舛添要一東京都知事が袋叩きの状態となっている。海外出張での大名旅行批判に加えて、週末湯河原別荘通いに公用車利用である。しかも、居直り開き直りの弁明が、火に油を注ぐことになった。よってたかってのイジメ参加は私の趣味ではないのだが、東京都や都教委と争う立場にある者として、やはり一言いわざるを得ない。
4月27日発売の週刊文春によれば、知事は情報公開による公用車記録簿で確認された限りで、2015年5月1日から16年4月8日までの間に、神奈川県湯河原町の別荘への往または復での公用車利用を48回している。16年4月22日(金)には、文春記者が、都庁から湯河原までの公用車利用を目撃しているとのことなので、これを含めると年間49回である。
知事は、ほぼ毎週金曜日の午後2時半には公務を切り上げ、公費で温泉付き別荘に向かったことになる。片道100キロで1時間半の行程。普通にハイヤーを使えば往復8万円の距離だという。年間に換算すると400万円ほど。これが、「都庁関係者から匿名を条件とした情報提供」によって「発覚」し、2年を経過した今頃初めて問題になっていることが信じがたい。関係者には広く知られたことであったろうに、また会計監査も経ているはずなのに、どうして今頃、なのであろうか。
私が問題にしたいのは、知事の弁明のうちの、「ルール通りで問題はない」という一言。4月27日の記者会見では、「ルール通りで問題はないから、今後も続ける」との趣旨で居直っている。知事が言うルールとは、「都の規則では、移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」ということ。この「ルールに従っているのだから何の問題もない」「あらためる必要はない」という弁明の意味を考えてみたい。
世論は「ルール通り」という知事の弁明に総批判と言ってよい。「ルールに従った知事」を批判し非難する世論の方が間違っているのだろうか。そんなことはあり得ない。世論の、「そんなルールがあろうとなかろうと、知事の弁明は詭弁に違いない。到底納得できない」という感覚の方が正しいのだ。
知事の言は、「本当にルール通り」なのか。そして、「ルール通り」であれば問題はないのか。そう、問い正さねばならない。
ルールもいろいろある。憲法のような根本ルールもあれば、末節のルールもある。法律や条例のような民意によって作られたルールもあれば、行政限りで作られた内部ルールもある。ルールを厳格に解釈しなければならない局面もあれば、そのことが詭弁となることもある。
知事は、ルールをもち出してはいるものの、そのルールに関する詳細な説明はしていない。できれば、「法に基づくルール」あるいは「議会が作った条例というルール」と言いたいところだが、知事は、そうは言えなかった。この「ルール」は、民意を反映して作られたルールではない。だから、そのルールに従っているとするだけでは説得力に乏しい。
東京都には、「東京都自動車の管理等に関する規則」というものがある。この「規則」とは、地方自治体が制定するものだが、国の法令に違反しない範囲で首長が定める。議会の議決を必要とするものではない。要するに、知事自身が作った内部規定に過ぎない。
その第9条によって、知事は「専用車」を使うことができる。その「専用車の使用について必要な事項は財務局長が別に定める。」となっている。通常の庁用車の使用時間は、「通常の出勤時限から通常の退庁時限までとする」とされている(同規則8条)が、専用車にはその時間の限定はない。ここまでは、ネットで容易に検索できるが、その先の「財務局長が定める知事専用車使用についての規則」は、見つからない。もっとも、苦労して見つける努力をするほどのこともない。
多分その「財務局長規則」の中のどこかに、知事が言う「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」という条項があるということなのだろう。
まず、知事の年間49回に及ぶ週末湯河原通いは「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」というルールに適合しているだろうか。
いかなるルールも文言が抽象的であることを免れず、具体的な事例への適用において宿命的に解釈を必要とする。ルールが許容(あるいは禁止)することが明確な範囲を中核として、その周囲に明確性の濃淡をなす部分があって、ルールで許容(あるいは禁止)された範囲の限界は必ずしも一律に決まるものではない。具体的な事例が、その不明確な限界の内なのか外なのか。その判断が解釈である。
知事が言う「ルール通り」は、知事自身の個人的な解釈によるものに過ぎない。それが、唯一の正しい解釈である保障はない。むしろ、かなり怪しい解釈と指摘せざるを得ない。
ルールの解釈は、何よりもそのルール設定の趣旨・目的を把握するところからスタートしなければならない。また、いかなるルールも、高次のルールによって要件や効果が限定される。知事が公用車を利用する趣旨は、知事としての適正・迅速な公務の遂行に資するため、あるいは効率化のためのものであろう。そのことを離れての公用車利用は合理性を持たない。公務から公務への移動を公用車利用とすることの合理性に疑問の余地はなく、また非公務から非公務への移動の非合理性についても明白である。しかし、公務と非公務とをつなぐ移動については、管理規則の文言如何に関わらず、都有の財産である自動車を、都の公務員である運転者を使用して公用車として利用するに際しては、自ずから限度があるものと考えざるを得ない。
手法は二つある。
まずは、規則が「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」としているのは、公務地と知事自宅の移動を認める趣旨であって、自宅以外の遊興先や別荘地は含まないと解釈することができよう。ましてや、100キロ遠方の別荘地に毎週末の利用などは、到底規則の想定するところではない、と断じる手法である。規則が、行政内部で作成されたもので、民意を反映したものでないことがそのような解釈を支えることになる。都民の良識がこのような知事の公私混同の外形を有する公用車利用を許さない、としてよいのだ。
もう一つの手法は、権利の濫用ないしは逸脱とすることだ。規則の文言から言えば、確かに都庁と湯河原の別荘との移動に公用車を利用できることになってはいる。しかし、いくら何でも、知事にそのような形式的な解釈をさせて権利を認めるのは、実質的に法の正義に反する。知事の公用車利用は、権利の濫用ないしは逸脱と解釈するのだ。諸般の事情を考慮した結果とすればよい。諸般の事情の中には、この間に表明された都民の意思も重要なファクターとなる。
さらに、問題は知事の公用車利用が規則の解釈上可能か否かにあるのではない。知事に求められているのは、「自動車の管理規則」という些末なルールに従うことではなく、もっと高次の、「都民の信託に応える行政をなすべきとするルール」ではないのか、と批判することができる。都民から預託された税金の使い方には率先して節約の模範を示し、都民の声には誠実に敏感に対応して都庁10万の職員の範たるべきではないのか。それを、都民のほとんどが知らない「ルール」をもち出して、「ルール通りで問題はない」というのは、高次のルール無視という点で「問題大いにあり」と言わねばならない。高次のルールに違反するとは、法の正義に反すること、形式的には違法ではなくとも不当な行為として、反省と改善が求められるということでもある。
実は、東京都(教育委員会)の、教員に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発が、この知事の姿勢と同じ構造なのだ。形式的にルールに則っているのだから問題はない、という言い分。だから、まったく同じ批判が当てはまる。
都教委が「日の丸・君が代」を強制する根拠としての「ルール」は、学習指導要領のごく一部分の文言である。学習指導要領とは、憲法の下位にある法律の、その下位にある省令の、そのまた下位にある「文科大臣告示」でしかない。当然に、その解釈には上位のルールの制約を受けることになる。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、思想・良心の自由を保障した憲法が許容するものではないというのが、教員側の立場。懲戒処分された教員の訴えに対して、最高裁は今のところ痛み分けとしている。最も軽い懲戒である「戒告」については懲戒は許されるとしたものの、思想・良心に基づく「やむにやまれずの不服従」と認めて、「減給」以上の処分はすべて懲戒権の逸脱濫用として違法と判断し、処分を取り消している。
それだけではない。最高裁は明らかに都教委に対して、違法とまではいえない戒告処分についても、当不当の問題は残るという姿勢を示している。教育を司る行政部門として、懲戒処分を濫発しての「日の丸・君が代」強制は、戒告処分に限れば違法とは言えないとしているものの、それでも決して褒められた行為ではない、という立場なのだ。
今回の批判にさらされている舛添知事の姿勢は、まずは端的にルール違反というべきものである。仮に、下位ルールには違反していないとしても、高次のルールには違反している。さらに、いかに言い訳しようとも、不当な行為であることは明白である。別荘通いの公用車使用の濫用と、良心的不服従者に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発。両方とも、早急に反省して改めていただきたい。
