澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

統一教会は組織防衛のためのスラップに踏み切った

(2022年9月30日)
 昨日、統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」と称している)が、3件の名誉毀損訴訟を提起した。この件を、朝日はこう見出しを付けて報じている。「旧統一教会がテレビ局と出演の3弁護士を提訴 『名誉毀損』と主張」。

 「テレビ番組での弁護士らの発言で名誉を傷つけられたとして、『世界平和統一家庭連合(旧統一教会)』が29日、読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』に出演した紀藤正樹弁護士と本村健太郎弁護士、TBS『ひるおび』に出演した八代英輝弁護士と、各テレビ局に、計6600万円の損害賠償や謝罪放送などを求めて東京地裁に提訴した」

 本日、この3通の訴状に目を通す機会を得た。読後感は、「これは統一教会の組織防衛のためのスラップだ」というもの。自らを批判する言論を牽制し萎縮せしめる目的で提訴される民事訴訟をスラップという。状況から見て、この3事件いずれも、統一教会批判の言論封じを目的とした、典型的なスラップ訴訟と言うほかはない。統一教会は、民事提訴を威嚇手段として言論の自由を蹂躙しているのだ。

 以下に訴状3通の内容を紹介しておきたい。

※ 統一教会の名誉毀損提訴事件は以下の3件。
A事件 被告 紀藤正樹・讀賣テレビ
B事件 被告 本村健太郎・讀賣テレビ
C事件 被告 八代英輝・TBSテレビ

※ いずれの訴状も2022年9月29日付。同日提訴の直後にメディアに配布したものと思われる。係属部不明。併合の上申あるか否かも不明。書面審査も経ていない。もちろん、被告には未送達の段階。

※ 金銭給付請求額は、3事件とも慰謝料2000万円と弁護士費用200万円。
 ほかに、いずれの事件でも、謝罪放送(1回)請求と、各被告弁護士のホームページへの謝罪広告掲載請求がある。

※ 謝罪放送(1回)請求と、ホームページへの謝罪広告掲載請求の訴額の合計が、18万円(A・B事件)、78万円(C事件)となっている。
 各ホームページへの謝罪広告掲載請求の訴額はゼロではあり得ない。訴額の最低単位10万円(貼用印紙額1000円)とすべきだろう。謝罪放送(1回)請求の訴額は、広告放送費用相当額となる。これを合計して、18万円・78万円は、常識的に過小ではないか。この点の調整と疎明の補充で、送達まで一定の日時を要すると思われる。

※いずれの訴訟とも、この上なく、単純な名誉毀損訴訟である。名誉毀損言論と特定された被告の言論は、「意見ないし論評」ではなく、典型的な「事実摘示」型請求原因である。もつとも、C事件だけは「論評型」かも知れないが、これも論評の前提とした事実についての真実性の立証が争点となる。

※ 訴状・請求原因は、名誉毀損言論の特定だけをしている。訴訟の構造としては、被告の抗弁→原告の認否→被告の立証、と進行することになる。
 
※ 被告の抗弁は、公共性・公益性・真実性(ないしは真実と信じたことについての相当性)という違法性阻却事由(相当性だけは、故意・過失の欠如)であるが、公共性(公共の利害に関する事項についての言論であること)・公益性(その目的がもっぱら公益をはかる言論であること)に問題はなく、残るは「真実性」(あるいは「相当性」)だけが争われることになる。

※ 当然に予想される抗弁に対して、先行しての積極否認についての事情が、請求原因に書き込まれていれば、迫力ある訴状になったのだが、それがないから、何ともつまらない、論点指摘だけの訴状となった。

※ なお、A事件・請求原因第2項の末尾に「上記発言の指摘事実は、事実ではない」、B事件・請求原因第2項の末尾に「上記発言は事実に反する」、C事件・請求原因第2項の末尾に「上記発言は事実に反する」とある。
 これは真実性の抗弁に対する先行否認だが、起案者は、「(摘示の)事実」と「(その摘示事実の)真実(性)」についての区別がついていない。だから「(上記発言の指摘)事実は、事実ではない」と、トートロジー的なおかしな表現となっている。本来は、「上記発言の指摘事実は、真実ではない」と記載しなければならないところ。B事件、C事件とも同様である。

※A事件 (被告 紀藤正樹・讀賣テレビ)
・名誉毀損表現がやや長文だが、「信者に対して売春させたっていう事件まである」「お金を集めるためにはなんでもするっていう発想」の部分だけが、名誉毀損の事実摘示である。
・この名誉毀損の事実摘示は、原告(家庭連合)についてのものではない。むしろ、原告ではない分派の少数派が「お金がないものだから(信者に対して売春させた)」と明確に語られている。
 この点で、裁判所が「原告の名誉を毀損する事実摘示ではない」として、棄却することが高い確率で考えられる。この場合は、その余の論点に判断は不要。なんとも愛想のない判決となる。
・問題は、判例の用語法での『一般の読者(この場合は視聴者)の普通の注意と読み方』である。原告は、「一般の視聴者の普通の注意と聞き方」を基準とすれば、「原告(家庭連合)が売春までさせたものと印象をもつだろう」と言う。当然に、被告はあり得ないという。ここは一つの論点である。
・前項の論点を被告がクリヤーできない場合にはじめて、被告の抗弁の立証の問題が出てくる。摘示された事実が、主要な範囲で真実であることが立証されれば被告の言論は違法性のないものとされる。真実性の立証に至らずとも、発言者に当該摘示事実を真実と信じたことに相当な理由が認められれば、故意も過失も欠く結果、原告の不法行為請求は棄却されることになる。

※B事件 被告 本村健太郎・讀賣テレビ
・名誉毀損表現は以下のとおり。
 「統一教会というのは、…布教活動自体が違法であるということがはっきりと裁判所で認定されています」「札幌地裁の判決が統一教会の布教活動の違法性を正面から認定した」「司法の判断として統一教会の活動というのは、布教活動自体が違法であると既に認定済みです」「統一教会というのは、一応まだ宗教法人ではあるものの既に裁判所判断として認定が出ている違法な組織である」
・これに対する、真実性の抗弁の立証は判決文の提出だけ。

※C事件 被告 八代英輝・TBSテレビ
・名誉毀損の表現は「この教団がやっている外形的な犯罪行為等…に着目している」だけ。
・原告は、この表現を「事実の摘示」とする。しかし、被告は、具体的な事実摘示をしたのではなく、原告のこれまでの行為を「外形的な犯罪行為等」と論評したと争うことになろう。論評であれば、論評が前提とした事実について、被告が真実性(あるいは相当性)の立証を求められることになる。
・いくつもの原告信者の刑事事件がある。原告は、これは全て信者が独自に罪を犯したもので、組織性はないというのだろうが、問題はそこにない。諸刑事事件事例から、「この教団がやっている外形的な犯罪行為等」との評価が常識的な論理から逸脱していなければ、当該言論を違法とすることはできない。原告の言い分は客観的に無理筋の主張となるだろう。

