(2022年12月9日)
統一教会の被害予防と救済に向けた新法の法案が、昨日衆院を通過し会期末の明日には参院でも可決となる見通しである。この法案、与党(自・公)側は一刻も早くあげてケリを着けたい。野党(立・維)側は、一歩前進の与党譲歩を引き出したという実績を早期に誇りたい。両者の思惑が合致して、ことは性急に運ばれた。
最終的な法案修正は、党首会談での政治決着とも報道されていたが、現実には密室での不透明な協議で、配慮義務に「十分な」という一語を付加しただけの、この上ない微調整による灰色決着となった。はたして、これで実効性のある予防・救済の法律ができると言えるのだろうか。元2世信者や被害者・弁護団からは「生煮えの法案」と評判は芳しくない。
一歩前進ではあろうが、もっと審議を尽くして、もっと実効性ある法律にできただろうに、と残念である。現行の法体系が、統一教会の横暴から被害者を救済する立法を許さない、などということは考えられない。むしろ、新法案は短時間で安直に作られたものという印象を拭えない。
かつては私法を貫く大原則として、「取引の安全」が強調された。いったん成立した法律行為が軽々に取り消されたり無効とされたのでは、経済社会の混乱は避けられない。法律行為の積み重ねを極力尊重し、過去に遡っての取消や無効を軽々に認めるべきではないという考え方。
民法は、詐欺や強迫によってなされた意思表示の取消を認める。ということは、詐欺や強迫によるものでなければ、取消は認めないということでもある。契約当事者の形式的な平等を前提とする限り、売買でも貸借でも、婚姻でも離婚でも、あるいは高額の寄附であつても、自分の意思でした行為には責任を持たねばならないということが原則ではある。
しかし実質的に、当事者間の力量に大きな格差がある分野では、形式的平等前提の「取引の安全」墨守の不都合は明らかとなる。使用者に対する労働者の保護、大企業に対する小規模企業の保護、そして事業者に対する「消費者利益の保護」を手厚くして初めて、実質的な平等が実現し法的正義貫かれる。
民法では「詐欺または強迫」に限られていた意思表示の取消要件は、消費者契約法では、大きくその範囲を拡げている。通常、これを「誤認類型」と「困惑類型」に分類する。
?消費者契約法上の誤認類型とは
・ 不実告知(消費者契約法第4条1項1号)
・ 断定的判断の提供(同条同項2号)
・ 不利益事実の不告知(同条2項)
?消費者契約法上の困惑類型とは
・ 不退去(同条3項1号)
・ 退去妨害(同条同項2号)
・ 社会生活上の経験不足の不当な利用
(不安をあおる告知 同条同項3号)
・ 社会生活上の経験不足の不当な利用
(恋愛感情等に乗じた人間関係の濫用 同条同項4号)
・ 加齢等による判断力の低下の不当な利用 同条同項5号)
・ 霊感等による知見を用いた告知(同条同項6号)
新法案は、消費者契約上の「困惑類型」を、統一教会への寄附に関して使えるようにしたことが主眼となっている。具体的には、《?不退去、?退去妨害、?勧誘をすることを告げず退去困難な場所へ同行、?威迫する言動を交え相談の連絡を妨害、?恋愛感情等に乗じ関係の破綻を告知、?霊感等による知見を用いた告知》という6項目の「禁止行為」は、消費者契約上の「困惑類型」とほぼ重なる。
なお、両法における「霊感等による知見を用いた告知」についての規定を比較してみよう。
消費者契約法では、
「当該消費者に対し、霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見として、そのままでは当該消費者に重大な不利益を与える事態が生ずる旨を示してその不安をあおり、当該消費者契約を締結することにより確実にその重大な不利益を回避することができる旨を告げること。」
救済新法(案)では、
「当該個人に対し、霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見として、当該個人又はその親族の生命、身体、財産その他の重要な事項について、そのままでは現在生じ、若しくは将来生じ得る重大な不利益を回避することができないとの不安をあおり、又はそのような不安を抱いていることに乗じて、その重大な不利益を回避するためには、当該寄附をすることが必要不可欠である旨を告げること。」
以上のとおり、救済新法の「禁止規定適用範囲」は、消費者契約法上の「取消対象の困惑類型」範囲を出るものではない。その禁止規定違反に対する制裁は、寄附の取消だけでなく、行政の関与による勧告や,是正命令・法人名公表などもできるようにしてはいるが、けっして「画期的な法案」でも、「ギリギリまでできるところを詰め切った法案」というほどのことでもない。もっと審議を重ね、もっと加害被害の態様を見極めた法の成立が望ましかったといえよう。
被害者は多くの場合、洗脳(マインドコントロール)下で「困惑」せずに高額の寄付をしているという。とすれば、「自由な意思を抑圧しない」という配慮義務規定を禁止規定として、「困惑類型」と同等の法律効果を持たれることができれば、画期的立法になるだろうが、そのためには、もっと徹底した審議を尽くさなければならない。それが放棄されたことが残念なのだ。
結局は、施行後2年の見直し規定に期待したい。
(2022年12月1日)
「世界日報」とは、言わずと知れた統一教会(系)メディア。その11月28日号の社説が、「『質問権』行使 解散ありきでなく公正に」という表題。
「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題で、永岡桂子文部科学相は、旧統一教会に対し宗教法人法に基づく「報告徴収・質問権」を行使した。」という書き出しで、「質問権行使」やその先の解散命令に、事実上当事者として異を唱えるものといってよい。
その論調は、「信教の自由の抑圧に繋がらないよう、公正な調査、判断を求めたい」「質問権行使が教団の『解散ありき』であってはならない」「宗教活動への規制は公共の福祉とのバランスをあくまで公正・慎重に勘案し行うべきである」「信教の自由という国家の基本に関わる問題を政争の具にすることは許されない。」というもの。
同じ11月28日、「神社新報」が「宗教法人をめぐる議論 社会的影響と自律の精神」という表題の論説を掲載している。こちらは、「準当事者」という立場。宗教団体に対する法の縛りを嫌う基本的立場から、「ややもすれば宗教全体に対して批判的な注目も集まりかねない昨今の状況」を憂い、この問題のとばっちりへの警戒感が滲み出ている。おそらくは、創価学会なども同じホンネではないか。
被害の予防や救済にも言及しての慎重な言い回しだが、メインのトーンは、かつての神社本庁総長が宗教法人法改正に関して発言したという下記の言葉を全面肯定するもの。
「少なくとも私が現在長をいたしてをります組織、神社本庁の傘下にあります八万の神社は真剣にとにかくやってきた。それに対して、おまへたちの今までのやり方が悪いから、さういふ悪いことが起こらないやうに法律を変へて、負担もふやすぞといふことは言へない。ですから、その点については、改正について十分留意をされたい」
