アメリカで人気のスポーツといえば、アメフト、野球に続いて、バスケットボールなのだそうだ。プロ組織であるNBA(National Basketball Association)には、全30チームが所属し、その全資産価値は110億ドル(約9500億円)に及ぶとか。
その人気のプロスポーツ選手の76%が黒人ということだが、その選手に儲けさせてもらっているはずのチームオーナーの差別発言で全米が揺れている。この事件で、改めて知る。ヘイトスピーチへの制裁の厳しさを。社会に、人種差別は許さないという明確な合意ができているのだ。
29日、NBAは人種差別発言があったとして、人気チームクリッパーズのオーナーであるドナルド・スターリング氏を永久追放処分としたうえ、最高額となる250万ドル(約2億6000万円)の罰金を科した。この罰金は反差別運動を進める団体に寄付されるとのことだ。
スターリング氏とは、不動産業界での成功者として名高い人とのこと。その差別発言というのは、4月上旬のスティビアーノという女性(知人、交際相手、あるいは恋人などとされている)との会話の中でのこと。その録音テープが、芸能専門サイトで暴露された。会話では、その女性と元レーカーズのスーパースター、マジック・ジョンソン氏らとの交友関係に、スターリング氏が不快感を示している。スティビアーノさんがジョンソン氏と一緒に納まる写真を画像共有サイトに投稿したことから、「黒人と一緒の写真を公開するなんて、ひどく不愉快だ」「イスラエルに行ってみろ。黒人は犬扱いだぞ」などと激怒。彼女が反論すると、「それなら私のチームの試合に来るな。そして黒人を連れてくるな」と言い放った、という(CNNなど)。
時事の配信では、「なぜマイノリティー(白人以外の人種)と写真を撮るのか。君(知人女性)が黒人と関係があることを吹聴するのは不愉快だ。君は何をしてもいい。彼らと性的関係を結んでもいい。ただ、私の(チームの)試合にだけは連れて来ないでくれ。(インターネット上で)黒人と一緒にうろつく姿をさらす必要はない。彼(マジック・ジョンソン氏)は尊敬に値する人物だが、私の試合に連れて来るのは、よしてほしい。」というもの。
NBAは調査により、差別発言をした男性をスターリング氏と特定し、同氏も認めた。NBAのシルバー・コミッショナーは、「私は氏の発言に激怒しているし、人々の怒りも理解している」「もはやNBAに氏の居場所はない」という厳しい非難。
問題は全米で関心を集め反響は凄まじい。バスケットボール好きで知られるオバマ大統領はアジア歴訪中に声明を発表し、「無知で極めて攻撃的な差別発言」と非難した。「無知な人間は自らの無知を宣伝したがる。米国はいまだに人種差別や奴隷制度の名残と闘っているのだ」と述べたという報道もある。
プレーオフに出場しているクリッパーズのドク・リバーズ監督や選手も抗議の姿勢を示し、チームの公式サイトは「WE ARE ONE(私たちは一つ)」の一文を掲載した。
マイケル・ジョーダン氏ら元NBAのスター選手が続々と不快感や「激しい怒り」を表明。
当のジョンソン氏は27日、米スポーツ中継専門局に「スポーツはあらゆる人種が競い合うからすばらしいんだ。もはや彼(スターリング氏)にチームを保有する資格はない」と強く非難。さらに「黒人も(不動産王で有名な)あんたの不動産を借り、あんたのチームでプレーし、あんたのためにコーチを務めている。俺はホントに怒っている」と訴えた。
注目すべきは、スポンサーの動向である。AFPの報道では以下のとおり。
「主要スポンサーである米カジノ経営のチュマッシュ・カジノ・リゾート(Chumash Casino Resort)と中古車販売業のカーマックス(CarMax)は28日、クリッパーズとの契約を解除した。カーマックス社は、スターリング氏の発言について「完全に受け入れがたい」とコメントし、さらに声明で、「これらの見解は、すべての個人を尊重するカーマックス社の文化と真っ向から対立するものである」と述べた。米国先住民が経営するチュマッシュ・カジノは、米スポーツ専門チャンネルESPNに対して、「どのようなグループに対しても悪意や危害を生じさせるような、いかなる発言も無視できない。わが社はクリッパーズのスポンサーから撤退する」と語った。
米格安航空会社ヴァージン・アメリカ(Virgin America)の代理人は、TMZに対して、「ファンや選手の応援は続けるが、ヴァージン・アメリカはロサンゼルス・クリッパーズのスポンサー契約を終了することを決断した」と述べた。
ラップ音楽界のスター、ショーン・コムズ(Sean ‘Diddy’ Combs)が所有するミネラルウオーター販売のアクアハイドレート(AQUAhydrate)は、ツイッター(Twitter)で契約の一時停止を発表。さらにステート・ファーム保険会社(State Farm Insurance)も調査が継続するなかで、一時凍結した。
また、クリッパーズのブレイク・グリフィン(Blake Griffin)がNBAオールスターゲームのスラムダンクコンテストで跳び越えた車として知られる韓国・起亜自動車(Kia Motors)をはじめ、ヨコハマタイヤ(Yokohama Tires)、レッドブル(Red Bull)、スプリント(Sprint)、ランバー・リクイデーターズ(Lumber Liquidators)も、同チームとのスポンサー契約を凍結している。
米長距離列車アムトラック(Amtrak)は、米紙USAトゥデイ(USA Today)に対し、「レギュラーシーズンが終了した2週間前に、クリッパーズとの契約は満了となっており、チームと契約していた形跡は、いかなるものも除去する」と述べた。」
差別発言をするチームのスポンサー契約は経済的にペイしないという即断なのだ。社会の風が企業にそのような判断をさせている。
それにしても、公開の場での発言ではない。いわば密室での2人きりの場での会話。しかも、このテープを持ち込んだのはスティビアーノさん自身で、その目的はスターリング家から約180万ドル(約1億8400万円)を着服したとして訴訟を起こされていることへの報復であろうとの報道もなされている。そのような場における、そのよう事情あっての発言でも、人種差別発言は許さない、という社会の合意が見て取れる。
ヘイトスピーチへの制裁の厳しさ、その果敢で迅速な対応に、学ぶべきものは大きい。
(2014年4月30日)
本日は、昭和の日。昭和天皇と諡された裕仁の誕生日。かつての天長節である。
祝日法では、「昭和の日」の趣旨を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。「激動の日々」とは、天皇制ファシズムと戦争の嵐の時代のこと。「復興を遂げた昭和の時代を顧み」とは、敗戦を機として社会と国家の原理が大転換したことを指し、「国の将来に思いをいたす」とは再びの戦前を繰り返してはならないと決意をすること。
いうまでもなく昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した平和憲法に支えられた時代。戦前が天皇のために滅私奉公を強いられた時代であり、戦後が国民個人の自由や人権を尊重すべき原則の時代といってもよい。
国や社会の将来に思いをいたすためには、過去に目を閉ざしてはならない。昭和の日とは、なにゆえに戦争が生じたのか、誰にどのような戦争責任があるのか、を主権者としてじっくりと考えるべき日。とりわけ、この日には昭和天皇の戦争責任について思いをいたさなければならない。同時に、「戦後レジームからの脱却」などと叫ぶ政権の歴史認識検証の日でもある。
かつて、祝日には学校で、「祝日大祭日唱歌」なるものを歌った。1893(明治26)年8月12日文部省告示によって「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜」として『祝日大祭日歌詞並楽譜』8編が撰定された。その「第七」が「天長節」という唱歌。歌詞を見るだに、気恥ずかしくなる。
今日の吉き日は 大君の。
うまれたまひし 吉き日なり。
今日の吉き日は みひかりの。
さし出でたまひし 吉き日なり。
ひかり遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
めぐみ遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
なお、全編を挙げれば、以下のとおり。
第一 君が代
第二 勅語奉答
第三 一月一日
第四 元始祭
第五 紀元節
第六 神嘗祭
第七 天長節
第八 新嘗祭
あまり知られていない、「第二 勅語奉答」の歌詞も挙げておこう。こんなものを子どもたちに歌わせていたのだ。こちらは、気恥ずかしさを通り越して、腹が立つ。なお、作詞者は旧幕臣の勝海舟だという。
あやに畏き 天皇(すめらぎ)の。
あやに尊き 天皇の。
あやに尊く 畏くも。
