日民協ホームページの間借り生活に別れを告げて、引っ越し先として当ブログを開設したのが昨年の4月1日。その日から数えて、本日が365日目に当たる。この間一日の休載もなく、365日間連続して更新した。この面倒なブログにお付き合いいただいたありがたい読者とともに、一周年連続更新を祝うこととしよう。
間借りは窮屈でいけない。みすぼらしくとも、自前の持ち家が精神的にはのびのびとしてよろしい。せっかくのブログが、大家への気兼ねで、卑屈に筆の鈍ることがないとも限らない。一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ。
365日書き続けての実感として言っておきたい。ブログとは、言論戦におけるこの上ない貧者の武器である。誰もが手にしうるツールとして、表現の自由を画に描いた餅に終わらせず、表現の自由を実質化する手段としての優れものである。まことに貴重な存在なのだ。
当ブログも、発足当初しばらくは日に3桁のアクセスにとどまっていた。しかし、おいおいアクセス数はアップして、「宇都宮君、立候補はおやめなさい」の33回シリーズ後半では、毎日7000?8000人の読者を得た。多くの人からの共感や支持、励ましに接することもできた。これを紙に印刷して配布するなどは、個人の力では絶対に不可能。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。
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「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
さて、「徳洲会・猪瀬」5000万円問題が冷めやらぬうちに、「DHC・渡辺喜美」8億円問題が出てきた。2010年参院選の前に3億円、12年衆院選の前に5億円。さすが公党の党首、東京都知事よりも一桁上を行く。
私は、「猪瀬」問題に矮小化してはならないと思う。飽くまで「徳洲会・猪瀬」問題だ。この問題に世人が怒ったのは「政治が金で動かされる」ことへの拒否感からだ。「政治が金で買われること」のおぞましさからなのだ。政治家に金を出して利益をむさぼろうという輩と、汚い金をもらってスポンサーに尻尾を振るみっともない政治家と、両者をともに指弾しなければならない。この民衆の怒りは、実体法上の贈収賄としての訴追の要求となる。
「DHC・渡辺喜美」問題も同様だ。吉田嘉明なる男は、週刊新潮に得々と手記を書いているが、要するに自分の儲けのために、尻尾を振ってくれる矜持のない政治家を金で買ったのだ。ところが、せっかく餌をやったのに、自分の意のままにならないから切って捨てることにした。渡辺喜美のみっともなさもこの上ないが、DHC側のあくどさも相当なもの。両者への批判が必要だ。
もっとも、刑事的な犯罪性という点では「徳洲会・猪瀬」事件が、捜査の進展次第で容易に贈収賄の立件に結びつきやすい。「DHC・渡辺喜美」問題は、贈収賄の色彩がやや淡い。これは、知事(あるいは副知事)と国会議員との職務権限の特定性の差にある。しかし、徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。
DHCの吉田は、その手記で「私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した」旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。
もうひとつの問題として、政治資金、選挙資金、そして政治家の資産状況の透明性確保の要請がある。政治が金で動かされることのないよう、政治にまつわる金の動きを、世人の目に可視化して監視できるように制度設計はされている。その潜脱を許してはならない。
選挙に近接した時期の巨額資金の動きが、政治資金でも選挙資金でもない、などということはあり得ない。仮に真実そのとおりであるとすれば、渡辺嘉美は吉田嘉明から金員を詐取したことになる。
この世のすべての金の支出には、見返りの期待がつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの。上限金額を画した個人の献金だけが、民意を政治に反映する手段として許容される。企業の献金も、高額資産家の高額献金も、金で政治を歪めるものとして許されない。そして、金で政治を歪めることのないよう国民の監視の目が届くよう政治資金・選挙資金の流れの透明性を徹底しなければならない。
DHCの吉田嘉明も、みんなの渡辺喜美も、まずは沸騰した世論で徹底した批判にさらされねばならない。そして彼らがなぜ批判されるべきかを、掘り下げて明確にしよう。不平等なこの世の中で、格差を広げるための手段としての、金による政治の歪みをなくするために。
(2014年3月31日)
ときおり講演の依頼をうける。拙い話しを聞いていただけることをありがたいと思って、日程の都合がつく限りお引き受けしている。
本日は、那須南九条の会からのご依頼あっての講演。事前の要望に沿って、三題噺とした。頂戴したお題は、「集団的自衛権」「大本営発表」そして「日光東照宮の三猿の教え」。
以下はそのレジュメ。やや長文だが、大意を掴んでいただけるものと思う。
ど こ へ 行 く の ? ニッポン
三題噺で語る「那須南九条の会」憲法と特定秘密保護法学習会レジュメ
与えられた3個のお題
1 「集団的自衛権」 ?平和の問題
2 「大本営発表」 ?知る権利と民主主義の問題
3 「日光東照宮の三猿の教え」 ?主権者としての姿勢の問題
☆ そして、三題共通の土台を形づくる立憲主義について
1.集団的自衛権行使容認で平和はどうなるの?
ー日本は誰と何処で何をやろうというのだろうか
※ 「集団的自衛権」とは?
それは、「自衛」の権利ではなく、「人のケンカを買って出る権利」のこと。
「自国が攻撃されなくても、同盟国が攻撃された場合には一緒に闘う」宣言
例1 「義によって、その敵討ちに助太刀いたす」 武士の倫理
余話 敵討ちの倫理性 法然上人(勢至丸)9歳時出家の逸話
例2 「よくも俺の舎弟に手を出したな。俺が倍返しだ」 ヤクザの掟
集団的自衛権の説明はこのフレーズが一番分かりやすい
例3 南ベトナムが北から叩かれた
⇒アメリカが北爆を開始し地上戦を開始する 大国の論理
例4 アメリカ軍が世界のどこかで攻撃を受けた
⇒日本が自分への攻撃と見なして戦争に加わる 子分の義理
※ 集団的自衛権は大戦後の国連憲章51条に突然書き込まれた用語。
※ 以来、「集団的自衛権」は、大国の軍事干渉の口実として使われてきた。
今日本は、「けなげにも親分に売られたケンカを買おう」としている。
※ アメリカは好戦国家である。1960年以後の主なアメリカの武力行使
キューバ侵攻・ベトナム戦争・ドミニカ共和国派兵・カンボジア侵攻・ラオス侵攻・レバノン派兵・ニカラグア空爆・グレナダ侵攻・リビア空爆・イラン航空機撃墜事件・パナマ侵攻・湾岸戦争・ソマリア派兵・イラク空爆・ハイチ派兵・ボスニアヘルツェゴビナ空爆・スーダン空爆・アフガニスタン空爆・コソボ空爆・アフガニスタン戦争・イラク戦争・リベリア派兵・ハイチ派兵・ソマリア空爆・リビア攻撃…。
※ 常に、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を背負うことになる。
60年安保反対運動が盛りあがった背景には、「アメリカとの軍事同盟は日本の平和にとっての脅威」という国民の共通認識があった。集団的自衛権行使容認論のきっかけには、米国から日本に対する要請がある。
※ これまでの政府(内閣法制局見解)の憲法解釈の確認。
*「憲法9条(2項)がある以上、日本が『戦力』をもつことはできない」
(9条2項抜粋「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」)
*「しかし、国家にも自衛権はある。まさか、憲法は自衛権を否定してはいないはず。したがって、自衛のための実力は『戦力』にあたらず、自衛隊は憲法違反の存在ではない」?自衛隊は戦力ではない。
*「もっとも、自衛隊が合憲であるためには、飽くまで自衛のための実力でなくてはならず、専守防衛のための装備・行動に限定される」
* 自衛権とは、「(1)急迫不正の侵害があること、(2)他にこれを排除して国を防衛する手段がないこと、(3)必要な限度にとどめること」の3要件が必要。
* 自国が攻撃されていないのに、他国(同盟国)が攻撃されたとして一緒に闘うことは自衛の範囲を超えている」
*「だから、日本国の集団的自衛権は、国際法上国家の権利としてあるけれども、その行使は憲法の制約があって認められていない」
※ 集団的自衛権論争をめぐって今争われているのは、
日本の平和と安全を守るために、
(1)「日本は厳格に専守防衛に徹するべき」なのか
(2)「専守防衛の枠を取っ払って、必要あるかぎり、
世界のどこででも同盟国とともに戦うべき」なのか。
そのどちらを選択すべきかの問題。
※ 現在の(1) の立ち場を(2)の立場に変更するには、
A 憲法を改正する
B 憲法を改正せずに、憲法の解釈を変更する
C まず憲法改正手続(憲法96条)を改正して、次に9条を改正する
(憲法改正発議の要件を、国会議員の「3分の2」から「過半数」に)
※ 安倍政権は、まずC策の実現を目指した。しかし、「やりかたが姑息」、「裏口入学のような手口」、「立憲主義を理解していない」と評判悪く頓挫。
今は、B策を狙っている。そのために、内閣法制局長官を最高裁判事に転出させ、自分のいうことを聞く小松一郎元駐仏大使を後任に抜擢するという異例の人事を行った。また、この4月に安保法制懇の答申を得て、閣議決定で政府解釈の変更しようとしている。これには、自民党内部からも批判の声が高い。
※ 憲法9条は、満身創痍ではあるがけっして死文化していない。自衛隊は飽くまで「自衛のための実力」であって、軍隊としては動けない。自衛隊の装備も編成も行動も、専守防衛の大枠は外していない。
戦後68年、自衛隊は戦闘で他国の兵士を殺していないし、殺されてもいない。イラクに派遣されても、戦闘行為には加われなかった。
※ だからこそ、現政権にとっては、9条が邪魔なのだ。自民党「日本国憲法改正草案」(2012年4月)は、国防軍の設置を明言している。
また、解釈改憲で集団的自衛権行使を認めれば、専守防衛の枠がはずれる。この意味は大きい。
⇒「憲法改正手続が厳格だから、解釈を変えてしまえ」 これは禁じ手
※ 日本国憲法は戦争の惨禍に対する反省から生まれた。反省とは、負けたことの反省ではなく、戦争の悲惨さを繰り返さないこと。二度と戦争をしないこと。再び加害者にも被害者にもならないこと。「戦争と文明とは共存できず、文明が戦争を駆逐しなければ、戦争が文明を駆逐してしまう」そう言った、日本国憲法制定をになった良識ある保守政治家たちの言葉を噛みしめなければならない。
2.大本営発表が国民を導いた結末は何だったの?
