(2021年7月31日)
ことあるごとに思い起こそう。忘れぬように繰り返そう。
モリ・カケ・桜・クロカワイ・アベノマスクにIR
ウソとゴマカシをもっぱらとし、政治を私物化した安倍晋三を忘れてはならない。度しがたい歴史修正主義者で改憲論者の安倍、その長期政権をわれわれは許してしまった。
昨日(7月30日)は、安倍の数々の悪行のうち、「桜」を思い起こさせる日となった。検察審査会事務局から「審査申立事件についての『議決の要旨』をお渡ししたい」旨の連絡があって、午後1時半頃に受領した。その全文が後記のとおりである。(但し、安倍晋三ら被疑者4名の肩書は、原文にはない。澤藤が告発状から引用した。なお、「晋和会」は、政治家安倍晋三の資金管理団体である)
審査申立事件は、「桜を見る会」前日の夕食会をめぐるもの。特捜は、公設第一秘書であり、安倍晋三後援会代表者・同前会計責任者でもあった配川博之だけを後援会の政治資金収支報告書不記載罪だけで立件し、被疑者安倍晋三を不起訴とした。安倍は、尻尾を切って難を逃れたのだ。
これを不当とする東京検察審査会への審査申立の議決が、告発被疑事実の2件について、不起訴不当の結論となった。起訴相当ではなかったが、この民意は重い。11人の検察審査員に敬意を表したい。
安倍晋三が尻尾を切って難を逃れた、昨年(2020年)12月24日、私はブログに要旨こう書いた。
日本国民の民度なるものの寸法が、安倍晋三という人物にぴったりだったのであろう。国民は、この上なくみっともない政権投げ出しのあとの安倍の復権に寛容であった。のみならず、何と7年8か月もの長期政権の継続を許した。
その安倍晋三、一見しおらしく、本日の記者会見で、「国民のみなさま」に謝罪した。「深く深く反省するとともに、国民の皆さまにおわび申し上げます」と頭を下げたのだ。
安倍晋三によると、「会計責任者である私の公設第1秘書が、(桜を見る会前夜祭での)政治資金収支報告書不記載の事実により略式起訴され、罰金を命ぜられたとの報告を受けた」。「こうした会計処理については、私が知らない中で行われていたこととはいえ、道義的責任を痛感している。深く深く反省するとともに、国民の皆さまにおわび申し上げます」「今般の事態を招いた私の政治責任はきわめて思いと自覚しており、真摯に受け止めている」という。
難解なアベ語を翻訳すると、こんなところだろうか。
「これまでずっと、繰り返しウソをつき続けてきたんだけど、ばれちゃったから一応ゴメンネって言うの。でも、あれはみんな秘書がやったことなの。その秘書が罰金100万円の責任とったんだから、もう問題済んだよね。ボク、な?んにも知らなかったんだから、しょうがないでしょ。ただね、みんな怒っているようだから、取りあえず『政治責任を自覚』って言ってみたんだ。どういうふうに、政治責任をとるかって? そんなこと、なーんにも。口だけ、口だけ。これまでそれで通ってきたんだから,今回もそれでいいでしょ。今回ちょっとまずかったから、これからはバレないように気をつけなくっちゃね」。
「桜を見る会」とは何であったか。各界の功労者を招いて総理大臣が主催する、公的行事である。これを安倍晋三は,露骨なまでに私的な後援会活動に利用した。これを許したのは山口4区の選挙民の民度である。下関・長門両市民は大いに恥ずべきである。石原慎太郎を知事にした、かつての東京都民と同様に。
しかし、公的行事である「桜を見る会」の私物化が明らかになっても、国民の民度は十分な安倍批判をなしえなかった。やむなく、「桜を見る会」ではなく、「桜を見る会」とセットにされた後援会主催の「前夜祭」の、その収支報告書の不記載という、本筋ではないところに問題の焦点を宛てざるを得なかった。そして、本来であれば、国民の怒りをもって国政私物化政権を糾弾しなければならないところ、検察への告発という形で安倍晋三を追い詰めようとしたのだ。(以下略)
もう一つ、忘れてはならないのが、安倍晋三のウソつきぶり。「桜を見る会」の前夜祭の費用を安倍晋三が補填していた問題をめぐり、安倍が国会で事実と異なる答弁を少なくとも118回繰り返していたことが、衆院調査局の調査で明らかになっている。調査は立憲民主党が同局に依頼し、結果を公表したもの。2019年11月?20年3月までの計33回の衆参本会議や委員会での答弁を対象としたもの。内訳は、「事務所は関与していない」との趣旨の答弁が70回、「明細書はない」との趣旨が20回、「差額は補てんしていない」との趣旨が28回で、計118回という。こんな人が政治家になり、こんな人を首相にまでさせたのが、わが国における民主主義の実態なのだ。
昨日発表の議決で、安倍を「不起訴不当」とした被疑事実は二つある。
その一つは、安倍による夕食会の費用補塡は、選挙区内での寄付にあたるという公職選挙法違反。不起訴の理由は、「寄附を受けた側に,寄附を受けた認識があったことを認定する十分な証拠がない」とのことだが、議決は「秘書や安倍氏の供述だけでなく、メールなどの客観的資料も入手して犯意の有無を認定すべきだ」と証拠収集の不十分さに言及している。
もう一つは、安倍の資金管理団体「晋和会」の会計責任者だった西山猛(元私設秘書)の政治資金収支報告書の不記載について、安倍が選任監督の責任を怠ったという政治資金規正法25条2項違反。
その詳細については、「憲法日記」の2020年12月21日号「『桜・前夜祭収支疑惑』で、安倍晋三を第2次告発」をご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=16066
なお、25条2項の法定刑は、最高罰金50万円に過ぎない。しかし、被告発人安倍晋三が起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から原則5年間公民権(公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権)を失う。その結果、安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失う。この結果は、法が当然に想定するところである。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受しなければならない。
検審議決の命じる本件告発への捜査に、検察の威信がかかっている。安倍政権時代の黒川弘務東京高検検事長問題で、検察の威信は大いに失墜した。国民の検察に対する信頼を回復する大きなチャンスではないか。検察は安倍晋三らに対する厳正な捜査を徹底して起訴すべきである。そうして初めて、国民の検察に対する信頼を回復できることになる。
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令和3年東京第一検察審査会審査事件(申立)第8号
申立書記載罪名 公職選挙法違反,政治資金規正法違反
検察官裁定罪名 公職選挙法違反,政治資金規正法違反
議決年月日 令和3年7月15日
議決書作成年月日 令和3年7月28日
議 決 の 要 旨
審査申立人 澤 藤 大 河,澤 藤 統一郎
被 疑 者 安 倍 晋 三 (衆議院議員・晋和会代表者)
被 疑 者 配 川 博 之 (安倍晋三後援会代表者・同前会計責任者)
被 疑 者 阿 立 豊 彦 (安倍晋三後後会会計責任者)
被 疑 者 西 山 猛 (晋和会会計責任者)
不起訴処分をした検察官
東京地方検察庁 検事 田 渕 大 輔
議決書の作成を補助した審査補助員 弁護士 宇田川 博 史
上記被疑者安倍晋三に対する公職選挙法違反,政治資金規正法違反被疑事件(東京地検令和2年検第18325号),被疑者配川博之に対する公職選挙法違反被疑事件(同第18326号),被疑者阿立豊彦に対する政治資金規正法違反披疑事件(同第18327号),被疑者西山猛に対する政治資金規正法違反被疑事件(同第32650号)につき,令和2年12月24日上記検察官がした不起訴処分の各当否に関し,当検察審査会は,上記審査申立人の申立てにより審査を行い,次のとおり議決する。
