澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

靖国美化論・靖国公式参拝促進論は、好戦派の妄言である。

(2023年2月19日)
 橋下徹が、2月16日にこうツィートしている。
「首相や天皇が靖国参拝もできない国が、いざというときに自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令などしてはいけない」

 やや舌足らずで稚拙な一文ではあるが、言っているのはこういうことだ。
 「いざというときに、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができる国にするためには、首相や天皇の靖国参拝を実現しておかねばならない」

 これは法律家の言ではない。典型的な伝統右翼扇動者の思考パターンである。こうもあからさまにものを言う人は、最近は少ない。

 もう少し敷衍し忖度して、橋下ツィートの真意を解説すれば、こうでもあろうか。

 「近い将来において我が国が戦争当事国になる事態はけっして絵空事ではない。その、いざというときには、国家は躊躇することなく、果敢に自衛隊員や国民の命を犠牲にする指揮命令ができなければならない。およそ、戦争に勝利するためにはそのような苛烈な国家意思の貫徹が必要なのだ。戦時において、自衛隊員や国民の命を犠牲にする果敢な指揮命令が可能な国家にするためには、平時から首相や天皇の靖国参拝を実現して、国民の精神を『国家のために死ねる』という精神構造を培っておかねばならない。首相や天皇の靖国参拝は、そのような手段として有効なのだ」

 これは、戦前の天皇制国家公定の思想であり、戦後は伝統右翼のナショナリズムや大国主義・軍国主義の願望の中に、連綿と引き継がれてきた想念である。

 靖国への対応は良識ある国民に重い課題である。過去の問題であるはずが、清算されずに積み残されて、「再びの戦前」といわれる時代に、靖国神社礼賛論が必ず蒸し返される。橋下ツィートもその類いの一文。

 橋下は、続くツィートでは「命を落とした兵士に尊崇の念を表すると口で言うだけの政治家たち、首相の立場ではない気楽な身分で靖国参拝して自己満足している政治家たち、もうそろそろ首相や天皇が靖国参拝できるような環境を命をかけて作れ」とけしかけている。その具体策として、「首相や天皇が靖国参拝するためには、戦争指導者を祀る施設と兵士のそれを分けることが必要不可欠だ」との提案が持論のようだが、「宗教上の分祀か否かに踏み込まなくていい。首相や天皇は戦争指導者に参拝しないというメッセージで必要にして十分。兵士のみにしっかり参拝」とも言っている。いずれにせよ、靖国神社公式参拝推進派であり、戦争推進派の言にほかならない。

 靖国とは、「君のため国のために命を捧げた戦没者を神として祀る」宗教施設であった。もちろん、伝統的な神道に基づく神社ではない。明治政府が発明した「天皇教」という新興宗教の教義に基づく創建神社である。

 靖国神社は、天皇の意向で創建され、天皇への忠死の軍人を顕彰する施設であり、新たな祭神を合祀する臨時大祭の招魂の儀には、必ず天皇自らが「親拝」した。徹頭徹尾、天皇の神社であった。

 また、戦前靖国神社は陸海軍の共管とされ、陸軍大将と海軍大将とが交替で宮司を務めた。徹底した軍国神社であり、戦争神社であった。だから靖国神社とは、宗教的軍事施設でもあり、軍事的宗教施設でもあった。

 統一教会の伝道教化活動の報道が、世論にマインドコントロールという言葉を思い出させている。オウムの報道の際も同様だった。しかし、天皇教のマインドコントロールの規模の壮大さや、その成功に較べれば、統一教会もオウムも、チャチなものではないか。権力による一億臣民のマインドコントロールに成功した天皇教体制の軍国主義的、侵略主義的側面を代表するものが、靖国の思想であり、靖国神社という宗教施設であり、国定教科書を通じて全国民(臣民)に「忠義のために死ね」と教えた教育である。マインドコントロールの極致というべきであろう。

 敗戦後の日本の民主化は不十分で、天皇という有害な存在を廃絶することができなかった。しかし、憲法は天皇を人畜無害とする幾つかの制度を調えた。その一つが政教分離原則(憲法20条)にほかならない。天皇も首相も、靖国神社に関わってはならないのだ。

 保守派は、かつては靖国の国家護持運動に取り組んだ。憲法上の政教分離原則から、その実現は困難と悟って、靖国神社公式参拝促進運動を本流としている。これもはかばかしい成果を上げ得ていない現状で、手を替え品を替えて、戦争準備としての靖国再利用に余念がないのだ。

 靖国神社礼賛論や、その一端としての公式参拝促進論は、戦争への地ならしである。「戦死者をどう追悼し、どう扱うべきかを定めずにして、戦争突入はできない」「国家が、戦死者を厚く悼む施設も儀式も用意せずに、戦死を覚悟せよとは言えない」という意識が権力側にあるからである。

 「戦争が近いことを覚悟せよ」「そのための準備が必要だ」との立論ではなく、「絶対に戦争を避けなければならない」という議論をしなければならない。橋下流の好戦論に惑わされてはならない。

『プーチンのロシアと宗教』ーそして「戦後日本の国家と宗教」

(2023年1月9日)
 宗教専門紙「中外日報」1月5日号に、野田正彰さん(精神病理学者)が寄稿している。『プーチンのロシアと宗教』という標題。短い論文だが、時宜にかなった手応えのある問題提起。

 そのまとめの1文が、「私たちは戦後の日本国憲法で、その内実をあまり討論もせず、政教分離の原則と言ってきたが、政治と宗教は深いところで結びついている。今回の統一教会と自民党の癒着問題は、宗教とは何か、考える重要な契機である。ロシアがたどった道、ウクライナ戦争も、政治と宗教が深くからみあっている」と問題を投げかけるもの。ロシアの事情を批判的に学んで、日本の現状をよく考えよという示唆なのだ。

 精神科医である野田さんは、1980年代中ごろ、統一教会の洗脳システムによって常時サタンの幻覚に脅えるようになった信者を、患者として治療する機会があった(論考「霊感商法と現代人の心」・『泡だつ妄想共同体―宗教精神病理学からみた日本人の信仰心』93年春秋社に所収)という。