下し賜へり 大勅語(おほみこと)。
是ぞめでたき 日の本の。
国の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
是ぞめでたき 日の本の。
人の教の 鑑(かがみ)なる。
あやに畏き 天皇の。
勅語(みこと)のままに 勤(いそし)みて。
あやに尊き 天皇の。
大御心(おほみこころ)に 答へまつらむ。
なお、現天皇明仁が誕生したとき(1933年12月23日)には「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしは手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
ありがとお日さま 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生まれなつた
天皇(皇太子)誕生への祝意強制の社会的同調圧力には、背筋が冷たくなるものを感じる。天皇を中心とした「君が代」の時代は、戦争と植民地支配の時代であり、自由のない時代であった。今日、昭和の日は、「君が代」の時代を決して繰り返してはならない、その決意を刻むべき日である。
(2014年4月29日)
4月21日付の日刊ゲンダイが、市民団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」による籾井勝人会長ら辞任要求運動を大きく紹介した。その要求貫徹のための実効手段として、「受信料半年間支払い凍結」を視聴者に呼びかける運動に関して、次の記事を掲載している。
「気になるのは“凍結運動”に賛同した場合のリスクだ。最近、NHKは受信料を払わない個人に対して容赦なく支払いを求める訴えを起こしているからだ。」
この記事を書いたゲンダイ記者は、NHK会長辞任要求運動へのシンパシーを隠そうともしていない。その記者にして、提訴されることを「気になるリスク」と表現している。誰だって、訴訟の被告などになりたくはない。裁判所から呼び出しが来るだけで気が滅入る。中には、「得難い経験をするチャンス」「法廷で思う存分言いたいことを言ってやろう」「敗訴したところで、たいした金額ではない」という方もいようが、所詮はごく少数派。
なによりも、「提訴されることを、気になるリスク」とする普通の感覚の持ち主にNHK批判の運動に参加してもらう必要がある。安倍政権のNHK支配を阻止する大きなうねりをつくるためには、避けられるものなら提訴リスクは避けた方がよいに決まっている。
提訴リスクの有無の検証として、ゲンダイは、以下の紀藤正樹さんのコメントをもち出した。ゲンダイから見て、紀藤さんは穏当で適切なコメンテーターなのだろう。
「弁護士の紀藤正樹氏はこう言う。訴えられたら負ける可能性はあります。ただ、果たしてNHKが裁判に訴えられるかどうか。判決が出るまで、普通は5カ月程度はかかる。半年後には支払う可能性が高いのに、わざわざ裁判を起こすのかどうか。しかも、賛同者が数万人になったら裁判費用は巨額になる。1人当たり1万円程度の受信料のために、訴訟費用だけで赤字になってしまう。なにより、裁判沙汰になったら、世論を喚起し、運動が拡大する可能性がある。損得を計算したら訴えるとは考えづらい」
目くばりの行き届いた、なかなかのコメントではないか。
まずは、「訴えられたら負ける可能性はあります」という。「勝ち味はありません」「絶対負けます」とは言わない。しかし、もちろん、「法廷で断固闘えば勝てます」などと無責任なことも言わない。「万が一訴えられたら、正々堂々と法廷で自分の意見を言いましょう」とも言ってくれないが、これはやむを得ないところ。
「果たしてNHKが裁判に訴えられるかどうか。…(NHKが)訴えるとは考えづらい」というのが結論となっている。訴訟における勝敗の帰趨とは別の問題で、NHKが原告となって、「半年間受信料凍結運動参加者」に受信料支払い請求の裁判を起こすことは、実際にはあり得ないだろうという。私も同意見だ。
その理由は3点挙げられている。第1点が、審理に要する期間の問題である。予定された賃料支払い凍結期間(半年)のうちに判決言い渡しが間に合うかといえば、「それは無理」というのが常識的な判断。どうせ無駄になるような裁判に、手間暇とコストをかけるような愚を犯すはずはないだろう、ということ。凍結期間が短く限定されていることから、ある程度の審理期間の必要性が不可避な提訴という手段が実効性をもたないというわけだ。
第2点がNHKにとっての訴訟コストの問題。「賛同者が数万人になったら裁判費用は巨額になる。1人当たり1万円程度の受信料のために、訴訟費用だけで赤字になってしまう」ことが目に見えている。NHKの受信料請求の訴訟提起の動機は、決して訴訟で債権回収を企図しようというのではない。謂わば、一罰百戒の威嚇効果を狙ってのものだ。提訴1件当たりの収支を計算すればコスト割れしていることは必定。だから提訴数を増大することは困難である。さらに、凍結運動参加者が増えれば、到底コストの点でペイするはずもなく、お手上げとなってしまう。
第3点が、「裁判沙汰になったら、世論を喚起し、運動が拡大する可能性がある」との指摘。私もそのとおりだと思う。籾井発言は誰の目にも不当なもの。籾井辞めよという世論を顧みないための受信料支払い凍結ではないか。しかも、時期を半年と区切ってのもの。この運動は、目的も手段も、極めて妥当なものではないか。これに対して、NHKが報復的な提訴で対抗すれば、火に油を注ぐことになるだろう。その点からも、NHKが「受信料支払い凍結者」への提訴は考えにくい。
また、ゲンダイ紙面には、もう一人(「NHK関係者」)のコメントが紹介されている。「もし、受信料の支払い凍結運動が大きくなったら、籾井さんは辞めざるをえないでしょう。なにしろ、NHKの事業収入6997億円のうち、受信料収入は6725億円と96%を占める。単純計算でも契約者の1割が1カ月間“支払い凍結”しただけで56億円の収入が途絶え、NHKの業務はマヒしてしまう。かつてNHKのドンと呼ばれた海老沢会長も“受信料の不払い”が急増したことで辞任に追い込まれています」
常識的に考えて、訴訟を提起されて被告となるリスクは限りなく小さい。そして、NHKに対する影響という意味での効果は絶大。これは、実によく練られた運動だと思う。本日が4月28日。籾井会長がNHKを救うための辞任の期限まであと48時間ほどである。
(2014年4月28日)
一昨日、ある会合で「教科書ネット21」の俵義文さんと同席の機会を得た。教育問題を最重要課題のひとつと位置づけた安倍政権の「教育再生」政策は、地教行法、教科書無償化措置法、学校教育法の改正、教科書採択基準の変更、道徳の教科化等々、目まぐるしい。俵さんは、その対応に忙殺されているが、さすがに豊富な資料で、的確に要点を指摘している。
「下村博文文科相や義家弘介氏(自民党教育再生実行本部)らによる地教行法の改正も教科書無償化措置法の改正も、つくる会系(育鵬社)教科書採択を最大化をはかる内容となっている」「つくる会系勢力は、前回の採択時に総力をあげて運動したが、失敗したという総括をしている。自分たちの教科書の採択が伸びない原因を、『教育委員会の抵抗』と位置づけ、政治の言うことを聞く教委に変えてしまおうというのが、今回改案の主たる動機だ」「教科書無償化措置法改正による採択地区細分化も同様の思惑。われわれは、『教科書採択は本来教員の意見が十分に反映される制度でなければならない。だから広域採択には反対』と言ってきた。今、彼らは『市郡単位から、市町村単位に採択地区を変更すれば、つくる会系教科書の採択が増える』と見込んでいる。そのため、その政策に関する限りわれわれと奇妙な一致を見ている」ということが大要。そう整理されると、なるほどよく分かる。
ところで、俵さんの話が教科書・教育から離れて、改憲問題に及んだ。
「安倍政権やこれに連なる保守勢力は、明文改憲に失敗して解釈改憲路線を走っているとされているが、決して明文改憲をあきらめたわけではない。地道に草の根の改憲運動が続けられている。その中で、最も警戒すべきが日本会議の地方議連による地方議会決議運動だ。既に、8県議会が3月議会で『憲法改正の早期実現を求める意見書』を採択している。今後警戒して、この動きを封じる工夫をしなければならない」
8県議会とは、石川、千葉、富山、兵庫、愛媛、香川、熊本、鹿児島。
採択されたのは、典型的には次のような内容。
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国会に憲法改正の早期実現を求める意見書
現憲法が昭和22年5月3日に施行されて以来、今日に至るまでの約70年間に我が国をめぐる内外の諸情勢は劇的に変化を遂げている。すなわち、我が国を取り巻く東アジア情勢は、一刻の猶予も許されない事態に直面しており、さらには、家庭、教育、環境などの諸問題や大規模災害等への対応が求められている。
