11月26日土曜日の夕刻、石田勇治講演を聴講した。「ナチ時代から現代のドイツへー過去と向き合うことの難しさ」という壮大なタイトル。この集会の主催は、「良心・表現の自由を! 声をあげる市民の会」。君が代処分と闘っている渡辺厚子さんを支援の市民グループ。日の丸・君が代の強制に、時代の不気味な雰囲気を感じている感性鋭い市民が、ドイツの歴史を学び、ドイツの歴史に照らして今の日本を考えたいとこの企画を建てたのだ。だから、今の状況を反映して聴衆の熱気が高かった。聴衆の熱気が講演者にも伝わって、実に熱のこもった講演となった。
予定を大きく超えて、2時間たっぷりの長丁場。小さな活字で、A4・12頁のレジメにしたがって、現代ドイツの「想起の文化」から説き起こし、次の二つの問が設定される。
1 なぜ民主的なヴァイマル憲法をもつ文明国ドイツで、独裁への道が拓かれたのか?
2 戦後のドイツはナチ時代の過去とどのように向き合ってきたか?
この二つとも、私たちが今切実に知りたいことではないか。まずは戦前のドイツについて。「最も民主的な憲法をもつ共和国」から、「最も野蛮な独裁国家」に、どのように変身したのだろうか。今の日本に似てはいないか。最も民主的な平和憲法をもつ国ではあるが、その憲法が政権からの攻撃に曝されている。戦前のドイツの轍を踏むことになるのではないかとの危惧を拭うことができない。
そして、戦後のドイツについても知りたい。真摯に国家の加害と差別の責任を認めて謝罪し賠償するドイツと、歴史を改竄してまで侵略戦争と植民地支配の責任を認めようとしない日本と。この、月とスッポンの落差はどこから来たものなのであろうか。今の日本にとって、戦前のドイツは反面教師であり、現在のドイツは文字通りの学ぶべき教師なのだから。
この問に答えるべく、講演は「第一部(戦前編) 議会制民主主義の崩壊とヒトラー独裁の成立」、「第二部(戦後編) 戦後のドイツー『負の過去』との取り組み」という二部構成になって、ヒンデンブルクの時代からヒトラーの台頭と崩壊、そして戦後アデナウアー時代の「駄目なドイツ」が、真摯に加害の責任を認める国となるまでの通史にわたった。このように連続した形でドイツ史を学ぶ機会を得たことは、好運だったと思う。
幾つか印象に残ったことを書き留めておきたい。
ヴァイマル時代の議会は、完全比例代表制だったという。ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は、けっして議席の多数を握って政権についたわけではない。
その得票率は以下のとおりに推移した。
1928年5月【2.6%】→30年9月【18.3%】→32年7月【37.3%】→32年11月【33.1%】
1933年1月30日、ヒトラーが首相に就任した当時、その議席占有率は3分の1にしか過ぎなかった。しかも、党勢伸長の真っ最中というわけでもなく、直前の32年11月選挙はナチ党の低落と共産党続伸を特徴とした。ここで、共産党の台頭に危機感を覚えた財界はヒトラーを首相とするよう大統領(ヒンデンブルク)に働きかけ、結局はこれが実現することとなった。
ヒンデンブルク(伝統的保守派)とヒトラー(新右翼)を結びつけた共通の目標(連立の動機)とは、
a)議会制民主主義を終わらせ、
b)共産党を粉砕し、
c)再軍備を実行する、
ことを通じて「強いドイツを取り戻す」ことだった。
当時ヒトラーは3つの道具をもっていた
a)大統領緊急令
b)突撃隊・親衛隊
c)大衆宣伝組織
憲法48条2項に基づく「大統領緊急令」は主として共産党対策のために濫発された。自由な選挙が封じ込められる局面において、国会議事堂炎上事件が起き、通称「議事堂炎上令」が公布されて、ドイツ全土で国民の基本権が停止、共産党国会議員や左翼運動・労働運動の指導者が拘束された。
そのような事態で、授権法が成立。授権法体制下で続々と新法(「ナチ法」)が制定され、ナチズムのイデオロギーが易々と政策化された。
この経過でとりわけ印象的なことは、当初は「到底何もなしえないだろうと思われていたヒトラー」のまさかの台頭、ということ。これを可能とした要素として、「決められない政治に業を煮やした民衆が、果敢に決めるヒトラーの政治」を支持した面があるという。乱立する少数野党が意見の対立を克服できず、当面の対立する利害にとらわれている状況で、3分の1の勢力しか持たないナチ党の独裁を許したのだ。
また濫発された大統領緊急令が、次第に肥大化して授権法にまで至って、遂に議会政治を葬り、国民の人権を抑圧して独裁を完成させたということ。今の日本の状況に照らして、実に示唆的ではないか。
戦後編の冒頭は、「ドイツも最初は駄目だった」という話から始まった。
ナチ時代の責任のとりかたに関しては、次の5側面(5つの柱)があるという。
a被害補償
b司法訴追
c再発防止(ネオナチ対策)
d啓蒙・教育(歴史教育・歴史学)
e想起の文化
戦後の各時期によって、それぞれに異なる力点か見られるというが、「何より駄目なドイツ」が曲折を経ながら、そして常にせめぎあいを繰りかえしながら、近隣諸国からも信頼されるドイツになっていったという。
この間、「終止符論争」が何度も繰り返された。「いつまで謝罪を続けなければならないのか」「もう、これで謝罪は十分だろう」との意見は常にあった。今日の状況はそれを乗り越えてきた結果である。
ドイツの指導者の被害者に対する謝罪は、極めて具体的で個別的である。そして、現場まで出向いて膝をついてまでしての真摯な謝罪をしている。日本の指導者の、東京での抽象的で包括的な言葉の羅列は、被害者や遺族の胸に届くはずもない。
ドイツでは、「罪」と「責任」の区分が受け容れられている。「罪」は当時のドイツ人が負うべきものであるが、被害者がいる限りその被害を回復すべき「責任」は後の世代にも受け継がれるものと言う考え方。ドイツ人がけっして、この責任からは逃れられないという道義上的な責任。
この罪や責任にどう向かい合うべきかについて、政治指導者も世論も「促す力」と「押しとどめる力」の絶えざるせめぎ合いのなかにある。もちろん今も。
歴史修正主義者が政権を握っている日本に比較して、ドイツの道義性は格段に高い。同じ侵略戦争の加害国にして敗戦国、特定民族に差別的政策を弄した点においても同じ。現在までの、その反省のあり方に、かくも隔たりが生じたのは、いったい何ゆえなのであろうか。
EUの中で指導的立場を勝ち得ているドイツは、経済的優位性だけでなく、今や道義的尊敬をも勝ち得ている。一方、アジアにおける日本の地位は極めて危うい。加害責任への謝罪を抜きにした経済的援助だけでは、冷え切ることのない被害感情の熱いマグマがことあるごとに吹き出てくることを防止し得ない。ドイツに倣って、このことを心しなければならない。
(2016年11月30日)
知り合いから、前田朗さん(東京造形大学)の「救援」(11月号と12月号にまたがるもの)への寄稿を教えていただいた。内容は、去る10月24日、韓国国会議事堂内の会議室で行われたという「靖国神社問題シンポジウム」の件。反靖国の運動がこのような形で展開されていることはまったく知らなかった。前田さんの長い論稿の中から、要点のみをご紹介したい。
シンポジウムのタイトルは、「靖国問題を国連人権機関に提訴するための国際会議―国際人権の視点からヤスクニを見る」だったという。主催はヤスクニ反対共同行動韓国委員会、民族問題研究所、太平洋戦争被害者補償推進協議会である。
開会の辞は姜昌一(韓国国会議員)、木村庸五(安倍首相靖国参拝違憲訴訟弁護団団長)、李海学(ヤスクニ反対共同行動韓国委員会共同代表)。
報告は次の七つであった。
徐勝(立命館大学)「国際人権の視点から靖国を見る」
前田朗「罅割(ひびわ)れた美しい国――移行期の正義から見た植民地主義」
南相九(東北亜歴史財団)「靖国神社問題の国際化のための提言」
浅野史生(靖国訴訟弁護団)「国際人権の視点からみたヤスクニ訴訟」
辻子実(平和の灯を!ヤスクニの闇へキャンドル行動・共同代表)「ヤスクニ反対運動の現況と課題」
矢野秀喜(植民地歴史博物館と日本をつなぐ会事務局長)「日本国憲法『改正』とヤスクニ」
金英丸(ヤスクニ反対運動韓国委員会事務局長)「韓国のヤスクニ反対運動、その成果と課題」
各報告の紹介がそれぞれに興味深いものなのだが、割愛する。が、一つだけ。
