(2022年10月31日)
本日、東京新聞が「『君が代』強制 処分避け対話で解決を」という社説を掲載した。人権・民主主義を大切に思う者として何ともありがたい。この問題での訴訟を担当している立場からはなおさらである。東京新聞には、深甚の敬意を表したい。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/211116?rct=editorial
この社説の趣旨は、冒頭に述べられている。『学校現場で教職員に「君が代」の起立斉唱を強制している問題を巡り、国際機関が日本政府に強制を避けるよう勧告を重ねている。政府は勧告を放置しているが、強制は教員らの内心の自由を侵す。政府は勧告を受け入れ、処分ではなく教員団体との対話によって問題解決を図るべきだ』という簡潔で力強い宣言。
「君が代・強制」には、重層的にいくつもの問題が伏在している。思想・良心・信教の自由の侵害、公権力によるナショナリズム煽動の罪、君が代に象徴される戦前的価値観の押し付け、国家の存立が個人の尊厳に優越するという全体主義の肯定、教育の自由に対する無理解、教育行政の名による教育への積極的権力介入の放任…。憲法論上の最重要問題として、《国家が個人に対して、「国家に敬意を表明せよ」との強制をなしうるか》が問われている。
そして、新たな状況の中で東京新聞社説は、「《我が国が締結した条約》や《確立された国際法規》の順守義務」履行の問題として、君が代強制に疑問を呈した。
社説の言う「(日本政府に強制を避けるよう勧告した)国際機関」とは、国連にほかならない。国連のしかるべき専門機関が、日本が締約した条約に基づいて、「愛国的式典の規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容であるべきだ」と勧告したのだ。「学校現場での「君が代」強制は好ましくない」「強制を避けて対話で解決せよ」とも明言している。これが、国際的なスタンダードなのだ。
我が国は、憲法において国際協調主義を宣言した。国際条約を遵守すべきことも、国連勧告を尊重すべきも、自らに課した当然の責務である。その姿勢を堅持してこそ国際社会の一員として胸を張ることができる。国連からのこの勧告を、「勧告に過ぎないから」と無視することは許されない。
この問題に関わる当事者も、労働組合も市民も真剣である。けっして、問題をうやむやのうちに葬ることはしない。政府が、そして文科省と東京都教育委員会・大阪府教育委員会が、この問題を解決するまではけっして引き下がることはない。政府が真摯な対応をしない限り、セアートの勧告は引き続きおこなわれることになる。
この社説が言うとおり、「強制の排除に踏み出すべき」なのだ。
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学校現場で教職員に「君が代」の起立斉唱を強制している問題を巡り、国際機関が日本政府に強制を避けるよう勧告を重ねている。政府は勧告を放置しているが、強制は教員らの内心の自由を侵す。政府は勧告を受け入れ、処分ではなく教員団体との対話によって問題解決を図るべきだ。
勧告したのは国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同専門委員会「CEART(セアート)」。
東京都や大阪府などの学校現場では、入学式や卒業式の際に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」ことが求められ、従わない教員らが懲戒処分を受けている。
2014年、日本の教職員組合が「公権力によって敬愛行為を強制され、思想良心の自由を侵害されている」と訴えたことを受け、セアートが審査を実施。一九年と今年6月の二度、日本政府に勧告が行われた。
根拠は1966年、日本も参加したユネスコの会議が採択した「教員の地位に関する勧告」。教員の責任や地位などの原則を定めた国際基準で、日本の「君が代」強制は基準に反すると判断した。
君が代は、日本の侵略戦争の象徴だと忌避し、不起立によって抵抗を示す人はいる。
政府は99年の国旗国歌法制定時に「国民に新たな義務を課すものではない」と説明し、強制を否定した。しかし東京では、石原慎太郎都政時代の2003年に出た通達に基づき不起立の教員を懲戒処分にし、大阪でも11年に設けた条例で起立斉唱を義務化した。
処分を受けた教員は再発防止研修が課され、定年退職後の再雇用希望も拒まれた。勧告はこれら懲罰的行政を戒め、起立しないことは「混乱を生まない市民的自由の範囲」との見解を示している。
勧告は、公務員の教員には職務命令に従う義務があるとする文部科学省の主張も退け「愛国的式典の規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容であるべきだ」と組合との合議による規則作成も求めた。
日本国憲法は締結した条約や確立された国際法規の順守義務を定める。2度目の勧告は、政府が放置している英文勧告文の和訳を組合と協力して行うよう求めている。言葉の意味を確認する共同作業を通じて見解の相違を埋め、強制の排除に踏み出すべきだ。
(2022年10月30日)
文明とは、権力統御の達成度をいう。野蛮とは、統御されない権力が猛威を振るう時代状況の別名である。文明は、権力の横暴を防止して人権を擁護するために、権力統御の制度を整えてきた。法の支配、立憲主義、そして権力の分立、司法の独立…等々。
人権が、最も厳しく権力とせめぎ合うのは、国家が刑罰権を発動する局面においてのことである。権力は、国民を逮捕し勾留し起訴し刑罰を科すことができる。場合によっては、生命さえ奪う。その手続は厳格に抑制的に定められなければならない。そのようなハンディを権力に課すことで、脆弱な人権はかろうじて守られる。適正手続の保障、弁護権の確立、黙秘権、裁判の公開、推定無罪の原則…、等々が文明社会の基本ルールである。文明は、このような制度を整え適切に運用して権力の暴走を抑制する。人権という究極の価値を守ろうとしてのことである。
我が国の刑事司法制度やその運用が、十分に成熟した文明の域に達しているわけではない。「人質司法」、「調書裁判」と批判もされ揶揄もされる実態を嘆かざるを得ない。しかし、中国刑事司法と比較する限りにおいては、格段に「文明的」であると評し得よう。我が国の司法制度をあのようにしてはならないという反面教師として、中国の刑事司法をよく知ることが有益である。
野蛮ないしは非文明国家の反人権的刑事司法制度とその運用による危険の典型を中国に見ることができるが、このほど、その渦中にあって苛酷な実体験をした日本人の詳細な報告が話題となっている。
毎日新聞が、その当事者を取材して、本日まで3日連続の報告記事を掲載した。「邦人収監」というタイトルのルポ。意義のある貴重な記録である。