ー神州不滅神話と1億総玉砕ーNHKのあり方と現実
※「営」とは軍隊の所在地。司令官が所在する営が「本営」。大元帥である天皇が所在する陣営だから「大本営」。戦時に天皇の指揮下に設置された最高統帥機関を指す。日清戦争以来、戦争・事変の度に設置された。太平洋戦争開始以来戦況に関する情報は一元的に「大本営発表」としてNHKから放送された。それ以外の情報は流言飛語とされて、厳重な取り締りの対象となった。
第1回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時の対米英開戦を告げるもの。同7時に、NHKラジオによって以下のとおり報道された。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この日、NHKは「ラジオのスイッチを切らないでください」と国民に呼び掛け、9回の定時ニュースと11回の臨時ニュースを大戦果の報で埋めつくした。「東条内閣と軍部はマスコミ(NHK)を最大限に利用し、巧みな演出によって国民の熱狂的な戦争支持熱をあおり立てた」
その後、NHKの大本営発表は846回行われ、NHKと大本営発表との親密な関係は、戦時下の日本国民の意識に深く刻みこまれた。
※「大本営発表」は、「情報独占」と「情報操作」の代名詞となった。戦争遂行に国民を鼓舞する目的のプロパガンダであったから、勝ち続けているはずの日本が、転進・玉砕を余儀なくされ、やがて本土の空襲・艦砲射撃をうけ、原爆投下にいたって、敗戦となる。
※情報を一手に握っていた上層部は、敗戦必至を知りながら、これを隠して戦意を煽り続けて膨大な人命を失った。真実を知る術のない国民はこれを批判できなかった。
※情報を一手に握る地位にある者は、自分に都合のよいように情報操作が可能。握りつぶす、改変する、誇張する、取捨選択して一部だけを出す。権力を持つ者に情報が集中し、集中した情報を操作することによって権力は維持され強化される。
※「神州不滅」は神話の世界のスローガン。天皇の祖先が神であり、天皇自身も現人神であるという信仰に基づいて、天皇が治めるこの国は、他国とは違った特別の神の国である。だから、最後には神風が吹いて戦争には必ず勝つ、とされた。
※大本営発表の結末は、1945年8月15日の玉音放送となった。このときの「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ」(神州の不滅を信じ)と書き込まれている。
※日本の国民は身に沁みて知った。国民には正確な情報を知る権利がなければならないことを。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障した。これはマスメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の真実を「知る権利」を保障したものである。
※情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」である。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。
※民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっているが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要。そのためには、国民が正確な情報を知らなければならない。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがす。戦前のNHKは、その積極的共犯者であった。
※戦前のNHKは、形式は国営放送ではなく社団法人日本放送協会ではあったが、国策遂行の役割を担った事実上の国営放送局だった。大本営発表に象徴される戦争加担の責任は免れない。その反省から、1950年成立の放送法は、NHKを国策追従から独立した「公共放送」と位置づけた。
※敗戦、富国強兵がスローガンだった時代、あらゆる局面での権力の集中と教化が国策に合致するものであった。戦後は、議会も行政も司法も天皇大権から独立した存在となった。教育も国家の統制を排する建前の制度となった。放送もそうだ。公共放送は、国営放送でも国策放送でもない。国家から独立し、国家からの統制に服することなく、戦前大本営発表の垂れ流し機関であった愚を繰り返してはならないとするのが、放送法の精神である。
※にもかかわらず、今年1月25日の籾井勝人新NHK会長の就任記者会見における「政府が右というときに、左というわけにはいかない」という発言は、NHKの戦前戦後の歴史や教訓に学ばず、再びの大本営発表の時代を招きかねない危険を露呈したもの。「今後は口を慎めばよい」という類の問題ではない。籾井氏が、およそNHKの会長職にふさわしからぬ人物と判明した以上は、辞職していただく以外にはない。この重責は、それにふさわしい人格が担うべきなのだから。
3.秘密保護法で私たちの日常生活はどうなるの?
ー日光東照宮の三猿の教え
※ 本来三猿の教えとは、「悪いものは見るな(よいものだけを見よ)、悪いことは聞くな(よいことだけを聞け)、悪いことは言うな(よいことだけを口にせよ)」という教訓。論語の「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動」が元ネタとされる。しかし世俗には、「見ざる。聞かざる。言わざる」と見て見ぬふりをすることが、無難な処世訓として定着している。いじめを見ても見ぬふりをし、なにも言わないことが賢い生き方だというもの。
※「不正に目をつぶらず、聞き耳を立てて、臆することなくものを言う」。これが、あるべき主権者の姿勢。その反対の「見ざる。聞かざる。言わざる」は、為政者にとってこの上なく好都合な御しやすい国民。
※ 戦前の軍機保護法、国防保安法などの軍事法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものだった(「戦争は秘密から始まる」「戦争は軍機の保護とともにやって来る」)。さらに治安維持法がこれに輪を掛けるものだった。
※ 特定秘密保護法がいま、戦前の軍事法・治安法の役割を果たそうとしている。
重罰化、広範な処罰、要件の不明確さがその特徴である。
*重罰による「三猿化」強制強化⇒内部告発の抑止
・自衛隊法の防衛秘密漏洩罪 懲役5年
・国家(地方)公務員法違反 懲役1年
・特定秘密保護法 懲役10年
*未遂・過失も処罰
*共謀・教唆・扇動も処罰
*将来、更に法改正で重罰化の可能性
※たとえば「独立教唆罪」
気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、(「国民のためにその秘密を教えてもらいたい」「お断りする」とされた場合)犯罪となりうる。
※民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できる。国民はこれを検証する手段をもたない。国会も、裁判所も。
※国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制は、罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との宿命的な矛盾。地雷は踏んで爆発してはじめてその所在が分かる。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。強制捜査を受け起訴されて、はじめて秘密に触れていたことが分かる。
※国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為である。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなる。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害する。人権が危うくなる。
※特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」「その国民には、国会議員も、裁判官も含まれる」ということ。これは民主々義・立憲主義ではない。いかなる政府も、猜疑の目で監視しなければならない。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはならない。
※特定秘密保護法は、2013年12月6日に成立し、同月13日に公布された。
「公布の日から一年を超えない範囲内において政令で定める日」が施行期日とされている。政府は、それまでに政令・規則等を整備するとしているが、私たちは、それまでに、危険なそして評判の悪い、この法律を廃止したい。
4.日本国憲法と立憲主義
※日本国憲法は、その成り立ちにおける二面性をもっている。
(1) 人類の叡智の積み重ねが到達した人権と民主主義擁護の普遍性
(2) 戦前の負の歴史を繰り返さないとする固有性
※上記(1)は市民革命を経た18世紀以来の、自由主義・個人主義の近代憲法の原則。
上記(2)は、大日本帝国の侵略戦争と植民地主義を反省する歴史認識の凝縮。
※その両面を意識しつつ、主権者である国民は、為政者に対する命令として憲法を制定した。人権と民主主義と平和を擁護しさらに輝かせるために、である。
今、そのすべてが攻撃を受けている。「集団的自衛権」による解釈改憲のたくらみと「特定秘密保護法」の制定はその象徴的な事件。このままでは、「大本営発表」の時代の再来を迎えかねない。私たちは、「日光東照宮の三猿の教え」を「見ざる、聞かざる、言わざる」と曲解せず、主権者として、目を光らせ、人の意見にも耳を傾け、ものを学び、意見を交換し、そして行動しよう。
それこそが、日本国憲法が想定する主権者の在り方である。
なお、澤藤は毎日「憲法日記」というブログを書き続けています。
新バージョンで開始以来、明日(3月末)で365日連続更新となります。