解散命令にも質問権行使にも、そして救済新法にも、当事者や準当事者の消極性は当然として、メディアも世論も、積極的に歓迎の姿勢である。政府も、できるだけの積極姿勢を見せなければならない。
では、研究者はどうか。もちろん一色ではない。「信教の自由は重要だから、解散命令には慎重でなければならない」というか、「信教の自由は重要だが、解散命令もやむを得ない」とするか、なかなかに難しい判断。
本日の朝日の『耕論』に、「解散命令請求、その前に」と題して、島薗進(宗教学)、斉藤小百合(憲法学)、河野有理(政治学)の3氏が持論を寄せている。
「政府の解散命令請求に賛成か、反対か」という問いかけをしていないのだから当然といえば当然でもあるのだが、結論は分かりにくい。島薗の積極論だけは明解だが、斉藤と河野は結局のところ、消極論なのだろう。
それぞれが提示している問題点は、それなりに考えさせられる。無意味なことを言っているとは思わないが、これだけ問題が煮詰まってくると、賛成か反対かの結論が求められる。
私は、島薗の次の指摘に賛成する。
「『信教の自由』への誤解が対応を誤らせてきた面があったのではないでしょうか。戦後、信教の自由を確立するために、国家による宗教の押し付けを許さない政教分離が憲法によって明確に定められました。…旧統一教会が行ってきた正体を隠した伝道は、教団組織による宗教の押しつけにあたります。…(むしろ、この)宗教の押しつけが制限されることが、信教の自由を守ることにつながります。」
かつて私は、宗教団体(あるいは、「宗教まがい」)による「消費者被害・救済」に取り組んだとき、「加害者」側からの、「信教の自由を認めないのか」「裁判所を使った宗教弾圧だ」という抗議に晒された経験がある。
そのときに自分なりに整理したのは、「宗教団体が国家と対峙する局面」と、「巨大宗教団体が個人と対峙する局面」とでは、規律する原理原則がまったく異なるということ。前者を垂直関係、後者を水平関係と名付けて、垂直関係では国家から権力的干渉を受けない宗教団体の信教の自由が重んじられるべきだが、水平関係では消費者保護の法理が妥当すると考えた。国家権力は宗教者に謙抑的でなければならないが、また同時に、巨大宗教団体は信徒や布教対象の個人に対して謙抑的でなければならない。
統一教会が信徒や布教対象者に対して圧倒的な強者としての支配力を行使していることは、自明というべきであろう。そのような統一教会に法人格を付与して法的に優遇すべき筋合いはない。問題は、権力がその先例を濫用する波及効果にどのようにして歯止めを掛け得るか、ということに尽きるものだと思う。
(2022年6月13日)
いまや流行り言葉になってしまった「貯蓄から投資へ」。岸田内閣の大真面目な経済政策なのだが、これは、一昔前からの悪徳業者のセールストークなのだ。「リスクを取らねば損をする」「何もしないのも実はリスク」というのも、昔からの「欺しのテクニック」。それを今や、金融庁も文科省も、そして政権本体まで加わっての大合唱である。なけなしの庶民の資産までがむしりとられようとしている。
まずは、国民全体を投資家にしようという壮大なたくらみが進行している。リスク金融商品のセールスマンは、ネット世界だけでなく、学校教育の現場を占拠しつつある。
「学生時代に投資になじむ機会があれば、社会に出た後の資産形成の大きな力となることでしょう」「学生時代から金融教育を行う背景には、人生100年時代に備えた資産形成の知識を身につけておくべきという時代の流れもあります」「それは、新学習指導要領のテーマである「生きる力」の一部でもあると言えそうです」「教育の過程で学び始めれば、投資はもっと身近なものとなることでしょう」「学生でも銀行や証券に口座を持って、投資信託の積立をすることは可能です」「数百円のおこづかいで投資信託の積立を行う学生も増えるかもしれません」「口座の開設?税金の還付を受けるための確定申告を行えば、より詳しく金融について学ぶことができます」「親世代も子どもたちの見本となるべく、投資になじんでおきたいもの「今まで二の足を踏んでいた人も、積立投資を始めてみてはいかがでしょう」
既に、2022年4月より、新しい指導要領に基づく高校家庭科の「投資教育」授業がスタートしている。事態は深刻と言わねばならない。
「家計管理については, 収支バランスの重要性とともに,リスク管理も踏まえた家計管理の基本について理解できるようにする。その際,生涯を見通した経済計画を立てるには,教育資金,住宅取得,老後の備えの他にも,事故や病気,失業などリスクへの対応が必要であることを取り上げ,預貯金,民間保険,株式,債券,投資信託等の基本的な金融商品の特徴(メリット,デメリット),資産形成の視点にも触れるようにする。」(※高等学校学習指導要領(平成30年告示)「家庭基礎」より抜粋)
今年の新一年生から、高校生は家庭科の授業内で株式や債券、投資信託など基本的な金融商品の特徴を学ぶことになるという。金融庁も『国民一人一人が安定的な資産形成を実現し、自立した生活を営む上では、金融リテラシーを高めることが重要である一方で、そのための機会が必ずしも十分とは言えない』(金融庁「金融経済教育について」)としている。
「さあ、子どもたちに十分リスクは教えたぞ。あとは自己責任だ。どれもこれもカモだ」という政権と財界のホンネが聞こえる。
狙われているのは、家計の貯蓄である。庶民は老後や教育や住宅や不時の備えに貯蓄せざるを得ない。その貯蓄を金融市場に吐き出してもらわなければ資本の利益にはならない。そのため、貯蓄に対する利息は限りなくゼロとし、あるいは実質マイナスにして、投資に誘導しようとする。まずは投資や金融商品のリスクに対する恐怖心を取り除こうというのだ。そのための甘い誘いが始められている。ご用心、ご用心。岸田と政府に騙されてはならない。
政治や行政が本来やるべきことは、老後や教育や事故や病気に心配不要の社会政策の充実である。そうすれば、庶民は「宵越しの銭」をもたなくても済む。貯蓄にこだわる必要はなくなるのだ。
金融商品のリスクについて教育するのなら、悪徳商法と闘ってきた消費者弁護士の意見を十分に取り入れなければならない。投資や投機勧誘がどれほどの不幸を招いてきたかのリアルな語りに耳を傾けなければならない。
そして、きちんと原則を踏まえなければならない。投機にも投資にも、必ずリスクがある。リスクは一定の確率で必ず顕在化する。投機も投資も、働かずして利益に与ろうという非倫理性を本質にする。投機とは、他人の不幸を自分の利益に変えようという反社会的存在である。投資も証券市場での他人との売買で利益を上げるのは、証券市場の規模が一定している現在、やはり他人の損を自分の利益としていると考えねばならない。
投資も投機も賭博と変わらない。国民全部がギャンブラーになれば、この社会の生産活動は成り立たない。
今政府がやろうとしていることは、「カジノで経済活性化」「国民階投資家社会へ」である。不健全で危うい。合い言葉は、「キシダニダマサレルナ」でなくてはなない。