 その経験から、統一教会の動向に関心をもつようになった。とりわけ、ゴルバチョフ財団に多額の寄付をして、権力の中枢との密接な関係を築いてから、市民への布教を進めた統一教会の戦略に関心をもち、何度か現地に赴いての調査もしたそうだ。従って、ソ連崩壊後のロシアの宗教事情に詳しい。ロシアでは、「日本や韓国から侵入してきた統一教会やオウム真理教の被害者家族なども面接」をしているという。その野田さんの論考の骨格は以下のとおり。

「1917年11月の『十月革命』でソヴィエト政府樹立を宣言した…ソ連共産党がロシア帝国の最大の悪と考えたのは、帝制(ロマノフ王朝)であり、その文化イデオロギーである東方キリスト教(ロシア正教)であった。ソ連共産党は宗教をレーニン主義の敵とみなした。

 ソ連共産党は宗教なるものを全否定したのだが、ここで宗教と考えていたのはロシア正教だった。ロシア帝国、農奴制と皇帝、ロシアの文化に深く浸透し精神的支えになっているロシア正教。彼ら(共産党)はロシア正教を禁止し、神父を追放処刑し、教会を没収解体していった。だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊できても、その無形の思想を破壊するのは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。廃仏毀釈の後の国家神道の形成も似ている。」

 「結局、ロシア正教を全否定したロシア共産党だったが、否定の先にあったのはロシア正教の影絵をたどる道であった。90年代のロシア、ウクライナ、バルト三国など、ソ連解体から諸宗教への勃興へ、私は調査を続けながら、ロシア共産主義がいかに宗教(ロシア正教)に似ているか、考えていた。」

 野田さんによれば、ソ連共産党は「党という大教団を作り、各地に委員会という教会を作り、荘厳な祭典(メーデー、戦勝記念日など)を繰り返したこと」「異端の粛清と正統イデオロギーの確定がセットになって反復されたこと」において、結局は、ロシア正教の影絵をたどる道を歩んだ。だから、ソ連崩壊後はロシア正教の復活となったというのだ。

 「これほども精神を支配してきた共産主義というキリスト教擬似宗教が消えた跡に、真空に吸いこまれる粉塵のごとく諸宗教が吸引されていた。ロシア共産党の二本の柱、KGBと軍。その強固な柱であるKGB育ちのプーチンは、チェチェン人への謀略によって権力を握った後、迷うことなくロシア正教のさらなる復興を進め、新しく選ばれたキリル総主教との関係を強めてきた。真空になったロシア社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、ロシア正教を支援していったのである。」

 この野田論考は、読み方によっては恐ろしい暗示である。我が国の敗戦と戦後民主主義社会における宗教事情ないしは政教分離の内実を再検討すれば、国家神道の再興もあり得ると警鐘を鳴らすものではないか。

《敗戦によって誕生した新生日本は、政教分離を宣言し国家と宗教との癒着を全否定したのだが、ここで宗教と考えられていたのは、天皇とその祖先神を国家の神とする国家神道(=天皇教)だった。国家神道は臣民に刷り込まれ、中央集権的な軍国主義体制下の国民意識を支配し、政治・軍事・教育・文化・メディアに浸透して、国民一人ひとりの精神的支柱にもなっていた。
 新生日本は、天皇主権を国民主権に転換し、天皇の軍の総帥としての地位を剥奪し、天皇の宗教的権威も神聖性も法的に否定した。併せて、国家主義を脱して、個人主義・自由主義を憲法の根幹に据えた。さらに、戦後民主主義は、政教分離を宣言して国教を禁止し、神官の公務員たる地位を剥奪し、あらゆる神社への公的資金の投入を禁じた。ひとえに、旧天皇制への回帰の歯止めとして、である。
 だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊も改変もできようが、その根底にある無形の思想までも消滅させることは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。絶対主義的天皇制の制度を廃止しながら、象徴天皇制を残した中途半端な戦後民主主義においては、その危険は一層大きい》

《かつて、これほどにも国民の精神を支配してきた国家神道=天皇教である。戦後民主主義というイデオロギーが攻撃され、危うくなったときには、形を変えた『天皇教』が復活するれを払拭できない。その素地は実は十分に醸成されており、真空になった日本社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、天皇教即ち国家神道が立ち上がる危険に警戒しなけれぱならない》

「統一教会」と「天皇教」 どちらのカルトにも洗脳されてはならない。

(2023年1月6日)
 統一教会問題の根は深い。深刻に教訓とすべきは、人の精神はけっして強靱ではないということである。周到にプログラムされたマインドコントロール技術は有効なのだ。自律的な判断で信仰を選択しているつもりが、気が付けば洗脳の被害者となる。その被害者が、次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、社会を蝕むことになる。

 そのことを「統一協会 マインド・コントロールのすべて」(郷路征記著・花伝社)が丁寧に教えてくれる。その書物のカバーに「人はどのようにして文鮮明の奴隷となるのか?」という刺激的なキャッチが心に響く。これは、「かつて臣民はどのようにして、天皇のために死ぬるを誉れと教え込まれたか?」と同じ構造の問ではないか。

 明治維新後に生まれた新興宗教である天皇教というカルトは、その成立当初から政治権力と結びついていた。その周到にプログラムされたマインドコントロール技術によって、自律的な判断で信仰を選択しているつもりの国民が、それとは気が付かないうちに洗脳の被害者となった。その被害者が、さらに次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、一国の国民全部を蝕むことになって、国を破滅に導いた。

 天皇教の教祖にして現人神と祭り上げられた人物が、睦仁であり、嘉仁であり、裕仁だった。これが、ちょうど文鮮明・韓鶴子の役どころにあたる。天皇教は、皇祖皇宗の指し示すとおり、我が民族のみ貴しとする非合理な八紘一宇を説き、カミカゼが吹くとして侵略戦争に狂奔し、臣民に天皇のために死ね、と教えた。これが天皇教の重要な一部をなす靖国の思想である。

 こうして、77年前までの日本は、天皇カルトが全国の全局面に蔓延し、一国の国民の精神を支配したカルトの国であった。学校と軍隊が主たるその布教所となり、教員が熱心な布教師となった。そして、権力に操られた新聞・出版メディアとNHKが、一般国民への天皇カルトの果敢な宣伝隊となった。

