6月4日である。36年前の今日、人民解放軍が人民を標的に発砲した。撃たれたのは、天安門広場に集まった市民だけではない。民主主義も人権も、社会主義に対する信頼も撃たれて深く傷ついた。私も撃たれた。私の中の根拠のない信仰が直撃されて吹き飛んだ。
(2025年6月4日)
1989年6月4日早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「人民からは針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の人民解放軍であった。人民から生まれ、人民とともにあるはずの人民解放軍。その人民解放軍が人民に銃を向け発砲したのだ。何のためらいもなく、容赦なく。
天安門広場に集まった大群衆は、党と国家の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権という文明の普遍的価値も虐殺された。以後、中国は民主主義や人権とは無縁の野蛮国となる。そして人民解放軍は、人民の軍ではなく、党幹部の私兵となった。
あの日、私の中で撃たれて崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。いま、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。
中国共産党は、民主化を求めた人々の運動を『反革命暴乱』とし、「党と政府は旗幟鮮明に動乱に反対して社会主義国家の政権を守った」と言っている。中国共産党にとって、人民の民主化運動は『反革命暴乱』なのだ。
この衝撃の「事件」だけでなく、事後の対応にも許しがたいものがある。我々が、日本の保守勢力を「歴史修正主義」と非難していることを、中国共産党もやった。事件そのものがあたかもなかったごとくに、事実を語る言論は統制され、歴史は塗り替えられようとしている。これが天安門以後の中国共産党の実像である。
そして、さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、腕力において劣勢を免れない。
習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。