南相九報告は、まず「靖国神社問題とは」として、「日本の侵略から国家の独立を守るために戦った韓国の義兵戦争を『暴動』と蔑み、義兵を弾圧・虐殺した加害者を顕彰する施設」であり、「日本の侵略戦争に強制的に動員されて死亡した韓国人を『日本のための死』と歪曲する施設」であり、「侵略戦争と植民地支配を正当化し、国家に対する無条件の忠誠を教育する施設」であると位置づける。
これは苛烈な見解だ。そのとおりで反論はできないが、日本人の立場からはなかなかこうまでは言い切れない。戦没者遺族への配慮が、このようにきっぱりとものを言うことを躊躇させる。侵略戦争と植民地支配の被害者の立場でこその峻厳な正論というべきであろう。
さて、紹介しなければならないのは、メインテーマである「靖国問題を国連人権機関に」である。諸報告と討論を経て、前田は次のようにまとめている。
第一に「普遍的定期審査」である。国連人権理事会においてすべての国連加盟国の人権状況を審査する普遍的定期審査であるが、日本についてはこれまで二回実施された。二〇一七年一〇月?一一月に日本政府についての第三回審査が行われる。
第二に「宗教の自由特別報告者」である。国連人権理事会のテーマ別特別報告者の中に、宗教の自由を取り扱うハイナー・ビーレフェルト特別報告者がいるので、特別報告者への情報提供である。人権理事会の通常の討論の際にNGOとして発言することも可能である。
第三に「補償・真実・再発防止特別報告者」である。パブロ・デ・グリーフ特別報告者に、日本は植民地支配終了後も補償するどころか、被害者に対する人権侵害を継続し、植民地主義を正当化している事実を報告できる。
第四に「国際自由権規約に基づく自由権委員会への情報提供」である。二〇一七年七月、自由権規約委員会は日本政府報告書審査のためにリスト・オブ・イッシューを作成する。日本審査は二〇一八年七月以降になる見込みである。
第五に国連人権機関以外に世界各国のNGOや宗教者への情報提供である。靖国神社問題の基本を理解しやすい文書を作成して広め(それを国連に持ち込むこともできる)、各国の市民・NGO・宗教者と連帯してシンポジウムを開催することも検討するべきであろう。
こうした活動は、反ヤスクニ運動の国際的展開を図るとともに、世界の市民・NGO・宗教者の自由を求める闘いと連帯して行われる必要がある。
こうした発想には、意表を突かれた思いがする。私などは、靖國とは日本固有の問題であり、歴史認識との関わりで日本人自身が解決しなければならない問題との意識が強い。外圧をたのむ姿勢には批判的見解をもっていた。しかし、靖國を戦争や植民地支配の問題ととらえれば、明らかに国外に被害者がいることになる。その靖國神社とこれを支持する勢力が反省なく、今も平和や国際友好を障害して被害感情を傷つけ、近隣諸国民の平和に生きる権利を侵害しているとの観点からは、国際化の方向の追求、つまりは「世界に訴えよう」「国連のしかるべき機関に問題を持ち出そう」ということになるのだ。
ここまで進んだ反ヤスクニでの日韓連携。次は、中国・台湾・シンガポール・マレーシァということだろうか。
なお、ほぼ同旨の詳細を下記の前田朗ブログで読むことができる。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2016/11/blog-post_2.html
(2016年11月29日)
本日は、久しぶりのDHCスラップ訴訟弁護団会議。幾つかの議題に議論の花が咲いた。せっかくの弁護団を解散するのはまことに惜しい。それだけの理由ではないが、今度は私が原告となってDHC・吉田嘉明氏(以下敬称略)を被告とする損害賠償請求訴訟を提起することになりそうだ。そのときには、吉田嘉明の被告本人尋問を是非とも実現させたい。スラップを繰り返させぬために。
当然のことながら、DHC・吉田が敗訴し、私の勝訴は確定した。この勝訴の意義を確認し整理して、世にきちんと伝えねばならない。テーマは、言論の自由、政治とカネ、規制緩和と消費者保護、そしてスラップ訴訟。そのために、具体的に何をなすべきか。
☆まずは、勝利を報告し記録する書籍を作ろう。
DHC・吉田のスラップと闘っての堂々の勝利の記録。幸い、弁護団へのカンパに多少の余りがある。これで、立派なものをつくりたい。
掲載すべきものとしては、経過報告と資料はどうしても必要だ。地裁・高裁の判決と、最高裁の不受理決定+αは掲載しよう。報告論集は資料集だけにせず、弁護団の論稿をいれよう。関心ある市民やジャーナリストを読者対象に、次の各テーマの論稿を掲載することとして担当者も決めた。(タイトルは仮題)
1 スラップ訴訟対策のノウハウ
2 名誉毀損訴訟実務の構造
3 政治とカネ 政治資金に対する監視と批判の重要性
4 規制緩和と消費者問題
5 名誉毀損訴訟判例の推移の中にDHCスラップ訴訟を位置づける。
これまで事件を支援していただいた右崎正博・田島泰彦・内藤光博の3教授、そして法廷後の報告集会で貴重なご報告をいただいた、北健一・三宅勝久・烏賀陽弘道のジャーナリストの皆さま、さらには貴重な情報をお寄せただいた「ネットワークユニオン東京」の皆さまにも、短くても寄稿をお願いしよう。これまで、法廷を学習の場にしようと言ってきた。その成果を確認したい。事件に関心を持って支援していただいた方の意見や感想を収録しよう。これはにぎやかで、もしかしたら売れる書物になるのではなかろうか。
☆勝利報告集会
この勝訴の意義と今後の課題を確認するために、下記の要領で、「DHCスラップ訴訟・勝訴報告集会」を開催する。ご支援いただいた皆さま、まずは是非日程の確保を。
日時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
場所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
「スタジオプラス小ホール」にて
プログラムは未定だが、田島泰彦さん(上智大学・メデイア法)には記念講演をお引き受けいただいている。経過報告に終わらせず、表現の自由や、政治とカネ、消費者利益と規制緩和、スラップ対策などについて意見交換を行う有意義な集会にしたい。
☆反撃の第2幕「アンチDHCスラップ・訴訟」提訴の可否
さて、反撃の提訴に及ぶべきか否か。本日の意見交換では、DHCと吉田嘉明に対する損害賠償請求訴訟の提起を支持する意見が大勢を占めた。
「DHC・吉田のスラップを撃退したのだからこれで十分」なのではなく、「DHC・吉田のスラップの不当が明確になったのだから反撃しなくては論理が一貫しない」と言うべきということ。
とりわけ、現在「提訴を違法とする基準についての最高裁判決リーディングケース」は、名誉毀損訴訟についてのものではなく不動産取引事例におけるもので、この判決を引用しての請求棄却には大いに違和感を禁じ得ず納得しかねる。公的立場にある者(吉田嘉明も当然にその立場にある)に対する批判の言論を封殺する目的での名誉毀損スラップ訴訟を違法とする基準は、言論の自由尊重の観点から自ずと別異にあるべきで、チャレンジすべきとの意見が多かった。
この訴訟を通じての論戦の中で、スラップ訴訟がどのように提起されるのかを明確にすることで、今後のスラップ防止策の設定に有用ではないかとも意見が出た。
違法とされた3本の吉田嘉明批判のブログの最後が、2014年4月8日「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」というもの。これを違法とする2000万円の損害賠償請求訴訟の東京地方裁判所への提訴が同年4月16日である。到底、政治的言論の自由に配慮して提訴の可否を検討した形跡はない。しかも、DHC・吉田の提訴のしかたは、事前の交渉も通知もない、いきなり提訴の乱暴極まりないやり方。さらに、一審で敗訴しても、成算のない控訴審、そして最高裁への上告受理申立とフルコースを付き合わされたのだ。
今度は、攻守ところを変えての提訴となれば、これこそ言論の自由を守る正念場としてやりがいがある。最終結論は、時効期間満了の2017年5月16日までだが、本日の議論はゴーサインとなりそう。
議論は、訴額をどうするかにまで及んだ。大方の賛同を得たのが、660万円である。
6000万円請求のスラップに対抗する訴訟として、その10%の金額として主損害を600万円とし、その請求のための弁護士費用10%を付加しての660万円。