国民が現憲法と現実との乖離の解消を望んでいることは、各種世論調査において、憲法改正の支持が常に過半数に達していることにより明らかであり、各政党、各報道機関、民間団体からも具体的な改憲案が提唱されている。
しかし、平成19年に日本国憲法の改正手続に関する法律が制定されたことに伴い、両院に設置された憲法審査会の活動開始が平成23年にずれ込むなど、憲法改正発議に向けた審議は進展していない。成文憲法を持っている世界各国では現実に合わせるための憲法改正を行っており、日本国民が憲法規定の是非をみずからが判断する国民投票を一度も体験しないままの現状を解消することは、国権の最高機関として国民から国政を負託されている国会の責務である。
よって、国会におかれては、下記の項目を実行されるよう強く要望する。
記
憲法改正案に対して国民が判断できる機会を早急に設けるため、両院の憲法審査会において憲法改正案を早期に作成し、次期国政選挙までに国民投票を実現すること。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成26年3月17日
熊 本 県 議 会 議 長 藤 川 ? 夫
衆議院議長 伊 吹 文 明 様
参議院議長 山 崎 正 昭 様
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日本会議とは右翼勢力の元締めとなる組織、その会長は三好達・元最高裁長官。自由民主党を中心に280名の日本会議国会議員懇談会を擁しているだけでなく、日本会議地方議員連盟を抱えている。その数1700人と豪語している。
その地方議員連盟の〈基本方針〉は以下のとおり。
1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。
2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。
3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。
4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。
〈運動方針〉は以下のとおり。
「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組む日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。
?改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。
?青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。
?議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。
キーワードは、皇室、憲法、教育、防衛、そして家族である。いま、その地方議員連盟が課題としているのが、地方議会における「憲法改正の早期実現を求める意見書」の採択なのだ。自民党が県連に指示し、自民と日本会議とが一体となって運動を推進している。維新も賛成にまわっている。
日本会議はもともとが元号法制化促進運動の中から立ち上がっている。元号法制定促進決議や、靖国神社公式参拝要請決議の運動をやってきた。公式参拝要請決議は37の県議会、1548の市長村議会で成立している。そして今、憲法改正促進決議への取り組みである。
なお、今年も日本会議を中心とする右派勢力は5月3日に公開憲法フォーラムを開催の予定。テーマは、「国家のあり方を問う―憲法改正の早期実現をー」。中央の集会では、櫻井よしこ、船田元、西修、百田尚樹が発言するという。各地方での集会では、長谷川三千子の名も見える。
改憲問題も教育問題も、そしてNHK問題も元号法も靖国も、根は一つの問題なのだ。小選挙区制のマジックで底上げされた安倍極右政権が、今がチャンスと跳梁している。一つ一つの課題において、抵抗し続けていかねばならないと思う。
(2014年4月27日)
私が盛岡にいたころ、もう30年余の以前のことだ。地元紙で宮古市内の教会を主宰していたキリスト教の牧師さんの不祥事疑惑が報じられた。不祥事の内容は、教会が経営する施設の建設に絡むものだったが、詳しくは憶えていない。
この事件、疑惑が疑惑のまま葬られた。任意の捜査もあった記憶だが、刑事事件としての立件はなく、関係する役所の部門も動かなかった。結局は地元紙の先走った大袈裟な報道という印象だけを残して幕引きとなった。その幕引きの際に、「日本キリスト教団奥羽教区」が声明を出した。「この疑惑に関しては徹底して内部調査を遂げて、責任の有無を解明する」という趣旨のもの。誰もが、常識的に体裁だけの声明だと受けとめた。私もそう思った。
ところが、半年ほど後だったと思う。誰もが事件を忘れたころになって、教団の調査結果が発表され、これが地元の各紙を賑わせた。詳細な事実経過の認定がなされ、渦中の牧師さんの弁明は虚偽だと断罪された。その牧師さんは解任されたと記憶している。大きな衝撃を受けたのだから、私の記憶の大筋に間違いはない。
教団が、身内の不祥事を暴かねばならない必然性はなかった。調査結果を無難なものにすることもできた。しかし、調査を担当した者たちは、キリスト者として真実に向かいあった。おそらくは神に恥じない態度を自らに課したのであろう。いささかも身内に甘い態度はとらなかった。真実に忠実な姿勢を貫いた結果が、隠せるものを隠すことなく、身内に有罪を宣告したのだ。わたしは、このときキリスト教というもの、クリスチャンというものを大したものだと思った。この組織には、間違いなく自浄能力がある。
一人の牧師の不祥事は印象に薄く、その非違を糺した教団の潔癖さ、厳正さが印象に刻み込まれて、私はキリスト教への畏敬の念を深めた。このローカルなニュースが、岩手靖国訴訟の原告団の中心に位置した2人の牧師(井上二郎さん・渡辺敬直さん)との信頼関係の構築に少なからぬ影響があったと思う。
医療過誤でも、製造物責任でも、欠陥住宅でも、運転事故でも、また舌禍でも筆禍でも、人には過ちがつきまとう。その過ちにどう対処するかで、人は測られる。場合によっては、間違ったことへの対応のみごとさで、却って信頼を勝ち得ることすらある。とりわけ、組織に属する個人が過ちを犯した場合、組織がどのようにその過ちについての透明性・公開性を徹底して説明責任を全うするか。それによって、その組織の将来の命運が分かれると言って過言でない。自浄能力のない組織には、未来がない。企業でも、官庁でも、政党でも、民主運動組織でも。
そんな目で見た、みんなの党前代表の「8億円『借り入れ』事件調査結果」は、世人の信頼を勝ちうるものとはなっていない。「やっぱりこの程度の調査しかできないのか」という失望感が大きい。とはいうものの、私は24頁に過ぎないこの報告書を読む機会に恵まれない。だから、「この党に将来はない」と切って捨てるだけの自信はまだない。みんなの党のホームページには掲載されるだろうと待っていたが、どうもその気はなさそうだ。マスコミ各社には配布されたようだが、これをアップしてくれたところは見あたらない。
党のホームページに掲載された記者会見の動画と、各社の報道を見る限りと断ってのことだが、どのメディアも納得していない。
調査の諮問事項は3点あったはず。
(1) 公職選挙法違反の事実の有無
(2) 政治資金規正法違反の事実の有無
(3) 社会的道義的に問題がないか
そのいずれについても、党は問題ないことが確認されたといい、各社とも問題が残ったとしている。
毎日の要約が分かりやすい。
「報告書は、借入金が渡辺氏自身の選挙費用に使用された事実はなく、『渡辺氏から党に、供託金(2回の国政選挙で計3億5400万円)等の選挙資金として貸し付けられた』とし、公職選挙法違反にはならないとした。さらに『政治団体ではなく渡辺氏個人に対する融資と確認した』との理由で、政治資金規正法違反にも当たらないとした。
渡辺氏が『妻の口座に5億円近くがそっくり残っていた』とした点については、『2012年から13年に計5億円が渡辺氏の口座から妻の口座に移動』と説明。『投資や運用はされず、普通預金口座のまま』と指摘し、『政界再編に備えたという渡辺氏の説明を裏付ける事実』とした。
そのうえで、渡辺氏が3年10カ月間で約5500万円、妻は1年4カ月間に約3500万円を使ったと明らかにした。渡辺氏は使途を『党首と党首夫人として、党勢拡大のための活動に関連して、会合や情報収集で使用した』と説明したが、利用明細書の入手は一部にとどまったという。
また、渡辺氏は吉田氏以外の複数の第三者から計6億1500万円を借り入れ、うち1億4500万円が未返済であることも判明した。渡辺氏の意向で第三者の名前は明らかになっていない。」
