澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

近時のスラップ訴訟・紹介

(2022年11月30日)
 ある会合でのミニ講演を引き受けて、スラップについて語ることになった。その報告のために、最近話題となったスラップをまとめてみた。その進行がどうなっているのか、リアルタイムでの把握は、なかなか面倒で難しい。

?スラップとは、言論の封殺を目的とする民事訴訟を意味する。訴訟提起による威嚇が目的だから、典型例は高額の請求となる。が、最近必ずしも、高額請求ばかりではなさそうだ。それでも、スラップの効果は十分に期待できるのだ。

 こうして並べてみると、維新の面々によるスラップが目立つ。そして、時節柄統一教会絡みが大きな影を落としている。

?本年提起の主要スラップ
☆統一教会スラップ(下記5件の名誉毀損訴訟)
A 被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
B 被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
C 被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
D 被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
E 被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴

☆猪瀬直樹 対三浦まり&朝日 (請求額1100万円)9月6日提訴
☆松井一郎対水道橋博士 スラップ(請求額550万円)3月31日提訴
☆橋下徹対大石あき子&日刊ゲンダイ(請求額300万円)3月11日第1回期日
☆山口敬之対大石あき子(請求額880万円)9月20日第1回口頭弁論

?現在進行のスラップ
☆世耕弘成対中野昌宏・青学教授(請求額150万円)提訴19年08月30日

?過去のスラップ
☆幸福の科学スラップ
☆武富士関係スラップ⇒武富士ボロ負け(武富士側弁護士に大きな責任)

☆DHCスラップ訴訟(DHC側弁護士に大きな責任)
(1)提訴日 2014年4月14日 被告 ジャーナリスト
  請求金額 6000万円
  訴えられた記事の媒体はウェブサイト
(2) 提訴日 2014年4月16日 被告 経済評論家
  請求金額 2000万円
  訴えられた記事の媒体はインターネット上のツィッター
(3) 提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(澤藤)
  請求金額 当初2000万円 後に6000万円に増額
  訴えられた記事の媒体はブログ。
(4) 提訴日 2014年4月16日 被告 業界紙新聞社
  請求金額 当初2000万円 後に1億円に増額
  訴えられた記事の媒体はウェブサイトと業界紙
(5) 提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(折本)→(15年1月15日一審判決)
  請求金額 2000万円 
  訴えられた記事の媒体はブログ
(6) 提訴日 2014年4月25日  被告 出版社
  請求金額 2億円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(7) 提訴日 2014年5月8日  被告 出版社→(14年8月18日 訴の取下げ)
  請求金額 6000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(8) 提訴日 2014年6月16日  被告 出版社
  請求金額 2億円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(9) 提訴日 2014年6月16日  被告 ジャーナリスト
  請求金額 2000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
(10) 提訴日 2014年6月16日  被告 ジャーナリスト
  請求金額 4000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)

?注目される世耕スラップ判決
 世耕弘成対中野昌宏(青山学院大学教授・西洋思想史)事件では、被告側が世耕の提訴を違法なスラップだとして、本訴請求と同額の損害賠償請求の反訴を提起している。今月4日、当事者双方の本人尋問を終え、おそらくは来春判決になるものと思われる。この判決は注目すべきである。

 世耕が名誉毀損文言と特定した中野のツィートは、「世耕弘成は原理研究会(統一教会)出身だそうですね。日本会議とシームレスにつながる。」というもの。これが「世耕の社会的評価を低下させる事実摘示」「だから「世耕弘成は原理研究会(統一教会)出身』であったか否かだけが唯一の問題」「その事実の挙証責任はもっぱら中野側にある」とするのが世耕側の主張。中野はこれにこう反論している。

 「政治家(世耕)に対する市民(中野)の言論は公的なものとして、手厚く保護されなくてはならない。この裁判で市民側が敗訴するようなことでは、市民が政治家への疑惑や政治姿勢・思想について、証拠がないと論評できなくなる」。しかも、世耕は中野の投稿へ否定や反論、削除要請をせずに提訴しており、「世耕の提訴は、政権に批判的な言論を抑圧する意図で起こした『スラップ訴訟』として断罪されねばならない」どう喝や嫌がらせを主眼にした訴訟だと主張。
 
 本人尋問で世耕は、旧統一教会に関連する団体の出身だと事実無根のツイッターに投稿で名誉を傷つけられたとして、「メッセージを送っただけで厳しい指摘を受ける中、元会員だったと言われ、政治家としての名誉を著しく傷つけられた」と述べた。一方、中野は、訴訟が言論を抑圧する目的で起こされた「スラップ訴訟」だとした上で、ツイートの趣旨は世耕議員の思想が旧統一教会の関連団体と近いものであると指摘するためだったと説明したという。

 中野はこうも述べたという。「裁判所にお願いしたいのはスラップ訴訟を政治家が一般人に対して起こす訴訟は特別なので、一般の名誉毀損とは同じように扱われると意味が違う。公益的な言論をやっている中で萎縮させてしまう。」