上 北京空港、白昼の拘束 高官との雑談「スパイ容疑」
https://mainichi.jp/articles/20221028/ddm/007/030/095000c
中 友好の現場まで監視 取調官「中国研究は不要」
https://mainichi.jp/articles/20221029/ddm/007/030/090000c
下 繰り返される「洗脳」 共産党礼賛の歌唱、歩行訓練も
https://mainichi.jp/articles/20221030/ddm/007/030/111000c
ルポの対象となったのは、鈴木英司氏。「日中青年交流協会」という団体の理事長という立場の方だという。同氏は中国をたびたび訪れ植林活動に取り組み、中国側から表彰されたこともあり、共産党の対外交流部門、中央対外連絡部とも交流していたという。
その彼が「スパイ活動」の嫌疑で拘束され「収監」されて苛酷な取り調べで自白を強要されて、起訴された。形式だけの裁判で有罪とされ、懲役6年の実刑判決を受けて収監された。今月11日刑期を終えて出所し日本に帰国している。彼が語る詳細で貴重な体験は、戦慄すべき内容である。
時系列を整理すると、概略以下のようである。氏は、「居住監視」という名目の苛酷な監禁生活を7か月間強いられている。24時間、6時間交替の二人の見張り役から同室で監視されるという苛酷な状況。カーテンは閉ざされ、太陽光を見ることが許されたのは、この7か月の間に、15分間だけだったという。正式の逮捕と起訴は、この監禁のあとに行われている。
2016年7月15日 身柄拘束・「居住監視」での苛酷な取り調べ
2017年2月16日 逮捕手続
2017年5月 起訴
2017年7月 公判開始(非公開)
2019年5月 一審判決・懲役6年の実刑
2020年 控訴審判決・懲役6年の実刑確定 下獄
2022年10月11日 出所、帰国
以下、幾つかの苛酷な人権侵害の実態を抜き書きする。
「居住監視」という監禁の苛酷さ
氏は、帰国直前、北京空港近くで屈強な男6名に取り押さえられ、目隠しをされたまま某所に強制連行される。
そこは、「内装は古びたビジネスホテルのよう。洗面所、トイレ、シャワーがある。部屋の四方で監視カメラがレンズを光らせている。
弁護人を依頼することは禁じられた。日本大使館に連絡を取るよう再三にわたり要請し、鈴木氏の記憶では7月27日になってようやく大使館員が訪ねてきた。だが、用意された面会室に向かうと、例の取調室の3人組がいるではないか。映像を撮影され、鈴木氏が拘束された容疑について少しでも触れると注意された。大使館員の話では、現在の身柄拘束は「居住監視」と呼ばれる中国の法に基づいた手続きだという。実態は監禁だ。大使館員はこう告げた。「長期戦になります」
取り調べは続いた。調べが終わっても、本は読めず、テレビもない。紙やペンの使用も禁止。話し相手はおらず、食事とシャワーの時間以外は暗闇でただ、じっと座っているだけ。頭がおかしくなりそうだった。拘束された日にうっとうしいくらいだった太陽が、ひたすら恋しい。一度でいいから見たい。拘束から約1カ月たったある日、その思いを老師(取調官の中心人物)に伝えると、「協議するから待て」と言われた。
翌朝、老師が「15分だけならいい」と許可した。窓から約1メートル離れた場所に、椅子がぽつんと置かれていた。座ると太陽が視界に入った。「これが太陽かあ」。涙が出てきた。もっと近くで見たい。窓際に近寄ろうとすると、「ダメだ」と叱られた。窓の近くからは建物の周囲が見えるからだろう。すべてが秘密に包まれた場所だった。「終わり」。15分後、男の無情な声が廊下に響いた。
監禁は長期にわたり続いた。室内にカレンダーや時計はなく、ペンや紙の使用も許可されなかったため日記をつけることもできない。だんだんと今日の日付さえ分からなくなってきた。室内は冷暖房がきいているため、季節を感じる機会もない。
抵抗しきれず署名
新たな建物の地下にある取調室に入れられると、前日に取り調べをした制服の男とたばこの女がいた。スパイ容疑で正式に逮捕され、この日が17年2月16日だと知らされた。還暦の誕生日は既に数日前に過ぎていた。
同室者はおおむね2、3人いた。久々の話し相手に心がおどった。ありがたいことに、窓にカーテンはかかっていない。空には冬の太陽が雲の隙間(すきま)から遠慮がちに顔をのぞかせていた。半年前に15分だけ太陽を見せてもらって以来の「再会」だ。
スパイ容疑を認める内容の供述調書を見せられ、制服の男にこう要求された。「署名しなさい。拒否してはならない」。「基本的な人権もないのか」と抵抗したが無駄だった。しぶしぶ署名した。鈴木氏は17年5月、起訴された。
弁護をしない弁護人
1審の公判は17年8月に始まった。鈴木氏は無罪を主張したが、公選弁護人は「初犯で重い事件ではないので軽い刑にしてほしい」と述べた以外、ほとんど何もしてくれない。同室だった最高裁の元判事はこう言った。「中国の弁護士なんて皆、そんなもんだ」
私選の弁護人を雇うことも考えたが、40万元(約820万円)を支払っても意味が無かった人がいるとの話を聞き、あきらめた。証人申請はすべて却下され、裁判はすべて非公開。19年5月に1審で懲役6年の実刑判決を言い渡された。
中国は2審制だ。鈴木氏は上訴したが20年11月、懲役6年の実刑が確定した。判決は、鈴木氏が「中国の国家の安全に危害をもたらした」と指摘した。
刑務所では、洗脳教育
鈴木氏は日本で言う刑務所に当たる「北京市第2監獄」に収容された。中には外国人用の施設があった。スパイ罪だけでなく、他の事件の囚人も収監されている。まず始まったのが「新人教育」だ。
♪没有共産党就没有新中国(共産党がなければ新しい中国はない) 共産党辛労為民族(共産党は民族のため懸命に働く)
共産党の革命歌をいやというほど歌わされる。中国語が読めない人にはアルファベットで記した歌詞が配られた。
約5週間の新人教育が終わった後も「洗脳」は続いた。毎日、中国国営中央テレビが制作する英語ニュースを見せられる。共産党史、日中戦争、朝鮮戦争などを描いた番組や映画では、共産党がいかに中国人民を救ったかが描かれていた。
10月11日、出所の日が来た。早朝、身支度を整え、北京市第2監獄に別れを告げた。当局が用意した車で空港まで送られ、6年3カ月ぶりに北京を離れた。
成田空港に着き、電車を乗り継いで住み慣れた実家までたどり着いた。拘束前は96キロあった体重。量ると、68キロまで落ちていた。
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この貴重な記録。剥き出しの権力とはいかなるものであるかを教えるだけではない。勾留期間の制限、弁護人選任権、裁判の公開、裁判官の独立、調書裁判の排除…等々の手続の重要性を噛みしめなければならない。