譜 決 の 趣 旨
本件各不起訴処分は,
1 被疑者安倍晋三について,
(1)公職選挙法違反(後援団体関係寄附)及び政治資金規正法違反(晋和会代表者の会計責任者に対する選任監督責任)は不当である。
(2)政治資金規正法違反(後援会の収支報告書不記載,晋和会の収支報告書不記載,晋和会代表者の重過失責任)については相当である。
2 被疑者配川博之について,公職選挙法違反(後援団体関係寄附)は不当である。
3 被疑者阿立豊彦について,政治資金規正法違反(後援会の収支報告書不記載)は相当である。
4 被疑者西山猛について,政治資金規正法違反(晋和会の収支報告書不記載)は不当である。
議 決 の 理 由
1 被疑事実
(1)公職選挙法違反(後援団体関係寄附)
都内のホテルで,桜を見る会に先立ち行われた「安倍晋三後援会桜を見る会前夜祭」において,選挙区内の後援会員に対し,飲食代金不足分を補てんしたことが後援団体関係寄附に当たるという被疑者安倍及び被疑者配川に対する公職選挙法違反
(2)政治資金規正法違反(後援会の収支報告書不記載)
前記前夜祭に関する収入及び支出を後後会の収支報告書に記載せず,選挙 管理委員会に提出したという被疑者安倍及び被疑者阿立に対する政治資金規正法違反
(3)政治資金規正法違反(晋和会の収支報告書不記載)
前記前夜祭に関するホテルに支払うべき代金の補てん分として,後援会に代わり,晋和会が支払ったことにつき,晋和会の収支報告書に支出及び収入を記載せず,総務大臣に提出したという被疑者安倍及び被疑者西山に対する政治資金規正法違反
(4)政治資金規正法違反(晋和会代表者の会計責任者に対する選任監督責任)
被疑事実(3)事件につき,晋和会の会計責任者である被疑者西山の選任及び監督につき,相当の注意を怠ったという被疑者安倍に対する政治資金規正法違反
(5) 政治資金規正法違反(晋和会代表者の重過失責任)
被疑事実(3)事件につき,重大な過失があったという被疑者安倍に対する政治資金規正法違反
2 被疑者安倍及び被疑者配川に対する公職選挙法違反(後援団体関係寄附)について
前夜祭における会費収入を上回る費用が発生し,その不足額を後援会側が補てんした事実が認められるものの,寄附を受けた側に,寄附を受けた認識があったことを認定する十分な証拠がないとする。
しかしながら,寄附の成否は,あくまで個々に判断されるべきであり,一部の参加者の供述をもって,参加者全体について寄附を受けた認識に関する判断の目安をつけるのは不十分と言わざるを得ない。
また,実際に提供された飲食物の総額を参加人数で除すると1人当たりの不足額は大した金額ではなく,参加者において不足分があることを認識し得なかったとも考えられるが,都心の高級ホテルで飲食するという付加価値も含まれているのであるから,単純に提供された飲食物の内容だけで寄附を受けたことの認識を判断するのは相当とは言えない。
さらに,被疑者安倍の犯意について,不足額の発生や支払等について,秘書らと被疑者安倍の供述だけでなく,メール等の客観的資料も入手した上で,被疑者安倍の犯意の有無を認定すべきである。
以上のとおり。寄附を受けた側の認識及び被疑者安倍の犯意のいずれについても,十分な捜査を尽くした上でこれを肯定する十分な証拠がないとは言いがたく,不起訴処分の判断には納得がいかない。したがって,被疑者安倍及び被疑者配川両名とも不起訴処分は不当である。
3 被疑者安倍及び被疑者阿立に対する政治資金規正法違反(後援会の収支報告書不記載)について
被疑者安倍は,後後会の会計責任者でも会計責任者の職務を補佐する者でもなく,被疑者配川と意を通じ,後援会の収支報告書の不記載の罪を実行したと言えるような,共謀の事実を認定することは困難と思われるため,不起訴処分はやむを得ないと判断する。
被疑者阿立については,仮にも内閣総理大臣の後後会の会計責任者という立場を自覚していたはずであり,責任を問われないことには納得がいかないが,犯意を認定することは困難であり,不起訴処分はやむを得ないと判断する。
4 被疑者安倍及び被疑者西山に対する政治資金規正法違反(晋和会の収支報告書不記載)について
前夜祭の主催者は後援会であるとしても,前夜祭の開催には,被疑者西山が主体的,実質的に関与していたと認められるから,晋和会による政治資金規正法違反(収支報告書の不記載)の事実が認められるか否かについては,慎重な捜査が行われなければならない。
また,領収証は,一般的には宛名に記載された者が領収証記載の額を支払ったことの証憑とされるから,宛名となっていない者が支払ったという場合は,積極的な説明や資料提出を求めるべきであり,その信用性は,慎重に判断されるべきである。
以上のとおり,晋和会の資金による支払があったかどうかについて,十分な捜査が尽くされているとは言いがたいため,不起訴処分の判断には納得がいかず,被疑者西山の不起訴処分は不当である。
被疑者安倍にっいては,今後捜査を尽くしても収支報告書の不記載につき,認識があったという証拠を入手できる見込みが大きいとは考えにくいことを踏まえ,不起訴処分は相当と判断する。
5 被疑者安倍に対する政治資金規正法違反(晋和会代表者の会計責任者に対する選任監督責任,晋和会代表者の重過失責任)について
前述のとおり,政治資金規正法違反(晋和会の収支報告書不記載)について,被疑者西山の不起訴処分は不当であり,今後,同事実に関し再検査が行われるのに併せて,被疑者安倍の会計責任者被疑者西山に対する選任監督に対する注意義務違反の有無の捜査も行われるべきであり,不起訴処分は不当である。
なお,被疑者安倍の収支報告書不記載に関する重過失責任については,今後捜査を尽くしても重過失を裏付ける新たな証拠を入手できる見込みが大きいとぱ考えにくいことを踏まえ,不起訴処分は相当と判断する。
6 まとめ
よって,上記趣旨のとおり議決する。
付言すれば,「桜を見る会」は税金を使用した公的な行事であるにもかかわらず,本来招待されるべき資格のない後援会の人達が多数参加しているのは事実であって,今後は,候補者の選定に当たっては,国民からの疑念が待たれないように,選定基準に則って厳格かつ透明性の高いものにしてもらいたい。
また「桜を見る会前夜祭」の費用の不足分を現金で補てんしているが,現金の管理が杜撰であると言わざるをえず,そういった経費を政治家の資産から補てんするのであれば,その原資についても明確にしておく必要があると思われ,この点についても疑義が生じないように証拠書類を保存し,透明性のある資金管理を行ってもらいたい。
最後に,政治家はもとより総理大臣であった者が,秘書がやったことだと言って関知しないという姿勢は国民感情として納得できない。国民の代表者である自覚を持ち,清廉潔白な政治活動を行い,疑義が生じた際には,きちんと説明責任を果たすべきであると考える。
東京第一検察審査会 印
(2021年7月30日)
火は妖しくも美しい。それ故に火は人を呼び寄せ人を惑わす。火はときに、その危うさを人に忘れさせ、人は火に魅入られて身を焼き身を滅ぼす。火に群がる蛾と人と変わるところはない。
今、少なからぬ人々が「聖火」に引き寄せられ、その虚飾に惑わされ酔わされている。その火の危険を忘れ、あるいは危険を正視せず、危険に気付かないふりをし続けている。その怠惰は、多くの人々の身を焼き身を滅ぼすことになる。今必要なのは、一刻も早く、その危険を正視して「聖火」を消すことだ。直視せよ。あれは、人々の災厄を招いている劫火なのだ。
昨日(7月29日)の東京都内新規コロナ感染確認者数は3865人と発表された。全国では10699人、初めて1万人の大台を超えた。言葉の真の意味での緊急事態である。東京では直近1週間の人口10万人当たりの感染者数111人を超えた。ステージ4下限の4倍を上回る。国民の生命と健康、そして生活が脅かされている。
東京五輪は、7月23日に開会となった。その日から昨日までの東京の感染者数の推移は、下記のとおりである。
7月23日(金) 1659人 (開会式当日)
7月24日(土) 1128人
