憲法記念日に思う。「日本の民主主義は、天皇制に抗うところに生まれ、天皇制に対峙して育った。今なお、日本の民主主義は天皇制と対峙し続けており、これを克服し得ていない。」
(2025年5月3日)
憲法記念日である。日本国憲法の前途を祝するがごとき好天。空は澄んで高い。薫風の中の新緑がまぶしい。平和と人権の砦となっている日本国憲法を、政権や自公維国などの改憲勢力の攻撃から護り抜く決意を新たにしたい。
もちろん、日本国憲法は不磨の大典ではなく、理想の憲法でもない。不合理な点も不十分な点も多々ある。しかし、人権尊重を第一義とし、統治機構の基本理念として、国民主権・権力分立・平和主義を掲げる現行憲法が擁護に値するものであることに疑問の余地はない。「憲法改悪阻止」の一点で、幅の広い連帯を大切にしたい。
とは言え、この憲法を聖典の如くに拝跪する姿勢は危うい。歴史の進展段階の特定の一時期に、時代が生んだ憲法である。その解釈も運用も、国民世論次第でよくも悪くもなる。さらには、憲法の条文自体が真の意味で「改正」もされ、「改悪」の憂き目を見ることにもなる。
「憲法改悪阻止」をスローガンとする人々にとっても、この憲法の先進性のみならず、後進的な側面を認識しておくことは重要だと思う。そのような視点から、以下に日本国憲法の後進性に言及してみたい。結論からいえば、日本国憲法の後進性の主たる側面は、天皇制を廃絶できずに残存させたところにある。
✦日本国憲法は「朕」の1字から始まる。
周知のとおり、日本国憲法には優れた前文があるが、その前に「上諭」という一文がある。その冒頭の1字が「朕」なのだ。さらに憲法の第1章は「天皇」であり、第1条から8条までが天皇に関する条文。全103か条(含補則)の条文の最初の単語が「天皇」であって、主権者国民ではないことが情けない。
「大日本帝国憲法」を受け継いだ不徹底な構造だからである。残念ながら、80年近くこのいびつな憲法の構造を「改正」することができていない。
✦内閣総理「大臣」・国務「大臣」とは何たる滑稽
律令下では、文字どおりの「大臣(おおおみ・おとど)=天皇の大いなる臣」であった。王政復古の近代天皇制でも、「大臣」に違和感はなかったろうが、戦後80年を経ていまだに「大臣」とは滑稽千万、残念至極というほかない。
✦天皇の存在自体が、民主主義における後進性を再生産している
・国会開会式における主権者代表を見下ろして、文字どおり上から目線の「お言葉」。
・国歌は天皇讃歌「君が代」、国旗は天皇の祖先神アマテラスの象形「日の丸」。
・天皇は、叙位叙勲・褒賞を行う。子どもがオモチャをもらって喜ぶように、そんなものを欲しがるオトナが少なくない。その現実が天皇制を支えている。
・国民の祝日の多くが、いまだに天皇信仰の「祭日」である。
四方拝・紀元節・天長節・皇霊祭・新嘗祭・明治節…の焼き直し。
・天皇は、春・秋に、園遊会を催す。皇族も出てくる。招待者1400人規模。これに招かれたい、出席したい、天皇と話をしたい俗物がウヨウヨ。
・御苑・恩賜公園・御製・天皇賞・賜杯・天皇杯・皇后杯・皇室御用達等々。
東京六大学野球の選手諸君に聞きたい。天皇杯に抵抗感はないのか。天皇の名による戦争で、多くの先輩たちが戦死を余儀なくされたではないか。
・一世一元と元号使用強制は、国民生活に天皇制を浸透させようという試みの最たる成功例。現代世界に例のない欠陥年表記法(将来を表記できない)である元号使用を意識的に拒否すべき。「元号」「改元」「元年」の元とは、天子が支配する時の初めの意味。「令和の百姓一揆」「平成の不況」などという時代表現もやめよう。
・神宮・神社・靖国・護国神社・忠魂碑…。
全国各地の至るところに、天皇教と、天皇の戦争遺跡・遺物が。
・天皇・皇室・皇族の税金と広大な土地(皇居や御用邸)の無駄遣い。
国民の困窮を傍観しつつ、働かざる者の贅沢。(学術会議予算が10億弱である)
皇室費(内廷費3億2,400万円・皇族費2億3,577万円・宮廷費108億1,223万円)と、宮内庁費(119億1,431万円)
・2025年4月12日、天皇は大阪万博開会式に出て、式辞を述べて、政治性濃厚で危険な万博の人寄せパンダの役割を果たしている。
✦身の周りの天皇制
・身の周りには、網の目の如くに天皇制刷り込みの小道具が満ち溢れている。
油断していると、天皇制に絡めとられかねない。天皇制恐るべし。