(2022年10月29日)
東京都総務局に人権部がある。結構なことだ。この人権部が、東京都人権プラザという施設を開設している。運営主体は公益財団法人東京都人権啓発センター。常勤役員1人、常勤職員数18人(うち都派遣7人)という構成。
このセンターのホームページを開くと、立派な理事長挨拶が飛び込んでくる。
「21世紀は、「人権の世紀」といわれています。1948年の国連総会において「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と謳われた「世界人権宣言」が採択されて以来、わが国も、人権が尊重される社会の実現を目指して、さまざまな取組を行ってきました。
一方、私たちが暮らす社会を見渡すと、残念ながら、今なお様々な人権侵害が生じています。…差別やいじめ、インターネットを介した匿名型の誹謗中傷など、これまで経験したことのない新たな問題も生じており、差別や偏見を解消する取組が、ますます重要になってきています。…「人権尊重都市・東京」の実現が喫緊、かつ、重要な課題となっています。
弊財団は、東京都の公益法人として、「個人の尊重」と「法の下の平等」の保障という観点に立脚し、人権に関する様々な課題を看過することなくしっかりと見据え、差別や偏見のない明るい社会の実現に向けて、役職員一丸となって取り組んで参ります。」
この立派な理念にもとずく東京都の人権行政が、いま大きな批判を浴びている。「歴史修正主義・レイシズム・検閲」と並べたてられた批判。市民からのこんな怒りのメールが目に痛い。
「よりによって都の人権部が検閲を行ない、朝鮮人虐殺の隠蔽に加担するなんて言語道断です。「人権」を理解しない「人権部」って何ですか? 関係者は処分されるべきです」
各紙がこう報じている。
「朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映、都が不許可に 関係者『検閲だ』」(毎日)
「朝鮮人虐殺言及映像、都職員『懸念』メール 都『稚拙だった』と釈明」(朝日)
「東京都が朝鮮人虐殺題材の映像作品を上映禁止…作者『検閲だ』と批判 都職員が小池知事に忖度?」(東京新聞)
東京都設置の「東京都人権プラザ」での事件である。開催中の企画展で、関東大震災で起きた朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映が不許可とされた。この作品を作った美術家の飯山由貴が昨日(10月28日)記者会見を開いて明らかにし、「都による検閲が行われた。悪質で重大な問題だ」と批判した。
この企画展は「あなたの本当の家を探しにいく」というタイトルで、8月末?11月末の予定で開催。上映中止となった映像は2021年の制作の「In?Mates」という表題。26分程度のフィルム。1930〜40年に都内の精神科病院に入院していた朝鮮人2人の診療記録を基に、ラッパーで詩人の在日韓国人FUNIさんが当時の彼らと今の在日韓国人が抱える葛藤や苦難を表現。在日朝鮮人の歴史を専門とする外村大・東京大教授から「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」と説明を受ける場面があるという。
都内で会見した飯山さんによると、11月末までの会期中に映像の上映とトークイベントを計画。だが6月、都人権部からプラザを運営する都人権啓発センターに、上映とイベントを禁じる通知があった。
人権プラザの運営は、都人権部からの指導で行われているが、飯山さんは、入手した人権部からセンターに送られた内部メールの内容を記者会見で公表した。当該メールは、《関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼式典に、小池百合子都知事が毎年追悼文を送っていないことを挙げ、「都知事がこうした立場をとっているにもかかわらず、朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と指摘していた》という。都は、このメールの存在と内容の真実性は認めている。
飯山さんは「在日コリアンへの差別に基づく検閲があったと思う。判断には小池都知事の姿勢が大きく影響しているのでは」と語った。今後、こうした事態が繰り返されないように署名活動を行い、知事宛てに要望書を提出するという。
都人権部の担当者はこのメールの存在と内容を事実と認めたうえで、「取りやめの理由は『障害者と人権』という企画の趣旨から外れているため。企画展はセンターが主催しており、スペースを貸し出して表現者が自由に表現する場ではない」と説明した。
さて、問題は元兇小池百合子の姿勢である。「28日の定例記者会見で、この問題について問われ、『(企画展は)精神障害者の人権がテーマだった。その趣旨に合わないということで(都人権部が)上映しない判断に至ったと聞いている』と説明した。」と報じられている。が、これはおかしい。メチャメチャにおかしい。
なによりも、他人事のごとき語り口がおかしい。「と聞いている」ではなく、自分の判断を語らねばならない。本来であれば、「あたかも、担当者が知事の意向を忖度して上映不許可の判断に至ったごとくに誤解を与えたことをお詫びします。全ての人の人権尊重の立場から、上映になんの問題もありません」と言えば、私も少しは見直したのに。
小池発言の内容もおかしい。「精神障害者の人権がテーマだったから、この映像はふさわしくない」と言うのはおかしい。どの精神障害者も、その属性・その環境にそれぞれの固有の問題を抱えている。女性の精神障害者には、女性特有の精神的な悩みがある。女性の社会的地位の問題を捨象しての「精神障害者の人権」を語ることはできない。労働者の精神障害罹患者には特有の労働環境問題がある。労働環境を捨象しては「精神障害者の人権」を論じがたい。当たり前のことだ。本件の映像は、「戦前の精神科病院に入院していた朝鮮人患者の境遇や苦しみを描き、関東大震災時の朝鮮人の虐殺にも触れた」ものである。「精神障害者の人権」を語るために、これ以上ないテーマではないか。
上映不許可は、小池に深く根差している、歴史修正主義とレイシズム、そして表現の自由に対する尊重の姿勢の欠如がもたらしたものと考えざるを得ない。
歴史修正主義とは、日本の広範な民衆が恥ずべき残虐行為を繰り広げた歴史的事実を認めたくないということである。関東大震災直後に、軍や在郷軍人や警察の煽動に乗せられて、自警団を組織した普通の日本人が、多数の朝鮮人や中国人を残酷になぶり殺したのが史実である。他の右翼と同様、小池もこの史実を認めたくないのだ。
その歴史修正主義の根底には、いわれなき他民族に対する差別意識と、何の根拠もない自民族についての優越意識がある。このレイシズムが、関東大震災後の朝鮮人虐殺犠牲者に対する追悼式への追悼文拒否となっている。知事の追悼文は、1974年の第1回追悼式以来の慣例となっていた。あの極右政治家・石原慎太郎ですら、毎回の追悼文を欠かさなかったのだ。それを、取りやめたのが小池百合子である。