(2016年4月30日)
4月29日である。かつて、天皇が現人神であった時代には「天長節」と呼ばれ、現人神が人間宣言(!)をしたあとは「天皇誕生日」となり、その死亡の後に「みどりの日」となって、今は「昭和の日」である。
この呼称の変更は、昭和期以後の歴史をよく映したものとなっている。今日こそは、昭和という戦争の時代と天皇制を考えるべき日。端的に言えば、天皇の戦争責任を確認するとともに、その責任追求を曖昧にしてきた国民の責任をも考えるべき日である。
本日の東京新聞が、1面トップに「いま読む日本国憲法」のシリーズ第1回を掲載した。その意気や大いに良しである。モスグリーンの紙面の地に憲法前文を教科書体で全文掲載し、「はじめに非戦誓う」と大見出しをつけている。その解説記事の冒頭が、「戦争は国家権力が引き起こすもの。国民が主権を持って国家権力の暴走を抑えることで、戦争を二度と起こさせないー。日本国憲法全体を貫くこの思想を最初にはっきりと宣言したのが前文です」とある。
国民に多大な惨禍をもたらした侵略戦争と植民地支配は、決して国民の意思によるものではなく、天皇制権力がしでかしたもの。国民は天皇制政府の恐るべき暴走を抑えることができなかった。だから、戦後の平和思想の出発点は、天皇主権を否定して国民主権を確立するところにある、という文脈での解説。昭和の日の一面トップにふさわしい解説ではないか。
国民の加害責任や天皇の戦争責任に触れていないではないかという批判はあるにせよ、「安倍晋三首相らは改憲を訴えるが、憲法は本当に変える必要があるのか。守らなければならないものではないのか。」と旗幟を鮮明にした立派な紙面だと思う。
ところが、である。左肩に恒例の「平和の俳句」欄。いつもは感心しきりなのだが、今日は感心しない。「老陛下平和を願い幾旅路」というのだ。ほかならぬ今日を意識してのこの選句はいただけない。選者のコメントが、さらにいけない。
<金子兜太>天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。
兵としての過酷な戦争体験から戦争をこの上なく憎むこの人は、その戦争を主導した天皇の責任を本心どう考えているのだろう。天皇個人の責任と、天皇制という制度についても。そして、戦後長らえて退位すらしなかった昭和天皇の姿勢をどう評価しているのだろう。
コメントの文脈からは、「昭和天皇の戦争責任には重いものがあるが、その子による親の贖罪には頭が下がる」ということのようだが、天皇制に対する批判はないのか。「好戦派、恥を知れ。」とは、安倍晋三に向けられた言葉だろうが、夥しい戦争犠牲者を思い起こせば、天皇一族に対しても、「恥を知れ。」と言わずに済まされるのだろうか。
選者は、さすがに「両陛下」などの敬称は使わない。「激戦地への訪問」と、天皇への最大限敬語は避けている。しかし、「天皇ご夫妻には頭が下がる」とは、「アベ政治を許さない」と揮毫したこの人の言とは思えない。
昨日(4月28日)の同欄掲載句が「もう二度と昔の日本にはならないで」というものだった。16歳の女子高校生の作。「昔の日本」とは、何よりも天皇が支配した日本である。国民に主権がなかったというだけでなく、天皇の御稜威のために臣民の犠牲が強いられた軍国日本ではないか。その天皇の時代に戻ってはならないとする句の翌日に、「天皇ご夫妻には頭が下がる」である。大きな違和感を禁じ得ない。
あらためて、東京新聞紙上で憲法前文に目を通してみる。すがすがしい気分。これが私たちの国の政治的な合意点であり、出発点であり、公理である。この前文4段のどこにも天皇は出てこない。出る幕はないというべきだろう。天皇に関わる用語は「詔勅」の一語のみ。「われら(国民)は、これ(民主主義)に反する一切の‥詔勅を排除する」という文脈でのこと。各段の冒頭の言葉は「国民」、国民が主語となる文章が連なっている。要するに、主権者国民が作った憲法の核心部分では天皇も天皇制も、出番はないのだ。
憲法は、戦争の原因を天皇制にあるとして、非戦の決意と一体のものとして国民主権原理を宣言した。歴史を学んで過ちを繰り返さないためには、天皇の責任を曖昧にしてはならない。にもかかわらず、戦後社会は天皇の責任追及を不徹底としたばかりか、天皇の責任を論ずることをタブーとさえしてきた。本日の東京新聞一面はそのことを象徴する紙面構成となっている。
国民主権原理に基づく日本国憲法をもつ我が国で、大新聞がわざわざ天皇の存在感を際立たせたり、持ち上げたりすべきではない。昭和の日、戦争の歴史を思い起こすべき日であればなおさらである。
(2016年4月29日)
北海道5区補選の教訓をどうとらえるかについては、各地のいたるところで議論がまき起こり、貴重な情報や意見が飛びかっていることだろう。メーリングリストというツールは、議論の場の設定にこれ以上のものはない。
私も、いくつかのメーリングリストで議論に参加しているが、同期弁護士のメーリングリストに札幌の郷路征記君から、以下の傾聴に値する意見をもらった。同君の許可を得たので、ご紹介したい。
まずは、郷路君が推薦する動画の画像。キャプションは省いての紹介。これだけでも、十分な「選挙総括」となりうる。
https://youtu.be/dkBxZu4IO5A
http://www.kanaloco.jp/article/168575
https://www.youtube.com/watch?v=6F-IicWUgZU
http://www.asyura2.com/16/senkyo204/msg/851.html
メーリングリストでは、私が次のように振った。
「さて、5区補選。残念でならない。「いま一歩及ばずの敗北」である。いま一歩のところまで追い詰めた積極面の教訓と、もう一歩のところで勝利に届かなかった消極面の教訓と。その両面について多くの人からの、とりわけ直接選挙に携わった人たちからの報告や意見を聞きたい。
共闘は本当にうまくいったのか。共闘によるシナジー効果が、客観的にあったのか。選挙戦を戦った人に実感できたのか。その「成果」についての確信が、全国に伝播するのか。
そこが最大の関心事だ。」
これに対して、郷路君のこの上ない丁寧な回答があった。
「澤藤君の問題提起に答えることができるかどうか。次のように考えている。
考える下敷きにしたのは、次の分析。
善戦じゃダメなのだ 衆院補選・野党共闘「惜敗」の絶望
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/180218
安倍官邸を苛立たせる、補欠選挙の「ある調査結果」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48537
そして、朝日の4月27日道内版記事「市民主導」浸透に壁
http://www.asahi.com/articles/CMTW1604270100003.html
1 野党共闘成立前には、ダブルスコアで自民が勝つという調査結果が出ていたという。票差の点は別にして野党分立では勝てっこないことは自明だったと思う。
その理由の一つは、安倍内閣への厚い支持。これがずっと変わっていないこと。アベノミクスによる経済活性化を掲げた(プラス、財政規律を無視した 自民党的ばら撒き政策の実行による)安倍内閣への支持は、正月以来の株安や円高、中国をはじめとする新興国経済の減速など、この先に不安要因をはらみつつ、まだ国民の支持をつなぎとめることに成功していたと思う。
2 それが、自民党・和田候補は、「伯仲・誤差の範囲」という調査がでるところまで追いつめられた。
その理由は
ア なんといっても野党共闘の成立。そのことによって前回の選挙での票数でいえば、勝負になるところまで持ち込めた。これがなければ何も起きなかっただろう。なんといっても展望がないからだ。
イ 「保育園落ちた 日本死ね」のブログによって、安倍内閣の新自由主義的経済政策による弱者切り捨て、格差拡大に苦しめられている国民の怒りのマグマに火が付きそうになった。そのことが契機となって、奨学金の問題とか、最低賃金の問題とか、保育士の待遇の問題とか、国民の貧困に関わるさまざまな問題が噴出しそうな形勢となった。
ウ 池田候補は子供時代から青年期を超える期間の、極度の貧困を乗り越えてきた経歴を持ち、他方、和田候補は三菱商事の社員。妻は町村の娘。一見して「上級国民」である。イの問題との関係で池田候補の経歴とその人柄が強い訴求力を発揮したと思う。
3 危機感を持った自民党は、党本部の総力を挙げた組織選挙をおこなった。なにせ、ダブル選の可否を占うという意味があった。
陣営の幹部の発言として新聞報道されたものの中に、「票を削り出している」という表現があった。それくらい、必死になってやったようだ。それくらいの危機感をもったようだ。野党陣営が勝って勢いがつけば、参議院の議席10程度に影響するという考え方もあった。自公が総力をあげた組織選挙を行うことによって、前回の票を若干上回る程度の得票に繋げることができたのだと思う。これが自民党の勝因だとおもう。総力をあげれば、この程度の票を削り出すことができる組織・人間関係の束を自民党・公明党は持っているということだと思う。大地の票(鈴木宗男)がどう動いたのかはわからないが、和田候補に行ったと考えるのが妥当だと思う。だとすると、必死で、総力をあげて、前回を下回っている程度ということもできそうである。
参議院選挙になれば、党本部が一地域に総力を挙げることはできない。この点では、自民党は厳しい選挙を強いられることになるのではないか?