7月25日(日) 1763人
7月26日(月) 1429人 (連休明け初日)
7月27日(火) 2748人 (連休明け2日目)
7月28日(水) 3177人 (連休明け3日目)
7月29日(木) 3865人 (連休明け4日目)
4連休が明けてからは、感染爆発と言って誇張ではない。この感染爆発が東京五輪開催と無関係という強弁は通らない。「東京五輪は、国民の犠牲を厭わず開催されねばならない」「都民やアスリートの安全よりも、東京五輪が重要だ」「まだ、アルマゲドンは起こっていない」と言うのなら、話の筋は通っている。危険この上ないスジではあるが。
東京五輪の安全安心がお題目だけのことであるのは、誰もが知っている。バブルには「どこでもドア」が完備している。今回のオリンピックに限らず、選手の素行がよいわけはない。本日正午までの五輪関係感染者数は累計193人である。母数を確定しがたいが、これは無視できない多数である。しかも潜伏期間を考えれば、これからが心配なのだ。
祝祭としての東京五輪が、「感動」を呼ぶものであればあるだけ、「感動」しやすい人々にパンデミックの現状認識を稀薄化させている。限りある医療リソースが東京五輪に奪われている。
この事態に、菅義偉・小池百合子のコメントの情けなさは、言語に絶する。この二人への批判を機に、「楽観バイアス」という言葉が飛び交うようになった。今年の流行語大賞の有力候補である。人には、見たいものしか見えない。「聖火」に吸い寄せられた人には、その火の恐ろしさは見えない。見えても語らない。菅・小池とも、この事態に楽観論しか語らない。
楽観バイアス・シンドロームは、菅・小池にとどまらない。立憲民主党の安住淳国対委員長が、東京オリンピックに関し「選手村でクラスターが起きるなど新たな状況が生まれない限り、中止は現実的でない」と述べたという。まず、これには驚いた。、菅・小池を糾弾して、誰が国民の味方であるかをアピールする絶好の機会を逃したのではないか。
さらに、同党の枝野幸男代表までがこれに続いた、昨日(7月29日)の記者会見で、新型コロナウイルス感染拡大の中で開催されている東京五輪について、わざわざ中止を求めないと述べたという。その理由として、「すでに五輪の日程が進んでおり、多くの選手や関係者が来日して活動している」「中止すればかえって大きな混乱を招くと強く危惧している」と述べたとのこと。国民の命と健康を犠牲にしてまで実現しなければならない「混乱回避」とはいったい何なのだ。
さらに、「アスリートの皆さんには競技に集中して全力を出していただきたい」「長年の努力の成果を自信を持って発揮できるよう、テレビの前で応援しているし、日本選手の活躍を喜んでいる」とまで語ったという。
恐るべし、楽観バイアス・シンドローム。そして、「聖火」の危険な魅力。だからこそ、直ちにその火を消さなければならない。
(2021年7月29日)
本日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第1回口頭弁論があった。
石原慎太郎都政時代に発出された、悪名高い「10・23通達」以来18年余にもなる。以来今日までこの通達にもとづいて、都立学校の入学式、卒業式では、全教職員に対して、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という、文書による職務命令が発せられる。これに違反すれば懲戒処分が科せられる。
職場の労働組合は闘わない。「国旗・国歌」ないし「日の丸・君が代」に敬意を表することはできないとする教員たちが、組合の援助なく「予防訴訟」を起こした。処分される前に「起立斉唱の義務のないことの確認」「不起立での処分の差し止め」を求める訴えである。次いで、処分の取消を求めての東京「君が代」裁判が、第1次?第4次訴訟まで取り組まれ、いま第5次訴訟が始まったのだ。
この間、被告東京都(教育委員会)は、判決の積み重ねによって当初の弾圧プログラムの後退を余儀なくされている。しかし、原告側は当然あってしかるべき最高裁レベルでの違憲判決を得ていない。つまり完勝には至っていない。本来あってはならない教職員の処分の不利益は払拭し得ていない。大いに不満である。
第5次訴訟の原告は15名。争われる処分件数は26件。そのうち、再処分(減給以上の処分が確定判決で取り消された後に、前処分と同じ不起立を理由としてあらためて戒告処分としたもの)が16件である。
第5次訴訟の係属部は、民事第36部。かつて予防訴訟1審を担当し、2006年9月21日402名の原告が完全勝訴の判決を得た難波英雄裁判長が在籍していた部である。なんとなく幸先よい感じ。
https://article9.jp/wordpress/?p=9213
本日の法廷では、原告2人と代理人1人(平松慎二郎・弁護団事務局長)が、計30分弱の意見陳述を行った。その真摯さは、裁判官諸氏の胸に響いたと思う。
この事件の訴状はほぼ200ページ。その冒頭に、「本件訴訟の意義と概要」という下記の款がある。どのような訴訟か、何が争われているのか、これでお分かりいただけると思う。
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1 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ,本件各懲戒処分の特質は,各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は,原告らの精神的自由を根底的に侵害し,そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは,いずれも,公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され,その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし,原告らは,日本国憲法下の主権者の一人として,その精神の中核に,「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない,あるいは,敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観,歴史観,憲法観,人権観,宗教観等々は,各原告個人の精神の中核を形成しており,国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は,原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と,懲戒処分という制裁をもっての強制は,原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。
(2) 国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が,国家の象徴である以上,原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は,国家と個人とを直接対峙させて,その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家の象徴と意味付けられた旗と歌とは,被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも,個人の人権が,価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており,国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また,国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は,歴史的な旧体制の象徴である以上,原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は,戦前の軍国主義,侵略主義,専制支配,人権否定,思想統制,宗教統制への,容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は,原告らの前には,日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも,日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして,日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという,原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と,その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており,公権力による起立・斉唱の強制も,その強制手段としての懲戒権の行使も原告らの思想・良心・信仰を非情に鞭打ち,その個人の尊厳を毀損するものである。司法が,このような個人の内面への鞭打ちを容認し,これに手を貸すようなことがあってはならない。
