澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

憲法は卵(鶏卵)に喩えられる。大事な人権が黄身(卵黄)であり、これを包んで護る白身(卵白)のごとくに統治機構がある。では、天皇は卵のどこに位置する?

(2025年5月26日)
 先日、政教分離の意味するところについて私見を報告する機会を得た。その話の中で、憲法を卵の構造に喩えて政教分離と信仰の自由との関係の説明を試みた。大要、以下のとおり。

 政教分離は、それ自体が重要な憲法原則ではありますが、あくまで手段的価値に過ぎません。手段としての政教分離が支えている目的的な憲法価値は信仰の自由という人の精神の核心に関わる基本的人権です。究極の価値としての精神的自由を擁護するために、権力をもつ側に課せられている準則が政教分離。この関係が、制度的保障という言葉で表現されています。

 このような、人権と制度の関係はいくつもあります。たとえば、学問の自由と大学の自治。表現の自由と検閲の禁止。平和に生きる権利と戦争の放棄・戦力不保持。

 むしろ、個別の権利と制度の関係というよりは、憲法の全体構造が、究極の目的的価値としての人権と、この人権を保障する手段的価値を担う諸制度からできていると言ってよいと思います。

 憲法全体の構造の比喩として、卵をイメージしてください。白身(卵白)に包まれ、白身に護られて、卵の真ん中に大切な黄身(卵黄)が位置しています。黄身(卵黄)が人権で、人権を護るための手段と位置づけられている白身(卵白)にあたるものが統治機構です。

 オーソドックスな憲法の構造の理解は、「人権」と「統治機構」の2部門からできています。つまり、黄身と白身です。壊れやすく大切な人権という黄身(卵黄)は個人の尊厳を核心として精神的自由や経済的自由、生存権や参政権などからできています。これを守るために、白身が包んでいる。そっと優しく黄身を支え、人権への攻撃を身を挺して護るのが白身の役目。これがちょうど人権と統治機構の関係にほかなりません。

 しかし、実のところ、黄身(卵黄)にとって最も危険なのは、白身(卵白)を構成する権力にほかなりません。そこで、白身が黄身を傷付けることがないようにいくつもの工夫がほどこされています。法の支配、立憲主義、民主主義、選挙、三権分立、二院制、議院内閣制、司法の独立、地方自治…。全て、白身(卵白)が大切な黄身(卵黄)を傷付けないように自制をすべき工夫です。これなければ、弱い黄身(卵黄)は、あっという間に潰されてしまいます。

 政教分離も白身(卵白)の一部で、黄身(卵黄)の一部である信仰の自由を保護する関係にあるものとご理解ください。「政」(政治権力)と「教」(宗教、とりわけ国家神道)の分離を命じられているのは、国であり自治体でありその機関です。公権力が特定の宗教と結びつくことのないよう憲法上の禁止命令を遵守して、国民の人権の一つである信仰の自由を守ることができるのです。

 この説明に、直ちに質問があった。「憲法全体を卵と見た場合、天皇はどこに位置しているでしょうか。まさか黄身ではないのでしょうが、果たして白身の一部なのでしょうか。卵の殻の外側の存在でしょうか」。

 以下が私の回答だが、どんなものだろうか。

 「なるほど、天皇の存在は盲点ですね。人権を中心に憲法を体系的に理解しようとすると、黄身と白身は助け合い補い合う関係として完結しますから、卵の構造のなかに、本来天皇のはいりこむ余地はなく、存在の必然性がない無用の長物です。

 とは言え、天皇は憲法の明文に規定された存在です。近代憲法に無用な存在なのに、敗戦時の民主化の不徹底の賜物としてこの異物が残存してしまった。憲法を改正して天皇をなくするまでは、卵の殻の外に押し出すことはできませんから、白身の一部に異物として存在することを認めざるを得ません。この異物が、万が一にも黄身(卵黄)を傷付けることのないように気を付けながら、その役割を少しずつ小さくしていくことが、民主主義社会の主権者の課題だと思います。」

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