天網恢々疎にして漏らさず(『老子』では「失わず」)、とは情けない諺。普通の理解は、「悪を捕らえる天の法網は、一見網の目が粗くて諸悪がすり抜けられそうなのだが、実は逃しはしないのだ。国法が目こぼししても、やがては天の網に捕らえられる」というくらいの含意。しかし、天の網の目を密と言わずに、疎といっている。なんとも微妙な言い回しではないか。
庶民はみんな知っている。政治家を縛る諸法はすべてザルであることを。権力には、巨悪を眠らせずにおくものか、という気迫のないことも。昔から、庶民は、「国法が見逃しても、きっと天の網が、奴らを捕らえてくれるはずさ」と、自らを慰めてきた。学のある者が、そのような民衆の気分を上手に文章にまとめたのが、「天網恢々」だ。いつかはきっと、あいつに天罰が下る。だから、怪しからんと憤ったり、ワーワー騒がなくてもよいのだ、と。
この法諺は、「天皇に道義的政治的責任はあっても、法的責任はない」「だから、東京裁判の起訴は免れた」「しかし、天網恢々…、その戦争責任をいつかは必ず天の網が裁くはず」と使われた。でもまた、誰もが知っている。結局のところはこれも願望に過ぎないことを。実際に、天皇はその後40年余も永らえて、天の網に捕らえられて裁かれたか…、誰も知らない。
「法は蜘蛛の巣だ。チョウはつかまり、カブトムシは破る」このリアリティを糊塗するための、天網恢々のたわごと。そんなことを考えざるをえないのは、今朝の朝刊に「甘利不起訴の方向」の記事を見てのこと。検察からのメディアのリークとして、根拠のない記事ではないと思っていたら、午後には「東京地検 甘利を不起訴に」の報道。
今朝の毎日の記事は、こうだ。
<甘利氏>不起訴へ 東京地検、任意で聴取 現金授受問題
「甘利明前経済再生担当相(66)=1月辞任=を巡る現金授受問題で、東京地検特捜部が甘利氏本人から任意で事情を聴いたことが分かった。甘利氏は都市再生機構(UR)が建設会社「薩摩興業」(千葉県白井市)に約2億2000万円を支払った交渉への関与などを否定したとみられる。甘利氏と元秘書2人については、あっせん利得処罰法違反などの疑いで告発状が出されているが、刑事責任を問うことは難しいとの見方が強く、特捜部は近く3人を不起訴処分とする方向で調整している。…UR関係者は『13年度中に契約を結ぶために交渉を急いでいた』と話し、甘利氏や元秘書が交渉に与えた影響を否定した。」
「同法違反での立件には、国会議員としての『権限に基づく影響力の行使』があったことを立証する必要があるが、捜査ではそうした証拠は得られなかったとみられる。」
この事件は、あっせんを請託した者が、自らの刑事訴追を覚悟して、甘利のあっせん利得処罰法違反を世間に暴露したものだ。稀有の事例と言ってよい。これで、立件できないとすれば、法はザルだ。密なる網でもなければ、疎なるザルですらない。底の抜けたバケツというべきではないか。必要性あって、せっかく作った「あっせん利得処罰法」が発動されることは今後一切あるまい。この運用で、「あっせん利得処罰法」は名前を変えざるを得ないだろう。「あっせん利得容認法」、あるいは「あっせん利得奨励法」だ。だから、政治家稼業は辞められない。
もう一度、あっせん利得処罰法の条文をよく見よう。
同法第1条(公職者あっせん利得)の構成要件は以下のとおりである。
(犯罪主体) 衆議院議員、参議院議員又は地方公共団体の議会の議員若しくは長(以下「公職にある者」という。)が、
(犯罪行為) 国若しくは地方公共団体(URを含む)が締結する売買、貸借、請負その他の契約又は特定の者に対する行政庁の処分に関し、
請託を受けて、
その権限に基づく影響力を行使して公務員(UR職員を含む)にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、
その報酬として財産上の利益を収受したときは、
(刑罰)三年以下の懲役に処する。
問題は、「その権限に基づく影響力を行使して」の立証の困難ということのようだ。「その権限に基づく影響力」とは、「甘利が国会議員として有している広範な権限の影響力」である。UR側が甘利事務所の口利きを無視し得ず、交渉を重ねざるを得なかったこと、甘利事務所が口利きをした保証金交渉で譲歩したのは、「その権限に基づく影響力の行使」ゆえではないか。立件し、裁判所の判断を仰ぐべきが筋であろう。
到底、天網に委ねて済む問題ではない。告発事件が不起訴の通知があれば、検察審査会への審査申し出とならざるを得ない。
(2016年5月31日)
昨日(5月29日)、「第五福竜丸展示館開館40周年記念レセプション」が、賑々しく行われた。主催は公益財団法人第五福竜丸平和協会、参加者は核廃絶運動に真摯に関わってこられた方々。会場はクラシック然たる神田の学士会館であった。
都立第五福竜丸展示館は1976年6月10日に開館している。その都立第五福竜丸展示館の管理を担っているのが、第五福竜丸平和協会。協会の活動に関しては、ぜひとも下記のサイトをご覧いただきたい。私は、浦野広明さんとともに、監事を務めている。
http://d5f.org/kyokai.html
協会の定款第3条は、「この法人は、昭和29年3月1日ビキニ水爆実験の被災船第五福竜丸を記念し、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示することにより、都民をはじめ広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与することを目的とする。」と謳っている。船体の保存は意義ある重要なものだが、協会はこれを自己目的化しているわけではない。目的は飽くまで「核兵器禁止・平和思想の育成」なのだ。「育成」という用語が気になる方は、「涵養」「普及」「啓発」あるいは「訴え」「呼びかけ」とでも、読み替えていただきたい。
核爆弾が実戦においてその残虐な威力を示したのは1945年8月の広島と長崎だった。広島投下の原爆はウラン型。長崎のものはプルトニウム型。その7年後、52年にアメリカは南太平洋のエニウェトク環礁で初の水爆実験を行う。そして、1954年3月から5月にかけてアメリカは一連の最大級水爆実験をビキニ環礁で行う。キャッスル作戦と名付けた6回の実験の最初のものが、3月1日の15メガトン水爆「ブラボー」だった。ブラボーの爆発力は、広島に落とされた原爆の1000倍である。なんという脅威、そしてなんというふざけた命名。
たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになる。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が珊瑚礁の死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。「急性放射線症」で全員が入院した後、最年長の通信士久保山愛吉さんが半年後に逝去される。その命日は9月23日、「久保山忌」である。
久保山さんの遺言「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」という言葉を刻した「久保山愛吉碑」が、展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(協会初代会長)の筆になるもの。
こうして、原爆だけでなく、水爆の犠牲者としても日本人の名が歴史にきざまれた。広島・長崎だけでなく、第五福竜丸も核による悲惨な歴史の告発者であり証人なのだ。
昨日のレセプションでは「都立第五福竜丸展示館 40年のあゆみ」と表題した64頁のパンフレットが配布された。同パンフレットには付録「世界の核爆発実験年表」がついている。これによると、これまでの「爆発をともなう」核実験数は2061回。それ以外に「爆発をともなわな」核実験として、「アメリカ39回、ロシア10数回」があるという。
そして、まだ世界には、アメリカ(7200個)」、ロシア(7500個)をはじめとして、イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮が、核弾頭をもっている。核拡散の危険も払拭できない。
現実に被爆した、歴史の証人としての第五福竜丸は、多くのことを語っている。また、多くの人が、この船体を囲んで、多くのことを語りあい、語り継いでいる。まさしく、核なき世界を目指して「第五福竜丸は航海中」(被爆60年記念記録集の表題)なのである。
ところで、この「都立展示館」の開設は、廃船とされ捨てられていた第五福竜丸保存を求める市民運動を当時の都政が受け止めた結果である。当時の美濃部革新都政の姿勢を表明する「歴史的な」一文をご紹介しておきたい。展示館開館の2年前、第五福竜丸保存を目指して第五福竜丸保存協会が発足したときの「平和協会ニュース・第1号」への寄稿である。
憲法や平和運動に敵意を剥き出しにした石原都政や、みっともなさをさらけ出した舛添都政との恐るべき絶対格差に慨嘆せざるを得ない。われわれは再び、美濃部時代の真っ当な都政を手にすることがあるだろうか。
「平和協会に期待する」 東京都知事 美濃部亮吉
第五福竜丸の保存を通して、平和と人道のためのたたかいを根気よく進めてこられたみなさんが、さらにその活動を拡大発展させるため、去年の暮、新たに財団法人第五福竜丸保存平和協会を設立されました。
当然のこととはいえ、この運動は何一つ権力や財力に依存しない純粋な市民の善意と勇気だけでおし進められてきたものです。また、居丈高な絶叫や人目を驚かす街頭デモなどでなく、静かな情熱と知的な訴えによってささえられてきたものです。そういうみなさんの活動が、とかく先細りしがちなこの種の運動の中で、多くの困難をのり越えて着実に歩み続けてきたばかりか、今回の設立によっていっそう豊かな展望を持つ新たな段階に進まれたことに心から敬服し、その未来に熱い祝福をお送りいたします。
いま、狂ったようなインフレの昂進によって、市民の生活は日々深い危機にさらされています。この混乱と不安をもたらしたものが、市民の立場をかえりみず、もっぱら資本の論理と利益に奉仕してきた高度経済成長政策であることは言うまでもありません。かつて私たちをあの悲惨な戦争にまきこんだものも、当時の日本の特殊な条件の下で進められた資本の論理と利益ではなかったでしょうか。私たちは、そのような根が生き続けていることに警戒を怠ってはなりません。
それにしても、今日、内外の条件はそのころと一変し、戦争を喰いとめ平和を進めようとする各国市民の力は前例のない規模に達しています。みなさんの活動は、その責重な一環をなすものです。この力をますます強めなくてはなりません。第五福竜丸の小さな船体は、人々の心を戦争への怒りと平和への決意に駆りたてる大きなシンボルです。それは、平和をそこない、人間をしいたげるすべてのものに対し、私たちが何をしなければならないかを生々しく語りかけています。私は、みなさんの運動に心からの拍手と連帯をお送りし、協会のご発展に期待いたします。」
なお、都立第五福竜丸展示館の開館時間は、9:30?16:00。入場無料である。
協会支援の下記賛助会員の制度がある。会員としてご支援いただけたら幸甚です。
1.賛助会員
第五福竜丸だよりはじめイベントのご案内などを差し上げます。(年会費:個人5千円・団体1万円)
2.ニュース(福竜丸だより)会員
会員様のご自宅へ「福竜丸だより」をお送りいたしております。(年会費:個人2千円 )
協会への連絡方法は下記のとおり。
東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内
TEL:03-3521-8494 FAX:03-3521-2900
アクセスは、http://d5f.org/access.html
(2016年5月30日)
昨日(5月28日)の朝日川柳欄。入選7句のうち、3句が同じテーマ。さすがに達者な出来映え。
リーマンもショックで逃げる景気観(東京都 秋山信孝)
消費税延期のためのG7(大阪府 片柳雅博)
珍説を咎めず客がおもてなし(埼玉県 小島福節)
アベの思惑の透け方。アベの姑息。アベの狡さと間抜けさ。そのすべてが、川柳子の好餌となっているのだ。
川柳だけでない。社説も辛辣だ。
「首脳宣言で「財政出動」と「経済危機」への言及にこだわり続けた日本のリーダーの姿勢は世界にどう映ったか。議長として指導力はある程度重要だとしても、我田引水では信頼を失いかねない。」
「首相の会見はいかにも我田引水が過ぎる印象だが、それが許されてしまうのも議長国だからだ。各国が持ち回りで議長を務めるため「お互い大目に見よう」との配慮が働くといわれる。議長国の恣意が強くなりすぎると、サミットの意義を低下させかねないことを肝に銘ずべきだ。」(東京新聞)
本日(5月29日)の毎日朝刊も、アベには無遠慮に「伊勢志摩サミット 『リーマン級』に批判相次ぐ」との記事を掲載している。