(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また,本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは,次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて,真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして,教育という営みは成立し得ない。また,教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が,「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで,その身をもって語った思想・良心は,教員としての矜持において譲ることのできない,「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを,不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって,教育現場の教員としての良心を鞭打ち,その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。
(4) 原告らに,踏み絵を迫ってはならない
原告らは,公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか,あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか,その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は,この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は,江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから,権力の権威を認めず危険だから,という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは,まさしく踏み絵を禁止すること,原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を賭けて,自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。
以上のとおり,本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に,耳を傾けていただきたい。
2 本件は公権力行使の限界を問う訴えである
憲法訴訟における違憲論は,大別して,原告の憲法上の基本権の侵害を理由とする主張と,公権力に対する憲法上の制限規定違反主張の2方法がある。本件訴えにおいては,前者を違憲論の「主観的アプローチ」とし,後者を「客観的アプローチ」と呼称する。
この理解は,憲法の全体系を人権保障部門と,人権保障に奉仕すべき統治機構部門とに二分する通説的理解に基づく。原告らが,公権力の行使によって憲法が至高の価値とする人権を侵害されたという構成の違憲主張が主観的アプローチであり,権力機構の一機関がその権限を踰越して無効な権力行使をしたとする違憲主張の構成が客観的アプローチである。
本件では,憲法19条・20条・23条を根拠に主観的アプローチの違憲論を展開するのみならず,客観的アプローチの違憲主張も展開する。
その主たるものは,公権力は国民に向かって「国家に敬意を表明せよ」と命令する権限はないということである。「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来」するのは自明の事理である。主権者国民から権限を授与された公権力には,自ずから限界がある。国民から授権された公権力が,権力の淵源である主権者国民に対して,公権力の集約点である国家に対して敬意表明を強制することはできない。論理的にパラドックスと言わざるを得ない。
主権者から権限を授与された公権力も,国民に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,授与された権限を踰越するものとしてなしえない。
また,公権力が教育行政としてなしうるものは教育条件の整備であって,教育への不当な支配は禁じられている。教育現場での国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,判例法が積み重ねてきた教育に対する不当な支配にほかならない。
本件は,客観的アプローチにおいて,公権力行使の限界を問う訴えでもある。
3 本件は既に決着のついた問題ではない
詳細は後述するが,本件は東京都教育委員会が発出した「10・23通達」に基づく,東京都内公立学校での卒業式等の儀式的行事における「国歌斉唱」時の起立斉唱を強制する職務命令違反を理由とする懲戒処分の取消を求める訴えである。同種訴訟の提訴はこれまでもいくつもあり,最高裁判決に至っている事案もある。
しかし,本件の最高裁判決は,けっして判例として確立したものとはなっていない。何よりも,国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の説得力不足が覆いがたいからである。この点において,アメリカ合衆国連邦最高裁判所が1943年に,公権力による国旗に対する忠誠の強制を違憲としたバーネット判決とは対照をなしている。
本訴状の構成は,違憲違法論を,まず客観的アプローチから論じて,次いで主観的アプローチに至っている。これまでの同種事案に対する判決例は,客観的アプローチには見るべき判断をしていない。また,これまでの最高裁判例が積み上げてきた教育の本質論や教育への公権力不介入の原則についての判断も欠けている。
さらには,近時の最高裁判決が関心を持ち始めている,国際的な条約や国際機関の日本への勧告等を論拠とする主張についてもこれまでの同種事案についての判決は無視を続けている。本件では,これらの諸点について十分な主張と挙証を尽くすことになる。とりわけ後述の最近ユネスコとILOの合同委員会であるCEARTが日本政府に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を是正するよう発出した勧告を援用しての主張は初めてのものである。
貴裁判所には,十分に耳を傾けていただきたい。
4 人権保障の国際水準は,国旗・国歌の強制を認めない
(1) 2019年,国際機関から,国歌起立斉唱の強制の是正を求める勧告が出された。