4 野党共闘は浸透しきれなかった。投票率60%を目標にしたが届かなかった。60%に届いていれば勝てていたかもしれない。無党派層の7割を獲得していたのだから、その層が投票に来てくれていれば、勝機は生まれたのである。
浸透できなかった理由は
ア 熊本地震だという。たしかに、熊本地震を契機に、雰囲気は変わったと思う。保育園落ちたも報道の表層から消えて行った。おおさか維新の片山代表が「タイミングのいい地震」と言ったのは、本音で本当だったようだ。安倍首相はこの地震を利用したと思う。事故直後に食糧90万食を送ると表明したり、自衛隊の派遣規模を2000から2万に増加するなどした。現地視察を投票日の前日である土曜日にして、激甚災害指定をその時までしなかった。
報道によれば、選挙狙いの面もあると思われる安倍首相の対応は、国民には評価されているのだという。 危機が発生すると世論は政権支持に回る。このことによって、上記2イの問題が消し去られていった。
イ シールズも市民連合も学者の会もママの会も、全体から見れば少数である。北海道5区の住民に人的なつながりを持っているわけではない。絵を作るべく努力はした。でも、その絵が大きな力になるほどの参加者のボリュームはなかったと思うし、期間もなかったと思う。また、北 海道5区という地域性もあると思う(札幌市厚別区を除く)。
そうだとしても、昨年以来のシールズを先頭にした市民組織の継続的活動なしには、野党共闘すら考えることができなかった。その点で、彼らの奮闘と先見的活動には本当に頭が下がる。
ウ 市民主導の選挙運動を支え、実体化する組織が弱体化しているのではないか。民進党北海道の主体を担っていると思われる官公労 (北教祖・全道庁を中心とする自治労等)に往年の力はないだろう。共産党とその関連組織の力量の減退も疑う余地がないだろう。
エ 自民党の政治的影響力は全世代に及んでいる。池田候補は60代の年齢層でのみ多数だった。20代から50代のすべて、70代以上で和田候補が多数を占めている。若い世代まで、もはや保守である。そのような広い自民党支持層が醸し出す政治的雰囲気が、リベラルの風を吹かせなかったのではないかと思う。
5 以上で、澤藤君の問いに答えるとすれば、共闘は本当にうまくいったのかということについては、イエスなのだと思う。選挙対策の関係者達の談話でも否定的なものはない。お互い努力しあい、尊重し合ったのではないか。そして、各党の支持者を池田支持にほぼ纏めきることができたことも、信頼関係を作ることになったと思う。
共闘によるシナジー効果が客観的にあったのかという点についていえば、上記の経過が示す通り、客観的にあったといえるのではないか。その程度においては、この程度だったとしても。
選挙戦を闘った人たちが共闘の成果を実感できたのかという点でいえば、ぞれで一発逆転できるものではないにせよ、共闘して必死に戦わない限り、勝負にならない、共闘すれば勝負ができるというレベルではその成果を実感したのではないだろうか。
それが、全国に伝播するかという点については、多分、伝播すると思うが、判らないというところかな。確信が全国に伝播するかどうかは判らないけれども、野党共闘は広がると思う。民進党内部の主要な反対者らがこの選挙の経験を通じて、明確な反対をしなくなるのではないかなと思っている。
6 参議院選挙に向けて、安倍内閣の争点隠しは横行するだろうし、社会福祉についてもばら撒き的政策を打ち出すことによって、不利な争点を消失させようとするだろう。その中で、何をどう訴え、市民主導を拡げていくかが課題になりそうに思う。
弁護士 郷路征記
必死で選挙戦を闘った人たちがおり、共闘の成果を実感した人たちもいたことがよく分かる。私の、「その成果についての確信が、全国に伝播するのか。」は愚問だ。全国に伝播するのは、全国の人びと、私を含めた私たち自身の役割なのだから。
ささやかながらも、当ブログもその役割を果たしたいと思う。
(2016年4月28日)
本日は、文京区民センターでの「アベ政治を許さない! 4・27文京区民集会」。熱気のこもったなかなかの集会となった。若者の姿も見えたのが頼もしい。
以下は、私の基調報告のレジメ。このレジメの行間をそれぞれの立場で読み込み、使いやすいように改変して活用していただけたらありがたい。
現在の状況を、「アベ政治の罪」と「国民の被害」と「処罰(退陣)」と構成してみた。医療に喩えれば、「病名(疾患)」と「症状」と「処方」と構成もできるだろう。アベ政治にレッドカードを突きつけて「ピッチから退場」させなければならない。その理由と方法を分かり易く整理したつもりである。
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アベ政治十の大罪
1 憲法をないがしろにする罪 (解釈改憲と明文改憲)
2 平和を破壊する罪 (戦争法と7・1閣議)
3 民主主義を蹂躙する罪 (安保特での「採決」強行)
4 格差を拡大し貧困をつくり出す罪 (新自由主義経済政策)
5 メディアを規制し国民の耳と目をふさぐ罪(秘密保護法と停波・NHK)
6 原発再稼働と原発プラント輸出推進の罪(本音は核保有)
7 歴史の真実を曲げる罪 (靖国・慰安婦・教科書)
8 オール沖縄の民意を圧殺する罪 (辺野古新基地建設強行)
9 TPP交渉推進の罪 (秘密主義と主権の放棄)
10 劣化政治家濫造の罪 (甘利・宮崎・武藤・大西…)
アベ政治による七つの被害
1 危うくされているものは平和
2 奪われたものは民意に基づく政治
3 覆われたものは真実
4 痛めつけられたものは庶民の生活
5 汚されたものは歴史の真実
6 断ち切られたものは未来と希望
7 損なわれたものは安全と安心
こうしてアベ政治に引導を渡そう
アベ政治の罪と被害を深く知ること、広く知らせること
至るところでアベ・ビリケン(非立憲)政治批判の声を上げること
声を上げた市民が幅広く連帯すること
市民が野党の背を押して野党共闘を作り上げ選挙戦に勝ち抜くこと
勝ち抜いた国会で、憲法改正の発議を許さず、戦争法を廃止すること
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アベ政治の基本姿勢は、「戦後レジームから脱却」して、「美しい日本を取り戻す」というもの。これは、戦後民主主義を否定して戦前回帰を呼号するものにほかならない。
なぜ、戦前回帰なのか。天皇制下の臣民こそが、政権にとって統治しやすく、資本にとって使い勝手がよいからだ。文句を言わず権利主張をせず、権威主義的で勤勉な国民、これこそ政権と政権を支える資本が望む国民像なのだ。
権力や資本に従属する臣民は、敗戦を経て主権者となり人権主体となった。この変化をもたらしたものこそ戦後民主主義であり、その制度の中核に日本国憲法がある。アベ政治は、この戦後民主主義体制を総体として否定し去ろうという政権である。だから、日本国憲法に激しい敵意をもっている。アベ政権はこれまでの保守政権とは違う。戦後民主主義と日本国憲法を否定する危険な存在と認識しなければならない。
アベ政治のもう一つの基本姿勢は、新自由主義の徹底である。資本を優遇し、資本の活動への最大限の自由を保障しようとする。具体的には、解雇の自由であり、労働条件差別化の自由であり、不当労働行為の自由であり、最大限の規制緩和であり、企業減税である。格差・貧困の積極的容認策でもある。
新自由主義政策と戦前回帰政策とが、奇妙なマッチングをしているのが、アベ政治の特徴ではないか。このマッチングは、必然的に軍事大国化路線を志向し、富国強兵を国策とすることになる。
だから、政治・経済・財政・外交・防衛・教育・福祉・労働…等々のあらゆる分野において、アベ政権は国民生活と軋轢をもたらす。一言で表現すれば、アベ政治とは本質的に反国民的政治なのだ。しかも、政権の好戦性は際立っている。
それを整理すれば、「アベ政治 十の大罪 七つの被害」となる。
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アベ政治にレッドカードを突きつけなくては、壊憲の動きは止まらない。引導を渡す手段は、何よりも選挙である。反アベ陣営が小異を捨てて選挙共闘の大同につかなくては選挙戦での勝利はできない。
反アベ陣営とは、市民と諸野党である。北海道5区の補選から貴重な教訓を汲むべきである。池田候補の惜敗を共闘の失敗とみてはならない。
NHKの出口調査による投票者の政党支持率のうち与党は次の数字だった。
自民 44%
公明 5%
自・公の合計が49%となる。これに、1%未満の「大地」を切り上げて足せば、ちょうど50%。つまり、町村後継である和田候補の基礎票はほぼ50ポイント。
これに対する野党側は、以下のとおりである。
民進 20%
共産 5%
社民 1%
合計して、26%。つまり、池田候補の基礎票は26ポイント。
アベ側の和田候補に、民進と共産と社民の候補がバラバラに対抗しても勝ち目はない。候補者を統一した場合の基礎票の割合は50対26。ほぼ2対1の差。当初は、「ダブルスコアでの和田勝利」と囁かれたことにはそれなりの根拠がある。