 これは事実上、合衆国連邦最高裁が1960年代に判例として確立したと言われる「現実的悪意の法理」の主張ではないか。

 これは、公人(世耕)が表現行為の対象である場合に限っては、表現者(中野)がその表現にかかる事実が真実ではなくても、「虚偽であることを知り、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視し」た場合、つまり日本法でなら、「故意または重過失」あったことを原告(世耕)が立証しない限り名誉毀損の成立を認めない、とするもの。公人に対する表現の自由を手厚く保護するものだが、我が国の判例の取らないところとされている。

 さて裁判所が、中野の声にどこまで耳を傾けるだろうか。注目に値するのだ。

軍事費太って、民痩せる。

(2022年11月29日)
 平和国家だったはずの日本が揺れている。急転してくずおれそうな事態。ハト派だったはずの岸田政権、とんでもない鷹派ぶりである。

 富国強兵を国是とした軍国日本が崩壊し、廃墟の中で新生日本が日本国憲法を制定した当時、憲法第9条は光り輝いていた。その字義のとおりの「戦争放棄」と「戦力不保持」が新しい国是になった。

 「戦争放棄」とは、けっして侵略戦争の放棄のみを意味するものではない。制憲議会で、吉田茂はこう答弁している。「古来いかなる戦争も自衛のためという名目で行われてきた。侵略のためといって始められた戦争はない」「9条2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」。
 
 その後、戦力ではないとして「警察予備隊」が生まれ、「保安隊」に成長し、「自衛隊」となった。飽くまでも、軍隊ではないというタテマエである。さらに、安倍政権下、集団的自衛権の行使が容認された。それでも、政府は「専守防衛」の一線を守り続けてきたと言う。

 それが今崩れ去ろうとしている。いったい、この国はどうなったのか、どうなろうとしているのか。敵基地攻撃能力、敵中枢反撃能力、指揮統制機能攻撃能力の保有が声高に語られる。先制攻撃なければ国を守れない、と言わんばかり。

 これまで、防衛予算の対GNPは1%の枠に押さえられていた。岸田内閣は、これを一気に倍増するのだという。それも、今年末までに決めてしまおうというのが、岸田優柔不断内閣の一点性急主義。

 11月22日には、「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」なるものが、防衛費増額のために「幅広い税目による負担が必要」と明記した報告書を提出している。28日になって岸田首相は、NATOの基準を念頭に、5年後の2027年度時点で「防衛費とそれを補完する取り組み」を合算してGDP比2%とするよう浜田靖一防衛相と鈴木俊一財務相に指示した。「補完する取り組み」とは防衛力強化に資する研究開発、港湾などの公共インフラ、サイバー安全保障、国際的協力の4分野で、これまで他省庁の予算に計上されていたという。また、歳出・歳入両面での財源確保措置を今年末に決定する方針も示した。年末までには、安全保障3文書も公開されることになる。

 政府与党と維新・国民などは、「防衛力の抜本的整備だ」「大軍拡が必要だ」「そのための軍事予算確保だ」「福祉を削っても軍事費増額だ」という軍国モードに突入し、国民生活そっちのけで軍事優先に走り出している。本当にそれでよいのか。国民が納得しているのか。

 軍事拡大が国防に役立つかの議論はともかく、確実に国民生活を圧迫する。円安、エネルギー高騰、物価高、そして低賃金。庶民の生活はかつてなく苦しい。福祉も教育も、コロナ対策も、医療補助にも予算が不可欠な今である。国民生活に必要な予算を削る余裕はない。それでも、軍備拡大のための増税をやろうというのか。国民生活を削らねば軍備の拡大はできない。軍備を縮小すれば、その分だけ国民生活を豊かにできる。さあ、この矛盾をどうする。

 本日午前に開かれた自民党の会合では、軍拡財源確保のための増税には「反対の大合唱」が起きたとの報道。これは、興味深い。軍拡と軍事費倍増を煽っても、増税には反対というのだ。

 与党の税制調査会には「所得税、法人税を含めて白紙で検討する」(自民党の宮沢洋一税制調査会長)との声があり、基幹税の増税議論が行われる見通しだ。ただ、自民党内には増税に消極的な声も強く、調整は難航が予想されるという。一つ間違えば、国民から見離されかねない。

 さあ、防衛費増額の財源をどう手当てするのか。まさか、禁じ手の「戦時国債」発行でもあるまい。とすれば、軍拡は確実に民生を圧迫することになる。

白い紙に、書かれざる文字を読む。

(2022年11月28日)

真っ白い一枚の紙。

デモの市民の一人の手に、
高く掲げられたその紙の白さが、
万人の心を打つ。
万言の言葉を伝える。

この白い紙には、
どんな字も、どんな文章も書ける。
どんな形も、どんな色も描くことができる。

一番書きたい言葉は、
「自由!」
わけても「言論の自由」。

権力を批判する自由
独裁を弾劾する自由
言論統制に抵抗する自由
国旗への敬礼を拒否する自由
国歌斉唱の強制を無視する自由
不合理を不合理と指摘する自由
人間の尊厳を蹂躙する者への不服従の自由

