澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

オリンピックが涵養するナショナリズム

(2021年7月26日)
 私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。

 手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。

 その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。

 おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。

 今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。

 戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。

 オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
 

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