もう一点、小池は、「関東大震災後の朝鮮人虐殺の認識については「東京で起こった大きな災害と、それに続くさまざまな事情で不幸にも亡くなられた方の例がある。全ての方々に対して哀悼の意を表するということで私自身は対応してきた」と述べている。これもおかしい。
自然災害の犠牲者と虐殺による犠牲者とを意図的に同列に置くことで、虐殺の史実を目立たぬようにし、何とか忘れさせよう、歴史から葬ろうというのが、小池の魂胆なのだ。これを受け容れてはならない、だまされてはならない。
(2022年10月28日)
昨日、統一教会による2度目のスラップ。批判の言論を封じ込めようという2件の名誉毀損損害賠償請求事件の提訴である。
もっとも、スラップの定義は明確には定まっていない。ここでは、「自分に対する批判の言論を封殺する目的での民事訴訟の提起」という意味で使いたい。私は、まだ各訴状に目を通していない。被告側抗弁の立証手段についても知る機会を得ていない。だから軽々に判決の帰趨について断定的な意見を述べることはできない。それでも、各提訴は、侵害された自らの権利の救済よりは、前回3件の提訴と一体となって、統一教会への批判の言論を萎縮させることを主たる目的とした提訴であると推認させるに十分である。
前回のスラップは先月29日、3件での合計請求額は6600万円だった。これについては、提訴翌日の下記当ブログを参照いただきたい。
「統一教会は組織防衛のためのスラップに踏み切った」
https://article9.jp/wordpress/?p=20057 (2022年9月30日)
今回提訴2件の各請求額は、2200万円(対有田芳生事件)と1100万円(対紀藤正樹事件)。これで、全5件の合計額は9900万円となった。
それぞれの時代にスラップの著名常習者が現れる。かつてはサラ金業界のトップ・武富士だった。武富士ベッタリの弁護士が訴訟代理人となって典型的なスラップを次々と提訴して、みっともない敗訴を重ねた。このときスラップの標的にされたのは、正義感に溢れた記者であり、消費者問題をライフワークとする弁護士であり、「週刊金曜日」であり「同時代社」であった。武富士は、懸命に批判をかわそうとしてスラップという戦術をとって、却って墓穴を掘った。まだ、スラップという用語が日本に定着していなかったころのことである。
武富士に次いで、スラップ企業として著名になったのがDHCである。DHC・吉田嘉明もスラップの常習者となった。2014年4月発覚の「渡辺喜美への8億円政治資金貸付事件」批判者に対するスラップだけで10件。その合計請求金額は、なんと7億8000万円である。DHCスラップに較べれば、統一教会スラップの規模はまだ小さいと言えなくもない。
なお、私もDHCスラップの被告とされた一人である。私に対する請求額は6000万円だった。
武富士も、DHC・吉田嘉明も、そして統一教会も、社会的な指弾を受ける重大な問題を引き起こした。厳しい批判と非難を受ける立場となって、その防衛ないしは反撃の手段としてスラップを濫発したのだ。
昨日統一教会が、いずれも東京地裁提訴した2件の訴えの内容は、報道の限りで以下のとおりである。
(1) 被告:有田芳生・日本テレビ
請求金額:2200万円
名誉毀損文言:「霊感商法をやってきた反社会的集団というのは警察庁も認めている」との番組での発言
発言の機会:8月19日放送の番組「スッキリ」
(2) 被告:紀藤正樹・TBS
請求金額:1100万円
名誉毀損文言:「親が子どもを脱会させたいために暴力団に頼んだという事件もあった。暴力団は親からもらったお金を統一教会に渡している」との発言
発言の機会:9月9日の番組「生島ヒロシのおはよう一直線」
この提訴について、有田は「取材に基づき反社会的であることは確信している」「教団によるスラップ訴訟には断固として闘っていく」、紀藤は「言論を萎縮させることを狙った訴訟で、許しがたい。今後訴訟の中で真実を明らかにしていく」とのコメントを出している。日本テレビ・TBSは、いずれも「訴状を確認した上で今後の対応を検討する」としている。
今後訴訟は、それぞれの名誉毀損文言の主要な部分での真実性、あるいは発言者が真実と信じたことの相当性の有無をめぐって進行することになる。
なお、こんな報道が目にはいった。
「訴訟については「いくらでも証拠は出せるので負けるわけない」と自信を持つ有田氏だが、『萎縮効果はあります。私や紀藤氏を出演させると訴えられるとなると、テレビは萎縮します』と指摘した」「そういう効果を狙っているのだろう。旧統一教会の顧問弁護士・福本修也氏は『第3弾、第4弾も検討中だ』と意気込んでいる。」(東スポWeb)
これが、スラップの萎縮効果である。被告となったメディアだけでなく、その周辺メディアにも訴訟リスクを意識させて、言論の自由の自主規制を余儀なくさせる。報道の自由の旗を高く掲げるジャーナリズムには、スラップに萎縮することなく国民の知る権利を擁護される姿勢を堅持されるよう期待したい。
(2022年10月27日)
天気晴朗、風は穏やかな散歩日和である。この時期の散歩では、例年湯島天神に足を運んで菊まつりの準備の様子を眺める。境内には、幾旒もの「関東第一湯島天神大菊花展」の幟。ほう、「関東第一」である。明治神宮より、新宿御苑よりこっちが上だという心意気。天皇家何するものぞ、という天神のプライドであろうか。
菊まつりは11月1日から。今、菊が運び込まれて、丁寧に飾り付けの作業が進行している。コロナ小康だからであろうか。菊に興味があろうとも思われぬ修学旅行と思しき子どもたちで賑わっている。セーラー服の女子中学生の声が耳にはいる。
「ねえ、こんなところでの結婚式もいいんじゃない」
「えー。わたし絶対にイヤだぁ」
神式結婚式派も拒絶派も、学業成就を祈願し、200円の恋みくじを引いていた。子どもたちの多くは、学業成就・合格祈願グッズを買っている。合格お守りやら、お札やら、絵馬やら、鉛筆やら。大人向きには、合格祈願の祈祷である。祈祷料は5千円・1万円・2万円・3万円・5万円のランクが表示されている。5千円に較べて1万円の祈祷は倍の効果があり、5万円出せば10倍の合格可能性が見込まれるに違いない。会社には10万円の祈祷料も。宗教活動であるような、経済活動であるような、そしてまた悪徳商法でもあるような。
そのことはともかく、この神社で祀られている「天神」は、王権への反逆神である。菅原道真の怨霊は、その怒りで天皇を殺している。民衆は、天皇を呪い殺した天神を崇拝した。これは、興味深い。