しかし、なんという理不尽
今、この白い紙に、
書くべきことを書くことができない。
権力への批判も抵抗も、
罪になるのだという。

北京・上海だけのことではない。
香港でも、ロシアでも、
そしてそれ以外の、
野蛮な世界の各地でも。

だから、白紙をかざす人がまぶしい。
その決意のほどを受けとめよう。
その白い紙に込められた
万感の思いを汲みとろう。

権力に屈しない誇りある人々との
連帯を求めて。

教祖と天皇、いったいどちらが賢いか。どちらがエラいのか。

(2022年11月27日)
 文鮮明の語録を毎日新聞が追っている。これは、読み応えがある。
 昨日朝刊の一面左肩の見出しは、「旧統一教会 『天皇は平凡』『対馬は韓国』 文鮮明氏、02・04年に」「保守と相いれぬ発言」という見出し。

 旧統一教会の創始者文鮮明が、2002年に韓国内で信者に向けて行った説教で、日本の天皇を「平凡」と表現し、その約2年後には長崎県の対馬(竹島だけでなく)を「韓国の土地」と明言していたという記事である。癒着していた日本の保守派議員が、こんな基本的な統一教会の姿勢を知らなかったとは考え難い。天皇の評価や領土問題での齟齬よりは、「反共」の一致点を選択したのだと考えざるを得ない。

 厖大なハングルの「文鮮明先生マルスム(御言(みこと))選集」から毎日が、抽出したのは、おおよそ以下の発言である。なお、この発言録中の「文先生」は、文が「先生」を自称しているもの。日本語では不遜だが、韓国語でのニュアンスは分からない。

 「日本の皇太子が一般国民の娘を選んで結婚したでしょ? それは誰も宮中生活をしたくないということだ。一般人になりたいということだ」
 「日本の宮殿の伝統がめちゃくちゃになった。平成、ぺちゃんこになった」
 「日本の天皇は賢い天皇か、平凡な天皇か?」
 「平凡な天皇です」(会場の反応)
 「平凡な天皇だから中心もなく、ぺちゃんこになって、流れている。何も誇れることがない」
 「文先生(私)はどうなのか。日本の天皇より賢くないか、賢いか?」
 「賢いです」(会場の反応)

 「文先生(私)にとって日本国は一番目の怨讐(えんしゅう)の国だった。日本の(皇居正門に架かる)二重橋を自分の手で断ってしまおうと考えた。裕仁天皇を私が暗殺すると決心した

 ただ、文氏はこの「決心」が過去のものだったことを示唆する言葉も続けている、という。

 「地理的に見ると対馬が韓国に属している。そこにはカササギ(カラス科の鳥)がいる。日本にはカササギがいないだろ? だから韓国の土地だ
 島根県の竹島(韓国名・独島)にも触れ「今、日本人が独島を自分たちの土地だと言う。これは問題だ」

 韓国では、政治家が日本と対立する問題を「内向き」にナショナリズムをあおった表現で語り、支持を集めようとすることは珍しくない。文氏も韓国と日本で発言内容を使い分けていた可能性はある。

 統一教会は、「『日本はかつて韓国を迫害した罪の償いとして韓国に貢ぐべきである』という教えはない」と強調。「『反日カルト』ではないかという批判は左翼勢力が流したデマ情報で、その目的は保守派に対する分断作戦だ」と主張している。
 これまで関係を築いてきた保守派から「反日」と見なされることへの警戒感がにじむ。

 桜井義秀・北海道大大学院教授(宗教社会学)は「文氏の考えはコリアンナショナリズムの面があり、日本の皇室の伝統や国益、国民生活を考える保守思想ではなかった。日本の政治家もそれを全く知らなかったとは考えられず、選挙に役立つからといって教団を利用した政治家は本当の保守を名乗れないだろう」と批判した。

 文が説教の中で信者に「私は日本の天皇より賢くないか、賢いか?」と問いかけ、「賢いです」と答を誘っているのだ。教祖と天皇を比較させ、「教祖が天皇よりも賢い」と言わせている。これに、よく似た話を思い出す。

 私は、ある新宗教の宗教二世として育ち、高校3年間を教団が経営する私立学校で学んだ。2年生の時か3年だったか記憶は薄れているが、カリキュラムに週一回の「宗教の時間」が組み込まれていた。そこで、教団の幹部から、教団の歴史を学んだ。その際、戦前の教団が天皇制から、如何に理不尽な弾圧を受けたかについての説明があり、深く印象に刻んだ。特高警察や思想検事、そして天皇の裁判所には憤りを覚えた。この思いは今も消えることがない。

 その教団は、戦前大阪府の布施に本殿を持ち、その千畳敷の大広間の正面に、「敬神尊皇」の額を掲げていた。この額の4文字が不敬だとされた。「敬神」の神は教祖を指し、「尊皇」より先に位置している。これは「教祖は、天皇よりも偉い」と誇示しているのだという糾弾。どうして、「尊皇敬神」としないのだ、という暴力団まがいのこじつけ。

 さらに、この教団の教義には、人々の不幸は、全て神の御心に背いた結果の『みしらせ』であるとし、教祖は人の『みしらせ』を癒すための『こころえ』を授けることができるとする。教祖がそのみしらせを引き受ける『お振り替え』という神事もあった。これを、特高や思想検事は、「天皇は風邪をひく。これを『みしらせ』というか」「天皇の患いを治せるのは、教祖だけということになる」「天皇よりも教祖が偉いというのが、教義ではないか」と追及し、結局教祖は不敬罪で起訴され、未決の内に病死。その長男の二代目は不敬罪が確定して、終戦まで下獄している。また、この教団は、戦前の「宗教団体法」による解散命令を受けている。

