安倍晋三は国賊なるや、国賊にあらざるや。
(2022年9月24日)
自民党の村上誠一郎(元行革相)が、安倍晋三を「国賊」と評して、自民党内での物議を醸している。安倍晋三は「国賊」なるや「国賊」にあらざるや、しばらく、党内論議から目を離せない。
私は、昔から「愛国心」という言葉になじめない。端的に言えば大キライだ。この言葉には、常に煽動の臭いがつきまとう。「愛国」とは「偏狭」と同義だと信じて疑わない。「真の愛国者」と言ってみても変わらない。「祖国」は、さらにいかがわしい。
「愛国」の裏返しである「売国」や、「非国民」にも虫酸が走る。「売国奴」「国賊」などという言葉を聞くだにアレルギー症状が出る。「愛国者」も「売国奴」も、常に差別と分断と紛争を伴って使用される。
しかし、私の好悪とは無関係に、「愛国」は褒め言葉となり、「売国」は悪罵として使われる。とりわけ、ナショナリストを気取る人物にとっては、「売国奴」「国賊」という言葉は最大級の侮辱となるようだ。だから、場合によっては効果絶大な言葉の武器にもなる。
それぞれの部分社会ごとに、特定の言葉が罵り言葉となる。安倍晋三は、質問に立っている野党議員に向かって、「キョーサントー」「ニッキョーソ」と野次を飛ばした。彼と彼が所属する特殊な部分社会においては、「共産党」も「日教組」も悪罵なのだ。なるほど、統一教会・勝共連合と気脈が通じるわけだ。
自民党内での「国賊」は、「キョーサントー」「ニッキョーソ」を上回る最大限の侮辱語彙なのだろう。味方陣営内での論争ではタブーと思われる。おそらくは、安倍晋三にとって「国賊」と面罵されることは、我慢のならないことに違いない。
硬骨漢として知られる自民党の村上誠一郎は、このタブーに頓着しなかった。20日安倍晋三を批判して国葬欠席を表明し、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と述べた。「党本部で記者団の質問に答えた」ものと、時事通信が報じている。
安倍晋三の生前の業績を「財政・金融・外交・官僚機構」を「ぼろぼろにし壊した」という総括にではなく、「国賊だ」という一言に党内が反発し、あるいは反発して見せて、問題が生じている。
村上にしてみれば、安倍長期政権は、「内政・外交・政治姿勢」のあらゆる面で失政を重ね、日本という国のありかたを貶め、国力を低下させたのだ。一言でこれを総括する言葉として「国賊」がふさわしいと考えた。「安倍晋三の所業は国賊と言うに値する」との評価である。
亡き安倍晋三に代わって、安倍派内の議員が反応した。「絶対に許さない」「除名だ」などと激怒する声が広がっているという。安倍の跡目を争う面々が、声を上げざるを得ない。派閥幹部の萩生田光一(政調会長)と世耕弘成(参院幹事長)は、翌21日、村上が総務会メンバーであることから、遠藤利明総務会長に事実確認と「けじめ」を要求したという。また、萩生田は茂木敏充幹事長とも意見交換したとも報じられている。
国賊発言は「党員の品位を汚す行為」に当たる可能性があるとして、幹事長権限で「党役職停止」処分とし、村上氏を総務会メンバーから外す案が浮上している。安倍派内には、より重い処分を求めて「党紀委員会で処分を検討すべきだ」(閣僚経験者)との意見もあるそうだ。
ことは、自民党内の党内民主主義に関わる。正確に言えば、自民党の民主主義イメージに関わる。「自由」と「民主主義」を看板にする「国民政党」の、言論の自由度が問われている。村上発言が党によって圧殺されるとなれば、その程度の「自由」であり、「民主主義」かと言うことになる。
「国賊発言」を大ごとにすれば、世論の注目を集める。あらためて国民が、安倍長期政権の功罪を考えざるを得ない。今は、「安倍政治とは国葬に値するものであるか」というレベルで問われているが、次は、「安倍の所業は国賊と言うに値するものでないか」というレベルでの問いかけに回答が求められる。大ごとにすることを避けて無難に収めようとすれば、安倍派の面子をつぶすことにならざるをえない。さて、どうするか。どうなるか。興味津々というところ。