澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第20弾

本日、『DHCスラップ訴訟』で原告(DHCおよび吉田嘉明)からの「訴えの追加的変更申立書」に接した。私に対する損害賠償請求金額は、これまで2000万円だった。これを6000万円に拡張するという。4000万円の増額。一挙に3倍化達成である。

訴状において原告らの名誉を毀損するとされた私のブログは、次の3本。再度ご覧いただけたらありがたい。いずれも、政治を金で買ってはならないという典型的な政治的批判の言論である。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

https://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

これに追加して、新たに次の2本のブログもDHCおよび吉田嘉明の名誉を毀損するものだとされた。これまで、「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズは、第1弾?第19弾となっているが、そのうちの第1弾と第15弾の2本が取りあげられたのだ。

https://article9.jp/wordpress/?p=3036 (2014年7月13日)
いけません 口封じ目的の濫訴
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第1弾

https://article9.jp/wordpress/?p=3267 (2014年8月8日)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾

これまでは3本のブログ(その中の8か所の記載)で2000万円の請求。今度は、2本増やして合計5本のブログで6000万円。単純な差し引き計算では、「DHCスラップ訴訟」を許さない・シリーズの2本のブログが4000万円の請求増額の根拠。1本2000万円ということになる。

馬鹿げた話しだ。請求金額に何の根拠もないことを自ら語っているに等しい。要するに、「DHC・吉田批判を続けている限り、際限なく請求金額をつり上げるぞ」という、訴訟を武器にした恫喝にほかならない。

さて、4000万円増額の根拠となった2本のブログのどこが原告両名の名誉を毀損したものか。6か所あるという。以下のイタリック体の記載部分とされている。

「第1弾」5か所
?いけません 口封じ目的の濫訴

?私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。

?DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。

?DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。

?原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。

「第15弾」1か所
?私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。

読者には是非熟読いただきたい。そして、それぞれの常識でご判断いただきたい。これが果たして「違法」なのか。このような言論が違法と烙印を押されてよいものだろうか。4000万円の損害賠償に値するなどということが、一体考えられることだろうか。

判断はお任せするが、私が先日法廷で陳述したことの一部を再度掲載して、ご参考に供したい。

「私の言論の内容に、根拠のないことは一切含まれていません。原告吉田嘉明が、自ら暴露した、特定政治家に対する売買代金名下の、あるいは金銭貸付金名下の巨額のカネの拠出の事実を前提に、常識的な論理で、原告吉田嘉明の行為を『政治を金で買おうとした』と表現し批判の論評をしたのです。

仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告らを模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされることでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」
(2014年8月31日)

国連・人種差別撤廃委員会のヘイトスピーチ処罰勧告

戦争を語るべき8月も残り僅か。昨日に続いて、話題はヘイトスピーチ。

日本における民族的な差別意識は、侵略戦争と植民地侵脱の準備の過程で人為的につくられ、煽られたものだ。かつての圧倒的な文化大国・中国、文化先進国・朝鮮、そして西洋文明の一端を形成していたロシアやその国民に対して、日本国民は概ね畏敬ないしは敬愛の念を抱いていた。少なくも近世まではそうだった。

しかし、そのような消極的民族意識では対外戦争はできない。とりわけ、国家の総力を挙げての近代戦争は不可能である。戦争には、経済的・軍事的な国家総動員だけではなく、国民精神総動員が必要で、国民精神動員の方向は、仮想敵国への差別意識を植えつけ、これを侮蔑し、さらには憎悪の対象とすることにある。敵として憎む心なければ、闘うことはできないのだから。

植民地政策の遂行にも、根拠のない自国の優越意識と、煽動された他国への侮蔑的感情の醸成が必要であった。

そのような国民精神を、国家主導の教育とメディアが作り出した。当時の国民の多くが煽動された結果とはいえ、これに易々と掬い取られた。

日米友好の象徴として語られる「青い目の人形」がアメリカから日本各地の小学校に送られたのは1927年のことである。私の母の母校も人形をもらっている。ちょうど母が6年生のころのことだ。この人形は大切にされたはず。

その母が成人し結婚するころには、人形を送ってくれた国民を「鬼畜米英」という社会になっていた。人種や民族による差別意識の醸成は、人権の侵害であるだけでなく平和への脅威であり、再びの戦争の準備でもある。ヘイトスピーチは、それ自体が人権侵害であるばかりでなく、平和への脅威としても根絶を要する。

あらためて「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を読み直してみた。
その前文の一節に、「人種、皮膚の色又は種族的出身を理由とする人間の差別が諸国間の友好的かつ平和的な関係に対する障害となること並びに諸国民の間の平和及び安全並びに同一の国家内に共存している人々の調和をも害するおそれがあることを再確認し…」と明記されている。

いま日本に蔓延しているヘイトスピーチは、「日本と近隣諸国間の友好的かつ平和的な関係に対する障害、諸国民の間の平和及び安全を害して」おり、また「日本という同一の国内に共存している、日本人と日本以外の出自をもつ人々との調和をも害する」ることが明らかではないか。差別は、国家間・国民間の平和と安全そして調和を害することが国際条約において確認されているのだ。

ところで、この国際条約のハイライトは第4条である。読みやすく抜粋して引用しておきたい。

「締約国は、
《人種の優越性若しくは皮膚の色や種族的出身の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体》又は
《人種的憎悪及び人種差別を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体》
を非難し、
《差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとること》
を約束する。

このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、すべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対するいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。」

「人種(民族)的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布や差別の扇動は、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言」したうえに、「人種差別を助長し及び扇動する宣伝活動を犯罪として禁止する」ことが締約国の義務となっている。これがグローバルスタンダードなのだ。

この国際条約は、1965年12月21日第20回国連総会で全会一致で成立した。しかし、我が国が批准したのはなんと30年後の1995年12月15日。締約順位は146番目であった。人権後進国との批判は避けられない。

しかも、日本は、第4条に関して「日本国憲法の下における『集会、結社及び表現の自由その他の権利』の保障と抵触しない限度において、これらの規定による義務を履行する。」という留保を宣言している。だから、日本にはヘイトスピーチそのものを処罰対象とする刑罰規定はない。