右大臣菅原道真は藤原時平らの陰謀によって、謀反の疑いありとされてその地位を追われ大宰府へ流される。左遷された道真は、失意と憤怒のうちにこの地で没する。彼の死後、その怨霊が、陰謀の加担者を次々に襲い殺していくが、興味深いのは最高責任者である天皇(醍醐)を免責しないことである。
道真の死後、疫病がはやり、日照りが続き、醍醐天皇の皇子が相次いで病死し、藤原菅根、藤原時平、右大臣源光など陰謀の首謀者が死ぬが、怨霊の憤りは鎮まらない。ついに、清涼殿への落雷で多くの死傷者を出すという大事件が起こる。国宝・「北野天満宮縁起」にはこう書かれている。
延長八年六月廿六日に、清涼殿の坤(ひつじさる)のはしらの上に霹靂(落雷)の火事あり。(略)これ則(すなわち)、天満天神の十六万八千眷属(けんぞく)の中、第三使者火雷火気毒王のしわざなり。其の日、毒気はじめて延喜聖主(醍醐天皇)の御身のうちに入り…。
延長8(930)年6月26日、皇居内の清涼殿に雷が落ちて火事となった。何人かの近習が火焔に取り巻かれ悶えながら息絶えた。これは、道真の怨霊である「天満天神」の多くの手下の一人である「火雷火気毒王」の仕業である。この日、毒王の毒気がはじめて醍醐天皇の体内に入り、… 醍醐天皇はこの毒気がもとで9月29日に亡くなったという。
道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、993(正暦4)年には贈正一位左大臣、さらには太政大臣を追贈している。
道真だけではない。讒訴で自死を余儀なくされた早良親王(死後「崇道天皇」を追号)も、自らを「新皇」と称した平将門も、そして配流地讃岐で憤死したとされる崇徳上皇も、怒りのパワー満載の怨霊となった。怨霊の怨みの矛先は、遠慮なく天皇にも向けられたのだ。だからこそ、天皇はこれらの怨霊を手厚く祀らなければならなかった。
靖国に祀られている護国の神々も、実は怒りに満ちた怨霊なのだ。臣民を戦場に駆りだし、命を投げ出すよう命じておきながら、自らはぬくぬくと生き延びた天皇(裕仁、そして睦仁も)に対する、戦没者の憤りは未来永劫鎮まりようもない。天皇の側としては、怒れる戦没者の魂を神と祀る以外にはないのだ。醍醐天皇の後裔が、道真の怨霊に対する恐怖から、これを神として祀ったように。
(2022年10月26日)
東京地裁令和3年(ワ)第15257・24143号NHK文書開示等請求事件
原告ら代理人弁護士澤藤大河
請求の縮減
これまでの開示請求文書
(1) 2018年4月24日に放送された「クローズアップ現代+」を巡ってNHK経営委員会でなされた議論の内容(上田良一会長に対して厳重注意をするに至った議論を含む)がわかる一切の記録・資料
(2) 「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」が提出した答申第797号、第798号、第814号、第815号、第816号を受けて、NHK経営委員会が行った当該議事録等の開示を巡る議論の内容がわかる一切の記録・資料
縮減後の請求の趣旨
被告日本放送協会は原告らに対し、別紙開示請求文書目録記載の各文書を、いずれも正確に複写(電磁的記録については複製)して交付する方法で開示せよ
開示請求文書目録
1.放送法41条及び経営委員会議事運営規則第5条に基づいて作成された、下記 各経営委員会議事録(「上田良一会長」に対する厳重注意に関する議事における各発言者ならびに発言内容が明記されているもの)
?「第1315回経営委員会議事録」(2018年10月 9日開催)
?「第1316回経営委員会議事録」(2018年10月23日開催)
?「第1317回経営委員会議事録」(2018年11月13日開催)
2.下記各経営委員会議事録作成のために、各議事内容を録音または録画した電磁的記録。
?「第1315回経営委員会議事録」(2018年10月 9日開催)
?「第1316回経営委員会議事録」(2018年10月23日開催)
?「第1317回経営委員会議事録」(2018年11月13日開催)
請求の趣旨の縮減の理由
請求の趣旨第1項の被告NHKに対する開示請求文書の範囲の減縮であって、第2項および3項については変更はない。
本件提訴後、被告NHKは、請求の趣旨第1項に特定した文書の多くを原告らに開示し、原告らはこれを受領した。残る未開示文書についてのみ、判決での開示を求める趣旨を明確にするため、本申立をする。
原告第7準備書面の概要
債権侵害の不法行為
?被侵害利益
?加害行為
?故意過失
?損害
?(因果関係)
被侵害利益
? 原告らの「権利または法律上保護される利益」が被告森下によって侵害された
? 侵害されたのは、「各原告の被告NHKに対する本件各文書開示請求権」であり、憲法上の知る権利を実質的な内容とする重要な権利
加害行為について
被告森下は、被告NHKに明示的に指示する態様で、各原告がNHKに対して有する本件各文書開示請求権の行使を妨害した。
加害行為にはあたらないが・・・
被告森下は、放送法32条2項に違反し「番組編成権」を蹂躙した。また、放送法41条に違反し、経営委員会議事録も作成しない。被告森下の明らかな違法行為は、原告との関係では、被告森下の加害行為の動機や態様の悪質性を証明する間接事実である。これらの悪質性は、原告の慰謝料額を増大させる事由である。
故意・過失
権利侵害行為は、被告森下の明示的な指示により行われた故意不法行為である。
少なくとも、被告森下において遵守すべき放送法やその下位規則に敢えて違反していることからも、重過失あることは明らかである。
損害
原告らの損害は二つ。
1.精神的損害
原告らはいずれも、巨大公共放送機関であるNHKの運営のあり方を、我が国の民主主義の消長に関わる問題として重大な関心を寄せてきた。本件経営委員会議事録は、NHKの存在意義にも関わる重要文書。
一万円を下回ることはない。
2.弁護士費用
原告らは提訴を余儀なくされ、訴訟追行のための弁護士費用を負担した。その額が一万円を下回ることはない。
被告森下の加害行為
? 被告NHKに対して、その影響力を行使して、作成済みである本件議事録およびその録音データを開示させないように働きかけた。
? 本件各文書は、被告森下において強く隠蔽を望む内容を含んでいる
? 放送法第3条で保証されている放送の自由を侵害した。
? 同法32条2項で明示的に禁止されているにもかかわらず、経営委員として、個別の放送番組の編集について、介入した。
被告森下の加害行為の立証に関して
?被告森下の具体的な行為については、完全に被告の領域での事実なので、
原告には知る術がない
?だからこそ、被告森下の尋問が必要である。
文書の存在について
? 原告の開示請求対象文書は、3回の経営委員会議事録とその録音データに絞られた。
? 仮にも国会から選任された被告森下が、放送法に明確に違反して議事録を作らないなどあり得ないこと。