 スラップは、民事提訴という手段で言論の自由を蹂躙する不当あるいは違法なものである。被告らにエールを送りたい。なお、スラップに関しては、拙著を参照していただきたい。

https://nippyo.co.jp/shop/book/8842.html

日中国交「正常化」から50年。様変わりの中国とどう付き合うべきか。

(2022年9月29日)
 日中国交「正常化」から50年である。1972年の9月29日、北京で日中両国の首脳が共同声明に署名した。日本は「過去の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し深く反省する」とし、中国は「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄」した。これでようやく、「戦争状態の終結と日中国交の正常化」が実現した。20代だった私は、歴史が真っ当な方向に動いたと素直に感動したことを覚えている。

 私は学生時代から中国に人類の希望を見ていた。中国共産党の道義性を高く評価してもいた。50年前の時点で、その気持ちはなお健在だった。日本が、「反動・国民党政権」の台湾と手を切って、唯一の合法政権である北京政府と国交を樹立すべきは当然のことと考えてもいた。田中角栄・大平正芳がそこまで踏み切ったことが嬉しかった。確実に新しい時代が始まる、しかも両国にとっての明るい時代が。屈託なくそう思った。私だけではなく、60年代に学生生活を送った世代の多くが同じ思いではなかったか。

 その後半世紀を経て、なんと事態は様変わりしてしまったことだろうか。私の対中国の思い入れも確実に変わらざるを得ない。とりわけ衝撃的だったのは天安門事件、そしてそれに続く中国共産党の「断固たる民主化運動に対する弾圧」の姿勢である。さらに、チベット、新疆ウイグル、そして香港などに典型的に見られる強権的な剥き出しの人権弾圧。人権や自由や民主主義を否定する、この党とこの政権。文明世界にありうべからざる非文明の異物が世界を大きく侵蝕しつつある。50年前の不敏を恥じ入るばかりである。

 それでも、中国の地理的な位置は変わらない。隣人として交流せざるを得ない。どうすれば、上手な付き合いができるだろうか。

 一昨日(9月27日)の毎日新聞朝刊1面に、「日中 対話を重ねる以外にない」という河野洋平(元衆院議長)の見解が紹介されている。「対話を重ねる以外にない」という、その姿勢に賛意を表明して、要点を引用したい。

 「1972年の日中双方の人的往来は約1万人。それがコロナ禍前の2019年には1200万人になった。両国の関係は緊密になっている。にもかかわらず現在の両国関係が厳しいのは、政治の責任だ。

 香港や新疆ウイグル自治区での人権問題は看過できない。だからといって力で中国に言うことを聞かせることは難しい。なにができるかと言えば、やはり対話をする以外にない。今、一番欠けているのが政治的な対話だ。

 習近平国家主席発言に、米国をはじめ世界中の国が警戒感を持った。多民族国家をまとめるために旗印をあげただけだと主張する中国人もいる。実際に話し合ってみないとわからない。会って、話をして、『本当はどうなんだ』と言うべきだ。

 日中は国交正常化の際の共同声明で「お互いに覇権を求めない」と約束した。日本はそうした話をできる立場にある。それをせずに米国と一緒にどこまでも行く、米国のお使いのようなことをやっていれば、対話の雰囲気を自分で壊しているようなものだ。

 「自由で開かれたインド太平洋」という構想がある。中国包囲網と言ってはいないが、そういう意味があるのだろう。しかし、中国を包囲すれば対抗意識が出てきて、本当の秩序維持はできない。中国をサークルに入れて話し合わなければ真の平和は維持できない。包囲するのではなく対話をする。力で押さえつけるのではなく、問題は平和的に解決するというのが日本の国是のはずだ。戦争をしないために命がけで努力するのが政治家の務めだ。

 殴った方は忘れても、殴られた方は覚えている。国交正常化の際に中国は戦争賠償請求を放棄した。先の大戦で日本がどれほど大きな被害を中国の人たちに与えたかということは忘れてはいけない。

 正常化で問題がすべて解決したわけではない。日本ではよく「小異を捨てて」と言うが、捨ててはいけない。小異は残っている。小異については爆発しないように手当てをしながら、解決に向けていつまでも努力を続けることが大事だ。」

 さすがに立派な発言だと思う。中国共産党の人権弾圧の姿勢には批判をしつつも、中国を敵視することなく、粘り強く対話を重ねるほかに道はないというのだ。同感するほかはない。

 私が、再び中国に人類の希望を見たり、中国共産党を見直して高く評価することはないだろう。しかしまた、中国の人々や文物を嫌ったり憎んだりすることもありえない。日中両国は、意識的に対話を継続しなければならない。国家も、国民も。 

醜悪なり、安倍国葬という名のカルト集会。

(2022年9月28日)

岸田はアベ国葬に何を求めたのか

 昨日、アベ国葬が終わった。岸田政権は、どうしてこんなことを思いつき、なにを獲得しようとしたのだろうか。そして、その目的は達成されたのか。あるいは、目算外れだったか。

 常識的に「国葬」といえば、国民の圧倒的な多数が敬愛する人物を対象とするものであろう。国民的な敬意と弔意を確認することによって、全国民の一体感を高揚させるに足りる人物。多くの場合には、国葬を通じて偉大な被葬者の意思に沿った国家の運営の正当性を確認し、国民を鼓舞することを目指すことにもなる。

 はたして岸田が国民の一体感の獲得を目標にアベ国葬を思い立ったか。おそらく、それはあるまい。安倍晋三は、政治的なレガシーをもたざる政治家である。むしろ、負のレガシーがあげつらわれる長期政権担当者。遠慮した物言いでも、毀誉褒貶定まらない人物。そして、人格的な問題を指摘されこそすれ、けっして尊敬される人格者ではなかった。ましてや、政治家稼業三代目のボンボン。庶民の苦労とは無縁でもある。ゴマすりメディアの操作には定評があったが、とうてい国民の圧倒的な多数が敬愛する人物ではない。葬儀を通じて、国民の一体感を確認し高揚することなど、夢想もしえない。その意味では、まつりあげようにもタマが悪過ぎる。

 しかし、岸田は考えたに違いない。全国民の一体感や団結ではなく、保守陣営の一体感や結束には資するのではないか。その演出は、アベの支持層であった自民党右派や右翼への「貸し」を作ることができる。うまく行けば、保守化しているとされる若年層にもアピールできるのではないか。

 岸田は「聞く耳」をもっていることをキャッチフレーズとした。安倍政権があまりに頑なに岩盤支持層である右派右翼の声しか聞かなかったことに対する、アンチテーゼである。その岸田が、今回は、国葬反対の声が高まっても、その声に耳を傾けようとはしなかった。岸田にしてみれば、反対の声の高まりは「貸し」を大きくすることと認識した。安倍派とその取り巻き、右翼の面々には、「大きな国民の声を押し切って国葬実施に漕ぎつけた」というアピールの材料として、好都合だったのだろう。

 こうして、アベ国葬は、国民全体の一体感獲得や国民的結束ではなく、党内右派、あるいは国民の安倍支持層を岸田政権の支持につなげるための目論見として位置づけられた。その目的に照らせば、国葬強行はけっして失敗ばかりでない。

「ただ涙」「ありがとう」という参列者

 国葬の報道は二通りある。進行の手際が悪く、何時間も会場に閉じ込められた参列者の不満が爆発したとか、トイレの待ち時間がたいへんだった、紋切り型で一方的な挨拶ばかり、などという醒めた報道が一つ。そしてもう一つが、歯の浮くような感動を報じるもの。おそらくは、両面があったのだろう。