その国際条約の履行を確保するために、条約自身が国連に「人種差別撤廃委員会」を置くことを定めている。その委員会が、日本のヘイトスピーチに大きな関心をもった。7月の「規約人権委員会」の勧告に続いて、昨日(8月29日)日本政府に対して、さらに厳しい勧告がなされたことが報道されている。

勧告の全文は大部で多項目にわたるもののようだ。ヘイトスピーチ問題だけではなく、慰安婦問題にも、「琉球民族問題」にも触れているという。

毎日の報道を抜粋する。
「ヘイトスピーチ 起訴含め刑事捜査を日本に勧告 国連委
ジュネーブにある国連の人種差別撤廃委員会は29日、異なる人種や少数民族に対する差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)を行った個人や団体に対して『捜査を行い、必要な場合には起訴すべきだ』と日本政府に勧告した。インターネットを含むメディアでのヘイトスピーチについても適切な措置をとることを要請。

国連人権委員会も7月、ヘイトスピーチなど人種差別を助長する行為の禁止を勧告。両委員会の勧告に強制力はないが、国連がヘイトスピーチへの厳しい対応を相次いで求めたことで、日本政府や国会は早期の対応を迫られた形だ。

撤廃委員会の最終見解は、前回に比べ、ヘイトスピーチの記述が大幅に増加。日本での問題の深刻化を印象づけた。見解は、日本での暴力的なヘイトスピーチの広がりに懸念を表明。一方で、ヘイトスピーチ対策を、その他の抗議活動などの『表現の自由』を規制する『口実にすべきではない』ともくぎを刺した。

日本は人種差別撤廃条約に加盟するが、ヘイトスピーチの法規制を求める4条は『表現の自由』を理由に留保している。委員会はこの留保の撤回も求めた。

国連の日本に対する苛立ちがよくわかる。また、「ヘイトスピーチ対策を、その他の抗議活動などの『表現の自由』を規制する『口実にすべきではない』ともくぎを刺した。」という言及にはよく耳を傾けなければならない。とりわけ、自民党は。そして、高市早苗政調会長は。

従軍慰安婦問題については、産経の報道が詳しい。
「慰安婦の人権侵害調査を」国連人種差別撤廃委 ヘイトスピーチ捜査も要請
国連の人種差別撤廃委員会は29日、人種差別撤廃条約の履行を調査する対日審査を踏まえ、慰安婦問題について、慰安婦に対する人権侵害を調査し、責任者の責任を追及することなどを勧告する「最終見解」を公表した。

最終見解では、…「真摯な謝罪表明と適切な補償」を含む包括的な解決を目指し、慰安婦への中傷や問題を否定する試みを非難するよう求めた。

20、21日の対日審査では元慰安婦が「売春婦」とも呼ばれていることなどへの懸念が委員から示され、日本側は従来の取り組みを説明するなどした。4回目となる同委の最終見解で慰安婦問題への言及は初めて。

また、沖縄の人々を「先住民族」だとして、その権利を保護するよう勧告する内容も含まれているという。
最終見解は、日本政府が沖縄の人々を「先住民族」と認識していないとの立場に「懸念」を表明。また、消滅の危機にある琉球諸語(しまくとぅば)の使用促進や、保護策が十分に行われていないと指摘。教科書に琉球の歴史や文化が十分に反映されていないとして、対策を講じるよう要求した。(琉球新報)
ことほど、差別問題は広範囲にわたる。差別自体に憤りを禁じ得ないことは当然として、歴史認識と結びつき、かつての侵略戦争や植民地主義と一体となった民族差別に、わけても今進行している安倍政権下でのヘイトスピーチの横行に、平和主義の観点からも敏感でなければならないと思う。
(2014年8月30日)

ヘイトスピーチ規制を口実にした政権批判のデモ規制を許してはならない

命題? 「言論の自由は民主主義に不可欠な基本権として最大限に尊重されねばならない。公権力はこれを規制してはならない。」
命題? 「ヘイトスピーチは人間の尊厳を否定する唾棄すべき言論として排斥されねばならない。公権力はこれを規制しなければならない。」

おそらく、多くの国民が上記2命題の両者をともに肯定するだろう。「在日韓国・朝鮮人をののしるヘイトスピーチ(憎悪表現)に対し、67%が『不快だ』と答え、『不快ではない』は7%だった(毎日・8月25日)」という世論調査結果はうなずけるところ。

しかし、「言論の自由は尊重せよ」「ヘイトスピーチは取り締まれ」は、いずれも決して政権の真意ではない。できることなら政権批判の言論の自由は規制したい。本音をいうならヘイトスピーチに目くじら立てたくはない。ヘイトスピーチを許容する排外主義の空気が安倍政権を生み、安倍政権の誕生がヘイトスピーチの蔓延を勢いづかせ助長しているのだ。

しかも、「尊重すべき言論」と「取り締まるべきヘイトスピーチ」との境界は、必ずしも明確とは言い難い。あるいはことさらに曖昧にされる危険も避けられない。

そのため、ヘイトスピーチの規制が、言論一般の規制となる可能性を否定し得ない。両刃の剣となりうることを憂慮せざるを得ない。

なにしろ、立法段階でも、法の適用の段階でも、ヘゲモニーを握っているのはこれまでの保守とは明らかに異なる安倍政権の側である。信頼できようはずがない。

まず、どのような法律が作られるか。今の国会の勢力分布では、羊頭狗肉よろしく、「ヘイトスピーチ規制法」の看板で、「言論弾圧立法」が成立する虞なしとしない。

さらに、法の適用が公平に憲法の理念に忠実になされる保証もない。突出した歴史修正主義者を首相に戴いている内閣である。従軍慰安婦問題ではNHKに圧力をかけ、河野談話を見直し、靖国参拝を強行し、過去の戦争を侵略戦争とは認めようとはしない立場を鮮明にし、さらに「自らの魂を賭して祖国の礎となられました昭和殉難者の御霊に謹んで哀悼の誠をささげます」とまで言っている人物が権力を行使するのだ。