ILO(国際労働機関)とUNESCO(国際連合教育科学文化機関)は,式典の国歌斉唱時に,職務命令に従って起立斉唱できない教員に懲戒処分を課している日本の現状について是正を求める勧告(以下「CEART勧告」という。)を採択して,公表した。
CEART勧告は,CEART(ILO/UNESCO教職員勧告適用合同専門家委員会)が,2018年に採択した勧告であるが,翌2019年に,ILOとUNESCOで,それぞれ正式に承認され,公表されるに至ったものである。
日本における卒業式等における起立斉唱の強制について,国際機関から,是正を求める具体的な勧告が採択されたのは初めてのことである。
(2) CEART勧告は,起立斉唱の強制が,個人の価値観や意見を侵害するおそれがあることを指摘するが,そのことだけで是正勧告を行ったものではない。
勧告は,式典において,教員には,職務を誠実に遂行する義務があるとし,また,式典において国歌斉唱を行うことが,教育的意義を有する可能性をも指摘する。
しかし,強制をすることについては,一線を画す。
CEART勧告は,愛国的な行為が肯定的なものになるのは,それが自発的に行われた場合であることを指摘し,強制は民主主義とは相容れないことを指摘する。
そして,職務中の教員の義務や,国歌起立斉唱の教育的意義を踏まえても,起立斉唱命令を静かに拒否する「不服従の行為」が,市民的権利として認められることを明らかにした。その上で,日本政府に対し,「不服従の行為」に対する懲戒処分を避けるために,教員団体と対話することなどを求めたのである。
(3) 今回採択されたCEART勧告から,以下のことが導き出せる。
「人権保障の国際水準,もしくは国際社会が考える民主主義社会のあるべき姿からすれば,職務中の教員が,式典で国歌の起立斉唱を命ずる職務命令を発出されても、それを静かに拒否することは,市民的権利として保障され,その『不服従の行為』に対して懲戒処分を課すことは許されない。」
本件では,この事実を踏まえ,判断がなされなければならない。
5 貴裁判所の責務
いうまでもなく,憲法の命じるところに従って行政の非違を糺し,憲法の理念を実現することこそが,司法本来の役割である。司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで,結果として人権の侵害に手を貸すようなことがあってはならない。
原告らは,その司法本来の役割に期待して,毀損された「人間としての尊厳」を回復すべく,本件提訴に及んでいる。この切実な原告らの願いに真摯に向きあった,貴裁判所の審理と判決を望むものである。
(2021年7月28日)
昨日(7月27日・火)のコロナ新規感染確認者数が衝撃的だった。東京2848人、全国7629人である。神奈川758、大阪741という人数にも驚かざるを得ない。正直、背筋が寒くなる。かけっこだの、ボール投げなどに興じているときではあるまい。
4連休明けという特殊な事情はあるのかも知れないが、東京の7日間平均は1732.6人で前週の149.4%だという。一週間ごとに5割増。これは恐ろしい。来週の火曜日、8月3日には東京は4000人を超え、全国では1万人を超えることを示唆している。他にも原因はあろうが、オリンピックの開催が裏目に出たことは間違いない。
この事態に最高責任者である菅義偉、さぞや肝を冷やしているだろうと思いきや、さにあらず。まるで他人ごと。どこ吹く風の趣き。前任者もそうだったが、下々の心情が分からない。分かろうともしないのだ。
首相官邸のホームページに、昨日の「東京都の新規感染者数が過去最多となったこと等についての会見」が掲載されている。その全文を掲出して、これにコメントさせていただく。
https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2021/0727kaiken.html
「先ほど関係閣僚で会談いたしました。東京都で新規感染者が、今言われましたように過去最高ということで、また全国的にも増え続けております。」
菅さんよ。真っ先に、「専門家の皆様」の意見を聞かなきゃならないんじゃないの。今回は都合が悪いからスルーなのかね。そして、《新規感染者過去最高》とサラリと言ってるが、その危機感が伝わってこない。この事態を招いたについての責任の重みが感じられない。国民の命を預かる者としての自覚に欠けているよ。
「東京都によれば、感染者のうち65歳以上の高齢者の割合というのは2パーセント台ということです。そして、30代以下が約7割を占めているということであります。一方40代、50代の方の中で入院が増えており、デルタ株の割合も急速に増加しており、まずは4連休を含めて、人流も含めて分析していくことにしました。」
そんなことは、誰もが分かっている。菅さんよ、まずはこの事態の深刻さを国民に理解してもらい、その原因を指摘し、具体的な対策を国民に語りかけて協力を求める、それがあなたの仕事だろう。はあ? 「これから分析をしていく」? これまで何にもしてこなかったってわけ?
「さらに、各自治体と連携しながら、強い警戒感をもって感染防止に当たっていく。そして、重症化リスクを7割減らす新たな治療薬を、政府で確保しておりますので、この薬について、これから徹底して使用していくことも確認いたしました。」
菅さんよ、あんたの話は頼りない。「各自治体と連携しながら、強い警戒感をもって感染防止に当たっていく」って、これまでもやって来たことだろう。それでもこれまでの感染防止策のどこに穴があったのか、これからどうあらためるのか、もっと具体性のある話を聞きたいんだよ。これじゃ、まったくだめだろう。
菅さんよ、あなたがこの事態で語るべきは感染防止策だったが、それについては語ることなく、語ったのは治療薬についてであった。7月19日に特別承認となった抗体カクテル療法のことではあろうが、あなたの説明はワクチン同様、具体性・透明性を欠くこと甚だしい。しかも、「治療薬は確保したから、国民は安心してよい」と聞こえる。危機意識が伝わってこないんだ。
「いずれにしろ、こうした状況の中で、改めて国民の皆さんにおかれましては、不要不急の外出は避けていただいて、オリンピック・パラリンピックについてはテレビ等で観戦してほしいと思っています。」
何というおざなりな、通り一遍で紋切りの、心に響かぬ呼びかけ。聖火リレーにこだわり、ブルーインパルスを飛ばして密を作ったのはいったい誰なんだ。子どもたちをオリパラに動員しようとしているのは誰なのか。外出せざるを得ない多くの人の存在について本当に知らないのではないだろうか。
「(北海道からのまん延防止等重点措置の適用要請について)
まず、酒類の提供、そうしたこと、やるべきことをしっかりやってほしいと思っています。」
北海道の皆さん、これが菅義偉政権の北海道に対する姿勢だということを肝に銘じましょう。道民の生活や思いに寄り添うところが、カケラもない。
「(オリンピックをこのまま続けるのかについて)
まず、車の制限であるとか、テレワーク、そして正に、皆さんのおかげさまによりまして、人流は減少していますので、そうした心配はないと思っています。」
「オリンピックをこのまま続けるのか」という質問に対する「そうした心配はないと思っています。」って、そりゃいったい何なのだ。IOCや東京都が、「オリンピックをこのまま続ける心配はない」ということなら分かるけど、菅さんよ、あんたの頭の中は「オリンピックを続けられるかどうかの心配」しかないんじゃないの。
それに菅さんよ、「人流の減少」はそりゃないよ。そりゃ明らかなウソだろう。安倍晋三の嘘には、慣れて驚かなくなったが、あんたも相当なウソつきなんだ。この4連休、イヤな言葉だが、「人流」の増加が話題になっていたではないか。首相たる者(だったよね)が、報道を否定して「人流」の減少をいうのだ。根拠を示さなければダメだろう。
「(「黒い雨」訴訟の談話について)
まずは今回の裁判の判決に対して、政府の対応を決めさせていただきました。また長崎については、その後の裁判等の行方もありますので、そうしたことをまず見守っていきたいと思っています。」