(2020年9月19日)
立つ鳥跡を濁さず、という。しかし、アベ晋三の飛び立った跡は、濁りっ放しだ。モリ・カケ・サクラ・カジノ・河井・黒川・アベノマスク…、納得できる説明が尽くされたものがひとつでもあるだろうか。あたかも、「我が亡き後は洪水よきたれ」と言わんばかり。アベなきあとだが、なおアベまがいが健在の今である。アベ疑惑の数々について徹底解明が望まれる。まずは、サクラ疑惑の一端である。
昨日(9月18日)、既に倒産したジャパンライフの元会長山口隆祥以下14人が逮捕された。被疑罪名は特別法(預託法)の手続き的な形式犯ではなく、刑法上の詐欺である。彼らは、不特定多数を対象に、巨額の金を巻きあげてきた大規模な詐欺グループなのだ。
彼らの詐欺の手段とされた手口が、いわゆる「預託商法」である。「オーナー商法」とも言われ、かつては「現物まがい商法」「ペーパー商法」とも呼ばれた。これを取り締まる特別法が、「特定商品等の預託等取引契約に関する法律」(略称・預託法)。
この「預託商法」の元祖は、豊田商事である。この詐欺グループは、全国展開して顧客に金地金を売った。いや実は、売った形をつくって代金は受け取るものの、売った金地金の現物を顧客に引き渡すことはない。渡すのは、預り証のみ。つまり、形の上では顧客の所有する金地金を豊田商事が預かって、これを資産として運用し高額のレンタル料を顧客に支払うと約束する商法なのだ。
実は、豊田商事に顧客に売却する金地金の保有はない。だから、顧客から預託を受けて資産運用にまわすべき金地金もない。実態は、預り証という「ぺーパー」を高額で売るだけの悪徳商法なのだ。レンタル料支払い原資となるはずの運用益収入の見込みはなく、預かり期間が経過すれば当然に「返還」しなければならない金地金も存在しない。ただ、新たな顧客から新たな資金を獲得し続けることができる限りで、破綻は先送りになる。しかし、その自転車操業の先送り期間が長く続けば続くほど、破綻した際の被害規模は厖大なものになる。
売買と預託契約がセットとなる対象商品は、金地金や貴金属に限られない。盆栽でも、仔牛でも、ゴルフ会員権でもリゾート会員権でもよい。ジャパンライフの場合は、「磁気ネックレス」「磁気ベスト」などだった。法規制はもともと限定的で、問題が生じる度に規制対象を増やし、規制手段を厳格にしてきた。結局、法の目をくぐった悪徳商法被害を防止することはできず、捜査本部によれば、被害者1万人弱、被害総額約2100億円といわれる、ジャパンライフ事件を防止できなかった。
ジャパンライフ事件は、この深刻な大型悪徳商法被害がどのように生じたのか、その社会的・経済的な原因はどこにあるのか、どうすれば同種事件の再発を防止できるか、そのための立法措置をどうすべきか、等々の問題を投げかけている。
その一般論とは別に、この事件の特殊な背景事情として、悪徳商法グループと、政治家や官僚との密接なつながりが見える。ジャパンライフは、積極的に政治家に献金を重ねてきた。官僚を天下りとして迎えてもいた。そして、政治家や官僚を「広告塔」として使った。
広告塔の最たるものは、ときの総理大臣安倍晋三である。山口に対する首相主催の「桜を見る会」への招待状が顧客の勧誘に最大限活用されている。2015年4月18日の「会」への招待状は、同年2月に発送され、山口は、顧客を集めるためのパンフにこの招待状の写真を掲載して、強力な宣伝材料とした。首相主催の「桜を見る会」への被招待者は、各界の社会的功労者とされているのだから。被害者弁護団によれば、多くの被害者がこの招待状の効果を語っているという。
今回の山口ら逮捕の被疑事実は、「2017年8月4日?11月7日、資金繰りが苦しく配当金の支払いや元本返済ができる見込みがなかったのにそれを隠し、福島、愛知など8都県に住む50?80代の男女12人から契約金として計約8000万円をだまし取った」というものである。そのすべてが、アベの広告塔効果による被害との疑惑を否定し得ない時期のものなのだ。
政治家も行政も、疑惑あれば、誠実にこれを解明すべく説明責任を果たさなければならない。ところが、アベ晋三も、官房長官だったスガも、説明拒否の頑な姿勢を崩さない。説明拒否の唯一の理由が、招待者名簿は破棄されて事実関係の確認の術がない、ということ。この名簿がシュレッダーかけられたのは、2019年5月9日、この件について宮本徹議員の質問主意書が提出された1時間後のことである。
被疑者山口は過去に、マルチまがい商法をしていたとして国会に参考人招致されている。14年には消費者庁がジャパンライフに行政指導をしていた。なぜ、こうした人物が、「各界の社会的功労者」の一人として招待されたかは不明のままだ。誰が、どんな経緯で、被招待者として推薦したのか、安倍事務所のスタッフに厳格な調査をすれば、分からぬはずはない。
アベ晋三は、これまで国会で首相の推薦枠で招待した疑いを指摘されて、個人情報であることを理由に説明を拒んだ。いったい誰のプライバシーに配慮しいるというのだろうか。
なお、ジャパンライフの広告塔になったのは、アベ晋三だけではない。ジャパンライフは、加藤勝信(官房長官)や二階俊博(幹事長)の顔写真でチラシを作成している。菅義偉(首相)、麻生太郎(財務相)の名前が載った「お中元リスト」の存在も国会で指摘されている。下村博文(政調会長)関連団体への献金も明らかになっている。
また、ジャパンライフは、元内閣府官房長や消費者庁元課長補佐らを顧問に迎え、この6人に総額約1億6000万円の顧問料を支払ってもいる。「政治家だけでなく官僚OBも利用して、荒稼ぎをし追及を逃れてもきた」のだ。
いま、スガ義偉首相は、今後の「桜を見る会」の中止を表明するとともに、疑惑解明を拒否している。しかし、今後の「会」の継続の有無とは無関係に、疑惑解明はしなければならない。スガの態度は「疑惑解明は無理だから、今後の中止でごまかす」「今後の中止を口実に疑惑解明をエスケープしよう」としか見えない。
アベ疑惑の数々のうち、この機会にまずはサクラ疑惑の徹底解明を求めたい。さらに、これを端緒にモリ・カケ・カジノ・河井・黒川・アベノマスク…等々についても、政権と捜査機関の両者において、納得できる説明を尽くしていただきたい。それなくして、スガ新政権への国民の信頼はあり得ない。
一昨日(12月18日)、「ジャパンライフ全国被害弁護団連絡会」が、安倍晋三の「桜を見る会」疑惑に関連して声明を発し記者会見を行った。「安倍首相は、山口隆祥元会長を「桜を見る会」に招待した経緯を、被害者らに誠意をもって説明すべきだ」とする趣旨。弁護団代表は、さらに同日、国会内で行われた野党の合同ヒアリングにも参加して、被害者の立場から内閣府の担当官に,強い姿勢で「誠実な説明」を求めた。
「桜を見る会」疑惑の本質は、安倍晋三とその取り巻きの行政私物化である。国家の私物化といってもよい。なによりもこのことの重みを明確にしておかねばならない。