 本日の赤旗の報道で初めて知った。統一教会では、漠然と「宗教2世」とは言わないらしい。親の入信前に生まれた子どもを「信仰2世」と言い、集団結婚した両親から生まれた子どもを「祝福2世」と言うのだそうだ。その数、前者が3万人、後者が5万人だという。

 「統一協会は入信後に集団結婚した両親から生まれた「祝福2世」を“神の子”として特別に位置付けています。他方、親の入信前に生まれていた子どもは「信仰2世」として信者1世と同じ扱いをします。ただ、どちらの2世も家庭への高額献金や集団結婚の強要といった被害は共通しています。

 協会関連資料や関係者によると、これらの反社会的行為を嫌って協会活動から離れる2世も多いといいます。
 このため統一協会は2世を連れ戻すため必死になっています。すべての信者家庭が2世の協会復帰に「命を懸けなければなりません」と強調。「家庭連合に対して完全に背を向け、関わりを一切断っている2世だとしても、捜し出して導かなければなりません」と命じています。」

 統一教会も必死になって組織防衛に活動しているのだ。

 しかし、この8万人の一人ひとりに深刻な悩みがあるに違いない。宗教1世と併せれば、20万人にもなるのだろうか。このカルトが、ここまで蔓延してきたことは驚くべきことではないか。しかし、天皇カルトが洗脳した1億人に較べれば、まだ規模は小さいとも言えそうである。そして、危険な天皇カルトはまだ退治され切っていない。

 先の郷路君の著作の一節に、「マインドコントロールによって他人に操作されることを防ぐ道は、マインドコントロールについての知識を持つことである」という、名言がある。なるほどと思う。国家権力や社会的な同調圧力による国民精神の支配から自律した精神を防衛するためにも広く通じることと言えよう。それが、日本の近代史を学ぶという意味なのだと思う。

どうやら日本は、いまだに『神の国』『天皇の国』のごとくである。

(2023年1月5日)
 昨日、1月4日が世の「仕事始め」。首相である岸田文雄も、この日仕事を始めた。その一年の最初の仕事が伊勢神宮参拝という違憲行為。年頭の記者会見を伊勢市で行うという、何ともグロテスクな時代錯誤。

 いま、統一教会のマインドコントロール被害をめぐって、「政教分離とは何か」、「信教の自由の本質をどう見るのか」、「統一教会加害の社会心理学的背景は何であるのか」という真摯な論議が巻きおこっている。そのさなかでの天皇の祖先神を祀る神社への年頭参拝の無神経。戦前の天皇教は、日本国民1億をマインドコントロールすることに成功した。その残滓をどう克服するかが、マインドコントロールから解き放たれた戦後民主主義の最大の課題であったはず。にもかかわらずの天皇教本殿への首相参拝である。意識的か無意識か、政権トップが憲法の理念を尊重しようという姿勢に著しく欠けるのだ。この国の立憲主義は、まことに危うい。

 その点では、立憲民主党・泉健太も負けてはいない。何と、元日には乃木神社の写真をツィッターに掲載したのだ。これに対する当然の批判に、感情的な反発をして物議を醸している。

 彼の1月3日ツィッターはこう言う。
「『乃木神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。乃木神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」

 彼が、歴史を学ぶ姿勢をもっているとは思えない。よく似た論理を繰り返し、聞かされてきた。中曽根や、小泉や、安倍晋三や高市が、下記のように言ってたことと変わりはない。要は、政治家としての民主主義的な感度が問われているのだ。

 「『靖国神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。靖国神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」

 前川喜平が、冷静にこう批判している。「明治天皇に殉死した長州閥の軍人を神と崇める行為。無自覚なのか意図的なのか知らないが、これにより失う支持者は、得られる支持者より多いだろう。」

 乃木は、天皇制の時代に忠君愛国の手本となった軍人。君国のために多数の部下に「死ね」と命じた愚将の典型。これを神として祀る神社への参拝は、極右や安倍晋三崇拝者にのみふさわしい。およそ、平和や、民主主義や人権を口にする人が足を運ぶところではない。

 1月4日朝の泉ツィッターには、さらに驚かざるを得ない。
「本日は伊勢神宮参拝と年頭記者会見の予定です。『皇室の弥栄』『国家安泰』『五穀豊穣』を祈願するとともに、やはり全国民皆様の』平和」と「生活向上」が大切。そのために一層働くことを誓ってまいります」

 岸田に張り合って、泉も伊勢参拝なのだ。その上で、まず『皇室の弥栄』『国家安泰』を祈願するという。この人何を学んできた人なのだろうか。いまだに、天皇教のマインドコントロールに縛られたままのお人のようである。

 もう一つ、1月4日毎日朝刊の古賀攻(専門編集委員)コラム「水説」に驚いた。『憲法1条を顧みぬ国』という表題なのだ。内容は、天皇の血統が絶えることを憂慮して対策を講ずるべきだという趣旨である。天下の毎日の編集委員がこう言い、毎日が恥ずかしげもなく紙面に掲載する、その現実を嘆かざるを得ない。

 憲法第1条は、こう述べている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権 の存する日本国民の総意に基く。」

 この憲法第1条は、天皇を主語にしてはいるが、国民主権宣言条項である。天皇主権を否定し、天皇の地位は主権者国民が認める限りのものに過ぎないと明示する。国民主権の欠如を『憲法1条を顧みぬ国』と愁うるのは分かる。が、「このままだと皇室は確実に核家族化し、将来の天皇を身近に支える皇族がいなくなってしまう」と嘆いてみせる前に、日本の民主主義や人権のあり方をこそ嘆くべきだろう。

 このコラムの書き出しはこうである。
 「3年ぶりの新年一般参賀に姿を見せた皇族が<少ない>と思ったのは気のせいで、実際には愛子さまと眞子さんの入れ替わりだけだという。こちらが心配性になっているせいかもしれない。」

 つまらぬことを心配しているというにとどまらない。愛子『さま』と眞子『さん』の使い分けがばかばかしい。

 世襲という制度は忌むべきものである。人は平等であるという文明社会の公理に反する。克服すべき人間不平等時代の野蛮な遺物である。社会は、政治家の世襲については批判する。資産家の二代目三代目も軽蔑する。しかし、世襲制度の本家は皇室であろう。皇室や皇族の世襲をこそ批判しなければならない。