「27日閉幕した主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)で、安倍晋三首相が『世界経済はリーマン・ショック前に似ている』との景気認識をもとに財政政策などの強化を呼びかけたことに対し、批判的な論調で報じる海外メディアが相次いだ。景気認識の判断材料となった統計の扱いに疑問を投げかけ、首相の悲観論を『消費増税延期の口実』と見透かす識者の見方を交えて伝えている。」
毎日が紹介する海外メディアの批判記事は、英紙フィナンシャル・タイムズ、英BBC、仏ルモンド紙、米経済メディアCNBC、中国国営新華社通信などである。
たとえば、「BBCは27日付のコラムで『G7での安倍氏の使命は、一段の財政出動に賛成するよう各国首脳を説得することだったが、失敗した』と断じた。そのうえで『安倍氏はG7首脳を納得させられなかった。今度は(日本の)有権者が安倍氏に賛同するか見守ろう』と結んだ。」「ルモンドは、「安倍氏は『深刻なリスク』の存在を訴え、悲観主義で驚かせた」と報じた。首相が、リーマン・ショックのような事態が起こらない限り消費税増税に踏み切ると繰り返し述べてきたことを説明し、『自国経済への不安を国民に訴える手段にG7を利用した』との専門家の分析を紹介した。」「CNBCは『増税延期計画の一環』『あまりに芝居がかっている』などとする市場関係者らのコメントを伝えた」という具合。
BBCがいう「安倍氏はG7首脳を納得させられなかった。今度は(日本の)有権者が安倍氏に賛同するか見守ろう」は重い。こんな、政権を許すのか、実は世界から日本の有権者が見つめられているのだ。
解説記事も辛口。
「サミットを締めくくる議長会見。安倍首相は「リーマン・ショック」という言葉を7回も使って「世界経済のリスク」を強調したうえで、「アベノミクスのエンジンをもう一度、最大限ふかしていく決意だ。消費税率の引き上げの是非を含めて検討する」と踏み込んだ。
首相が「リーマン級のリスク」を主張するのは、これまで、消費増税を延期する例として、2008年に起きたリーマン・ショックや大震災を挙げてきたからだ。しかも、G7で合意した「世界経済のリスク」に対応するため、という理由であれば、自らの看板政策であるアベノミクスが失敗したという批判も避けられるというわけだ。」(朝日)
「安倍首相がこじつけとも言えるデータを示して『危機に陥るリスクに立ち向かう』と強調した背景について、ある金融市場関係者は『日本経済は不調が続いているが、アベノミクスが失敗しているとは口が裂けても言えない。景気対策の財政出動をするためには、リーマン・ショック級のデータを示すしかなかったのだろう』と指摘している。」(共同)
この各紙の厳しさは、アベノミクス失敗についてのものではない。これを糊塗し、誤魔化し、責任転嫁しようという安倍政権の姿勢への批判の厳しさである。
当然のことながら、「野党は首相への批判を強めている。」と報じられている。
「民進党の岡田克也代表は記者会見で『アベノミクスの失敗を糊塗するため、サミットの場が使われたとすれば罪は重い。ここまでやるか』と厳しく批判した。」
「共産党の志位和夫委員長も記者団に『日本の経済情勢こそリーマン・ショック前の状況だ。自らの失政の責任を世界経済に転嫁するというのは成り立つ話ではない』と述べた。」という。
「信なくば立たず」というではないか。愚直でも、その言動に嘘やごまかしのない限りは政治家の政治生命が断たれることはない。言っていることが姑息で、狡くて、信頼できないとなれば、もはや政治家として立つことはできない。
昨日から今日の紙面を埋めた、安倍の言動への評価の言葉を拾えば、我田引水・恣意・こじつけ、G7の利用、責任転嫁…。首都の知事は、都民の信を失って、水に落ちた。およそ知事としての勤めが果たせる状況にない。アベも同じではないか。彼の言動に信の根拠となるべきものはない。都合のよいデータをつなぎ合わせて、自己弁護の材料としているだけだ。
それにしても、冒頭に引用した3句。この3句が、すべてを語り尽くしている。川柳の説得力恐るべし、である。なお、タイトルの1句は、恥ずかしながら拙句である。残念ながら入選句ではない。
(2016年5月29日)
オバマ広島訪問における、原爆資料館10分間見学と17分間演説。その評価は大きく割れている。各紙の紙面にも、極端な持ち上げ記事と辛口の批判の両方が並んでいる。統一性はなく、アンビバレントとは、まさしくこういうときに用意された言葉だろう。
評価の分裂には理由がある。何よりも、オバマは日米軍事同盟における、目上の同盟国の指導者である。日本全土を核の傘の下におき、沖縄の軍事占領を継続している軍事超大国の大統領だ。日本をその世界的な軍事戦略の目下のパートナーと心得て、日本の改憲や軍事大国化を側面援助する立場。そのオバマが主導する日米同盟の強化には到底賛意を表しえない。今回の広島訪問と演説とは、基本的にそのような日米軍事同盟の強化・深化をもたらすものと考えざるをえない。
ではあるが、オバマが青年時代から反核の志をもって育ち、就任直後のプラハでの演説に見られるように、主観的には真摯に核廃絶を希求する姿勢を持っていることも事実である。現職の米大統領として初めて広島を訪問したオバマに、すくなからぬ人びとが核なき世界を求めての願いを託する気持になった。広島で被爆の実相に触れれば、大統領職を離れたあとのオバマに期待もできようとも考えた。
表と裏、A面とB面。同じものを、どちらの面で見るかで評価は異なるのだ。あの演説を歴史に残る名演説というB面的見解もあれば、まったく無内容な駄文に過ぎないとのA面からの意見もある。もっとも、オバマの役者としての力量には意見が一致するようだ。傍らに立った、我がアベシンゾーの大根役者ぶりが際立ったということも。
それだけに、各紙の1面を飾っている被爆者の背を抱くオバマの写真のインパクトを警戒しなければならない。彼は、軍事同盟の盟主なのだ。けっして平和の天使ではない。この基本視点を忘れてはならない。
オバマ訪問前の記事では、東京新聞5月25日夕刊の堀川恵子「オバマ大統領の広島訪問―溜息が混じる感動―」が、心に響いた。「溜息」は、「今頃になって」「遅かりし」という慨嘆である。堀川は、自身が「広島に生まれ育った」ことを書き添えている。
文中、被爆者である高野鼎さん(故人)が遺したという短歌が紹介されている。
「たひらぎを祈り給へるすめらぎの みことおそかりき吾におそかりき」
もう少し早くの詔勅を下してもらえていたらと慟哭する高野さん。原爆で最愛の妻と四人の子を失い、天涯孤独となった。」