時々、お読みいただけたらありがたいと思います。よろしくお願いします。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
「2万筆までもう一息! 3月24日現在、署名が第二次集約で19,212筆」とのことです。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月30日)
今日は、学生時代の気のおけない仲間が集まっての同期会。
50年前お互い何の肩書もない同じ若者として、利害打算のない付き合いをした仲間。そして今、定年を過ぎた年になって、肩書を外し鎧を脱いで、昔に戻っての再度の利害打算のない付き合い。何の遠慮もなく、気兼ねもなく、心おきなく話の出来る楽しい半日だった。
それぞれ自分の生きてきた分野についての話しが尽きない。違う分野の人たちの話しに耳を傾けることはとても楽しい。昔から気のあったこの仲間には、金持ちも有名人もいない。しかし、みんながそれぞれの分野でそれぞれのやり方で社会を支えてきた。一人一人が、個人の尊厳の担い手なのだ。
私のブログもひとしきり話題となった。話題の中心は当然のことながら「宇都宮君おやめなさい」のシリーズについて。私の解説は、「『澤藤がケンカをはじめたようだが、どちらに理があるかを見極めよう』というのは友人の態度ではない。『あの澤藤が本気で怒っているのだから、友人として澤藤に味方しよう』と言ってもらいたい。そういう友人の支えがあったから、私もルビコンを渡ることができた。今は、気分爽快」というもの。
ところで、3月27日「毎日」朝刊の「そして名画があった」欄に、「武士道残酷物語」(今井正)が取りあげられていた。1963年4月の封切りだそうだ。今日集まった仲間が学生生活をはじめたころのこと。映画の原作は南條範夫の小説「被虐の系譜」(講談社)。映画では、現代のサラリーマン物語りが出て来るが、これは原作にはないそうだ。
南條は小説の中でこう書いている。
「本来は利害関係に基づく主従関係は、滅私奉公と言う美称を被(かぶ)せられて、次第により深く固定観念化してゆき、終に、利害を離れた没我的服従心にまで育て上げられていった」
この映画を紹介した玉木研二は、「扶持を喪って浪人の身となると言うことは、凡ての武士にとって、不断の脅威であり、最も恐るべき夢魔であった。これを避ける為には、いかなる屈辱も困苦も、受容しなければならない。」「競争の中で勝ち得たサラリー(扶持)と地位を失う恐怖、そして服従の心理は、昭和のサラリーマンとて無縁ではなかったに違いない。」と書いている。
その時代、私たちは受験競争と出世競争の間にある束の間の「間氷期」にあった。その後同時代を生きた多くは、「競争の中で勝ち得たサラリー(扶持)と地位を失う恐怖、そして服従の心理」の中で、生きてきたのではないか。
今日集まった仲間は、出世競争の意欲も服従の心理も欠いた面々。だから、思想や信条を超えて気が合うのだろう。
本日の東京の天気は上々。桜も咲いた。
銭湯で上野の花のうわさかな
佃育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川
花がほころべば、自ずと顔もほころぶ。春はよろしい。
50年前の仲間との交歓は、花の咲くころに初めて顔を揃えたあの頃に戻ること。
あれからの半世紀が平和であったことを有り難いと思う。人権も、民主主義も、もう少し高水準で推移したらよかったのに、とも。もっとも、この時代、私たちがつくってきたのだから、私たち自身の責任なのだが。
(2014年3月29日)
優華ちゃんは、本当なら今は6歳になっているはず。
もうすぐ、桜の花咲く小径を小学校に通うはずだった。家族の愛情に包まれて、おしゃべりしたり、唱ったり踊ったり。この世に生まれてきたことの幸せを謳歌しているはずだった。
けれども、現実には優華ちゃんの命はまことに儚なかった。生後わずか38日で優華ちゃんの心臓が止まった。手足は冷たくなり、動くことも声を出すこともなくなった。これからの生きる喜びが失われた。
優華ちゃんの生まれた産科のクリニックからは、胎児診断でも、出生時診断でも、退院時の診断でも、そして1か月健診でも、「問題はありません」と言われ続けてきた。だから、優華ちゃんのお父さんとお母さんは、どうしても納得出来なかった。
今の時代こんなに易々と赤ちゃんが死ぬはずはない。死んでよいわけはない。優華ちゃんの死は避けることができたはずではないのか。優華ちゃんの命は還ってこないけれども、優華ちゃんのために、その原因と責任とを可能な限り究明したい。けっして、優華ちゃんの死を黙って見過ごしにはできない。
こうして、優華ちゃん事件の法的な責任追及手続が開始された。担当したのは、私と安孫子理良弁護士の2名。証拠保全手続から、一審、控訴審、そして最高裁への上告受理申立事件までのフルコースだった。
一審判決が、請求額(5880万円)の満額を認容した。それだけでなく、担当医師によるカルテ改竄を事実上認め、死亡の機序も、2点の過失主張も、因果関係も、全て原告が主張したとおりに認められた。控訴審判決も控訴を棄却して一審判決をそのまま維持した。
そして本日、最高裁第1小法廷から、医療機関側の上告受理申立を不受理とする決定通知が届いた。控訴審判決から11か月余を経てのこと。これで、優華ちゃん事件は、優華ちゃん側の全面勝訴として確定した。そのことを、せめてもの手向けとして、優華ちゃんにご報告したい。
「優華ちゃん」の死因は、「大動脈弁狭窄症」だった。優華ちゃんには、「二尖大動脈弁」という先天性の心臓疾患があって、そのために出生直後から「大動脈弁狭窄症」が生じた。左心室から大動脈に通じる大動脈弁の狭窄によって、体循環の動脈血流出に支障が生じたのだ。それでも、胎児期から出生直後のしばらくは、努力性に左心室を働かせることによって全身への動脈血供給を保持したが、その代償機能が限界に達すると、「低心拍出量症候群」の発症となり、「心不全」となって死亡したのだ。
大動脈弁狭窄症は、診断が可能であるだけでなく、治療も可能である。標準的な能力を持つ医師による優華ちゃんへの誠実な診察さえあれば、正確な診断によって心臓専門医への搬送が可能となり、カテーテル治療と根治的手術とを組み合わせる確立された治療方法によって、高い確率で救命を期待しうる。他方、担当医の診断の見落としは、現実の優華ちゃんの症状進行が示しているとおり、容易に児の死亡の結果をもたらす。
だから、優華ちゃんの大動脈弁狭窄症は、典型的な「見落としてはならない」疾患なのだ。にもかかわらず、生後一月余の間、優華ちゃんの新生児診療を担当した被告クリニックの産科医は大動脈弁狭窄に伴う特有の心雑音を聴診することもなく、大動脈弁狭窄症由来の低心拍出量症候群による全身症状の悪化を問診・視診するでもなく漫然とその症状を看過し、自ら正確な診断をすることも専門医への搬送も怠った。その被告の診断義務違反によって、優華ちゃんはかけがえのない生命を失った。
本件判決では、医師のカルテ改ざんが認められている。カルテの記載をそのまま信用すれば、「十分な診察が行われており、児の症状から心疾患の診断は不可能」となりかねない。しかし、その記載の内容や外観を仔細に検討すれば、不自然さは否定し得ない。判決は、「カルテによる診療経過の事実認定はできない」ことを明言した。請求満額の認容は、このカルテの改ざんの事実が裁判官の心証形成に大きく影響している。このことを医師や医療機関の教訓としていただきたい。
また、本件では、提訴時から産科クリニックの産科医による新生児診療の態勢や能力の欠如を問題としてきた。一審判決後医療側は、『このような、医師に不可能を強いる判決は、医師の業務を立ちゆかなくさせる不当なもの』と反発している。しかし、そんなことはない。東大病院輸血梅毒事件を典型として、不可能を強いるものと非難された判決の注意義務も、やがて臨床に当然の医療水準として定着してくる。そのようにして、臨床は進歩してきた。
患者が求める医療水準と、医師が受け入れ可能とする医療水準とは、宿命的に隔たりがある。双方が主張し合って、裁判所は社会を代表する立ち場で、判断をする。その判断の積み重ねが、臨床の改善・進歩に役立ってきた。患者が泣き寝入りしていたのでは、臨床の改善につながらない。患者や遺族が声をあげ、訴訟を提起し、一時的には医療側にとって不本意ではあっても、臨床の水準を一歩進める判決を勝ち取ることは、全患者のために、また、医療全体のために意義のあること。
本件に照らして具体化すれば、新生児診療に携わるすべての医師が、心疾患を診断して専門医に搬送すべきとする判断ができるよう、態勢を整備し技能を研鑚しなければならない。本日確定した本件は、そのような内実をもったものとして、新生児医療の改善に生かされなければならないと思う。
そのように臨床が改善されるなら、優華ちゃんにも、胸を張って本件訴訟と勝訴の意義を報告できることになる。
それにしても思う。本件のような本格的医療訴訟は、専門医の協力なしには遂行できない。本件の勝訴も、ひとえに誠実で有能な協力医の賜物である。医療機関の側につく協力医の心理的負担は軽い。しかし、患者側協力医の心理的な負担は限りなく重い。仲間の医師の責任を告発する立場に立つことになるのだから。真実を大切にする立ち場から、あるいは人権のために、専門家としての良心と職業倫理に忠実な医師には尊敬と感謝の念を禁じ得ない。
私も、弁護士ムラの仲間意識からする発想を反省しなければならない。弁護士であるだけでは、あるいは「人権派弁護士」の看板を掲げているからといって、当然に「基本的人権を擁護し、社会正義を実現」すべき使命を全うしているとは限らないのだから。
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「フランシスコ法王」の魅力溢れる発信
普通「ローマ法王」と呼び習わされ、日本カトリック中央協議会では「ローマ教皇」と表記されることを望んでいるその方の、正式名称をご存じだろうか。