国連規約人権委員会はこの7月に、日本政府に対し「ヘイトスピーチ禁止措置」を求める改善勧告を出している。国際的に見て、日本の「ヘイトスピーチ」は看過できない重大問題となっているのだ。何とかしなければならない。

それでもなお、規制立法には不安が残ると逡巡しているところに、案の定というべき「自民党ヘイトスピーチPT」の動きである。まずは、産経のネットニュースが次のように報じた。

「国会周辺の大音量デモ、規制検討 自民ヘイトスピーチPTで」という見出し。
「ヘイトスピーチ規制」ではなく、「国会周辺の大音量デモ規制」が主役にすり替えられているではないか。

「自民党は28日、『ヘイトスピーチ』と呼ばれる人種差別的な街宣活動への対策を検討するプロジェクトチーム(座長・平沢勝栄政調会長代理)の初会合を党本部で開き、憲法が保障する『表現の自由』を考慮しながら対策を検討することを確認した。国会周辺での大音量のデモに対する規制も併せて議論する。」

「一方、拡声器を使った国会周辺での街宣活動は現在も静穏保持法で禁じられている。ただ、同法による摘発事例は少なく、高市早苗政調会長は『国民から負託を受けているわれわれの仕事環境も確保しなければならない』と述べ、同法改正も含め検討する考えを示した。国会周辺では毎週金曜日に反原発のデモが行われている。」(2014.8.28 13:15から抜粋)

さすが産経。自民党の意図をよく読んでいる。本来、「ヘイトスピーチ」と「国会周辺でのデモの規制」とは何の関わりもない。曰くありげに二つを結びつけ、「国会周辺では毎週金曜日に反原発のデモが行われている」とその標的とするところを的確に読者に伝えている。

ヘイトスピーチ規制をダシに、反原発・反格差のデモを規制しようというのだ。国連からの勧告や世論を逆手に、「ヘイトスピーチ規制」という羊頭を掲げて、「言論の自由規制」という狗肉を売ろうというのだ。

東京新聞が的確に解説している。
「自民党は二十八日、人種差別的な街宣活動『ヘイトスピーチ』(憎悪表現)を規制するとともに、国会周辺の大音量のデモ活動の規制強化を検討し始めた。デモは有権者が政治に対して意思表示をするための重要な手段。その規制の検討は、原発や憲法などの問題をめぐる安倍政権批判を封じる狙いがあるとみられる。」

安倍政権を批判するところに、言論の自由尊重の意味がある。ヘイトスピーチ規制を政権批判の言論規制にすり替えられてはたまらない。ヘイトスピーチは社会のマイノリティーの人格を貶める言論。国会デモは、権力に対する市民の批判の言論である。両者の理念には、天と地ほどの差異がある。

冒頭の「命題?」を絶対に譲ってはならないのだ。ましてや、「命題?」を逆手にとっての言論規制をさせてはならない。メディアの扱いの小さいことに、一抹の不安を覚える。言論の自由に関わる問題に、鈍感に過ぎないか。
(2014年8月29日)

NHK・OBの受信料支払い停止の記

本日は、下記ホームページの紹介である。
「多菊和郎のホームページ」http://home.a01.itscom.net/tagiku/

多菊さんは、NHKのOB。
8月21日、NHK退職者有志が、NHK経営委員会に対して「籾井勝人会長に対して辞任勧告をせよ、会長がこれに応じない場合には罷免せよ」という申し入れを行ったことが話題となっている。申入は、賛同者1527名の名をもって行われた。浜田委員長ならずとも、「退職者の1割が署名したというのは、少ない数字ではない」(8月26日時事)と言わざるを得ない。

「NHK全国退職者有志のホームページ」http://obseimei.sakura.ne.jp/ を開くと、呼びかけ人180名の中に、「多菊和郎(報道番組プロデューサー・国際放送局国際企画部長)」を見つけることができる。彼も、1527のドラマのひとこまをプロデュースしていたのだ。

実は多菊さんは私の学生時代の同級生。1964年進学の東大文学部社会学科で席を同じくした仲である。とはいえ、当時親しかった記憶はない。いや、お互いの存在すら知らなかった。わずか30人ほどのクラスでのこと。私の授業への出席率が極端に悪かったからなのだ。当時私は、もっぱら生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れていた。

その多菊さんと、偶然この7月に初対面同然で巡り会った。そして、彼がNHKに勤務していたこと、既に退職し、OBとして籾井勝人会長の発言に怒り心頭であること、退職者有志1000人の糾合を目標に会長罷免要求の賛同者を集めて運動していることなどを知った。

なによりも驚いたのは、彼がNHK退職者でありながら、受信料支払い停止を実践していることだった。しかも学ぶべきは、彼の行動が実に堂々としていることである。匿名に隠れたり、遅疑逡巡するところが皆無なのだ。信念の行動であると感じさせずにはおかない。

彼には、「放送受信料制度の始まり? 『特殊の便法』をめぐって?」(江戸川大学紀要『情報と社会』第19号 2009年3月14日発行)というボリューム十分な論文がある。
「NHKを定年退職し大学の教員をしていた2008年に、上記題名の論文を書きました。大正末期のラジオ放送開始に際して聴取料制度がどのように形づくられたかを検証したもので今日の時事的なテーマを扱ったわけではありません。しかし執筆の動機となった出来事は直近のNHK経営問題でした。」というもの。

彼は、受信料制度を支持する立場である。しかし、「2004年7月に明るみに出たNHK職員による巨額の番組制作費不正支出問題に端を発して,多くの視聴者が受信料支払いの拒否や保留に転じたためNHKの経営が危機に瀕した」事件に関して、「少なからぬ受信者が…NHKの側が十分に“視聴者に顔を向けた”放送局でなかったために,視聴者の“権利”のうちの『最後の手段』を行使した。その意味では,受信料制度は破綻したのではなく,設計どおりに機能したと言えよう」と、視聴者の「最後の手段」としての受信料支払い拒否を「制度の設計どおりの機能」と肯定する。