安倍晋三とその取り巻きのやったことは、公私混同という醜行である。彼らの頭の中では、「公」と「私」の区別が溶けてなくなっているのだ。アベ後援会の活動も自民党の活動も「私」の分野のものである。本来、すべて私費で行われなければならない。「桜を見る会」は政府の公的な行事である。参加者の選定も、その招待も、会の進行も、本来「公」の活動である。この区別を殊更に無視して、「桜を見る会」という「公」の行事を、「私」の安倍後援会活動の一端に組み込んだ公私混同が、まず糾弾されなければならない。
のみならず、安倍晋三とは内閣総理大臣の座にある者である。言うまでもなく、内閣総理大臣とは公権力のトップに位置する職務である。彼の場合の「公」と「私」との区別は、法の支配や立憲主義と密接に関わる。近代以前には、王や領主の私的な家法が、そのまま国法でもあった。そこでは、権力者の意思はすなわち国の意思であって、権力者の私的行為と公的行為の区別の必要はなかった。しかし、近代国家では、権力者の恣意の振る舞いは許されない。憲法に従い国民の利益のために働く意思と能力を持つ者に、その限りで権力が預けられ、その範囲で権力の行使が許されるのである。近代社会では、権力の私物化など、原理的にあり得ないのだ。
ところが、安倍晋三という人物は、権力を私物化し、「私」の利益のために「公」を利用しているのだ。この人物には国民の利益のために働く誠実さと能力を欠くことにおいて、権力を預かる資格がない。
そのことを確認した上で、「反社の方々」や「甚大な被害を輩出している詐欺師」を「桜を見る会」の招待者としたことの非を、派生問題として把握しなければならない。が、この派生問題は、実はたいへんに大きなインパクトを持っている。
被害者弁護団は、「桜を見る会」の招待状が同社の宣伝や勧誘に利用されたことで「多くの被害者がジャパンライフを信頼できる会社と誤解した」と指摘。長年にわたって悪徳商法を展開してきた山口を功績・功労があった者として招待した経緯について「(安倍首相は)被害者に対し、誠意をもって説明すべき」だと強調している。
ジャパンライフとは大規模な詐欺組織である。山口隆祥とは、その総帥の詐欺師にほかならない。安倍官邸はこの詐欺師を「桜を見る会」に招待し、招待された詐欺師は、総理主催の公的行事に招待されたことを,社会的信用の証しとして最大限に活用した。
現在破産手続き中の同社の負債総額は2405億円、契約者は7000人に上るものの、破産手続き中の同社が被害者に返金できる資金はないという。そこで弁護団は、同社の元顧問らに顧問料の返還を求めるよう管財人に要請し交渉中という。元内閣府官房長・永谷安賢、元特許庁長官・中嶋誠、元科学技術庁科学技術政策研究所長・元日本オリンピック委員会(JOC)理事・佐藤征夫、経済企画庁長官秘書官・松尾篤元、元朝日新聞政治部長・橘優らである。いずれも、被害者を信用させるに足る地位にいた顧問ら。その合計金額が1億4500万円に上るという。
ジャパンライフが悪徳業者として話題に上ってから20年余にもなる。かくも長期に永らえ、かくも甚大な被害に至ったのは、行政や大物政治家との癒着があったからである。多くの天下り官僚を受け入れてもいた。政治資金パーティーには、毎年100万円?200万円を支出していた。この癒着の象徴として、「桜を見る会」の招待がある。
また、同社はこれまで4度の行政処分を受けており、その悪名を内閣府が知らなかったはずはない。それでも、公的に山口に「桜を見る会」の招待状が届き、詐欺商法に利用させた。これについて、内閣府も官邸も可能な限りの調査をし説明をしようという誠実さのカケラもない。名簿の保存がないから、山口を招待したことすら確認できないという、説明拒否に終始する態度なのだ。誰がどのような理由で推薦し、内閣府がどのような根拠で招待に値すると判断したのか、その過程を誠実に調査して明確にすれば、安倍政権の公私混同ぶり、権力者の放埒な振る舞いが白日のもとにあぶりだされるからなのだ。
「桜を見る会」への詐欺師招待は、必ずしも問題の本質ではない。しかし、たいへん分かり易く、行政の私物化がもたらす弊害を明らかにしている。同時に、行政が資料の廃棄を急いだ理由をも教えてくれてもいる。はからずも、詐欺師正体が、「桜を見る会」疑惑の正体を照らし出すものとなっているのだ。
(2019年12月20日)
「戦争の8月」「侵略の9月」が終わって、「天皇制の10月」である。祝日とされた今月22日には、新天皇を高御座に見上げて臣民たちが、「テンノーヘイカ、バンザイ」という愚劣な滑稽劇を演じる。音頭をとるのが、臣・安倍晋三。なるほど、行政を司る地位にある者をいまだに「大臣」というわけだ。この国が、神の国であり、天皇の国であることを可視化して、広く知らしめようという魂胆。
もちろん、安倍晋三が、天皇を崇敬しているわけでも、神道を信仰しているわけでもない。彼は、天皇(統仁・睦仁)を「玉」として、政敵と取り合った長州派の末裔である。天皇という存在の政治的な利用方法をよく心得ている。保守派の為政者にとって、ナショナリズムはこの上なく便利な政治の手段。天皇は日本型ナショナリズム発揚に欠かせない小道具なのだ。
いささかなりとも主権者としての自覚をもつ者、10月22日を天皇制に無批判な姿勢で無為に過ごしてはならない。10月22日には、何とか一矢を報いたい。
ところで、天皇制を支える小道具は、いくつもある。元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
国民の日常生活に、最も密接に定着しているのは元号であろう。10月22日、「即位礼正殿の儀」のバカバカしさに異議ある方には、下記の講演会はいかがだろうか。
下記のURLをクリック願います。
10.22西暦併用を求める会講演会チラシ(表)
講師の一人が、私である。私の報告のタイトルは、「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」というもの。
チラシには下記のように記載されている。
「講師の澤藤統一郎さんは元日弁連消費者委員長、元日本民主法律家協会事務局長を歴任、田中宏さんは長らく在日外国人の問題に取り組んできました。
ご一緒に元号の問題を考えましょう!参加費500円です。
西暦併用を求める会講演会
2019年10月22日(火)18:30?21:00
(開場18:00)
文京区民センタ?【2A会議室】文京区本郷4-15-14
お問い合わせ「西暦併用を求める会」:事務局TEL:090-8808-5000(藤田高景)TEL:080-1052-7714(稲正樹)seirekiheiyo@gmail.com
「西暦併用を求める会」主催だが、「すべての公文書は西暦表記に!」という「急進的」スローガンを立てている。
私の言わんとするところは、元号という紀年法の欠陥性である。消費者事件としての製品の欠陥は、単に性能劣悪ということではなく有害であることを意味する。
元号は、消費期限が短く、しかも使用可能地域の限定性故に不便極まりないというだけでなく、民主主義社会に明らかに有害なのだ。安倍政権は、なぜそのような欠陥商品の販売にこだわり躍起になるのだろうか。そんな問題意識をお話ししたい。