 教祖も天皇も、信仰の対象である。信者にとっては、我が神、我が教祖、我が天皇の絶対性は揺るがぬところだが、信仰集団の外から見れば、教祖も天皇もただの人に過ぎない。教祖と天皇どちらがエラいか賢いか。比較しようという発想自体が愚かというほかはない。統一教会も、天皇教・天皇制も。

ギグワーカーを労働者として保護すべきは、民主主義社会の責任である。

(2022年11月26日)
 昨日、東京都労働委員会は、ウーバー配達員が結成した労働組合の申立を認め、「ウーバーイーツ」運営法人の団体交渉拒否を不当労働行為とする救済命令を出した。いわゆる「ギグワーカー」を労働組合法上の労働者と認めた初めての判断だという。まずは、この命令を歓迎し、労働委員諸氏に敬意を表したい。

 資本の横暴に、法が是正を命じた一場面である。「社会主義革命の必然性」についての確信は持てなかった私も、「資本主義の矛盾」については、大いに腑に落ちた。幾分なりとも、資本の横暴を抑えて資本主義の矛盾を緩和する装置が正常に機能しているのだ。

 かつては身分制度によって、人が人を支配した。今の時代は契約の自由によって、持てる者が持たざる者を搾取し支配している。この不合理の是正のために、法の支配や民主的な政治の発展が役に立つはずと思ってきた。社会法分野での法制度の充実と、法の理念を現実の社会に生かす必要を思い続けている。とりわけ、労働法の分野において、法制度のあり方とその運用の適正が重要であるが、当然のことながらこれに対する資本の側の抵抗は熾烈である。

 可能な限り労働力を安価に調達したいとする持てる者の側にとっては、労働者保護法制のすべてが利潤追求の阻害物である。労働運動や民主主義運動が作ってきた労働者保護法制を、できることなら骨抜きにしたい。規制のない形で、安価に労働力の調達を図りたい。それが、今、偽装請負となり、フリーランス契約となり、ギグワーカーの採用となっている。

 資本主義が本質的に持つ非人間的な苛酷さを、法の支配や民主主義がどこまで是正できるか。そういう視点から、昨日の都労委命令は大きな意義をもっている。

 労働組合法では労働者を、「職業の種類を問わず、賃金、給料などで生活する者」(3条)と定義しているが、一般的に、経済的従属性の有無を中心として判断されており、労働基準法上の労働者概念よりは広くとらえられている。

 都労委は、「(ウーバーの)評価制度や(配達員の)アカウント停止措置等により行動を統制し、配達業務の円滑かつ安定的な遂行を維持しているとみられる」とし、「事業は(配達員の)労務提供なしには機能せず、不可欠な労働力として確保されていた」などと認定した。さらに都労委は、配達員が注文を受けるアプリには「個別に交渉できるような仕様にはなっていない。対等な関係性は認められず、会社らが一方的、定型的に決定している」などと断じた。これらの点などから、配達員は労働組合法上の労働者に該当すると結論付けた。

 ギグワーカーと呼ばれる人たちは、形式上は個人事業者である。自身の判断で請負契約の主体となる。それゆえ、労働力を提供していながら、労働保護法制の外に置かれる。労基法も、最低賃金制度も、労災補償も、厚生年金も埒外である。ウーバーイーツの全国の登録店舗数が15万店を超えたとの発展に比して、収入が少なく不安定な働き方を余儀なくされる配達員は少なくない。

 さて、最もハードルの低い、労組法上の労働者性を認めた昨日の都労委命令は、大きな意義あるものではあるが、もちろん第一歩でしかない。問題は、欧米に比べて遅れているといわれるギグワーカーの今後である。

 以下は毎日新聞に掲載された、脇田滋龍谷大名誉教授のコメントである。
 「フランスの最高裁は20年3月、業務における運転手の自己管理の度合いを基準に、運転手はウーバーに対して従属的、雇用関係にあると判断した。自ら客を管理したり、価格を設定したりできず、業務を遂行する方法を決定していない点などが重視されたという。イタリアやスペイン、英国でも、同様の司法判断が出ているという。日本のプラットフォーム労働者についても、団体交渉を通じた労働条件の改善を重視し、偽装個人請負の形態をとるなど、脱法的に労働者を扱うのではなく、実態に応じて労働者であることを認め、保護や透明性のある働き方にすることが求められている」

 ウーバー労働者の、会社に対する従属性が問題なのだ。自ら客を管理したり、価格を設定したりできず、業務を遂行する方法はもっぱら会社が決めている。ならば、全面的な労働者性を認めてよいではないか。その点を明確にする立法措置が採られてしかるべきではないか。資本主義の非人間的な苛酷さを民主主義が是正すべき、絶好の局面ではないか。