その一方で、「なお一点確認しておくべきことがある。それは,NHKの経営基盤が弱体化すれば,政治権力は間髪を容れずこのメディアヘの支配権拡大に着手することがはっきりと見えたことである」ともいう。

視聴者の賢い対応で、公共放送を育てていくことが必要だということなのだろう。

ほかならぬその彼の受信料支払い停止実践の記録が、紹介するホームページに掲載されている。
掲載文書は以下のもの。とりわけ、「3 受信料支払い停止の経緯」が興味深い記録。
1 籾井勝人NHK会長あて「会長職の辞任を求める書簡」(2014年3月3日付)
2 浜田健一郎NHK経営委員長あて「NHK会長の罷免を求める書簡」(2014年3月3日付)
3 受信料支払い停止の経緯に関する報告資料
4 参考資料 「放送受信料制度の始まり」(論文)

いろんなところで、自分の持ち場となるところを定めて、民主主義や人権を自分自身の生き方の問題としてとらえて、深くものを考え実践している人がいる。そのことに心強さを感じる。この社会、まだ捨てたものではない。
(2014年8月28日)

「政治をカネで買おう」という経団連の卑しい行為を批判しよう

各紙の本日(8月27日)夕刊の報道によれば、経団連は来月にも会員企業への政治献金呼びかけを再開する予定という。これは、「政治をカネで買おう」「政策をカネで買いつけよう」という卑しい行為の呼びかけではないか。主権者国民にとって黙っていられることではない。

榊原定征経団連会長は、6月の就任時に「安倍晋三政権との二人三脚で日本経済の再生に取り組む考え」を強調している。二人三脚で実現しようとという政策とは、原発再稼動であり、原発輸出であり、武器輸出であり、消費増税であり、企業減税であり、TPPも、労働基準法のなし崩しも、福祉切り捨ても、企業のための教育再生も…。要するに、庶民泣かせの企業優先政策ではないか。こんな安倍自民党に財界がカネを注ぎこむことは、壮大な「政治の売買」「政策の売買」以外のなにものでもない。

経団連の側からみれば、「大きな儲けのための、ほんのささやかな投資」であり、安倍自民の側からは「スポンサーからのありがたいご祝儀」なのだ。持ちつ持たれつの腐れ縁である。

政治献金とは宿命的に見返りの期待と結びついている。企業はその利益のためにカネを出すのだ。たとえ、目先の利益ではない遠い先の利益であっても、利益と結びつかないカネの支出は株主の許すところではない。中小企業家は中小企業家なりの利益のために、労働組合はその組合員の利益のために。そして、力も名もない庶民は、庶民としての自分のささやかな利益を実現する政党・政策のために貧者の一灯をともすのだ。

大企業や大金持ちが、多額のカネを拠出するとき、政治や政策をカネで買ってはならないと批判しなければならない。一方、庶民の零細な資金が集積されて政治に反映されるときには、民主政治の健全な在り方と積極評価されることなる。それが当たり前のことなのだ。民主主義社会においては、数がものをいうのが当然で、カネの多寡にものを言わせてはならないのだ。

政治資金規正法は、ザル法と言われながらも、世論が厳しくものを言う度に、ザルの目は少しずつではあるが密になってきている。また、これまで5年間も経団連が献金あっせんして来なかったのも、世論に遠慮してのこと。すべては世論次第。

確認しておこう。政治資金規正法は、どこまでザルの目を細かくしてきたか。会社・労働組合から、政治家個人・資金管理団体への献金は禁止されている。企業・労働組合から、政党・政治資金団体への献金は許されているが、その規模に応じて年間750万円?1億円の限度が設けられている。また、法の趣旨は、政治献金を奨励するものではない。積極的に献金を公開することで透明性を確保し、国民の監視と批判を期待しているのだ。

ところがいま、経団連には安倍自民と二人三脚で持ちつ持たれつの取引をしても、世論の風当たりは大したことはないと見えているのだろう。これにきついお灸をしておかないと取り返しの付かないことになる。

大企業や大金持ちから献金を受けている政党に、庶民のための政治を期待することがそもそも無理な話。政治資金の流れに目を光らせ、賢い庶民の投票行動を期待するのが民主政治である。

安倍政権には、思い知らさねばならない。財界との蜜月の関係は、政権与党に潤沢な政治資金をもたらすののかも知れないが、民衆からの支持の離反を招くものであることを。
(2014年8月27日)

太平洋戦争開戦直前の「国民礼法」

1941年は、旧体制が日中戦争の泥沼から抜け出せないままに、破滅に向けて米・英・蘭への宣戦を布告した年として記憶される年。

既に前年10月主要諸政党は解散して大政翼賛会に吸収されていた。国家総動員法が国民生活を締めつけている中で、この年は1月8日観兵式における陸相東条英機の戦陣訓示達であけた。未曾有の規模の重慶爆撃の凶事があり、仏領インドシナへの進攻があり、治安維持法の大改悪と国防保安法の制定があり、4度の御前会議で対英米戦開戦が決せられて、東条内閣がその引き金を引いた。

注目すべきは、この年の5月、究極の戦時態勢下に文部省が「国民礼法」を制定していることである。併せて同時期に、実質的に文部省による「国民学校児童用礼法要項」「〈文部省制定〉昭和の国民礼法」「昭和国民礼法要項」「礼法要項〈要義〉」などの解説本が刊行されている。体制の「国民礼法」へのこのこだわりかたはいったい何なのだろうか。

早川タダノリという、戦時国民生活の研究者(ずいぶん若い方のようだ。文章は分かり易く、新鮮な視点から教えられることが多い)が次のように書いている。

昭和16(1941)年に「国民礼法」が制定されたのは、特定の階級のマナーを全国民に「強制的同質化」しようとした試みであるように思われてならない(委員会の座長は徳川義親だったしね)。「国民礼法」に付された文部省の序文では、次のように書かれている。

礼法は実は道徳の現実に履修されるものであり、古今を通じ我が国民生活の規範として、全ての教養の基礎となり、小にしては身を修め、家を齋へ、大にしては国民の団結を強固にし、国家の平和を保つ道である。宜しく礼法を実践して国民生活を厳粛安固たらしめ、上下の秩序を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼し奉るべきである。(『国民学校児童用 礼法要項』昭和十六年)