しかし、池田候補と支持者の奮闘にはめざましいものがあった。市民が各野党の紐帯となって選挙運動の母体を作り、市民候補を市民と各野党が一体となって推す形ができた。創意にあふれた自発性の高い運動の結果、ダブルスコアを伯仲まで押し戻したのだ。熊本震災前には逆転の声も聞かれたし、千歳・恵庭という基地の街を除けば池田候補が勝っていたという側面も見なければならない。
参院選が近い。一人区の共闘がどこまで出来るかがカギとなってきている。参院選の経験は、総選挙の小選挙区での共闘につながる。市民と野党の選挙共闘によって、議席を確保しアベ政権を退場させて、改憲を阻止しなければならない。切実にそう思う。
アベ政治跳梁の現事態は、紛れもなく非常時である。立憲主義も危うい。民主主義も自由も危うい。何よりも平和が危うい。明文改憲を許せば、悔いを千載に遺すことになる。ならば、この非常時を乗り切るために、市民の声を背にした野党の大同団結があってしかるべきだ。いや、憲法と平和と民主主義を守るには、この道以外にはないではないか。
(2016年4月27日)
昨日(4月25日)の「在特会徳島県教組襲撃事件民事訴訟」の控訴審判決を伝える朝日の署名入り記事がすばらしい。客観報道の姿勢を崩さずに、記者の問題意識が貫徹されて、過不足のない情報提供となっている。全文引用したい。
「在特会の県教組抗議は『人種差別の現れ』 高松高裁判決」
「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の会員らが6年前、徳島県教職員組合で罵声を浴びせた行動をめぐり、県教組と当時の女性書記長(64)が在特会側に慰謝料など約2千万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が25日、高松高裁であった。生島弘康裁判長は、『人種差別的思想の現れ』で在日朝鮮人への支援の萎縮を狙ったと判断。女性の精神的苦痛を一審より重くとらえ、倍近い436万円の賠償を命じた。
判決によると、在特会の会員ら十数人は2010年4月、日教組が集めた募金の一部を徳島県教組が四国朝鮮初中級学校(松山市)に寄付したことを攻撃するため徳島市の県教組事務所に乱入。女性書記長の名前を連呼しながら拡声機で『朝鮮の犬』『非国民』などと怒鳴り、その動画をインターネットで公開した。
判決は、在特会の行動を『人種差別的』と訴える原告側が、その悪質さを踏まえて賠償の増額を求めた主張を検討。在特会側が朝鮮学校を『北朝鮮のスパイ養成機関』と呼び、これまでも同様の言動を繰り返してきた経緯から、『在日朝鮮人に対する差別意識を有していた』と指摘した。
さらに、一連の行動は『いわれのないレッテル貼り』『リンチ行為としか言いようがない』とし、在日の人たちへの支援活動を萎縮させる目的があり、日本も加入する人種差別撤廃条約上の『人種差別』にあたるとして強く非難。昨年3月の一審・徳島地裁判決が、攻撃の対象は県教組と書記長であることを理由に『差別を扇動・助長する内容まで伴うとは言い難い』とした判断を改めた。
そのうえで、監禁状態の中で大音量の罵声を浴び、性的暴力まで示唆された女性の苦痛や県教組が受けた妨害の大きさも考慮し、一審の賠償額(230万円)を増額。賠償命令の範囲も一審より2人増やし、在特会と会員ら10人とした。
在特会をめぐっては、09?10年の京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校)周辺での抗議行動を京都地裁が『人種差別にあたる』と認定。1200万円余の賠償を命じる判断を支持した大阪高裁判決が14年に最高裁で確定している。
■一歩進んだ判決
《表現の自由に詳しい曽我部真裕(まさひろ)・京都大教授(憲法)の話》 判決は、人種差別的行為は直接の対象が在日の人たちでなくても、支援活動を萎縮させる効果をもたらすとし、非難に値すると指摘した。支援者が対象でも人種差別にあたるとした点は新しく、京都でのヘイトスピーチをめぐる大阪高裁判決を一歩進めた感じがする。また、在特会の言動は「レッテル貼り」「リンチ行為」などと評し、表現活動と呼べるものではないと判断した。「表現の自由」を念頭に、慎重に検討したことの表れと評価できる。
■拡声機・動画…激しい中傷
「人種差別行為を許さない判断が司法の場で定着したと高く評価したい」
判決後、原告弁護団事務局長の篠原健(たけし)弁護士=徳島弁護士会=は会見でそう語った。控訴審では、京都での在特会の行動を「人種差別的」と認定した判決を勝ち取った弁護士らも加わり、総勢46人で闘った。京都事件を手がけた冨増四季(しき)弁護士は「続く司法判断の意義は大きい」と話した。
裁判では、徳島県教組と当時の女性書記長への激しい攻撃が明らかになった。
十数人の在特会会員らが事務所に突然なだれ込む。「募金詐欺じゃ」「反日教育の変態集団」。拡声機を手に罵声を浴びせ続けた。徳島県庁前では、女性書記長への性的暴行を示唆するような発言もあった。一連の行動はネットに動画配信され、視聴者からおびただしい数の中傷コメントが書き込まれた。県教組には嫌がらせの電話も相次いだ。
女性書記長は当時の話をするたびに体調が悪くなり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。会見では声を震わせ、裁判を振り返った。
『言いたい放題、したい放題の社会を認めるのか。民族差別を認めるのか。そのことが何より許せないという気持ちで闘ってきました。駆けつけてくれた一人ひとりの思いが、この判決を導いたと思います』
若干、事件についての情報の補充をしておきたい。
この襲撃事件の参加者は19名だった。威力業務妨害として刑事告訴がなされ、徳島県警は在特会がインターネットにアップした動画で実行犯を特定し、7名を逮捕した。その他の参加者全員が書類送検されたが、曲折を経て6名だけが威力業務妨害と住居侵入で起訴され、いずれも有罪が確定している。
安田浩一著『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』 によれば、襲撃の態様は、次のようなものであった。これを「抗議行動」と言うべきではない。「襲撃事件」が正確なのだ。
「『日教組の正体、反日教育で日本の子供たちから自尊心を奪い、異常な性教育で日本の子供たちを蝕む変態集団、それが日教組』などと記した横断幕、日章旗、拡声器等を携帯して、「詐欺罪。」などと怒号しながら侵入した上、同組合の業務に係る事務をしていた同組合書記長及び同組合書記の2名を取り囲み、同人らに対し、前記横断幕、日章旗を掲げながら、拡声器を用いるなどして、「詐欺罪じゃ。」「朝鮮の犬。」「売国奴読め、売国奴。」「国賊。」「かわいそうな子供助けよう言うて金集めてね、朝鮮に150万送っとんねん。」「募金詐欺、募金詐欺じゃ、こら。」「非国民。」「死刑や、死刑。」「腹切れ、お前、こら。」「腹切れ、国賊。」などと怒号し、「人と話をするときくらいは電話は置き。」「置けや。」などと言いながら前記書記長の両腕や手首をつかむなどして同人が110番通報中であった電話の受話器を取上げて同通話を切った上、同人の右肩を突き、「朝鮮総連と日教組の癒着、許さないぞ。」「政治活動をする日教組を日本から叩き出せ。」などとシュプレヒコールするなどした上、机上の書類等を放り投げ、拡声器でサイレン音を吹鳴させるなどし、前記事務所内を喧噪状態に陥れ…」
民事事件としては、県教組と書記長の両名が原告となって、在特会(法人格なき社団)と実行犯10名を被告とする約2千万円の損害賠償請求訴訟を提起した。民事訴訟の経過は、朝日が報じるとおりである。
次のことを指摘しておきたい。
この襲撃事件の発端に義家弘介がおり、産経新聞がある。
朝日の記事にある「日教組が集めた募金の一部を徳島県教組が四国朝鮮初中級学校(松山市)に寄付した」という経過は、以下のとおりである。
日教組は貧困下にある子どもとその家庭を支援するため「子ども救援カンパ」を募集した。カンパの使途については、公式サイトで次のとおりとしている。
「「あしなが育英会奨学金」に寄付します。また、連合を通じて『保護者の厳しい就労状況等により学校へ修学できない子ども、外国籍・病気・障害のある子どもの支援』、『学生・青年に対する職業訓練、求職支援、障害者の作業所への支援』などを行っているNPO団体等へ寄付します。」
募金活動によって約1億7600万円が集められ、ここから「あしなが育英会」に約7200万円、そして連合が実施していた「雇用と就労・自立支援カンパ」(通称「トブ太カンパ」)に1億円がそれぞれ寄付された。徳島県教組が四国朝鮮初中級学校に寄付した「在日朝鮮学校に通う子どもへの修学支援」金150万円は、この「トブ太カンパ」から出ている。
これに異を唱えたのが、自民党タカ派文教族として知られる義家弘介である。彼は、参議院予算委員会でこのカンパを取り上げ、「街頭に立ったりした教師は、育英会の活動にプラスになるとの思いだったことが聞き取り調査でも明らかだ」と述べて連合の「トブ太カンパ」への寄付を批判した。これに呼応したのが産経新聞。義家発言を報じて、徳島県教組が朝鮮学校に通う子どもへの支援として150万円を受け取ったことにも触れた。ここから、ネトウヨが騒ぎはじめ、在特会の妄動に至った。