菅さん、動機はともかく、これはあなたの英断だ。よいことだってできるじゃないの。よいことすれば、気持がよいでしよう。この気持を忘れないで。
やっぱり、政権の支持率は低い方がよいよね。いつも選挙間近というのもよい。つまりは権力が世論を気にせざるを得ない状況が重要なんだ。菅さんよ、無理に上告させていたら、内閣支持率は20%を割り、次の選挙では自民党惨敗だよ。
まずは、広島の被曝者救済だが、次は長崎だ。そして、ビキニ水爆実験の被曝者も、3・11フクシマ原発事故の被曝者も救済しなけりゃね。
「(オリンピックを中止する選択肢はあるのかについて)
人流も減っていますし、そこはありません。」
またまたご冗談の「人流の減少」。自信をもって言えば言うほど、引っ込み付かなくなるんだよ。反面教師・安倍晋三から学んでいないのかね。
なお、本日発表の感染確認者数は、東京で3177人、そして全国では9576人。もう、運動会などやってる場合じゃないだろう。
(2021年7月27日)
昨日(7月26日)の毎日新聞8面に、青島顕記者の[NHK経営委の議事録]についての解説記事。「全面開示まで2年も」「第三者機関答申 一時ほご」の見出しが付けられている。「ほご」は、「反故(ないし反古)」のこと。NHK経営委は、NHKが自ら定めた情報公開制度における第三者機関からの全面開示答申を一時は反故にした。そのため、問題の議事録がようやく公開されるまで2年もかかったという内容。
https://mainichi.jp/articles/20210726/ddm/004/040/023000c
私の確信するところでは、経営委員会に議事録公開の決断をさせたものは、本年4月における「不開示の場合には提訴」を予め宣言しての市民100名余による文書開示請求であり、6月の文書開示請求訴訟の提起である。残念ながら、毎日記事はこの点についての言及がない。
とは言え、この毎日記事は、(NHKというよりは)経営委員会の隠蔽体質と情報公開制度への無理解を鋭く批判する内容になっている。この件の報道については当紙(毎日)が先鞭をつけてきたとの自負が前面に出て微笑ましいが、毎日の功績は誰もが認める立派なもの。
この記事を読んであらためて思う。行政文書の開示請求への拒絶が問題となるのは、文書の公開を不都合とする行政当局者の姿勢の故である。結局のところ、公開を不都合とする行政の実態があり、これを隠蔽しなければならないからなのだ。国民の目の届かないところで、国民に知られては困る行政が進められていることが根本の問題なのだ。
情報公開とは、国民の利益のために行政に不都合な情報の公開を強制する制度である。この制度の改善と活用は、行政の透明性を高め、歪んだ密室行政を是正するために不可欠である。
NHK(日本放送協会)は行政機関ではなく、「独立行政法人等情報公開法」の適用対象となる「独立行政法人等」にも該当しない。しかし、情報公開法に倣った情報公開制度を自ら作っている。その制度の趣旨は、情報公開法と変わるところはない。「視聴者・国民の目の届かないところで、視聴者・国民に知られては困るようなNHKの運営が行われないように、NHK経営委や執行部に不都合な情報の公開を強制する制度である。この制度の進展と活用は、NHK運営の透明性を高め、歪んだNHK運営を是正する」ことにつながる。
この点を、毎日記事は、NPO法人情報公開クリアリングハウス三木由希子理事長の次のコメントを引いて批判してしている。まったくそのとおりと思う。
「(行政であろうと、独法であろうと、またNHKであろうとも)公共性のある組織の情報公開のあり方を、経営委は理解できていなかった。それが問題の根本にある」
さらに、毎日記事が批判の対象としたのが、今月8日、経営委が問題の議事録を全面開示を前にホームページに発表した下記の見解。
「18年当時の経営委での非公表を前提としたやりとりが、経営委のあずかり知らぬところで、マスコミに報じられたことは大変遺憾。ガバナンスの基本である情報管理の徹底に向けて、更なる機密保持の強化を検討する」
ここでいう「マスコミ」が毎日を指すことは周知の事実。毎日が、黙っておられるはずはない。経営委の「ガバナンスの基本である情報管理の徹底に向けて、更なる機密保持の強化を検討する」は、本来漏れてはならない個人情報等についていうべきこと。公表すべきにもかかわらず隠蔽を批判された文書について、開き直っての「機密保持強化宣言」は、「文書隠蔽強化宣言」にほかならない。
この点について毎日記事は、次の三木由希子の批判のコメントを引用している。
「危険な考え方だ。知らされるべき公益性があれば報じるのが報道機関の役割だ。『機密保持の強化』は単なる隠蔽工作の強化にならざるを得ない」
NHK経営委員会は、追い詰められて渋々と、隠したかった議事録を公開した。しかし、その土壇場でのこの悪あがきである。はっきりしていることは、経営委員会は情報公開制度の趣旨をまったく理解していないことである。この会議の当時も、そして今にしてなお、である。
(2021年7月26日)
私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。
手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。
その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。
おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。
今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。
戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。
オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
(2021年7月25日)
私は小学2年生から4年生までを、清水市立駒越小学校に通った。戦後間もなくの1951年4月から54年3月までのこと。この地は富士がよく見え、三保の松原にほど近い風光明媚なところ。当時は田舎で、周囲は農村と漁村の入りまじった土地柄だった。その小学校の秋の運動会が一大行事として印象に残っている。校内行事の規模を超えて、地域行事となっていた。
運動会プログラムの最後が、地区対抗のリレーだった。確か、それぞれの地区が、1年生から6年生まで各学年の男女1名ずつを選手とする計12名のチームを作る。そのリレー競走が異様に盛り上がる。
何チームができたのかは覚えていない。増村(ぞうむら)、蛇塚(へびづか)、折戸(おりど)、駒越(こまごえ)等々の村落ナショナリズムが実に強固なのだ。運動会が近づくと、どこの地区はもう選手を決めた。特訓をやっているそうだ、という噂が伝わってくる。
この学校に通う、地元民でない2グループがあった。一つは、近所にあった東海大学の教職員宿舎の子どもたちで、「官舎の子」と呼ばれていた。もう一つが、私のような宗教団体の寄宿舎から通う、1学年15人ほどの子どもたち。宗教団体の名から「PLの子」と呼ばれていた。「官舎の子」も「PLの子」も、勉強はできて行儀がよく標準語を話す子どもたちだったが、地元の子どもたちには腕力で敵わず、運動能力も遙かに劣っていた。だから、もちろん尊敬される存在ではありえない。このグループもリレーのチームを作ったが、常に最下位を争っていた。通例、文武は両立しがたいのだ。
この最下位2チームを除いてのことだが、各チームのリレー選手に選ばれるとたいへんなプレッシャーが掛かることになる。各村落の期待を背負って、勝てば褒めそやされるが、負ければ針のムシロなのだ。リレーの勝敗には、各地区の名誉がかかっている。子どもたちが、地区の名誉のために、懸命に走るのだ。和気藹々なんてものではない、村落間の対抗意識のトゲトゲしさが印象に残る。その対抗意識のなかでの子どもたちの痛々しい姿。
