宗教二世の目で、統一教会「宗教二世問題」を見つめる。
(2022年9月23日)
実は、と前置きするほどのことでもないが、私は「宗教二世」である。ものごころついて初めて字を覚え、分からぬながらも初めて文章を読んだのは、その宗教団体の「教典」だった。
私の父は、ある宗教の熱心な信者で、私が5歳のころにその教団の布教師となった。以来私は、高校を卒業するまで教団の中で育った。
私にとって好運だったのは、その教団がけっして排他的でも閉鎖的でもなく、私の父母も、私の進路を拘束しようとはしなかったこと。そして、小中学校は、教団施設から公立校に通ったこと。
それでも私はその宗教の色に深く染まった。何しろそれが世界の価値観の全てで、それ以外に拠るべき何物もないのだから。教団は穏やかで居心地のよい場所ではあったが、私が選び取った世界ではなかった。いつのころからか私は、自分にまとわりついた宗教色を拭い去って、教団からの脱出を夢みるようになった。
高校生のころには、教団の経営する学校の寮舎で、同じ境遇の友人と石炭ストーブにあたりながら、「俺たちに『信仰しない自由』ってないんだろうか」「親が子どもの信仰を決められるんだろうか」「将来の自分にとって信仰がどんな意味をもつのだろうか」などと話し合ったことを覚えている。おそらく、この問が宗教二世問題の原点なのだろう。
いま、統一教会問題をめぐって、宗教二世問題がクローズアップされている。
9月16日、全国霊感商法対策弁護士連絡が集会を開き、「旧統一教会の解散請求等を求める声明」を採択した。文科大臣への統一教会についての解散請求を求める内容を中心としながら、6項目の要求をまとめている。そのうちの第4項が、「二世問題」である。
https://www.stopreikan.com/seimei_iken/2022.09.16_seimei01.htm
厚生労働大臣、こども政策担当大臣及び各都道府県知事に対して、
(1)いわゆる「二世」と呼ばれるこどもが抱える問題について児童虐待と位置づけて、適切なこども施策を策定・実施されたい。
(2)その前提として、担当職員(特に児童相談所職員)に対し、専門家を招致して研修などを実施し、カルト団体の問題点及び「二世」が抱える問題点等についての知見を周知されたい。
と要求するものだが、その理由が具体的で詳細である。その中に、次の一節がある。
「二世は、両親を通して当該宗教団体から以下のような人権侵害を受けており、児童虐待防止法上の児童虐待に該当するものも含まれる。
? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)
? 婚姻前の恋愛の禁止(幸福追求権の侵害)、信者以外との結婚禁止(婚姻の自由の侵害)
? 学費負担拒否(教育を受ける権利の侵害)
? 服装、下着、体毛処理、外出等の生活の全てを管理(幸福追求権の侵害)
? 親の指示に従わない場合の鞭などによる体罰(身体的虐待)
? 親の指示に従わない場合の監禁、軟禁(身体的虐待)
? 布教を優先した育児放棄(ネグレクト)
? 「悪魔、死ね」等の暴言(著しい心理的外傷を与える言動)
? 体調不良時に病院への付添拒否(著しい心理的外傷を与える言動)
? 二世であることを理由にした差別、いじめ(第三者による人権侵害)」
私はこのうちの???までとは無縁だったが、「? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)」だけは、免れようのない宿命的課題として、対峙せざるを得なかった。
「声明」は、こう述べている。
「二世問題への対応の難しさは、?二世自身が自らの抱える問題を明確に自覚できていない、あるいは、自覚をしていても自らそれを外部に申告することができないこと、?両親に注意喚起、指導をしても、自らの行為は信仰に基づくものであり、間違っていないと信じ込んでいるため受け入れられず、むしろ、外部の介入が両親によるこどもに対する攻撃を増幅させる危険があることである」という。
上記?については、自分の体験として頷ける。?についての実体験はないが、その危険と恐怖の深刻さはよく分かる。
そのような難しさの中で、『二世の宗教選択の自由と、両親の信教の自由(あるいは、(親権者の子どもに対する教育の権能)との関係』をどう捉えるべきか。「声明」はこう語っている。
「我が国が批准している子どもの権利条約第14条は以下のように定めている。
1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。
2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。
両親がこどもに宗教教育を行う自由は認められているが(憲法第20条1項、自由人権規約第18条4項)、それは「児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法」によらなければならない。」
信仰をもつ親が、我が子にも同じ信仰をもってもらいたいとしての「宗教二世」の生産・再生産は、けっして親の信教の自由として無制限のものではない。なによりも、子どもの人格、人権の尊重を最優先とする制約に服さざるを得ない。
子どもは、親次第でどのようにも育つ。子どもの心情は白紙というにとどまらない。親の愛情の中で育つ子どもは、親の信仰を積極的に受容しようとする。マインドコントロールの環境としてはこれに過ぎるものはない。これが、私の体験的「二世問題」の基本視点である。
キーワードである「子どもの発達能力に適合する方法」の尊重は極めて大切な原則である。これを貫徹することの現実的な困難は明らかではあるが、困難であるからと放擲してはならない。全ての人に、あらゆる局面で、再確認し具体化する努力の持続が求められる。
おそらくは二世ではない一般信者の獲得においても、子どもについての信仰教化の環境設定が理想として追求されることになるだろう。つまりは、被勧誘者に対して不都合な関連情報をシャットアウトすることと、勧誘者に対して好意を喚起する工夫を施すことである。こうして、「適合性を欠如した」信仰の伝道・教化の成功に結実する。
なお、私がかつて教団で学んで今につながることもある。教団経営の高校授業には、週一回の「宗教の時間」があった。そこで教団の幹部から、戦前の教団弾圧の際の体験を生々しく聞かされた。このとき培われた権力を憎む心情は今も変わらない。