その本日の産経。「在特会側の賠償増額 徳島県教組関係者に暴言 『人種差別的行為があった』と高松高裁」という記事を掲載している。
よくある構図だ。「私は、暴力は否定です」「暴力を煽る意図など毛頭ありません」「私の言動が暴力に至ったなどとは言いがかりも甚だしい」「本紙の記事が暴力に至ったとしたら遺憾というしかありません」など涼しい顔をする輩。
ネトウヨ諸君、こういう輩の煽動に乗せられて犯罪者となっては危うい。逮捕され、起訴され、前科がつく。それだけではない。確実に民事的な責任も負わねばならない。民事訴訟で訴訟追行の費用を負担して敗訴し、強制執行も覚悟しなければならない。京都事件は1200万円、徳島事件は436万円だ。ヘイトの言動は高くつくことを知らねばならない。涼しい顔で奥に控えているものに操られて、つい乗せられてしまうと、痛い目に遇うのは、あなたなのだ。
教訓・義家や産経に煽られて舞い上がってはならない。
他人の業務を妨害してはならない。
他人の名誉を毀損する行為はあなたを滅ぼす。
人種や民族を差別する思想を持っていること自体が危険なことなのだ。
(2016年4月26日)
昨夜から元気が出ない。北海道5区の補選の投票結果は、紙一重に肉薄しながらも、野党共闘が支援する市民派池田まき候補の敗北となった。残念でならない。
「いま一歩及ばずの敗北」である。いま一歩のところまで追い詰めた積極面の教訓と、もう一歩のところで勝利に届かなかった消極面の教訓と。その両面について多くの人からの、とりわけ直接選挙に携わった人たちからの報告や意見を聞きたい。
今回は、勝利に結びつかなかったが、差し迫っている憲法の危機を回避するには、市民と野党が大同団結して選挙で勝つしか方法がない。北海道5区補選で形づくられた「この道」「この形」しかないのだ。どのようにすれば、「この道」をもっと大きく広げ、多くの人に歩いてもらうことができるのか。その教訓を得たいと思う。がっかりはしているが、「結局共闘しても勝てない」と清算主義に陥ってはならない。私も、及ばずながら、分かる範囲で、考えてみたい。
北海道5区補選が注目されたのは、野党共闘の効果の試金石としてである。任意の一小選挙区で野党共闘候補が勝てれば、日本中の小選挙区で勝つ展望が開ける。北海道5区は、そのような意味の「任意の一選挙区」であっただろうか。
選挙結果でまず目についたのは、5区内での得票の地域的偏りである。区内各自治体は、札幌市厚別区・江別市・千歳市・恵庭市・北広島市・石狩市・石狩郡当別町・石狩郡新篠津村である。各自治体ごとの候補者別得票数は以下のとおり。
和田 池田
札幌市厚別区 29,292 33,434
江別市 28,661 29,687
千歳市 25,591 14,439
恵庭市 19,447 13,062
北広島市 13,419 15,200
石狩市 13,103 13,133
市区計 129,513 118,955
当別町 5,023 3,902
新篠津村 1,306 660
北海道第5区 135,842 123,517
以上のとおり、池田候補は、札幌市厚別区、江別市、北広島市、石狩市では勝っているのだ。千歳市、恵庭市で大きく負け込んでいるのが敗因となっている。全体の票差は1万2300票だが、千歳市での1万1100票差、恵庭市での6400票差が大きい。言うまでもなく、この両市は基地の街である。自衛隊関係者の有権者が多い。安全保障問題が大きな争点となった今回選挙では、明らかに千歳・恵庭は「任意の一選挙区」ではなかった。
千歳・恵庭を例外地域とすれば、これを除いた札幌市厚別区・江別市・北広島市・石狩市と市部では野党共闘候補が勝っている。このことは、大いに勇気づけられるところではないか。
ところで、朝日・NHK・道新・共同通信が、それぞれの出口調査の結果を発表している。
朝日は、その結果の報道に「無党派層68%『池田氏に投票』」と見出しを付けている。
「池田氏の方が無党派層依存度が高く、無党派層で和田氏に大きく水をあける必要があった。この日の出口調査で、無党派層は32%が和田氏に、68%が池田氏に投票。池田氏善戦に見えるが、結果を見ればその差では不十分だった。」という分析が、正鵠を得ているのだろう。
NHKの調査は、「和田氏は、無党派層では30%余りの支持を集めました。これに対して池田氏は、また、無党派層からは70%近くの支持を集めました」と、ほぼ朝日と同じ結果を報じている。
道新の分析も同様である。「池田氏は、民進党支持層と、共産党支持層の9割以上を固めた。無党派層からも7割の支持を得たが、当選には及ばなかった。」
共同通信の調査結果では、「『支持政党なし』の無党派層は、73・0%が池田氏に投票した。」という。
朝日によれば、「自公の支持層は出口調査回答者の4割を超えるのに対し、4野党の支持層は3割に満たない」という。そもそも基礎票が「4割強」対「3割弱」と、我が方著しく劣勢なのだ。結局は無党派層の票を上積みするための奪い合いとなるが、野党陣営が勝つためには、基礎票の差を埋める以上の票差をつけて無党派層を取り込まなければならない。池田候補は、「68%」(朝日)、「70%近く」(NHK)、「7割」(道新)、「73%」(共同)と無党派層に浸透したが、基礎票の差を埋めるに至らず、いま一歩及ばなかったということなのだ。
道新の調査は、「野党統一候補で無所属新人の池田真紀氏も民進支持層の95・5%、共産支持層の97・9%の票を得ており、両候補とも支持層を手堅くまとめた。」と報告している。
野党陣営は、それぞれの自陣を固めきり、無党派層を取り込む相乗効果も上げた。共闘は成功したと言ってよい。しかし、千歳・恵庭を擁するこの選挙区では、基礎票が不足していた。そして、無党派層の取り込みが、勝つための高いハードルをクリアーするには十分でなかった。
さて、他の多くの選挙区であれば、基礎票の差は北海道5区ほどではないとして、勝てたのではないか。池田まき候補には、政見放送の機会が与えられなかったなどの無所属故のハンディもあった。このような不公平をカバーすることができれば、勝機があったのではなかろうか。
勝敗の分かれ目は、無党派層の取り込み如何である。さらに無党派からの支持率を上げるには、どのような訴えをすればよいのだろうか。また、投票率のアップは野党有利という図式が明確になった。投票率を上げる工夫はどうすればよいのだろうか。そして、いよいよ次からは18歳の有権者が登場する。この若者たちに、どのような訴えかけが有効なのだろうか。
「これ以外にはない」道を大道とするために、知恵を集めたいものである。
(2016年4月25日)
舛添さん、どうもあなたはアカンようだ。あなたには多少の期待をしていた。あの暗黒の石原都政時代が長すぎた。あなたが知事になって、都政が変わるのではないか、そう考えた私が愚かだったようだ。
あなたは庶民感覚を忘れてしまっている。それが、あなたはもうアカンという理由だ。あなたは、都民の目、都民の批判にあまりにも鈍感だ。あなたには、都民の心情に寄り添い、都民の期待を把握してそれに応えようという真摯さが感じられない。「都民からの批判あるのは当たり前、一々気にしていられるか」という為政者の感覚になってしまっている。
あなたが厚労大臣として活躍していたころには、なかなかのものだという印象をもっていた。しかも、あなたは都知事選において必ずしも石原後継というイメージを刻印されずに済んだのだ。あの石原慎太郎が、泡沫とみられていた田母神を応援したからだ。だから傲慢な石原都政とは一線を画した、中道の舛添カラー都政となるのではないかとの期待があった。
2014年都知事選では、保守・中道票は、細川・舛添・田母神に三分された。あなたは、中道リベラルの票は細川に、右翼票は田母神に侵蝕されたが、石原都政とは一線を画し、これを批判する立場に立てた。だから、都庁内の萎縮した雰囲気を変え、風通しのよい都政が期待できるかと、一瞬にせよ思わせたのだ。教育庁の人事も変わってくるだろう。現場の声に耳を傾けることになるのではないか。それが、どうもアカンことになっている。
昨日(4月23日)の毎日夕刊が、「宿泊は会議室付きスイート」「海外出張経費 都知事『高すぎ』」「首都圏3県知事が問題視」「条例上限超え総額年5686万円」「神奈川・埼玉・千葉の2?7倍」と報じている。共産党都議団の「宿泊スイートルーム1泊19万円/共産党都議団が抜調査報告」が赤旗に発表されたのが4月8日。その後各紙とも、このテーマを追っかけている。それでも、是正されないのだ。
毎日記事は、以下のとおり。
「東京都の舛添要一知事の海外出張経費について、首都圏の神奈川、埼玉、千葉3県の知事が高額さを批判している。舛添知事の宿泊費は条例の上限額を大幅に上回るが、3県知事は全員、2015年度の海外出張の宿泊費を条例の規定内に収めていた。埼玉県の上田清司知事は12日の定例記者会見で『東京都は財政に余裕があり、おおらかなお金の使い方だ。国民目線からはどうなのかなと正直思う』と皮肉った。」
「都条例では、知事の宿泊費上限は出張先で異なるが、最高で1泊4万200円。都人事委員会の確認を経れば上限を超えられる。共産党都議団が情報公開請求で得た文書によると、舛添知事は就任した14年2月以降、宿泊費が全て条例の上限を超え、最高はロンドンの1泊19万8000円。15年度末までの8回の出張で延べ10都市のホテルに宿泊し、うち7都市でスイートルームを利用した。