・この天皇制意識刷り込みの小道具類は、一面は旧天皇制の遺物であるが、
象徴天皇制独自のものもある。両者に異議の申し立てが必要である。
✦天皇制と民主主義
・天皇は、かつては神なる権威として君臨し、主権者として臣民を統治した。
支配の権能を失った今も、神の末裔たる精神的権威として振る舞い続けている。
・健全な民主主義の成立は、自立した精神をもつ主権者の存在を前提とする。
精神的権威は、その権威を認める者に「服従の心理」として機能する。
・天皇の権威を否定して「服従の心理」を克服することが、民主主義の課題である。
権威に恐れ入らぬ精神、まつろわぬ批判の姿勢の涵養が必要である。
・象徴天皇とは、明治政府の創作した「神権天皇」の残滓として、けっして人畜無害ではなく、主権者の精神的自立の障害物となっている。
・その意味で、象徴天皇は退化した無害な盲腸ではなく、国民の精神の自立を蝕む有害なガンと認識すべきである。常に、転移と進行の危険がつきまとっている。
・象徴天皇を侮ってはならない。象徴天皇制批判を躊躇し怠ってはならない。
✦天皇信仰との訣別を
・戦前の天皇は、宗教的権威を基礎に陸海軍を統帥し統治権の総覧者となった。
象徴天皇は三層構造をもった神権天皇の末裔であり、その宗教性の残滓は色濃い。
・かつて、政治宗教である天皇教が、信者たる臣民にその教義の受容を強制した。
天皇教とは、皇祖皇宗と現人神を神聖な崇拝対象とし、天皇自身を最高祭司(教祖)とする信仰である(「国家神道」は、上品に過ぎるネーミング)。
・天皇教の教義は、万世一系の血統を高貴で神聖として崇拝するだけのもので、
社会がイメージする典型的なカルトそのものである。
・ミミズもオケラも、生きとし生けるものにして万世一系にあらざるはない。
天皇教は、高貴な血と卑賤な血とを分ける差別信仰に外ならない。
・かつて天皇教は、信者(臣民)の理性を眠らせ、教祖が一国の主権を簒奪した。
オウムは重武装を、統一教会は銃の大量輸入を企てたが、いずれも挫折している。
天皇教だけが、マインドコントロール下の陸海軍と将兵をもつことに成功した。
・日本国憲法下に天皇教の残滓は象徴天皇として、いまだに信仰者も絶えない。
マイホーム型のソフトな教祖の伝道手法に幻惑されてはならない。
✦主権者意識の障害物としての天皇
・象徴天皇の害悪は、臣民根性を涵養し、主権者意識を鈍麻させることにある。その害悪実現の実行主体は、権力、資本、そして社会的同調圧力の3者である。
・象徴天皇を巡る対峙とは、これを強制する権力や資本との対峙であるだけでなく、天皇に敬意を表明すべきが良識であるとする社会的同調圧力との対峙でもある。
・天皇・皇族に対する特殊な敬語は、臣民根性を再生産する小道具である。天皇・皇族に対する批判の言論にいささかの萎縮も遠慮もあってはならない。
・天皇自身に、憲法解釈や出過ぎた象徴としての行為を認めてはならない。
・近代天皇制とは藩閥政府(西南雄藩連合)の創作であって、日本の伝統ではない。
・近代天皇制は儒教的家父長制におけるイエモデルを国家大に拡大したもの。
「一国は一家である。天皇は慈父であり、臣民は赤子である」
夫婦同姓の強制にも、ジェンダーバイアスにも、根底に天皇制がある。
・戦前と戦後・大日本帝国憲法と日本国憲法、主権の転換、滅私奉公と個人の尊厳。この切断を曖昧化し、旧社会温存の骨格となっているものが象徴天皇である。
・濃厚に残存する臣民根性を払拭するのか温存を許すのか。常に問われ続けている。
✦差別の根源としての天皇制
・天皇制とは《高貴な血統》という、根底的な差別信仰であり、あらゆる差別の根源となっている。あらゆる差別の解消のために、天皇制の克服が必要である。
・すべての人は、生まれながらにして平等である。これは公理であって例外はない。高貴な血を認めることは、その対極に卑賤な血の存在を認めることである。
・この血統に関する信仰は、ナショナリズムと結びついて排外的差別となり、家父長制と結びついて、ジェンダーギャップをもたらしている。
・唾棄すべきは、門地・出自・家系・家柄・家格・毛並・血筋・氏素性…。これをひけらかす俗物。政治家2世3世の愚物。そして、極めつけが皇室皇族である。
・問題は、血への信仰ゆえに天皇の権威を容認する国民精神(臣民根性)にある。血統の珍重は、競走馬とペット業界のこと。人間界にはあり得ない。