国民の目に触れる天皇の肖像は、本人とは似ても似つかぬ威厳に満ちた御真影であった。「真の影(姿・形)」とは名ばかり。実はフェイクの肖像画を写真にしたもの。天皇制のまがい物ぶりを象徴する貴重な証拠物と言わざるを得ない。
ところで本日、性的少数者に対する理解を広めるための「LGBT理解増進法案」が衆院内閣委員会で審議入りし即日採決された。まことに、不十分な実効性を欠く法案であるにもかかわらず、これほどに右翼の抵抗が強く、これほどに後退した内容となったのは、天皇制の存続への影響に危機感あってのことである。
天皇制とは、天皇信仰であるとともに、「イエ制度」を所与の前提とし、「家父長制」に国家をなぞらえて拵え上げられたイデオロギーである。妻は夫に仕え、子は親に孝を尽くすべきという「イエにおける家父長制」の構図を国家規模に押し広げて成立した。
だから、右翼は「イエ」「家父長制」の存続に極端にこだわることになる。統一教会も同様であり、安倍晋三もしかりである。ジェンダー平等も、フェミニズムも、夫婦別姓も、同性愛も、同性婚の制度化も、ましてや性自認の認容などはあり得ない。その一つひとつが、天皇制存続の危機につながることになるからだ。国民の自由や多様性と天皇制はは、根本において矛盾し相容れない。今、そのことをあらためて認識しなければならない。
このことを説明して得心を得ることは、そう容易なことではない。しかし、極右自らが語るところを聞けば、自ずから納得できるのではないか。その役割を買って出た人物がいる。有本香という、よく知られた極右の発言者。オブラートに包むことなく、率直にものを言うのでありがたい。
ZAKZAKという「夕刊フジ」の公式サイトがある。フジサンケイグループの一角にあるにふさわしく、臆面もない右翼記事が満載。昨日(6月8日)午後のこと、そのZAKZAKに有本香の一文が掲載された。長い々い表題で、「LGBT法案成立は日本史上『最大級の暴挙』 岸田首相は安倍元首相の『憂慮』を理解しているのか 『朝敵』の運命いかなるものだったか」というもの。右翼がジェンダー平等やLGBTを敵視する理由が天皇制にあることを露骨に述べている。これ、「語るに落ちる」というべきか、「積極的自白」と称すべきか。
全部の引用は無意味なので、抜粋する。要点は、以下のとおり。
LGBT容認は、万世一系の皇統を危うくする。皇統を危うくする者は「朝敵」である。これを喝破していたのが安倍晋三。安倍の恩顧を忘れてLGBT容認の法案成立に加担する自民党議員も「朝敵」である。もはや、自民党ではない保守の「受け皿」をつくるべきだ。
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安倍晋三元首相の亡い今、岸田文雄首相(総裁)率いる自民党は、おそらく日本史上でも「最大級の暴挙」をしでかそうとしている。LGBT法案を強引に通そうとしているのだ。
LGBT法案について、安倍氏は法案の重大な問題点を指摘していた。「肉体は女性だが、性自認が男性の『トランス男性』を男性と扱うことになれば、皇位継承者を『皇統に属する男系男子』とする皇位継承の原理が崩れる」。神武天皇以来、万世一系で約2000年(ママ)続く、日本の皇統。これを崩壊させんとする者は「朝敵」である。
皇統の重要性は、皇統が崩壊すれば、日本が終わると言って過言でない。その暴挙を為そうとしている自覚が、岸田首相と政権の人々、自民党幹部にあるのか。同法案推進に努めた古屋圭司氏、稲田朋美氏、新藤義孝氏ら、?安倍恩顧?であるはずの面々は、安倍氏の懸念を何一つ解消させないまま、進んで「朝敵」となる覚悟をしているのだろうか。
古来、朝敵の運命がいかなるものだったかは、あえてここに書かない。万世一系を軽んじ、自分たちが何に支えられてきたかも忘れてしまった自民党の奢(おご)りを、私たちは看過すべきではなかろう。
多少の政局混乱はあるだろうが、それをおそれず、自民党以外の保守の「受け皿」を国民有権者自らがつくるべきだ。
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極右の目から見ると、自民党も「朝敵」なのだ。恐るべきアナクロニズム。こう言う連中が、かつては安倍晋三を押し上げ、また、安倍晋三の庇護の元にあった。
あらためて、天皇(徳仁)の家族写真に問うてみる。
「LGBT容認は、万世一系の皇統を危うくする。皇統を危うくする者は『朝敵』なんだそうですよ。徳仁さん、もしかして、あなたも『朝敵』ではないのかな」
(2023年3月30日・連日更新満10年まであと1日)
時折、産経新聞が私のメールにも記事を配信してくれる。友人からの紹介で、ネットの産経記事を読むこともある。他紙には出ていない、いかにも産経らしい取材対象が興味深い。そして独特の右側に寄り目でのものの見方が面白い。営業成績の苦境を伝えられている産経だが、メデイアには多様性があってしかるべきだ。
下記は、3月26日19:30のネット記事である。藤木祥平という記者の署名記事。
https://www.sankei.com/article/20230326-42GTY2H7FBKP7PRKWKKAROYUSM/
「板垣死すとも?」死せぬ自由誓い安倍氏慰霊祭、憂国の遺志「重ねずにはいられない」
この見出しだけでは何のことだか分からない。が、板垣退助と安倍晋三とを重ね併せて、両人ともに「自由を死なせずに擁護した」立派な政治家と持ち上げるイベントを取材し、なんともクサイ記事にまとめたもの。いかにも、産経らしさの滲み出た興味津々たる記事である。
この記事のリードを引用するのが分かり易い。「板垣死すとも自由は死せず」?。明治15(1882)年、自由党の党首として自由民権運動を推進していた板垣退助は岐阜で遊説中に暴漢から襲われた際、こう叫んだとされる。昨年7月、奈良市で参院選の演説中に安倍晋三元首相が銃撃され死亡したのは、板垣の「岐阜遭難事件」から140年の節目。命がけで国を憂いた2人の政治家を「重ねずにはいられない」として26日、板垣の玄孫(やしゃご)らが大阪市内で安倍氏の慰霊祭を営み、彼らの精神を受け継ぐ決意を新たにした」
「板垣退助先生顕彰会」なるものがあるという。1968年、板垣の50回忌に佐藤栄作が名誉総裁となって設立された団体だそうだ。土佐の板垣退助の顕彰を長州出身の佐藤がなぜ? ではあるが、その説明はない。そして、2018年の100回忌に合わせ位牌を新調する際、当時の自民党総裁であった安倍晋三に依頼した。こうして、「板垣ゆかりの高野寺(高知市)に奉納されている位牌には、彼の不屈の精神を表すあの叫びが刻まれている。その言葉を揮毫したのが安倍氏だった」という。