以上の説明の限りでは「(2) 政治資金規正法違反」の疑惑濃厚といわざるを得ない。「党首と党首夫人として、党勢拡大のための活動に関連して、会合や情報収集で使用した」金は明らかに政治資金なのだから、その明細を特定して届出の有無を確認しなくてはならない。それができていないことは、政治資金規正法違反のないことの解明には至っていない。
また、「(3) 社会的道義的に問題」だらけではないか。法は、金で政治が歪められることを防止するために、政治資金の透明性の確保を要求しているのだ。表に出せない汚い金をこそこそと動かしているからには、道義的責任は明々白々だ。渡辺は「『法的にも社会的・道義的にも問題ないとの判断をいただいた』とのコメントを発表した」という。本当にそう思っているのなら、調査委員はカムフラージュに使われたに過ぎない。
そして、「(1) 公職選挙法違反の事実の有無」である。選挙運動費用収支報告書と預金通帳の字面だけを見ていれば、違法は見えてこない。調査とは、字面だけでは見えてこないものに切り込まねばならない。DHCの吉田から出た金で供託金が支払われた選挙に関して、選挙運動費用はどうまかなわれたのか、疑惑の使途不明金が、報告書に記載されていない選挙運動費用として注ぎこまれた事実はないのか、その調査がおこなれて初めて疑惑の有無についての結論が出せる。浅尾慶一郎党代表の記者会見では、「任意の調査の限界」を強調するだけのもので、本気で調査をやる気も、やらせる気も、感じられない。
次のようにも報道されている(毎日)。疑惑だらけだ。
「9000万円の用途は主にカード代金の決済だった。記者会見では、決済の明細内容への質問が集中。飲食店や旅館の宿泊代、交通費などが含まれるとしたが、三谷座長らが明確にあげたのは、被ばくした牛の保護をしている非営利団体へのわら代の寄付だけだった。渡辺前代表は明細書を『個人のプライバシー』を盾に、一部を塗りつぶして提出したといい、三谷氏は『これ以上は任意の調査なのでできない』とお手上げ状態であることも明かした。」
「渡辺前代表へ2012年衆院選前に5億円が貸し付けられたのは、夫人が化粧品会社会長に『離婚する』とのメールを送った当日だった。12日後に2億円、翌年には計3億円が移動し『関連があるのでは』という点も検討されたが、『離婚したままだが、すぐに復縁し現在は事実婚状態』とする渡辺氏の説明を調査チームは『不合理ではない』と受け入れた。」
本日の東京社説が次のように指摘している。
「渡辺氏は以前、これらの支出を党勢拡大のためと説明していた。だとしたら党の政治資金であり、個人的な支出と結論づけるのは無理があるのではないか。
このような論法がまかり通るなら、個人的な支出だと言い張り、政治資金や選挙運動費用を収支報告書に記載しないことが横行しかねない。そうなれば法による規制はさらに形骸化する。」
「渡辺氏が8億円とは別に、5カ所から計6億1500万円を借りていたことも新たに分かった。ところが、誰から借りたのか、何に使ったのかは、全く解明されていない。やはり強制力を持たない身内による調査では限界がある。司直の出番を待たずとも、国会に真相解明の意欲があるのなら、証人喚問に踏みきるしかあるまい。」
これが、衆目の一致するところ。
やはり、「渡辺喜美さん政治家はお辞めなさい」というほかはない。そして、前代表の議員辞職があろうとなかろうと、みんなの党に未来はなかろう。
(2014年4月26日)
私は、1963年4月に大学の教養学部に入学した。半世紀も前のことになる。文系のクラス編成は、第2外国語取得者ごとになされた。ドイツ語既修者がA、未修者がB、フランス語既修者がC、未修者がD、そして中国語は未既修を分けずにEの記号を付されたクラスとされた。スペイン語クラスも、ロシア語クラスもなかった。私は、「Eクラス」で中国語を学んだ。クラス全員で27人。圧倒的な西高東低の時代の絶対少数派。
東西冷戦のさなかで、西側諸国の人民中国へのアレルギーは強かった。中国を承認する国は少なかったのだから無理もない。もちろん、日中間の国交もなかった。イギリスだけが早くから中国を承認していたのが不思議なくらい。1964年1月に、ドゴールのフランスが突然に中国を承認して、歴史は大きく変わった。64年以後Eクラスの人数も大幅に増えることになる。
63年入学までの絶対少数派Eクラスの内部結束は固かった。革命をなし遂げた中国共産党に共鳴する向きが主流であったが、必ずしもみんながそうではなかった。反権力・反権威・叛骨・在野精神などを共通に育んだのでなかったか。思想傾向などを超えて親密な交流が今も続いている。20歳前後の生き方の方向を決めようという時期をともにした友人はかけがえがない。みんな、さしてエラクはなっていない。久しぶりに会えば、肩書などはまったく無視して昔に帰る。
そのクラスメートの中から研究者の道に進んだ者が3名ある。そのうちの一人が粟屋憲太郎君。定年まで立教大学の教授だった。現代史の研究家として、とりわけ東京裁判の研究者として高名である。しばらく体調を崩していたが、先日のクラス会では元気な様子だった。
その席で、近々中国に出掛ける予定と言っていた。上海交通大学が、東京裁判の研究部門をもっており、そこでの講座を担当するとのこと。同大学名誉教授になっているとも言っていた。Eクラス出身者らしい活躍ぶり。
その彼が、いま、北京のようだ。たまたま一昨日(4月23日)のCRI(中国国際放送局)ネット配信記事に、粟屋君の談話が紹介されている。「歴史学者の粟屋氏、『靖国参拝は政教分離に相反する』」という標題。
「日本の新藤義孝総務大臣をはじめ、政治家約150人が靖国神社を参拝したことについて、北京を訪問している日本の歴史学者、粟屋憲太郎さんはCRIの記者に対し、靖国神社の歴史観を批判し、参拝は『政教分離の原則に相反するもの』だと訴えています。
粟屋さんは『日本は、政治が右向きの中で、これだけ多くの国会議員が靖国神社を参拝したということは、たいへん残念なことだ。参拝する行為は、日本国憲法で規定している政教分離の政策に相反している』と話しています。
日本現代史の専門家で、東京裁判の研究で知られる粟屋さんは『日本がサンフランシスコ講和条約で、東京裁判の判決を受諾している以上、A級戦犯を神として祀ることはまったくおかしいことだ』と指摘しています。
また、『靖国神社にある遊就館を見れば、大東亜戦争肯定論であることがわかる。参拝により、戦争に含まれている国家犯罪などの問題を隠し、その正当化を図ろうとしているのが、靖国神社の歴史観である。そのような場所に現職の大臣までが参拝しているとは、全くどうかしていると思う』と憤慨しました。
さらに粟屋さんは、1945年6月にフィリピンのルソン島で戦死した父親を例に挙げ、『家族に何も相談なく、靖国神社が父を祭神にした。それを撤回してくれと言っても、取り下げようとしない。そういう形で祀られた戦死者も多い』と話し、政教分離の原則からも『戦争犠牲者の哀悼は無宗教の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行うべきで、長い目から見れば、国は新しい追悼施設を作るべきだ』と主張しています」
第2次大戦で反ファシズム連合国に敗れた日本が、国際社会に復帰することが許容された条件が、サンフランシスコ講和条約第11条「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」であった。憲法前文に謳われた「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」の具体化でもある。靖国に東京裁判で有罪となったA級戦犯を合祀すること、それに現職の大臣までが参拝することは、東京裁判受諾の国際誓約を反故にすることではないか。靖国と、靖国派政治家への彼の怒りが伝わってくる。
それにしても、粟屋君が「靖国の遺児」だとは知らなかった。インタビューに応じた言葉にも、理屈だけのものではない、情念のほとばしりが見て取れる。日本の良心を代表しての中国での発言に、賛意と敬意を惜しまない。
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「ダイオウグソクムシ」(大王具足虫)の死の謎
今日は水族館の話。各地の水族館で「ダイオウグソクムシ」が人気を呼んでいる。ダイオウグソクムシは節足動物門等脚目スナホリムシ科の甲殻類で、ダンゴムシやワラジムシの仲間で最大のもの。ダイオウの名前がついているとおり、成長すれば体長50センチ、体重1キロ余になるという。メキシコ湾や西太平洋の深海に住み、沈んできた死骸の掃除をして生きている。
数年前、江ノ島水族館で、ピクリとも動かないダイオウグソクムシを、こちらもじっと動かず辛抱強く観たことがある。海水のなかに落ちてふやけた巨大なダンゴムシのようだった。いったい生きているのか、死んでいるのか、最後までわからなかった。