――結論をはっきり言ってくれているから、付け加えることもないほどである。

「昭和国民礼法要項」(1941年5月発行)の目次は、次のとおりだという(ある方のブログから引用させていただく)。

前編及び注釈
  第一章   姿勢
  第二章   最敬礼
  第三章   拝礼
  第四章   敬礼・挨拶
  第五章   言葉使い
  第六章   起居
  第七章   受渡し
  第八章   包結び
  第九章   服制
後編
 皇室に関する礼法
  第一章   皇室に対し奉る心得
  第二章   拝謁
  第三章   御先導
  第四章   行幸啓の節の敬礼
  第五章   神社参拝
  第六章   祝祭日
  第七章   軍旗・軍艦旗・国旗・国歌・万歳
 家庭生活に関する礼法
  第八章   居常
  第九章   屋内
  第十章   服装
  第十一章  食事
  第十二章  訪問
  第十三章  応接・接待
  第十四章  通信
  第十五章  紹介
  第十六章  慶弔
  第十七章  招待
 社会生活に関する礼法
  第十八章  近隣
  第十九章  公衆の場所
  第二十章  公共物
  第二十一章 道路・公園
  第二十二章 交通・旅行
  第二十三章 集会・会議
  第二十四章 会食
         第一節 席次
         第二節 和食の場合
         第三節 洋食の場合
         第四節 支那食の場合
         第五節 茶菓の場合
  第二十五章 競技
  第二十六章 雜 

「第七章 軍旗・軍艦旗・国旗・国歌・万歳」だけ、内容を紹介しておきたい。
一、 軍旗、軍艦旗に対しては敬礼を行う。
二、 国旗は常に尊重し、その取り扱いを丁重にする。汚損したり、地に落としたりしてはならない。
三、 国旗は祝祭日その他、公の意味ある場合にのみ掲揚し、私事には掲揚しない。特別の場合の外、夜間には掲揚しない。
四、 国旗はその尊厳を保つに足るべき場所に、なるべく高く掲揚する。門口には単旗を本体とし右側(外から向かって左)に掲揚する。二旗を掲げる場合は、左右に並列する。室内では旗竿を用いないで、上座の壁面に掲げてもよい。
五、 外国の国旗と共に掲揚する場合は、我が国旗を右(外から見て左)とする。旗竿を交叉する場合、我が国旗の旗竿を前にし、その本を左方(門外から見て右)とする。二カ国以上の国旗と共に掲揚する場合は我が国旗を中央とする。
六、 旗布の上端は旗竿の頭に達せしめ、竿頭に球などのある場合は、これに密接せしめる。
七、 団体で国旗の掲揚を行う場合は、旗竿に面して整列し、国旗を掲揚し終わるまで、これに注目して敬意を表す。国旗を下ろす場合もこれに準ずる。
八、 弔意を表すために国旗を掲げる場合は、旗竿の上部に、旗布に接して黒色の布片をつける。球はこれを黒布で覆う。また竿頭からおよそ旗竿の半ばに、もしくはおよそ旗布の縦幅だけ下げて弔意を表すこともある。
九、 国歌を歌うときは、姿勢を正し、真心から寶祚の無窮(皇位の永遠)を寿ぎ奉る。国歌を聴くときは、前と同様に謹厳な態度をとる。
十、 外国の国旗および国歌に対しても敬意を表する。
十一、 天皇陛下の万歳を奉唱するには、その場合における適当な人の発声により、左の例に従って三唱する。
   天皇陛下万歳  唱和(万歳)万歳 唱和(万歳)万歳 唱和(万歳)
十二、 万歳奉唱にあたっては、姿勢を正して脱帽し両手を高く上げて、力強く発声、唱和する。最も厳粛なる場合は、全然手を上げないこともある。
【注意】
  一、 国旗は他の旗と共に同じ旗竿に掲揚しない。
  二、 国旗を他の旗と並べて掲揚するときは、常に最上位に置く。
  三、 外国の元首またはその名代の奉迎等、もしくは特に外国に敬意を表すべき場合に限り、その国の国旗を右(外から見て左)とする。
  四、 行事のために国旗を掲揚した場合は、その行事が終われば下ろすがよい。
  五、 皇族・王(公)族の万歳を唱え奉る場合、もしくは大日本帝国万歳を唱えるときは三唱とする。外国の元首もしくは国家に対する場合もこれに準ずる。その他はすべて一唱とする。ただし、幾回か繰り返してもよい。
  六、 万歳唱和後は、拍手・談笑など喧騒にわたることにないようにする。
  七、 万歳唱和をもって祝われた人は、謹んでこれを受ける。
  八、 万国旗を装飾に用いてはならない。

今にして思えば、この「煩瑣でがんじがらめの礼法(ないし儀礼)の強制」こそが国民生活や国民意識のレベルでの戦争の準備であった。

国家自らが、「身を修め、家を齋へ、国民の団結を強固にし、戦勝による強国の平和を保つ道」と「礼法」を位置づけている。「宜しく礼法を実践して国民生活を厳粛安固たらしめ、上下の秩序を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼し奉るべき」と、臣民に対する外形的儀礼行為の強制を通じて、その内心の「体制的秩序維持、天皇制への無条件忠誠」の精神性を教化(刷り込み)しようとしているのだ。

国旗国歌への敬意表明を強制する、今の都教委や大阪府教委の姿勢のルーツがここにある。1941年を繰り返してはならない。この夏に、深くそう思う。
(2014年8月26日)

2014年夏 去年までとは違う風景

「8月ジャーナリズム」という言葉を耳にする。「8月限りの際物」という揶揄したニュアンスがある。それでも8月いっぱいは、戦争を回顧し戦争の悲惨を思い起す報道を期待したい。そのことを通じて、ふたたび戦争を繰り返さない誓いが、この国の再生の原点であったことを思い起こそう。危険な政治家によって、その原点に揺らぎが見えるこの夏においてはなおさらである。