「あの叫び」というのが、「板垣死すとも自由は死せず」という独り歩きしている例のフレーズである。本当に板垣がそう言ったのかは大いに疑わしい。捏造説の方が随分と説得力があるが、それはさて措く。明らかなのは、板垣退助を「自由民権を希求した政治家」と持ち上げるのは、何らかの魂胆あってのフェイクに過ぎないことである。
岐阜で暴漢に襲われた1882年4月当時、確かに彼は自由党の総理として高揚する「自由民権運動の旗手」であった。しかしすぐに変節する。本来の彼に戻ったというべきかも知れない。
同年11月から翌年6月まで、彼はヨーロッパに外遊してしまうのだ。自由党に対する弾圧事件が頻発する中で、闘わずして逃げ出したと言ってよい。当時の彼に洋行の費用の工面ができたはずはない。政府の仕掛けに乗り、三井の金で懐柔されたのだ。もちろん、帰国後に板垣が反体制の立場で奮闘したわけではない。解党論を説いて、1884年には自由党を解散させている。
その後、板垣は伯爵となり、政治家としては2度の内務大臣にもなっている。自由民権の活動家ではなく、藩閥政治の保守政治家になりさがったのだ。だから、どっぷり保守の佐藤栄作や安倍晋三とは相通じるところがあるのだろう。それだけではない。板垣については、こんなエピソードが残っている。
板垣洋行の直前に、洋行資金の出所に疑惑ありと世に騒がれた自由党は、「板垣退助総理の外遊反対」を決議している。この決議を突きつけられた板垣は、党の幹部連に対して、「他日若し今回の事件にして、余に一点汚穢の事実の確証する者あらば、余は諸君に対して、其罪を謝するに割腹を以てせん」と誓約している。
割腹は大仰だが、「私はけっして悪くない。政治家としての命を賭ける」という言い方は、安倍とおんなじだ。森友事件発覚初期における安倍晋三の17年2月17日国会答弁、「繰り返して申し上げますが、私も妻も一切、この認可にもあるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして…、私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」は、板垣の誓約となんと酷似していることだろう。
もちろん、その後の板垣が腹を切ることはなく、安倍晋三も職を辞していない。板垣と安倍晋三、高潔さを欠く点でも自分の言葉に無責任な点でもよく似た人物なのだ。もともと、反権力とも自由とも無縁の人物。ちょっと気取って、似合わぬながらの「自由の旗手」のポーズをとって見たことがある程度。
とはいうものの、この産経記事の中には次のような関係者の言葉が連ねられている。「(安倍晋三)総理の優しいお人柄を垣間見ることができた」「板垣は肉体としては亡くなったが、その精神は滅びない」「自由民権運動は終わってなどいない。今の政党政治に受け継がれている」「民意を問う選挙の最中に行われたこの暴力的行為を許すことはできない」「(安倍氏は)客観的にも、国民から最も愛された首相だ」「事件の重大さを今一度思い返してほしい」。さすが産経である。
(2023年3月12日)
安倍晋三という重しがとれて、安倍政権時代の負のレガシーの覆いが少しずつ剥がれつつある。「放送法解釈変更問題」の行政文書流出はその典型だろう。官邸の理不尽な圧力に切歯扼腕していた人物が、ようやくにして外部に訴える決断をしたものと推察される。安倍晋三、なおこの世にあればこの決断はできなかったのではないか。
この文書を一読すれば、官邸の圧力は至るところに無数にあって、この文書はその氷山の一角に過ぎないことがよく分かる。例えば、この文書は2015年5月12日、参院総務委員会での高市早苗による『放送法4条解釈変更答弁』で終わっているが、続編があったに違いない。翌16年2月8日衆院予算委員会での「停波言及答弁」についても、これに至るやり取りがあったはずである。おそらくはその議論は、より熾烈なものであったと推察される。
総務省に限らず、官邸からの圧力を苦々しく思っていた良心的官僚諸氏による内部通報が続いて、アベ政治の負のレガシーの清算が行われることを期待したい。
本日、朝日・毎日両紙の社説が、この安倍政権時代の放送法解釈変更問題を取りあげた。切り口はそれぞれのもので、問題把握の視点が異なる。
朝日はストレートに「(社説)放送法の解釈 不当な変更、見直しを」という表題。朝日の見識を示すものとなっている。
この社説の基本は、放送法4条不要論である。「政治的公平であること」や「報道は事実をまげないですること」などを求めている同条が、政治権力の放送番組作成への介入の口実を与えている、という認識。少なくも、安倍政権時代に高市がその手先となって変更した《放送法4条の政権寄りの骨抜き解釈》を元へ戻せ、と言っている。
「2015年、当時の高市早苗総務相は、放送番組が政治的に公平かどうか、ひとつの番組だけで判断する場合があると国会で明言した。これは、その局が放送する番組全体で判断するという長年の原則を実質的に大きく転換する内容だった。放送法の根本理念である番組編集の自由を奪い、事実上の検閲につながりかねない。民主主義にとって極めて危険な考え方だ」「本来は国会などでの開かれた議論なしには行うべきでない方針転換が、密室で強行された疑いも持たざるをえない」「こうした経緯が明らかになった以上、高市氏の答弁自体も撤回し、法解釈もまずはそれ以前の状態に戻すべきだろう。制作現場の萎縮を招き、表現の自由を掘り崩す法解釈を放置することを許すわけにはいかない」
同社説は、最後にこう力説している。「解釈変更は、政府与党が放送局への圧力を強めるなかで起きた。文書からは、安倍氏が礒崎氏の提案を強く後押ししていた様子もうかがえる。責任は高市氏や礒崎氏だけではなく、政府与党全体にあると考えるべきだろう。放送法ができた1950年の国会で、政府は『放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない』と述べている。近年のゆゆしき流れを断ち切り、立法の理念に立ち返るべきときだ。」
毎日は、アベ政治の危険性や報道の自由の問題ではなく、行政文書の重要性を強調して、これをないがしろにする高市早苗批判に徹している。表題が、「高市氏の『捏造』発言 耳を疑う責任転嫁の強弁」というもの。要旨は以下のとおり。