? 録音データについても、消去した日も、消去した人も、具体的な作業内容も示すことができない→当然存在するはず。
しかし、仮に議事録もなく、データも消去されていた場合
? 原告は、議事録もデータも存在しているが、開示されていないと考えている。
? 仮に、証拠調べの結果、議事録が作成されておらず、データも消去されていた可能性が高い場合には、新たな不法行為を主張する予定である。
? その場合、「被告森下において、議事録を作成しないことで、各原告の文書開示請求権を妨害したこと」「被告森下が録音データを削除して各原告の文書開示請求権を妨害したこと」を不法行為として追加する。
文書等が存在しない場合の予定予備的主張
? 「被告森下において、議事録を作成しないことで、各原告の文書開示請求権を侵害したこと」
? 「被告森下が録音データを削除して、各原告の文書開示請求権を妨害したこと」
? 被告森下は、議事録をつくらないことで、原告らの開示請求権を有名無実なものとしたのである。
? これらの不法行為の存在は、被告森下において先行自白がなされている
(2022年10月25日)
昨日、宗教研究者有志25氏による「旧統一教会に対する宗務行政の適切な対応を要望する声明」(代表 島薗進東京大学名誉教授・櫻井義秀北海道大学教授)が発表された。穏やかな内容ながら、良識の指し示すものとして影響は大きい。
http://shimazono.spinavi.net/
「旧統一教会が行ってきた霊感商法や過度の献金要請、旧統一教会と政治家との関係、および宗教二世の問題」を指摘し、「現在、必要なことは、新たな被害を生み出さないために、現代宗教のあり方、宗教と政治の関係について認識を深めると同時に、透明なプロセスにそって所轄官庁が適切かつ迅速な宗務行政の対応を行うことだと考えます」と行政への要望を述べている。
注目すべきは、統一教会の組織的活動を違法とする、以下の一節。
「私たちはこの問題に対してかねてより懸念をもってきました。正体を隠した勧誘は『信教の自由』を侵害しますし、一般市民や信者の家計を逼迫させ破産に追いこむほどの献金要請は公共の福祉に反します。そして、こうした人権侵害に対して教団としての責任を認めてこなかったことは許容できることではありません。…」
錚々たる研究者らが「正体を隠した勧誘は『信教の自由』を侵害」する故に違法とする見解で一致した。つまり、統一教会側は、「自分たちこそが憲法が保障する『信教の自由』という輝かしい理念の担い手である」と信じ込んでいたに違いない。ところが実はその逆で、信者獲得の勧誘行為が、勧誘される側の『信教の自由』を侵害しているという指摘なのだ。このことの意味は、大きい。
信者獲得のための勧誘は、諸々の被害の入り口である。この入り口での違法行為を防止できれば、その後の「霊感商法」や「過度の献金要請」「政治家との関係」「宗教二世の問題」などを阻止することが可能となる。
問題とされたのは、「正体を隠した勧誘」という統一教会の常套手段。この手口の伝道・強化活動は違法で、勧誘対象者の『信教の自由』(=自らの意思に基づいて信仰すべき対象を選択する自由)を侵害することになる。
以前からこのことを説いていたのは札幌の郷路征記弁護士、私の同期の友人である。近著、「統一教会の何が問題かー人を隷属させる伝道手法の実態」(花伝社)の中でこう述べている(同書58頁)。
「統一教会の伝道・教化活動の違法性を考える場合、保護されるべき法益を特定することが重要である。最重要の法益は、伝道される側である国民の信教の自由である。それが統一協会の伝道・教化活動によって侵害されていないかどうかという視点が必要である。国民が信教の自由、すなわち宗教上の自己決定権をその最も基本的で重要な内心の権利として保障されていることは明らかであって、それを侵害する伝道・教化活動が認められるはずはない。以下の判決のとおりである。」
「統一教会が信教の自由を有しており、その伝道・教化活動もその信教の自由の一環であるとしても、対象者も信教の自由、すなわち当該宗教に帰依するか否かを選択する自由を有しているのであり、対象者のこの信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動は許されないのは当然である。(札幌地方裁判所2014年3月24日判決)」
「信教の自由」は、勧誘する側にのみ保障されているのではない。勧誘される対象者の側にも信教の自由はある。具体的には、勧誘する側が有する「宗教教義を伝道して信者を獲得すべく勧誘活動を自由に行う権利」と、勧誘される側が有する「正確で十分な情報に基づいて、自己の信仰すべき宗教を選択する権利(もちろん、宗教を信じない自由を含む)」とが、憲法価値として並立していて調整が必要となっている。
判決もここまでは認めて、「対象者のこの信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動は許されないのは当然である」とは認めめた。だが、「この信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動」のなんたるかまでを具体的に特定したわけではない。
郷路弁護士は、勧誘される側が有する宗教的な自己決定権を侵害しないためには、伝道活動を行う宗教団体の側には、以下の要件が必要であるという。
(1) 伝道目的の活動であることを明示すべきであること
(2) 他の宗教の宗教教義を伝道活動の主要な手段(概念)として用いるべきではないこと
(3) 事実である・真理であるとしてではなく、宗教教義であることを明示して伝えること
(4) 宗教的回心を発生させる前に、信仰した結果行わなければならなくなる、宗教的実践課題について開示しなければならないこと
(5) 違法な行為や社会的に相当性を欠いた行為をさせるために、信者を組織に隷従させてはならないこと
以上のうちの(1)については、宗教研究者が受け容れるところとなった。今や、通説化しつつあると言って良いのではないか。(2)以下の要件も、今後具体的に整理されたかたちで、判決に定着することになることが期待される。
大きな被害はあったが、ようやくにしてその被害を世に知らせる人があり、被害回復や防止に努力するさまざまな人々がいて、着実に問題解決に道筋が見えてきているという手応えを感じている。
(2022年10月24日)
NHKと安倍晋三任命の森下俊三経営委員長の両名を被告として、NHKの報道姿勢と、最高意思決定機関経営委員会のあり方を根底から問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第5回口頭弁論が、明後日に以下の日程で開かれます。
日時 10月26日(水) 午後2時
法廷 東京地裁415号
また、閉廷後下記の報告集会を開催いたします。こちらにも、ご参加下さい。
時刻 同日 15時30分?