主損害600万円は、6000万円のスラップ訴訟を応訴するためには、本来その10%程度の弁護士費用が必要ということを根拠にしている。
つまり、スラップ応訴のために被告(澤藤)が本来支払うべき弁護士費用(着手金+成功報酬)が600万円、そして、アンチスラップ訴訟の弁護士費用がその10%の60万円と言うわけ。これなら妥当というべきではないか。
私は2年半も「被告業」を務め、ようやくこの10月に被告業の廃業宣言をしたばかり。いまは、「元被告」の身分だが、もうすぐ「原告業」に就業することになりそうだ。
反撃提訴をするとなれば、判例変更を目指す訴訟として最高裁を覚悟してのものとなる。第100弾程度で終わるだろうとの見通しだった、当ブログの「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズ。到底100弾では終わらない。200弾くらいにもなるだろう。第200弾でどのような報告ができることになるか、私自身が興味津々でもある。
私の原告業就業の折には、多くの皆さまにご支援をお願い申しあげます。
(2016年11月28日)
トランプ・橋下、そしてアベ。蔓延するポピュリズムの構造。
昨日(11月26日)の毎日「メディア時評」欄に元朝日新聞記者・稲垣えみ子が「負けたのは誰なのか」と題して寄稿している。明晰で示唆に富む優れた時評となっている。結論から言えば、負けたのは「真っ当なメディア」なのだという。メディアが有権者から浮き上がって、その真っ当な言説が、トランプ・橋下、そしてアベらを支持する「庶民」に届かないことを指摘している。
筆者は、トランプの勝利をかつての大阪での橋下徹登場の際のデジャビュとして、民主主義の現状に警鐘を鳴らしている。アメリカだけの問題ではない。日本も同じだ。しかも、大阪・橋下だけの問題ではなく、アベ政権を支えている「ポピュリズムの構造」そのものが問題だという指摘である。
「メディア時評」であるから、「庶民から浮き上がったマスコミが、(権力監視の)役割が果たせない事態」についての指摘となっているが、問題はメディア論にとどまらない。アメリカとそれに続くヨーロッパの事態を、橋下・アベに引きつけて、他人事でなく、「これは我々の問題」「民主主義の危機」ととらえている。
筆者は、橋下人気が絶頂だったころに朝日新聞大阪社会部で教育担当デスクをしていて、そのときの「ポピュリズムの構造」の「恐ろしさ」を実感したという。これは、貴重な指摘だと思う。このことについての対策や処方にまで言及されているわけではないが、すくなくとも、橋下やアベを支持する「庶民」を愚民呼ばわりするだけでは何の解決にも至らないことが示唆されている。多くの人びとを説得する言論はどうあるべきか。考えなければならない。
あまり目立つ記事ではないので、紹介することだけでも意味があると思う。
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トランプ大統領の誕生には驚いた。だが私は既に同じものを何年も前に見ている。
既得権者への攻撃で支持を集める、ツイッターで刺激的な発言を繰り返し有権者に直接アピールする、過激な政策をマスコミがいくら批判しても支持は陰らない??トランプ現象は、かつて大阪で巻き起こった橋下徹氏のブームとうり二つであった。
橋下人気が絶頂だった時、私は朝日新聞の大阪社会部で教育担当デスクをしていた。君が代強制、教育委員会制度の抜本改革……氏が次々と打ち出す施策は我々から見れば戦争への反省から生まれた教育の否定であった。問題点を指摘する記事を連日出した。だがこれが読者に全く響かない。それどころか「足を引っ張るな」という電話がガンガンかかってくる。
恐ろしかった。何が恐ろしかったって、それは橋下氏ではなく、読者の「感覚」からいつの間にかかけ離れてしまった我々のボンクラぶりであった。マスコミとは権力を監視し、庶民の味方をする存在のはずである。ところがいつの間にか我々は「既得権者」として橋下氏の攻撃を受け、その氏に多くの人々が喝采を送っていた。 一体我々とは何なのか? 何のために存在しているのか?
この事態は今も続いている。安倍政権の政策にマスコミが反対しても世間は動かない。閣僚が問題発言をしても支持率は陰らない。それどころか権力を監視するマスコミの方が権力だと見なされている。アメリカで起きていることも同じだ。マスコミがトランプ氏のうそや破廉恥行為を暴いても有権者に響かない。マスコミはエリートで「我々の味方ではない」と考える人々が多数派となったのだ。
権力は暴走し腐敗する。それを監視する存在なくして民主主義は成立しない。庶民から浮き上がったマスコミにその役割が果たせないなら民主主義の危機である。これは我々の問題なのだ。
そんな中、毎日新聞は10日朝刊の記事「拡散する大衆迎合」で、大衆迎合主義が欧州で広がっていると嘆いた。まるで人ごとだ。大衆迎合でない民主主義などない。自分たちは大衆とは一線を画した存在だとでも言いたいのならそれこそが深刻な危機である。
(2016年11月27日)
1 社員あっての会社である。命より大切な仕事はありえないものとこころえよ。
2 会社はすべての社員に安全配慮義務を負うことを知れ。なすべき安全配慮の具体的な内容については謙虚によく学び考えよ。
3 会社と社員とは対等平等であることを認識せよ。常に、社員の人格を尊ぶべきことを心がけよ。
4 社員は、平等に遇しなければならない。性別、国籍、信条、学歴、または縁故等を理由とする一切の差別的処遇をしてはならない。
5 労働条件の明示と遵守こそが、社員との信頼の基礎であることを再認識せよ。明示された労働条件を超える業務指揮をしてはならない。
6 コンプライアンスの欠如は、会社に致命的な打撃となるものと知れ。戦々恐々として薄氷を踏むが如くコンプライアンスを心がけることが幹部の使命である。
7 信頼される堅固な内部通報のパイプを確保せよ。社員からの法令違反やハラスメント報告に聞き耳を立て、迅速に対処せよ。
8 社長や役員との摩擦を恐れるな。社命に拳々服膺するよりは、部下の意を体して、正論を堂々と述べよ。でないと君が卑屈未練になるばかりでなく、社のためにならない。
9 労働組合には誠実に対応し、その運営に介入してはならない。労働組合の活動歴を社内の待遇に不利にも有利にも考慮してはならない。
10 この十則を守りなば会社は社員の士気とともに興隆し、無視せば社員の士気とともに衰亡に至るべし。この旨を銘記し手帳に刻して毎日三読せよ。
(2016年11月26日)
曽我逸郎様。
長野県・中川村村長としての貴兄のご活躍に、心からの敬意を表します。
貴兄は、「国旗に一礼しない村長」として話題になったというだけでなく、日本国憲法について、民主主義のあり方について、平和について、核や原発について、そして沖縄を典型とする地方自治の問題について、あるいは人生や文明というものについて、含蓄の深いそして強者や体制におもねらない発言を続けてこられました。
10年余にわたる貴兄のご意見は、「村長からのメッセージ」として下記URLで閲覧可能で、ときおり拝読しては大いに共感してきたところです。
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/index.php?f=hp&ci=10685
しかし、ひとつだけ、貴兄に誤解があるのではないか。考え直していただくべきではないか、と指摘せざるを得ない「メッセージ」があります。このブログが貴兄の目に留まることになるかどうか、はなはだ心もとないのですが、一言申し述べます。
貴兄は、今年(2016年)5月6日付けで、「最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書」を提出しておられます。中川村のホームページによれば、その全文は後掲のとおりですが、貴兄の他のご意見と異なって十分に検討し推敲した文章となっておらず、そのために誤った結論に至ったものではないかと危惧せざるをえません。
貴兄は自治体首長であって、来年(2017年)の村長選には不出馬を宣しておられます。意地の悪い見方をすれば、「元村長」となった後、上原公子氏の如く後任首長から訴追されるようなことは避けたいとする立場。その立場からの発言と見られかねないだけに、ご意見にはより慎重さが要求されたところではないでしょうか。