「放送法の『政治的公平』を巡る第2次安倍晋三政権内部のやりとりを記した総務省の文書について、当時の総務相だった高市早苗・経済安全保障担当相が『捏造だ』と繰り返している」「行政文書は、公務員が業務で作成し、組織内で共有、保管される公文書だ。政策の決定過程が分かるやりとりを残すことは、法律で義務付けられている。総務省幹部は『一般論として行政文書の中に捏造があるとは考えにくい』と国会で答弁した」
「ありもしない事実を公文書に記したのなら、犯罪的行為である。疑惑を掛けられた総務省は徹底調査すべきだ。高市氏は立証責任は小西氏にあると言うが、事実解明の責任を負うのは本人である。高市氏は発言者に確認を取っていないことを理由に「正確性が確認されていない文書」だと強調する。だが、それだけで当時の部下が作成した文書を「捏造」だと決めつける強弁は耳を疑う」
「公文書は政策決定の公正さを検証するために不可欠な国民の共有財産だ。自らの発言でその信頼性を損なわせた高市氏である。閣僚としての適格性が問われている。」
この毎日社説の趣旨に異議はない。が、結論が甘いのではないか。「閣僚としての適格性が問われている」だけではない。この人、議員の職も賭けたのだ。議員も辞めてもらわなければならない。もちろん、社会人としても失格である。
アベ政治に厚遇を得て、ぬくぬくとしていた一群の人たち。いま批判の矢面に立たせねばならない。民主主義擁護の名において。
(2023年3月10日)
「西暦表記を求める会」です。国民の社会生活に西暦表記を普及させたい。とりわけ官公庁による国民への事実上の強制があってはならないという立場での市民運動団体です。
この度は、取材いただきありがとうございます。当然のことながら、会員の考えは多様です。以下は、私の意見としてご理解ください。
私たちは、日常生活や職業生活において、頻繁に時の特定をしなければなりません。時の特定は、年月日での表示となります。今日がいつであるか、いつまでに何をしなければならないか。あの事件が起きたのはいつか。我が子が成人するのはいつになるか。その年月日の特定における「年」を表記するには、西暦と元号という、まったく異質の2種類の方法があり、これが社会に混在して、何とも煩瑣で面倒なことになっています。
戦前は元号絶対優勢の世の中でした。「臣民」の多くが明治政府発明の「一世一元」を受け入れ、明治・大正・昭和という元号を用いた表記に馴染みました。自分の生年月日を明治・大正・昭和で覚え、日記も手紙も元号で書くことを習慣とし、世の中の出来事も、来し方の想い出も、借金返済の期日も借家契約の終期も、みんな元号で表記しました。戸籍も登記簿も元号で作られ、官報も元号表記であることに何の違和感もなかったのです。
戦後のしばらくは、この事態が続きました。しかし、戦後はもはや天皇絶対の時代ではありません。惰性だけで続いていた元号使用派の優位は次第に崩れてきました。日本社会の国際化が進展し、ビジネスが複雑化するに連れて、この事態は明らかになってきました。今や社会生活に西暦使用派が圧倒的な優勢となっています。
新聞・雑誌も単行本も、カレンダーも、多くの広報も、社内報も、請求書も、領収書も、定期券も切符も、今や西暦表記が圧倒しています。西暦表記の方が、合理的で簡便で、使いやすいからです。また、元号には、年の表記方法としていくつもの欠陥があるからです。
元号が国内にしか通用しないということは、実は重要なことです。「2020年東京オリンピック」「TOKYO 2020」などという表記は世界に通じるから成り立ち得ます。「令和2年 東京オリンピック」では世界に通じません。
それもさることながら、元号の使用期間が有限であること、しかもいつまで継続するのか分からないこと、次の元号がどうなるのか、いつから数え始めることになるのかがまったく分からないこと。つまりは、将来の時を表記できないのです。これは、致命的な欠陥というしかありません。
とりわけ、合理性を要求されるビジネスに元号を使用することは、愚行の極みというほかはありません。「借地期間を、令和5年1月1日から令和64年12月末日までの60年間とする」という契約書を作ったとしましょう。現在の天皇(徳仁)が令和64年12月末日まで生存したとすれば110歳を越えることになりますから、現実には「令和64年」として表記される年は現実にはあり得ません。そのときの元号がどう変わって何年目であるか、今知る由もありません。天皇の存在とともに元号などまったくない世になっている可能性も高いと言わねばなりません。
令和が明日にも終わる可能性も否定できません。全ての人の生命は有限です。天皇とて同じこと。いつ尽きるやも知れぬ天皇の寿命の終わりが令和という元号の終わり。予め次の元号が準備されていない以上、元号では将来の時を表すことはできません。
今や、多くの人が西暦を使っています。その理由はいくつもありますが、西暦の使用が便利であり元号には致命的な欠陥があるからです。元号は年の表記法としては欠陥品なのです。現在の元号がいつまで続くのか、まったく予測ができません。将来の日付を表記することができないのです。一貫性のある西暦使用が、簡便で確実なことは明らかです。
時を表記する道具として西暦が断然優れ、元号には致命的な欠陥がある以上、元号が自然淘汰され、この世から姿を消す運命にあることは自明というべきでしょう。ところが、現実にはなかなかそうはなっていません。これは、政府や自治体が元号使用を事実上強制しているからです。私たちは、この「強制」に強く反対します。公権力による元号強制は、憲法19条の「思想良心の自由の保障」に違反することになると思われます。
今、「不便で非合理で国際的に通用しない元号」の使用にこだわる理由とはいったい何でしょうか。ぼんやりした言葉で表せばナショナリズム、もうすこし明確に言えば天皇制擁護というべきでしょう。あるいは、「日本固有の伝統的文化の尊重」でしょうか。いずれも陋習というべきで、国民に不便を強いる根拠になるとは到底考えられません。
ここで言う、伝統・文化・ナショナリズムは、結局天皇制を中核とするものと言えるでしょう。しかし、それこそが克服されなければならない、「憲法上の反価値」でしかありません。
かつてなぜ天皇制が生まれたか、今なお象徴天皇制が生き残っているのか。それは、為政者にとっての有用な統治の道具だからです。天皇の権威を拵えあげ、これを国民に刷り込むことで、権威に服従する統治しやすい国民性を作りあげようということなのです。今なお、もったいぶった天皇の権威の演出は、個人の自律性を阻害するための、そして統治しやすい国民性を涵養するために有用と考えられています。