鳥羽水族館のダイオウグソクムシが、5年と43日絶食したまま、本年2月14日午後5時半頃死亡したと報じられた。「NO.1」と名付けられた、このダイオウグソクムシは死亡時、「水族館での飼育日数は2350日(6年と158日)、2009年1月2日に50グラムのアジを食べて以降、絶食日数は1869日(5年と43日)に達していた」(産経新聞3月14日)。2007年メキシコ湾から送られてきた時の体長29センチ、体重1キロのまま、死亡時までほぼ変化がなかったという。
生態については、鳥羽水族館の飼育員の森滝丈也さんが克明な飼育日記をつけており、正確な記録があるという。森滝さんは、水槽の水質、水温はもとより、餌は新鮮なイカ、ホッケ、サンマ、ニシン、シシャモ、ブリ、それでだめなら腐ったニシンと手を変え品を変えて、工夫を凝らして飼育に励んだ。NO.1は水族館に来て9カ月目と1年4カ月目に新鮮なシマアジを食べたその後は、何も口にしなくなってしまったらしい。絶食が報道されると、動画サイトには1年間に300万ものアクセスがあったという。その祈りも届かず、NO.1は絶命した。
NO.1の死後、森滝さんは「食べなくても生きることができる秘密」を解明するために解剖を行った。とうぜん「餓死」が疑われたが、甲羅の裏側など肉も痩せておらず、どうもそうではなさそうだ。不思議なことに、胃の内部は淡褐色の液体で満たされており、酵母様真菌が増殖していた。
もともと、ダイオウグソクムシは食が細く、1年間ぐらいの絶食は珍しくないらしい。新江ノ島水族館でも、3カ月に1度しか餌は与えていない。結局NO.1の生と死の謎は解明されなかつた。胃の中の酵母様真菌と長期間の絶食の関連性は、今後の研究にゆだねられた。
1日3度の食事作りに追われて家庭の主婦やスリムな体型維持に苦労している人にとって、NO.1の生き方ほど魅力的なものはない。iPS細胞やSTAP現象に勝るとも劣らない研究テーマとなるはずだ。1日も早くNO.1の生の秘密を解明してもらいたい。
もし、ヨーグルト状の酵母様真菌を3カ月に1回食べれば生きてゆけるとなったら…、人類は食糧獲得の競争から解放される。食事のための労働からも解放される。地上は、ダンゴムシ様人間の天国となるだろう…か。
(2014年4月25日)
以下は、本日のCNN日本語版ネット配信記事。アメリカの銃「規制」問題についての最新事情をものがたっている。
「米ジョージア州で学校や教会などへの銃携行を条件付きで認める条項を盛り込んだ州法が23日、ネイサン・ディール知事の署名で成立した。
同法は銃の携行を認める場所について規定する内容で、許可証を持つ人物が銃を隠して一部のバーや教会、学校、行政庁舎、空港の駐車場やショッピング街など一部区域に持ち込むことも認めている。同法は7月1日から施行される。
署名式は同州北部エリジェイの屋外ピクニック場で行われ、出席者の多くは拳銃を携行していた。全米ライフル協会の帽子をかぶったり、「銃規制をやめろ」「銃は命を救う」などの横断幕を掲げる出席者もいた。
ディール知事は署名に当たり、「我々の自由を再確認する素晴らしい日」が来たと述べ、同法によって住民は家族を守ることができ、銃を携行できる場所が増えると強調。銃の持ち込みを認めるかどうかは教会やバーなどの所有者が決められるとした。
一方、反対派は同法を「銃どこでも法案」と呼んで批判していた。銃の持ち込みを認める範囲は当初の法案よりは狭められたものの、『これで米国一利用者の多い空港に銃が持ち込めることになり、学校では教室への銃持ち込みを認めるかどうかを巡って激しい論争が持ち上がる』(法案反対組織の幹部)と批判している。」
南部ジョージア州といえば、州都がアトランタ。かの「風と共に去りぬ」の舞台である。コカ・コーラ、CNNなどの企業本社所在地としても、犯罪多発地帯としても知られる。デルタ航空本社もここにあり、アトランタ空港は「世界で最も忙しい空港」という異名をとる。全米で最も銃規制が緩やかというフロリダに隣接してもいる。そのジョージア州での「銃どこでも法」の成立。
オバマ来日中だが、「アメリカのようにはなりたくない」と昔から思ってきた。私のイメージに沈潜しているアメリカの一面は、「差別の国」「格差の国」そして「暴力の国」である。「暴力の国アメリカ」を象徴するものが、「銃の社会」「銃の国」としての実態である。至るところに銃がある。いつ発砲されるかの不安から逃れられない。全米での銃所持率は57.7%に上るという。毎年1万人以上が射殺されている。いやしくも文明国、当然に銃規制の進展があるだろうと思っていたが、実はそうなっていない。ジョージアでの「銃どこでも法」の成立は、銃規制に逆行する全米の傾向をものがたっている。
銃規制に反対する思想は、「自衛のための武力は必要」、「自衛手段を備えることは権利」というもの。「『凶器としての銃』に対抗する手段としての護身の銃」を手放すことはできない、との信念である。
敷衍すれば、こうではないか。殺人や傷害、強盗・恐喝・脅迫の手段となる銃(悪い銃)と、身を守る手段としての銃(良い銃)とがある。「銃は命を救う」「住民は家族を守ることができる」「我々の自由を再確認する素晴らしい日」という発言は、良い銃が必要だし、良い銃が社会に充ちることこそが望ましい、という発想である。あるいは、銃が世に満ちれば、悪い銃は使えなくなるに違いない、というあまりに近視眼的な発想。
もちろん、銃に良いも悪いもない。どの銃にも殺傷力があるだけ。銃は本来的に危険な凶器である。使い手次第で、その危険性が現実化して、悪い銃になる。「良い銃こそ、世に満ちよ」という願いで、規制を解かれて世に出される大量の銃のうち、その一部は確実に「悪い銃」として使われる。
また、はたして銃が世に満ちれば悪い銃が使えなくなるだろうか。昨年9月、「銃の所持と殺人の間には、確実な統計的関連性がある」とする研究報告が、米国医師会雑誌に発表されている。「研究は30年間、全米50州を対象に行われたもので、銃の所持率が1%上がるごとに、殺人率が0.9%上がるとされている」という(AFPの記事http://www.afpbb.com/articles/-/2968025?pid=11340935)。
この結論は常識的なものだが、統計数値に支えられて説得力は大きい。この度のジョージアの立法も、確実に殺人率を上げることに貢献するだろう。
「国家権力に武力の独占をさせてはならない」として、人民からの武器剥奪に抵抗する思想に魅力を感じないではない。しかし、その思想の妥当性は役割を終えた過去のものとなった。歴史的には国民が銃を持つ権利が意味をもっていたが、今や国民が武器をもたないで安全に暮らせる社会の実現こそが具体的な目標となるべきだ。治安の攪乱が、身を守るべき銃を必要とする。治安の確立が銃を必要ないものとする。真に身を守る手段は、銃ではなく、いま人に銃を持たせることになる要因としての、格差・貧困・偏見・憎悪の克服をこそ目指すべきであろう。
この議論は、一国における武装自衛主義と非武装平和主義との論争に通じる。歴史は、国民が武器をもたない社会の形成をめざして、ほぼ実現しつつある。次は、各国が武器を持つ必要のない国際社会を目指すべきが当然だろう。国防軍の増強ではなく、各国間の格差・貧困・偏見・憎悪・収奪を克服して、国家間、国民間の平和的な交流の促進が課題となる。
その先頭に日本か立つことによって「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
なお、アメリカの銃規制反対派の拠りどころは、合衆国憲法である。その修正第2条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」というもの。「人民が武器を保有しまた携帯する権利」とは、「良い銃」の保持が憲法価値にまで高められているのだ。とはいえ、この武器保有の権利も、国民の生命の保全や生活の安全などの他の憲法価値と衝突することとなれば、衡量しなければならない。既に、銃保有の自由が「殺人率」を高めて、国民の生命や社会生活の安全に桎梏となっていることが明らかとなっている以上は、銃規制の合憲性は当然と言うべきではないか。
(2014年4月24日)
本日(4月23日)、東京高裁第23民事部(鈴木健太裁判長)は、いわゆる「たちかぜ裁判」での控訴審判決を言い渡し、国に対して7350万円の損害賠償を命じた。
よく知られているとおり、事案の内容は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」に勤務していた1等海士(当時21歳)が2004年10月に自殺したことについて、上職隊員のいじめが原因として、遺族が国といじめの元凶であった隊員に、その責任を問うたものである。
いじめがあったことは一審以来明らかにされていた。一審判決(水野邦夫裁判長)も、いじめの事実は認定して、いじめによって被害者が受けた精神的被害については賠償請求を認容した。が、その額は弁護士費用を含めて440万円に過ぎなかった。いじめと自殺との因果関係を認めなかったからである。