私の立場を端的に申しあげますと、私は住民訴訟の原告代理人を何件か努め、首長や責任ある地方公務員の違憲違法な行為を追及してきた弁護士です。その立場から地方自治法に基づく住民訴訟とは、民主主義原理(「多数決原理」といった方が正確かも知れません)の欠陥を補うための工夫として、直接に法の支配の原理を働かせる貴重な制度だと思っています。
民主的に選任された首長と議会には広い裁量の権限があります。しかし、予め法が定めた限度を超えてはならない。換言すれば違法なことはできません。これは当然のことです。しかし、通常首長は住民多数派を代表していますから、首長に違法行為があっても、議会はその責任追及には及び腰にならざるを得ません。住民からの批判も、必ずしも次の選挙で有効に働くとは言いがたい現実があります。議会も首長も圧倒的な保守地盤から成立している多くの自治体や、現在の大阪府・市の例をイメージすればお分かりいただけると思います。
これを補うのが、監査請求を経ての住民訴訟の制度です。住民たったひとりでも、首長の違法(「不当」のレベルではなく、「違法」であることが必要です)を裁判所に訴え出ることができるのです。その審理の結果として、首長の違法行為によって自治体財政に損害が生じたと認定されれば、裁判所は「自治体は首長(個人)にその損害賠償を請求せよ」という判決を出します。これは、首長に違法なことをさせず、自治体の財政を守るための貴重な制度であり、上原元市長の事例は、その貴重な制度の貴重な活用例というべきだと思います。
以上の基本的立場から、貴兄が挙げている上原元市長擁護の理由6点に、具体的にご意見を申しあげます。(なお、貴見の引用は原文のママです)
1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。
「景観保全、マンション建設反対が、(既に国立市に居住している)市民の強い要請に基づくもの」であったことは、おそらくご指摘のとおりだと思います。先行諸判決も元市長の行為の目的を不当とは認定していません。いうまでもなく、元市長の行為の目的が正当であったとしても、それだけで行為の違法性が阻却されることにはなりません。
2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。
この点も、判決が元市長の行為を「個人的利益に結びつくもの」と認定しているわけではありません。「個人的利益に結びつくものではない行為は違法ではない」と言えないことは、特に指摘するまでもありません。
3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。
これは、お間違いではないでしょうか。「先立つ裁判において」は、「条例制定は有効と認められたにもかかわらず」、「元市長の行為には手続的に重大な瑕疵があり、違法行為があった」と事実認定されたのです。
なお、「手続きに重大な瑕疵があったか否か」、「(手続的瑕疵あることを前提として)元市長に違法行為があったか否か」は、十分な事実関係に接することのできない私の立場では断定的判断を差し控えたいと思います。
言えることは、「先立つ裁判の結論」の引用ということでしかありません。
「先立つ裁判」の一つは、明和地所から国立市に対する4件の提訴です。これを受けて国立市は最高裁まで争い、結局確定した判決にしたがって、市は明和地所に3123 万 9726円を支払ったのです。一つ目の「先立つ裁判」の結果、現実にこれだけの損害が市の財政に生じたのです。
「先立つ裁判」の二つ目は、国立市の住民が提起した住民訴訟です。国立市の3000万円余の損失は当時の市長(上原公子氏)の責任ではないか、市の損失を穴埋めせよという訴訟が提起され、その結果、元市長の行為の違法と過失と因果関係が認定されました。その結果、「国立市は上原公子氏に対して、3123 万 9726円と年5%の遅延損害金の賠償を請求せよ」という判決が確定しました。二つ目の「先立つ裁判」の結果は、現実に生じた市財政の損害を当時の市長個人の責任として負担させよ、としたのです。
これが「先の判決」の内容です。上原公子氏が任意にこの判決に従わないから、「先の確定判決」にしたがって、国立市は上原元市長に訴訟を提起しているのです。「先の判決」を前提とする限り、元市長の責任は免れません。
もっとも、国立市が上原公子元市長を被告とした訴訟はまだ確定していません。昨年(2015年)12月22日東京高裁が言い渡した国立市全面勝訴の判決を不服として、元市長は上告と上告受理申立をしています。最高裁がこの記録を受理したのが今年(2016年)4月12日だそうです。その結果の逆転が絶対にないとは言い切れません。上告理由も、上告受理申立理由も見ていない者としては、軽々な意見は差し控えたいと思います。しかし、「先立つ裁判」を前提とするならば、上原元市長の責任は認められてしかるべきだと言わざるを得ないのです。
4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。
この点は、「上記3点に問題がないにもかかわらず」という前提が誤っていますので、多くを述べる必要はないと思います。「住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しよう」とすることが非難される筋合いはありません。問題は、自治体首長の「積極的」な行為が、法に照らして許される範囲を超えていないかどうかなのです。「先立つ裁判」も、当事件の高裁判決も、元市長には法の矩を越えた違法があったことを認定したのです。
5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。
なるほど、そのようなご指摘は、さすがに地方自治の実務に責任を持つ立場にある方のご意見として傾聴に値するものと思います。しかし、本件訴訟で問題となっているのは、企業の利益と住民の利益との比較衡量ではありません。問題は、飽くまで、被告である元市長の行為が、法的に許されるか否かの一点のみにあるのです。
6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。
私の理解力不足の所為だとは思いますが、この「ビジネスモデル論」についてはよく分かりません。もしかして、「このような訴訟」とは、明和地所の国立市に対する訴訟を指しているのでしょうか。仮に、明和地所が国立市を被告に提訴して、損害の賠償を得たことを不当とする趣旨とすれば、あたかも公権力の行使に対しては、民間の損害賠償は認められるべきではないとするがごとき旧憲法時代の暴論に聞こえます。
あるいは、「このような訴訟」が住民訴訟を指しているとすれば、「遺失利益(逸失利益)の請求」が、「提訴した住民個人の利益になっている」との誤解がありはしないでしょうか。住民訴訟で、おっしゃるような「ビジネスモデル」が成立するとは思いもよりません。
以上各点への私見に通底しているものは、政治家としての「専門家責任」です。萎縮することなく、違法を冒すこともないよう留意しながら住民のために働くべき責任です。いま、原発事故による被害者への巨額の損害賠償を、電力料金に加算して国民にその負担を分散しようとする試みが批判にさらされています。何よりも、原因者が責任をとらねばなりません。そして専門家としての電力会社の責任は厳格に考えなければならず、安易に他への責任転嫁を認めてはなりません。同様に、専門家としての政治家の責任も厳格に考えざるをえません。結果責任に限りなく近いものを求めて差し支えないと思います。上原元市長は軽率な行為で、貴重な市の財政に穴をあけた責任をとらねばならない立場にあります。もし、市長が自らの行為で市に損失を与えながら、これを免責して市民への負担の転嫁を許すとすれば、そのことによる自治体行政荒廃の悪影響こそが看過し得ないものとなるでしょう。
いずれにせよ、貴兄の歯切れのよい明晰な他のご意見と比較して、上原元市長擁護の発言だけは、いかにも説得力に欠けています。「上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、『脱原発をめざす首長会議』の事務局長としてもお世話になっている。」という友誼の関係から、このような意見書を敢えて書かれたとすれば、なるほどその故の思いに引きずられて、結論ありきのやや的はずれのご意見になったのかと、たいへんに残念に思います。