元号だけでなく、「日の丸・君が代」も、祝日の定めも、天皇制のもつ権威主義の効果を維持するための小道具です。そのような小道具群のなかで日常生活に接する機会が最多のものと言えば、断然に元号ということになりましょう。
ですから、元号使用は単に不便というものではなく、国民に天皇制尊重の意識の刷り込みを狙った、民主主義に反するという意味で邪悪な思惑に満ちたものというしかありません。
(2023年3月8日)
3月2日夕刻、立憲民主党の小西洋之参院議員が記者会見で公表した《放送法の「政治的公平」に関する文書》、7日の午前までは「小西文書」だったが、同日の午後には総務省の「行政文書」という折り紙が付いた。
公文書管理法や情報公開法で定義されている「行政文書」とは、「行政機関の職員が職務上作成し又は取得した文書で、組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているもの」と言ってよい。堂々たる「公文書」である。捏造文書でも、怪文書でもない。
公文書の内容が全て正確であるかといえば、当然のことながら、必ずしもそうではない。しかし、公務員が職務上作成した文書である。その偽造や変造には処罰も用意されている。特段の事情がない限りは、正確なものと取り扱うべきが常識的なあり方である。
内容虚偽だの一部変造だのという異議は、異議申立ての側に挙証責任が課せられる。ましてや、高市早苗は総務大臣であり、この文書を管轄する責任者であった。しかるべき理由なくして、「捏造」などと穏当ならざる言葉を投げつけるのは醜態極まる。単に、不都合な内容を認めたくないだけの難癖なのだ。
この文書、総務省のホームページに公開された。下記のURLで、誰でも読める。これを一読したうえでなお、捏造論に与する者がいるとは思えない。
https://www.soumu.go.jp/main_content/000866745.pdf
全体を通読すれば、真面目な総務官僚が、放送法の理念(とりもなおさず、「表現の自由」「報道の自律性」)を擁護しようと、理不尽な官邸からの圧力に抵抗して、必ずしも本意でない結果を招いたとするストーリーが見えてくる。せめて、その経過を正確に残しておきたいという気持が滲み出ている。捏造や改ざんの動機は、まったく窺うことができない。
この文書は、A4用紙で78枚のまとまったもの。《「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)》と表題が付いている。この文書中での、悪役は礒崎陽輔(首相補佐官)である。もちろん安倍晋三が究極の黒幕だが、その威を借りて、民主主義の仇役を演じているのが礒崎。高市は自主性に欠けた脇役という役どころ。際だった悪役を演じているわけではない。官邸からの圧力に呼応して、その支持に従っただけのことなのだ。ところが、「怪文書」「捏造文書」「首を懸ける」と騒いだために、自らの存在をクローズアップして墓穴を掘った感がある。こうなれば、潔く議員辞職するしかないだろう。頼りの安倍晋三は既に亡いのだ。
《「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)》では、ジュゲムジュゲムだ。「安倍官邸の放送法解釈介入圧力記録文書」が正確なところだが、これも長い。「放送法解釈介入記録」くらいで良しとしよう。その記録の冒頭2頁が経過の要録となっている。年号を西暦に直して、ここだけを抜粋しておきたい。
この一連のストーリーの発端は、放送事業を監督する立場の総務省に対して、官邸側(礒崎)から「放送法における「政治的公平」解釈」についての「整理」をすべきという要求。官邸が納得するような回答が得られるまで、総務省から礒崎へのレクチャーが繰り返された。ようやく官邸の圧力で放送を萎縮させるに足りる解釈が得られると、総務委員会で自民党の議員にデキレースの質問をさせて、予定どおりの高市大臣答弁となる。これが、2014年11月26日から、翌15年5 月12日までの半年間のこと。
そして、この文書には出てこないが、翌16年2月8日衆院予算委員会での「政治的公平が疑われる放送が行われたと判断した場合、その放送局に対して放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性を否定しない」という、高市の「停波処分もあり得る」という、恫喝発言につながる。この段階では、高市は脇役から主役に躍り出ている。おそらくは、これについても、官邸からの介入の裏面史があったのだろう。
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「政治的公平」に関する放送法の解釈について(磯崎補佐官関連)
2014年11月26日(水)
磯崎総理補佐官付から放送政策課に電話で連絡。内容は以下の通り。
・ 放送法に規定する「政治的公平」について局長からレクしてほしい。
・ コメンテーター全員が同じ主張の番組(TBS サンデーモーニング)
は偏っているのではないかという問題意識を補佐官はお持ちで、「政治的公平」の解釈や運用、違反事例を説明してほしい。
28 日(金):磯崎補佐官レク
磯崎補佐官から、「政治的公平」のこれまで積み上げてきた解釈をおかしいというものではないが、?番組を全体で見るときの基準が不明確ではないか、?1つの番組でも明らかにおかしい場合があるのではないか、という点について検討するよう指示。
12 月 18 日(木)、25 日(木):磯崎補佐官レク
さらに前向きに検討するよう指示。(補佐官は年明けに総理に説明したうえで、国会で質問したいとのこと。)
2015年
1 月 9 日(金):磯崎補佐官レク
総務省からの説明を踏まえた資料を補佐官側で作成するので、本資料に関する協議を事務的に進めるよう指示。
16 日(金)、22 日(木):磯崎補佐官レク
総務省からの補佐官資料に対する意見は先祖帰りであり、前向きに検討するよう指示。
29 日(木):磯崎補佐官レク
補佐官了解。今後の段取り(国会質問等)について認識合わせ。
2 月 13 日(金):高市大臣レク(状況説明)
17 日(火):磯崎補佐官レク(高市大臣レク結果の報告)
24 日(火):磯崎補佐官レク(官房長官レクの必要性について相談)
3 月 2 日(月):山田総理秘書官レク(状況説明)
厳重取扱注意
3 月 5 日(木):磯崎補佐官から安倍総理に説明(今井・山田総理秘書官同席)