もしかしたら、あの小学校のリレーが、私のスポーツ観の原点なのかも知れない。アスリートとは痛々しいもの。対抗意識で分断された部分社会を代表して、その名誉を賭けての代理戦争の選手となる者なのだ。勝てば褒めそやされるが、負ければ惨めな針のムシロの哀れな存在。
子どもたちはクラス対抗では盛り上がらない。クラスは、便宜的に区分されたに過ぎず、来年にはクラス編成は変わる。クラスに対する帰属意識は育たない。クラス・ナショナリズムは成立しないのだ。しかし、クラスを横断した村落ナショナリズムは確実に存在した。それぞれが、そこで生まれ育ち将来も生き続けなければならない村落へのアイデンティティを強固にもっていた。
地区対抗リレーでは、子どもたちが自分のためでなく、村落ナショナリズムを背負って、村落共同体の代表として走った。だから、各村落共同体がこぞって声援を送り、子どもたちは懸命に痛々しく走ったのだ。おそらくこのリレーは、普段は意識しない各村落間の対抗意識を顕在化させ煽るものであったろう。
スポーツは競技と切り離しては成立しない。競技は競争の相手方を必要とするだけでなく、自分の属する集団の名誉や経済的利益を賭して行われる。学校の名誉のために、職場対抗の選手として、地域を代表して、さらには国家のために競技をすることになる。これは、単位社会間の代理戦争である。そのゆえに、大いに盛り上がることにはなるが、選手本人には限りない重圧が掛かることになる。当然に押し潰される人も出て来る。
前回1964年東京オリンピック開催時には、私は大学2年生だった。アルバイトに明け暮れていた私には競技に関心をもつほどの暇はなく、テレビも持っていなかったから、騒々しさ以外には感動も印象も残っていない。ただ、陸上競技でのたった一人の日本人メダリスト円谷幸吉が、その後に傷ましい自殺を遂げたことから、この人についての記憶だけが鮮明に再構成されている。
次のオリンピックには金メダルを。そのような国民の期待に応えようとした律儀な自衛官は、68年メキシコオリンピックの年の1月、頸動脈を切って凄惨な自殺を遂げた。当時27歳、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残してのこと。
この事件は衝撃だった。国家の名誉と期待を背負わされた青年がその重みに耐えかねて、その重圧から逃れるための自殺。国家とは国民とは、そしてナショナリズムとは何と残酷なものだとあらためて知った。加えて、アスリートを押し潰すオリンピックというイベントの非人間性も印象に残った。
円谷の精神の中では、国家や国民という存在が限りなく大きく重いものであったのだろう。卑小な自分は、国家や国民の期待に応えなければならないとする生真面目な倫理観があったに違いない。それが達成できなくなったときには、自分の生存自体を否定せざるを得なかったのだ。自我も主体の確立もない、ただ国家のために走らされる哀れなアスリートの悲劇である。
駒越小学校では、あの村落対抗リレーはまだ存続しているのだろうか。一昨日から始まったTOKYO2020では、まだ無数の円谷が競技をしているのではないだろうか。
(2021年7月24日)
パンデミック下の東京オリンピックの開会強行は、1941年12月8日の開戦に似ているのではないか。あの日醒めた眼をもっていた国民の気持を擬似体験している印象がある。国家というものは、ホントにやっちゃうんだ。ブレーキ効かずに突っ込んじゃう。反対しても止められない。いったい何が、本当に国家というものを動かしているのだろうか。
昨日(7月23日)は、違和感だらけ。まずは、ブルーインパルスの演技に大きな違和感がある。あれは、戦闘機だ。戦争を想定して有事に人殺しを目的とする兵器ではないか。オリンピックが平和の祭典とすればその対極にあるもの。本来、人前に出せるものではない。
ブルーインパルス飛行を見物に集まる人に、さらなる違和感。「感動した」などと口にする感性を疑う。「オリンピック開催を強行すれば空気は変わる」と、愚かな為政者にうそぶかせる国民も確かにいるのだ。それが、この国の現状を支える主権者の一面なのだ。決して、多数派だとは思わないが。
「日の丸」掲げて「君が代」歌っての開会式に違和感。私は、開会式など観てはいないが、ナショナリズム涵養の舞台となったようだ。これからは、各国対抗のメダル獲得競争が展開される。これがオリンピックやりたい連中の狙いの本音。オリンピックやらせたくない派の反対理由でもある。
本日の毎日新聞「余録」の書き出しが、「表彰式における国旗と国歌をやめてはどうか」。1964年東京五輪開幕日の毎日社説の一節であるという。こうなれば、私の違和感も、払拭されることになる。しかし、各紙、今やそんな社説を書く雰囲気ではない。
余録は、こう続けている。「元々、国家の枠を超えて国際主義を体現しようとしたのがオリンピック運動の原点だ。68年メキシコ五輪時のIOC総会では廃止に賛成が34票で反対の22票を上回ったが、採択に必要な3分の2に届かず、否決された▲その後、旧ソ連など共産圏が反対の姿勢を強めたこともあり、廃止論は姿を消す。むしろ五輪を国威発揚に結びつけることを当然と考える国が増えた。ナショナリズムの容認が五輪の商業主義や巨大イベント化を支えてきたともいえる」
さらなる違和感が、菅義偉・小池百合子の天皇に対する態度を非礼と非難する一部の論調である。天皇が開会宣言のために起立しているのに、菅・小池が直ちに起立せず遅れての起立を「不敬」とする復古主義者からの攻撃に、国際的なマナーに反するという鼻持ちならない「国際派」からの批判が重なる。そのどれもが、天皇に権威をもたせることを自分の利益と考える連中の、とるに足りないたわ言。
オリンピック憲章の大部分は、常識的な文言を連ねたものだ。たとえば、次の一節。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
天皇とは、この憲章の一節における「社会的な出身、出自やその他の身分などの理由による、差別」の典型であり、身分差別の象徴にほかならない。貴あるからこその賤である。天皇の存在が日本の差別を支えている。「いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」とするオリンピック開会式の場で、身分差別の象徴である天皇への敬意を当然としてはならない。差別の象徴である天皇への敬意が足りないと非難される筋合いはない。
開会式のニュースで少し心和んだのは、「オリンピックはいらない」「東京五輪を中止せよ」「オリンピックより国民の命を大切に」などのデモの声が、競技場内にも届いたという。開会式の場は、別世界ではないのだ。
何よりも気になることは、今朝の各紙を見ると、緊急事態宣言下の東京であることが忘れられたような雰囲気であること。昨日の東京の人出は多かったようだ。オリンピック開会の強行は、反対論者が予想したとおりとなった。しかし、そのことによる感染拡大への影響の有無は、2週間ほども先にならないと分からない。
1941年12月8日の開戦は、多くの人の人命を奪い国を滅ぼした。2021年7月23日が、これと並ぶ禍々しい日とならないことを願うばかり。
(2021年7月23日)
昨日(7月22日)、毎日新聞(デジタル)が久々にDHCを記事にした。東京オリンピック直前のタイミングに、いま日本が直面している数々の問題を考えさせる恰好の素材を提供するものとなっている。
DHC・吉田嘉明の、ヘイト体質・独善性・時代錯誤・無反省・卑怯・姑息・批判者への攻撃性・非寛容性等々の姿勢については、これまで繰り返し指摘してきた。その多くの問題が、東京オリンピック開会直前に批判の対象となった差別・イジメ・無反省・時代錯誤・グローバルスタンダードに重なるのだ。DHC・吉田嘉明、いつもながらの反面教師ぶりである。
毎日新聞記事のタイトルが、「ヘイト声明のDHCが『マル秘』謝罪文 提出先には非公開を要求」というものである。この見出しが私には感無量である。天下の毎日が見出しに、何の遠慮もなく、「ヘイトのDHC」と書くようになった。「ヘイト」と「DHC」が何の違和感もなく自然な結びつきになっている。さらに、「『マル秘』謝罪文」「提出先には非公開を要求」と、躊躇も萎縮もなくDHCのみっともなさを追求している。確実にDHCは追い詰められているのだ。そして、その背後にはヘイトの言動に厳しい世論の高揚がある。