 このコラムは、最後をこう締めくくっている。
 「憲法1条は、天皇を国および国民統合の象徴、その地位を「主権の存する国民の総意に基づく」と定める。憲法秩序の骨格なのに、(皇位継承の安定化措置を提言する)17年前の首相演説はうやむやになり、国会が求めた報告も放置したまま。それで済ませる感覚が不思議でならない」

 私はこう思う。天皇を「憲法秩序の骨格」と言ってのける感覚の論説委員がいまだに存在し、大新聞がそのような論説を掲載することが、不思議でならない。

 伊勢神宮・乃木神社・天皇は、国家神道・軍国主義・権威主義・世襲制に貫かれている。いずれも御しやすい国民精神を涵養するためのマインドコントロールの小道具、大道具にほかならない。そして今、これを批判しないマスメディアに支えられている。

統一教会に対する解散命令は、是か非か。

(2022年12月1日)
「世界日報」とは、言わずと知れた統一教会(系)メディア。その11月28日号の社説が、「『質問権』行使 解散ありきでなく公正に」という表題。

 「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題で、永岡桂子文部科学相は、旧統一教会に対し宗教法人法に基づく「報告徴収・質問権」を行使した。」という書き出しで、「質問権行使」やその先の解散命令に、事実上当事者として異を唱えるものといってよい。

 その論調は、「信教の自由の抑圧に繋がらないよう、公正な調査、判断を求めたい」「質問権行使が教団の『解散ありき』であってはならない」「宗教活動への規制は公共の福祉とのバランスをあくまで公正・慎重に勘案し行うべきである」「信教の自由という国家の基本に関わる問題を政争の具にすることは許されない。」というもの。

 同じ11月28日、「神社新報」が「宗教法人をめぐる議論 社会的影響と自律の精神」という表題の論説を掲載している。こちらは、「準当事者」という立場。宗教団体に対する法の縛りを嫌う基本的立場から、「ややもすれば宗教全体に対して批判的な注目も集まりかねない昨今の状況」を憂い、この問題のとばっちりへの警戒感が滲み出ている。おそらくは、創価学会なども同じホンネではないか。

 被害の予防や救済にも言及しての慎重な言い回しだが、メインのトーンは、かつての神社本庁総長が宗教法人法改正に関して発言したという下記の言葉を全面肯定するもの。

 「少なくとも私が現在長をいたしてをります組織、神社本庁の傘下にあります八万の神社は真剣にとにかくやってきた。それに対して、おまへたちの今までのやり方が悪いから、さういふ悪いことが起こらないやうに法律を変へて、負担もふやすぞといふことは言へない。ですから、その点については、改正について十分留意をされたい」

 解散命令にも質問権行使にも、そして救済新法にも、当事者や準当事者の消極性は当然として、メディアも世論も、積極的に歓迎の姿勢である。政府も、できるだけの積極姿勢を見せなければならない。

 では、研究者はどうか。もちろん一色ではない。「信教の自由は重要だから、解散命令には慎重でなければならない」というか、「信教の自由は重要だが、解散命令もやむを得ない」とするか、なかなかに難しい判断。

 本日の朝日の『耕論』に、「解散命令請求、その前に」と題して、島薗進(宗教学)、斉藤小百合(憲法学)、河野有理(政治学)の3氏が持論を寄せている。

 「政府の解散命令請求に賛成か、反対か」という問いかけをしていないのだから当然といえば当然でもあるのだが、結論は分かりにくい。島薗の積極論だけは明解だが、斉藤と河野は結局のところ、消極論なのだろう。

 それぞれが提示している問題点は、それなりに考えさせられる。無意味なことを言っているとは思わないが、これだけ問題が煮詰まってくると、賛成か反対かの結論が求められる。

 私は、島薗の次の指摘に賛成する。

 「『信教の自由』への誤解が対応を誤らせてきた面があったのではないでしょうか。戦後、信教の自由を確立するために、国家による宗教の押し付けを許さない政教分離が憲法によって明確に定められました。…旧統一教会が行ってきた正体を隠した伝道は、教団組織による宗教の押しつけにあたります。…(むしろ、この)宗教の押しつけが制限されることが、信教の自由を守ることにつながります。」

 かつて私は、宗教団体(あるいは、「宗教まがい」)による「消費者被害・救済」に取り組んだとき、「加害者」側からの、「信教の自由を認めないのか」「裁判所を使った宗教弾圧だ」という抗議に晒された経験がある。

 そのときに自分なりに整理したのは、「宗教団体が国家と対峙する局面」と、「巨大宗教団体が個人と対峙する局面」とでは、規律する原理原則がまったく異なるということ。前者を垂直関係、後者を水平関係と名付けて、垂直関係では国家から権力的干渉を受けない宗教団体の信教の自由が重んじられるべきだが、水平関係では消費者保護の法理が妥当すると考えた。国家権力は宗教者に謙抑的でなければならないが、また同時に、巨大宗教団体は信徒や布教対象の個人に対して謙抑的でなければならない。

 統一教会が信徒や布教対象者に対して圧倒的な強者としての支配力を行使していることは、自明というべきであろう。そのような統一教会に法人格を付与して法的に優遇すべき筋合いはない。問題は、権力がその先例を濫用する波及効果にどのようにして歯止めを掛け得るか、ということに尽きるものだと思う。

教祖と天皇、いったいどちらが賢いか。どちらがエラいのか。

(2022年11月27日)
 文鮮明の語録を毎日新聞が追っている。これは、読み応えがある。
 昨日朝刊の一面左肩の見出しは、「旧統一教会 『天皇は平凡』『対馬は韓国』 文鮮明氏、02・04年に」「保守と相いれぬ発言」という見出し。

 旧統一教会の創始者文鮮明が、2002年に韓国内で信者に向けて行った説教で、日本の天皇を「平凡」と表現し、その約2年後には長崎県の対馬(竹島だけでなく)を「韓国の土地」と明言していたという記事である。癒着していた日本の保守派議員が、こんな基本的な統一教会の姿勢を知らなかったとは考え難い。天皇の評価や領土問題での齟齬よりは、「反共」の一致点を選択したのだと考えざるを得ない。