※3/5 山田総理秘書官から、3/6 磯崎補佐官から、総理への説明模様を報告。
9 日(月):平川参事官から安藤局長に連絡(高市大臣と安倍総理の電話会談結果)
13 日(金): 山田総理秘書官から安藤局長に連絡(高市大臣と安倍総理の電話会談結果)
4 月 1 日(水)?4 月 7 日(火):答弁案の調整
※山口補佐官付と放送政策課・西潟補佐の間でやりとり。
5 月 12 日(火):参・総務委員会
(自)藤川政人議員からの「政治的公平」に関する質問に対し、磯崎補佐官と調整したものに基づいて、高市大臣が答弁。
以上の5月12日総務委員会での高市答弁までに、関係者間にどんな発言があったか。朝日新聞の熱のはいった報道の中で、次のようなものが指摘されている。
総務省の行政文書に記された主なやりとり(肩書はいずれも当時)
●礒崎陽輔首相補佐官「『全体でみる』『総合的に見る』というのが総務省の答弁となっているが、これは逃げるための理屈になっているのではないか」(2014年11月28日)
●礒崎陽輔首相補佐官「政治的公平に係る放送法の解釈について、年明けに総理にご説明しようと考えている」(2014年12月18日)
●高市早苗総務相「そもそもテレビ朝日に公平な番組なんてある?」「官邸には『総務大臣は準備をしておきます』と伝えてください。(中略)総理も思いがあるでしょうから、ゴーサインが出るのではないかと思う」(2015年2月13日)
●山田真貴子首相秘書官「今回の話は変なヤクザに絡まれたって話ではないか」「どこのメディアも萎縮するだろう。言論弾圧ではないか」「結果的に官邸に『ブーメラン』として返ってくる話であり、官邸にとってマイナスな話」「総務省も恥をかくことになるのではないか」(2015年2月18日)
●礒崎陽輔首相補佐官「これは高度に政治的な話。官房長官に話すかどうかは俺が決める話。局長ごときが言う話では無い。この件は俺と総理が二人で決める話」「俺の顔をつぶすようなことになれば、ただじゃあ済まないぞ。首が飛ぶぞ」(2015年2月24日)
●安倍晋三首相「政治的公平という観点からみて、現在の放送番組にはおかしいものもあり、こうした現状は正すべき」「(NHKの)『JAPANデビュー』は明らかにおかしい」(2015年3月5日)
●礒崎陽輔首相補佐官「けしからん番組は取り締まるスタンスを示す必要があるだろう。そうしないと総務省が政治的に不信感を持たれることになる」(2015年3月6日)
これは民主主義の根幹に関わる大事件である。安倍晋三とその取り巻きによる、報道の自由への介入という重大事であって、高市のクビや、礒崎の尊大さなど、実は傍論でしかない。
(2023年3月7日)
日韓関係を象徴する徴用工問題。主要なアクターは4者である。日本の政権と民衆をA・Bとし、韓国のそれをC・Dとする。Dの中に、被害者本人や遺族、そして広範な支援者が含まれている。
AとCとは、十分に事前の摺り合わせの上、問題解決のスキームを作った。そして昨日、Cがこれを発表しAが直ちに呼応して歓迎の旨を表明して、事態の打開を図ろうとしている。しかし、BとDとはいずれもこのスキームでの解決を支持する雰囲気にない。とりわけ、Dは拒否反応を示している。昨夜、ソウルではこのスキームに反対するロウソク・デモが行われた。
Dが最も望むものは、Aの謝罪である。正確には、Aと一体となった国策企業の真摯な謝罪である。理不尽な被害を被った者の加害者に対する当然の要求である。しかし、これに対するAとBの態度は、およそ真摯さとはほど遠いもの。だから、Dが反発している。
今朝、寝床でラジオを点けたら、民放の複数の番組から野蛮な論評が聞こえて来た。「問題はもう、全て解決済みなんですよ。今さら蒸し返されるべきことではない」「もう、二世代も昔の話ですよ。こんなこといつまで繰り返すんでかね」「1965年の請求権協定で、完全かつ不可逆的に日本の責任はないことになった。あとは全て韓国の国内問題ですよ」「あの国は、日本が譲歩すればゴールポストを動かすんだから」「もう、有償無償併せて5億ドルも払って解決済み」…。こういう発言が、Dを刺激するBの態度であり、この姿勢こそが問題の解決を妨害するものと知らねばならない。
得々とこう言う論者は、徴用工問題に関する韓国大法院判決をよく理解していないのではないか。判決は、必ずしも原告の言い分を全部認めたわけではない。賃金支払い請求を棄却して、慰謝料請求だけを認めたのだ。今、この意味は小さくない。
原告側の主たる主張は、1965年日韓請求権協定によって原告(元徴用工)の権利がいささかの影響も受けるものではないということだった。個人として日本企業に対して有する請求権を、頼みもしないのに、国家(韓国)が処分できるはずはない。ましてや、民意に基づかない当時の軍事政権に交渉の代理権はない、というものだった。
しかし、判決は当時の国際慣行に照らして、この主張を排斥した。その上で、国際法の推移を詳細に検討して、「企業の虐待による慰謝料請求権は、日韓請求権協定の協議対象に含まれていない」として、慰謝料の請求だけを認めたのだ。この意味が、今クローズアップされることになっている。
「日本企業の賠償義務肩代わり」と言われる「賠償義務」とは、日本製鉄などの企業が元徴用工に負う損害賠償債務である。その内容は慰謝料(精神的損害の賠償)である。これを第三者である、韓国の財団が弁済しようということなのだ。そんなことができるものだろうか。
大法院の判決が確定して、債務者・日本製鉄が、債権者・元徴用工に対して慰謝料支払いの債務を負担している。この債務を、債務者・日本製鉄以外の第三者に弁済させることを許してよいものだろうか。誰が考えても違和感が残るところではないか。
第三者に弁済させても問題のない債務もあるだろう。しかし、慰謝料は加害者に支払わせてこそ意味がある。第三者に慰謝料を支払わせた加害者が涼しい顔をしていたのでは、被害者の精神的な損害は慰謝されることにならない。
本来慰謝料とは、被害者の精神的な損害を金銭に評価して支払わせるものである。小さな精神的被害には少額の慰謝料、大きな精神的被害には高額の慰謝料を支払わせることになるが、いずれにせよ加害者に支払わせて、被害者の精神的被害を慰謝することとなる。債権者(元徴用工)の承諾なしに、第三者による弁済を許してよいことにはならない。