このことに続けて、堀川はこう言っている。
「広島は、確かに筆舌に尽くしがたい犠牲を払った。同時に、満州事変から始まる十五年戦争という歴史の文脈に広島を置いてみる。戦争を始めた責任、戦争を煽った責任、戦争を早期に終わらせなかった責任、あらゆる責めはそのまま、日本の戦争指導者そして私たち自身へと戻ってくることも忘れてはならないだろう。」
ここには、広島の悲劇を嘆きながらも、加害の責任をも見据え、天皇を筆頭とするそれぞれの「私たち自身」の責任への問いかけがある。
「戦後の広島は、折にふれ政治的パフォーマンスの場として使われてきた。毎年八月六日には政治家らが壇上に立ち、その日限りの平和と反核を訴える。今回の大統領の広島訪問は、日本の選挙を前にしたタイミングとも重なった。日米同盟の強化を訴えるには絶好の機会だ。『未来志向』を掲げオバマ大統領を歓迎する政治家たちの姿に、平和や反核とは異なる理屈が透けて見えるのは私だけか。」
オバマとアベの広島訪問に対する違和感の原因についての正鵠を射た解説というべきだろう。
オバマ訪問後の記事では、本日(5月28日)毎日朝刊の広岡敬(元広島市長)「謝罪なく なぜ来た」。そして、ジャックユンカーマン(映画監督)「米は教訓得ていない」。また、「『具体的発言ない』長崎関係者、不満残す」の報道記事。ともに、謝罪のないこと、核兵器廃絶への道筋に言及のないこと、そしてオバマ政権が核廃絶の演説とは真逆に、核兵器とその運搬手段開発予算として「今後30年で1兆ドルの予算を承認している」ことなどを批判している。
とりわけ、広岡の舌鋒が鋭い。次の点には、深くうなずかざるを得ない。
「日米両政府が言う「未来志向」は、過去に目をつぶるという意味に感じる。これを認めてしまうと、広島が米国を許したことになってしまう。広島は日本政府の方針とは違い、「原爆投下の責任を問う」という立場を堅持してきた。今、世界の潮流は「核兵器は非人道的で残虐な大量破壊兵器」という認識だ。それはヒロシマ・ナガサキの経験から来ている。覆すようなことはしてはいけない。」
「オバマ大統領は2009年にプラハで演説した後、核関連予算を増額した。核兵器の近代化、つまり新しい兵器の開発に予算をつぎ込んでいる。CTBT(核実験全面禁止条約)の批准もせず、言葉だけに終わった印象がある。だからこそ、今回の発言の後、どのような行動をするか見極めないといけない。」
その最後はこう結ばれている。
「広島は大統領の花道を飾る「貸座敷」ではない。核兵器廃絶を誓う場所だ。大統領のレガシー(遺産)作りや中国を意識した日米同盟強化を誇示するパフォーマンスの場に利用されたらかなわない。」
まことに同感である。
(2016年5月28日)
関心の焦点は、サミットの伊勢からオバマの広島へ。そして、本日告示の沖縄県議選へと目まぐるしく移る。参院選直前の前哨戦としてというだけでなく、アベ壊憲政権との対峙の最前線の政治戦として注目せざるを得ない。
沖縄県議会は、昨日(5月26日)臨時会を開いて、「米軍属女性死体遺棄事件に対し抗議するとともに、在沖米海兵隊の撤退や日米地位協定の改定などを求める決議と意見書」を全会一致で可決した。
可決された抗議決議と意見書は、与党が提案した「被害者への謝罪と完全な補償」「日米首脳で沖縄の基地問題と事件・事故対策を話し合うこと」「米軍普天間飛行場の県内移設断念」「在沖米海兵隊の撤退と米軍基地の大幅な整理縮小」「日米地位協定の抜本改定」「米軍人・軍属などの凶悪事件発生時に、訓練と民間地域への立ち入りと米軍車両の進入の禁止措置」などを求めている。
この内容の決議に自民まで賛成したのかと一瞬驚いたが、実は「全会一致」は必ずしも正確ではない。「自民会派は、普天間飛行場の辺野古移設断念を「閉鎖・返還」とし、在沖海兵隊の撤退を「大幅な削減および米軍基地の速やかな整理・縮小」を図ることをそれぞれ求めた上で、事件の根絶や謝罪、補償などを日米両政府に求める修正案を提出したが、賛成少数で否決された」(琉球新報)という。で、自民は与党案裁決時に退席して、与党と中立系による「全会一致」の形作りに協力したということだ。選挙直前に、与党案に反対という露骨な姿勢を見せたくはなかったのだろう。
なお、「公明は与党、自民の両案に賛成した」と報じられている。沖縄の公明党は、かつては仲井眞県政の与党だったが、今は普天間の県内移設反対の立場で、県政野党ではなく、中立系とされている。
それにしても、県議会が「普天間飛行場の県内移設断念」「在沖米海兵隊の撤退」「日米地位協定の抜本改定」を求めて決議を上げている姿は、県民の怒りのほとばしりであり、不退転の決意の表れというほかはない。このたびの事件の被害女性が住んでいたうるま市議会や那覇市議会などでも同様の決議が採択されており、県内のほとんどの自治体で抗議決議の準備が進んでいるという。
そして本日、日本中が注視する第12回沖縄県議会議員選挙の告示。翁長雄志知事が就任してから1年半。その信任をめぐる投票の色が濃い。現在の与野党分布は、47議席(欠員1)のうち、翁長知事を支える与党は24である。かろうじての過半数。これに対する野党が自民を中心に14、公明を含む中立系が8人だという。この24の与党(社民・共産・沖縄社会大衆・県民ネット)議席の増減に関心が集まる。最大の対決点は、当然ながら辺野古新基地建設の可否をめぐってのこと。元海兵隊員の女性殺害容疑の事件もあって反基地の空気は熱い。
県議選は13選挙区に定数48(各選挙区の定数は2?11)。本日の立候補者は71名であった。政党別の候補者は、自民19、民進1、公明4、共産7、おおさか維新3、社民6、地域政党の沖縄社会大衆3、諸派5、無所属23。
朝日も毎日も立候補者について、「与野党別では、与党36人、野党22人、中立13人。辺野古への移設計画には、反対44、容認13、推進2(その他・無回答が12)」と報じている。
朝日に、「軍属が働いていたとされる米軍嘉手納基地を抱える嘉手納町では県政野党の自民現職が第一声。『自民党は政府に対して堂々と抗議した。日米地位協定も改定させないといけない。県民の命を守るために地域の声を伝える』と訴えた。」という記事。
オーイ、アベ君。キミが総裁だという自民党、統制がとれていないようだぞ。
「自民党が政府に対して堂々と抗議」などしていいんだろうか。「日米地位協定も改定させないといけない」なんて、党紀違反じゃないのか。何よりも、「県民の命を守るために地域の声を伝える」って、「日本国民のために沖縄県民には我慢をしてもらおうというアベ政権の方針」への当てつけだろう。処分しないの? あっ、そう。票が取れれば、何を言ってもよいのか。