私は、貴兄に最大限の敬意を払いつつも、「中川村も含め、広く全国の都道府県・市町村の全住民の立場から、自治体の首長や責任ある地方公務員に違法行為があってはならず、仮に違法行為あった場合には厳格にその責任の追及があってしかるべき」と考える立場から、敢えて愚見を申し述べた次第です。ご一考を願う次第です。
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最高裁長官宛て 上原公子元国立市長に対する国立市の訴訟に関する意見書
マンション建設から市の景観をいかに守るかという過去の取り組みに対して、国立市が元市長、上原公子氏に賠償を求めて訴えるという事態が生じている。東京地裁では、国立市の請求が棄却されたが、高裁では、上原氏に支払いを命じる判決が出され、現在は最高裁で係争中である。
上原氏は、何度か中川村に来て下さり、村づくりのアドバイスを頂いたこともあり、「脱原発をめざす首長会議」の事務局長としてもお世話になっている。
この訴訟は、ひとり上原氏や国立市だけのことではなく、中川村も含め、広く全国の市町村の住民自治、地方自治に良くない影響を及ぼしかねないと考えるので、最高裁判所長官宛てに以下の意見書を送った。
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2016年5月6日
最高裁判所長官
寺田逸郎様
長野県 中川村長 曽我逸郎
国立市元市長・上原公子氏に対する 国立市の訴訟に関する意見
司法の長として、三権分立の一端を担い、日本をよりよい社会にするべく献身的なご努力を重ねて頂いておりますこと、篤く感謝申し上げます。
さて、表題の件、上原公子元国立市長に対して国立市が起こした裁判については、地方自治の場に身を置く自治体首長の一人として、大きな危機感を抱かざるを得ず、思うところをお伝え致したく、ご無礼お許し下さい。
国立市では、良好な景観を守りたいという住民の思いが強く、景観保全の運動が積み重ねらてれきた伝統があると聞いています。
その歴史において、マンション建設の是非が問題となる中、上原市政が誕生する市長選が行われ、上原氏は、景観を守ることを公約にして当選し、公約どおり住民と共に景観保護に取り組みました。その中で、問題となっている明和マンションの建設計画が持ち上がり、住民は人口を優に超える署名を集め、高さ制限の条例制定を求めるなど、まさに住民自治による反対運動を展開し、上原氏も市長として公約どおり市民と連携して働き、絶対高度制限付きの地区計画をつくることができました。
これに対し、明和地所は国立市に条例撤回と損害賠償を求めて裁判を起こしましたが、高裁では、条例制定は有効と認めつつも、2500万円の損害賠償を市に命じました。直後に、明和地所は、金銭が裁判の目的ではないとして、同額を市に寄付しており、国立市の賠償は相殺されています。
上原氏の市長退任後、4人の市民が市に上原氏への損害請求をせよとの裁判を起こし、二代後の市長になって、国立市は上原氏への訴訟を起こしました。
以上の経緯を考えると、この裁判は、国立市のみならず、広く日本の住民自治と民主主義に悪影響を残すことになりかねないと、強い危惧を感じます。その理由はいくつもあります。
1 景観保全、マンション建設反対は、市民の強い要請に基づくものであり、けして上原氏の独断専行ではないこと。
2 住民の要請に基づき、国立市をよくするために取り組んだのであって、上原氏の個人的利益に結びつくものではないこと。
3 先立つ裁判において、条例制定は有効と認められており、手続きに重大な瑕疵がないこと。
4 上記3点に問題がないにもかかわらず、首長個人を訴えることは、住民意志・住民自治に忠実たらんとしつつ積極的・民主的な活動で住民と共に解決策を模索しようとする自治体首長を萎縮させかねないこと。
5 企業の遺失利益は数値化がたやすいのに対して、住民の、良好な住環境を求める気持ちや環境破壊への不安は、金銭換算が難しく、住民側が企業を訴えることは困難であり、この種の損害賠償裁判は、企業側に偏った不公平なものになりがちなこと。
6 このような訴訟で賠償を得ることが広がれば、住民が反対するような計画を敢えて立案し、住民の不安を煽って反対運動で計画を中止させ、遺失利益の請求で利益を得ようとするビジネスモデルさえ生み出しかねず、そうなると増々地方自治と民主主義を萎縮させること。
先日、関西電力は、高浜原発3,4号機について運転差し止めの仮処分を受けました。それに対して、同社の八木社長は、不服申し立て後の上級審で逆転勝訴した場合には、損害賠償請求する可能性を示唆しました。このように、損害賠償請求は、既に住民自治を牽制する手段に使われており、良好な生活環境を求め環境破壊を恐れる住民が、不安や心配を民主的に広く訴えることを押さえ込む道具になりつつあります。
既に寄付を受け実害がないにもかかわらず、基礎自治体である国立市が、このような、住民自治と自由闊達な民主主義を毀損しかねない類いの訴訟を行わねばならないどのようなどのような理由があったのか、私には想像できません。
最高裁判所におかれましては、以上の点、ご勘案頂き、何卒慎重なご判断を頂きますようお願い申し上げます。
以上
昨日(11月23日)の東京新聞「こちら特報部」欄。見過ごしてはならない重い内容の記事となっている。是非とも拡散したい。多くの人に読んでいただき、この国が歴史的にどんな位置にあるかについて考えていただきたい。このような貴重な記事を提供してこその、さすが東京新聞であり、さすが「こちら特報部」であると思う。
メインの大見出しは「警察 暴挙見て見ぬふり」。サブの見出しとして、「天皇制反対デモを右翼が襲撃」。そして中見出しが、「車ボコボゴ、けが人も 政治的中立性どこに」というもの。これだけで、あらかたは推察できる。
リードに、「特報部」の問題意識が、よく表れている。
「東京都内で二十日、天皇制に反対するデモを複数の右翼団体が襲い、デモを先導する車のフロントガラスが割られたり、負傷者が出る騒ぎになった。警視庁の機動隊が現場で規制をしていたが、逮捕者はいなかった。沖縄県の米軍施設建設反対運動では、参加者を警察官が「土人」と中傷した。昨今の警察は政治的中立性という「建前」すら無視してはいないか。」
問題とされているのは、天皇制の是非やデモの主張の当否ではない。民主主義社会において国民に保障されている「表現の自由」の行使が暴力によって蹂躙されているとき、「警察が暴挙見て見ぬふり」をしたという重大事なのだ。こと、政権が押し進める沖縄の基地拡張問題となれば、あるいは政権を支える右翼勢力にとってセンシティブな天皇制の問題となれば、「昨今の警察は政治的中立性という『建前』すら無視する」ということなのだ。
記事の全文を引用して紹介したい。
襲撃されたのは「11・20天皇制いらないデモ」。生前退位議論に絡んで、東京都武蔵野市のJR吉祥寺駅南口周辺で、約百人が参加して実施された。
インターネット上にアップされた動画を見ると、右翼団体がワゴン車を囲み、左右に揺さぶったり、日の丸を付けたポールでフロントガラスを突くなどした。右翼団体の拡声器からは「殺せ、殺せ」という怒声が響き、ヘルメット姿の機動隊が制止に入ったが、右翼団体はそれを押しのけ、ワゴン車への襲撃を続けた。
このデモに参加した男性(37)によると、ワゴン車はデモの先導車で、デモの開始前、井ノ頭通りに出たところを右翼団体に襲われたという。男性は「車がボコボコにされた後、吉祥寺駅近くまで三キロ弱の距離を一時間半ほどデモしたが、ずっと右翼団体に囲まれ、横断幕は破られ、拡声器を奪われたり、地面にたたき付けられたりした。右翼団体とのもみ合いであごから出血したり、歯が折れた参加者もいた」と話す。
右翼団体は全体で三十?四十人。規制する機動隊は五百人ほどいたという。男性は「右翼団体は何のデモか周辺の人びとに分からないようにすることが狙いだったようだ。私たちの主張が書かれているプラカードや、拡声器を集中的に狙っていた」と振り返る。
当日、デモ隊、右翼団体双方から逮捕者は出なかった。男性は「これまで十年ほど運動をしているが、被害の大きさは過去最高。警察は右翼団体の暴挙を意図的に見逃しているようにしか見えなかった」と憤る。
この点について、警視庁公安部は「現在捜査中なので、回答は差し控える」とコメントしている。