「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、バチカン市国の首長、神のしもべのしもべ」というのだそうだ。落語「寿限無」のようで思わず笑ってしまっては不謹慎。宗教的および世俗的権威のせめぎ合いの歴史を感じさせる単語のオンパレードである。
それとは別に、「パーパ」という非公式かつ親しみを込めた呼びかけもよく使われる。第266代ローマ教皇フランシスコ(78歳)は、「パーパ」という愛称にふさわしい魅力とアピール力を備えているようだ。アメリカ大陸アルゼンチン生まれの法王は史上初。それも貧しい者に心を寄せるイエズス会の出身。イタリア移民の子でブエノスアイレス大学で化学を修め、文学と心理学の教師をしたのち、本格的に神学を学んだという経歴を持つ。
昨年3月の就任以来、盛んにバチカン外交をくり広げ、話題を振りまいて注目を集めている。ことあるごとに熱く平和を語り、貧困撲滅を説く。妊娠中絶反対の意見は変えないけれど、避妊や離婚、神父の妻帯や同性婚などに理解を示す発言をして保守派から非難を浴びている。
昨年11月の「使徒的勧告」という信者にあてた文書のなかで、「どうして高齢のホームレスが野ざらしにされて死亡することがニュースにならず、株価が2ポイント下がっただけでニュースになるのか」「飢えている人がいる一方で食べ物が廃棄されているのを見過ごし続けられるのか」と問い、市場に任せればうまくいくという「トリクルダウン理論」は「事実によって裏付けられたことは一度もない」と批判した。
法王の経済・社会認識は共産主義じみているという非難に対しては「マルクス主義は間違っている。しかし、私の人生で善良な人々であるマルクス主義者を多く知っているので、私は気を悪くしていない」(イタリア紙ラ・スタンパのインタビュー)とケロリとしている。昨年のクリスマスメッセージでは、シリアやアフリカで続く戦闘について、子どもや高齢者、女性ら社会的弱者が最大の犠牲者だとし、平和的解決を呼びかけた。
去る3月21日にはイタリア・マフィアに殺害された犠牲者の追悼式典で、「血塗られたカネや権力は死後まで特っていくことはできない」「マフィアの人々は生活を変えよ。悪行をやめよ。このまま続ければ、地獄が待っている。まだ、地獄へ行かないようにする時間はある」と呼びかけた。法王から「地獄に堕ちるぞ」と声をかけらけたら、改心しないわけには行くまい。
バチカン銀行のマネーロンダリング問題解決に取り組む法王にとって、いずれマフィアと対決しなければならないことは明らかだ。この呼びかけは法王が暗殺されることも辞さない決意をもっているというメッセージである。イタリア国家及び世界がてこずっているマフィアヘの命がけの宣戦布告をニコニコしながら(新聞の写真を見る限りでは)できる法王の勇気には驚きを禁じ得ない。
それだけではない。手紙や電話もまめに使う。国東市の小学校には就任祝いに対する返礼の手紙が届いて、小学生たちを大喜びさせた。3月21日の毎日新聞によると、イタリア北部に任むミケーレ・フェッリさんには「こんにちは、ミケーレ。フランシスコ法王です」という電話がかかってきた。家族の不幸を訴えた手紙に対する励ましと慰めの言葉が続いた。誰だって「はーい、法王です」という電話がかかってくれば、びっくりして感激する。
世界初の法王ファンのための週刊誌「私の法王」がイタリアで創刊され、創刊号は50万部という。昨年3月の就任から年末までの9ヵ月間にバチカンで行われたミサ、日曜の折りの集いに参加した信者の数は662万人で、前任のベネディクト16世時代の3倍にのぼるという。
ツィッターを初めて使った法王でもある。[親愛なる友よ、心から感謝します。私のために折り続けてください。法王フランシスコ]という他愛もないツィッターにフオロワーは500万人以上だという。
この人気にあやかろうという外国首脳との会談も目白押し。3月27日にはアメリカ大統領オバマがバチカンを訪れた。現代の聖俗ビックツー会談の雰囲気は和やかなものだったようだ。フランシスコ法王はバチカン自身の問題として前法王時代に明らかになった、聖職者の児童への性的虐待や、バチカン銀行のマネーロンダリング疑惑を抱えている。オバマ大統領はウクライナ問題はじめ星の数ほどの難問を抱えている。「お互いに苦労が多いですね」と慰め合ったのだろう。
しかし、この二人の会談のテーマとしては、お互いの悩み事よりは、世界の悩み事がふさわしい。平和と貧困の問題。この世から戦争の火種をなくすこと、そして飢えと格差をなくすこと。とりわけ経済格差は深刻だ。現在、世界の最富裕層85人の資産総額は下層の35億人分(世界人口の半分)に相当するという。それほどに経済格差が拡大している。法王も大統領もそろって批判はするが、宗教も国家も金融資本主義には手をこまねくしかないというのが現実だ。この点でも、二人は「お互いに苦労が多いですね」と慰め合ったのかもしれない。
とにかくフランシスコ法王のまっとうな宗教者としての発信は、信者でない人も含めて世界中の人々の心を揺さぶっている。儲けのためなら、武器も原発の輸出もいとわない人々は恥ずかしくはないか。貧しい人に高負担を強いる消費税に賛成する政党を支える宗教団体は恥ずかしくないか。
(2014年3月28日)
本日、静岡地裁は死刑囚だった袴田巌さんの第2次再審請求審で、再審開始を認める決定をした。しかも、「捜査機関が重要な証拠を捏造した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」とまで踏み込んだ判断があり、「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」と刑の執行停止も決めた。本日袴田さんは東京拘置所から釈放された。逮捕以来48年ぶりの自由である。
袴田さんに、「おめでとう」「よかったね」というべきなのだろうか。無実の人が半世紀近くも拘禁を強いられ、そのうちの34年間は死刑の恐怖にさらされ続けてきたのだ。軽々しく、祝意の表明などはばかられる。襟を正して厳粛な気持ちにならざるを得ない。
古来国家権力は、人民から税金を取り立て、人民を徴兵し、そして刑罰を科してきた。今日の日本においても、徴税と刑事司法が、国家権力と人権とがもっとも厳しくせめぎ合う場となっている。刑事司法における死刑冤罪こそ、国家の手による人権侵害の最たるもの。
弁護士が人権擁護を使命とする存在である以上は、再審無罪を勝ち取ることができればこれ以上の冥利はない。本日各紙の夕刊に、弁護団長西嶋勝彦さんの笑顔がある。西嶋さんには、おめでとう、と言ってもよいだろう。私が弁護士を志したきっかけのひとつに、冤罪や再審事件で働いてみたいという気持ちがあった。今も、雪冤に心血を注いでいる弁護士には敬意を惜しまない。
50年前の学生時代に、誘われて「松川研究会」という松川事件支援サークルに籍を置き、そこでの学園祭に、冤罪や再審事件をテーマとした企画を行ったことがある。正木ひろしさんをお呼びして講演していただいたことをなつかしく思い出す。
そのとき、死刑確定囚の再審事件として、松山事件(斎藤幸夫さん)と牟礼事件(佐藤誠さん)を取りあげて事件紹介の展示をした。松山事件は捜査機関による証拠捏造による冤罪、牟礼事件は、「共犯者」の「嘘の自白」による冤罪としての展示内容だった。
松山事件の斎藤さんの救援運動の先頭には必ず、我が子の無実を信じていた母のヒデさんがいた。私も、仙台の街角に一人で立って、再審請求支援の署名活動を行っていたその姿を見ている。その後、斎藤幸夫さんは奇跡的な「死刑台からの生還」を遂げ、盛岡の我が家に訪ねてこられたことがある。当時、我が家には体重35キロのチャウチャウがいた。少しも人なつっこくないその犬が斎藤さんには不思議と親愛の情を見せて、お顔をペロペロ舐めていたことが印象に残る。
一方牟礼事件の佐藤誠さんの再審請求は実ることなかった。1989年に佐藤さんは獄中で病死(クモ膜下出血)している。享年81。死刑囚としての獄中生活は37年に及んでいたという。佐藤さんは歌人として知られていた。ウィキペディアに次の記事がある。
「獄中では逮捕前から嗜んでいた和歌を詠み続け、亡くなるまでに生前9冊と死後1冊の歌集を出版している。そして歌集出版をきっかけに、佐藤は同人誌『スズラン』の主幹となり、獄中から同人たちの短歌を添削したり、同人誌の編集を行っていた。…同人誌『スズラン』は、佐藤が亡くなるまで計123号が発行された。」
「昭和天皇の重体が伝えられてから、支援者らが恩赦出願を佐藤に勧めるが、『私は無罪なのだから、再審請求をして無罪を勝ち取る』と佐藤は拒否。弁護団に熱心に説得されて、1989年5月に恩赦出願するも、やはり冤罪の身であるのに無期懲役の罪人にはなれないと取り下げている。」
冤罪を叫び疲れてみちのくの獄に雪の夜ひっそりと生く
天地にひびけと叫ぶ冤罪のわが声むなしく風に消さるる
そして、次が辞世だという。
独房に死を待つのみなり秋の蚊よ 心ゆくまでわれの血を吸え
日本国民救援会は、冤罪・再審支援に取り組む市民団体である。その救援会が今支援を決議しているのが、下記の各事件。袴田事件だけではない。冤罪はかくも多くある。証拠開示の徹底が雪冤の鍵だ。裁判所の果断な判断と、検察官の良識に期待したい。
秋田・大仙市事件
山形・明倫中裁判
宮城・仙台北陵クリニック筋弛緩剤冤罪事件
東京・三鷹バス痴漢冤罪事件
東京・三鷹事件
東京・痴漢えん罪西武池袋線小林事件
東京・埼京線痴漢えん罪事件
長野・えん罪ひき逃げ事件
長野・冤罪あずさ35号窃盗事件
福井・福井女子中学生殺人事件
静岡・袴田事件
愛知・豊川幼児殺人事件
三重・名張毒ぶどう酒事件
滋賀・JR山科京都駅間痴漢冤罪事件
滋賀・日野町事件
京都・長生園不明金事件
京都・タイムスイッチ事件
大阪・東住吉冤罪事件
兵庫・えん罪神戸質店事件
兵庫・えん罪西宮郵便バイク事件
岡山・山陽本線痴漢冤罪事件
高知・高知白バイ事件
鹿児島・大崎事件
米・ムミア事件