 本日のあるスポーツ紙の見出しがこうなっている。《安倍晋三元首相の国葬に参列した人々「ただ涙」「ありがとう」思い出を語り、感謝を口にする人も》。見出しはこのスホーツ紙が付けたものであろうが、共同配信の記事である。

 「安倍晋三元首相の国葬に参列した人々は、会場で黙とう、献花し追悼の思いを新たにした。「ただ涙が止まらなかった」「『ありがとう』と心の中で伝えた」。生前の安倍氏との思い出を語り、感謝を口にする人も。

 国際政治学者の三浦瑠麗氏は「安倍政権に関わった多様な人々が来ており、厳粛な空気だった。菅義偉前首相のスピーチは、戦友でないと分からないエピソードや情愛をとつとつと語り、感動的だった」とした。

 自民党の田野瀬太道衆院議員は「ただただ涙が止まらなかった。事件当日、病院に駆け付けた時のつらい記憶がよみがえった」と声を詰まらせた。」

 統一教会は信者を獲得しその信者の信仰を固めるために、ビデオメッセージを見せ、外界から閉ざされた集会を催して「感動的な」スピーチを聞かせる。昨日の武道館は、さながらカルト集会だった。安倍晋三が政治を私物化した張本人であること、失政を重ねて日本を衰退させ、国民に貧困と格差を持ち込んだことなども伏せられた。あたかも安倍晋三が、民主主義の推進者であるかのごとく語られて、「ただ涙」「感謝」だったのだ。これは、武道館に集まった、愚かな4200人のカルト集会と評するほかはない。

 注文の多い旅料理店では、愚かな二人の紳士がだまされ、あわやというところで、犬の吠え声に救われる。4200人のマインドコントロールは、「なんとまあ、あのウソつき晋三に国葬かよ」という一言で解ける体のものといえよう。

岸田首相の駄言への感想

 「従一位、大勲位菊花章頸飾、安倍晋三・元内閣総理大臣の国葬儀が執り行われるに当たり、ここに、政府を代表し、謹んで追悼のことばを捧げます。」

 (「従一位」「大勲位菊花章頸飾」ってなんだか分からないけど、民主主義社会では恥ずかしくも揶揄の対象にしかならない肩書じゃないの。ホントに真面目に言ってるんだろうか)

 「あなたはわが国憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史は、その長さよりも、達成した事績によって、あなたを記憶することでしょう。」

(これは、相手を間違えている。正しくは、「歴史は、あなたの反憲法的で反立憲主義・反民主主義的な強権姿勢と、政治の私物化、政治の腐敗、「忖度」という流行語に象徴される官僚への締めつけ、公文書の隠匿・偽造、そして、嘘とゴマカシで日本を貶めた『最悪・最低の首相』として、あなたを記憶することでしょう」)

 「あなたが敷いた土台のうえに、持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓いとしてここに述べ、追悼の辞といたします。」

(おいおい正気かね。アベ政治を清算し脱皮することで、岸田政権はなんとかもっていたという認識はないのか。こんな風に、アベ政治ベッタリを宣言して、本当に大丈夫なのかね)

菅義偉の歯の浮く弔辞

 菅の歯の浮く弔辞は、気恥ずかしくて聞くに耐えない。あの密室のカルト集会であればこそ、あんなことが言えるのだろう。風通しのよい明るい場所で読み直してみての菅本人の感想が聞きたいものである。

 安倍晋三と一体となった菅であればこその挑発的な政治発言もあったが、最後の締めくくりには驚いた。そのアナクロニズムにである。そして、外交的なセンスの欠如にも。

 「何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が国、日本にとっての、真のリーダーでした。
 あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。ここまで読んだという、最後のページは、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
 しるしをつけた箇所にあったのは、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
 かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。」

 菅は、安倍を伊藤博文に、自分を山県有朋に喩えたのだ。なんという無神経。なんという不適切。ここで、会場の参列者から大きな拍手が湧いたという。これが、カルト集会の効果なのだ。

 伊藤は韓国統監府の初代統監として、文官でありながら韓国に進駐する日本軍の指揮権を握る地位にあった。1905年12月から09年6月までのこと。朝鮮独立を蹂躙する象徴的人物と目されて、2010年3月に志士安重根に銃撃され落命している。伊藤を持ち上げることは、韓国・北朝鮮の国民への配慮を欠いた無神経と言わざるを得ない。両国からの国葬参列者は、いかなる思いであったろうか。

 山県有朋も、軍閥・藩閥の長老として、天皇制明治政府に君臨した人物。今の世に懐かしむべき人物像ではない。和歌を引用するのなら、日本の文化には、よりふさわしい挽歌はいくつもある。よりによって、山県有朋とは虫酸が走る。

 とは言うものの、なるほどこれが、安倍・菅らの心情なのだと思わせる、貴重なエピソードではある。

アベ政治を許さない。アベ国葬も許さない。今後とも。

(2022年9月27日)
 早朝から、むやみにヘリコプターがうるさい。とうとう今日が安倍国葬の日となった。

 昨日、情報通の知人から、「進行台本」《故安倍晋三 国葬儀》なるものをメールで送っていただいた。表紙を含む57ページの大部のもの。一読して、恐るべきアナクロニズム。なんともばかばかしくも不愉快きわまる安倍国葬の進行。これが、安倍晋三流なのか、あるいは自民党風なのか。

 不愉快の第一は、自衛隊の大きな顔だ。弔砲撃ったり、儀仗兵やら軍楽隊やら、やたらと出番が多い。軍楽隊は、「国の鎮め」やら「悠遠なる皇御国」などという曲目を流す。軍国主義者安倍晋三には似合いかも知れないが、これが国葬なのか。こんなことをさせてよいものだろうか。

 不愉快の第二は、皇族連中の大きな顔だ。出たりはいったりの度に、臣下は起立を促される。復古主義者安倍晋三には似合いかも知れないが、これが日本国の国葬なのか。主権在民はどこへ行ったのだ。

 不愉快の第三は、安倍晋三の政治姿勢の露骨なねじ曲げと持ち上げである。こんなアナウンスが流れる。
 「故人が、『常に闘う政治家でありたい』との揺るぎない信念のもと、国家・国民のためであれば、いかなる批判をも恐れず、ただひたすらに行動してきた、その政治家としての軌跡を、ご遺影へと真っ直ぐに伸びていく生花の道で表現しています」

 耳を疑う。「安倍晋三が、激しく国民と闘ってきた」なら、よく分かる。民主主義と闘い、平和主義と闘い、人権尊重原理と闘って、憲法改正を目指していたのが、安倍晋三ではなかったか。まさしく、安倍政治を美化し、安倍の腐敗、安倍の失政に蓋をするための国葬となった。

 「安倍政治を許さない」という市民のスローガンは、本日は「安倍国葬を許さない」と書き直された。安倍晋三、死してなお、安倍国葬で民主主義に敵対しているのだ。

 本日、私と妻は、昼休みの礫川公園での街頭宣伝活動に参加した。参加者40人、今日は気合いがはいっていた。以下は、妻・政子の気迫十分だったスピーチ。なお、そのあと、2時からの国会前大集会にも参加した。この日この国は、国会前と武道館内との、二つの異なる原理の各集団に引き裂かれた。