これに対し、上田知事は15年度の北京出張で上限額を下回る1泊2万3000円のホテルを利用。埼玉県によると、過去5年度分の海外出張の宿泊費は全て上限額を下回り、多くで随行職員と同ランクの部屋に宿泊した。
神奈川県の黒岩祐治知事も英国出張では上限額以下の1泊3万2200円。12日の定例会見で『効果が期待されるから、いくらでも使っていいということはない』と批判した。
千葉県の森田健作知事も規定内に収め、ドイツ・オランダ出張は1泊2万4200円。県の担当者は『税金を使うのだから費用対効果を考えて予算を組むよう知事から指示されている』と話す。
15年度の知事の海外出張経費総額(随行職員の経費含む)は都が約5686万円で3県の約2・2?7・7倍。3県の知事は飛行機の座席がビジネスクラスなのに、都は知事がファーストクラスで、一部職員もビジネスクラスを利用している。
舛添知事は今月12?18日の米国出張で随行職員を昨秋のロンドン・パリ出張より4人減らして15人とし、一部職員の宿泊先は廉価なホテルにした。ただ、自身の宿泊は全て会議室付きスイートルームで5泊計73万5600円(条例の上限は5泊計20万1000円)。飛行機もファーストクラスを2度、ビジネスクラスを1度使い、自身の旅費総額は298万5650円だった。」
これに対するあなたの反論が、またアカンのだ。
「帰国した18日、舛添知事は『ホテルは二流、三流だと(相手に)「その程度なら会わない」と思われてしまう』と語り、22日の定例会見でも『会議を毎日やる。スイートルームという言葉だけで遊び回っている部屋みたいな誤解があってはいけない』と述べた。」
22日定例会見の内容は、東京都のホームページ(知事の部屋)で見ることができる。そこに次の質疑が掲載されている。
【記者】IWJの城石です。ホテルの宿泊費の件なのですけれども、必要な経費として舛添知事は訴えていますけれども、日本共産党都議団の出した資料によれば、スイートルームでの会見の記録というものは、石原都知事の時代からなかったということで、やはりこのスイートルームの宿泊費というのは、見直す必要があるのでは…。
【知事】部屋について言うと、会議のための部屋を一緒につけているのを、どう呼ぶかは、スイートルームと呼んでいるホテルもあるし、そうではない名前で呼んでいるホテルもあって、つまり、会議をやるわけです、そこで、毎日。例えば今回などもものすごい頻度で会議をやったのは、熊本地震がありました。刻々、全部情報が入って、「どういう形で警察を派遣しろ」「お医者を派遣しろ」と、こういうことを刻々やるわけです。そのために会議をやらないといけない。ホテルで会議のための部屋を特別にとったら、どれぐらいお金を取られると思いますか。そういうことのために使っているので、スイートルームという言葉だけで遊び回っている部屋のような、そういう誤解があってはいけないということです。
それから、いろいろな方がお見えになりますけれども、極めて大事な政治的な話をするときに、公開すべきものではありません。ですから、来なかった、来たとかということで判断できる話ではないのです、はっきり言うと。結果として、仕事がちゃんとできないとだめだと。だから、仕事の内容を精査しておっしゃっていただきたいと思います。
【記者】朝日新聞の伊藤です。なかなか都民感覚では出張経費にかかった額に対して、やはり自分の生活感覚と比べてしまう部分もあって、理解しにくい部分があると思うのですけれども、今後、理解を得るための成果の出し方とか、伝え方で、何か具体的なアイデアがあれば教えてください。
【知事】それは、随行なさった方は分かると思いますが、現場でちゃんと記者会見をして、どういう成果があったということを言っていますので、それは皆さん方もちゃんと伝えてくださっていると思いますし、また、ホームページを通じて申し上げたいと。
ただ、遊びに行っているわけではありません。物見遊山ではありません。仕事で行っているのだということをご理解いただいて、きちんと仕事ができる状況を整えるということも重要だということもご理解いただければと。
舛添さん、あなたは「遊びに行っている」「物見遊山をしている」と批判されているわけではない。都民の金銭感覚からすれば、交通費も宿泊費も高額に過ぎる。都民が拠出した税金の使い方が荒すぎはしまいかと疑問視され、その点を批判されているのだ。
都条例での知事の宿泊費上限は最高で1泊4万200円だという。この額は都議会が決めたものだ。近隣3県の知事は、各県条例の上限を遵守していて、どうして舛添さん、あなただけがその何倍もの宿泊費が必要となるというのだ。3県の知事は、出張先で会議などしていないというのだろうか。
本日(4月24日)の赤旗には、「『大名旅行』と批判殺到」の見出しで、次の記事がある。
「東京都の舛添要一知事が12?18日に米国出張し、航空運賃と宿泊費だけで計298万5650円を支出していたことが22日、わかりました。
舛添知事はニューヨークとワシントンに出張し、両市長と懇談。桜の苗木を植樹し、証券取引所を訪問しました。都政策企画局によると、知事の宿泊ホテル代(5泊)は73万5600円で、航空運賃には225万50円を支出。往復ともファーストクラスで、米国内の移動はビジネスクラスでした。
知事が宿泊した部屋は1泊14万100円?15万1800円のスイートルームで、都が条例で定めている上限額の3・5?3・8倍と高額でした。
都によると、知事宿泊室での現地要人との面会はなく、招き入れたのは現地メディア2社の計2回だけで『社名や人数は言えない』としています。」
「都には『大名旅行だ』などと21日までに2469件の批判・意見が殺到しています」
政(まつりごと)の要諦は、「民の信なくんば立たず」にある。舛添さん、都民はあなたに、到底信を寄せることはできない。言い訳は見苦しい。都民の目からは、あなたは貪欲な裸の王様以外のなにものでもない。
(2016年4月24日)
熊本地震は14日の発生以来今日(23日)が10日目。当初、「あと1週間は余震に警戒を」という気象庁の警告を大袈裟ではないかと思ったが、まだ収まらない。九州には身内も知り合いもあり他人事ではない。また、明日は我が身かとも思わざるを得ない。こんなときにこそ、国民はその福利のために、国家を形成したことを思い起こさねばならない。
しかし、いつの世にも政権はしたたかである。戦争が起これば、政権の求心力は瞬時にして跳ね上がる。非常時における同調圧力が政権の求心力に転化するからだ。非常時の擬似一体感が政権を中心に形成される。政権批判は、タブーとなる。
災害も戦争と似た働きをする。恐怖した国民の心理が、容易に政権による統合に乗じられる。「こんなとき」に、政府批判などしている暇はない。現政権を中心に挙国一致で復旧・復興に当たるべきではないか。いま、そういう雰囲気が、演出されてはいないだろうか。
実は、その逆だ。「こんなとき」だからこそ、本当に、国民に役立つ政権であるかが見えてくる。その点を徹底して検証しなければならない。政府の対応の迅速さ、適切さ、真摯さを吟味しなければならない。適切な批判なければ、真っ当な政権は生まれず、真っ当な政権の運用は期待し得ない。国民の安心安全も絵に描いた餅になる。
そのような視点から、この間気になっていることを何点か指摘しておきたい。
まずは、政府の熊本地震現地対策本部長のお粗末である。
災害対策基本法(24条)によって、内閣府内に非常災害対策本部が設置された。河野太郎内閣府特命担当大臣が本部長になっている。これを東日本大震災時並みに、「首相を本部長とする緊急対策本部」に切り替えるべきとする意見も強いが、問題は閣内の非常災害対策本部が適切に機能しているかどうかである。
政府は4月15日松本文明・内閣府副大臣を現地対策本部長に任命し、熊本に派遣した。現地の政府側トップとして国と県の調整を行うべき重責を担ったこの人物。役に立たなかった。むしろ復旧作業の足を引っ張って、このままでは政権に打撃となるとの判断で、更迭された。一昨日(4月20日)のこと、任命期間はわずか6日間だった。
この人、いかにも国民がイメージする自民党議員らしい見た目とお人柄。全国的にはほとんど無名だったが、政府と現地を結んだテレビ会議の「おにぎり・バナナ発言」で、俄然有名になった。
テレビ会議で、河野防災担当大臣に、自分とスタッフへの食料差し入れを要請したのだ。「みんな(自分とスタッフ)食べるものがない。これでは戦うことができない。近くの先生(国会議員)に、おにぎりでもバナナでも何でもいいから差し入れをお願いしてほしい」というのだ。河野はこれに応じて手配し、熊本県関係の議員4人の事務所からおにぎりが届けられたという。
松本は、このことを記者団に得々として話している。「何々先生(議員)からの差し入れだということで、ありがたくいただいた」とまで。公明党も、さすがにかばいきれず批判にまわった。食料を用意して駆けつけているボランティアなどアタマの片隅にもないのだろう。