不法行為制度では、違法(故意・過失)行為に起因する全損害の賠償が認容されるわけではなく、相当因果関係が認められる範囲に限定される。相当因果関係を画するのが予見可能性である。本件の場合には、死亡という結果についての損害賠償請求が認容されるためには、いじめと自殺との間に、相当因果関係あることが要求され、いじめの被害者の自殺が「予見可能」であったことの証明が求められる。一審では、予見可能性の認定に至らなかったが、本日の控訴審判決では一転してこれを認めた。そのため、被害者の死亡による財産的・精神的損害の一切について賠償が命じられた。原告側は誇らしげに「完全勝訴」の垂れ幕を掲げた。
横浜地裁の一審判決が、2011年1月26日。控訴審係属期間3年余は最近では珍しい長期審理。統計によれば、東京高裁では民事控訴審事件の80%近くが一回だけの口頭弁論で結審になっている。本件が長引いたのは、特殊な事情による。予見可能性を立証する証拠の存在についての内部告発があったからだ。その内部告発に裁判所が耳を傾けたことが、慎重な審理となり、認容額も一審の440万円から、7350万円に大幅増額された。なによりも、事実が明らかにされ、被害者を自殺に追い込んだ自衛隊の責任が明瞭となったことが遺族にとっては何ものにも代えがたい提訴の成果であったろう。予期せぬこととして、自衛隊の常習的ないじめ体質だけでなく、不祥事の隠蔽体質まで明らかとされた。控訴審判決は、「重要な文書を海自側が違法に隠匿したと認定、このことについて独立して20万円の賠償を認めた」ことが報道されている。
もし、内部告発がなかったとしたら…。おそらくは、早期結審によって控訴棄却判決となり、一審判決が確定していたであろう。勇気ある内部告発が、司法の正義に貢献したのだ。
問題の内部告発情報は、乗組員190人分のアンケートや事情聴取メモである。その中には、生々しいいじめの報告だけでなく、「自殺前夜に、被害者から自殺を示唆された」という聴き取りメモもあった。一審では国側は、そのすべてが破棄されて存在しないとしていたが、実は保管されていたことが内部告発で判明した。この内部告発者は、法務に携わり本件を担当した現役の三等海佐。
朝日の生々しい報道がある。この三佐が直接上司に発言したのは、2011年1月26日。一審判決の日の言い渡し時刻の直前だったという。懐には、ICレコーダーを忍ばせて、海自の幹部の一人である首席法務官の部屋を訪ねた。「説得に失敗したら、人生が破滅する――。覚悟のうえでの『直訴』だった」という。しかし、この説得が聞き入れられることはなかった。
三佐は情報公開を請求するが、海自は「アンケートは破棄」と回答。三佐は、その後の2012年2月遺族側弁護士に事情を打ち明ける。そして同年4月、「海自はアンケートを隠している」と告発する内容の陳述書を東京高裁に提出した。すると、同年6月海自は一転して「アンケートが見つかった」と発表。以後、審理の方向は大きく転換することとなった。
ところが、思いがけないことが起こる。2013年6月、海自から三佐に、懲戒処分手続きの開始を通知する文書が届くのである。三佐は、調査の関連文書のコピーを証拠として自宅に保管していた。海自はこれを規律違反だと主張し、三佐は「正当な目的であり、違反にあたらない」と争っている。今後、海自がこの件をどうするか、予断を許さない。
「公益通報者保護法」の制定が2004年6月、施行は06年4月1日からである。この法律の制定過程の議論では、過剰な期待を抱いたものだ。この法律は、我が国の文化史の画期となるものではないか。組織に埋没した個人の主体性を救い出すきっかけとなるのではないか。圧倒的な存在としての「組織」、その最たるものとしての「国家権力」に対して、個人に闘う武器を与えるものとなるのではないか…。期待したほどの法律はできなかったが、それでもこれは第一歩。これからは内部告発者が、「公益通報者」として保護される時代なのだと期待させるものはあった。あれから10年、個人と組織との力関係の変化は生じていない。
そのような社会において、本件の三佐には、無条件に敬意を表するしかない。ときどき現れるこの三佐のような「正義の人」が、社会の鑑である。一人一人を励ます貴重な存在でもある。私も、ささやかな組織への抵抗を経験して、この人の覚悟のほどがよく分かる。言うは易く行うは難いのだ。社会はこの人に感謝すべきである。表彰すべきが当然で、懲戒処分にするなどとはもってのほか。海自には、よくお考えいただかねばならない。
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散歩をしよう。サクラが終わっても、いたるところ緑。
庭でタケノコを見つけた。丁寧に掘りあげて、茹でて、ありがたく頂戴することにしよう。長さ20センチ、直径5センチほどの小さなもので、汁の実ぐらいにしかならないが。
実はこのタケノコの親は、15年ほど前に、ブロック塀の下をかいくぐって隣から家宅侵入してきた不届き者だ。その都度、これを手打ちにしてきた。その隣にはアパートが建って、元の竹林は消滅したのだが、我が家の日当たりの悪い庭に侵入した分だけが生き残って、細々と命脈を保っている。ひょろりとした3本の「孟宗竹」が、毎年1、2本ほどのタケノコをやっとのことで顔を出す。それを情け容赦なく掘りあげるのである。気がつかない年には、細くスラリとした青竹が立ち上がって、そのまま命を全うすることもある。そんな年は、古竹を切って物干し竿にするのだ。猫の額ほどの庭だが、豪壮な話のタネにはなるので、この竹林は絶やすことなく大切にしようと思う。
さて、こちらは本当の庭園の話。東大本郷の三四郎池では、まわりの木に這い上ったヤマフジが今を盛りと、見事に咲き誇っている。花に絡まれた木が池の上に傾いて、池に映った藤色の美しいこと。きっと、ヤマザクラが終わった関東の里山をヤマフジの薄紫が飾っているのだろうと想像するだけでうっとりする。
東大の構内はいたるところで、大木のイチョウに可愛らしい小さな葉が出てきて賑やかだ。木の下には役目を終えた雄花が、歩道がみえないほどたくさん散り敷いている。トチノキも天狗の団扇のような大きな葉をゆったりと開いている。モミジもヤナギもマンサクもコブシもサンシュユも柔らかな葉を開いている。薄紫の花を枝の先にいっぱいつけた桐の木も空に向かって堂々と華やかだ。ハナミズキも白やピンクの花に飾られて、アピール満点だ。上だけではない。下を見れば、色とりどりのツツジが咲き始めている。郊外や山には行けなくとも、公園や街路の緑を眺めるだけで、気分が爽快になる。時間を見つけて散歩をしよう。
(2014年4月23日)
「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、昨日(4月21日)NHKを訪れて籾井勝人会長の辞任を求め、同会長が4月中に辞任しない場合には、半年間の受信料支払い凍結を視聴者に呼びかける運動をスタートさせることを通告した。
その運動方針の概略が、同会のホームページに掲載されている。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/
受信料支払いの拒否ではなく、支払いの凍結。それも半年間と期間を区切ってのもの。その半年の間に籾井会長が辞任すれば、凍結を解除し遡って未払い分を支払う。仮に、その時期が半年経過後であっても、未払い分の清算を呼び掛けるという。よく練られた優れた運動方針であることを改めて確認して支持を表明したい。
運動として「優れた」方針という意味は3点に集約されよう。まず「運動に道理がある」、次いで「多くの人に参加してもらいやすい」、さらに「要求実現に実効性が高い」ことである。
まず、道理がある。運動目的の道理の存在についてはいまさら言うまでもない。そのポイントは、放送法の立法趣旨がNHKの権力からの独立の確保にあるにもかかわらず、安倍晋三の「お友だち人事」が立法の理念を極端に破壊していることにある。これを是正しようという、運動「目的」の正当性が大前提。そのことは当然として、いま、運動方針の吟味に際して問題とすべきは、運動の「手段」として社会的に是認さるべき道理を具備していること。それあって初めて、多くの運動参加者が自らの行動について正当性の確信をもつことができる。
「視聴者コミュニティ」の代表である醍醐聡さんは、「受信契約は一方的な義務ではない。NHKと視聴者の相互信頼からなる契約だ。籾井氏によって信頼が壊されているなかで、支払い凍結は当然の権利だ」と語っている(本日付赤旗)。まことにもっともな道理ある説明ではないか。NHK側の信頼関係損壊への視聴者の対抗手段として適切であって、「過剰な反応」だの、「権衡を失する」などという言いがかりを許さない。社会的な支持を獲得することに十分な道理をもっている。