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
「2万筆までもう一息! 3月24日現在、署名が第二次集約で19,212筆」とのことです。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月27日)
猪瀬直樹前都知事が知事選立候補直前に徳洲会から5000万円を収受していた事件は、公職選挙法上の「選挙運動資金収支報告書虚偽記載」の罪名で略式起訴となる模様だ。各紙が、「関係者の話で」「関係者への取材で」「関係者によると」として報道しているが、各紙べったり同様の内容をみれば、検察の意図的なリークであることは明らかといってよい。
東京地検特捜部が公選法違反容疑で猪瀬氏の個人事務所(港区)を家宅捜索したのが3月21日である。徳田前理事長と猪瀬を仲介した右翼「一水会」の木村三浩の自宅と一水会の事務所(新宿区)も同時に捜索されている。形式犯としての「虚偽記載罪」での立件であれば、必ずしも家宅捜索までは必要とならない。これは収賄まで視野に入れた捜査ではないか。そう思わせておいて、25日には略式のリークである。捜索は、略式を決めたあとの形づくりであったか。
検察リークの垂れ流し情報なのだから、「金は手つかずのまま全額返された」「都知事辞職という社会的制裁も受けた」「実際に選挙で使用されていなかった」などというばかりで、社会が関心を寄せることは記事になっていない。捜査はどこまで進展したのか、真実に肉薄する報道が欲しいところ。
略式による幕引きには、大きくは2点で納得しがたい。
その一は、この件は贈収賄として立件すべき事件である。到底略式で幕を引くべき事件ではない。それを、公職選挙法上の虚偽記載程度に落ち着けていることに納得しがたい。
野心的な積極姿勢で知られる病院経営者から、都知事選立候補直前の副知事に5000万円の現金がわたったのだ。ことさらに銀行送金を避けて、キャッシュで5000万円の札束の手渡しだ。当事者双方に後ろ暗い金との認識があったと見るのが常識ではないか。
当然のことながら、なにゆえに一面識もなかった両名間でこのような後ろ暗い金の授受が行われたのか、その動機の究明がなされなければならない。社会の関心も怒り理由もそこにあった。授受された金の性質を選挙資金と認定することは、賄賂性認定へのステップではあっても結末ではない。なにゆえに5000万円もの選挙資金の授受が行われたのか。この点を検察はどこまで追求したのだろうか。
金を渡す方は、東京都の許認可を期待し、許認可権行使の在り方に死活的な利害関係を有する立ち場にある病院経営者。金を受けとる方は許認可の権限を実質的に掌握する立ち場にある副知事であり、やがて東京都のトップに立つことが確実視されている猪瀬その人である。都民の行政の廉潔性への信頼を繋ぎ止めようとするのなら、検察は徹底して金銭の授受と許認可権限との関連性の有無を明らかにしなければならない。
単純収賄罪(法定刑は5年以下の懲役)は、請託の存在を要件とせず、公務員の不正行為も要件ではない。猪瀬が徳洲会に「便宜を図った」か否かは、犯罪成立には無関係である。唯一、賄賂の収受と職務との関連性だけが要件である。その要件で、職務の公正に対する社会の信頼という保護法益を損うに十分とされているのだ。
ここでいう職務は、必ずしも「法令に明記された職務」に限られない。「法令に明記されていない職務」であっても、あるいは、「職務に密接に関連する行為」(「準職務行為」や「事実上所管する行為」)でも、さらには「事実上の影響力を利用して行われる行為」をも含むとするのが判例の立ち場である。
もちろん、東電病院の売却や入札業務は、東京都の業務ではなく、株式会社である東電の業務ではある。しかし、東京都は東電の大株主としてその動向に絶大な影響力を持ち、猪瀬は副知事として自ら東電の株主総会に乗り込んでまでして、東電病院売却を決定させている。この件については猪瀬自身が職務に関連する大きな影響力を持っていたというべきである。この影響力の行使において、職務の公平性についての社会的信用を毀損してはならない。
しかも、2012年11月6日、猪瀬が徳田虎雄に面会した際、徳田は猪瀬に、東京電力病院の取得を目指す考えを伝えた。このとき猪瀬は、自らが東電に売却を迫ったことを話したという。この阿吽の呼吸がぴったりあったその直後(11月20日)に、5000万円が提供された。このことは、関係者の話でわかった旨報道されているが、捜査機関のリークの可能性も高く、信憑性は高い。
とすれば、徳洲会が、猪瀬が副知事としての職務権限を背景とする東電の入札事務への影響力に期待して、5000万円を提供したものと考えられ、猪瀬はこれを収受したものというべきである。それなら、収賄罪の職務関連性の要件は充足されたことになる。もちろんそれだけでなく、医療行政上の許認可や、補助金等への配慮への期待も、暗黙の応諾もあったであろう。
なお、この11月6日の機会に請託があれば、受託収賄罪となり刑罰は加重されて懲役7年以下となる。また、5000万円の提供が仮に貸金であったとしても、金融の利益自体(しかも、無利息・無担保)が賄賂に当たる。
もう1点。幕引きを納得し難いのは、猪瀬以外についての徳洲会マネーの行く先の追求のないことである。せっかく、氷山の一角が露呈したのだ。氷山全体の正体をさらけだす好機ではないか。このチャンスに、目をつぶって、幕を引いてしまうのか。なんと惜しい。なんともったいない。
いったい、猪瀬はどうして徳洲会に近づけたのか。誰がどのようにしてこの二人を固い「5000万円の関係」に結びつけたのか。右翼ではあるまい。徳田虎雄との親密さをよく知られている猪瀬のボスの仕事であったろう。ずいぶん早い時期から、「徳洲会マネーは、首都圏のある知事に3億、ある副知事に5000万円わたっている」と噂された。「ある副知事」の方は事実であった。「ある知事」についてはどうなのか。その徹底解明こそが、本丸ではなかったか。
東京都の百条委員会設置の寸前で、2度にわたる石原ー猪瀬会談が行われた。ここで猪瀬辞任の方向付けができたという。さぞかし、醜悪な内容であっただろう。おそらくは、疑惑が石原側まで飛び火せぬよう打ち合わせがあり、その結果としての知事辞任だったのではないか。
百条委員会による都議会での追及も、検察の捜査も、結局は猪瀬の責任止まりでその先には進まない。各紙の記者に、以上の2点に切り込む取材と報道を期待する。
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イザベラ・バードの過酷な揚子江遡行
女性探検家イザベラ・バードの「中国奥地紀行」(平凡社・金坂清則訳)の紹介。今日は、120年ほど前の揚子江遡行の船旅の凄まじさについて。
揚子江の遡行といえば「三峡」に代表される、泡立ち逆巻く「急灘」が話の中心となる。「紀行」にも多くの紙数がついやされており、当時の荒々しいままの超大河の自然と取り巻く社会は想像を絶する。
イザベラは1897年、真冬の1月から2月にかけて、湖北省宜昌から四川省万県まで20トンほどの屋形船で遡行する。その小さな船に水先案内人、曳夫、漕ぎ手ら乗組員19名、船長家族4名、イザベラ一行合計25名前後が乗り組んだ。彼女にはわからない船荷も積み込まれている。狭い船上で、赤ん坊は泣くわ、大声で夫婦げんかをするわ、食事の煮炊きはするわ、煙草を吸うわ、アヘンをすうわの大騒ぎがくり広げられる。
冬は夏と較べて揚子江の水深は10から20メートル浅くなるので、船にとっては通行が比較的容易となる。しかし、水が浅くなれば岩が現れ、急流となり、別の困難がつきまとう。漕いだり、帆を張ったりしても遡行でない場所が多くなり、そこでは岸に下りた曳夫が船を曳かないと遡行できない。それどころか下流へ流されてもしまう。多くの曳夫が必要なのだ。そんな流れの場所に行くと、「水中曳夫」が水に飛び込んで、引き綱を岸まで運ぶ。曳き綱は直径8センチ、長さ370メートルもあるものが船に備え付けられている。岸といっても平坦なところは少なく、ごろごろした石の上や崖を登った上の足がかりを、曳夫は渾身の力で這いすすむことになる。
それでもすすめない「急灘地」には、季節的に曳夫が集まる臨時の集落ができる。120トン積みのジャンクには120人の船乗りが乗っているが、臨時の曳夫300人を加えてやっと引き上げることができる。そんなところでは何十隻もの船が何日も順番待ちをする場合もある。揚子江上流では7000から8000隻の船が航行し、25万人以上の船関係労働者が働いている勘定になる。年間20隻に1隻が難破して、10隻に1隻が座礁するといわれている。積み荷の1割は失われたり、水をかぶったりする。
「惨事の現場はたくさんあった。どの急灘でもその手前と先で、ジャンクの船乗りが積んでいたゴザをかぶって岸辺に野宿し、濡れた綿布を乾かそうと広げていた。また、水面からマストが突き出したり、静かな入江には打ち捨てられた船の一部が沈んでいた。そのような船には砂浜で修理されているものもあった。岩の上にはあちこちに気味悪い白骨死体が転がっていた。岩が命運を決したのである。」
「滝のような急流部の荒々しい激流。各々400人もの曳夫によって北側の水路を引き上げられる複数の大型ジャンク。大波をかぶり身震いしながらよたよたと進む曳夫。引き綱が切れて滝のような急流部を猛スピードで下り、恐ろしい災難に向かっていくジャンク。努力の甲斐あって静かな水域まではいることのできたジャンク。・・滝のようになった急流部よりも上流で、舷側ををまともに向けて穏やかな水面を下ってきた大型ジャンクの舳先が突然飛び上がった。そして50人ないし80人、船によっては100人もの漕ぎ手が前方に向かって櫂や揺櫓(ヨールー)の所に立ち、わめき散らしながら必死に船を漕いでいた。船が縦揺れすると舳先や甲板の前方部は泡と水しぶきによってみえたり隠れたりした。また、激しい流れのなすがままになってぐるぐる回りながらも船乗りの技術と頑張りのおかげで、しばらくすると再び舳先を持ち上げ、下流のそれほどでもない急灘へと向かった。実に壮観だった。」