沖縄県政の与党は国政では野党。国政では「野党は共闘」のスローガンだが、沖縄県政では、民進党の力量が弱い。それでも関心は、「自民」対「国政野党連合」の対立構図で世論の動向を見ざるをえない。
その結果が出る投開票は6月5日(日)である。昨日の臨時議会での決議実現を可能とする結果を期待したい。
(2016年5月27日)
本日(5月26日)から伊勢志摩サミット。最初の公式日程が参加首脳らの伊勢神宮「訪問」で始まった。これは官邸の強い意向で実現されたものと報道されている。
ダメだよ、アベ君。またまた、キミの憲法違反だ。キミの思惑は、アベ流改憲運動への神社界や右翼連中へのサービスなのだろうが、勇み足として済ますには、ことが重大に過ぎる。キミは、憲法の何たるかをまったく分かっていない。キミが日本の首相であることを恥ずかしい限りだと思っていたが、この頃はこんなキミが政治を牛耳っているこの国の行く末が恐ろしい。
キミが憲法を分かっていないという大きな理由を二つあげておこう。
まず、憲法とは、権力を制約するものだ。「縛る」もの、と言ってもよい。キミは、憲法に縛られていることを自覚しなければならない。キミは憲法が許容することしかできない。その枠を越えて憲法が禁じていることは、してはならないのだ。キミは憲法の命じるところを謙虚に見定め、よく心得、憲法にしたがった行政を行わなくてはならない。これが、立憲主義というものだ。
ところが、キミは「自分のしたいことをして何が悪い」と開き直ってしまう。サミットの行事を神宮で始めたことについては、おそらくキミは単純にこう考えているのだろう。
「自分は間接的にではあるが、国民の信任を受けて権力の座にある。国民多数の意思が私を信任しているのだから、私が私のやりたいように政治を行うことが民意を反映することで、これこそが民主主義だ。」
キミは、自分の思いと憲法の定めとに齟齬が生じるとなると、憲法の方が間違っている。だから憲法の解釈を変えよう、となる。憲法に縛られるのはイヤだ。むしろ自分の方が憲法を縛り、憲法には遠慮させようという姿勢があまりに露骨なのだ。
神宮は宗教施設である。サミットは政府の公的行事である。ならば、サミットの行事に伊勢神宮「訪問」を組み込むことが、憲法の重要原則である政教分離に抵触することを恐れなければならない。憲法を尊重しようという姿勢が少しでもあれば、神宮でサミット・スタートは考えられるところではない。憲法を無視し、できれば変えたいと考えているキミだからこそ、敢えて政教分離に挑戦という姿勢なのだ。
次に、政教分離原則違反である。
アベ君、キミも法学部の出身だというではないか。伊勢志摩は、津にほど近い。伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、と謡われた津だ。その津で地鎮祭訴訟が争われたくらいのことはご存じだろう。津市の体育館起工に際しての地鎮祭で7000円ほどの神職への謝礼と供物料の支出が政教分離に反するとして争われた憲法訴訟。控訴審の名古屋高裁判決は、違憲の判断をして、市長に対して「市に謝礼相当分を賠償金として支払え」という歴史に残る名判決として知られる。この判決は、最高裁大法廷(1977年)で逆転するが、違憲派5人対合憲派10人の分布であった。
その後、愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年)は、愛媛県から靖国神社への玉串料奉納を違憲と断じることになる。そのときの意見分布は、違憲13対合憲2の大差となった。
津地鎮祭訴訟では、津市と地元の神社との地鎮祭における関わりが問題とされた。愛媛玉串料訴訟では、愛媛県と靖国神社との玉串料奉納という形での結びつきが問題となった。そして、今回の伊勢志摩サミットでは、国と伊勢神宮との有力各国首脳を招いての外交舞台としての利用における関わりが問題となっている。
伊勢神宮とは国家神道の本宗である。国家神道とは、天皇を神格化する教説である。神格化は、天皇を権威付ける手段であった。旧明治憲法体系は、社会を序列化してその頂点に天皇を置き、これを政治支配の道具とした。権威主義的な社会的秩序形成の要石ともしたと言ってよい。
洋の東西を問わず、武力で権力を築いた勢力は、安定した権力構造を維持するために、自らの権力を正当化する神話を拵え上げた。3000年前、4000年前に、エジプトやメソポタミア、あるいは黄河流域に勃興した権力が皆そうであった。この前例を真似て、明治政府は8世紀に作られた神話を素材に天皇を神の直系とした。
その神話上の天皇の祖先神を祀る施設が伊勢神宮である。地上の人間序列を合理化するために、神々の序列が作られた。八百万の神々の中に天つ神の一群があり、その天つ神の最高神がアマテラスである。伊勢神宮はこれを主祭神とする。
政教分離とは、形式上は国家(政)と宗教一般(教)の癒着を禁止する憲法原則である。しかし、日本国憲法は明らかに、国家神道の復活を封じることを主眼としている。かつて、神なる天皇の存在が、原理的に反民主々義であり、軍国日本の暴走の主因となったからである。
だから、アベ君。「首脳らは、内宮の御正殿で御垣内参拝をし、『二拝二拍手一拝』の宗教的作法は求めず、あくまで自由に拝礼してもらう形を採った。」から問題がない、などと言ってはいけない。参拝を訪問というのは、退却を転進というが如しだ。「自由な拝礼」も、そこが宗教施設であればこそ成立する。
キミは、天皇の祖先神を祀る、国家神道の本宗に世界の主要国首脳を集めて、特定の宗教と国家との特別な関わりを演出したのだ。これは、最高裁がいう目的効果基準からは、国家と特定の宗教団体(伊勢神宮)との関わりあいが、相当とされる限度を超えると判断されることになるだろう。
そのことは、戦後レジームからの脱却をスローガンとするキミの仲間や、神社界の人びとや、天皇大好きな右翼諸君には大歓迎なのだろうが、憲法はけっしてこれを許してはいないことを知るべきなのだ。
えっ? アベ君、なんと言った? 「細かいことを言いなさんな」と? そのキミの態度が憲法軽視なのだ。政教分離原則は、国民主権原理確立のために天皇の神格化を否定したものというべきで、日本国憲法の全体を貫く根本理念なのだ。これを細かいことというキミの姿勢こそが徹底して批判されなければならない。
えっ? 「多くのマスコミが問題にしてないじゃないか」「世論調査をすれば、神宮訪問支持派が多数となるだろう」だと?