本件の元徴用工にとっては、自分を虐待して使役した加害者日本製鉄に支払わせてこそ、慰謝料の意味がある。他の第三者に弁済させたのでは、慰謝料としての意味がなくなるのだ。求償権は行使しない、などと言われればなおさらのことだ。元徴用工本人の明確な意思として第三者による弁済を認めない限り、第三者弁済は認められない。元徴用工の日本製鐵に対する債権は強制執行力あるものとして生き続けることになる。
結局のところ、今回発表のスキームで解決するためには、元徴用工やその遺族の意向を十分に尊重し、その精神的慰謝ができるように取り計らわねばならない。そうでなければ、「韓国政府が日本の強制連行加害企業の法的責任を免責させることに加担している」と批判されることになる。
結局は、A(日本政府)とC(韓国政府)との裏舞台の合意だけでは、このスキームは成功しない。まずはD(韓国の民衆)が納得できるスキームに調整し、これをBが支持するものとしなければ解決には至らないのだ。
(2023年3月5日)
戦前、廣田弘毅内閣時代の帝国議会で、古参議員と陸軍大臣との間で「腹切り問答」と言われたやり取りがあった。2・26事件翌年の1937年1月21日衆議院本会議でのこと。立憲政友会の浜田国松(議員歴30年、前衆議院議長)が、軍部の政治干渉を痛烈に批判する演説を行った。そのさわりは以下のとおりである。
「近年のわが国情は特殊の事情により、国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ、国民はその言わんとする所を言い得ず、わずかに不満を洩らす状態に置かれている。軍部は近年自ら誇称して…独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ、時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある」
「恪循」とは、何とも難しい言葉だが、ことさらに分かり難い言葉を選んだのかも知れない。「謹んで従う」という程度の意味のようだ。
これを聞いた寺内寿一陸相は答弁に立って「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承り」と反駁。浜田は2度目の登壇で逆襲した。「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆質問。寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直したが、浜田は執拗に3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と厳しく詰め寄った。これに寺内は激怒、浜田を壇上から睨みつけたため、議場は怒号が飛び交う大混乱となったという。
議会は停会となり、陸海軍の確執なども絡んで、結局広田内閣は閣内不統一を理由に総辞職した。閣内に、陸軍大臣・海軍大臣などが存在し、天皇大権を背に威を張っていた時代の椿事である。
時は遷って一昨日、3月3日参議院予算委員会でのこと。スケールは小さいが、よく似た「事件」が生じた。役者は代わって、小西洋之(立憲民主党)と高市早苗(元総務相・現経済安保相)である。
小西は2日「総務省職員から提供を受けた内部文書」として、A4用紙78ページの文書を公表した。「総務省の最高幹部に共有され、超一級の行政文書」だとしている。小西自身が総務省(当時は郵政省)出身だということが、この文書の信憑性に一役買っている。内容は、「個別の番組への介入を可能とする目的」で、放送法の行政解釈を変更するよう、安倍政権が総務省に圧力をかけたものだという。真面目な総務官僚が不当に行政を枉げられたという義憤からの情報提供という構図。
これをもとに2014〜15年に、安倍政権や総務大臣が放送メディアに政治的圧力を掛けたという。政権による表現の自由への介入として大問題であるし、アベ政治の負のレガーシーとして書き加えなければならない。
同資料には当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省幹部に放送法の解釈をただしたやり取りが記されていただけでなく、当時の高市総務相、安倍晋三首相への報告記録なども含まれている。
そう言えばその頃、高市が居丈高に停波の可能性などに言及していたことが忘れがたい。安倍は過去の人になったが、いまや、高市問題となっている。
3日の参院予算委員会で、小西はこの文書に基づいて高市に質疑。「安倍総理からは今までの放送法の解釈はおかしい旨の発言、実際に問題意識を持っている番組を複数例示」と内容に言及。『サンデーモーニング』(TBS系)などの具体的番組名が出てくる。
ところが高市は、「全くのねつ造文書だ」と突っぱねた。「信ぴょう性に大いに疑問を持っている」「礒崎氏から放送法について私に話があったことすらない」と強調した。安倍氏と「放送法について打ち合わせやレクをしたことはない」とも明言した。そして、「本物なら閣僚や議員を辞職するか」問われて「結構だ」と明言した。腹は切らないが、首を懸けるというのだ。
具体的なやり取りは次のとおり。
小西洋之 「仮にこれが捏造文書でなければ、大臣そして議員を辞職するということでよろしいですね。」
高市早苗 「結構ですよ。…小西委員から頂いた資料を見ましたけれども、ご指摘の文書、私の名前出て来るの4枚だったと思うんですが、私が行ったとされる発言について、私はこのようなことは言ってませんし、当時の秘書官も同席してましたので確認しましたが言ってません」
高市の閣僚としての地位のみならず、議員としての地位がいつまで保つのか。まだ分からない。
このやり取りは、森友学園をめぐる公文書偽造問題を思い出させる。2017年2月17日、安倍晋三は、国会で「私や妻が関係していたということになれば、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」と明言した。が、彼は自分の言葉に「恪循」しなかった。世上、こういう人物を卑怯者という。少なくも、信用できる人物ではない。高市が、自分の発言に責任をもつ人物であるか否か、見極めなければならない。
(2023年3月2日)
権力者はレガシーを欲する。その地位を退いたとき、あるいは棺を覆ったとき、そのレガシーが定まる。立派なレガシーもあれば、とんでもない負のレガシーもある。承継するにせよ、批判し反省材料にするにせよ、まずはこれを正確に見定めるべきが国民の責務である。
ところが、最低の為政者は、負のレガシーを正直に国民の目に晒してはならじと覆い隠そうとする。安倍晋三がその典型であり、今はその負のレガシーの隠滅に安倍後継政権が必死になっている。