これだけでない。彼は、「屋外に避難している住民を今日中に屋内に避難させろ」という政府の指示を熊本県側に伝えて、「現地のことがわかっていない」と不快感を示されたという、例の事件の当事者としても著名になった。この政府指示は、安倍首相本人から出ていると報じられている。おそらくは、「迅速で適切な政府の対応の結果として屋外避難はなくなった」という「成果」を絵にすることにこだわったのだろう。
ところが、これをオウムの如く熊本県知事に伝えて、「余震の続くうちは心配で屋内では寝られないのだ。遠くの政府は、現地のことがわかっていない」と切り替えされて、これに同調。知事と一緒に中央を批判する形となった。安倍政権から見れば、こんな無能な者を目立つ位置に置いてはおけないわけだ。
菅義偉官房長官は一昨日(4月21日)の会見で、食料要請問題での松本の陳謝については「そうしたことがあったと承知している。誤解を与えることで陳謝したと思う」と述べたが、松本の交代はローテーションで更迭ではないと強調している。みっともない。
次は、またまたのNHK問題である。
以下は、「原発報道『公式発表で』…NHK会長が指示」との見出しの毎日の記事。
「NHKが熊本地震発生を受けて開いた災害対策本部会議で、本部長を務める籾井勝人会長が『原発については、住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えることを続けてほしい』と指示していたことが22日、関係者の話で分かった。識者は『事実なら、報道現場に萎縮効果をもたらす発言だ』と指摘している。
会議は20日朝、NHK放送センター(東京都渋谷区)で開かれた。関係者によると、籾井会長は会議の最後に発言。『食料などは地元自治体に配分の力が伴わないなどの問題があったが、自衛隊が入ってきて届くようになってきているので、そうした状況も含めて物資の供給などをきめ細かく報じてもらいたい』とも述べた。出席した理事や局長らから異論は出なかったという。
議事録は局内のネット回線を通じて共有され、NHK内には『会長の個人的見解を放送に反映させようとする指示だ』(ある幹部)と反発も聞かれる。 (以下略)」
毎日を追った朝日の報道には、次のような記事がある。
「会議の議事録は局内ネットを通じて関係職員も見られるようになっていた。職員からは『公式発表通りでは自主自律の放送ではない』『やっぱり会長は報道機関というものがわかっていない』といった声が上がっているという。」
何とも情けなくもおぞましいNHKではないか。国民は、NHKを報道機関と認識してはならない。安倍政権の報道部に過ぎないのだ。真実を真実として報道しようという姿勢はハナからない。権力の圧力に抗しても真実を貫くという、ジャーナリズム本来の姿勢は望むべくもない。あるのは、政府の意向を忖度しての、治安に資する報道であり、政府の政策に奉仕する報道の原則を貫こうという、尻尾振る忠犬の姿勢でしかない。
今、断層帶に沿って帯状に、前例のない群発地震が頻発して止まない。その断層帶の南と東の延長線上に、川内原発と伊方原発とがある。安倍政権は、原発再稼働を至上命題とする観点から、納得しうる根拠なく「両原発とも安全。何の心配もない」といいたいのだ。NHKがこれに拳拳服膺なのだ。そして、「原発の安全」と並ぶもう一つのキーワードが「自衛隊の活躍」である。官邸からの指示があったか、あるいは籾井の忖度か。いずれにせよ、NHKの報道姿勢は、安倍政権の思惑に沿うことが最優先され、真実を報道する姿勢ではない。大本営発表時代の再来ではないか。
さらにNHKを離れて政権の思惑を見れば、災害の発生を奇貨としたオスプレイの「活用」である。「被災者に役に立つのだからオスプレイ活用批判は怪しからん」という異論を封じる雰囲気利用の思惑が透けて見える。いつものことながら迷彩服姿で、軍用車両を走らせる自衛隊のプレゼンスも同じ問題をもっている。「せっかくあるものだから活用せよ」という論理だけでは、とめどなく憲法上の自衛隊合憲論に譲歩を重ねざるを得ない。自衛隊違憲論に踏みとどまることが肝要ではないか。
震災あればこそ、政権や、政権を取り巻く体制の本音や不備がよく見えてくる。「震災だから政権批判をせずに挙国一致」ではなく、「震災だからこそ、より厳格な政府の監視と批判を」しなければならない。
(2016年4月23日)
野田正彰医師は硬骨の精神科医として知られる。権力や権威に歯に衣着せぬ言動は、権力や権威に安住する側にはこの上なくけむたく、反権力・反権威の側にはまことに頼もしい。その野田医師が、大阪府知事当時の橋下徹を「診断」した。「新潮45」の誌上でのことである。誌上診断名は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。この誌上診断が名誉毀損に当たると主張されて、損害賠償請求訴訟となった。
一審大阪地裁は一部認容の判決となったが、昨日(4月20日)大阪高裁は逆転判決を言い渡し、橋下徹の請求を全部棄却した。欣快の至りである。
高裁判決は、野田医師の誌上診断は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があった、と認め記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由を優先して、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。
橋下が上告受理申立をしても、再逆転の目はない。判断の枠組みが判例違反だという言い分であれば、上告受理はあり得ないことではない。しかし、本件の争点は結局(野田医師が真実と信じることについての)相当性を基礎づける事実認定の問題に過ぎない。これは最高裁が上告事件として取り上げる理由とはならないのだ。
私は、訴状や準備書面、判決書きを目にしていない。このことをお断りした上で、報道された限りでの経過の説明と意見を述べておきたい。
「新潮45」2011年11月号が、「橋下徹特集」号として話題となった。この号については、当時新潮社が次のように広告を打っている。
「特集では、橋下氏の死亡した実父が暴力団員であったことに始まり、『人望はまったくなく、嘘を平気で言う。バレても恥じない。信用できない』(高校の恩師)、『とにかくカネへの執着心が強く、着手金を少しでも多く取ろうとして「取りすぎや」と弁護士会からクレームがつくこともあった』(最初に勤務した弁護士事務所の代表者)といった、橋下氏を知る人の発言や、『大きく出ておいてから譲歩する』『裏切る』『対立構図を作る』という政治戦術、そして知事就任から府債残高が増え続けている現実、またテレビ番組で懇意になった島田紳助氏との交友についても触れるなど、橋下氏の実像をわかりやすくまとめた構成になっています。是非ご一読を。」
この特集記事の1本として、「大阪府知事は『病気』である」(野田正彰・精神科医)が掲載された。病気の「診断」名が「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。その診断根拠は、橋下に対する直接の問診ではなく、それに代わる高校時代の橋下の恩師の証言等である。
この記事によって、名誉を傷つけられたとして、橋下が新潮社と野田医師を提訴した。損害賠償請求額は1100万円。この請求に対して、昨年(15年)9月、一審大阪地裁(増森珠美裁判長)は、一部記載について「橋下氏の社会的評価を低下させ、名誉を毀損する内容だった」として、新潮社と野田医師に110万円の支払いを命じた。「精神分析の前提となった橋下氏の高校時代のエピソードを検討。当時を知る教諭とされる人物の『嘘を平気で言う』などの発言について『客観的証拠がなく真実と認められない』」との判断だった。
昨日の逆転判決については、朝日の報道が分かり易い。
「橋下徹・前大阪市長は『演技性人格障害』、などと書いた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、橋下氏が発行元の新潮社(東京)と筆者の精神科医・野田正彰氏に1100万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が21日、大阪高裁であった。中村哲裁判長は、記事は意見や論評の範囲内と判断。110万円の賠償を命じた一審判決を取り消し、橋下氏の訴えを退けて逆転敗訴とした。
同誌は、橋下氏が大阪府知事時代の2011年11月号で「大阪府知事は『病気』である」とする野田氏の記事を掲載し、高校時代の橋下氏について「うそを平気で言う」などの逸話を紹介。「演技性人格障害と言ってもいい」と書いた。高裁判決は、記事は当時の橋下氏を知る教員への取材や資料に基づいて書かれ、新潮社側には内容を真実と信じる相当の理由があり、公益目的もあったとした。」
また、焦点の「記事の内容を真実と信じる相当の理由」の有無については、次のような報道がなされている。
「高裁判決は野田氏が橋下氏の生活指導に当時、携わった教諭から聞いた内容であることなどから、『真実と信じた相当の理由があった』と判断した(時事通信)」
「中村裁判長は、野田氏が橋下氏の生活指導に関わった高校時代の教諭に取材した経緯などを検討した。その結果、記事内容を裏付ける証明はないものの、『野田氏らが真実と信じる理由があり、名誉毀損は成立しない』と判断した(毎日)」