なお、道理の上で大切なことは、良心的なNHK職員への配慮がなされていることである。会の名称が「NHKを激励する」との文言を含んでいる。籾井や百田・長谷川を激励する趣旨ではない。権力からの締め付けの中で、ジャーナリストとしての良心を貫こうとしている現場の職員との連携を大切にする立ち場からも、「半年間の支払い凍結」という運動手段は道理がある。
次いで、多くの人に参加してもらいやすいこと。おそらくこれが、再重要のポイントである。「受信料不払い」となれば、まなじりを決した決意が必要と考える人も少なくなかろう。「支払い凍結」であれば、気楽にいける。「半年間だけ」と期限を切っのものであれば、なおのこと運動参加のハードルは低いものとなる。多くの人が参加しやすくなっている。
「NHKに打撃を与える運動に参加するのだから何らかのリスクを覚悟しなければならないのではないか」とご心配の向きに、「大丈夫ですよ。覚悟などする必要はありません。心穏やかに『半年間の支払い凍結を』」と呼び掛けたい。
刑事弾圧のあり得ないことは4月18日の当ブログで、既に詳述したので繰り返さない。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2496
そのブログに、民事的なことにも触れてはいるが、少し補充をしておきたい。
NHK受信料の支払い義務は受信契約締結の効果として生じるのだから、民事上の債務不履行という状態にはなりうる。借金の返済が遅滞している、家賃の支払いが滞っている、キャッシングの決済が未了となっている、などと同じ事態。「滞納になっている」のだ。だから、NHKから民事的な催告があることは当然のこととして予想される。それ以上の強硬手段として、民事訴訟の提起があるかといえば、ないと考えるのが常識的な判断。
NHKの側に立って考えてみよう。
「この件で、何万件も提訴して、訴状を送達して、第1回の口頭弁論期日を決めて、答弁書の提出を受けて、再反論して…、証拠を提出して…、半年の間に結審して、判決を取ることなどまず不可能だ。ましてや、判決に基づく強制執行などあり得ない。だから、訴訟費用と手間暇かけての提訴は、絶対にペイしない。せっかく手間暇かけての裁判の途中で半年経って任意に支払われたら、それで訴訟は終了なのだから。たくさんの人が支払い凍結となれば、膨大な訴訟コストでNHKは経済的な苦境に追い打ちを受けることになる。半年経っても支払わない人にだけ、選択的に提訴を考えるという方針を採った方が賢いやり方だ。」
だから、NHKの提訴は考えにくいが、なにしろ籾井会長を擁するNHKの経営陣である。コストを無視しての提訴が絶対にないとは言えない。万が一には提訴されることもありうるだろう。しかし、提訴されたところで大したことにはならない。貴重な経験と思っていただいて結構なのだ。衛星契約で、せいぜいが1万3000円程度の裁判なのだから。
催告がNHKから届いているかぎりは、慌てることはない。無視していてもよい。内容証明郵便による催告でも同じこと。しかし、裁判所から来た場合には、放っておいてはいけない。おそらくは、簡易裁判所からの督促手続としての「支払い命令」が先行すると思われる。これを放っておくと、確定判決と同じ効果が生じることになるから、異議の申立をすることになる。すると、正式裁判に移行する。1万円程度の裁判。NHKの方が辛いだろう。
仮に、NHKからの提訴があった場合には、多くの視聴者が共同して応訴することになるだろう。その場合には、視聴者側の言い分を堂々と述べることになる。受信契約は双務契約であるから、NHK側が自分の債務を履行していることが大前提でなくてはならない。放送法に定められた公共放送としての責務をきちんと果たしているかを問題としなければならない。籾井会長や、百田・長谷川などの経営委員の、人選や言動、あるいはその放送内容への影響などが裁判の焦点となるものと考えられる。安倍晋三の女性国際戦犯法廷取材番組への介入の事実も再度問題となろう。大裁判といってよい。到底半年で決着がつくはずもない。凍結期間半年が経過すれば、裁判も終了する。
そして、半年間の支払い凍結が、会長の辞任という要求実現に実効性の高い手段であることは、いうまでもない。籾井会長の辞任を勝ち取ることができたら、安倍改憲志向政権に大きな打撃を与えることができる。この運動是非とも成功させたい。NHKの権力からの独立性確保のために、民主主義の大義のために、NHK受信料支払い半年の凍結をお勧めする。
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「人間の品質管理」を連想させる、キリンとライオンの殺処分
トゲのように心に刺さって忘れられない記事がある。「デンマークの動物園 今度はライオン四頭殺処分」という3月26日付け毎日新聞の報道。詳細はつぎのとおり。
2月9日、デンマークのコペンハーゲン動物園が、飼育していた1歳6カ月の健康な雄のキリン「マリウス」を殺して、ライオンの餌にした。それも、子どもを含んだ来園者の目の前で解体し、ライオンの檻に入れて食べさせた。インターネットサイトに載っている写真の、横たわった血だらけのキリンのうつろな目が正視に堪えない。
ほかの動物園や個人からの引き取りの申し出を拒否して、この処分を強行したので全世界から批判が殺到した。動物園側の主張は、「マリウスの遺伝子は繁殖という目的からすれば、平凡すぎた」「キリンの解体は来園者にとって遺伝的多様性を学ぶ機会である」「キリンの肉はもったいないのでライオンの餌にした」というもの。
さらに、園内のキリンが殖えすぎて(8頭)、近親交配を避けるため殺処分しなければならなかったと主張している。繁殖プログラムに参加しているヨーロッパの動物園団体も規約に則っているとして、この殺処分を支持した。果たして公開についても支持したのだろうか。これらの動物園のキリンの先祖は同系統で、マリウスはどこにもらわれていっても、健全な子どもの父親にはなれない。動物園のスペースは限りがあるので、遺伝子的にもっと価値の高いキリンのために場所を空けなければならないので、去勢しても飼うことはできないともいっている。
当然のことながら、動物愛護団体やたくさんの個人からは非難が殺到した。説明に当たった動物園職員はメールや電話で殺人予告を含む脅迫を受けた。解雇を要求する署名は「マリウス」の助命嘆願の4倍を超える11万通も寄せられたという。
話はこれで終わったのではない。その後の2月25日、その同じコペンハーゲン動物園がそのキリンを食べたライオンのうち4頭をやはり殺処分したという。理由は23日新しい遺伝子を入れるために、若い雄ライオンが搬入されてきたためである。年老いた16歳の雄と雌はこの若い雄と争いになるのを避けるため、また、老いた雄ライオンの子どもである2匹の子ライオンは新しく入る若い雄ライオンに殺される運命にあるため、一緒には飼育できないということらしい。理想的な若々しいライオン家族を作るため、4頭を殺して1頭を搬入したということである。気分が悪くなる。たとえ、ぬいぐるみ遊びでもこんなふうに簡単に気持ちの整理はつくものではない。子どもが古いぬいぐるみを、愛着なく平気で捨てて顧みなかったら、親は仰天するだろう。
しかし、どこの動物園でも飼育スペース確保のために余剰動物を殺処分するのは珍しいことではないらしい。ただ、コペンハーゲン動物園のように挑戦的、衝撃的にそれを公開するようなことはしない。動物園の飼育環境は良くなっているので、動物は長寿を全うする。繁殖技術も向上して、動物の数も増える。近親交配を避けるべく、動物園のあいだで動物の移動をするが、それも限界がある。動物園で生まれた子どもを自然に返すことは大変な困難を伴い、なかなかできることではない。とすれば、現代社会に動物園があるかぎり、コペンハーゲン動物園で起こった悲劇は無数に繰り返されることになる。コペンハーゲン動物園は「キリン」や「ライオン」という、目立って美しい生き物を公開殺処分して、動物園の現実をあらわにし、あえて警鐘を鳴らしたのかもしれない。
確かに、狭い檻の中をグルグル歩き回るクマを観るのは痛々しい。父親のシルバーバックが大きな背中で隠そうとしているゴリラの家族を覗くときはプライバシー侵害を恥じる気分になる。不機嫌そうにじろりと見返すハシビロコウの檻の前は「すみません」と言いながら素通りしたくなる。大きな羽をすぼめたオジロワシやエゾフクロウのしょんぼりした姿は見るに堪えない。たぶん、「見物させる動物園」の役割は終えつつあるのだろう。
だからといって、動物園がキリンを公開殺処分して、ライオンに食べさせる情景を見物させていいはずがない。「ブタやウシを殺して食べている人間が何を言うか、偽善者メ」といわれても、やはりこの殺処分には納得がいかない。合理的と情緒的の境界は明確ではない。人によって文化によってその境界は大きく異なる。殺処分はいいが、公開はいけないという人もいるだろう。コペンハーゲン動物園は非難されても、キリンの殺処分と公開に後悔の念はなく、合理的精神に則ってライオンの処分までつき進んだようにみえる。それとも、ひるんだが故にライオンの処分は公開しなかつたのだろうか。