裁判所も、都教委も、小池百合子も、この教員の声を聴け。

(2022年11月25日)
 昨日、《東京「君が代」裁判5次訴訟》での第7回口頭弁論が開かれた。満席の709号法廷で、原告のお一人が、再処分の不当を「イジメ」だとする意見陳述を行った。まったく、おっしゃるとおりだと思う。裁判官3人は、きちんと耳を傾けている様子ではあったが、どれだけ身に沁みてお分かりだろうか。
 下記に、その意見陳述の要旨を掲載する。

***********************************************************

  東京「君が代」裁判五次訴訟 第7回口頭弁論 原告意見陳述要旨

                                  原告 F(都立J高校全日制勤務)

 私は2005年3月に、卒業式での2回目の不起立を理由として東京都教育委員会によって減給処分を受けました。この減給処分は、2013年9月の最高裁判決によって取り消されましたが、同じ年の12月には、改めて処分を出しなおすということで、新たに戒告処分を受けています。

 都教委は再度の処分を発令した理由として、「誤った処分を正し、正しい処分へと訂正した」と主張しているとのことですが、この理由づけは後付けの言い訳にすぎません。処分の真の目的は、都教委の意に従わない者に対する攻撃の徹底であって、強大な権力を背景にした、少数者に対する「いじめ」であるとしか私には思えません。
 都教委は、いじめ防止に取り組むように各学校に指導を続けてきていますが、その中でいじめの存在を認定する根拠の一つに、「被害者が「いじめ」と捉えていること」というものがあります。君が代不起立者に対する都教委の取り扱いは執拗で理不尽な「いじめ」であると捉えている被害者は、私だけではありません。

 私の不起立に対する減給処分は最高裁で違法と判断されて処分の取消が命じられました。都教委の職務が違法と断じられたにもかかわらず、関係した職員は誰もその責任を取ることがなく、また、私たちに対する、そして都民に対する謝罪ないしは釈明のコメントを出すことも一切ありません。この係争事件に対して、都教委は裁判担当職員や顧問弁護士に多大な人件費や経費を支出し、原告には遅延損害金を支払いましたが、この財源は言うまでもなく都民の税金です。違法な処分を発したことによって都民に間接的に損害を与えたことにっいて、何ら説明もなされなかったことは、都民の信頼を裏切る信用失墜行為に相当するのではないでしょうか?

 一方、都教委は私たちに減給処分を出した時には、報道機関に対して発表を行い、処分情報を長期にわたってホームページで公開しました。これらのことは、私たちの不起立を非違行為として世間にさらす一方で、自らの不祥事には蓋をする全く不公正な行為ですし、私たちに加えられた不利益や名誉棄損が回復されていないことは、非常に残念です。そしてこのような状態の中で、再処分としての戒告処分が発令され、再び非違行為があったとして、都教委のホームページ上に晒されたのです。

 2013年9月の最高裁判決では「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべきである」と裁判官の補足意見が付け加えられました。はたして、このような再処分の発令が「謙抑的な対応」と言えるでしょうか?
 
 最高裁は、都教委に対して良識的な対応をやんわりと求めたのかもしれませんが、都教委は、使える手は何でも使うという姿勢で権力を行使している状態にあると思います。そしてとことん処分で不起立教員を追い込むことを全都に晒すことによって、教育現場はさらに萎縮していきました。私は、このような負のサイクルに歯止めをかけ、教育現場の改善のためにも再処分の取り消しを求めます。

 再処分について改めて強調しておきたいことがあります。都教委は「減給処分は違法とされたから、裁判所が認めた戒告処分を出し直す」と主張していますが、再処分として出された戒告処分による経済的損失が、2005年当時に私が受けた減給処分より実質的に重い処分に変えられたという事実です。「10 ・23 通達」による「日の丸・君が代」の強制に対し、処分を振りかざされても異を唱えた教職員が膨大な人数に及んだと見るや、2006年に都教委はそれまで何十年も変えなかった懲戒処分に伴う給与支給に関する規定を変更し、勤勉手当の減額率を倍増させ、昇給率を下げることを決定し、戒告処分でもそれまでの減給処分を上回る経済的不科益を伴うものとしました。さらに、2012年1月、「裁量権の逸脱濫用により違法」として減給処分が取り消された最高裁判決が出されたのちの2013年には、処分量定に関する規定の再改定を強行しました。このことは、戒告処分を従来の減給処分より実質的に重い懲罰とすることで、都教委が裁判で負けても教職員に従前以上の圧力をかけることができもので、実質的に最高裁判決の効力を失わせ、判決に抗う行為であるという他はありません。

 2003年の「10.23通達」発出から20年が経とうとしています。都立高校は大きく変わってしまいました。「日の丸・君が代」処分のことも、この処分以前の卒業式や入学式のことも知らない教員や生徒が多くなってきました。既に若い教員たちにとって、卒入学式における「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱、職務命令による式の実施、座席の指定等は当たり前、2006年の通達から始まった職員会議での挙手裁決禁止も当たり前のことになっています。

 2003年当時は、ほとんどの教員は「日の丸・君が代」の強制に反対しており、卒業式や入学式の開始前に、生徒や保護者に対して「式次第には国歌斉唱とありますが、強制ではありません」と説明することが多くの学校で行われていました。しかし「10.23通達」によって起立斉唱の職務命令が出され、命令に背けば処分となり、何度も命令違反を繰り返すと、累積加重で懲戒免職もあり得ると言われ、ある種のパニックが起きました。私たち教員は職務命令に対してどうするべきか、態度決定を迫られました。多くの教員は、処分を恐れ理不尽ながら起立する道を選びましたが、不起立を選択した教員も少なくおりませんでした。