 厖大なハングルの「文鮮明先生マルスム(御言(みこと))選集」から毎日が、抽出したのは、おおよそ以下の発言である。なお、この発言録中の「文先生」は、文が「先生」を自称しているもの。日本語では不遜だが、韓国語でのニュアンスは分からない。

 「日本の皇太子が一般国民の娘を選んで結婚したでしょ? それは誰も宮中生活をしたくないということだ。一般人になりたいということだ」
 「日本の宮殿の伝統がめちゃくちゃになった。平成、ぺちゃんこになった」
 「日本の天皇は賢い天皇か、平凡な天皇か?」
 「平凡な天皇です」(会場の反応)
 「平凡な天皇だから中心もなく、ぺちゃんこになって、流れている。何も誇れることがない」
 「文先生(私)はどうなのか。日本の天皇より賢くないか、賢いか?」
 「賢いです」(会場の反応)

 「文先生(私)にとって日本国は一番目の怨讐(えんしゅう)の国だった。日本の(皇居正門に架かる)二重橋を自分の手で断ってしまおうと考えた。裕仁天皇を私が暗殺すると決心した

 ただ、文氏はこの「決心」が過去のものだったことを示唆する言葉も続けている、という。

 「地理的に見ると対馬が韓国に属している。そこにはカササギ(カラス科の鳥)がいる。日本にはカササギがいないだろ? だから韓国の土地だ
 島根県の竹島(韓国名・独島)にも触れ「今、日本人が独島を自分たちの土地だと言う。これは問題だ」

 韓国では、政治家が日本と対立する問題を「内向き」にナショナリズムをあおった表現で語り、支持を集めようとすることは珍しくない。文氏も韓国と日本で発言内容を使い分けていた可能性はある。

 統一教会は、「『日本はかつて韓国を迫害した罪の償いとして韓国に貢ぐべきである』という教えはない」と強調。「『反日カルト』ではないかという批判は左翼勢力が流したデマ情報で、その目的は保守派に対する分断作戦だ」と主張している。
 これまで関係を築いてきた保守派から「反日」と見なされることへの警戒感がにじむ。

 桜井義秀・北海道大大学院教授(宗教社会学)は「文氏の考えはコリアンナショナリズムの面があり、日本の皇室の伝統や国益、国民生活を考える保守思想ではなかった。日本の政治家もそれを全く知らなかったとは考えられず、選挙に役立つからといって教団を利用した政治家は本当の保守を名乗れないだろう」と批判した。

 文が説教の中で信者に「私は日本の天皇より賢くないか、賢いか?」と問いかけ、「賢いです」と答を誘っているのだ。教祖と天皇を比較させ、「教祖が天皇よりも賢い」と言わせている。これに、よく似た話を思い出す。

 私は、ある新宗教の宗教二世として育ち、高校3年間を教団が経営する私立学校で学んだ。2年生の時か3年だったか記憶は薄れているが、カリキュラムに週一回の「宗教の時間」が組み込まれていた。そこで、教団の幹部から、教団の歴史を学んだ。その際、戦前の教団が天皇制から、如何に理不尽な弾圧を受けたかについての説明があり、深く印象に刻んだ。特高警察や思想検事、そして天皇の裁判所には憤りを覚えた。この思いは今も消えることがない。

 その教団は、戦前大阪府の布施に本殿を持ち、その千畳敷の大広間の正面に、「敬神尊皇」の額を掲げていた。この額の4文字が不敬だとされた。「敬神」の神は教祖を指し、「尊皇」より先に位置している。これは「教祖は、天皇よりも偉い」と誇示しているのだという糾弾。どうして、「尊皇敬神」としないのだ、という暴力団まがいのこじつけ。

 さらに、この教団の教義には、人々の不幸は、全て神の御心に背いた結果の『みしらせ』であるとし、教祖は人の『みしらせ』を癒すための『こころえ』を授けることができるとする。教祖がそのみしらせを引き受ける『お振り替え』という神事もあった。これを、特高や思想検事は、「天皇は風邪をひく。これを『みしらせ』というか」「天皇の患いを治せるのは、教祖だけということになる」「天皇よりも教祖が偉いというのが、教義ではないか」と追及し、結局教祖は不敬罪で起訴され、未決の内に病死。その長男の二代目は不敬罪が確定して、終戦まで下獄している。また、この教団は、戦前の「宗教団体法」による解散命令を受けている。

 教祖も天皇も、信仰の対象である。信者にとっては、我が神、我が教祖、我が天皇の絶対性は揺るがぬところだが、信仰集団の外から見れば、教祖も天皇もただの人に過ぎない。教祖と天皇どちらがエラいか賢いか。比較しようという発想自体が愚かというほかはない。統一教会も、天皇教・天皇制も。

宮司自身が語る「靖国神社の本質」

(2022年11月6日)
 「新宗教新聞」の10月31日号が届いた。いつものように、丁寧に目を通す。私は、新宗連には好意をもっている。私と新宗連・「新宗教新聞」との、ささやかな関わりについては、下記ブログをご覧いただきたい。

宗教弾圧を阻止し平和を守るための宗教協力 ー「新宗教新聞」を読む
https://article9.jp/wordpress/?p=4831 (2015年5月2日)

 私の、同紙今号への関心は、新宗連が統一教会問題に触れていないかということ。
 「われわれは統一教会とは違う。一緒にされてはたまらない。統一教会に対する厳しい規制を」と言うのか、あるいは「統一教会とは言え、宗教団体への権力的規制は望ましくない」とする立場なのか、それが知りたい。

 残念ながら、その関心に応える記事はない。ただ、10月6日新宗連定例理事会の議事終了後、「北海道大学大学院教授の櫻井義秀氏が、世界平和統一世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる諸問題について詳細に解説し、質疑を行った」の記事があるのみ。また、スローガン「信教の自由を守ろう」に関する座談会に島薗進さん出席の記事がある。新宗連も、問題を避けずに、いろいろ模索してはいるのだ。