赤旗が、「2014年夏 黙ってはいられない」という連載をしている。益川敏英、山極寿一といった著名人が、常ならぬこの夏を語るという企画。昨日(8月24日)は、山田洋次さんが登場した。その中に印象に残る一節がある。

ぼくは旧満州で戦前の軍国主義の教育をシャワーのように浴びながら育った世代です。あの頃の日本人は中国、朝鮮の人たちに恐ろしいような差別意識を持っていた、中国の兵隊が殺されるのは当たり前だし朝鮮の娘さんが慰安婦になっていることは小学生のぼくまでが知っていて、それを当たり前のことのように考えていた。あの恥ずべき差別意識は、資料では残されていないし残しようもないけど、それがあの戦争の根底にあったことを、戦争は他民族に対する憎しみや差別視というおぞましい国民感情をあおり立てることから始まることを、ナチスのユダヤ人排斥の例を引くまでもなくぼくの世代は身にしみて知っているのです。差別され迫害された側の記憶はいつまでも消えないということを、戦後生まれの日本の政治家はよく考えなければいけない。

相手国や国民を、憎み、侮蔑し、差別する感情がなければ戦争はできない。また、そのような差別意識の醸成は、戦争の徴候であり周到に仕組まれた準備でもありうる。

「右翼」の鈴木邦男氏が、今年の8月15日の靖国神社の光景を次のように描写している(要約)。

地下鉄九段下駅を降りて、靖国神社まで…道の両側に、ビッチリと「店」が並んでいる。食べ物やみやげ物を売ってる店ではない。いわば、「思想」を売っている店だ。いや、自分たちの「主張」を売っている店だ。「中国・韓国は許せない。10倍返しだ!」「歴史教科書はおかしい。変えろ!」「全ては憲法のせいだ! 改正しよう! 署名をお願いします」…と。

ギョッとする光景に出会った。女性が声を張り上げて、朝日新聞を攻撃していた。慰安婦問題で嘘ばかり書いている朝日は廃刊にすべきだ、と。「朝日は、そんなに日本が憎いのですか!」と。…「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦はなかった」…と、エスカレートする。「戦争中に虐殺したり、レイプしたりする兵隊は1人もいなかった。ましてや慰安所などなかった」。そして、こう言ったのだ、「日本兵は世界で一番、道徳的な兵隊です!」

改憲の動きがあるし、集団的自衛権もあるし、ヘイトスピーチデモもある。書店に行くと、反韓・反中の排外的な本ばかりが並んでいる。「国のためなら戦え!」「中国・韓国なんか、やっちまえ!」

何ともやりきれない光景である。安倍政権誕生以来の光景に見えるが、このような光景を生む土壌が安倍政権を誕生させたのか。かなりやばい、この夏の風景。

しかし、このような動き一色でない。昨日(8月24日)の毎日朝刊に、ホッとするような、励まされるような投書を見つけた。
「すばらしい憲法9条大切に」という表題。投書者は山口県岩国市の60代の主婦。お名前の「詩代」にふさわしい文章。

7月29日の本欄に「憲法9条は一国では持っている意味がない」という投書がありました。本当ですよね。こんなにすばらしい憲法なのですから、まわりの国にも「戦争をしない国」の信念を伝えて、日本と同じ憲法9条を持ってもらうように努力しましょう。日本しか持っていないから役に立たないなんていわないで、頑張りましょう。

抑止力というのは、自分の方が上だという上から目線の見方で、相手は良い気はしません。こちらがこれだけ力があると見せれば、相手はまだ上を目指します。そして日本は、またその上の抑止力を考えなければいけません。

きりのない抑止力競争より、周囲の国を戦争をしない国に巻き込んでいくことの方が資金もかかりません。近隣国と話し合いをし、仲良くしていきませんか?
安倍首相お願いします。
私は、子供も孫も戦争には絶対に行かせません。

この短い文章で、9条の精神を余すところなく解き明かしている。

近隣諸国と話し合いをし仲良くしていこう。差別意識をもつことの恥ずかしさを確認しよう。そして、私も、「子供も孫も戦争には絶対に行かせません」と誓おう。
今年の夏、去年までとは違う風景がある。例年以上に「8月ジャーナリズム」にこだわらずにはおられない。
(2014年8月25日)

靖国神社と天皇参拝

8月21日の毎日朝刊に、「靖国問題の核心を認識」という会社員(東京・56才)氏の投書が掲載されていた。これを読んで、私も少し違った角度から「靖国問題の核心」を見たとの印象をもった。

靖国を語るときには襟を正さざるを得ない。ことは国民皆兵の時代の夥しい兵士の戦死をどう受け止めるべきかがテーマである。無数の若者が赤紙1枚で戦地に送られ、非業の死を遂げた。一人一人の死につながる家族があり、友人があり、地域がある。

その死が悲惨であっただけに、遺族や友人など戦死者を悼む者は、その死を無駄な死だったとは思いたくない。その死を忘れさることなく、多くの人にその死を記憶してもらいたい。できることなら、その死を意義あるものと認めてもらいたい。その強い気持ちは、痛いほどよく分かる。

問題は、戦死の意味が戦争の意味と切り離せないことにある。兵士個人の戦死の意味付けが、国家の戦争の意味付けと分かちがたく結びついているこのだ。死者を悼む遺族の気持ちが戦争や戦争を起こした体制の肯定にすり替えられる危険。靖国問題の本質はその辺りにある。

靖国は、一見遺族の心情に寄り添っているかのように見える。死者を英霊と讃え、神として祀るのである。遺族としては、ありがたくないはずはない。こうして靖国は遺族の悲しみと怒りとを慰藉し、その悲しみや怒りの方向をコントロールする。

あの戦争では、「君のため国のため」に命を投げ出すことを強いられた。神国日本が負けるはずのない聖戦とされた。暴支膺懲と言われ、鬼畜米英との闘いとされたではないか。国民を欺して戦争を起こし、戦争に駆りたてた、国の責任、天皇への怨みを遺族の誰もが語ってもよいのだ。