「どんなに表現しても、『新灘』の喧噪がどんなものであるかを伝えることはできない。その後の数日間耳がよく聞こえなかったというのが一番いいかもしれない。滝のような急流部のすさまじいとどろきや、数百人の曳夫が船を曳くときの叫び声や怒鳴り声がきこえてくる。また、それに混じって、合図のためや悪霊を驚かすための銅鑼と太鼓の音も途切れることなく聞こえてくる。ここから生み出される大混乱は誰だって忘れえまい」
イザベラは少しの賃金で命を削る「非人間的なまでに過酷な仕事」をする曳夫たちに驚いただけでなく、同情の念を表している。「この階級の人々こそが、過去から今日にいたるまで、中国を作り、支えてきた中国人の巨大なエネルギーを象徴している。また、中国人が東アジアやアメリカ西部のいたるところへつましい移民としてわたって成功したのは、このエネルギーあってこそだ」「だから、読者には次のようなことを同情心を持ってぜひ心に留めておいていただきたい。わが国の貿易商品を、このようなありとあらゆる困難や危険に出会いながら、揚子江上流までもたらしてくれるこれらの貧しい人々が、長くて重たい引き綱によって重いジャンクにつながれていることを。また、彼らが大波や渦巻く流れや大渦を伴って荒れ狂う恐ろしい激流に抗してジャンクを上流へと曳いていることを。激しく引っ張り上げられる羽目に陥ることもしょっちゅうであることを。時には負担がきつすぎて完全に止まってしまい、激流の中でしばらくじっとしていなければならない状況に置かれることを。また、引き綱が切れて、鋭くとがった岩に顔や裸の身体をぶつけることもしばしばあることを。ひっきりなしに川に入ったり出たりしなければならないことを。さらには、無残に命を落としてしまう危険にも日常的にさらされていることを。そして、彼らがこのようなことのすべてをほとんど米だけの食事で行っているということを!」
今日の南北格差と基本は変わらない。120年以前から、アンフェアなトレードは、悲惨な低賃金労働力によって支えられて来たのだ。西洋列強が植民地覇権争いをし、日本が負けじと日清戦争をしかけ、大陸への野望を募らせているそのときに、イザベラは静かにペンによる帝国主義への抵抗を試みていたのだ。おそらく当時の日本には、イザベラの著書を読んだ人はいなかっただろうが、欧米には熱狂的な読者がいた。その読者たちは、異国趣味の目からだけでこの「紀行」を読んだのだろうか。イザベラのこの訴えをどう受けとめたのだろうか。
イザベラ・バードは日本と中国を訪れただけではない。1894年から97年にかけて4回にわたり李氏朝鮮を訪ねて「朝鮮奥地紀行」も著している。ちょうど日本と清国が、朝鮮の権益を賭けて争っている時期に当たる。中央ではなく地方の、表舞台の人とではなく黙々と生きる人々への視線がやさしいイザベラの著書。いずれ目を通して、ご紹介したい。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月26日)
3月15日に「がんばれ竹富町」の標題でブログを書いた。八重山地区の中学校公民教科書採択問題について触れたもの。
余談ながら、文中の「んぶふる」とは、もとは水牛の鳴き声の擬音語であるという。水牛が「んぶふる」と啼いた小高い丘の地名を、「んぶふる」と名付けたと聞いた。その説明がなんとも興味深く印象が強い。水牛はどうして「んぶふる」と啼いたのだろうか。いつもの啼き声なのか、それとも何か特別の事情あってのことだろうか。どうして、啼き声が地名に昇華したのだろうか。こんなに素敵で個性的な地名を他に知らない。今でも竹富の水牛は、んぶふる、んぶふる、と啼いているのだろうか。
ブログの拙文をお読みいただいた、京都の前田佐和子さんから、さっそくのご連絡をいただいた。前田さんは、京都大学理学博士の学位をもつ地球物理学者。京都女子大教授を勤められた方。前田さんからのご連絡の内容は、「んぶふる」に関することではない。柔らかく穏やかな文章だが、「八重山教科書問題は、重大なことなのだからもっとよく調査して書くように」との叱咤と理解した。
「八重山地区中学校公民教科書の採択で問題が生じた2011年夏、現地の新聞でその経緯を知るにつけ、目が釘付けになりました。当初は、ネットなどを通して情報を集めていましたが、12年春、現地に行きまして、関係者の方々から聞き取りをいたしました。今も連絡を取り合っています。
2012年5月に論考を発表しました。事態は錯綜して、実際に起こったことが伝わりにくいので、少しでも多くの方に知っていただきたいと思っています。」
前田さんからご紹介いただいた、ご自身の記事は次の3本。
「揺れる八重山の教科書選び」(2011年9月14日)
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/09/blog-post_16.html
「八重山教科書問題の深層」(2012年5月23日)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2012/05/part-ii.html
「軍靴の音に耳澄まそう?地方教育行政への国介入は危機」
(2013年10月23日 沖縄タイムス「論壇」寄稿)
前2者は長文。科学者の文章。私にとっては、知らないことが多かった。八重山教科書問題の経過はこの2本の論文で学ぼう。ほかならぬ八重山でこの問題が起こったことの意味の重さがよく分かる。事件の発端はまことに唐突で乱暴なものだが、防衛力の南西シフトで矢面に立たされている先島諸島での、国の本音を丸出しにした地方教育行政への介入。まさしく、耳を澄ませば軍靴の音が聞こえてきそうな事態なのだ。
その竹富町の教育委員会の定例会が、昨日(3月24日)開かれた。文科相からの「是正の要求」(3月14日)以降初の会合。
その結果、竹富町教委は、「教科書変更を求めた文部科学省の是正要求には従わないことを確認した。新年度も現行の東京書籍版を使う。是正要求に不服がある場合の手続きを取るかどうかは、今後検討する」と報じられている。
定例会後、出席した教育委員4人が記者会見して、「教育現場に混乱は生じていない▽民主党政権下では竹富町の採択の有効性が認められている▽地方教育行政法は各市町村教委に教科書採択権限を認めている、などの理由で要求に従わないことで一致した」という。また、慶田盛安三教育長は「教科書をそう簡単に変えられるはずがない」とも言っている。
はからずも今、八重山地区が、教育への国家介入をめぐるせめぎ合いの最前線となった。ここで、国・安倍政権・文科省・歴史修正主義・育鵬社の連合体が、日本国憲法の理念を、なかんずく平和の理念を攻撃している。
応援しよう。平和の島を。ゆったりと時の流れる「んぶふる」の島を。さわやかに頑張れ竹富町。
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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。
下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年3月25日)
橋下維新のやることは分からない。計算ずくで行動しているのか、それとも衝動で動いているのか。市議会の審理が自分の思うように進捗しないことを不満として、市長自身が辞職するという発想が理解しがたい。
地方自治法178条は、議会が首長不信任の議決をしたときに限って、「首長が議会を解散することができる」と定める。大阪市議会が、「市長辞めよ」と不信任を突きつけたときの対抗措置としてだけの議会解散権である。大阪都構想推進に非協力的な市議会を、市長に協力させる目的での議会解散を法は予定していない。
「解散ができなければ市長である自分が辞めて市長選で民意を問うことにしよう」。そのような意図での出直し市長選である。しかし、この選挙で当選したところで、何かが変わるわけではない。市長が再選され、市議会の構成はあいかわらずのまま。
もちろん前回選挙を上回る「圧倒的な支持」を得た場合には、大阪都構想に民意の後押しあることを示すことができる。しかし、維新の季節は一過性に終わっている。橋下の風も熄んだ。金看板とされた都構想のメッキは剥げている。橋下に前回2011年11月の市長選挙で75万票を取ったときの勢いはない。勝ってもたいしたメリットはなく、負ければ決定的なデメリットを背負い込むことになる。しかも、制度上市長としての任期が更新されて延びることにもならないという。こんな割りの合わない選択を余儀なくさせたものは、八方ふさがりの状況の逼迫であったろう。
昨日(3月23日)投開票の結果は、明らかに橋下の読みがはずれたことをものがたっている。事態打開を図っての策が裏目に出て、却って自分の首を絞めただけの結果に終わった。当選者橋下は、昨夜記者の前に姿を見せなかったという。
たしか橋下は、この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の二人とも政界を去る」と明言をしたはず。実質的に橋下は敗れたのだ。是非とも、潔く政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためである。
今回選挙の投票率は23.59%と大阪市長選で過去最低だった(前回60.92%)。「市民は橋下が設定した選挙そのものにノーを突きつけた」といってよかろう。大阪市長選の投票率で過去最低だったのは1995年の28.45%。各党相乗りの前助役と共産が推す新人との事実上の一騎打ちだった。今回の選挙戦では、有力対抗馬不在のなか、橋下氏が都構想の正当性を主張したものの、有権者の関心を引かなかった。
橋下の得票数は37万7472。前回選挙の得票75万0813と比較してちょうど半減。相対得票率を云々することは意味をなさない。当日有権者数211万4978人に対する絶対得票率は17.85%。大阪市の有権者5人に1人の投票を得ることができなかった。これが、有権者全体から見ての橋下の信任度の実態。前回選挙での絶対得票率が35.67%だから、これも半減。差し引き18%の市民は、前回は橋本に期待したものの、今回は橋下が危機を訴えても乗ってこなかったということだ。