ジャーナリストの斎藤貴男氏は「警察は本質的に体制の擁護者。国家の秩序維持が、その存在意義の一つだということは分かっている。そうだとしても、目の前の犯罪を取り締まらないとは度を越している」と批判する。
沖縄県東村の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事に反対する運動では先月、警備にあたっていた大阪府警の機動隊員が反対派市民に「ぼけ、土人が」などと発言し、戒告の処分を受けた。だが、鶴保庸介沖縄北方担当相が「警察の(土人発言は)差別とは断定できない」と発言した件について、政府は十八日、「謝罪の必要はない」との認識を閣議で決定した。
斎藤氏は、「土人発言を大臣が擁護することは、日本が差別を率先する国になっていることを意味する」と危機感を抱く。「戦後、少しずつ改善された人権意識が全部壊され、社会秩序を守るべき警察が、積極的に社会をぶち壊す側に回っている。ここまでひどいのは戦後初めてではないか」
さらに、こうした警察の振る舞いの影響を危ぶむ。
「今回は天皇制反対のデモだったが、これからはどんなテーマであれ、お上に逆らう人びとに対しては、罵詈雑言を浴びせたり、暴行しても権力が擁護する社会になるかもしれない。この無残さは人の世とは思えない。どれだけ意見に相違があろうとも、デモヘの襲撃は犯罪にほかならない」
東京新聞・特報部の焦慮にも似た問題意識がよく伝わってくる。デモの実行委員会から提供を受けたという「デモの開始前に割られた先導車のフロントガラス」の写真も生々しい。
ところで、この点に関しての他紙や電波メデイアの報道はどうなっているのだろうか。まさか、「天皇制反対の過激デモ、痛い目に遭ってもやむを得まい」と思っているはずはないだろう。しかし、「報道は、天皇制に対するデモを擁護と受けとられかねない」としての黙殺や遠慮が少しでもあるとすれば大きな問題であり、それこそが天皇制の民主主義に対する危険性を物語るものでもある。
声を上げなくてはならないと思う。今ならまだ遅くはない。小さな声の集積が差別者集団のヘイトデモを追い詰めたように、表現の自由を守るべき声を上げなければならない。ことが天皇制の評価に関わるものだからと躊躇していては、「お上に逆らうすべての言論」が封殺されてしまうことになりかねない。
「警察は襲撃者集団を特定して訴追すべきである」と発信しよう。警察が撮影したデモ襲撃現場の動画もあるはずだし、ネットにも動画が掲載されている。警察が犯人を特定して逮捕できないはずはない。
そして、被害者は証拠を保全して告訴すべきだ。暴行、脅迫、傷害、窃盗、器物損壊、だけでなく、
「暴力行為法(暴力行為等処罰ニ関スル法律)第1条 団体若は多衆の威力を示し、団体若は多衆を仮装して威力を示し又は兇器を示し若は数人共同して刑法第208条(暴行)、第222条(脅迫)又は第261条(器物損壊)の罪を犯したる者は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処す」「同法第1条の3 常習として刑法第204条(傷害)、第208条(暴行)、第222条(脅迫)又は第261条(器物損壊)の罪を犯したる者 人を傷害したるものなるときは1年以上15年以下の懲役に処し其の他の場合に在りては3月以上5年以下の懲役に処す」も活用すべきだ。
仮に不起訴となれば、証拠を携えて検察審査会に審査申立をすべきだし、特定できた襲撃者に対しては、損害賠償請求訴訟も提起を考慮すべきだ。附和雷同の襲撃加担者に、軽挙が高くつくことを知らしめなければならない。
いま右翼は、政権も社会も自分の味方だと思いあがっているのだ。政権にも、右翼暴力にも、民主主義社会は毅然たる姿勢を示さなければならない。
(2016年11月24日)
晩秋。雲の厚い陰鬱な勤労感謝の日である。晴天に恵まれた文化の日に神保町の「神田古本まつり」の露店で購入した本をひろげている。「神聖国家日本とアジアー占領下の反日の原像」(鈴木静夫・横山真佳編著、勁草書房1984年8月の刊)。消費税のない時代の定価は2200円と付けられているが、古書として300円だった。
この本の惹句は、「第二次大戦下,日本はアジアの占領地域で何をしたか,相手側はどのように受けとめたか。現地調査と綿密なデータ収集で掘り起こし,現在も深い影を落している事を明かにした。」というもの。現地をよく知る6人の毎日新聞(元)記者が精力的な調査結果をまとめている。3年掛かりの作業だったそうだ。
この書のキーワードは、アジアの人びとがもつ「対日不信の原像」である。帯には「これはすぐれた日本人論でもある。現地調査と研究が浮彫りにした日本の原像。この水準を越えるものは当分出ないだろう」と記されている。この書に記された独善と狂気と残酷を「日本の原像」というのか。アジアの占領地に「呪縛と支配の思想」を押しつけた、私より一世代前が「日本人の原像」だというのか。ますます陰鬱な一日となってしまった。
私がこの本を買う気になったのは、以下の「あとがき」(鈴木静夫)に目が行ってのこと。大切な視点だと自分に言い聞かせるつもりで、引用しておきたい。
「東南アジアの対日不信」の調査、研究は一つの衝撃的な新聞記事との出会いから始まった。その記事は「東南アジア『懺悔』行」と題された一九八〇年五月十九日付の毎日新聞夕刊の記事である。新日本宗教団体連合会に所属する二十六人の青年たちが、三度目の東南アジアの戦跡めぐりをしたという囲みものの報告記であった。東南アジアの戦跡めぐりをする旧軍人やその家族はたくさんおり、そのこと自体は珍しくはないが、この記事が伝える内容は私を激しく揺り動かした。彼らは古戦場や軍人墓地を訪問したのだが、その訪問の仕方がまるで違っていたからである。もちろん、すべての慰霊団の旅行がそうだとはいわないが、それらは必ずしも懺悔行ではなく、戦争の反省や現地の人たちへの配慮が中心的課題になっている場合は少ない。その結果、地元民の感情にはおかまいなく、激戦地にやたらに日本式の慰霊塔や観音像を建ててくることになる。ところがこの青年たちは、まず何より先に現地の人たちの墓や連合軍の共同墓地を訪れ、現地の人だちとの交流の中で慰霊をしたのだという。一行の中には僧侶も多くまじっていたが、日本式の慰霊は一切行なわず、タイではタイのお坊さん、フィリピンでは地元のカトリック神父を招いて、慰霊式をあげた。「戦争で現地の人たちにどんな苦難がふりかかったのか、とにかく事実を知りたい」というのが彼らの基本的な姿勢だったという。出発に当たって「『懺悔』行」の団長(立正佼正会の天谷忠夫氏)が「一度、現地の人の立場に立って考えてみたい」と決意を表明していた、とこの記事は伝えていた。
……東南アジアの古戦場を、日本兵の辿った側からでなく、その反対側から辿るという発想は、実に大変なことなのである。まず、事実関係からみて、どんな戦跡めぐりの団体も、現地住民や『敵』の墓を探しては歩かない。また、仮りにあったとしてもその数は少ない。現地の学校に何かの縁でオルガンや運動用具を贈っても、墓までは行かないのである。さらに、戦跡めぐりの人たちは、戦争を「現地の立場に立って」考えたりはしない。だからこそ『懺悔行』の団長さんは「一度」そうしてみたいと思ったのである。
……
これは私にとって、アジア再発見ともいえた。東南アジアを、『現地の側』から見直すこと、こんな簡単なことが決定的に欠けていたのである。『懺悔行』の人たちは、日本とアジアの戦時中の関係、すなわち『対日不信』の問題を現地の側から包括的にみる試みがまだ行なわれていないことを私に気づかせてくれた。…日本軍政を現地の民衆はどう受けとめたのか。そして大東亜共栄圈構想、日本語教育、皇道思想、神聖国家の押しつけに彼らはどう反応したのか。私は『懺悔』の人たちのように、『裏側』からこの問題に迫ってみようと思い立った。そこから東南アジアの人々が持つ「対日不信の原像」が浮彫りにされると思ったのである。
ここで指摘されているのは、「戦争を被害者としての視点からだけではなく、自らを加害者として見つめ直すこと」、「侵略戦争を被侵略国の民衆の立場からありのままに見るべきこと」、そして「戦争がもたらした長く癒えぬ傷跡をあるがままにとらえること」である。この基礎作業なくして、対話も謝罪も、関係の修復も、真の友好と将来に向かっての平和の構築もあり得ない。