靖国は、そうさせないための遺族心情コントロール装置としての役割を担っている。死者を英霊と美称し、神として祀るとき、遺族の怒りは、戦争の断罪や、皇軍の戦争責任追及から逸らされてしまう。合祀と国家補償とが結びつく仕掛けはさらに巧妙だ。戦争を起こした者、国民を操った者の責任追求は視野から消えていく。

56才会社員の投書氏は、こう語っている。

「終戦の日の本紙の元自民党幹事長の古賀誠氏へのインタビューを読み、改めて靖国問題の核心を認識できました。それは1978年に宮司の独断で行われたA級戦犯の合祀をもとの形に戻して、天皇陛下もかつてのように靖国神社にお参りしていただきたいという、極めて明快な発言でした。」

「A級戦犯を祀る靖国」は、靖国が戦争責任を一身に背負う図としてこの上なく分かり易い。しかし、このことが靖国の本質ではないと私は常々思っている。「A級戦犯の合祀を取り下げ」てその代わりに「天皇が参拝できる靖国」が実現したとすれば、それこそが靖国神社の本質的な姿なのだと思う。そして、その本質はより危険なものなのだと思っている。

「私の伯父も若くしてフィリピンで戦死し靖国に祭られています。きっと天皇陛下万歳と言って散っていったに違いありません。というか、そう叫ぶしか自らの死を受け入れられなかったと思います。そしてその伯父の魂は、天皇陛下に参拝していただいてこそ安らぐのではないかと思えてなりません。」

かくて、天皇の戦争責任は糊塗され免罪され、むしろ「悪役・A級戦犯」に対峙する善玉として、遺族と民衆の気持ちに沿った天皇像が描かれる。その天皇の参拝こそが靖国という死者の魂の管理装置の本質的な姿だと思われる。

「私自身も、無謀な戦争をして伯父を戦場に送った人々が一緒に祭られている神社を素直に拝めません。戦後70年という節目に当たる来年こそ、この問題に整理をつけ、陛下も首相もお参りに行ける神社になっていただきたいと願う次第です。」

いかにも実直そうなこの投書氏には、A級戦犯の戦争責任は意識にあっても、天皇の戦争責任の認識は露ほどもない。靖国とは確実に、このような遺族やその周囲の心情に支えられている。根無し草ではなく、確実にこれを支える民衆の存在がある。違憲と言い、外交上かくあるべしと言ってもなかなか通じない。遺族の心情は無碍に排斥しがたい点において、反靖国派はたじろがざるを得ない。ここが、靖国派の強みの源泉である。

しかし、辛くても、困難でも、遺族の心情に配慮しつつ、逃げることなく、この投書氏にも語りかけなければならない。

あなたの伯父さんを死なせた戦争を始めたのは当時の国家ではありませんか。赤紙一枚で戦場に狩り出したのも国家、「死は鴻毛より軽きと知れ」と国民の命を軽んじたのも国家。そして当時、国家はそのまま天皇と置き換えてもよい存在だったではありませんか。天皇を頂点とした国家こそが、かけがえのない国民一人ひとりの戦死に、あなたの伯父さんの死に責任を取らねばならないのではありませんか。

A級戦犯各人が責任ありとされた行為を重ねた当時、その上に天皇が君臨していたではありませんか。あなたの伯父さんを死に追いやった最大・最高の責任者は天皇ではありませんか。「この問題に整理をつけ」とは、A級戦犯の合祀を取り下げての意味と理解します。「陛下も首相もお参りに行ける神社になっていただきたいと願う次第です」は、結局は戦犯の上に君臨していた天皇を免罪することになりませんか。若かりし伯父さんが天皇にどのような思いを抱いていていたかはともかく、伯父さんを戦死に追いやった最高責任者の免罪が本当に伯父さんの死を意味づけることになるのでしょうか。
(2014年8月24日)

スズメバチに学んだこの夏の教訓

今日は処暑。処とは、足と台とを組み合わせて、床几に落ちついている様を表す会意文字だという。処暑とは、暑さ落ち着くの意なのだろう。あるいは、処分・処断の処と解せば、暑さの始末がつくという意味であろうか。

旧暦でのこととはいえ残暑の厳しさも心なし和らいできているよう。夏も終わりに近い。

日本中が自然の猛威になすすべも無く翻弄された今年の夏。報じられている各地の災害はまことに傷ましい。それと較べれば些細な私事であるが、私も自然界による逆襲を受けた。

クロスズメバチの襲撃に遭って、痛い目にあったことは前のブログでお知らせした通り。たいしたことにならず、ホッとしていたら、追い打ちをかけるように、今度はキイロスズメバチに指と上唇の2カ所を刺されてしまった。その痛さはクロスズメバチの比ではない。釘を打ち込まれるようだという表現があるけれど、たしかに釘をバチンと打ち込まれればこんな感じかもしれない。指の付け根を刺されたら、みるみるうちに手全体は無論、前腕の半分ほどがパンパンにふくれあがった。焼き芋に5本のウインナーソーセージをぶらさげたよう。上唇のほうは、鼻の下だけが思いっきりはれあがって、カモノハシのようになり、よほど注意をしないとよだれが垂れるままのだらしない状態となった。

今でこそ余裕をもって報告できるが、刺されたときは深刻だった。これで三回目、合計7匹のスズメバチの毒を受けたことになるのだ。「もうダメかも知れない。アナフィラキシーショックで入院か」という思いが頭をかけめぐった。

しかし、クロスズメバチに刺されたときに学んでいたことが役に立った。水道水で徹底的に洗い流して、氷でひやした。痛いやら怖いやらでビクビクものだったが、またもや、冷静沈着な行動をとった私の勝ち。

3日間はふくれあがったが、後は徐々に回復。2日ほどは食事をするのが嫌になるほど痛かったが、3日以降は痒くて痒くてたいへん。でも、それだけのことだった。

ハチ毒に対するアレルギーは人それぞれ、場合によりけりらしいので、絶対に次回も安心できるとおもわない。油断大敵と厳しく自戒している。

スズメバチといえども、むやみやたらに攻撃するわけでは無い。巣に対する攻撃にたいして自衛の個別的自衛権を発動するするだけのことらしい。私が刺された状況に照らして、その説明は十分納得できる。クロスズメバチの場合はうっそうとしたウツギの大枝を切ってドサリと下に落としたときに刺された。キイロスズメバチの場合はツバキの上にからまったヤブガラシを引っ張りおろすために、ユッサユッサと揺らしたときに刺された。いずれも、一族の城に対する侵略への自衛措置である。