 異例の大量処分が発令された2004年、都教委は、処分された教員だけではなく、処分された教員のいる学校に対して、非違行為の再発を防止すると称して、全教員の参加を強制する「再発防止研修」を命じました。あたかも連帯責任を取らせるような研修ですが、その背景には、起立を強いられた教員の僻屈した思いを不起立教員に向けさせ、命令に従った教員と命令に背き処分された教員との間を分断する狙いがあったのだと思いますL言い換えれば、都教委が率先して同僚へのいじめに加担させる行為を行ったのです。
 この研修に関し、学校によっては不起立教員を非難する事例もあったとは聞きますが、多くの場合は、不起立者に同情的で、理不尽な仕打ちをする都教委に対する抗論や怒りの声が上がっていました。

 しかし、職務命令体制と職員会議での議決禁止体制が浸透していく中で、教育現場では、関連に意見を言い合い、協力して学校運営を行う日常は次第に失われていきました。現場の意見を聞く耳を持たなくなった東京の教育行政は硬直化して、誤ったことを行っても誰も正すことができない状態となっています。これまで20年間にわたって「10.23通達」の撤回を求めてきた私たちですが、謙抑的な姿勢も、柔軟な発想も持てなくなっている都教委に対しては、裁判所が「10.23通達は違法である」と判断していただく他はないと考えています。

 裁判所には、この20年間の経過をよく確認していただき、慎重かつ公正な審理を進めていただくことをお願いいたします。

中国国歌と「香港準国歌」仁川で対決

(2022年11月24日)
 昨日に続いての、国歌の話題。香港を押さえ込んだ中国は香港の民衆に中国国歌(「義勇行進曲」)を強制した。中国への国家忠誠(即ち、習近平共産党への忠誠)を刑罰をもって強制したのだ。これが、中国の人権弾圧体質を物語っている。その中国国歌が、いま韓国でのできごとで話題となっている。

 昨日の当ブログ記事同様、こちらも国際スポーツ大会を舞台にした国歌の扱い。会場に中国国歌(「義勇行進曲」)が流れるべき時に、「香港民主化デモの歌」(「香港に栄光あれ」)が、「誤って」流されたという椿事である。

 11月13日韓国・仁川でのこと。7人制ラグビー国際大会「2022 アジアラグビーセブンズシリーズ」で、香港と韓国が対戦した。その試合前セレモニーでの国歌斉唱時に、中国国歌の伴奏が流されるはずのところで、「誤って」「香港に栄光あれ」が流されたのだ。香港当局や中国にとっては仰天動地のハプニング。香港の民衆や韓国の民主派は、内心ほくそ笑んだに違いない。

 この曲「香港に栄光あれ(Glory to Hong Kong)」は、「2019年の香港での逃亡犯条例改正案をめぐるデモをきっかけに制作された楽曲で、デモ参加者らの間で非公式の国歌のような位置づけにされている一方、香港当局や中国当局などは香港独立をあおるなどとして批判している」(Record China による)という曰く付きのもの。民主化運動の賛歌だったが、香港国家安全維持法が施行された現在は、演奏は事実上禁止されているという。それでも中国に帰属意識のない香港の民主派には、「国歌」に準ずるものだという。

 この事態に、香港政府は過剰に反応した。そうせざるを得ないのだろう。14日、韓国政府に厳重抗議した。「中国国歌の代わりに、暴力的な抗議活動や『独立』運動と密接に関連する曲が演奏されたことに強い遺憾の意を表し、抗議する」というもの。

 アジアラグビーと大韓ラグビー協会は、香港ラグビー総会および香港政府、中国政府に「心からの謝罪」を表明しているというが、問題の余波は広がっており、まだ収束していない。

 興味深いのは、「たかが国歌」についての、関係者のこの大仰な反応である。中国派で固められた香港立法会の某議員は「主催機関は直ちに謝罪したが十分ではない。これは取り返しのつかないミスだ」「国歌演奏と国旗掲揚は厳粛かつ神聖であり、いかなる場合でもミスは許されない。問題の曲は香港人に動乱の傷を負わせたものだ」などと指摘。駐香港大韓民国総領事館に手紙を送り、韓国政府に対し、主催者が過失を厳正に検討するよう促すと同時に、中国人民に謝罪するよう要請するとした。

 香港警察は、国歌条例や香港国家安全維持法(国安法)に違反しないか調査に乗り出す方針だという。香港特別行政区行政長官の李家超は、「現場でこの曲が流されたことに政治的な意図があることは誰もが知っている」「本件が香港国家安全維持法や国歌法に違反するかどうか徹底的に調査を行う」「警察は十分に経験を積んでおり、調査の進展に応じて適切に対処する」と述べている。