安倍晋三という政権担当者は、自分のしていることがよほど疚しかったと見える。ウソとゴマカシと隠蔽の手口で知られた。それゆえにこそ、いったい彼が何をしたのか、正確に検証しなければならない。ところが、その隠蔽体質が、政権を退いたあとの負のレガシーの総括を困難にしている。その最たるものが、無為・無策・無能の極致と揶揄されたアベノマスク問題である。
天下の愚策アベノマスクの、製造と配布と保管と廃棄に、いったい幾らのカネがかかったのか。誰がどれだけ儲けたのか。それが正当なものなのか否か。どのような規準と経緯で業者を選定し、どう単価を設定し、どのように契約の履行を確認し、違約にはどんなペナルティを科したのか。コストに見合う成果があったのか。その検証をしようにも、基礎資料がない。
なんということだろう。すべては国民が拠出した公金である。細大漏らさず、国民には知る権利がある。怪しい安倍晋三の息のかかった公金の支出であればなおさらのことである。行政が進んで事情を明らかにしないのだから、情報公開制度の利用に頼らざるを得ない。
制度に精通した神戸学院大学の上脇博之教授が、安倍晋三の在任中から、アベノマスク問題に取り組んだ。ところが、開示請求をしても、なかなか文書が出て来ない。ようやく出てきたものも、肝心なところが墨塗りなのだ。あるいは、あるはずの資料がないとされる。やむなく弁護団を組んでの大阪地裁への行政訴訟の提起となった。
その訴訟は二つあった。
?単価や数量を不開示とする決定を争い開示を求める訴訟(「単価訴訟」、2020年9月28日提訴)
?契約締結経過に関する文書を不存在とした決定を争い開示を求める訴訟(「契約締結経過訴訟」、2021年2月22日提訴)
「単価訴訟」について、一昨日(2月28日)大阪地裁は判決を言い渡した。慰謝料を求める国家賠償請求を除いて、開示請求に関しては完勝となった。45通の文書の一部不開示をすべて違法とし、開示を命じたのだ。その意義は大きい。
この日の原告と弁護団の声明はこう言っている。
「判決は、政府の「アベノマスク」の購入単価や数量は情報公開法5条2号(法人情報)や同条6号(国の事務事業情報)の非開示情報には該当しないとし、これらを不開示とした厚生労働大臣(当時加藤勝信氏)及び文部科学大臣(当時萩生田光一氏)の各決定を違法として取り消し、同部分の開示を命じました。」
「約500億円もの巨額な税金を使用し、一部の業者にのみ随意契約で巨額の利益を与え、国民の大半が利用しなかった安倍政権のコロナ対策の典型的な失敗事例である「アベノマスク」配布事業について、キチンと全ての情報を国民に明らかにし国民的総括、反省をする機会を、政権及び中央官庁は隠蔽し奪ってきました。本判決は、司法が政権・中央省庁のこのような隠蔽体質を断罪し、これらの情報をすべからく国民に明らかにすることを命じたものであり、重要な意義があります。」
また、会見で弁護団(阪口徳雄団長)は、「500億円という巨額の税金が投じられた政策について、まずはデータがないと是非を検討すらできません。2年半かかって長いトンネルの入口にやっと立てた。これからが本丸です」と語っている。
3年前の「アベノマスク」配布を思い起こそう。当時の首相安倍晋三の思いつきで全戸配布した布マスク。汚れや虫の混入が発覚して大騒ぎになり、予定より遅延して配布したころには、既に市場に不織布マスクの供給が戻り始めていた。介護施設や妊婦向けを含め計約2億9000万枚を調達し、21年度末までに少なくとも約502億円を投じた。厚労省の調査では、検品対象の15%に当たる約1100万枚が不良品。国は22年、余った約7100万枚を希望者に配って在庫を処分した。
この巨費を無駄にした愚策の経過を徹底して明らかしなければならない。そして、こんな人物を責任ある立場に就けた国民の判断の過ちも、しっかりと確認しなければならない。
岸田文雄首相は1日の国会で「(控訴について)さまざまな観点から適切に判断する」と述べているが、控訴は止めた方がよい。その方が、内閣支持率を幾分かでも回復することになるだろう。上脇教授の言うとおり、「国民の大半が使わなかったアベノマスク事業を総括する必要がある。国は控訴しないで、まずは国民に情報を開示した上で、第三者による検証を進める」のが妥当なところ。
上脇さんの行動は、怒りをエネルギーにしているように見える。不正に対する怒り、民主主義を壊すものへの怒りである。願わくは、国民全体で、この不正な為政者に対する怒りを共有したいものと思う。アベノマスク訴訟が、アベ政治の巨大な負のレガシー総括の端緒となり、国民の怒りの口火になってもらいたいとも願う。
(2023年2月16日)
人事は重要である。そして、難しい。公的な機関の重要人事には、その社会の民主主義の成熟度が表れる。いま、学術会議会員の任命制度が議論になり、NHK新会長と、日銀新総裁の人事が話題となっている。その人事のありかたや人事制度の作り方に日本の民主主義の成熟度があらわれている。
学術会議も、NHKも、日銀も公共性の高い機関である。学術会議会員は内閣総理大臣が任命する。NHK会長は経営委員会の任命だが、その経営委員は両議院の同意を得ての内閣総理大臣の任命となっている。そして、日銀総裁は両議院の同意を得て内閣が任命する。とは言え、これは形だけのことで、けっして内閣や内閣総理大臣がオールマイティであってはならない。
司法や学術や報道に関する機関は、その本来的使命を貫くためには公権力からの掣肘を受けてはならない。公権力から独立した存在であるためには、人事の自律が不可欠である。権威主義的国家においては、公権力がその意のままに動く人物を任命することで、中央集権の秩序を作り出す。「国から金が出ている以上、国が選任権を持つのは当然」などという、野蛮な議論に幅を利かせてはならない。
金融政策の立案実施が政府から独立した中央銀行の専門的な判断に任せることが望ましいとされる。が、所詮は原理的に要請される独立でも自律でもない。今回は、貧乏くじとされる日銀総裁。「首相と握れる人物」が選任されることとなった。それで、格別の不都合は生じない。しかし、司法や学術や報道に関して、同様でよいことにはならない。
NHK会長は、頑固に報道の自由を墨守しなければならない。その姿勢が、国民の知る権利擁護に奉仕することになる。それにふさわしい人物を選任しなければならないのだが、その経歴から見る限り、新会長の適性はなはだ疑わしい。