 ところで、「首都圏研集会 靖国神社を訪問」という小さな記事が目にとまった。えっ? 新宗連が靖国神社へ行くんだ。これは意外である。新宗連は、戦前の天皇制政府による宗教弾圧の経験から、厳格な政教分離を要求している。閣僚の靖国参拝には強く反対している。今年7月28日にも、新宗連・信教の自由委員会は、政府や自民党に「靖国神社の政治利用に関する意見書」を提出しているではないか。

 「首都圏総支部は9月6日午後2時から東京九段の靖国神社で「令和4年度研修会」を開催した。研修会は、信教の自由を学ぶ目的で新宗連外の宗教施設などを訪問するもので、例年開催されてきたがここ2年は新型コロナ禍により延期されてきた。
 靖国神社に集合した一行は、初めに境内にある展示施設「遊就館」で明治以降の日本の歴史や靖国神社の歴史などを学んだ。続いて本殿に昇殿し、正式参拝を行った。
 この後山口建史宮司と懇談。山口宮司が靖国神社創建の由来などについて説明した後、意見交換を行った。その中で山口宮司は、遊就館の展示は「戦争の悲惨さ」を示すものがないとの批判があることに触れ、あくまでも国のために亡くなった祭神を「顕彰」するための展示であり、戦争の記憶の継承が目的ではないことを説明。また靖国神社の祭神には個人的な救済を求めるのではなく「尊い命を国家に捧げられたことへの感謝を伝えることが大事」と語った。}

 これだけの短い記事だが、靖国の本質が淡々とよく語られている。靖国神社とは、「国のために亡くなった祭神を『顕彰』する施設」なのだ。けっして、戦争の悲惨を語り継ぎ、平和を祈る場所ではない。命の大切さを確認するところではなく、命を捨てたことを讃え、命を捨てよと教える場でもある。そして、「国のための死」であればこその「顕彰」である。靖国にとって万人の死は平等ではない。「君のため、国のための戦死」だけが顕彰に値する。それ以外の死は眼中にないのだ。

 「死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」と、天皇から押し付けられて死んだ兵士や哀れである。その親も妻も子も憐れの極みである。この不幸・悲惨を名誉と教え込むマインドコントロール装置こそ、靖国の本質というべきであろう。

宗教法人解散命令の要件には、刑事法令違反だけでなく、民事法令違反も含まれる。

(2022年10月20日)
 今朝の各紙の見出しには、「民法の不法行為も該当」というフレーズが躍っている。〈裁判所による宗教法人解散命令〉及び〈行政の解散命令請求〉の要件について、岸田首相答弁報道におけるものである。

 「首相は10月18日の衆院予算委では民法は『入らない』と答弁しており、1日で答弁を変更し、『民法の不法行為も入り得る』との認識を示した」という記事になっている。

 併せて、「旧統一教会を巡っては、幹部による刑法上の違反行為を認定した裁判例はないものの、民事裁判では組織的な不法行為責任が認定された例が2件ある。答弁変更により、解散命令に向けたハードルが下がる可能性がある」(毎日)とも報じられている。

 この論争、「宗教法人に対する解散命令の根拠としては刑事的な違法が必要ではないか」「民事的違法では足りないのではないか」というかたちで、提起されている。しかし、宗教法人法を素直に読めば、本来こんな論争が出てくる余地はない。にもかかわらず、政府が「刑事違法」にこだわったのは、できれば統一教会を温存したかったからではないか。その政府見解の根拠は、オウム真理教に対する解散命令における理由の誤読によるものと思われる。

 やや面倒だが、以下に、この点に関する関係条文とオウムの事例における裁判所の判断を確認しておきたい。

★ 宗教法人法81条(抜粋・リライト)

法81条1項(解散命令)

 「裁判所は、宗教法人について左の各号の一(どれかひとつ)に該当する事由があると認めたときは、所轄庁(文科大臣)の請求により、その解散を命ずることができる。
一 法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
二 第二条に規定する宗教団体の目的(宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成すること)を著しく逸脱した行為をしたこと。

 条文上の文言は、「法令に違反」である。「法令」が民事法を含むことは当然であって、「刑事法に違反して」となっていない以上は、民事法違反の場合を除外するとは読みようがない。また、「法令に違反」が仮に刑事法違反に限られるとすれば、条文の文言は「犯罪行為をしたこと」、あるいは「刑罰法規に違反する行為をしたこと」「犯罪の構成要件に該当する行為があったこと」などとなるだろう。「公共の福祉を害する…と認められ行為をしたこと」は、明らかに民事的な違法行為を含むという以外に解釈の余地はない。

★ 民事違法排除論

 にもかからず、首相は18日の衆院予算委で、オウム真理教に対する解散命令で裁判所が示した「刑法等の実定法規の定める禁止規範または命令規範に違反」との基準を根拠に、民法上の不法行為は含まないとの認識を示していた。
 はたして、この認識は正しいだろうか。オウムの事例における裁判所の判断を検討してみよう。

★ 対オウム真理教・解散命令の経過概略 

 1995年、東京都知事鈴木俊一と検察官は、宗教法人法第81条1項に基づいて、宗教法人オウム真理教の解散命令を東京地方裁判所に請求した。サリン生成を企てた殺人予備行為が、法第81条1項1号と2号に該当するとしてのことである。

 解散命令請求事件は、訴訟ではなく非訟手続である。請求を受理した東京地裁はこれを認めて宗教法人解散の決定をした(1995年10月30日)。これを不服としてオウム側が東京高裁に即時抗告をしたが抗告棄却となった(同年12月19日)。さらに、最高裁に特別抗告がなされたが、これも棄却され(96年1月30日)て解散命令が確定した。