 また、政府報道官は、「国歌はわが国の象徴だ。大会主催者は、国歌に正当な敬意が払われるよう保証する義務がある」と述べたという。もっと正確には、こう言いたいのだ。

 「国歌はわが国の象徴だ。我が国の国歌を疎かにすることは絶対に許さない。大会主催者は、我が国の国歌を疎かに扱ったことに、もっと恐縮して見せなければならない。中国国歌には大国中国にふさわしい、特別の敬意が払われてしかるべきなのだから」

 国旗や国歌には常に、こういう七面倒臭さと胡散臭さがつきまとう。

国歌を拒否する選手の爽やかさと、国歌を唱わせようとする権力者の醜さ。

(2022年11月23日)
 臭気芬々のカタールから、一陣の爽やかな風。21日の対イングランド戦の試合前、イラン選手が国歌の斉唱を拒否したとして、大きな話題となっている。これは、イラン政府に対する、「ヒジャブ抗議デモ」への連帯行動なのだ。同時に、「政治問題とは切り離して、サッカーに集中しよう」という、FIFAの姿勢に対する抗議でもあろうか。

 周知のとおり、イランでは、22 歳のマフサ・アミニさんの死をきっかけに、全土で大規模な政府への抗議活動が続いている。アミニさんは9月13日、ヒジャブで髪をしっかり覆っていなかったというだけの理由で風紀警察に身柄を拘束され、警棒で殴打され車両に頭を打ちつけられて、3日後の16日に亡くなった。

 このあと、10代を含むイランの女性たちが、ヒジャブを着けずに外出したり衣服を燃やしたりして抗議の声をあげている。警察の暴力記録した動画の投稿が繰り返されてもいる。これに対する治安部隊の暴力的な取り締まりは凄まじく、イラン・ヒューマン・ライツによると、これまでに少なくとも378人が殺害されたという。

 絵に描いたような、自由を求める国民の運動とこれを弾圧する国家権力との対立の構図。その渦中での、国旗と国歌である。国旗も国歌も、権力側のものであって、自由の象徴ではない。イランでは、この抗議の動きが広がって以降、国歌を唱わないことが政府を批判し、デモに連帯を示すための態度だと広く受け止められているという。

 そのような事態でのワールドカップ。イラン代表の行動に対しては、国内外から注目が集まっていたと報じられている。注目の選手たちは、団結して一致した「国歌斉唱拒否」に踏み切った。国内で続く抗議デモに連帯を示したのだ。それゆえの爽やかな風という印象。

 無邪気に国歌を斉唱できる人は、国家に従順であることに疑問をもたぬ人である。あるいは、国家に従順であることをことさらに示したい人。意識的な国歌斉唱拒否は、国家に対する不服従である。あるいは、国家に対する異議申立て。

 国家の側から見れば、国歌を斉唱する者は、御しやすい歓迎すべき国民像。斉唱せざる人は歓迎すべからざる、国民の国旗国歌に対する姿勢は、権力者側からする反抗心や従順さを計るバロメータなのだ。国家への従順を拒否して自由と人権の陣営の側に就いた、イランの選手団に敬意を表したい。

「W杯・開会式放送せずのBBC」と「大はしゃぎのNHK」、どうしてこんなに違うのか。

(2022年11月22日)
 カタール発の報道は、うさんくさいことばかりでウンザリさせられる。この世にはびこる商業主義は、何にでも手を出してしゃぶりつくす。営利のためには、なにものをも犠牲にして恥じない。汚い金にまみれた東京オリンピックがまさにその典型だったが、その腐敗ぶりにおいてワールド・カップも負けてはいない。

 さらには、現代の奴隷制とされる外国人出稼ぎ労働者に対する極端な虐待・搾取の問題である。ガーディアンが報じたところによれば、ワールドカップ開催が決定して以来、カタールでは6500人もの外国労働者が死亡しているという。ジェンダー問題も、性的少数者に対する侮蔑の法制度も問題視されている。夜郎自大に自国のルールに固執することは、文明世界では恥ずべきことと知らねばならない。

 人権侵害を批判する世界の声に、FIFAはどう応えているか。ほぼ、IOCと同じだ。「サッカーと政治は切り離すべきだ」という、あの論法。「サッカーに集中しよう!」「すべてのイデオロギーや政治闘争に巻き込まれないようにしてほしい」という姿勢なのだ。オリンピックもワールドカップも、スポーツを通じて平和で公正な世界をつくろうという理念を捨て去ったようではないか。

 ヨーロッパでは、人権問題の視点からカタール大会に批判が強い。それを象徴するものが、英・BBCの「11月20日、開会式を放送せず」であった。BBCは、その時間帯には、敢えて「カタールW杯が環境に与える悪影響」の番組を放映した。権力に忖度するところのない、硬骨なポリシーの表現である。開会式を大はしゃぎで放映したというNHKとは、好対照となった。

 BBCとNHK、どちらも国内では最大の影響力を誇る公共放送メディアである。どちらも視聴者からの受信料収入で成り立つ。だが、国際的な評価は大きく異なる。一口で言えば、「BBCにはジャーナリズム精神が横溢しており、NHKにはそれが欠けている」ということ。「BBCには政府批判に遠慮がないが、NHKには忖度の姿勢に満ちている」「BBCには人権尊重のポリシーがあるが、NHKにはそれがない」とも言えるだろう。