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 間もなく、午後2時から、安倍元首相の国葬が行われます。私たちは、その国葬に反対するためにここに集まっています。
 ここに集まった私たちだけではありません。国葬に反対する国民は、大きく過半数を超え、6割にも7割にも達して、国中に「安倍国葬反対」の声がこだましています。どうして、こんなにも多くの人々が、こんなにも大きく声を上げて反対しているのでしょうか。

 あらためて、安倍政治の8年8ヶ月を思い起こし、安倍自民党政治を繰り返してはならない。安倍政治によって壊された日本の民主主義や平和主義を修復しなければならない。そのためには、安倍国葬を許してはならない。そういう思いで、私たちはここに集まり、私はここに立っています。

 私たち文京の区民や文京に職場をもつ者は、安倍長期政権が続いた8年あまり、この場所や、近くの本郷三丁目交差点などで、安倍政治の間違いやその危険性について、批判の声を上げ続けてきました。
 たとえば、皆さんご記憶のモリ・カケ・サクラです。それだけではなく、黒川検事問題も、河井案里問題も、アキタフーズの増収賄も、カジノ汚職もありました。安倍政権とは、政治を私物化した腐敗政権でした。しかも、安倍晋三という人は、国会で数え切れないほどの嘘をつきました。高潔な公務員赤木俊夫さんは、安倍晋三首相の嘘に辻褄を合わせるための文書の改竄を命じられ、苦しんだ末に自殺にまで追い込まれたのです。安倍首相の嘘の犠牲になったと言って間違いありません。

 これから、国葬が行われようとしてる安倍晋三元首相とは、国会で平気で嘘をつき、自分の手は汚すことなくヒラメ官僚に忖度させ、公文書の隠匿・改ざんをさせた人物なのです。
 
 安倍政治は、この上なく無能な政治でもありました。コロナ対策の不備のため今まで亡くなった4万4000人余の方々にお詫びをしても取り返しがつきません。役立たずの「安倍マスク」が無能政治の象徴です。その作成にだけでなく、保管にも、果ては捨てるためにも、大金をかけたことを思い出していただきたいのです。

 しかも、政治の私物化にも、無能政治にも、国民にはどれひとつとして納得のいく説明もなくうやむやなままです。安倍元首相の不誠実と無責任は明らかで、とうてい国葬に値する人物ではないことが明確ではありませんか。

 また、安倍元首相は、アベノミクスと名付けた経済政策でも大きく失敗し、日本経済を衰退させ、私たち国民に生活苦をもたらしました。大企業はお金を貯め込み、株価は上がって、大金持ちには立派な経済政策でしたが、国民にもたらされたのは、天井知らずの物価高、医療費・教育費の高騰、子供や女性の貧困、災害無策等々数え上げたらキリがありません。とりわけ、非正規の低賃金労働者を大量に生み出して、日本社会に貧困と格差をもたらしました。多くの人の希望を失わせ、絶望の中にたくさんの若者を放り出したのも安倍政治です。そうして社会から疎外されたと感じた若者の一人に、安倍さんご自身が銃撃されたのではないか。私は、そう考えています。

 岸田首相が、安倍国葬を行う根拠の一つに掲げている外交についても考えてみましょう。安倍さんは、今や世界一の悪役となったプーチン大統領とは盟友ということでした。安倍さんは、「君と僕とは同じ未来を見ている。ゴールまで二人の力で駆けて駆けて駆け抜けようではありませんか」などと虫唾が走るようなセリフを並べました。それなのにに今年2月にプーチンがウクライナ侵略を始めても、ダンマリを決め込んで一言の苦言も助言もしようとしませんでした。日本には「類は友を呼ぶ」という格言があります。プーチンと手を携えてどこへ行こうというのでしょうか。日本を戦争に引きずり込もうとでも言うのではないのでしょうか。

 国際社会はしたたかで計算高いものです。残念ながら弔問外交の目論見は大失敗です。Gセブンの首脳は、一人として、安倍国葬に参加はしないのです。

 また、安倍さんの評価を一段と貶めている統一教会問題についても触れなければなりません。岸信介以来三代の安倍家が、統一教会と因縁の強い結びつきがあったことだけでなく、亡くなる直前の安倍さんと統一協会の深い癒着も明らかとなり、さらに、統一教会が自民党を通じて、政治に深く介入していたことが白日のもとに曝け出されようとしています。10月3日から開かれる予定の臨時国会での徹底した質疑で、安倍元首相が、とうてい国葬に値する人物ではなかったと、天下に明らかになるはずです。

 最後に、安倍政治の最も許し難いこと、安倍さんが日本を戦争できる国にしてしまったことに触れなければなりません。国家秘密保護法、国家安全保障会議の設置、武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権行使を容認した安保法制の制定など、安倍政治は、民主主義、立憲主義、平和主義を踏みにじって、戦争への道を開く法制度を作り上げました。

 法制度を作っただけでなく、安倍さんは軍事費を2倍にする、アメリカと核共有すると大変物騒なことを公言していました。こうした戦争へ続く企みを何とかをして止めようと私たちは安倍政治に反対してきたのです。そんな安倍さんに、弔意も敬意も表明することはできません。国葬なんてとんでもない。

 皆さん、今日の安倍国葬の日9月27日を忘れず、再び安倍政治を許さない平和日本を作る再スタートの記念の日にしようではありませんか。
 憲法改正をさせない世論を盛り上げ、平和な日本を作り出す決意の日とすることを呼びかけて、私の訴えを終わります。ありがとうございました。

憲法と落語(その9) ― 安倍晋三は「らくだ」である。死後にその生前の行状があげつらわれている。

(2022年9月26日)
 しばらく、途絶えていた「憲法と落語」。大ネタの「らくだ」を取りあげるなら、安倍国葬を明日に控えた今日をおいてない。

 この噺、元はと言えば上方ネタの「駱駝の葬礼」。これを、3代目柳家小さんが東京へ移したという。夏目漱石をして、「この人と同じ時代に生まれたことを好運と思う」と言わしめた、あの3代目小さん。噺のなかの焼場は大阪の千日前が落合に変わり、多少はアレンジされてアクが抜けたものの、基本は変わらない。初めは、「らくだの馬」とも題したそうだ。「馬」は、らくだの本名である。

 この噺は、貧乏長屋でフグにあたって死んだらくだが見つかるところから始まる。生きたらくだは出てこない。出てくるのは、登場人物によって語られるらくだ生前の乱暴狼藉、悪行の数々。この生前の悪行を死後も責めて、葬儀だの香典などとんでもないとするのか、「あんなに乱暴ならくださんでも、死んでしまえば罪も報いもない仏」とする倫理観で宥すのか、それが噺のテーマになっている。

 「安倍晋三の生前の悪行・失政は徹底して追及されねばならない。これに蓋をしようという国葬などとんでもない。最後まで撤回を求める」と筋を通して考えるべきか、あるいは、「安倍晋三生前の功罪をあげつらうよりは、国葬と決めた以上は非業の死を遂げた元首相を粛々と送るべきが良識ある社会人の態度ではないか」とするか。