白票が4万5098票、9.04%と「第2位」であったという。投票総数に占める割合は無効票が13.53%、意識的なものと思われる無効票が多かった、と報じられている。惨憺たる民意、というほかはない。大阪都構想の信任投票に市民のゴーサインは得られなかった。既に始まっている維新の終わりが加速することになっただけだ。
もっとも、橋下のやることが分からないだけでなく、せっかくの選挙に候補者を立てないという「高等戦術」を採った野党の対応も、その是非については釈然としないものが残る。本来、堂々と政治的主張を闘わせるべきが政党の在り方ではないのか。橋下が一人相撲で勝手に転けてくれたから「結果オーライ」ではあったが、本当にこれでよかったのだろうか。
ところで、今回選挙でもっとも注目されたものは投票率であった。投票率こそが、大阪市民の今回市長選の意義への評価であった。「投票率アップ・キャンペーン」が親橋下の党派性をもつことは誰の目にも明らかであった。が、実は今回大阪市長選挙に限らず、すべての選挙においてそうなのではないだろうか。
「投票率は高いことが望ましい」という意見にアプリオリに賛成することには、大きな抵抗感がある。今回選挙で絶対得票率の重要性が浮かびあがったとおり、民意は有権者の投票意欲をもその要素とする。安易な投票率アップキャンペーンは、風頼みお天気次第の有権者を支持層とする政党に有利に働く。投票率が下がれば、組織政党に有利に働く。選挙啓発運動や、投票率アップキャンペーンは、党派的であることを免れない。
大阪市選管は、選挙の度に大規模な「選挙に関する世論調査」を行っている。
「大阪市選挙管理委員会及び大阪市明るい選挙推進協議会では、今後の明るい選挙の推進に役立てることを目的として、平成23年(2011年)4月に大阪市議会議員選挙を中心に大阪市民の投票行動の実態及び選挙時に関する意識調査である「選挙に関する世論調査」を実施し、このほど調査結果を取りまとめました」
この中に、興味深い設問がある。次のうちからひとつを選ばせるもの。
・もっと投票率を上げるように努力すべきだと思う
・投票率が低いのもやむを得ないと思う
・無理に投票率を上げる必要はないと思う
この設問自体に、「投票率の向上すなわち善」との前提が見えている。
その回答結果の分析は次のとおり。
「今後の投票率については、『もっと投票率を上げるように努力すべきだと思う』が43.6%となっているが、一方、『投票率が低いのもやむを得ないと思う』で36.4%、『無理に投票率を上げる必要はないと思う』が14.4%と合わせると、50.8%が現状を容認しているとみられる。」
「これまでの調査と比較すると、『もっと投票率を上げるように努力すべきだと思う』が下がり、逆に『投票率が低いのもやむを得ないと思う』、『無理に投票率を上げる必要はないと思う』が上がっている。
前回(2007年)の調査では、『もっと投票率を上げるように努力すべきだと思う』が62.0%となっていた。大勢は、特定選挙で無理に投票率を上げようとすることには慎重になりつつあるということなのだろう。
総務省も、中央選管も、また各地方選管も、特定のタレントなどを起用しての「啓発運動」などには慎重であるべきだ。投票率を上げることが必ずしも正確な民意の反映に結びつくものではない上に、タレントの選定次第で民意を歪めることもあるのだから。
一人の男の無分別から6億円のつまらぬ無駄遣いに終わった選挙だった。せめては、選挙とは何か、民意とは何か、民主主義とはどうあるべきか、広く有権者が考える材料とすることができれば、まったくの無駄でもなくなるだろう。さらに、これをもって橋下維新早期退場実現のきっかけとすることができれば、無駄どころではなく、意義のある選挙だったことになる。
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以上よろしくお願いします。
(2014年3月24日)
大相撲春場所は本日千秋楽、大関鶴竜の初優勝で幕を閉じた。これで、場所後の鶴竜の横綱昇進が確定。角界の頂点に立つ横綱3名が、いずれもモンゴル出身者となる。
67代横綱が武蔵丸(ハワイ)、68代朝青龍、69代白鵬、70代日馬富士、そして鶴竜が71代目。ここ5代、外国人横綱が続く。最近4代はモンゴル出身者だ。2003年1月に貴乃花が引退して以来11年、日本人横綱は不在のままである。
朝青龍が突然に引退したのが2010年2月のこと。あの不祥事さえなければ、彼は33歳の今も綱を張っていたのではないだろうか。琴欧洲も把瑠都も怪我さえなければとっくに横綱になれた素質だった。
東京の両国国技館には、幕内最高優勝者の全身像を描いた顕彰額が飾られる。その数は32枚。順次掛け替えられて最近32場所の優勝者の額が観客を見下ろしている。この優勝額に日本人力士の姿が消えて久しい。
2004年夏場所以来の最近10年60場所を見てみよう。2011年春場所は八百長問題で中止となっているから、実際は59場所。このうち日本人力士の優勝は2度のみ。2004年秋場所の魁皇と、2006年初場所の栃東。栃東を最後に、この8年間日本人力士の優勝はない。2002年に各部屋1名の外国人力士枠制限を設けて、この事態なのである。
「ウインブルドン現象」という経済用語がある。市場開放によって優れた外国資本に国内企業が席巻されてしまうことをいうが、イギリスの権威を示すウインブルドン・テニス大会で地元選手が優勝できないことを皮肉っての命名。今、テニス界ではイギリス選手は強くなっている。同じ概念を「大相撲現象」と言葉を換えねばならない。
しかし、日本の大相撲ファンは外国人力士の活躍に寛容である。決して差別的な感情で彼らを見ていない。この暖かさ、懐の寛さに救われる思いがする。
とはいえ、おそらくは外国人力士の日本への同化の努力を認めてのことではないだろうか。日本語を喋り、日本文化に敬意を表し、日本人以上に日本的な外国人力士に、その限りで寛容ということではないか。外国人力士が自らの国の文化を強く押し出してなお、日本人は彼らに寛容でいられるだろうか。
ところで、大相撲のプレーヤーとしての外国人力士への差別は見えて来ない。実力の世界と言ってよいだろう。しかし、大相撲ビジネスは「ジャパニーズ・オンリー」の世界である。相撲協会は、公益財団法人となってはいるが、その実態がビジネスであることは常識。日本国籍をもつものでなければ親方にはなれない。親方になれなければ大相撲ビジネスに参加はできない。これは、いかがなものか。非合理な非関税障壁と見なされかねない。
さて、本題である。各場所千秋楽の表彰式の冒頭に行われる、「国歌・君が代へのご唱和のお願い」はなぜ行われるのだろう。長くその理由を不可解と思ってきたが、今や明らかに不自然な事態となっているのではないか。大相撲は、尺貫法をメートル法に切り替え、土俵を拡げ、伝統の四本柱も取り払った。外国人力士の受け入れにも寛容だった。時代にあった諸改革の結果として今日がある。今や、君が代唱和の時代ではない。不自然なことは、すみやかに廃止するに越したことはない。
国際交流の場に参加国の国旗が並ぶことは理解可能である。国際対抗試合で、エールの交歓として両者の国歌演奏はあり得る。国際的競技会の勝者を讃える意味で、国旗を掲揚し国歌を演奏することも、賛否はともかく、意図は諒解可能である。これらは、いずれも自国だけでなく相手国の存在を前提としてのこと。相手国との関係において国旗国歌が機能する。国家の象徴としての国旗国歌が本来的にもつ識別機能に格別の不自然さはなく、他国の国旗国歌への敬意の表明も、強制の要素がない限りマナーとして認められるものであろう。
ところが、大相撲は、相手国の存在を前提としていない。日本人ばかりが集まる場で、日本の国歌を歌うことにいかなる意味があるのだろうか。日本人力士を激励しようというわけではない。これから力士が国際試合に出掛けて行こうというわけでもない。大相撲での国旗国歌は識別機能とは無縁で、象徴がもつ統合機能だけが働くものと想定されている。
つまり、「われらは相撲という文化を核として日本国民であることを自覚する」、あるいは「相撲という民族的文化を核としてわれら日本国民は団結する」というナショナリズムの宣言なのである。
さらには、「かたじけなくも天皇は、日本の国技である相撲の最強力士に賜杯を賜る。その天皇の御代がいつまでも続くことを、国民こぞって祈念申し上げる」という意味もあろう。つまりは、単なる国民統合ではなく、「天皇を中心とした国民統合」が意図されている。「ご唱和をお願い」は、甚だしく押し付けがましいのだ。
大相撲に国旗国歌の識別機能が働く余地はない。強いて識別機能を働かせようとするなら、優勝力士の出身地の国歌を演奏してはどうか。毎回、ここしばらくはモンゴル国歌を聞くことになろうが、それは勝者の権利である以上は甘受せざるをえない。
国旗国歌の統合機能は、自衛隊や官庁に任せておけばよい。客を呼ぶ場所に、ナショナリズムの鼓吹や強制は場違いである。なによりも、これだけ圧倒的な存在感のある外国人力士を抱えながら、「君が代・オンリー」はもはや不自然極まりない。優勝した武蔵丸に「君が代を歌って欲しい」と言った不見識なNHKアナウンサーがいた。武蔵丸は、「そちらこそ、優勝した私を表彰しようというのなら、君が代ではなく星条旗よ永遠なれを」と言い返せない。非対称性明らかなあの発言は、民族的なバッシングであり、ハラスメントである。このところ優勝を独占しているモンゴル勢の諸力士は、けなげに君が代に合わせて口を動かしているようだが、痛々しいことこの上ない。
私には、日本人の他国民への寛容の度合いが試されている問題と見えてならない。
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金魚はトウギョのごとく死闘しないか?