だから、キミはダメなんだ。確立された憲法原則は、多数決原理によって歪曲されてはならない。メディアがどう言おうと、世論調査の結果がどうであろうと、憲法原則を曲げることはできない。むしろ、国民の圧倒的多数が支持しても権力は違憲な行為をしてはならないというところにこそ、憲法の真骨頂がある。
こんなことも分からないキミが日本の首相なのだから、やっぱり恥かしい。そして、やっぱり恐ろしいのだ。
(2016年5月26日)
明日(5月26日)から伊勢志摩サミット。地元だけでなく東京までがテロ対策の厳戒態勢。今そこにある不愉快な日常の展開である。
つくづく思う。常にテロに怯えなければならない社会は病んでいる。これに慣れてはいけない。勇ましく「テロと闘う」などという愚を犯すことなく、テロの背景と温床を剔抉して、暴力のない「積極的な平和」を作る努力を重ねなければならない。今、先進国が享受している不公正な豊かさを大きく犠牲にする覚悟で。
もっとも、このサミット警護を口実の厳戒はうさんくさい。「テロ対策」は、治安出動予行演習として格好の機会ということなのだろう。過剰警護についても目を光らせる必要があろう。
ところで、戦争の暴力はテロの比ではないけた外れの悪の極み。その戦争における、超絶した暴力手段が核兵器である。核こそは、人類と共存しえない絶対悪として廃絶しなければならない。人類史において、その核が絶対悪であることを、この上ない規模と質の悲惨さで証明したのが、1945年8月6日の広島であった。そして、同月9日長崎の悲劇が続いた。
今次のサミットを機に、原爆を投下した加害国の大統領が、公式に広島の爆心地を訪れることになった。が、事前に「謝罪抜き」を言明してのこと。その訪問の意味がさまざまに論じられている。
被爆者団体は概ね歓迎の意向である。無理に謝罪は求めないとも言っている。その上で、被爆者との面談を求めている。毎日新聞紙上で、長崎大元学長・土山秀夫さん(91)は、「米大統領の広島訪問 遅すぎた『慰霊の旅』」として、「私も原爆で家族を亡くしているので謝罪を求めたい気持ちは痛いほど分かる。しかし、オバマ大統領を窮地に追い込んでは、米国内の反オバマ勢力に力を貸すだけだ。大統領は『慰霊の旅』として訪問を実現させたと解釈し、受け入れたい」と述べている。
被爆者の言には、侵しがたい重みがある。内容も無理からぬことは思う。しかし、釈然としないままことは目前に迫った。
釈然としないのは、なによりもアベの先導による訪問だからである。戦争法成立を強行し、平和憲法に敵意を剥き出しの安倍晋三が、あたかも日本国民の平和と核廃絶の願いの先頭に立つがごときパフォーマンスに、大きな違和感を禁じ得ない。それでも、このオバマの広島訪問が核廃絶に繋がる第一歩となるならよい。しかし、そのことにモヤモヤ感が払拭できないのだ。「謝罪はしない」ことを予め言明して、オバマはいったい何のために広島を訪問しようというのだ。
昨日(5月24日)の東京新聞夕刊「紙つぶて」欄に、中野晃一が「広島で何を」という記事を寄稿している。
「初めて米国の現職大統領が広島を訪問するというので、メディア論調は歓迎ムード一色です。しかし憲法は核兵器の保有・使用を禁じていないと繰り返す安倍晋三首相に案内されて広島に何をしにいくのでしょう。被爆者への謝罪どころか米国はいまだに核兵器の非人道性を認めていないのですから、社会科見学みたいな話です。中高生なら自分の目で見て感じることから始めればいいでしょう。しかし無知と無関心にあぐらをかいた米国世論の許す範囲で、オバマ氏と安倍氏が日米軍事・原子力同盟の強化目的で広島を訪問するというなら、それは被爆地の政治利用にすぎず、核廃絶には繋がりません。」
問題は、「オバマと安倍が日米軍事・原子力同盟の強化目的で広島を訪問する」と見る確かな視点を持てるか否か。
この点について、本日(5月25日)の毎日朝刊が、「米大統領の広島訪問 私の見方」の連載に浅井基文からの聞き書きを掲載している。タイトルは、「米の責任問い続けよ」というもの。傾聴に値すると思う。全文を引用する。
日米開戦時の日本軍による真珠湾奇襲攻撃と、日本敗戦直前の米国による広島、長崎への原爆投下は、戦後の日米関係において、のどに刺さったトゲとも言うべき要素だ。日米同盟関係は米国が日本を一方的に取り仕切る「おんぶにだっこ」から、いまや日本が積極的に米国の世界戦略に協力する「持ちつ持たれつ」へと様変わりしている。オバマ氏の広島訪問は、変質強化された同盟関係を盤石なものに仕上げる最後のステップと位置づけられているとみる。
米政権にとって「核のない世界」はあくまでビジョンに過ぎない。日本の政権にとっても「核の傘」は同盟関係の基軸だ。オバマ氏の広島訪問が核兵器廃絶の第一歩になるとの期待は幻想で、核兵器の堅持を前提としたセレモニーに過ぎない。
広島と長崎は戦後長年、日本の核廃絶運動の中心的存在として、日米安保体制を最も中心に置く日本政府への対抗軸としての役割を担ってきた。オバマ氏の来訪を無条件に歓迎することは、日米両政府の核政策を全面的に受け入れるという意味に他ならず、日本外交における「お飾り」の役割に徹するということだ。
広島は、戦争加害国としての日本の責任を正面から受け止めると同時に、無差別大量殺害兵器である原爆を投下した米国の責任を問いただす立場を放棄してはならない。そうすることによってのみ、核兵器廃絶に向けた人類の歩みの先頭に立ち続けることができるだろう。
指摘のとおり、日本国憲法の体制に対抗して日米安保体制がある。現実には、日米安保体制という強固な現実に、日本国憲法を携えた一群の民衆が抵抗を続けていると言うべきなのかも知れない。このせめぎあいにおいて、核廃絶の運動は紛れもなく日本国憲法の側の大きな砦である。それ故に、広島・長崎の核は、「戦後の日米関係において、のどに刺さったトゲ」となっているというのだ。
日米の支配層は、このトゲを取り去るか無害化することによって、日米両政府の核政策を完成させたいところ。日本国憲法の理念を擁護する立場からは、このトゲをトゲのままに終わらせず、核廃絶の大きな運動の拠り所としなければならない。
注文を付けないオバマ広島訪問は、核兵器の堅持という現状を前提とした、「核アレルギー対症療法のセレモニー」に過ぎない、というのが浅井説である。私も、これに賛意を表したい。そして、あらためて戦争と核の悪を追求し続ける覚悟を固めたい。
(2016年5月25日)
本日は、緊急シンポジウム「辺野古新基地建設と沖縄の自治?辺野古が問う日本の地方自治のあり方」に参加した。
行政法学者を中心とした「辺野古訴訟支援研究会」が主催し、「沖縄等米軍基地問題議員懇談会」が共催。衆院第1議員会館地下の会議室で、参加者は210名と盛況だった。
集会の性格は政治集会ではない。法的な研究成果の報告という地味なものなのだが、元米軍海兵隊員の女性殺害容疑事件勃発と時期が重なった。準備された集会の内容は事件とは直接の関わりはない。「緊急シンポジウム」ということで参加した聴衆の一部には場違いな感じだったかも知れない。それでも、多くのスピーカーが、この傷ましい事件に触れて、基地撤去に向けた怒りの集会ともなった。
主なプログラムは、
「辺野古裁判の経過・意義と国地方係争処理委員会の争点」
沖縄県辺野古裁判等弁護団代表竹下勇夫氏
「沖縄から国地方係争処理委員会の役割を考える一和解を受けて」
成蹊大学教授武田真一郎氏
「辺野古新基地阻止への思いと地方自治」
沖縄県知事翁長雄志氏(知事公館室長代読)
「辺野古埋立問題と日本の地方自治一今後の展望」
早稲田大学教授岡田正則氏
パネルディスカッション
辺野古新基地建設をめぐっては、国と沖縄県との間に3件の訴訟が係属していたが、本年3月4日福岡高裁那覇支部で暫定的な和解が成立。3件とも訴訟は取り下げられ、和解にもとづいて国は湾の埋立作業を停止して今日に至っている。しかし、この和解は飽くまで仕切り直しのしばしの休戦に過ぎない。見方によっては、大坂冬の陣の休戦となりかねない。
和解3日後の3月7日、はやくも国土交通大臣は沖縄県知事に対して、地方自治法に基づく是正を指示(知事がした「埋立承認取消処分」を取消すよう指示)した。この指示は手続的に不備があって撤回され、3月16日にあらためての指示があり、これを不服とする知事は、和解が定めたとおり、同月23日に国地方係争処理委員会審査申し出をして、現在その審査が進行中である。
審査期間は90日以内と定められている。すると審査の日程のリミットは6月21日(火)ということ。果たして、どのような判断になるだろうか。大いに注目されるところ。
配布されたレジメに、「国地方係争処理委員会及び訴訟における法的争点」表が掲載されていた。これを転載しておきたい。
争点1 審査の対象
国の主張 仲井眞前知事の埋立承認の適法性
県の主張 現知事(翁長)の埋立承認取消の適法性
是正の指示、そのものが違法
争点2 どこに基地を設置するか知事に審査権限はあるか
国の主張 国の政策的・技術的な裁量に委ねられている。
県の主張 基地を作ることを目的とした公有水面の埋立ての必要性の認定が問題となっていて、それは知事にある。
争点3 普天間の危険除去を理由に、埋立の必要性あり、といえるか
国の主張 いえる。
県の主張 普天間の危険除去の必要性が埋立の必要性と論理的に結びつくわけではない。
争点4 埋立により辺野古の海が有する優れた自然価値を損なわれないか
国の主張 環境評価、代替案等で、可能な限り、損なわれないようにしている。
県の主張 環境アセスが不十分であるし、専門家等の疑問に適切に答えていない。
争点5 職権取消しの法理の適用
国の主張 適用有り
県の主張 適用なし
争点6 辺野古新基地建設は、沖縄の自治権侵害に当たるか
国の主張 (?)