「野田氏の精神分析の前提となった橋下氏のエピソードについて、1審判決は『客観的証拠がなく真実と認められない』として名誉毀損を認定したが、高裁判決は別記事での取材内容も踏まえ『真実との証明はないが、真実と信じるに足る理由があった』とした(産経)」
「昨年9月の1審判決は、記事の前提になった橋下氏の高校時代のエピソードを『裏付けがない』としたが、高裁の中村哲裁判長は『複数の人物から取材しており、真実と信じる相当の理由があった』と指摘した(読売)」
以上のとおり、原審と控訴審ではこの点についての判断が逆転した。橋下はこれに不服ではあろうが、憲法判断の問題とも、判例違反とも主張できない。結局は事実認定に不服ということだが、それでは上告審に取り上げてはもらえないのだ。
「新潮45編集部は『自信を持って掲載した記事なので当然の判決と考える』とコメント。橋下氏側は『コメントを出す予定はない』とした。」と報道されている。
名誉毀損訴訟においては、表現者側の「表現の自由」という憲法価値と、当該表現によって傷つけられたとされる「『被害者』側の名誉」とが衡量される。この両利益の調整は、本来表現内容の有益性と「被害者」の属性とによって判断されなければならない。野田医師の橋下徹についての論述は、有権者国民にとって、公人としての知事である橋下に関する有益で重要な情報提供である。明らかに、「表現の自由」を「橋下個人の名誉」を凌駕するものとして重視すべき判断が必要である。
総理大臣や国会議員・知事・市長、あるいは天皇・皇族・大企業・経営者などに対する批判の言論は手厚く保護されなければならない。それが、言論・表現の自由を保障することの実質的意味である。権力や権威に対する批判の言論の権利性を高く認めることに躊躇があってはならない。この点についての名誉毀損訴訟の枠組みをしっかりと構築させなければならない。
現在の名誉毀損訴訟実務における両価値の調整の手法は、名誉毀損と特定された記事が、「事実の指摘」であるか、それとも「意見ないし論評であるか」で大きく異なる。野田医師の本件「誌上診断」は、典型的な論評である。基礎となる事実(高校時代の恩師らの取材によって得られた情報)の真実性が問題になる余地はあるものの、その事実にもとづく推論や意見が違法とされることはあり得ない。これは「公正な論評の法理」とされるもので、我が国の判例にその用語の使用はないが、事実上定着していると言ってよい。
そして、実は野田医師の論評が、知事たる政治家の資質に関するものであることから、真実性や相当性の認定も、ハードルの高いものとする必要はないのだ。真実性はともかく、真実相当性認定のハードルを下げるやり方で表現の自由に軍配を上げた高裁判決は、極めて妥当な判断をしたものといえよう。もう、政治家や政治に口を差し挟もうという企業や経営者が、名誉毀損訴訟を提起する時代ではないことを知るべきなのだ。
なお、同じ「新潮45」の特集記事に関して、以下の産経記事がある。
「橋下徹前大阪市長が、自身の出自などを取り上げた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社とノンフィクション作家の上原善広氏に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が(2016年3月)30日、大阪地裁であり、西田隆裕裁判長は橋下氏の請求を棄却した。判決によると、同社は新潮45の平成23年11月号で、橋下氏の父親と反社会的勢力とのかかわりについて取り上げた。西田裁判長は判決理由で「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」とした。
私見であるが、「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」は、単なる違法性阻却の必要条件ではない。判決理由に明示していなくても、その公益目的の重要性は、真実性や真実相当性認定のハードルを低くすることにつながっているはずである。
野田医師の逆転勝訴は、私のDHCスラップ訴訟の結果にも響き合う。何よりも、憲法上「精神的自由権」の中心的位置を占める表現の自由擁護の立場から、まことに喜ばしい。
(2016年4月22日)
ボクのお父さんは、じえいたいのたいいんです。
いま、熊本で大じしんのひがいでこまっている人たちを助けるために、いっしょうけんめいはたらいています。いぜんには、大つなみの岩手にはけんされました。
お父さんは、ゆくえふめいの人をさがしたり、こわれた道をなおしたり、食べ物をくばったり、お風呂をわかしてはいってもらったり、みんなにとってもよろこんでもらえるおしごとをしています。
ボクはそんなお父さんが、とてもりっぱだと思います。
でも、友だちからきかれました。つなみもじしんもないときには、なにをしているのって。ボクにはよく分かりません。お父さんにきくと、くんれんをしているんだよ、といっていました。くんれんって、どんなことをするんだろう。
お父さんが、いつもいつも日本じゅうのこまっているひとを助けるおしごとをしていると、ボクもうれしいし友だちにもじまんできます。お父さん、いつも、こまっている人をさがして助けてあげてください。
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私の子供は、陸上自衛隊の隊員です。
今は、熊本に派遣されて、現地で被災者の救援活動に携わっています。東日本大震災の際には、岩手県の三陸に派遣されて、死者の捜索や瓦礫の撤去、道路の修復などの作業を担当しました。
子供は、津波や地震の救援活動をとてもやりがいのあることと考えて、生き生きと任務に当たっています。「被害者や地域の住民と直接に接して、自分が役に立っていることを実感できる」と言っています。
被災地への救援の任務については生きがいを感じる、という子供の言を裏返せば、それ以外の自衛隊員としての通常任務では、生きがいを感じてはいないのかも知れません。少なくとも、「自分が役に立っていることを実感できる」状態ではないようです。
私は、自分の父から先の戦争での辛い体験を聞かされて育った世代です。自衛隊の存在や活動にいろいろな意見があることも知っています。でも、子供が自衛隊員として被災地の救援活動をしているときには、自衛隊にも子供にも誇りを感じます。
できれば、自衛隊の中に、災害救助の専門部隊ができればよいと考えています。そうすれば、子供はきっと真っ先に配属を希望するでしょう。射撃や格技の訓練ではなく、災害救助の専門部隊としての訓練を重ね、国内だけでなく海外にも、人命救助や被災地の復興のための活躍の場を与えられたら、子供はどんなにか張り切ってはたらくことでしょう。
私の子供だけでなく、多くの自衛隊員がそう思っているのかも知れません。それならば、災害救助の専門チームをどんどん大きく増やしていって、自衛隊の名前も災害救助隊と変えてはどうでしょうか。被災地では、迷彩服ではなく、被害者からもっとよく目立つ服装に変えた方がよいと思います。そして、予算もオスプレイやヘリ空母や爆弾に使うのではなく、人命救助やインフラ復旧のための機材や資材の購入に切り替えてはどうでしょうか。
そうすればきっと、私の子供も生きがいを獲得できますし、多くの国民が自衛隊(名前を変えた災害救助隊)を大切に思うようになることでしょう。
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私の夫は、自衛隊員です。今は、熊本で災害援助に当たっています。東日本大震災の際には、三陸の大槌町に派遣されていました。普段は、肩身が狭いような気持になることもすくなくないのですが、テレビで、被災地の自衛隊の活躍を見ると、とても誇らしい気持になります。
夫も、派遣された被災地での災害救助活動には、身が入っている様子です。夫の本来の任務が救援の活動であればよいと思い続けています。
私には、自衛隊という存在が平和のための抑止力になっているのか、それとも近隣の国々への脅威となっているのか、判断はいたしかねます。ただ、一ついえることは、夫の自衛隊員としての奉職は専守防衛のためと信じてのことです。防衛の任務が、国内だけでなく、海外であり得るとは長く考えたこともありませんでした。
ところが、最近急に風向きが変わってきて、心配でなりません。昨年9月には戦争法とも言われる安保関連法が、大きな反対運動を押し切る形で成立しました。難しくてよく理解できない「存立危機事態」には、海外にも防衛出動ができるようになって、夫にも派兵の出動命令が出されるかも知れません。それだけでなく、海外での後方支援活動でも戦闘行為があり得るというのです。
自衛隊は軍隊ではない、国防軍でもない。だから、けっして海外で戦争することはないと考えていたのですが、話しが大きく食い違ってきています。
夫は、人のために黙々とはたらくことが大好きな好人物です。被災地で、被災者のためにはたらくことを厭うはずはありません。そんな夫が、海外で戦闘に巻き込まれるような危険な任務を与えられぬよう、祈るばかりです。
(2016年4月21日)