 安倍晋三とらくだ。その葬儀をめぐっての論争は、よく似た側面があり、また違う側面も見落としてはならない。

 死んだらくだを最初に見つけたのは、らくだの兄貴分である。これが、葬儀を出し焼き場に運ぼうという義侠心を出し、たまたま来合わせた屑屋の久さんを脅してこれを使いっ走りにする。長屋から香典を集めさせ、大家には酒肴を用意させ、八百屋からは早桶代用の菜漬けの樽をもってこさせる。

 この「葬儀準備」の過程で、らくだの死を喝采して喜ぶ人々も、半ばは後難を恐れ半ばは死者への接し方の倫理観から、極めて消極的ながらも葬儀には最小限の協力をする。噺の聞き手に興味深いのは、最初は脅されやむなく使いっ走りをしていた屑屋が、次第に興に乗って積極的に協力するようになっていく姿である。

 さて、この図は安倍国葬とそっくりではないか。らくだを懇ろに葬ってやろうという兄貴分は、言うまでもなく安倍派の面々、あるいは安倍をトップとしてきた右翼の輩。いずれも強面の勢力である。これが、幾つかのルートで、屑屋の久こと岸田に働きかけた。岸田首相は、半ばは安倍派・右翼におもねり、半ばは自分のリーダーシップを誇示するチャンスと国葬を決し、押し進めた。

 周囲は大いに迷惑である。長屋の連中も大家も八百屋も困惑したとおり、「政治を私物化した安倍晋三の国葬なんぞとんでもない」のだ。しかも、「非業の死を遂げた元首相」という形容は実態にそぐわず、安倍が癒着していた統一教会の怨みを被った自己責任と結論づけられつつある。

 らくだは、市井の一乱暴者でしかない。周囲から疎まれてはいたがその罪は小さい。その葬儀も飽くまで私的なものに過ぎない。公金が出ることはない。これに比して、政治を私物化し、失政を重ねた安倍晋三の影響力は大きく、罪は深い。岸田も同罪である。

 「らくだ」の噺は、庶民の死者に対する畏敬の念や葬儀についての礼儀の常識がベースとしてある。その社会的な良識を踏まえてなお、らくだの死をあからさまに歓迎する人々の遠慮ない言葉が、笑いを誘う。安倍国葬もどこか同じブラックユーモアを感じさせるようになってきている。

 「らくだ」では、通夜のまねごとへの酒と肴を渋る大家に向かって、兄貴分がこう言って大家を脅す。「死骸のやり場に困っております。こちらに死骸を担ぎ込んでカンカンノウを踊らせてご覧にいれます」。
 これは、らくだを安倍晋三に置き換えると示唆的である。「安倍晋三は亡くなりましたが、その影響力がなくなったわけではありません。安倍国葬への攻撃は、安倍の後ろ盾からの反撃あることを心していただきたい」ということなのだ。安倍派・右翼・統一教会一体となっての、カンカンノウである。

 いま、安倍国葬積極推進の世論はほぼない。代わって目につくのは、「死者やその家族に対して失礼ではないか」「外国の要人を呼んでおきながらの国葬反対行動は、みっともない」「静粛であるべき葬儀の時に騒ぐのは、市民社会の常識に反する」と言う類いの国葬防衛論ばかり。

 屑屋の久さんの声が聞こえる。
 「生前は数々の罪を重ねた安倍晋三でも、死んでしまえば罪も報いもない仏さま。死んでしまった安倍晋三に手を合わせるのは当たり前、生前の安倍晋三に手向けをするのではない。だから、家族が粛々と行う葬儀に反対するのは非常識だろう。でも、国葬となれば話は別だ。国葬って、国民に生前の安倍の業績を認めろという強制じゃないのか。俺は、断固反対するね」
 

朝日デジタル記事《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?》紹介

(2022年9月25日)
 安倍国葬が明後日に迫っている。国家とは何か、政治とは何か、政治家とはいかにあるべきか、そして日本の保守政治の実態とはいかなるものであるのか。多くのものを見せつけ、多くのことを考えさせる、醜悪なイベント。

 その安倍国葬をどう考え、どう対応すべきかを考える素材として、朝日新聞デジタルの《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?第1回》が、実に面白い。「国葬で休校 反対して座りこんだ高校生たち 待っていた意外な結末」というタイトル。

 あの日とは、1967年11月1日のこと。「吉田茂国葬」の翌日である。当時北野高校に在籍していた約20人が、集団で議論の末授業を無断で欠席、大阪府教育委員会に赴き「吉田茂国葬」に抗議したのだという。なんという、素晴らしい若者の自主性、そして褒むべき行動力。

 彼らが手にした抗議文には、それぞれが調べた吉田茂に対する評価が盛り込まれていたという。「米英との戦争には反対したが、中国への侵略には積極派だった」「日米安保条約を結んだ一方、沖縄を米軍統治下にして犠牲にした」等々。

 相反する評価が交錯する首相経験者に対し、国を挙げて功績をしのび、喪に服する。政治的に中立であるはずの学校が休みになる。そんな「国葬」に疑問を持たざるを得なかったのだ。 

 その抗議文をすぐには受け取ってもらえず、庁舎の玄関先で1時間ほど座り込んだ。このとき、異様さに気づいたマスコミが続々と集まってきて、期せずして彼らの行動は、報道されることとなった。

 ようやく府教委の職員が現れ、抗議文を受け取ると、「係に渡します」とだけ言い残し、去っていった。あまりにあっさりとした対応に張り合いなく、生徒たちは学校に戻る道すがら、次第に心細くなったという。

 朝日が、そのうちの一人を取材している。「みんな怖くなっていました。退学処分を心配して、仕事を探すとまで言う生徒もいました」 校則に違反する初めての抗議行動。無届けの集会、授業ボイコット、そして府教委への抗議…。はたして、どんな処分が待っているのか。

 「学校に帰り着くと、ちょうど昼休みの時間帯だった。生徒たちがうつむき加減で校門を通ると、意外な光景が待ちうけていた。建物まで50メートルほど。在校の生徒たちがずらりと並び、拍手をして迎えてくれたのだ。列の中には、先生たちの姿もあった。「やりましたねー」と興奮気味に声をかけてくれる人もいた。みな、お昼のニュースで抗議の様子を知ったようだ。」

 数日後、処分が言い渡された。保護者が学校に呼び出され、口頭での「注意」を受けるだけで済んだ。生徒たちから恐れられていた生活指導の先生の対応は穏やかだったという。「お越しいただき、ごくろうさまです」「生徒はいろんな体験をすることが大切ですね」と述べ、「注意」のたぐいは一切なかったという。学校にも、余裕があったのだ。

 学校の歴史をつづった「北野百年史」によると、このときのことは「吉田茂国葬事件」として記述されているそうだ。そこには、生徒たちが許可なく集団欠席したことなどを重くみる一方、「当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として取扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点として受止めている」と、職員会議録の内容が紹介されているという。

 今は、沖縄で印刷業を営むという、当時の高校3年生(74)は、当時の大人たちの寛容さを「若いときに望まない戦争に駆り出され、戦地で思い出したくないようなつらい体験をしていた」「彼らの世代にとって、国が特定の政治家をたたえ、国民に弔意を強制することに違和感があったんじゃないでしょうか」と述べている。

 そして今、「様々な評価がある元首相を国を挙げて顕彰することへの違和感はぬぐえない」と言う。そのうえで、「高校3年のときの自分が、9月27日の安倍氏の国葬を迎えたら…」、と思いをめぐらせる。「やっぱり授業を休んで、何らかのかたちで反対の意思表示をしたと思います」と、記事は締めくくられている。爽やかな読後感。