★ オウム・地裁決定抜粋

 「刑法上の犯罪は、自然人を主体とするものであって、宗教法人自体がこれを犯すことはできない。」「(しかし)宗教法人と法令違反行為・目的逸脱行為の主体との厳密な一致を必ずしも要求していないと解される。」
 「宗教団体構成員の大部分あるいは中枢部分が、宗教団体の組織的行為として犯行に関与するなど、重大な犯罪の実行行為と宗教団体の組織や活動との間に、社会通念上、切り離すことのできない密接な関係があると認められる場合は、宗教法人法81条1項1号又は2号前段に基づき、宗教法人の解散を命じることができると解すべきである。」「あくまでも実質的にみて、宗教団体の組織的行為と認められるかどうかを基準とすべきである。」
 「本件殺人予備行為は、オウム真理教の教祖であり相手方の代表役員である松本智津夫の指示あるいは少なくともその承認の下に、オウム真理教団の組織的行為として実行されたものと認めるのが相当であり、重大な犯罪の実行行為と宗教団体の組織・活動との間に、社会通念上、切り離すことのできない密接な関係があると認められる場合に当たるから、宗教法人法81条1項1号及び2号前段に定める解散命令事由が存在するというべきである。」

 以上のとおり、地裁決定の関心は、「法人の犯罪といえるか」にのみあって、「解散命令の要件として民事違法を含むか」への言及はない。高裁決定は次のようにこのことに触れている。

★ オウム・高裁決定抜粋

 「宗教法人法が宗教団体に法人格を取得する道を開くときには、これにより法人格を取得した宗教団体が、法人格を利用して取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を濫用して、法の定める禁止規範もしくは命令規範に違反し、公共の福祉を害する行為に出る等の犯罪的、反道徳的・反社会的存在に化することがありうるところから、これを防止するための措置及び宗教法人がかかる存在となったときにこれに対処するための措置を設ける必要があるとされ、かかる措置の一つとして、右のような存在となった宗教法人の法人格を剥奪し、その世俗的な財産関係を清算するための制度を設けることが必要不可欠であるとされたからにほかならない。

 右のような同法81条1項1号及び2号前段所定の宗教法人に対する解散命令制度が設けられた理由及びその目的に照らすと、右規定にいう
「宗教法人について」の「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」(1号)、「2条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱した行為」(2号前段)とは、
(1) 宗教法人の代表役員等が法人の名の下において取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を利用してした行為であって、社会通念に照らして、当該宗教法人の行為であるといえるうえ、
(2) 刑法実定法規の定める禁止規範又は命令規範に違反するものであって、
(3) しかもそれが著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為、又は宗教法人法2条に規定する宗教団体の目的を著しく逸脱したと認められる行為
をいうものと解するのが相当である。」

 オウムの事例は刑法犯案件であったが、高裁(抗告審)決定はわざわざ「刑法」と、刑法案件に限定されないことを明示した。また、「実定法規の定める禁止規範又は命令規範」は、刑事法に限らないことの明示の表現と言ってよい。さらに、「反道徳的」「反社会的」も同じ意味をもつものと解する根拠となる。

★ オウム・最高裁決定
 同法人は、憲法20条の定める信教の自由を侵害しているなどとして最高裁判所に特別抗告をした。結論は特別抗告棄却である。
 特に解散命令の要件に触れるところはなく、宗教法人に対する不利益をもたらす解散命令という制度が、憲法20条による信教の自由を侵害することにはならないという憲法解釈論に限られている。

統一教会の解散命令に向けて歯車が回り始めた。これを止めてはならない。

(2022年10月18日)
 昨日消費者庁に設置された『霊感商法等の悪質商法への対策検討会』が、7回の審議を終えて報告書を発表した。私には意外な印象だが、世人の関心の的となっている統一教会に対する解散命令請求問題に踏み込んだものとなった。
 「旧統一教会については、社会的に看過できない深刻な問題が指摘されているところ、解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法第78条の2に基づく報告徴収及び質問の権限を行使する必要がある」という結論。

 さらに意外なことに、同日岸田首相が永岡桂子文科相に、上記の報告に従った「質問権の行使」手続への着手を指示した。こうして、事態は急進展の兆しを見せている。うまく行けば、以下の工程が進展することになる。重かった歯車が回り始めたのだ。

 宗教法人審議会の開催と答申⇒文科省職員の調査⇒文科大臣の解散命令請求⇒裁判所の解散命令⇒法人格剥奪と選任された清算人による財産清算手続

 岸田首相が、この歯車を回し始めた政治責任は重い。途中で翻意することも、失敗することも許されない。

 さて、馴染みの薄い宗教法人法第78条の2である。その第1項を、本件の事例に当て嵌めて書き出してみるとこうなる。

 「文科大臣は、統一教会について、解散命令の要件(「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと」)に該当する疑いがあると認めるときは、〈統一教会の業務又は事業の管理運営に関する事項に関し〉報告を求め、または担当職員に統一教会の代表役員その他の関係者に対し質問させることができる」。但し、その調査の強制力はない。

 なお、同条の第2項以下も書き出しておこう。
第2項 前項の規定により報告を求めまたは担当職員に質問させようとする場合においては、文科大臣は、あらかじめ宗教法人審議会に諮問してその意見を聞かなければならない。

第3項 前項の場合においては、文科大臣は、報告を求めまたは当該職員に質問させる事項及び理由を宗教法人審議会に示して、その意見を聞かなければならない。

第4項 文科大臣は、第1項の規定により報告を求めまたは担当職員に質問させる場合には、宗教法人の宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自由を妨げることがないように特に留意しなければならない。

第5項 第1項の規定により質問する担当職員は、その身分を示す証明書を携帯し、統一教会の代表役員その他の関係者に提示しなければならない。

第6項 第1項の規定による権限は、犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。

 信教の自由に配慮し、軽々に宗教団体に対する不当な弾圧とならないように制度設計ができているのだ。検討会の報告書は、この点をこう言っている。

 「宗教法人法第81条に基づく解散命令については、団体としての存続は許容されるとはいえ、法人格を剥奪するという重い対応であり、信教の自由を保障する観点から、裁判例にみられる同条の趣旨や要件についての考え方も踏まえ、慎重に判断する必要がある。
 また、宗教法人法第78条の2に規定する報告及び質問に関する権限は、解散命令の事由等に該当する疑いがあると認められるときに、宗教法人法の規定に従って行使すべきものとされ、これまで行使した例はない。しかし、これらの消極的な対応には問題があり、運用の改善を図る必要があるとの指摘があった。
 旧統一教会については、旧統一教会を被告とする民事裁判において、旧統一教会自身の組織的な不法行為に基づき損害賠償を認める裁判例が複数積み重なっており、その他これまでに明らかになっている問題を踏まえると、宗教法人法における『法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした』又は『宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をした』宗教法人に該当する疑いがあるので、所轄庁において、解散命令請求も視野に入れ、宗教法人法第78条の2第1項に基づく報告徴収及び質問の権限を行使する必要がある。」