会場 参議院議員会館 B102会議室
今回の法廷では、原告主張の第7準備書面の要約を、パワーポイントを使って、弁護士澤藤大河が解説いたします。テーマは、被告森下俊三の不法行為責任にしぼった陳述です。ぜひ傍聴をお願いいたします。
なお、今回傍聴券の配布はありません。先着順に415号法廷に入廷してください。コロナ対策としての空席確保の措置はありませんので、傍聴席の座席数は十分と思われます。
また、閉廷後の報告集会では、関係者からNHKにまつわる詳細な報告を予定しています。ぜひ、こちらにもご参加下さい。
この訴訟は、原告114名の情報公開請求訴訟です。もっとも、行政文書の公開を求める訴訟ではなく、被告NHKに対して、その最高意思決定機関である経営委員会議事録の開示を求める訴訟です。いい加減に誤魔化した議事録ではなく、手抜きのない完全な議事録と、その文字起こしの元になった録音・録画の生データを開示せよという訴訟になっています。
問題の議事録は、経営委員会が当時の上田良一NHK会長に「厳重注意」を言い渡したことや、その前後の事情が明記されているものです。なにゆえの「厳重注意」だったのか。経営委員会が、NHKの報道番組に介入して、良心的な番組の放送を妨害する意図をもっての「会長厳重注意」だったのです。とうてい、看過できることではありません。
NHKの良心的看板番組「クローズアップ現代+」が、「かんぽ(生命)保険不正販売」問題を放映したところ、加害者側の日本郵政の幹部がこの番組をけしからんとして、NHKに圧力をかけてきました。経営委員会は、この外部の圧力をはね除けて、番組制作の自主性を護らなければならない立場であるにかかかわらず、なんとその正反対のことをしでかしました。当時経営委員会委員長代行だった森下俊三が先頭に立って、日本郵政の上級副社長鈴木康雄らの番組攻撃に呼応して、番組制作現場への圧力を加える意図をもっての『会長厳重注意』を強行したのです。明らかに放送の公正を歪める、放送法違反の行為です。
森下俊三はその後経営委員会委員長となり、さらに再選されて今なお、経営委員会委員長におさまっています。こんな経営委員を選任したのは、あんな内閣総理大臣、安倍晋三でした。NHK経営委員会人事は、安倍政権の負のレガシーです。大きな責任が清算されずに放置されたままです。正常な事態を取り戻さねばなりません。
本件文書開示請求訴訟はその第一歩としての基礎作業です。これまで出てこなかった資料が、提訴によってある程度は開示されました。しかし、完全なものではありません。
本件の提訴後原告に開示された「議事録のようなもの」(部内では「粗起こしの議事録草案」と言われる)は、議事録ではありません。「のようなもの」ではなく正式の議事録を開示せよ、というのが原告の要求です。仮にもし被告森下が議事録を作成もせず、公表もしないとなれば、明白で重大な法律違反です。当然に内閣の任命責任が問われなければなりません。
そして、もう一つの開示請求対象は、「議事録のようなもの」の原資料である録音データです。「のようなもの」には作成者の記載はなく、正確性を確認する術はありません。そこで、録音記録を開示せよと要求したら、何と、「消去しました」というのです。バックアップもとっていないという。どこかで聞いたような話。さすがに、安倍が任命した経営委員長の弁明。
訴訟までされながら、なぜNHKは、原告たちに開示を求められた議事録やデータを出さないのか、あるいは出せないのか。NHK執行部に議事録を出せない理由はありません。むしろ、経営委員から不当な「厳重注意」の処分を受けた会長側とすれば、きちんと議事録を提出してことの曲直を糺して欲しいという希望があるに違いないのです。
しかし、経営委員会側は、出したくないのです。番組制作への介入を禁じた放送法32条2項に違反したことを正式な議事録に残したくないのです。違法を恥じない人物が、NHKの最高幹部になって、NHKの放送の自由を攻撃し、さらにはその証拠を残したくないとして、正式の議事録の開示を妨害しているのです。これを任命した総理の責任は重大で、現内閣には罷免を求めなければなりません。
原告たちは、被告NHKに対する文書開示請求権を持っています。その請求権の行使を妨害しているのが、経営委員会委員長の森下俊三なのです。これが、不法行為に当たるとして、損害賠償を請求しているのです。
NHKという組織では、経営委員会が最高権力者です。NHKの会長を選任することも、クビを切ることもできます。何といっても、その議事録には経営委員の放送法違反が書き込まれているという微妙な問題です。NHKが独自の判断で経営委員会議事録の開示も非開示もできるはずはありません。お伺いを立てて、経営委員会のご意向次第。
以上のスジを約10分のパワポにまとめて、ご説明いたします。本来、権力を監視することを本領とするのがジャーナリズムです。権力から独立していなければならない巨大メディアが、こんなにも権力にズブズブなのです。そして、自浄能力がない。NHKという巨大メディアの政治権力への従属性という問題の本質がよく見える法廷となるはずです。
(2022年10月23日)
本日は、私にとっての特別な日。いや私だけではなく、憲法や人権や真っ当な教育を考える人々にとって、忘れてはならない忌まわしい日。毎年、この日がめぐってくると、当時の自分の記憶をあらため、闘う気持ちを新たにする。
19年前のこの日、東京都教育委員会が「日の丸・君が代」の強制を教育現場に持ち込んだ。悪名高い「10・23通達」の発出である。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。以来、卒業式・入学式などの学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明が全教職員に強制されて現在に至っている。
「10・23通達」の形式は、東京都内の公立校の全ての校長に宛てた命令である。各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよ、というものである。実質的に、知事が校長を介して、都内の全公立校の教職員に起立斉唱命令を発したに等しい。この事態は、教育法体系が想定するところではない。
あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするからや。石原に投票するセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。
しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。
この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。この訴えを受けた最高裁が、
秩序ではなく人権の側に立っていれば、
国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、
「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気ある教育現場となっていたはずなのだ。
19年目の10月23日となった本日、関係17団体の共催で、恒例の「学校に自由と人権を!10・23集会」が開催された。メインの企画は、小澤隆一さんの講演「憲法9条の危機に抗して」。教育の危機は、戦争の危機につながるのだ。本日の私の気持ちを、下記の集会アピールが代弁してくれている。
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?10・23通達発出から19年にあたって?