 あれから55年である。日本の民主主義はあのときよりも進歩しているのだろうか。退歩してしまったのだろうか。願わくは、今の若者もこうであって欲しいと思う。そして、学校も家庭も、このような若者の自主性や行動力に寛容であって欲しいとも思う。なによりも大切なのは、一人ひとり、ものを考え、行動する個人なのだから。

安倍晋三は国賊なるや、国賊にあらざるや。

(2022年9月24日)
 自民党の村上誠一郎(元行革相)が、安倍晋三を「国賊」と評して、自民党内での物議を醸している。安倍晋三は「国賊」なるや「国賊」にあらざるや、しばらく、党内論議から目を離せない。

 私は、昔から「愛国心」という言葉になじめない。端的に言えば大キライだ。この言葉には、常に煽動の臭いがつきまとう。「愛国」とは「偏狭」と同義だと信じて疑わない。「真の愛国者」と言ってみても変わらない。「祖国」は、さらにいかがわしい。

 「愛国」の裏返しである「売国」や、「非国民」にも虫酸が走る。「売国奴」「国賊」などという言葉を聞くだにアレルギー症状が出る。「愛国者」も「売国奴」も、常に差別と分断と紛争を伴って使用される。

 しかし、私の好悪とは無関係に、「愛国」は褒め言葉となり、「売国」は悪罵として使われる。とりわけ、ナショナリストを気取る人物にとっては、「売国奴」「国賊」という言葉は最大級の侮辱となるようだ。だから、場合によっては効果絶大な言葉の武器にもなる。

 それぞれの部分社会ごとに、特定の言葉が罵り言葉となる。安倍晋三は、質問に立っている野党議員に向かって、「キョーサントー」「ニッキョーソ」と野次を飛ばした。彼と彼が所属する特殊な部分社会においては、「共産党」も「日教組」も悪罵なのだ。なるほど、統一教会・勝共連合と気脈が通じるわけだ。

 自民党内での「国賊」は、「キョーサントー」「ニッキョーソ」を上回る最大限の侮辱語彙なのだろう。味方陣営内での論争ではタブーと思われる。おそらくは、安倍晋三にとって「国賊」と面罵されることは、我慢のならないことに違いない。

 硬骨漢として知られる自民党の村上誠一郎は、このタブーに頓着しなかった。20日安倍晋三を批判して国葬欠席を表明し、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と述べた。「党本部で記者団の質問に答えた」ものと、時事通信が報じている。

 安倍晋三の生前の業績を「財政・金融・外交・官僚機構」を「ぼろぼろにし壊した」という総括にではなく、「国賊だ」という一言に党内が反発し、あるいは反発して見せて、問題が生じている。

 村上にしてみれば、安倍長期政権は、「内政・外交・政治姿勢」のあらゆる面で失政を重ね、日本という国のありかたを貶め、国力を低下させたのだ。一言でこれを総括する言葉として「国賊」がふさわしいと考えた。「安倍晋三の所業は国賊と言うに値する」との評価である。

 亡き安倍晋三に代わって、安倍派内の議員が反応した。「絶対に許さない」「除名だ」などと激怒する声が広がっているという。安倍の跡目を争う面々が、声を上げざるを得ない。派閥幹部の萩生田光一(政調会長)と世耕弘成(参院幹事長)は、翌21日、村上が総務会メンバーであることから、遠藤利明総務会長に事実確認と「けじめ」を要求したという。また、萩生田は茂木敏充幹事長とも意見交換したとも報じられている。

 国賊発言は「党員の品位を汚す行為」に当たる可能性があるとして、幹事長権限で「党役職停止」処分とし、村上氏を総務会メンバーから外す案が浮上している。安倍派内には、より重い処分を求めて「党紀委員会で処分を検討すべきだ」(閣僚経験者)との意見もあるそうだ。

 ことは、自民党内の党内民主主義に関わる。正確に言えば、自民党の民主主義イメージに関わる。「自由」と「民主主義」を看板にする「国民政党」の、言論の自由度が問われている。村上発言が党によって圧殺されるとなれば、その程度の「自由」であり、「民主主義」かと言うことになる。
 
 「国賊発言」を大ごとにすれば、世論の注目を集める。あらためて国民が、安倍長期政権の功罪を考えざるを得ない。今は、「安倍政治とは国葬に値するものであるか」というレベルで問われているが、次は、「安倍の所業は国賊と言うに値するものでないか」というレベルでの問いかけに回答が求められる。大ごとにすることを避けて無難に収めようとすれば、安倍派の面子をつぶすことにならざるをえない。さて、どうするか。どうなるか。興味津々というところ。

宗教二世の目で、統一教会「宗教二世問題」を見つめる。

(2022年9月23日)
 実は、と前置きするほどのことでもないが、私は「宗教二世」である。ものごころついて初めて字を覚え、分からぬながらも初めて文章を読んだのは、その宗教団体の「教典」だった。

 私の父は、ある宗教の熱心な信者で、私が5歳のころにその教団の布教師となった。以来私は、高校を卒業するまで教団の中で育った。

 私にとって好運だったのは、その教団がけっして排他的でも閉鎖的でもなく、私の父母も、私の進路を拘束しようとはしなかったこと。そして、小中学校は、教団施設から公立校に通ったこと。

 それでも私はその宗教の色に深く染まった。何しろそれが世界の価値観の全てで、それ以外に拠るべき何物もないのだから。教団は穏やかで居心地のよい場所ではあったが、私が選び取った世界ではなかった。いつのころからか私は、自分にまとわりついた宗教色を拭い去って、教団からの脱出を夢みるようになった。

 高校生のころには、教団の経営する学校の寮舎で、同じ境遇の友人と石炭ストーブにあたりながら、「俺たちに『信仰しない自由』ってないんだろうか」「親が子どもの信仰を決められるんだろうか」「将来の自分にとって信仰がどんな意味をもつのだろうか」などと話し合ったことを覚えている。おそらく、この問が宗教二世問題の原点なのだろう。

 いま、統一教会問題をめぐって、宗教二世問題がクローズアップされている。
 9月16日、全国霊感商法対策弁護士連絡が集会を開き、「旧統一教会の解散請求等を求める声明」を採択した。文科大臣への統一教会についての解散請求を求める内容を中心としながら、6項目の要求をまとめている。そのうちの第4項が、「二世問題」である。

https://www.stopreikan.com/seimei_iken/2022.09.16_seimei01.htm

 厚生労働大臣、こども政策担当大臣及び各都道府県知事に対して、
(1)いわゆる「二世」と呼ばれるこどもが抱える問題について児童虐待と位置づけて、適切なこども施策を策定・実施されたい。
(2)その前提として、担当職員(特に児童相談所職員)に対し、専門家を招致して研修などを実施し、カルト団体の問題点及び「二世」が抱える問題点等についての知見を周知されたい。
と要求するものだが、その理由が具体的で詳細である。その中に、次の一節がある。