以下、チラシからの引用である。
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元号の押しつけは許されない。
元号の不合理性は、日常的にイライラさせられる事柄として現れます。
NHKのニュースが、「平成13年から始まった○○が・・」、と放送する時、それは何年前なのか、瞬時には分からず、思考が途切れます。歴史の中にいる感覚が分断されるのです。
銀行通帳に記帳される日付が5月1日を境に、突然31から1に代わったり、あり得ない平成40年とかいう数字が残っている契約書、これらを作っている方々は、「顧客満足」という言葉をどう考えているのでしょうか。なぜ、お互いにわかりやすく年の表記はしましょう、というあたりまえのことが通用しないのでしょうか。
その事を考え、それを変えていくために、私たちはこの講演会を企画しました。
西暦表記に反対したり、ためらう方々は様々な理由を挙げます。
Q:世界にはいろんな暦がある、国の個性なのだからいいではないか。
A:暦の多様性が問題なのではありません。「世界で唯一」年の数え方を途中でリセットしてしまう制度だということが問題なのです。しかも、天皇という生身の人間の状態を変更のきっかけとしているので、いつリセットされるか不確定。一年の途中からでも変更されてしまう。だから、「元号」で未来の年を表記しようとすることは厳密に言えば原理として不可能! そのような紀年法を公文書に使い続けるというのは異様です。「世界で唯一の・・・」は、誇れることでは全くないのです。
Q:西暦はキリスト教のものだから特定の宗教の紀元など使うべきでない。
A:世の中のものにはそれが出来上がってきた経過があります。一宗教に起源があったとしても現在は紀年法としてほぼ世界標準になっており、2016年にサウジアラビアもイスラーム暦であるヒジュラ暦からグレゴリオ暦(西暦)に変更しました。
Q:世の中、合理性だけで割り切れない、日本の伝統・文化を守るべきだ。
A:「元号」は中国からの輸入品ですが、「わが国の伝統・文化」とされています。
1868年(慶応4年)9月8日の明治改元は、それまで天皇の代替わりだけでなく、ことあるごとに元号を変更していた「日本の伝統文化」を打破して「一世一元」としました。
1872年(明治5年)11月9日、それまでの「日本の伝統文化」であった太陰太陽暦(旧暦:天保暦)を現在使われている太陽暦に大変更、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする荒技も見せました。11月15日には神話上の初代天皇である「神武天皇」の「即位日」を“紀元”と定めた(西暦に660年を足した数字となる)「神武天皇御即位紀元」が制定されました。1940年(昭和15年)には「紀元二千六百年」という歌も作られました。
自分が物心ついた時、昔からそれがあったから、というのではなく、現にある制度自体の合理性、妥当性を皆で議論して、今後どのようにしていくのかを、皆で決めていかなくてはなりません。
「伝統・文化」という言葉に「思考停止のゆりかご」を求めてしまうような態度は、「国家・社会」のためにはなりません。
過去の人達と同じように、今、私たちも、新しい「伝統・文化」を作る心意気を持って踏み出すべきではないでしょうか。不合理をあきらめたり、黙認するのではなく、私たちのことを、変化しないように現状に縛り付けようとする思想、を充分吟味し、日本社会をより生きやすくするために共に一歩を踏み出しましょう。
(2019年10月2日)
本日(4月10日)、「警察の使命 市民の安全が最優先?秋田・弁護士殺害事件高裁判決を読み説く」と題した報告集会に参加した。
「秋田・弁護士殺害事件」の被害者は、津谷裕貴さん。2010年11月4日未明,自宅で殺害された。犯人は、津谷さんが受任していた離婚事件の相手方であった。拳銃や枝切りばさみ、一緒に自爆するための火薬入りベストなどを用意して侵入。津谷さんを殺害しようともみ合いになった。津谷さんは、犯人から拳銃を取りあげたが、そこに妻の110番通報で警察官2人が駆けつけた。警察官は、犯人から拳銃を取り上げていた津谷さんを犯人と誤って取り押さえ、そのその隙に犯人が津谷さんの胸などを枝切りばさみで複数回刺して殺害したという。結果論だが、警察官の不用意な介入がなければ津谷さんが殺されることはなかった。
犯人は、殺人罪で無期懲役が確定したが、遺族は国家賠償請求訴訟を起こした。駆けつけた警察官の過失によって津谷さんが死に至ったという主張。ところが、一審秋田地裁はこの請求を棄却した。銃をもっていた津谷さんを犯人と誤って取り押さえたことは、この状況下ではやむを得ず、警察官に過失はない、という判断だった。
控訴審である仙台高等裁判所秋田支部は,2019年2月13日,第一審判決を破棄し,現場の警察官の過失を認める逆転勝訴判決を言い渡した。判決の中に,「警察官としては,被疑者の逮捕よりも国民の生命身体の保護を優先すべき」という一文があるという。本日の報告集会は、「警察の使命とは何か」という視点で高裁判決を読み解く、というもの。事件記者として警察取材の経歴が長い、ジャーナリストの青木理さんを交えてのパネルディスカッションは、興味深いものだった。秋田県側の上告があって、舞台は最高裁に移っている。事件が確定した段階で、詳細報告をしたい。
ところで、津谷さんは、殺害された当時、日弁連の「消費者問題対策委員会」の現役委員長であった。日弁連の活動とは、委員会活動にほかならない。その委員会の代表格として、消費者委員会の活動がある。消費者問題の間口は広く、奥行きは深い。日弁連消費者委員会は、その重要な全領域をカバーして、たいへんアクティブな委員会として知られている。
消費者問題に関する情報を交換し、研究し、被害救済の実践例を持ち寄り、成果を啓発し、各地の消費者行政や運動と連携し、さらには立法活動に奔走している。弁護士としてやりがいのある分野であり、この委員会に拠って活動している弁護士の所属意識や連帯感は強い。消費者族などという言葉がある。消費者族は、場合によっては全国的な大事件に弁護団を組み、さらに連帯感を高める。
この委員会の2代目委員長が、大阪弁護士会の中坊公平さん。私は8代目だった。津谷さんが何代目かは承知していないが、現役委員長の殺害は衝撃だった。
直後に発行された、同委員会の「消費者問題ニュース・No.140」に、委員長代行石戸谷豊弁護士(横浜)の追悼の言葉「津谷委員長とともに」が掲載されている。強く胸を打つものがある。
以下は、その一部である。
…津谷さんは,いなくなったわけではない。そう思い直した。私は,妻を癌で亡くして以来,自ずと涌きあがってくるものを詩の形にしている。これが,故人と会話する私なりの作法となった。津谷さんの葬儀の翌日が,消費者委員会の正副委員長会議であった。その翌日は全体委員会で,委員長代行として臨むことになった。事件当日以来,浮かんできたあれこれの思いを詩の形にして,津谷委員長に捧げ,委員会を迎えた。だから,津谷さんも,ともに委員会にいてくれたはずである。そして,不招請勧誘の禁止ルールが消費者法に導入される日には,ともに喜んでくれるはずである。全国の仲間と一緒に,歩んでくれるはずである。いつもの笑顔で,いてくれるはずである。