 「国民は、そのレベルにふさわしい政治しかもてない」をもじって、「国民は、そのレベルにふさわしいメディアしかもてない」とも言われる。BBCを今のBBCに育てたのは英国の国民であり、NHKを今のNHKに育てたのは日本の国民と言わざるを得ない。

 私は、「消費者主権」という言葉を、この局面でも使いたい。もの言う消費者こそが、その消費市場の選択を通じて、企業のあり方を統制する力をもっている。主権者である日本国民は、スポンサーたる視聴者として、NHKにものを言わねばならない。オリンピックの放映のあり方についても、ワールドカップにおいても。そして、政権への忖度の姿勢においても。

宗教活動とマインドコントロール、いったいどう違うのだろうか。

(2022年11月21日)
 統一教会問題を契機に、ことあるごとに宗教が話題となる。が、宗教問題は難しい。そもそも、宗教とはなんぞやが皆目分からない。分かっているのは、宗教とは論理で説明できる領域にはなく、論理での説明を越えた世界に宗教があり信仰があるということ。だから、言語や論理での説明ができようはずもない。従って、「我が教えこそ正しい」と人に説得することは原理的にできることではない。

 人がなぜ、それぞれの信仰をもつのか、おそらくは自身も分からず、他人に分かるはずもない。他人の信仰への理解も共感も難しい。尊重や敬意はさらに困難である。

 しかし、確実に信仰は深く強く人を捉える。場合によっては熱狂的にである。歴史的に、多くの権力が民衆の宗教的情熱を一面では恐れ、また一面ではその利用を画策した。宗教は、権力によって弾圧もされ、権力と一体となって権力者を支えもした。いまなお、そのような現実がある。

 さて、民主主義の時代の、社会のマナーやルールとして、宗教をどう取り扱うか。間違うと危険な、重要課題となっている。結論は、人は相互に他人の信仰への不介入を心得るしかない。他人の信仰を邪魔してはならない、自分の信仰を他人から邪魔されることがあってはならない、という社会合意を作るしかない。信仰をもつ人も、もたざる人も。

 とは言え、宗教の多くは自己増殖の衝動をもっている。それ自体を非難することはできないが、布教活動名目のマインドコントロールによって対象者の自己決定権を侵害してはならない。この点に警戒を要するのだが、憲法で保障されている信教の自由と、唾棄すべきマインドコントロールの本質的な違いがよく分からない。信教の自由の一分枝である「宗教教義の教化伝道の自由」とマインドコントロールの差異はどこにあるのか。

 本日の「毎日デジタル・政治プレミア」に、釈徹宗の「宗教者が問う 旧統一教会問題の本質」という論稿。この人、本願寺派の僧侶だという。「旧統一教会問題の本質」という表題に惹かれて、読んではみたものの、やはり、門外漢には分かりにくい話。「旧統一教会問題の本質」を解明し得ていない。混沌は深まるばかり、という印象。

 文中に、「信仰とマインドコントロールは違う」という小見出しがある。どう違うんだろう。この違いを宗教者がどう説明しているのだろう。興味津々で注意深く読んではみたが、どう違うかはやっぱり分からない。分かるようには語られていないということか、あるいは分かりようもないテーマということなのだろうか。

 この小見出しでの解説の最後が次の文章で締めくくられている。

 「信仰心とマインドコントロールは、一見よく似ている。ただし、一方は個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩みで、他方は個人を支配する手段だ。」

「一見よく似ている。」は分かり易い。どちらも、人の精神に働きかけて、特定の価値観を植え付け、あるいは精神構造を形作ろうという営為である。一方、両者の違いは分かりにくい。本当に、「信仰とは、個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩み」なのだろうか。個人の自立を求めず、「自らの生きる道筋を宗教指導者に委ねよ」と説く宗教は巷に溢れているのではないだろうか。宗教ないし信仰に、支配・被支配の関係はないだろうか。マインドコントロールに、限りなく近似しているのではないか。

この僧侶はこうも言っている。
 
 「カルトには、「熱狂的に信じる」という意味がある。熱狂的な反社会集団を規制するのは、社会の維持にとって当然だと思う。ただし、宗教一般にも熱狂はつきものだ。つまり、カルト性をハナから欠く宗教もない。」

 カルトと宗教、マインドコントロールと布教活動、截然と分離することは難しかろう。論者は、こう言う。

「問題を根本から解くには、社会を構成する個々人が、宗教についてしっかりと考察すべきなのである」

また、こうも言う。

「宗教は人を救う力をもつが、あっさりと日常を破壊する力にもなる。今回を機にしっかり宗教について取り組むことが肝要だ。スキャンダラスなトピックだけに目を奪われていては、単に消費されていく話題のひとつになってしまう。問われているのは、この社会の宗教観なのである。」

 この頃、はやりの「しっかり」だが、どうしっかり考えて、どのような結論に至らねばならないというのか、さっぱり分からない。

 おぼろげながら分かることは、巨大宗教団体の信者や民衆に対する精神的支配力には警戒を要するということである。個人の自立と宗教的帰依とは両立しがたいのではないか。ましてや、意識的に人の精神を支配しようとたくらむ『宗教』や『擬似宗教』に対する批判を躊躇してはならない。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2022. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.