古典的名著「ソロモンの指輪」(コンラート・ローレンツ 早川書房)の一節である。
「ことわざには嘘やあやまりがつきものであるが、それにしても、なんと奇妙な盲信がふくまれていることだろう? キツネはずるいというけれど、けっしてほかの肉食獣以上にずるいわけではない。オオカミやイヌよりも、むしろはるかに愚鈍である。ハトはまるきりやさしくない。そして魚についての話はほとんどが嘘だ。退屈で冷淡な人のことをまるで魚の血のようだというけれども、魚はそれほど「冷血」ではないし、「水の中の魚」といわれるほど健康そのものでもない」
「トウギョはいつでもこのようなみごとな色彩をしているわけではない。鰭(ヒレ)をすぼめてアクアリウムのすみにうずくまっている小さな灰褐色のこの魚は、そんな美しい色どりの片鱗すらしめさない。だがみすぼらしさでは劣らないもう一匹のトウギョが彼に近づき、両者が互いに相手をチラリとみると、彼らは信じがたいほど美しい色どりに輝きだす。その速さといったら電流を通じられたニクロム線が真っ赤になるときとかわらない。鰭は急に傘を開くようにさっと広げられ、素晴らしい飾りに変化する。広げる音が聞こえるような気さえする。それから輝くような情熱のダンスが始まる。それは遊びではない。真剣なダンス、生か死か、未来か滅亡かをかけた激しいダンスだ。それが恋の輪舞となって交尾にいたるものか、それとも血みどろの闘いに移行していくものか、最初は全然わからない。これは奇妙な話だが、じつはトウギョは相手を見ただけでは仲間の性別が見分けられない。」
「その美しさのために、彼らは実際ほど悪者にはみえない。彼らが、死をも恐れぬ勇気と残忍な大胆さの持ち主であろうとは、ほとんど信じられぬくらいだ。にもかかわらず、彼らは血を流して戦うことを知っている。事実、トウギョの闘いは、片方の死に終わることがきわめて多い。ひとたび興奮がたかまって、短刀の第一撃が加えられたならば、わずか数分のうちに鰭がザックリと切りこまれる。・・・ひとたび実力行使にはいったら、多くはわずか数分でかたがついてしまう。闘いあう一方が瀕死の重傷を負い、水底に横たわってしまうのだ。」
我が家のスイレン鉢には、一匹の和金がいる。はじめ5匹いたなかで生き残った強者ゆえ、ラッキーと名付けて可愛がっている。身長10センチぐらいで、たぶん5歳にはなっている。一人暮らしに何の痛痒も感じていない様子にはみえるけれど、時には無聊をかこっているようにもみえる。しかし、「ソロモンの指輪」のなかの血も凍るような魚の闘いを読んでいたので、軽々には新入りの金魚を入れることなどできないと思っていた。ラッキーと新入りの死闘などみたくない。
ところで、近所に「金魚坂」という場所があり、そこには江戸時代創業の金魚屋がある。ラッキーは5年前そこから1匹50円で買ってきた由緒正しい和金である。通りがかれば、その金魚屋をちょいと覗くことにしている。和金のほかに出目金、らんちゅう、りゅうきん、獅子頭など色とりどり、形さまざま、値段ピンキリの金魚が悠然と泳いでいて、いくら眺めていても飽きない。気のいい店員さんが「だいじょうぶ。喧嘩しないですよ」と言うので、なんとなく、うかうかと、1匹100円の和金を2匹買ってきてしまった。
やはり、金魚屋さんは正しかったようだ。どうも金魚はトウギョのように猛々しくないらしい。平和主義者だ。餌をまいたときは、一回り大きいラッキーは他の2匹を寄せ付けまいと、脇腹をつついて追い回すのだが、1匹を追い払っているうちにもう1匹が餌を食べるので、無駄だということを学びつつある。新入りの2匹も、集団的自衛権行使の意図はない。食事時間のほかは、3匹して何事もなかったように平穏に泳ぎ回っている。でもまだまだ油断はできないと思う。
しかし、金魚の雌雄はわからない。繁殖期に、武力による威嚇、または武力行使の事態が起こらないか、その不安は残ったままだ。
(2014年3月23日)
立教大学大学院の渋谷秀樹さんが、本年2月20日「憲法への招待・新版」(岩波新書)を発刊した。特定秘密保護法への厳しい言及が印象的である。旧版の出版が、2001年11月。同書では同年の9・11事件とテロ特措法問題への言及がある。憲法学は時代と切り結ばざるをえない。「最新」のトピックスに触れつつ、憲法の基本理念や構造を解説するこの書の新版発行を歓迎したい。
5章の分野で計24の設問。その解説を通じて憲法の基本原則を説くという構成は、新版も旧版と変わらない。5章とは、「憲法とは何か」(憲法総論)、「人権とはそもそも何か」(人権総論)、「どのような人権が保障されるのか」(人権各論)、「政府を動かす原理は何か」(統治行為総論)、「政府の活動内容は具体的にどのようなものか」(統治行為各論)。
渋谷さんには、「日の丸・君が代」強制を差し止めようという「予防訴訟」の控訴審で、研究者としての証言をいただいた。弁護団からの要請に、いったんは躊躇されたようだった。その上で、「これまで研究者として実務とは一線を画すべきだと考え、そのような依頼に応じたことはなかった。しかし、この問題は極めて深刻な憲法問題として受けとめざるをえず、看過できない」として、お引き受けいただいた。
「憲法への招待」旧版には日の丸・君が代問題への言及はなかった。新版では、24の設問のひとつとして「『日の丸』と『君が代』の強制はなぜ問題か」がつけ加えられ、11ページにわたる解説がなされている。思想・良心の自由(憲法19条)を侵害するとの問題としてだけではなく、教育を受ける権利(26条)や、公務員としての教師の権利の問題まで踏み込んだ内容となっている。もちろん、必ずしも「日の丸・君が代」弁護団の切り口とまったく同じというわけではないが、まことに心強い。
それにしても、憲法をめぐる事態の変遷が激しいことを思わずにはおられない。旧版でも、「憲法とは何か」(憲法総論)の4設問で「立憲主義」の解説に力が注がれていたが、新版ではさらにその理解の重要性が強調されている。とりわけ、旧版にはなかった「憲法改正手続を定める憲法96条は改正できるか」のインパクトは大きい。極めて明瞭に、「憲法制定権力がルールの世界における憲法改正権の行使の方法を書き込んだものが改正規範なので、ルールの世界にある改正規範は根本規範と一体化して存在している」「主権の所在や行使の方法に関する根本規範が変更されない限りは、改正できない、あるいは改正してはいけないということが論理上の約束事、つまり公理なのです」と言いきっている。
また、特定秘密保護法の危険に警鐘が鳴らされている。はしがきの中に、「2013年12月に制定された「特定秘密保護法」は、権力者の手許にある情報を国民には見せない根拠を政府に与えるもので、政治の現状と政策を国民が知る権利を侵害して民主主義の基盤を掘り崩そうとするものです。また、国民相互の監視と密告を奨励して息苦しい監視社会を築きあげ、さらに真理を追求する科学的精神を萎縮させようとする毒素を隠しもった法律です」とまことに手厳しい指摘がなされている。
さらに、人権各論の中で「特定秘密保護法」の小項目を起こして解説がなされ(74?76頁)ており、その結論が次のようにまとめられている。
「この法律は、明治憲法下の戦争遂行時の情報管制の時代に時計を巻き戻そうとしているとしか見えないのです」
旧版のあと書きの最終行で、筆者は「平和への祈りを込めて」との一文を亡き母への献辞としている。新版では平和への祈りがさらに切迫した調子を帯びており、はしがきに次の一文がある。
「憲法9条の定める平和主義は、大規模に人間の生命を奪う戦争の禁止を、日本一国のみならず地球規模の視点から規定したもので、立憲主義の到達点を示しています。戦前の大日本帝国憲法のもとでは「個人」よりも「全体」に価値をおきました。その大義のもとに多くの尊い生命が失われたことを決して忘れてはならないのです」
そして、新版のあとがき最後の一行は、「正義が邪悪なものに打ち克ち、美しい日本の平和と自由が永遠に続くことを祈って」というもの。こんなことは教科書には書けない。オーソドックスな憲法学者にも熱い血が流れている。そして今は、その熱さを外に出さざるをえないのだ。
私の理解だが、今、正義と邪悪なものとが激しくせめぎ合っている。仮にも正義が敗れるようなことがあれば、「美しい日本の平和と自由」が失われかねない。正義が打ち克つためには多くの人に、憲法の理念や構造をしっかり理解してもらわねばならない。そのためにも、多くの人にこの書をお勧めしたい。
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天候不順の3月の園芸家
3月18日には高知で、19日には福岡、佐賀、宮崎で桜の開花宣言がされた。それなのに、昨日今日の、この寒さはどうしたことだ。春分の日の21日、低気圧の影響で北日本では強い風と大雪。北海道根室市では観測史上最高の115センチの積雪があったという。東京では暖房を入れて、真冬のコートを着込んで強い北風と寒さに震えた。
例年、桜よりも半月は早く咲くスモモの白い花も、蕾をちょっとほころばせて、開こうかどうしようか考え込んでいる。桜の名所上野公園も、ぼんぼりをつるしてロープを張って、お花見の準備は万端整えたが、肝心の花が咲かない。そのうえ、こんなに寒くてはとうていお花見気分は盛り上がらない。陣取りのブルーシートもみえない。
「匂いでわかるのか、暗号でわかるのか、それとも何か秘密の合図があるのか。園芸家どおしのあいだで、どうして相手も園芸家だということがわかるのか、これは秘密にしておく。しかし、たとえ劇場の廊下であろうと、喫茶店であろうと、医者の待合室であろうと、彼らがひと目でおたがいを見わけることは事実だ。最初の会話がまず、天候に関する意見の交換だ。『いや、私の記憶では、まったく、今年みたいな、こんな春は今までなかったですよ』それから話題はうつって、雨量のこと、ダリアのこと、化学肥料のこと、ダッチ・アイリスのことにおよぶ。・・・さらにイチゴの話になり、アメリカのカタログ、今年の寒害、アブラムシ、アスターといったことが話題になる。劇場の廊下に立っているタキシード姿の男。しかしそれは、単にうわべにすぎない。もっと深い、もっとリアルな現実なおいては、それは、手にシャベルと如露を持った二人の園芸家なのだ。」
「時計が止まると、まず分解してみて、つぎに時計屋にもっていく。自動車が動かなくなると、ボンネットをあげ、モーターの中に指を突っ込んで、修理工をよぶ。なんでも調節し、修理することができる。ただ、天候だけはどうにもならない。どんなに騒ごうと、どんなに誇大妄想に取りつかれようと、どんなに改革熱にかられようと、どんなに好奇心にもえようと、どんなに悪たれ口をきこうと天候だけはだめだ。時がみちて法則にかなえば、蕾は開き、芽は伸びる。そのとき、きみは謙虚な気持ちになって、人間の無力なことを悟り、『忍耐がすべての知恵の母』だ、ということがわかるだろう。」(カレル・チャペック「園芸家12カ月」の3月の園芸家より)
2014年3月の日本の天候がこんなに不順で、史上まれにみるほどの雪が積もったりするのは、もうすぐ上がる消費税のせいかもしれない。いやきっとそうだ。すべては、安倍政権のせいなのだ。いくら安倍政権が公共事業予算をお手盛りしても、「アベノミクス」景気はこれから急速にしぼんで冷え切ることになるだろう。3月の大荒れでお寒い天候は、その4月以降の景気を暗示し予言しているのに違いない。
そうした暗い気分を吹き飛ばすために、上野公園に出ていた植木屋さんで、「オンツツジ」(温躑躅)を衝動買い。落葉性ツツジなので葉はないけれど、上向きにスラリと伸びた細い枝の先にはとんがった蕾がたくさんついている。来月末には朱紅色の花がたくさん咲くはず。薄めの柔らかい大ぶりの葉は新緑だけでなく、秋には黄紅葉して、二度も楽しめる。こうして3月の園芸家は「忍耐」する。
(2014年3月22日)