? 津谷さんへ
津谷さん
津谷さんが亡くなったと
報じられたけれども
テレビで流れている映像は
いつもの津谷さんの姿であり
そこに
津谷さんがいるようでもある
けれども
セレモニーホールでは
棺の中に
津谷さんが眠っており
小雨降りしきる中で
納棺の儀が行われ
遺骨が安置され
大きな写真が置かれ
部屋いっぱいに花が飾られて
会長が弔辞を読んでいる
津谷さん
してみると津谷さんは
やはり
亡くなったのだな
そうだ
津谷さんは
先物事件に情熱を注いだ
津谷さんは
被害者の話をよく聞き
自ら憤り
訴状を書き
裁判を戦い
判決をとり
最高裁の判決もとり
熱く語り
活字にして
手引きにして
改訂して、また改訂して、
何度も何度も改訂して
いつも新しい情報を届けた
各地の弁護士は
それを活用して
裁判を戦い
大勢の被害者を救った
それに
津谷さんは
こんな法律はおかしいと
意見書を書き
日弁連の意見書を書き
先物研の意見書を書き
審議会に持ち込み
議員会館をまわり
政党を動かし
国会を動かして
法案の修正に持ち込み
法改正に持ち込み
多くの被害を防いだ
津谷さん
あれだけ情熱を注いだ
不招請勧誘の禁止が
ついに商品先物にも導入されたのだ
その改正法は
もうすぐ施行されるのに
やはり逝ってしまうのか
津谷さん
今日は委員会が開かれて
津谷さんの大好きな
津谷さんを大好きな
仲間が集まっているのだから
それだから
今日は
皆と共にいてください
そして
議論を見守ってください
いつもの笑顔で
まとめてください
ぜひ、そうしてください
ぜひ、そうしてください
2010年11月11日
消費者委員会を迎えて
(2019年4月10日)
今朝(1月6日)の毎日新聞1面に、「りそな『核製造企業への融資禁止』 国内大手銀初の宣言」という記事。おや、「りそな」が、そんなに立派な金融機関だとは知らなかった。以前、DHCと比較してワコールを賞讃したことがあった。本日は、DHCと比較するのも失礼かと思うが、りそなホールディングス(HD)のCSR活動に敬意を表したい。りそなが融資禁止の対象としているのは、核製造企業だけではない。CSR(企業の社会的責任)を徹底しようという試みなのだ。
まずは、毎日記事の抜粋である。
りそなホールディングス(HD)は、核兵器を開発・製造・所持する企業に対して融資を行わない方針を定め、公表した。該当企業には一切の融資を行わないと宣言したもので、こうした取り組みは国内の大手銀行では初めて。2017年7月に核兵器禁止条約が国連で採択され、欧州を中心に投融資を禁止する銀行や機関投資家が広がっており、国内でも同様の動きが出てくるか注目される。
具体的には、核兵器・化学兵器・生物兵器や対人地雷・クラスター弾などの製造企業▽人身売買や児童労働、強制労働への関与が認められる企業▽環境に重大な負の影響を及ぼすおそれのある開発プロジェクト――などへの融資を行わないと明記。融資先の社会・環境へ配慮した活動を支援するとした。
私の問題意識はこんな具合だ。
資本主義とは、本来が利潤追求至上主義を容認する経済システムである。個別企業が、競争に勝ち残り利潤を最大化するためには、チャンスさえあれば儲かることならなんにでも手を出すことになる。そして、直接利潤につながらない無駄なコストは冗費として削減せざるを得ない。
見えざる神の手が市場を予定調和に導くというのはウソも甚だしい。資本の利潤追求の衝動と市場原理に任せておけば、労働者の搾取は限りなく進行し、消費者の安全も、環境も損なわれる。資本主義原理の外からの規制が必要なのだ。大切なのは、企業でも市場でもなく、社会の構成員である民衆の利益なのだ。いったい、どうすれば、民衆の利益のために、社会が企業を統制することができるだろうか。
核兵器やその部品を作る会社なら儲かるだろう。公的融資も受けているはずだ。そんな企業への融資は回収の安全性が高い。利潤追求原則から言えば、望ましい融資先ではある。しかし、核兵器に対する世論の厳しさを考慮すると、核兵器産業に対する融資は、強い社会的指弾を受けることになりかねない。明らかに企業ブランドにはマイナスイメージだ。長い目では、融資機関の企業利益にならないとの判断とならざるを得ない。
本格的には、法と行政による権力的規制という手段が控えているが、世論の指摘や消費者の運動によって、非権力的な企業行動の誘導が可能なのだ。ブランドのプラスイメージ獲得のためのCSR。社会はこれに応えなければならない。
念のために、りそなホールディングス(HD)のホームページを開いてみて、驚いた。そのCSR(企業の社会的責任)コーナーの充実ぶりにである。
https://www.resona-gr.co.jp/holdings/csr/index.html
まずは、社長のトップメッセージの中に次の一文がある。
「国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)の達成に向け、「2030年SDGs達成に向けたコミットメント(Resona Sustainability Challenge 2030)」を11月に公表しました。SDGs達成に向け、環境・社会課題をテーマとしたお客さまとの建設的な対話の推進をはじめとする6つのコミットメントに取り組み、活力あふれる地域社会の実現に貢献してまいります。」
この真面目さが素晴らしい。在日ヘイトを垂れ流すDHC会長メッセージとは、天と地ほどの落差だ。SDGsが何度も出て来る。SDGsは17の具体的な目標として知られるが、それは「貧困をなくす」「飢餓をゼロに」から始まって、「人や国の不平等をなくそう」「ジェンダーの平等」「平和と公正をすべての人に」などが掲げられている。りそなホールディングスは、そのすべての課題に具体的な取り組みを示している。SDGsセミナー「中小企業のためのSDGs入門」を開催しました、という報告もある。
そして、こんな企業の行動宣言がある。
りそなWAY(りそなグループ行動宣言)
社会と「りそな」
「りそな」は社会とのつながりを大切にします。
「りそな」が存在する意義を多くの人々に認めていただけるよう努力します。
広く社会のルールを遵守します。
良き企業市民として地域社会に貢献します。
従業員と「りそな」
「りそな」は従業員の人間性を大切にします。
「りそな」の一員であることに誇りを持って働ける職場を創ります。
創造性や変革に挑戦する姿勢を重んじます。従業員一人ひとりの人間性を尊重し、能力や成果を公正に評価します。
さらに、CSR(企業の社会的責任)コーナーは、項目だけを拾えば、次の具合だ。
CSRに関する考え方
経営理念、行動宣言とCSR方針の関係
2030年SDGs達成に向けたコミットメント
社会的責任投融資に向けた取り組み
重点課題(マテリアリティ)の特定
CSR目標・実績