DHC批判は、DHCや吉田嘉明に対する批判を超えて、DHCを支える取引企業や取引金融機関、連携する自治体へと拡がりつつある。つまりは社会的な反ヘイトの包囲網を作ろうという反ヘイト市民運動のレベルアップである。これは、注目すべき動向ではないか。
毎日新聞は、DHCとの連携自治体に関しては、情報公開制度を活用することで、DHCや自治体の反ヘイトの本気度や交渉経過を明らかにしようと思い立ったのだ。その機敏さに敬意を表したい。
毎日新聞は、DHCと協定を結ぶ自治体に情報公開請求し、DHCが提出した文書などがあれば明らかにするよう求めた。「文書は存在しない」と答えた自治体もあったが、茨城県守谷市や北海道長沼町など4市町がA4判の文書計約70枚の公開を得たという。そのようにして得た開示情報に基づく結論を毎日はこう纏めている。
「DHCがホームページに在日コリアンを差別する文章を掲載した問題で、DHCは非を認めて謝罪する文書を、協定を結ぶ自治体に水面下で提出していた。しかし、DHCは公式の謝罪や説明を避けており、謝罪文を渡した自治体にも文書の非公開を要求している。」
なるほど、さもありなん。いかにも、DHC・吉田嘉明の手口である。彼の謝罪は真摯なものではない。しかも覚悟あっての行動ではないから、陰でこそこそという姑息でみみっちいことになる。DHC・吉田嘉明の辞書には、信念の二文字はない。だから、やることが情けなくてみっともなく、正々堂々の片鱗もない。
茨城県守谷市が開示した資料には、6月9日にDHC地域健康サポート局の担当者が市役所を訪れ、松丸修久(のぶひさ)市長らに経緯を説明した際の記録がある。それによると、担当者は「人権に関わる不適切な内容の文章の非を認め、発言を撤回しました」「同様の行為を繰り返さないことをお誓い申し上げます」などと謝罪する文書を提出。「会長は、思ったよりも波紋が広がったことについて反省している。個人の意見を聞いてほしいという気持ちがあったようだ」と釈明した。
その上で、公式な謝罪や説明には消極的な姿勢を示した。守谷市に対して「(文章を)削除した経緯等の説明文をHPに載せることはしない」「問い合わせには全てノーコメントで対応する」と説明。市に渡した謝罪文も「内容はマスコミに説明いただいてよいが、文書としての開示はしないでほしい」と求め、文書に社印も押さなかった。
守谷市はその後、これらの文書について「市民への説明責任を果たせない」と不十分な点を指摘。会社の説明であることを明確にするため社印を押すことや、再発防止に向けた具体策を記載することなどをメールで求めた。しかしDHCの担当者は「文書が新たな批判や問題を呼ぶことは避けたい」として拒んだ。
東京オリンピック組織委の幹部スタッフとして任を解かれた、森・佐々木・小田山・小林らは、いずれも自分の精神の根幹にある差別意識や個人の尊厳への無理解に真摯に向き合い、これを克服しようとの誠実さをもたない。彼らは、いまだに真に自らを省みることはなかろう。この点で、DHC・吉田嘉明と軌を一にする。
吉田嘉明の精神の根幹に染みついた差別意識である。その不当、理不尽を如何に説こうとも、理解を得て矯正することはおそらく不可能であろう。しかし、この社会はヘイトの言動を許さず、ヘイトには制裁が伴うということを身に沁みて分からせることは可能である。
彼が、ヘイトの姿勢を固執すれば世論に叩かれ、社員は肩身の狭い思いを余儀なくされる。DHCにまともな人材は枯渇することになるだろう。消費者による不買という手段の制裁が功を奏する段となれば、DHC・吉田嘉明はヘイトの表現が高く付くものであることを学ぶだろう。
森・佐々木・小田山・小林らは、世論からの厳しい糾弾に曝され、その任にとどまることができなかった。吉田嘉明はオーナーであるから職を失う恐れはない。DHC・吉田嘉明のヘイトを矯正するには、「世論・消費者」の行動によって、差別・ヘイトは社会から厳しい制裁を受けるものであることを思い知らせる以外にはないのだ。
(2021年7月22日)
東京オリンピック開会の前日である。なにか禍々しいことが押し寄せて来そうな不気味な雰囲気。
その不気味さの理由の第一は、コロナ蔓延の急拡大である。東京都の新型コロナの新規感染確認者数は本日1979人となった。先週木曜日比で671人の増である。本日までの7日間平均は1373.4人で、前の週の155.7%となる。なお、本日の全国での新規感染者数は5397人と5000人の大台を超えた。感染急拡大の真っ最中での開会式となる。祝祭の気分など出てくるはずもない。今なら、まだ中止にできる。
不気味さの理由の第二は、開会式開始まで40時間を切っての幹部スタッフの解任劇である。開閉会式のディレクター・小林賢太郎の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というコントに批判が集中しての解任。また、また、なのだ。これは深刻である。「何度も繰り返される光景に、現場は冷め切っている」(朝日)のは当然だろう。関係者の祝賀の気分もやる気も失せて当然。今なら、まだ中止にできる。
イジメ虐待吹聴の小山田や、ホロコーストごっこの小林は、本来は汚れた五輪に似つかわしい。居座ってもらった方が、オリンピックの何たるかが分かり易く、教訓的である。そのような汚れた場に出席することが、自らのイメージダウンにつながると思うのがノーマルな判断。欠席表明者が相次いでいる。
NHKの報じるところでは、「オリンピック開会式 スポンサー企業の3分の2が欠席」だという。高いカネを出してスポンサー企業となってはみたものの、この禍々しい東京五輪と親しいことは、却って明白な負のイメージなのだ。
NHKが、明日の東京オリンピック開会式に出席が認められているスポンサー企業78社に対応を取材したところ、回答した55社のうち37社(67%)が会社関係者は出席しないと答えたという。出席すると答えた企業は12社で、このうちトップが参加するのは、わずか1社。徹底的に嫌われた、イメージ最悪のオリンピックなのだ。
出席しない各社が理由をこう述べている。
アサヒビール 「感染拡大の状況や東京会場における無観客開催が決定したことを踏まえた」
東京ガス 「安心・安全な大会を開催するという組織委員会の方針に従い、連携、サポートしていくため」
表向きの理由は無観客の開会式に特権者ヅラでの出席はブランドイメージに傷が付くというだけのものだが、その裏には東京五輪のイメージの悪さがしっかりとある。
一方、「出席する」と回答したのは21%にあたる12社で、6社が未定。出席者については、会社のトップと答えたのは1社にとどまり、幹部クラスが2社。また7社は提供した物品の確認や運営の記録のために現場レベルの担当者を派遣すると答えている。
また、経団連、日本商工会議所、経済同友会の経済3団体トップが、そろって欠席するほか、各国の要人の中でも出席を見合わせるケースが相次いでいる。政治家もしかり。確実に史上人気最低のオリンピックである。
天皇(徳仁)には、このオリンピックへの出席の是非を語る自由は一切ない。大衆からの対天皇人気を気にする守旧派は、こんなオリンピックの開会式に天皇を出席させたくはないのだろうが、菅政権は天皇に出席と開会宣言の朗読を指示している。天皇と東京オリンピックが似つかわしかろうとそうでなかろうと、天皇の出席と開会宣言の朗読が、天皇や皇室のイメージにどのような影響を与えようと、天皇(徳仁)に内閣の指示を拒否する裁量の余地は一切ない。
さて、明日はどうなるのだろうか。コロナの拡大と医療の逼迫はどこまで進展するのだろうか。まさかとは思うが、スタッフの解任はさらに続くことにはならないか。開会式への出席者はさらにどれだけ減ることになるだろうか。なにか禍々しいことが押し寄せて来はしないだろうか。そんな不気味な前夜である。