神は女性に、ヒジャブをかぶれと教えしや。神は、かくも非寛容で残忍なるや。
(2022年10月16日)
神が人をつくったのではない。人が神を作ったのだ。ところが往々にして、その神が人を支配し、人を不幸に陥れる。場合によっては神が人を殺す。とりわけ、ナショナリズムと結びついた神は狂気を帯びる。ナショナリズムがカルトとなり、そのカルトが国家権力を握るとき悲劇が生じる。かつて、神権天皇制国家がそうであったし、いまテヘランで起きていることも同様だ。
ちょうど1か月前の9月16日、イランの首都テヘランでヒジャブ(スカーフ)のかぶり方が不適切だとして警察に逮捕されていた22歳の女性、マフサ・アミニさんが急死した。9月13日警察に警棒で頭を殴られ、警察車両に頭を打ち付けられるなどした後意識不明に陥り16日に亡くなったとされる。警察発表は心臓発作が原因だと説明しているが、信じる者はいない。翌17日から、悪名高い「風紀警察」による撲殺だとして抗議するデモがイラン各地に広がった。女性の地位の確立を求める行動でもあり、その背後にある宗教支配への抵抗でもある。
当局は、これに徹底した弾圧で応じている。権力の正統性の根幹に関わる問題と捉えられているからだ。これは、ときの政権だけでなく、体制維持の問題なのだ。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは10月13日、イランの反スカーフデモで治安部隊に殺害されたとして把握している144人のうち、10代の子供が少なくとも23人含まれていたと発表した。うち17人は治安部隊の実弾射撃で死亡したという。アムネスティは「容赦ない残忍な弾圧だ」と非難。子供の犠牲者数は実際はもっと多いとみて、調査を継続する。
ノルウェー拠点の人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は12日の報告で、大人も含め少なくとも201人が死亡したとしている。
この事態は、宗教が人を不幸にしている好例である。かつて、天皇の神聖性を認めない宗教も学説も政治勢力も文学も、非国民・国賊として徹底した弾圧を受けた。いま、ヒジャブ着用強制の是非を巡る論争が、宗教論争を越えて体制選択の問題にもなっている。神の教えを認めないとするイランのデモに、国家が妥協し得ないのだ。政府はデモ参加者を国外の敵対勢力に扇動された者たちだとして、取り締まりの方針を変えていない。
イランは厳格なイスラム国家といわれる。教えに従って、女性は公共の場でスカーフなどで髪を隠すことが義務づけられている。外国人も例外とされない。保守強硬派のライシ現政権は、その取り締まりを強化している。
いま、イランの抗議デモに連帯する動きが、トルコからヨーロッパにも広がっているという。そして、抗議のパフォーマンスとしての女性の断髪が続いているという。「長い美しい髪が男性を誘惑するから、ヒジャブで隠せ」というのが、髪の教えらしい。これに、「短髪にすればスカーフはいらない」という抗議なのだという。
「他国の、あるいは他人の宗教には寛容であれ」「真摯な宗教行為を尊重しなければならない」というのが、宗教と接する際の基本作法である。「宗教上の信念において、ワクチンは打てない」「輸血は拒否する」「剣道の授業は受けられない」という要望は、可能な限り尊重されなければならない。だから、ヒジャブを被る宗教習俗は尊重すべきではあろう。
しかし、個人の宗教的信念の問題と、国家権力の強制の問題とは厳格に分けて考えなければならない。いま、問題は、権力が宗教を背景に女性を差別し、人権を弾圧している局面である。
神はそれほどにも非寛容で、デモ隊への発砲も辞さない残酷な存在なのか。人が作った神の恐ろしさをあらためて思う。