「マリウス」と名前をつけて、慈しんできた生き物に対する惻隠の情というものはないのか。「マリウス」の生命に対する畏敬の念はないのか。公開で殺し、餌にするのは、「マリウス」の尊厳を踏みにじることにならないのか。抵抗できず、抗議もできない弱い生き物を人間の都合で安易に殺してよいはずはない。環境を破壊し、生息域を狭めてきた張本人の人間が「平凡すぎる遺伝子」とか「飼育スペースがない」といって動物を殺すのは傲慢すぎないか。だれにも「劣った遺伝子」を決め、選別する権利はないはずだ。
こんなに怯えた気分になるのは、動物園のキリンの次は「人間の品質管理」という悪夢が忍び寄っているのではという思いが浮かぶからだろうか。
(2014年4月22日)
本日(4月21日)からの3日間が靖国神社の春季例大祭。春秋の例大祭は、靖国神社でもっとも重要な祭事とされる。期間中の主行事が「当日祭」、「この日には、天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます」とのこと。その例大祭に、安倍首相は参拝はあきらめ、内閣総理大臣の肩書きを明記して真榊を奉納したという。真榊料5万円の支出は明らかに違憲だ。
靖国神社の例大祭の起源は、1869(明治2)年9月、兵部省が東京招魂社の祭典を定めた時に遡る。その際には、正月3日(伏見戦争記念日)、5月15日(上野戦争記念日)、5月18日(函館降伏日)、そして9月22日(会津降服日)の4日であった。要するに、例大祭のルーツは戊辰戦役での官軍戦勝の記念日であった。戦没者の慰霊よりは官軍の戦勝を記念するという靖国神社の基本性格をよく表している祭りの日の定め方。賊軍とされた側にとっては不愉快極まりない日程の決め方なのだ。
1879(明治12)年東京招魂社が改称して別格官弊社靖国神社に列格した際に、例大祭日は5月6日と11月6日の年2回と改められた。11月6日は会津降服日の太陽暦への換算の日である。5月6日の方は、その半年の間隔を置いた日。政府と靖国神社の、内戦における官軍戦勝へのこだわりが良く見える。会津の人々にとって、また、奥州羽越列藩同盟に参加した31藩の「敗者」側の人々にとって、靖国は飽くまで勝者の側だけの軍事的宗教施設であった。
その性格が変わるのが、日清・日露の戦役を経て後のこと。1912(大正元)年に、陸・海軍省は靖国神社の例大祭を4月30日(日露戦争勝利後の陸軍大観兵式記念日)と10月23日(同じく海軍大観艦式記念日)に改めた。ここに、軍事施設としての靖国神社は、内戦の軍隊に対応する宗教施設から、侵略戦争の軍隊に対応する施設に様変わりした。
さすがに戦後の宗教法人靖国神社が陸海軍の記念日をそのまま例大祭の日とすることは憚られたものか、現在の春秋の例大祭は、4月21日?23日と10月17日 ?20日となっている。
安倍首相は、その靖国神社春季例大祭に、「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書きを付して、真榊料5万円を奉納し、真榊を献納したという。
本日の共同通信配信記事。
「安倍晋三首相は21日、東京・九段北の靖国神社で同日から始まった春季例大祭に合わせ『内閣総理大臣 安倍晋三』の名で『真榊』と呼ばれる供物を奉納した。昨年末に参拝したばかりである上、23日に来日するオバマ米大統領が日本と中韓両国との関係悪化を懸念していることに配慮し、参拝は見送る方向だ。田村憲久厚生労働相や伊吹文明、山崎正昭衆参両院議長、日本遺族会会長を務める尾辻秀久元厚労相も真榊を納めた。
首相は昨年春と秋の例大祭でも真榊を奉納した。今回も同様の対応を取り、靖国参拝に反対する中韓両国と、自らの支持基盤である保守層の双方に配慮する」
朝日の記事
「安倍晋三首相は21日、靖国神社で始まった春季例大祭に神前に捧げる供え物「真榊」を「内閣総理大臣 安倍晋三」の名前で奉納した。閣僚ではこのほか、田村憲久厚生労働相も真榊を奉納した。
安倍首相は、中韓両国との関係や、日本と近隣諸国の不安定化を懸念する米国に配慮し、23日までの春季例大祭中の参拝は見送る方針。オバマ米大統領の来日を23日に控えていることも影響したとみられる。神社によると、真榊料は5万円で、21日までに納められたという。
菅義偉官房長官は21日午前の記者会見で「首相の私人としての行動に対して政府として見解を述べる事柄ではない。(日米)首脳会談にまったく影響がない」と述べた。
首相は昨年の春、秋の例大祭にも真榊を奉納している。就任から1年たった昨年12月26日には、靖国神社に参拝し、中国や韓国から非難を受けたのを始め、米国からも「失望」を表明され、外交上の問題になっていた。
首相は閣僚の靖国参拝を「自由意思」として容認している。今月12日には新藤義孝総務相、20日には古屋圭司拉致問題相がそれぞれ参拝した。」
いずれの記事も、海外からの批判に配慮して、「正式参拝したいところを我慢して、真榊奉納にとどめた」とのニュアンス。しかし、「正式参拝は問題だが、真榊奉納なら違憲の問題は起きない。海外からの批判も避けることができる」というわけではない。むしろ、公式参拝の違憲性については、最高裁の判例はないが、金銭の奉納については最高裁大法廷判例が明確に禁じているところ、とも言えるのだ。
サカキとは、モッコク科サカキ属の常緑樹。常緑樹には、ヨリシロとして神が宿るという信仰があって、神事に用いられる。「榊」という国字もそこから生まれた。榊立を用いて神前に捧げられる。
本来、真榊とは神前に供えるサカキのこと。靖国神社では、春と秋の例大祭でのみ、真榊の奉納を受けつける。安倍首相は第1次内閣の2007年も、昨年の春秋の例大祭でも真榊を奉納した。
愛媛県知事の靖国神社玉串料奉納を憲法の政教分離原則に違反するとした歴史的な愛媛玉串料違憲訴訟における最高裁大法廷の違憲判決(1997年4月2日)がある。玉串料も真榊料も、宗教団体への宗教的な意味合いを付された金銭の奉納である点では同じだが、玉串料よりは真榊料の方が習俗化から遙かに遠く、宗教的な色彩が濃厚と言わざるを得ない。
ちなみに、玉串料訴訟判決の15人の最高裁裁判官の意見分布は違憲13対合憲2だった。反対にまわった守旧派裁判官の名は覚えておくに値する。三好達と可部恒雄。とりわけ、当時最高裁長官だった三好達。いまは、右翼団体の総帥、「日本会議」の議長である。「最高裁長官」だからといって、超俗の公平無私な人格をイメージしたら大間違い。所詮は、俗の俗、偏頗の極み、右翼の使い勝手のよい人物でしかない。
愛媛玉串料訴訟の事案と、安倍真榊料奉納とを比較してみよう。
寄付者は、愛媛県知事と首相。
寄付を受ける者は、両者とも宗教法人靖国神社。
寄付の名目は、玉串料と真榊料。
寄付金額は、愛媛県知事が9回で合計4万5000円、安倍首相が1回5万円。
「玉串」と「真榊」の何たるかについての穿鑿は大きな意味をもたない。「賽銭」「献金」「布施」「供物料」「初穂料」「神饌料」「幣帛料」‥、何と名付けようとも。宗教的な意義付けをした金銭の授受があれば、愛媛玉串料訴訟の目的効果基準の法理が妥当する。
残る問題は、愛媛の事件では、玉串料は露骨に公費からの支出であった。これに対して、安倍首相や政府は、「真榊料の支出は私費から」「だから私的参拝」と言っているそうだ。しかし、麗々しく「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書きを付した真榊がその存在を誇示している。
純粋に私的な参拝というためのメルクマールとしては、三木内閣の靖国神社私的参拝4要件がある。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。仮にポケットマネーからの真榊料5万円の支出であったとしても、明らかに、他の3要件ではアウトだ。
政教分離原則が求めているものは、政権と靖国神社との象徴的紐帯の切断である。靖国神社という特定の宗教団体が国から特別の支援を受けているという外観を作出してはならないのだ。靖国は国を利用してはならないし、政権も靖国神社信仰を利用してはならない。相寄る衝動をもつ両者だが、真榊料奉納を仲介とした結合を許してはならない。
折も折、本日東京地裁に273人の原告が安倍靖国参拝違憲訴訟の提訴をした。昨年12月の安倍首相の靖国神社参拝という違憲行為によって、それぞれの宗教的人格権や平和的生存権が侵害されたという訴え。1人当たり1万円の損害賠償と今後の参拝差し止めを求める内容。同種裁判の提起は4月11日の大阪(原告数546名)訴訟の提訴に続くもの。
安倍憲法破壊内閣に、靖国参拝違憲の判決を突きつけてやりたいものである。そして、同様の法理は参拝だけではなく、真榊料の奉納にも妥当するのだ。
(2014年4月21日)