このような考え方は、靖国の思想と真っ向から対立する。靖国は死者を、敵と味方、軍人と民間人に、徹底して差別する思想に立っている。天皇や国家のための忠死故に「英霊」と顕彰するとき、既に戦争が美化されている。その戦争が醜い侵略戦争であったこと、皇軍は加害軍であったことが隠蔽される。靖国の思想とは、戦争を美化して次の戦争を準備する思想といってよい。靖国史観に、侵略された国々の民衆の歴史を対峙させることの意味は大きい。
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ところで、11月13日に亡くなられた池田眞規さんの、おそらくは絶筆となったであろう「反核法律家・2016年秋号」(10月15日発行)の「人生こぼれ話」第9話をご紹介したい。「韓国が拘る『歴史問題』は『慰安婦』問題だけではないというお話」と標題されている。
? 殴られた者はその痛みを忘れない。殴った者は殴ったことも忘れてしまう。
日本から殴られた韓国(本稿では百済、新羅、高句麗、近世の李王朝も含めます)では、殴られた痛みを忘れていません。殴った日本は忘れて平気な顔をしています。韓国の人々は昔から日本から受けた辛い痛みを子孫に語り継いでいます。
日本と韓国との関係の歴史をみると、韓国への大きな加害の主な例だけでも、1.神功皇后の韓国遠征(4世紀)、2.豊臣秀吉の韓国侵略(16世紀)、3.武力の威嚇で強行した韓国併合(20世紀)など一方的な侵略的行為ばかりです。日米戦争で負けた日本は、日本が被害国に与えた侵略犯罪の告発を怖れて、無法な侵略を裏付ける証拠は悉く破棄し、隠蔽しました。学校の義務教育でも、歴史の教科書には韓国側の被害を受けた人々の怒りや恨みについては殆ど触れていません。
そこで、日本から殴られた韓国の側の受けた被害の実情を検討したいと思います。
? 神功皇后の韓国遠征(4世紀)について
4世紀の韓国遠征は古事記(福永武彦訳)に記載があります。それはひどい話です。
古事記によると、仲哀天皇の妻・神功皇后の時代の「新羅を伐つ」という見出しの項で長々と韓国遠征の経緯が綴られています。要するに、「西の方に金や銀をはじめ、まばゆいほどの宝物が多い国があるから、その国は神功皇后の御子が治めるべきである、という神のお告げがあったので、それを受けて皇后は韓国に侵入することになり、軍隊を招集して軍船を進めて韓国を討伐したところ、韓国の国王は降伏したという筋書きです。殴られた側の韓国にしてみれば、たまったものではありません、隣国の「神様のお告げ」で金銀の豊かで殆ど無防備な国に大量の軍隊で押し掛けて降伏させたというのです。この破廉恥な事実を、古典文学「古事記」に当たり前のように記述しているのです。昔話にしても余りにも侮辱した話です。
(以下、豊臣秀吉の侵略(16世紀)、韓国併合(20世紀)について略)
おそらくこれが最後となった、分かり易い眞規さんの筆。
なるほど、「神功皇后の三韓征伐」は、記紀以来日本の英雄譚として語り継がれて国民に違和感がなかった。昔は優れた勇ましい国家的リーダーがいた、というのが日本でのとらえ方。しかし、「神のお告げで隣家に侵入」すれば強盗である。被侵略側から見れば、神功とは、国家規模での強盗の頭目ということになる。国家の英雄か、強盗か。立場で評価は極端に分かれる。
日本と朝鮮、日本と中国、日本と東南アジア。アジア太平洋戦争に関しては、いずれも事情を同じくする。新宗連の「徹底して現地の被害者の立場から戦争の傷跡を見つめ直そう」という試みがもつ意義が、あらためてよく分かる。
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なお、「神聖国家日本とアジア」目次を掲記しておきたい。
第1部 告発する東南アジア
第1章 シンガポールの「血債の塔」
第2章 バターン半島の「死の行進」
第3章 残っていた「マニラ大虐殺」の現場
第4章 「泰緬」―死の鉄道と忘れられたアジア人労務者
第2部 皇国思想と宣伝工作
第1章 「神国日本」の輸出―天皇制国家の呪縛
第2章 望月中尉の皇道主義教育
第3章 「マナベ ニッポンゴ」
第4章 占領地のマスコミ活動
第3部 抗日の決意
第1章 批判されたフィリピン軍制
第2章 日本軍欺くマニラの演劇
第3章 フィリピンとタイにみる二つの抗日戦争
第4章 『親日」指導者たちの反日の選択
第4部 対日期待と「大アジア主義」
第1章 フィリピン独立戦争と国際連帯
第2章 日本に期待したサクダル党
第3章 傭兵部隊「マカピリ」の対日協力
第4章 「侵略」の論理としての「大アジア主義」
第5部 東南アジアの対日不信の原像
第1章 ヘレン・ミヤーズの日本擁護論
第2章 欠けていた「アジアの視点」? 以上
(2016年11月23日)
毎日新聞の社会面トップが、11月20日、21日、そして本日(22日)と3日連続で、鶴保庸介の「政治とカネ」疑惑を報道している。「土人発言擁護」のあの鶴保、スピード違反検挙歴2回のあの鶴保、そして女性スキャンダルで信じがたい背信的行為で話題となったあの鶴保、そしてアベ政権が必死に擁護をはかっているあの沖縄担当大臣である。
11月20日と21日の記事は必見。いずれもネットで読める(見出しなどは、多少新聞記事と異なるが)。是非、目をお通し願いたい。
http://mainichi.jp/articles/20161120/k00/00m/040/094000c
http://mainichi.jp/articles/20161121/k00/00m/040/116000c
そして、いつもながらリテラの解説記事が遠慮なく切れ味がよい。毎日の書かない鶴保のスキャンダルなどは、こちらに詳しい。こちらも是非。
http://lite-ra.com/2016/11/post-2716.html
報じられている疑惑の内容は、表面上パー券購入に関しての「政治資金規正法違反」疑惑だが、毎日の記事がターゲットにしているのは、明らかに「収賄」ないしは、「あっせん利得処罰法違反」容疑である。あの甘利明とおなじ容疑なのた。これは看過できない。
毎日がスクープした疑惑は2件ある。両件を通じて鶴保が受けとったカネの合計額は450万円(20日報道のA事件350万円、21日報道のB事件100万円)。行政の担当者を呼び出して、自分の執務室(当時国交副大臣)で献金者に会わせているところまで、甘利疑惑とそっくりである。そこまでしていれば、鶴保の行政への口利きがあったと考えるべきが常識というもの。鶴保への献金者二人は、二人とも行政から利益を得ている。甘利に続いて、これを立件できないとなれば、いったい何のための法、なんのための検察なのか。
それにしても鶴保の手口は汚い。献金(パー券購入)は、他人名義とされていた。毎日のA事件のサワリはこうだ。
「鶴保氏は12年12月、第2次安倍内閣発足時に副国交相(観光庁などを担当)に就任。男性の(二人の他人名義での)パーティー券購入はその翌月で、男性らによると購入から5日後の13年1月16日午後、男性は山梨のNPO代表らと国交省の副大臣室で鶴保氏と面会した。観光庁観光産業課出身の秘書官も同席。男性らは補助事業制度全般について意見を述べ、河口湖での駐車場やトイレの増設を要望したという。
NPOは翌2月、観光庁の補助事業「官民協働した魅力ある観光地の再建・強化事業」(補助金上限1500万円)に応募。3月に倍率8倍を突破し対象事業に選ばれた。14年2月には追加補助の「観光地ビジネス創出の総合支援」(同700万円)にも選ばれた。」
これを政治家利用ビジネスとしてみれば、このA事件疑惑は、鶴保への献金合計350万円のコストで補助金2200万円を獲得したことになる。8倍の倍率を突破しての補助金受領は、ビジネスに金銭以上のメリットを付与するものとなる。献金(パー券購入)は他人名義でさせておいて、鶴保はこの真の献金者を行政の担当者に紹介して、メリットを付与したとの濃厚な疑惑。
そのコストパフォーマンスをもたらした「名義擬装」については、献金授受の両者の共謀あったことが明らかと言うべきである。その隠蔽工作がバレたから「カネは返した」という、いつものパターン。カネを返さねばならないということは、違法を認めたということ。これを放置しておいては、同種犯罪をはびこらせることに手を貸すものとして、司法の権威を失墜せしめると指摘せざるを得ない。