「学校に自由と人権を!10・23集会」アピール
東京都教育委員会(都教委)が卒業式・入学式などで「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)を発出してから19年経ちました。これまで「君が代」斉唱時の不起立・不伴奏等を理由に延べ484名もの教職員が処分されています。10・23通達と前代未聞の大量処分は、東京の異常な教育行政の象徴です。
小池都放下で都教委は、卒入学式で不起立を理由とした処分の強行などこれまでの命令と処分の権力的教育行政を続けています。新型コロナ感染拡大の最中の今年の卒業式は、昨年に続き、式を短縮しても、式次第に「国歌斉唱」を入れ生徒・教職員を起立させ、CDで「君が代」を大音量で流し、「起立」を命じ、まさに「君が代」のための卒業式という異常さが改めて浮き彫りになりました。
岸田政権は、安倍・菅政権を継承し、参議院選挙の結果を受けて、憲法改悪の動きを一層加速し、ロシアのウクライナ侵略に便乗し、敵基地攻撃能力の保有、防衛費2倍化の検討など「戦争する国」へと暴走しています。何としても憲法改悪を止めるために、草の根から、大きな闘いを構築しなければなりません。
また、小中学校の「道徳」の教科化、高校の科目「公共」、教科書の記述への露骨な政治介入等、教育の政治支配と愛国心教育による「お国のために命を投げ出す」子どもづくりが狙われています。
最高裁判決は、職務命令は思想・良心の自由を「間接的に制約」するが「違憲とはいえない」として戒告処分を容認する一方、減給処分・停職処分を取り消し、機械的な累積加重処分に歯止めをかけました。
一連の最高裁判決とその後の確定した東京地裁・東京高裁の判決により、10・23通達関連裁判の処分取り消しの総数は、77件・66名にのぼります。
これまで都教委は、違法な処分をしたことを反省し謝罪するどころか、減給処分を取り消された現職の都立学校教員を再処分(戒告処分)するという暴挙を行いました。また、2013年3月の卒業式以降、最高裁判決に反し、不起立4回以上の特別支援学校、都立高校の教職員を減給処分にしています。また、被処分者に対する「再発防止研修」を質量ともに強化し、抵抗を根絶やしにしようとしています。
しかし、これらの攻撃に屈することなく、従来の最高裁判決の枠組みを突破し、戒告を含む全ての処分及び再処分の取り消しを求め、東京「君が代」裁判五次訴訟が東京地裁で闘われています。粘り強く闘う原告団を支え共に闘います。
破処分者・原告らは、19年間、都教委の攻撃に屈せず、東京の学校に憲法・人権・民主主義・教育の自由をよみがえらせるために、法廷内外で、学校現場で、粘り強く闘いを継続しています。多数の市民、教職員、卒業生、保護者がともに闘っています。
本日、10・23通達関連訴訟団・元訴訟団が大同団結し、「目の丸・君が代」強制に反対し、「憲法を変えさせず、誰も戦場に送らせない」運動を広げるために、「学校に自由と人権を!10・23集会」を開催しました。
集会に参加した私たちは、広範な教職員、保護者、労働者、市民の皆さんに「日の丸・君が代」強制と都教委の教育破壊を許さず、共に手を携えて闘うことを呼びかけます。何よりも「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!
2022年10月23日
「学校に自由と人権を!10・23集会」参加者一同
(2022年10月22日)
本日、第20回中国共産党大会が閉幕。胡錦濤強制退去の一幕も含めて、面白くもおかしくもないシラケたセレモニー。要するに習近平一強独裁体制を追認し、さらに習近平個人崇拝路線確認の儀式。一党独裁にも辟易だが、個人崇拝となるとカルト並みの不愉快さ。
かつて、毛沢東の権力集中と個人崇拝に鄧小平が異を唱えたとき、私は事情よく分からぬまま「社会主義の正統に修正主義派の横槍」と解した。今となっては、不明を恥じるばかり。だが、その開明派・鄧小平も、天安門事件では民衆に銃口を向けることをためらわず、人権と民主主義の芽を摘んだ。以来中国は、社会主義の理想も民主主義の理念もない、専制と拝金主義社会に堕したまま今日に至っている。
改革開放政策が始まった当時には確かな希望を感じた。中国が外部世界に開かれ、人と物と情報の流通が繁くなれば、水が高きより低きに流れて落ちつくように、自ずから中国の民主化も進展するだろうと楽観しのだ。が、この期待は見事に外れた。
中国は経済的には興隆し発展した。しかし、政治的自由は育たなかった。そもそも民意を反映する選挙制度がなく、相も変わぬ一党独裁。国内少数民族の弾圧が続いている。人権は無視され、言論の自由も、信教の自由も、三権分立も、裁判の公開原則すらない。経済大国ではあっても人権後進国と言わざるを得ない。
鄧小平の言葉として知られる「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫だ」論。改革開放政策の合理性の説明として耳にした。目的さえ見失わなければ手段にこだわる必要はないの比喩だが、目的と手段の内容の理解次第で、どのようにも解釈ができる。
「資本主義でも社会主義でも、役に立つならどちらでもよい」「私的利潤追求活動が貧富の差を拡げるとしても、社会の富を増すのだから肯定してよい」として、「先富論」を肯定したと理解した。
大事なことは、けっしてこれを政治原則の理解としてはならないことである。「民主主義だろうと専制だろうと、人民を喰わせることができればどちらでもよい」「究極の目標は国家の富の蓄積である。そのために民主制が有用であればこれを採用し、独裁がより合理的であればそちらを採用する」「人民の自由の獲得という条件が成熟するまでは、一党独裁でも個人崇拝でも『良い猫』である」などと言ってはならない。
人権・民主主義は、手段的価値ではない。それ自体が目的的価値なのだ。他のどんな究極的目標をもってしても、人権・民主主義をないがしろにしてはならない。「人権・民主主義にはバリエーションがある。中国では中国式の人権・民主主義を実践する」などと詭弁を弄する姿勢は醜悪というほかない。
好意的な報道では、高度成長に成功した鄧小平時代が終わり、中国の伝統とマルクス主義をミックスした「中国式現代化」を目指す「習近平時代」が本格的に幕を開けた、という。
鄧は経済が遅れた中国では資本主義的手法が許される初級段階が少なくとも100年は必要だと考えた。これが、社会主義の旗を降ろさずに資本主義経済を進めることの方便となり、不均等発展を容認する「先富論」をもなった。
今大会での習の報告は、「なお初級段階にある」と触れただけで「長期」は消えた。代わりに「中国式現代化」「時代に適合したマルクス主義の中国化」という言葉が登場した。こうして、「先富論」は、「共同富裕」というスローガンに置き換えられることになろう。
だが、こうも報道されている。「鄧は、毛沢東に権力が集中し個人崇拝を生んだことを反省して、『任期制』を採用し、『集団指導体制』を強めた。そのどちらも、習近平によって破られた」。こうして、習近平に権力が集中し、習欣平個人崇拝が生まれることになる」
なんとも憂鬱な中国状況である。