 「二世は、両親を通して当該宗教団体から以下のような人権侵害を受けており、児童虐待防止法上の児童虐待に該当するものも含まれる。

? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)
? 婚姻前の恋愛の禁止(幸福追求権の侵害)、信者以外との結婚禁止(婚姻の自由の侵害)
? 学費負担拒否(教育を受ける権利の侵害)
? 服装、下着、体毛処理、外出等の生活の全てを管理(幸福追求権の侵害)
? 親の指示に従わない場合の鞭などによる体罰(身体的虐待)
? 親の指示に従わない場合の監禁、軟禁(身体的虐待)
? 布教を優先した育児放棄(ネグレクト)
? 「悪魔、死ね」等の暴言(著しい心理的外傷を与える言動)
? 体調不良時に病院への付添拒否(著しい心理的外傷を与える言動)
? 二世であることを理由にした差別、いじめ(第三者による人権侵害)」

 私はこのうちの???までとは無縁だったが、「? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)」だけは、免れようのない宿命的課題として、対峙せざるを得なかった。

 「声明」は、こう述べている。

 「二世問題への対応の難しさは、?二世自身が自らの抱える問題を明確に自覚できていない、あるいは、自覚をしていても自らそれを外部に申告することができないこと、?両親に注意喚起、指導をしても、自らの行為は信仰に基づくものであり、間違っていないと信じ込んでいるため受け入れられず、むしろ、外部の介入が両親によるこどもに対する攻撃を増幅させる危険があることである」という。

 上記?については、自分の体験として頷ける。?についての実体験はないが、その危険と恐怖の深刻さはよく分かる。

 そのような難しさの中で、『二世の宗教選択の自由と、両親の信教の自由(あるいは、(親権者の子どもに対する教育の権能)との関係』をどう捉えるべきか。「声明」はこう語っている。

「我が国が批准している子どもの権利条約第14条は以下のように定めている。
 1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。
 2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。

 両親がこどもに宗教教育を行う自由は認められているが(憲法第20条1項、自由人権規約第18条4項)、それは「児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法」によらなければならない。」

 信仰をもつ親が、我が子にも同じ信仰をもってもらいたいとしての「宗教二世」の生産・再生産は、けっして親の信教の自由として無制限のものではない。なによりも、子どもの人格、人権の尊重を最優先とする制約に服さざるを得ない。

 子どもは、親次第でどのようにも育つ。子どもの心情は白紙というにとどまらない。親の愛情の中で育つ子どもは、親の信仰を積極的に受容しようとする。マインドコントロールの環境としてはこれに過ぎるものはない。これが、私の体験的「二世問題」の基本視点である。

 キーワードである「子どもの発達能力に適合する方法」の尊重は極めて大切な原則である。これを貫徹することの現実的な困難は明らかではあるが、困難であるからと放擲してはならない。全ての人に、あらゆる局面で、再確認し具体化する努力の持続が求められる。

 おそらくは二世ではない一般信者の獲得においても、子どもについての信仰教化の環境設定が理想として追求されることになるだろう。つまりは、被勧誘者に対して不都合な関連情報をシャットアウトすることと、勧誘者に対して好意を喚起する工夫を施すことである。こうして、「適合性を欠如した」信仰の伝道・教化の成功に結実する。

 なお、私がかつて教団で学んで今につながることもある。教団経営の高校授業には、週一回の「宗教の時間」があった。そこで教団の幹部から、戦前の教団弾圧の際の体験を生々しく聞かされた。このとき培われた権力を憎む心情は今も変わらない。

八方ふさがりプーチンの「ボクは少しも悪くない。ぜ?ぶヒトのせい」

(2022年9月21日)
 ボクが、ウラディーミル。シンゾーの親友さ。お互い、ファーストネームで呼び合って、「一緒に駆けて駆けて駆け抜けよう」なんて臭いセリフを言い合う仲。似た者どうし、うんと気が合ったんだよ。驚いたなあ、そのシンゾーが死んじゃったんだ。

 だから、葬儀には駆けつけなければならないんだけど、招待もしてくれない。ボクが悪いんじゃない。日本が悪い、岸田のせいだ。

 葬儀と言えば、英国女王の国葬もそうだ。どうしてボクには招待状が来ないんだ。面白くない。イギリスが悪い。エリザベスのせいだ。

 日本にもイギリスにも、いや世界中に、ウクライナへの特別軍事作戦を始めたボクが、何かすごく悪いことをしているように言う人が多い。でも、悪いのはボクじゃない。みんなウクライナが悪い、ゼレンスキーのせいだ。だって、ウクライナはNATOに加盟しようとしていたんだよ。NATOの東方拡大なんて許せるはずがない。

 「実はウクライナはNATOには加盟しないことになった。だからウクライナ軍事侵攻の必要はない」という側近からの進言を、ことさらにボクが無視したなんて報道もある。でも、ボクに都合の悪い報道は全部デマだよ。悪いのはボクじゃない。メディアが悪い、でなければ側近のせいだ。

 「反転攻勢」って言葉は不愉快だ。耳に痛いんだよ。いま、ウクライナの戦況は最悪だけど、ボクが悪いんじゃない。アメリカの軍事支援のせいだ。バイデンが悪い。ウクライナがNATOに加盟していたら、どんなことになっていたかよく分かるだろう。ウクライナ侵攻の正当性が証明されたように思うんだけど、違うかな。

 もちろん、ハルキウでの敗北は痛い。特別軍事作戦の開始自体に対する疑問は国内からも噴き出している。だけど、これは参謀本部の責任さ。だって、作戦の進め方は総て参謀本部が決めているんだ。だから、ボクが悪いんじゃない。ボクのせいじゃない。

 こんな事態だから、サマルカンドまで足を運んで上海協力機構(SCO)首脳会議に出席した。習近平には軍事援助を期待したんだけれど、あいつニベもない態度。困ったときの友が真の友というだろう。あいつは真の友じゃないことがよく分かった。悪いのはボクじゃない。中国が悪い、習のせいだ。あ?あ、お世辞上手が取り柄だったシンゾーが懐かしい。

 サマルカンドでは、モディとも話しをしたが、あいつも実に不愉快だ。無神経に、このボクに「今は戦争のときではない」と、ウクライナとの早期停戦を要求する発言。いったいあれが、友好国首脳が公の場でいうことかね。ボクに恥をかかせようというのだろうか。しょうがないから、こう言っておいた。
 「私たちは全てをできるだけ早く終わらせたいと思っているが、ウクライナ側が交渉を拒否している」。そう、常に一方的に悪いのがウクライナ。戦争が長引いているのもウクライナのせい。ボクは、いつも、ちっとも悪くないんだ。

 頭の痛いのは、ロシア国内で公然と、ボクに向けた批判の動きが芽生えて、拡がり始めていること。サンクトペテルブルクとモスクワの区議会では今月中旬以降、ボクの辞任を求める請願運動が展開され始めた。賛同する区議が90人近いとも言うんだ。メディアでも、ボクを批判する論調が拡がりつつある。

 ボクのせいじゃないけど、このままだと戦況の好転は難しい。武器も兵員も不足なんだ。しょうがないから、予備役30万人を召集することにした。国内世論が反戦に傾くんじゃないかと心配だけど、背に腹は代えられない。こんなことになったのも、ぼくが悪いんじゃない。みんな参謀本部のせいだ。アメリカとゼレンスキーのせいだ。 

 とうとう、ロシア全土で抗議デモだ。38都市で1400人を超える市民を逮捕したが、これでおさまるはずはない。特にモスクワとサンクトペテルブルクではそれぞれ500人を超える市民を分散留置している。たいへんなことになった。みんなみんな、無能な部下のせいだ。

 このままでは、ジリ貧のスパイラル。奥の手を考えなければならない。最近は奥の手って言っても、みんな恐がらないし、恐れ入りもしなくなったけど。奥の手はたくさんあるぞ。まずは、ウクライナ4州の実効支配地域をロシアに編入する住民投票は前倒しでやる。政敵を消すための毒殺だつてあるぞ。全面戦争だってやるぞ、原発攻撃だって遠慮しない。そして、戦術核兵器の使用だって本気になればやるんだ。ハッタリじゃないぞ。敵国を撹乱して偽情報や裏資金を注ぎ込む「裏工作」もある。ボクKGBの出身なんだもの。得意技は使わなくちゃあ。

 どう? 恐いでしょう。えっ? たいして恐くない? もう戦争を始めちゃった以上、恐いなんて言ってられないって? それは困った。それって、いったいだれのせい? だれが悪いんだろう?