そして、今国会に提案されようとしている、学術会議会員の選任方法の改悪が心配される。学術会議の存在意義は、原理的に政府からの独立と自律性にある。そしてその要は、誰を会員とするかの人事にある。それが今、危うい。日本学術会議の組織改革の法案が、学術会議の独立性を毀損しようとしている。
一昨日(2月14日)学術会議の歴代会長経験者5人(生存者の全員)が揃って、学術会議の独立性の尊重を求める声明を発表し記者会見をした。前例のないことである。
この声明の危機感は高い。岸田首相を宛先にして、「日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである」という趣旨。戦後の設立以降の学術会議の歴史を踏まえ、学術の独立性について「一国の政府が恣意的に変更して良いものではない」としている。
内閣府の方針では、会員選考の際に外部の第三者委員会が介入する仕組みを導入する。これに対し、声明では、アカデミーの世界では自律的な会員選考こそが「普遍的で国際的に相互の信認の根拠となっている」とし、「内閣府案はこれを毀損する」と批判している。この人事の手続が問題なのだ。
広渡氏は任命拒否問題に言及し、「首相は今からでも自分の判断で任命しなおすことが可能。本来は5人で首相に直接面会し、ひざを交えて話をしたかった」と話した。また、法案について「法改正の狙いは、任命拒否を正当化し、それを制度として法に組み込むことにある」と説明した。
この問題を論じた朝日の社説が、「各国の学術会議に相当する組織は、政府から独立した活動や会員選考の自主性・独立性を備える。それを歪(ゆが)め、強引に政府の意向に従わせるのでは、権威主義国家のやり方と見まごうばかりだ」と言っているのが、興味深い。「権威主義国家」とは、中国・北朝鮮・ロシア・ベラルーシ・イラン・アフガニスタン・サウジアラビヤ等々を指しているのだろう。日本の民主主義のレベルを、このような「権威主義国家」並みに落としてはならない。
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岸田文雄首相に対し日本学術会議の独立性および自主性の
尊重と擁護を求める声明
2023年2月14日
吉川弘之(日本学術会議第17?18期会長)
黒川 清(同第19?20期会長)
広渡清吾(同第21期会長)
大西 隆(同第22?23期会長)
山極壽一(同第24期会長)
私たち5名は、日本学術会議会長の職を務めた者として、現状における日本学術会議と政府の正常ならざる関係を深く憂慮し、日本学術会議が日本学術会議法に定められ、かつ、先進諸国など国際的な標準となっているナショナルアカデミーとしての独立性、自主性およびその裏付けとなる自律的な会員選考を堅持し、人類の福祉と日本社会の発展のために、科学的助言を通じてその使命をよりよく果たすことができるように、以下のように岸田文雄首相に対する要望を表明するものである。
1. 日本学術会議は、1948年日本学術会議法によって設立され、学術が戦前の轍を踏まず学問の自由と科学の独立を基礎に政府と社会に科学的助言を行う機関として位置づけられた。以来70余年、国民の負託に応える活動を進め、国際的に重要な科学者組織としてその地位を確立している。
2. 政府自民党においては、2020年10月の任命拒否問題に端を発し、日本学術会議改革問題を検討することとなり、今般、所管の内閣府による「日本学術会議の在り方についての方針」および「日本学術会議の在り方(具体化検討案)」が作成され、日本学術会議に向けて説明が行われた。これに対して、日本学術会議は、2022年12月8日および21日に第186回会員総会を開催し、審議検討のうえ、「方針」および「具体化検討案」に日本学術会議の根幹にかかわる強い懸念があるとして声明(「内閣府『日本学術会議の在り方についての方針』(令和4年12月6日)について再考を求めます」令和4年(2022年)12月21日)を採択し、政府にその再考を求めた。私たちは、これを理解することができる。
これらの懸念は、もとより日本学術会議現会員の手によって正しく解決されるべきであり、政府が真摯に対応しその懸念の払拭に努めるべきことを私たちは強く期待するが、内閣府の「方針」と「具体化検討案」(以下、内閣府案)は、科学者代表機関の独立性と自主性について歴史的かつ国際的に形成され、私たちが共有してきた基本的考え方とあまりにも隔たっており、重ねてここで指摘することが責務であると考える。
内閣府案は、政府と科学者が国の科学技術政策とその課題履行のために「問題意識や時間軸を共有」して協働することを求めているが、それはいわば、Scientist in Governmentの仕事である。しかし、科学者コミュニティの代表機関が課題とする政府への科学的助言は、そのような協働とは異なり、ときどきの政府の利害から学術的に独立に自主的に行われるべきものである。その独立性を保障することこそ科学の人類社会に対する意義を十全ならしめる必要条件であり、一国の政府が恣意的に変更してよいものではない。
また、そのような独立性は会員選考の自律性を不可欠とするが、内閣府案が企図する「第三者から構成される委員会」の介入システムは、これとまったく両立しない。2004年法改正によって自律性保障のために採用されたコ・オプテーション制(広く推薦された多数の科学者の中から日本学術会議が会員候補者を審査のうえ決定する)は、先進諸国のナショナルアカデミーに普遍的な選考方法として、国際的に相互の信認の根拠となっているものであるが、内閣府案はこれを毀損するものでしかない。
3. 私たちは、以上のべてきた理由に基づいて、岸田文雄首相に対して、日本学術会議の独立性および自主性の尊重と擁護を求め、政府自民党が今進めようとしている、日本学術会議法改正をともなう日本学術会議改革につき根本的に再考することを願うものである。また、政府と日本学術会議の間には、2020年10月の菅義偉前首相による第25?26期日本学術会議会員候補者6名の任命拒否が信頼関係を損ねる問題として存続している。これもまた私たちにとって憂慮すべき対象であり、日本学術会議の自主性に本質的に関わる問題として適切に解決されなければならない。
最後に、私たちは、政権と科学者コミュニティとの、政府と日本学術会議とのあるべき関係について、本来ならば、一部の科学者や政党プロジェクトチームのような狭い範囲でなく、より長期的視野の公平な検討の仕組みの下での議論が行われ、科学者をふくめた社会のなかの議論、そして与野党を超えた国会での議論が必要であることを表明する。