なお、同報告書はこの点に関する高裁判例を引用して次のように解説している。

 「東京高等裁判所決定(1995年12月19日)において、解散命令制度が設けられた理由に関し、『同法が宗教団体に法人格を取得する道を開くときは、これにより法人格を取得した宗教団体が、法人格を利用して取得・集積した財産及びこれを基礎に築いた人的・物的組織等を濫用して、法の定める禁止規範もしくは命令規範に違反し、公共の福祉を害する行為に出る等の犯罪的、反道徳的・反社会的存在に化することがありうるところから、これを防止するための措置及び宗教法人がかかる存在となったときにこれに対処するための措置を設ける必要があるとされ、かかる措置の一つとして、右のような存在となった宗教法人の法人格を剥奪し、その世俗的な財産関係を清算するための制度を設けることが必要不可欠であるとされたからにほかならない』との考え方が示されている。
 あわせて同決定においては、オウム真理教の解散命令に関し、
 ?法人の代表役員等が、法人の人的・物的組織等を用いて行ったものであること、
 ?社会通念に照らして、当該宗教法人の行為といえること、
 ?刑法等の実定法規の定める禁止規範又は命令規範に違反すること、
といった要件を満たす必要があるとの考え方が示されている。」

 解散命令が確定すればどうなるか。宗教法人法49条3項の規定に従い、「文科相の請求により又は裁判所の職権で、清算人を選任」して、清算手続が開始されることになる。

 こうして統一教会の法人格は剥奪され、その財産は清算される。しかし、教義が断罪されることはなく、宗教団体としての存続は可能である。布教活動も制約を受けることはない。しかし、税制上の優遇措置を受ける資格は失う。なによりも、行政と司法から、『法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をした』との烙印を押されることの不利益を甘受せざるを得ない。

 権力の暴走は恐ろしい。憲法20条の理念を承けた宗教法人法は、再びの宗教弾圧の時代を繰り返さぬよう十分な配慮をもって宗教団体を遇している。それでも例外的な措置として宗教法人に対する解散命令の制度を設けざるを得ない。長期間にわたっての統一教会の反人権的・反社会的な行為は、例外的な措置の適用を必然としている。解散命令に向けて回り始めた歯車の回転が止められることにならぬよう多くの目で、監視を続けなければならない。

神は女性に、ヒジャブをかぶれと教えしや。神は、かくも非寛容で残忍なるや。

(2022年10月16日)
 神が人をつくったのではない。人が神を作ったのだ。ところが往々にして、その神が人を支配し、人を不幸に陥れる。場合によっては神が人を殺す。とりわけ、ナショナリズムと結びついた神は狂気を帯びる。ナショナリズムがカルトとなり、そのカルトが国家権力を握るとき悲劇が生じる。かつて、神権天皇制国家がそうであったし、いまテヘランで起きていることも同様だ。

 ちょうど1か月前の9月16日、イランの首都テヘランでヒジャブ(スカーフ)のかぶり方が不適切だとして警察に逮捕されていた22歳の女性、マフサ・アミニさんが急死した。9月13日警察に警棒で頭を殴られ、警察車両に頭を打ち付けられるなどした後意識不明に陥り16日に亡くなったとされる。警察発表は心臓発作が原因だと説明しているが、信じる者はいない。翌17日から、悪名高い「風紀警察」による撲殺だとして抗議するデモがイラン各地に広がった。女性の地位の確立を求める行動でもあり、その背後にある宗教支配への抵抗でもある。

 当局は、これに徹底した弾圧で応じている。権力の正統性の根幹に関わる問題と捉えられているからだ。これは、ときの政権だけでなく、体制維持の問題なのだ。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは10月13日、イランの反スカーフデモで治安部隊に殺害されたとして把握している144人のうち、10代の子供が少なくとも23人含まれていたと発表した。うち17人は治安部隊の実弾射撃で死亡したという。アムネスティは「容赦ない残忍な弾圧だ」と非難。子供の犠牲者数は実際はもっと多いとみて、調査を継続する。
 ノルウェー拠点の人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は12日の報告で、大人も含め少なくとも201人が死亡したとしている。

 この事態は、宗教が人を不幸にしている好例である。かつて、天皇の神聖性を認めない宗教も学説も政治勢力も文学も、非国民・国賊として徹底した弾圧を受けた。いま、ヒジャブ着用強制の是非を巡る論争が、宗教論争を越えて体制選択の問題にもなっている。神の教えを認めないとするイランのデモに、国家が妥協し得ないのだ。政府はデモ参加者を国外の敵対勢力に扇動された者たちだとして、取り締まりの方針を変えていない。

 イランは厳格なイスラム国家といわれる。教えに従って、女性は公共の場でスカーフなどで髪を隠すことが義務づけられている。外国人も例外とされない。保守強硬派のライシ現政権は、その取り締まりを強化している。

 いま、イランの抗議デモに連帯する動きが、トルコからヨーロッパにも広がっているという。そして、抗議のパフォーマンスとしての女性の断髪が続いているという。「長い美しい髪が男性を誘惑するから、ヒジャブで隠せ」というのが、髪の教えらしい。これに、「短髪にすればスカーフはいらない」という抗議なのだという。

 「他国の、あるいは他人の宗教には寛容であれ」「真摯な宗教行為を尊重しなければならない」というのが、宗教と接する際の基本作法である。「宗教上の信念において、ワクチンは打てない」「輸血は拒否する」「剣道の授業は受けられない」という要望は、可能な限り尊重されなければならない。だから、ヒジャブを被る宗教習俗は尊重すべきではあろう。

 しかし、個人の宗教的信念の問題と、国家権力の強制の問題とは厳格に分けて考えなければならない。いま、問題は、権力が宗教を背景に女性を差別し、人権を弾圧している局面である。

 神はそれほどにも非寛容で、デモ隊への発砲も辞さない残酷な存在なのか。人が作った神の恐ろしさをあらためて思う。

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