安倍国葬が目前、このまま国葬実施強行の意味

(2022年9月21日)
 本日が水曜日。来週火曜日(27日)の安倍国葬まで1週間を切った。この時点で、国葬反対の声はますます高く、国葬中止を求める意見の表明は引きも切らない。

 安倍国葬を支持するのは、アベトモとして甘い汁を吸った連中、岩盤支持層と言われた右翼勢力、統一教会シンパ。これに「自分は国葬賛成というわけではないが、国葬が実施される以上は敢えて反対するのは礼を失する」とのたまう、どこにでもいる「良識派ぶった体制派」。それに加えて、教祖安倍をどこまでも信奉する信者たち。安倍晋三を「日本の宝」と言ってのけた櫻井よしこのごときがその典型。おそらくは、安倍国葬反対の世の動向を、法難と受けとめているのだ。

 自民党の村上誠一郎(元行革相)が、朝日の取材に、「(国葬は)そもそも反対だ。出席したら(国葬実施の)問題点を容認することになるため、辞退する」と明言したという。「安倍氏の業績が国葬に値するか定かではない」「国民の半数以上が反対している以上、国葬を強行したら国民の分断を助長する」「こうしたことを自民党内で言う人がいないこと自体がおかしなこと」とも語っている。その、筋を通す姿勢に感嘆せざるを得ない。

 これに対照的なのが、立憲の野田佳彦。野田は、「私も執行部と考え方は同じ。(政府は)国会を絡めず独善的に決めてしまった。これでいいのかとの気持ちはある」と一応は言うのだ。そのうえで、「元首相が元首相の葬儀に出ないのは、私の人生観からは外れる。花を手向けてお別れする」と出席する意向。

 言ってることがなんだかおかしい。《国葬是か非か》を問題にしているときに、私的な弔意に問題をすり替えているのだ。野田は、増上寺の家族葬には参加しなかったのだろうか。国葬に出席しなければ安倍への追悼ができないとでも考えているのだろうか。個人的に弔問して追悼すればよかろうし、国葬には出席せず国民の一人として献花台に花を手向けるというお別れのしかたもあろう。

 原口一博(立憲・元総務相)が、ツイッターで野田発言を「人生観よりも法と正義が優先する。個人を優先するなど私にはできない」と批判すると、読売が読売らしく、《立民議員、国葬出席の同僚らを相次ぎ非難…》と報じた。自民党幹部の「『弔意を示すな』と強制するのもおかしい」とのコメントを報じている。

 しかし、原口ツィッターは、野田の『弔意を示す自由』をいささかも侵害していない。野田は元首相としての仲間意識を大切に、存分に「私の人生観」のとおり安倍に弔意を示せばよい。ツィッターでも、記者会見でも、雑誌記事でも、駅頭演説でも…。そのことを妨害する者はない。問題は飽くまで、「国葬是か非か」なのである。国葬でなければ弔意を表すことができないはずはない。この論点を誤魔化してはならない。

 最も批判さるべきは、連合会長の芳野友子の国葬出席表明である。この人、記者会見で「苦渋の判断だが出席せざるを得ない」と言ったという。「苦渋の判断」というのは、どう苦汁したのかさっぱり分からない。「出席せざるを得ない」という結論はなおさらである。

 忖度するに、「わたしは、労働者の闘う力など信じちゃいない。労働条件改善は政府に擦り寄ってお願いするしかないんだから、政府から国葬出席を要請されれば、喜んで応じるしかないでしょ」「政府と対決したら、取れるものも取れない。安倍の時代と同様に、上手に付き合うしかないものね」「政府と親密に付き合っていれば、わたしの立場もぬくぬくと安泰でいられるはず」「わたしは、共産党と闘うことを使命としてる。共産党が国葬欠席と言った以上は、私の国葬欠席はあり得ない」「国民は出席と言い、立憲は欠席という。どちらをとっても『苦汁の判断』と言ってみせるしかないでしょ」「中央執行委員会では国葬への批判続出で、『欠席してほしい』と求める声が相次いだのは事実。だけど、出席という結論ありきなんだから、反対意見を押し切ることが『苦汁』だったわけ」

 各地の弁護士会が反対声明を出している。本日は沖縄弁護士会の会長声明が出た。各地の自治体の長の国葬参加の公費支出差し止めを求める住民監査請求も各地でなされている。この勢いは止まらない。

 注目すべきは、地方議会での国葬反対意見書の採択である。本日夕刻の時点で、「毎日新聞の集計では、少なくとも12市町村の議会が国葬中止や撤回を求める意見書や決議を可決している。」「その他、国葬の根拠となる法整備を求める意見書(長野県伊那市議会)や国会での徹底審議や弔意を強要しないことを求める意見書(北海道日高町議会)なども可決されている」という。

 最初の決議は神奈川県葉山町だった。9月6日のこと。意見書は共産党町議が提出。議長を除く13人中、共産、立憲民主、無所属などの計8人が賛成した。意見書では「国葬実施は、安倍元首相の政治的立場を国家として全面的に公認・賛美することになる」「国民に対し、弔意を事実上強制することにつながる」と指摘しているという。

 次いで、8日鳥取県南西部にある日南町議会が、元首相の国葬中止を求める決議案を可決。驚くべきことに全会一致である。以後、9日に小金井市、12日に鎌倉市議会が続いた。さらに、15日高知県大月町議会。ここも、自民・公明を含む議員10名の全会一致。16日には国立市。長野県では本日(21日)までに、大鹿村、南箕輪村、長和町、坂城町、箕輪町の5町村で可決している。

 鎌倉市議会の例を見ると、議長を除く25人の議員のうち、中間派8人が「好意的な退席」となり、共産党、神奈川ネットワーク運動・鎌倉、鎌倉かわせみクラブなど計12人が賛成。反対にまわった公明党、自民党の5人が孤立した。現在の国民意識をよく反映しているのではないか。

 安倍国葬が目前のいま、世論の動向如何にかかわらず、国葬実施に突き進むしかないというのが、政府・与党の態度。これは、政府が国葬撤回の機会を失したと見るべきであろう。国葬の実施は政権に大きな傷を残すだろうからだ。政治状況は、けっして「黄金の3年間」を許さぬものとなる模様である。

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