ちょうどイスラエルがガザで虐殺ともいえる攻撃をしている時期だったので、妙にスズメバチに同情する心がわきおこって、憎んだり怒ったりする気持ちにはなれなかった。「突然驚かしてゴメンね」と言ってみたが、通じてはいなかったようだ。

そんな同情心を持つにいたったのにはもう一つ理由がある。前回攻撃されたクロスズメバチの巣を見つけたのだ。愚かなことに、クロスズメバチは地面に直接、直径40センチほどの穴を掘って、その中に巣を作っていたのだ。近づくと兵隊蜂がワンワンと飛び出してきた。これだなと思って、蚊取り線香に火をつけて放り込むと、あたりまえのことだが、ますます大勢で飛び出してくる。位置の確認はできたが、内部構造まではわからない。そうこうしているうちに、台風11号による大雨が降った。土砂が穴を覆ってしまい、スズメバチの巣は閉じ込められてしまった。大雨という自然災害にはさしものスズメバチもなすすべが無かったとみえる。可哀想なことに、全滅した様子。できることなら、私がやったんじゃ無いとスズメバチに伝えて、誤解を解きたいと心から思う。

ところで、巣の作り方の教訓は子孫に伝わるのだろうか。来年は目立たない崖に、横穴を掘るべきであって、垂直に掘り下げる巣作りは危険だという死活的に重要な教訓は伝承できるのだろうか。伝承できなければ、クロスズメバチ一族の未来に希望はない。

人間はスズメバチとちがって、言い伝えたり、本に書き残したり、映像化したり、教訓を残す方法をたくさんもっている。

ところが、戦争に懲りたはずのこの日本が、またもや戦争ができる国になりそうな事態を迎えている。本当に人間はスズメバチより利口なのだろうか。せっかく手にした教訓と教訓伝承の手段は役に立たないのだろうか。

もしかしたら、本当に痛みを体験した者だけにしか、教訓は伝わらないのではなかろうか。スズメバチに刺された痛さだって、人に伝えることは難しい。戦争の悲惨さも同じことなのかも知れない。

しかし、人間が学びを積み重ね、伝承できないスズメバチと同じであってはならない。人間が虫けらのように殺されていくのが戦争だ。どんなに困難なことだとしても、その悲惨さと、繰り返してはならないとする教訓を、あらん限りの知恵を発揮して伝承しなければならない。

まだまだ間に合う。今一度の戦争はなんとしても防がなければならない。痛い目にあって、スズメバチから得たこの夏の「痛い教訓」。
(2014年8月23日)

ことの本質は「批判の自由」を守り抜くことにある?「DHCスラップ訴訟」を許さない・番外

同期の友人から、便りをいただいた。ワープロで印字したものではない。「水茎うるわしく」とは言えないものの、手書きの便りは暖かい友情を感じさせる。内容は、『DHCスラップ訴訟』の被告準備書面に目を通しての感想。大局を見る視点の参考に値するものと考え、了解を得てその一部を紹介する。

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先日は、久しぶりにお目にかかって楽しかった。お元気そうでなにより。

私も弁護団の一員だが、東京には遠いし、若くもない。パソコンの操作も不得手だ。訴訟の方針は優秀な若手にお任せでよいと思っている。信頼できる学者のアドバイスも期待できるようだし、安心はしている。

それでも、もちろん気になって原被告双方の書面はよく読んでいる。今回の被告の反論を展開した準備書面も拝読した。その感想を述べておきたい。

結論的には、説得力のある精緻な内容の展開になっているし、訴訟としては圧倒的に有利な立場にあることを確認できて喜んではいる。しかし、正直のところ、今回の準備書面は私の考えていた内容とは少し違う。違和感がある。

ことの本質は、澤藤君の批判が果たして違法と烙印を押されるようなものなのかという一点にあるのだと思う。君は、財界の一端を担う吉田が政治家渡辺に多額のカネを渡したことを「カネで政治を買うもの」と批判した。いったいこの批判を違法などといえるのだろうか。最終的には、それだけが論点だ。

吉田の行動が違法か合法か、君の指摘が正確か否かは、二の次、三の次の問題に過ぎない。吉田が渡辺にあれだけの大金を渡したのだから、「カネで政治を買う」ものと批判されて当然ではないか。むしろ、君の問題提起は、違法どころか、重要で意義のあるものだと思う。そのことをもっと前面に押し出してもらいたい。

訴訟の争点が、大金を拠出したことについての吉田の意図や動機、あるいは吉田の行為の違法性の有無に絞り込まれるようなことがあってはならない。吉田の意図や動機がどうであろうとも、吉田のカネの出し方が政治資金規正法上適法であったとしても、澤藤君の批判を違法として封じることはできないと思う。この点を十分に意識してもらいたい。

今回の準備書面への違和感はその点にある。民主主義を守る土台としての「批判の自由」の意義をもっと前面に出してもらいたかった。少し、横着に言えば、吉田の行為が合法か否かは問題にならない。君の批判の内容が真実であるか否かも本来問題にはならないはずではないか。吉田が自らの手記で発表した行為が、君のような批判の対象となることは当たり前のことで、仮に君の批判の表現に誤った推測が含まれていたとしても、批判が許されないことにはならない。

民主主義を守るためには君がしたような批判が必要なのだ。その批判をきっかけに、真実の解明が進んだり、国民の議論が深まることが期待できるのだから、批判の言論そのものに保護すべき意義がある。けっして、批判が全面的に正確であることを要求すべきではないと考える。

そのような立場から、裁判所に「批判の自由」の意義や尊さを理解してもらえるように、この点を整理した書面を作成して提出してもらいたい。それが私の意見だ。参考にしていていただけたらありがたい。(後略)
(2014年8月22日)

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