県の主張 米軍基地に対して、国の規制や自治体の規制が及ばないし、自治体の街づくりにも支障があり、これは自治権侵害にあたる。
以上の争点の判断において、本日強調されたのは、国地方係争処理委員会の存在理由や使命についてである。また、憲法が想定する地方自治のあり方である。
憲法の保障する地方自治を実現するためには、国と地方自治体の関係は「対等・平等・協力」の関係でなければならない。このような認識にたって地方分権改革(1999年)が進められ、国に対する地方の「対等・平等・協力」関係を確保するために、地方自治体が国等の関与を争う制度として国地方係争処理委員会が設けられた。裁判所の審理の対象が違法性に限られるのに対して、国地方係争処理委員会は、国と地方の各行政方針などにも踏み込み柔軟な判断をなし得る。
係争委は、自治体に対する国の関与の適法性や公益適合性を審査する機関だが、飽くまで憲法の保障する地方自治の本旨の実現を図るためのもの。「政治権力の圧力に屈することなく、その使命を貫け」「地方自治に関する憲法の原則を貫け」という熱いメッセージの集会となった。
(2016年5月24日)
本日の毎日新聞夕刊第2面・特集ワイド欄に、「自民党『憲法改正草案Q&A』への疑問」「緊急時なら制限されてもいい…?『小さな人権』とは」という記事。
http://mainichi.jp/articles/20160523/dde/012/010/006000c
冒頭の一文が、「思わず首をかしげてしまった。『大きな人権』と『小さな人権』が存在するというのである」。この一文を読んで、思わず膝を打ってしまった。そうだ、「大きな人権」も「小さな人権」もあるものか。
この記事は、記者の次の問題意識から、展開されている。
「この表現(『大きな人権』と『小さな人権』)は、自民党が憲法改正草案を解説するために作成した冊子『改正草案Q&A』の中で見つけた。大災害などの緊急時には『生命、身体、財産という大きな人権を守るため、小さな人権がやむなく制限されることもあり得る』というのだ。そもそも人権は大小に分けることができるのだろうか。」
大きな人権を守るために犠牲にされる「小さな人権」の内実はいったい何だ。という記者の問いかけが新鮮である。この疑問を掘り下げることで、自民党改憲草案の本質をえぐり出している。アベ改憲許すまじの結論なのだ。
「Q&A」では、緊急事態条項解説の個所にだけ出て来る「大きな人権と小さな人権」の対比。もちろん、「大きな人権を守るために、小さな人権の制約はやむを得ない」という文脈で語られる。
「Q&A」の表現は、「『緊急事態であっても、基本的人権は制限すべきではない』との意見もありますが、国民の生命、身体及び財産という大きな人権を守るために、そのため必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得るものと考えます」というもの。底意が見えている。
改憲草案の作成に深く関わったという礒崎陽輔・党憲法改正推進本部副本部長の言も紹介されている。
「国家の崇高で重い役割の一つは、国民の生命、身体、財産を守ることにある。小さな人権が侵害されることはあるかもしれないが、国民を守れなければ、立憲主義も何もない」というのだ。こちらが、より本音があらわれている。
自民党が「小さな人権」として語っているものは、実は個人を主体とする基本的人権である。普通に語られている「人権」そのものなのだ。これは、「侵害されることはあるかもしれない」と位置づけられている。要するに、大切にはされていない。
これに対置される「大きな人権」とは、「国家の崇高で重い役割」によって保障される「国民の生命、身体、財産」という価値である。実は、この「大きな人権」の主体は個人ではない。ここでいう「国民」とは、個人としての国民ではなく、集合名詞としての国民全体にほかならない。
自民党は、「個人」が大嫌いで、「国家・国民」が大好きなのだ。だから、現行日本国憲法のヘソというべき第13条「すべて国民は、個人として尊重される」を、わざわざ「全て国民は、人として尊重される」と、「個」を抜いて書き直そうというのだ。憲法からの「個人」の排除である。個人よりは国家社会優先という姿勢を隠そうともしない。
大きな人権とは、国家や国民全体の利益をいうのだ。「全体は個に優越する」。「全体のために、個人の利益が制約されることはやむを得ない」。「大所高所に立てば、個人的利益の擁護に拘泥してはおられない」。これが自民党改憲案のホンネ。
戦前は、もっと露骨だった。「忠良なる汝臣民」は、天皇のために死ぬことが誉れとされた。個人ためではなく、君のため・国のために生きることが道徳とされ、天皇の軍隊の兵士として死ねとまで教え込まれた。これが、富国強兵時代の国家主義思想である。
この「君」「国」が、今自民党改憲草案では「(集合名詞としての)国民」の「大きな人権」に置き換えられている。
「緊急事態には、『国民の生命、身体及び財産という大きな人権』を守るために、必要な範囲でより小さな人権がやむなく制限されることもあり得る」は、俗耳に入り易いようにと言いつくろったレトリック。本音は、「国家社会が全体として危機にあるとき、個人の人権擁護などと悠長なことを言ってはおられるか」ということだ。
阪口正二郎一橋大教授(憲法学)が、紙上でこう解説している。
「人権に大小の区別はありません」。「緊急時に表現の自由が『小さな人権だ』として制限される可能性がある」「緊急事態条項の目的は国家を守ること。『危機にある国家を守らねばならないから、国家を批判する言動は控えろ』と、表現の自由などの人権を制限しかねない。個人の人権よりも国家の意思を優先させ、物事を進めたいのが本音ではないでしょうか」