国際的なイニシアチブへの参加
日本版スチュワードシップ・コードの受入れ
CSRへの取組み
コーポレートガバナンス
コンプライアンス
消費者課題/お客さまサービス
コミュニティ
環境
ダイバーシティ
人権
こんな企業なら応援したくなるではないか。
これと比較する目で、DHCのホームページを眺めてみよう。
https://top.dhc.co.jp/company/jp/
両社の比較は、月とスッポン、提灯と釣り鐘。
DHCのホームページには、みごとなまでに何にもない。IRも、企業倫理も、CSRもまったくないのだ。今や、吉田嘉明会長の露骨な在日差別メッセージもなくなっている。あるのは商品宣伝だけ。儲け以外にはなんの関心もないというこの徹底ぶり。
メディアも世論も消費者も、ワコールや「りそな」を賞讃するだけでは不十分ではないか。デマとヘイトとスラップのDHCを徹底して批判することが必要だ。賞讃と批判が両々相俟って、社会に親和的な企業を育成し、反社会的な企業を淘汰することが可能になる。とりわけ、消費者のDHC製品不買の行動が、デマやヘイトやスラップをなくすることに大きな力となる。DHC製品を買わないというだけで、よりよい社会をつくることに寄与できるのだ。
なお、下記の「社員による会社評価ランキング」という興味深いサイトを見つけた。
ランキングは、各社社員のクチコミによるものだという。DHC社員からのクチコミ報告数は1125件とされている。
https://www.vorkers.com/a0910000002XwSf/ranking/
DHCは、日用品・化粧品部門659社中「総合評価ランキング」では640位となっている。また、「(社内の)風通しの良さランキング」では、659社中の659位、つまり最下位なのである。その厳密な正確性は分からないが、DHCが「りそな」のような、「広く社会のルールを遵守します」「良き企業市民として地域社会に貢献します」「従業員の人間性を大切にします」との姿勢をもっていないことを如実に示している。社会も、消費者も、従業員も、デマとヘイトの企業は弾劾すべきなのだ。
(2019年1月6日)
師走である。何とも、季節の遷りが速い。
暦の上では、昨日までは秋。その秋の終わりに、スルガ銀行不祥事の処分が発表になった。同銀行は昨日(11月30日)、シェアハウス向けの不正融資問題で117人を処分し、同時に業務改善計画を金融庁に提出したと発表した。
ところで、言葉遊びである。誰が作ったやら、これほどうまくできている例を他に知らない。
あきのかがすおうとするがみのおわり
漢字で表記すると面白くもおかしくもないが、こうなる。
秋の蚊が、吸おうとするが、身の終わり。
元気のよい夏の蚊ではない。ヨタヨタと元気のない秋の蚊である。血を吸おうと人の肌にとりついたが、たちまち事は露見。逃げ遅れて叩かれ、哀れ身の終わりとなった。それだけの句。
いくつの国名を読み込んでいるか。
「安芸の加賀、周防と駿河、美濃尾張」で6か国、は正解ではない。
ひらがなの「の」と「と」を、能登と読んで7か国が正解なのだ。17文字すべてが、国名の読み込みに使われている。たいへんな才能というべきか、恐ろしく暇な御仁の手すさびか。
この17文字の中に「するが(駿河)」が入ってるのが、実に示唆的でもあり、予言的でもある。
今話題のスルガ銀行。2004年の商号変更前は、駿河銀行だった。静岡県沼津市に本店を置く地方銀行の雄の一つ。元は堅実な経営姿勢で知られ、バブルで傷を負わなかったことが賞讃された。よりによってその「駿河」が、消費者の血を吸おうとして、この秋身の終わり同様の体である。
メディアは、厳しく同行のコンプライアンス軽視の姿勢を批判している。いつもながらの企業の不祥事発覚のたびに、行政規制の重要さを再確認させられる。この行政規制とコンプライアンスが重要なのだ。
思い出す。バブルが終わって吹き出した日本企業の醜状。私は、当時日弁連の消費者委員長としてこれに向き合った。それまで消費者問題とは、豊田商事であり、茨城カントリークラブであり、武富士であり、あるいは霊感商法であり、原野商法等々であった。言わば、経済社会の片隅、あるいは日陰に生じるものであった。
ところが、蓋を開けてみれば、似たようなことを銀行も生保もやっていた。証券会社などはもっとひどかった。その典型が変額保険であり、過剰融資問題であった。シェアハウス向け融資と基本構造を同じくする。以来、消費者問題とは企業社会そのものと向きあうべきものと意識されるようになった。
資本主義社会とは個別資本の利潤追求の行動を是認する制度である。しかし、この野蛮な資本の衝動を放置していたのでは、人を限りなく搾取し収奪することになる。法や行政による規制が絶対に必要なのだ。
バブル経済崩壊のあと、経済社会を立て直すためにとして、規制緩和論が台頭した。新自由主義という「理論」の衣をまとって。だが、消費者問題に携わる現場からは、悲鳴にも似た規制緩和論への反発が生じた。企業は常に規制緩和を求め、消費者はこれに抵抗を続けざるを得ない。
たとえば、DHCの吉田嘉明である。吉田嘉明は政治家・渡辺喜美に8億円の裏金を提供した。その動機として彼が最も力んで主張しているのは、「日本国をより良くしようと脱官僚を掲げる政治家(註?渡辺喜美)を応援するために、大金(註?8億円)を貸し付けた」というのである。
今さら言うまでもないが、吉田嘉明は化粧品とサプリメントを製造販売する会社の経営者として厚労省の規制に服する。ところが、新潮手記の冒頭には、「厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」「霞ヶ関、官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と露骨に書き連ねているのだ。
並みの文章読解能力を持つ人がこの手記の記載を読めば、吉田嘉明のいう「国をより良くする」とは「脱官僚」と同義であり、「日本をダメにしている監督官庁の規制をなくすることを意味している」と理解することになる。彼が「国をより良くしようと脱官僚を掲げる政治家を応援するために、8億円もの大金を政治家に渡した」のは、「他の省庁と比べても特別煩わしい厚労省の規制チェックを緩和する」期待を込めてのことなのだ。彼の手記は、そのような読者の理解を誘導する文章の筋立てとなっているのだ。
秋の蚊を叩きながら、つくづくと思う。
「企業の利益よりも、消費者の利益が大切ではないか」「コンプライアンスは大切だ」「もっと果敢に行政規制の制度を活用すべきだ」。
また、こんな見え透いた企業人の言葉に欺されてはいけない。
「規制緩和こそが経済再生の切り札だ」 「企業の自由な行動を保障しなければ日本企業の競争力が失われる」。
ゴーンの逮捕が、企業人の倫理観の欠如を改めて国民に印象づけた。規制あってなお、その遵守がなされていない。
(2018年12月1日)
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ウソとごまかしの『安倍政治』総検証!