私の印象では、毎日の記者が鶴保の土人発言擁護をはじめとする一連の行動に、義憤を燃やしたのだ。徹底して調査してやろうと考えたに違いない。こうして叩いてみたら、案の定ホコリが出てきた。到底看過できない「立派なホコリ」。鶴は、言わずもがなの土人発言擁護の一声を発して、撃たれたのだ。
さすが毎日、よく調べている。毎日が報道する鶴保政治資金規正法違反疑惑は、報告書を眺めているだけでは把握できない。執念で歩き回ってはじめて書ける記事だ。立派な新聞の立派な記者が、薄汚い議員の隠蔽された疑惑をよくぞ見つけてきた。
甘利の場合は「献金」という形で現金の授受があった。鶴保疑惑は、パーテイ券購入という形での金銭授受。しかも、悪質なのは甘利陣営が、これを隠そうと工作していることだ。当然にやましいところがあるからである。そして、隠蔽工作は、金銭授受の両当事者が、相互に協力して美しくも心を合わせた共同作業によるものと考えざるをえない。
理由はあるのだろう。献金(パー券購入)側の名前は伏せられている。「山梨県のNPO法人副代表」とか、「前年に法人税法違反容疑で逮捕された会社の社長」などという特定のしかた。汚い政治家にカネをやることを通じて、行政を動かそうとしたこちらも汚い輩だ。少なくとも、政治や行政の廉潔性に対する信頼を傷つけた人物。ちょうど、渡辺喜美にカネを提供したDHC・吉田嘉明と同じ立場。政治家にたかって、利益に与ろうという世にはびこっている不正には、強い警告を発しなければならない。
甘利の場合は、献金者とURとの間の損害賠償交渉への口利きだった。鶴保は、国交省の副大臣として、業者への補助金取得口利きがメインの疑惑である。これを隠蔽するための工作が政治資金規正法違反疑惑となって表面化している。政治資金規正法が政治資金の流れの透明性を確保して、職務の廉潔性に対する国民の信頼を確保しようという法律なのだから、政治資金規正法違反の裏には、カネで政治を動かそうという献金者側の思惑と、これにたかろうという薄汚い政治家の、相寄る魂の抱擁があるわけだ。
カネを持っている連中は、政治家にカネをやりたくてならないのだ。もちろん、見返り期待のない献金などはありえない。そのことを常識として、カネの授受や利益供与が、政治や行政の廉潔性に対する国民の信頼を損なうものとして規制されているのだ。DHCの吉田嘉明の如く、「他は知らず、自分の献金だけは別」などが通じるはずもないことを弁えねばならない。
惜しむらくは、この疑惑の発覚が、7月参院選のあとになったことだ。もし、参院選の前だったら…。もしかしたら、和歌山選挙区では、市民と野党の共同候補が、当選していたかも知れない。
鶴保は、鳴いて撃たれた。鳴かずに、ひっそりと同様の疑惑を抱えたままの議員も多いに違いない。これを暴く旺盛なメディアにも期待したいし、新たな政治資金監視の市民運動の出現が望まれる。
(2016年11月22日)
一昨日(11月19日(土))、日本民主法律家協会の「第47回司法制度研究集会」が開催された。メインタイトルは、「治安国家化・監視社会化を問う 何のための刑訴法・盗聴法「改正」、共謀罪法案か?」というもの。
主催者の案内が、次のようになっている。
「今回の集会では、本年5月24日に成立した「改正」刑訴法・盗聴法の内容の危険性を暴くとともに、法律家団体と市民が協働しながら反対運動を展開してきた成果を共有したいと考えています。
また、一昨年に施行された特定秘密保護法、「改正」刑訴法・盗聴法、そして、来年通常国会への上程が取り沙汰される共謀罪等が総体としてもたらすであろう監視社会・治安国家への対応には、「改憲」反対のすべての運動の結集が急務であると考えます。
『改憲』に向けた現政権の謀略に対峙していくための法律家運動の課題を模索するとともに、法律家運動の果たすべき役割を改めて確認し、市民とともに、大きな国民的運動を展開する決意を誓い合う司法制度研究集会になるよう、皆さまのご参加をお待ちしています。」
討論の素材となった報告は3件。「刑訴法『改悪』阻止の闘いと今後」小池振一郎、「盗聴法・共謀罪の本質」海渡雄一、そして「秘密保護法,盗聴法・刑訴法,共謀罪と治安国家・監視社会化」白取祐司(神奈川大学法科大学院教授)。前2件は、報告のタイトルで内容が推察できる。しかし、3件目の白鳥報告だけはよく分からない。集会主催者の注文で、メインタイトルに合わせた内容。
この白鳥報告が明晰で面白かった。クローズアップで問題を見極めようとする報告の中で、カメラを引いてロングでものを見ることによって、背景事情やものごとの関連性が見えてくる。そんな印象の報告だった。いずれ「法と民主主義」に掲載されるが、私流に把握した要点をかいつまんでご報告したい。
☆最近の刑事立法を概観すると、特定秘密保護法成立以来、とんでもない悪法の目白押しである。
・特定秘密保護法(2014年)
・通信傍受法改正法(2016年)
・刑事訴訟法改正法(2016年)
・共謀罪法案(2017年?)
どうしてこんなことになっているのか。政治状況の変化、端的に言えば安倍政権がもたらしたものだが、それだけではない。これまで悪法の成立に歯止めを掛けてきた勢力の変容があるように思われる。日弁連と研究者集団の変質を指摘せざるを得ない。
増員の影響か、弁護士のノブレスオブリージュの気概が希薄になってきたのではないか。また、かつて刑法改悪阻止運動の先頭に立った平野龍一のごとき存在が消え、政権や法務省にすり寄る研究者が増えている。真剣な検討を要する。
☆21世紀にはいって以来、「最近」以前の主要刑事立法を概観すれば、以下のとおり。
・少年法改正(検察官関与・原則逆送)(2000年)
・裁判長法・刑事訴訟法改正法(2004年)
・刑事収容処遇法(2005年)
・犯罪被害者参加法(2007年)
・公訴時効廃止法(2010年)
これらの刑事諸立法を貫徹する共通の理念を把握したり、傾向を指摘することが難しい。立法の背景が見えにくくなっていると言わざるを得ない。
☆一方、望ましいとして立法課題と意識されてきた下記の法は成立に至っていない。
・死刑廃止法
・再審法改正法
・監視型捜査規制法
・ミランダ法(弁護人立会権確立立法)
☆以上のごとき現在の状況を歴史的視座に置いてみると、以下の治安維持法の時代との類似性が指摘できるのではないか。
・治安維持法(1925年)
・治安維持法改正(1941年)
・軍機保護法(1937年)(1941年全面改正)
・国防保安法(1941年)*1940年大政翼賛会結成
1925年から敗戦までは、刑事法的には「治安維持法の時代」と言ってよい。上記各法は戦時法であり、戦争準備の立法であった。軍機保護法は1889年日清戦争後日露戦争を見据えて制定された。1937年に全面改正され、さらに1941年にも戦争の進展に応じて改正された。
☆特定秘密保護法は軍事立法であり、戦争準備の法と認識しなければならない。そして、「治安維持法の時代」の諸刑事立法が、改正を重ねていることに留意しなければならない。新規の立法はそれなりの抵抗に遭う。政権は妥協した形でマイルドに修正して立法に漕ぎつけ、頃合いをみてハードに法を改正する。新規立法よりは改正の方が世論の関心事とならず、抵抗は小さい。この事情は、戦前も今も同じこと。だから悪法反対運動は、立法成立後も改悪反対運動としての持続が大切なのだ。
☆分析のための視座として、
1 軍事法制下の刑事法
2 治安立法としての刑事法
3 監視社会と刑事立法
という、観点が必要だろう。
☆軍事法としての特定秘密保護法が危険で問題というだけでない。非常事態宣言下のフランスにおける刑事手続のように、テロ対策という名目の非常時立法は、常に軍事法としての危うさを警戒しなればならない。
☆いま、体感治安の悪化が煽られている。刑法犯は減少し、凶悪犯も著しく減っているにかかわらず、意図的に不信不安が醸成された結果である。警察依存型の刑事政策が意図されているからとみるべきだろう。このような策動に、どこかで歯止めが必要だ。
☆むのたけじが、自分の記者時代を振り返って語っている。
「治安維持法も国家総動員法も、法の具体的な適用の有無が問題であるよりは、そのような法律が作られ存在すること自体が大きな問題だった。」
今、そのような時代状況になろうとしているのではないか。必要なのは、軍事立法でも治安立法でもない。積極的に「誤判を防止し誤判被害者を救済する」ための、刑事司法改革こそが必要ではないか。
(2016年11月21日)