自民党の改憲草案は、緊急事態に限らず、「国家社会を優先」「そのための安易な人権制約」の思想に貫かれている。「国家あっての人権」「安全保障が確保されてこその人権」「国家の秩序、社会の安寧が保たれてこその、その枠内の自由であり人権」という戦前回帰型思想である。これが、戦後レジームからの脱却の中身。
個人の人権を、ことさらに「小さい」と形容する自民党・アベ政権は、国家主義・全体主義の見地から、人権軽視の改憲を目論んでいると指弾せざるをえない。この姿勢は、国のために死ぬ兵士を想定した、戦争のできる国作りにも通じる。
「大きな時計と小さな時計、どちらも時間はおんなじだ。」にならって、「大きな人権小さな人権、どっちも値打ちはおんなじだ。」というべきであろうか。いや、「大も小も区別ない、みんな同じ価値の人権だ」というべきであろう。
(2016年5月23日)
各紙の「野党 参院選全1人区で候補一本化」との見出しが目にまぶしい。
香川選挙区で民進党が擁立を断念し、共産党の候補予定者への一本化が決定。これを受けて共産党は近く、民進党と調整中の三重、佐賀で公認候補を取り下げる方向だという。これで事実上、今夏の参院選「1人区」(32選挙区)すべてで、民進・共産・社民・生活4党による候補者一本化実現となった。
各選挙区の候補者と所属は以下のとおりである。
青森 田名部匡代 民・新
岩手 木戸口英司 無・新
宮城 桜井 充 民・現
秋田 松浦大悟 民・前
山形 舟山康江 無・前
福島 増子輝彦 民・現
新潟 森ゆう子 無・前
富山 道用悦子 無・新
石川 柴田未来 無・新
福井 横山龍寛 無・新
山梨 宮沢由佳 民・新
長野 杉尾秀哉 民・新
栃木 田野辺隆男 無・新
群馬 堀越啓仁 民・新
岐阜 小見山幸治 民・現
三重 芝博一 民・現
滋賀 林久美子 民・現
奈良 前川清成 民・現
和歌山 由良登信 無・新
鳥取島根 福島浩彦 無・新
岡山 黒石健太郎 民・新
山口 纐纈 厚 無・新
徳島高知 大西聡 無・新
香川 田辺健一 共・新
愛媛 永江孝子 無・新
長崎 西岡秀子 民・新
佐賀 中村哲治 民・元
熊本 阿部広美 無・新
大分 足立信也 民・現
宮崎 読谷山洋司 無・新
鹿児島 下町和三 無・新
沖縄 伊波洋一 無・新
これまで相争う関係にあった各党の候補者調整である。困難が大きいのは当然のこと。「岡田克也(民進党)代表は20日の会見で、香川について『共産党との関係は現時点で白紙だ』と述べた。共産党の候補予定者を民進党が推薦する可能性は低く、正式な協力態勢が整った石川や熊本などとは温度差がある」(毎日)と報じられている。各党がこぞって、統一候補を推薦というきれいな図を描くには至っていない。
それでも、全一人区で与野党一騎打ちの構図になる。この意義は大きい。「改憲か、その阻止か」という対抗軸が明瞭になるからだ。いくつかの選挙区では、野党共闘の成果としての議席の獲得が現実化するだろう。その新たな獲得議席が、明文改憲を阻止し、解釈改憲も是正する貴重な存在となるだろう。
明文改憲の阻止と戦争法廃止の両者を統一するスローガンが、「日本の政治に立憲主義を取り戻そう」である。日本国憲法の存在を前提として、いま、安倍政権の、反憲法的政治姿勢は目に余る。憲法が政権を縛り政権の方向を定めているのに、政権はこれを嫌って、憲法をねじ曲げようとしている。あまつさえ、憲法そのものを書き換えようとしている。このアベ政権の姿勢を「立憲主義に反する」と批判し、「立憲主義を取り戻せ」とスローガンを掲げているのだ。
憲法擁護義務を無視した安倍政権は、強引に憲法9条の解釈を変えて戦争法の成立を強行し、それでも足りずに、明文改憲を狙っている。政権の目指す憲法が、「自民党改憲草案にあることは自民党の広言するところ。これまで国民が共通の認識としてきた憲法価値である、平和・人権・民主主義の擁護が「立憲主義を取り戻せ」のスローガンに包含されている。表現の自由も、福祉も、労働も、歴史認識も、その具体的課題となる。
参院選での野党共闘態勢の構築は、正式な共闘成立公表とともに、メディアの大きな話題となるだろう。また、今後に大きな影響を与えることにもなるだろう。まずは、5月27日告示6月5日投開票の沖縄県議選を励ますことになり、衆院選の小選挙区共闘を促すことになるだろう。
今回参院選の統一候補の内訳が、「政党公認16、無所属16」である。政党公認16のうち、「民進15、共産1」というのが、現実的な落としどころなのだろう。このように現実化した参院1人区共闘が、総選挙でできないはずはない。世論が求め、そうしなければ勝てないという現実があるからだ。しかも、ここで「各院の3分の1」という「絶対防衛圏」を破られては、後戻りできない禍根を残すことになるではないか。
参院とは対照的に、衆院の野党共闘協議は進んでいないのが実態。民進党の態度が消極的だといわれてきた。しかし、「国会会期末が迫るなか、野党内には首相が参院選に合わせて衆院解散に打って出るとの警戒感が高まり、民進も態度を変えた。」「民進の岡田代表は、『衆参ダブル選挙の可能性もかなり高い。幹事長レベルでよく話し合っていく』と述べ、衆院小選挙区での候補者調整を急ぐ考えを示した。21日には愛媛県新居浜市で記者団に『特に一本化すれば勝てる可能性があるところは、一本化の努力はすべきだ』と述べた」「仮に衆参同日選となれば調整に残された時間は少なく、選挙協力がどこまで進むかは不透明だ。民進幹部は『いざとなったら「えいや」でやるしかない』と語る」(朝日)と報じられている。
ことは、憲法の命運に関わる。憲法の命運とは、国民の権利と自由と平和の命運にほかならない。「野党は共闘」「野党は真剣に共闘に取り組め」と声を上げ続けねばならないと思う。
(2016年5月22日)