12月3日(月)18時?20時(開場17時30分)
衆議院第1議員会館 地下1階「大会議室」
最寄り駅は、丸ノ内線・「国会議事堂前」、または有楽町線・「永田町駅」です。
(集会にはどなたでもご参加いただけます。議員会館ロビーで、担当の者が入館証を配布していますので、お受け取りのうえ入館下さい。)
開業医共済協同組合の「加入者2000名達成祝賀会」に祝辞を申しあげます。
私は、縁あって貴協同組合の顧問を務めておりますが、意気に感じて積極的にその任をお引き受けしたつもりです。その気持ちの一端をお話しすることが、加入者2000名達成の祝意を表明することになろうかと存じます。
私は、開業医の皆様と同じく個人経営の弁護士です。医師の皆様は専門診療科を標榜しておられますが、弁護士の業務にはそれがありません。幅広くなんでもやることになるのですが、自ずと専門分野というものが定まってきます。私の場合の専門分野は、消費者問題です。
消費者問題を扱う弁護士というと、過払い請求のサラ金弁護士を思い浮かべる方がいらっしゃるかも知れませんが、私はこの四半世紀、クレジット・サラ金債務整理の仕事はしていません。また、消費者問題として悪徳商法被害救済をイメージされる方も多いこととでしょう。それが間違いというわけではないのですが、私は消費者問題の基本テーマは、消費者が企業社会をどうコントロールすることができるのか、という課題だと思っています。
その意味では、対峙する相手は「悪徳」事業者であるよりは、経済社会の中枢に位置している大企業なのです。そして、個別の消費者被害の救済から一歩進んで、企業をあるいは企業社会をどう制御できるか、あるいはすべきかを考えなければならない。そのような立場を貫いてきました。
私たちが現実に生きているこの資本主義社会というものは、企業社会ということでもあります。この社会の実力者である個々の企業が、それぞれ最大利潤を求めて競争にしのぎを削っている苛酷な社会。その競争の勝者には過大な利益がもたらされる反面、敗者は路頭に迷わねばなりません。企業という経済単位間の相互の関係は、生存を懸けた「競争」ということであって、けっして、連帯でも友愛でもありません。
また、企業はその内部で、あるいは商品生産や流通の過程で、労働者を雇用しなければなりません。あるいは弱小の企業に下請けをさせます。企業がその実力を恣にして、雇用する労働者や弱小企業に対して、最大利潤追求の衝動をむき出しにすれば、労働者や弱小企業の人間的な存在を否定することになることは見易いところですが、似た問題は消費市場でも生じていることを見落としてはなりません。
この社会では個別企業の需要見込みによって大量の商品生産が行われ、サービスの供給が行われます。その商品は、すべて最終的には消費市場で消費者に購入してもらわねばなりません。需要見込みによって作られた大量商品の最終消費なしには、再生産のサイクルが正常に稼働しません。何が何でも、消費者の消費意欲を喚起し、無駄なものでも、生産されたものを消費者に押しつけ買わせなければなりません。言わば、企業が消費者を操らなければならないのです。そこからさまざまな弊害が生じます。これが、消費者問題の基本構造です。
企業の要請に応じて、消費者操作のための技術が発達し専門化しています。まずは、消費者心理のマインドコントロールというべき宣伝・広告の巧妙化と大規模化。そして、商品購買に必要な金融・与信のシステムの構築。本当は必要のないもの、不要なものを買わせなければならないのです。そのための企業による対消費者コントロールが行われているのが、消費市場の力関係の現実と言わざるを得ません。
消費者運動・消費者問題とは、消費市場における企業による対消費者コントロールによる諸弊害をなくしていくこと。できれば根絶することですが、そのためには利潤追求至上主義の企業を、消費者の手でコントロールしなければなりません。それは、利潤追求第一を当然のこととして許容する社会ではなく、人間尊重をこそ大切にする社会のありかたを模索する運動の一分野だと考えられます。
ところで、この消費者運動における問題意識は、協同組合運動にも共通していると思うのです。協同組合という存在は、企業社会の中の飛び地のようなところに位置を占めています。企業と同様の経済行動の単位でありながら、利潤追求組織ではなく、その運営原則は、相互扶助であり、連帯であり友愛なのです。
企業の経営には民主主義原則はありません。徹底した効率追求です。しかし、協同組合は平等な成員の民主的手続によって運営されなければなりません。消費者運動とともに、協同組合運動が発展することは、相対的に企業の存在感狭小化につながります。企業を存立基盤とする保守政党の政策にも影響を及ぼさざるを得ません。社会の民主化度の進展につながります。
消費者問題の分野で企業の横暴をどう克服するかを考えてきた私にとって、協同組合運動への寄与は、これまでの活動の延長線上のものなのです。そう考えてお引き受けした、貴協同組合の顧問です。貴組合の発展こそは歓迎すべき、まさに慶事なのです。
念願であった、「加入者2000名達成」。貴組合の発展を心から喜びたいと存じます。おめでとうございます。
(2018年10月23日)