1954年3月1日に、アメリカがマーシャル群島ビキニ環礁でブラボーと名付けられた水爆を爆発させた。広島型原爆の1000倍の威力を持つ恐るべき破壊力。直径4キロの巨大なクレーターは、膨大な量の珊瑚が砕けて飛び散った跡だ。この砕け散った珊瑚片は大空へ舞い上がり、やがて高線量放射能の「死の灰」となって広範な海域に降り注いだ。第五福竜丸乗組員23人は、爆心地から160キロの海上で死の灰を被って被曝した。原爆に続いて水爆についても日本の国民が被害者となったのだ。この「負の大事件」「負の日」を忘れてはならないとするのが「3・1ビキニデー」。
被爆した木造マグロ船第五福竜丸は、美濃部都政の時代に東京の夢の島に展示館を得て船体が保存され、多くの来館者に「この悲劇を忘れるな、繰り返すな。核を根絶せよ」と訴え続けている。
この展示館建設実現は、国民的な原水爆禁止運動の高揚と革新都政の成果である。これを支える世論があって、石原都政の時代を経て展示館は健在である。年間来館者は約12万人。ビキニの悲劇と、その後の国民運動の歴史を語る船体展示は、平和と核廃絶を願う世論を喚起し続けている。
第五福竜丸の船体と展示館の所有権は東京都にある。東京都から委託を受けて、船体の保存と展示の業務をおこなっているのが、公益財団法人第五福竜丸平和協会(川崎昭一郎会長)。船体の展示だけでなく、原水爆被害の諸資料を収集・保管・展示して、「広く国民の核兵器禁止・平和思想の育成に寄与すること」を目的としている。私は、その監事(会社の監査役に相当)の任にある。
核の廃絶が協会に集う者の願い。核兵器だけでなく、原子力発電の「核のゴミ」による被ばくの被害も廃絶しなければならない。ウランの採掘から、原発稼働や再処理、そして廃炉まで、あらゆる過程における被ばくの根絶が課題として意識されつつある。
第五福竜丸の展示を中心とする平和運動は、多くの市民と市民団体に支えられている。が、課題の大きさに比較して、財政基盤も運動参加者も十分な規模とは言えない。是非、この平和運動にご参加、ご協力を御願いしたい。
まずは夢の島の展示館を訪問いただきたい。有楽町線・京葉線の新木場駅から徒歩10分。もちろん無料である。ボランティアの説明員は親切で、水準が高い。子ども連れの散歩にもよい。展示内容は年2回は変更になっている。
それだけでなく、「第五福竜丸の平和を目ざす航海」と財団の活動を支える「賛助会員」になっていただくようお願いしたい。
年会費個人5千円、団体1万円。賛助会員には、「福竜丸だより」が定期的に届けられるほか、各地で行われる催し物のご連絡をする。また、「福竜丸だより」購読だけの「ニュース会員」であれば年2千円。
その会費納入の継続が、平和と核廃絶、そして脱原発にも生きることになる。詳しくは、下記URLをご参照いただきたい。
http://d5f.org/
http://d5f.org/kyoukai.htm
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いま、第五福竜丸展示館の展示内容は、ゴジラである。「ゴジラと福竜丸?想像力と現実」というもの。期間は3月22日(日)まで。もちろん、入館料は一切無料、是非お見逃しなく。
以下は、企画の趣旨についてのメッセージである。
国民的人気怪獣、ゴジラが誕生したのは1954年のこと。この年の3月1日、巨大水爆実験により第五福竜丸が被ばく、乗組員は放射線障害に、たくさんの漁船が原子マグロを水揚げし、放射能の雨が全国に降りそそいだ。
そんな中で着想されたのが、核実験により呼び覚まされた太古の怪獣ゴジラ。それは人間に襲いかかり破壊の限りをつくす。吐き出す霧は放射能・・・ゴジラは水爆の化身、ヒトは自らつくり出した破壊の極地ともいうべき核爆弾で滅びるのであろうか・・・。
しかし人びとは声をあげ、水爆実験中止、原水爆反対は世界にひろがった。
かねてから第五福竜丸展示館でゴジラに関する企画をおこないたいと思ってきた。1954年そして2011年が私たちに問いかけるものは・・・画家であり、武蔵野美術大学教授の長沢秀之氏が学生たちと取り組んだ「大きいゴジラ、小さいゴジラ」作品を展示していただく機会を得た。第五福竜丸とゴジラ作品をとおして、今に生きる私たちの「現実と想像力」はどのように広げられていくのだろう。第五福竜丸の被ばく60年最後の企画展とヒロシマ・ナガサキから70年の最初の企画展となる。
■主な展示作品
大きいゴジラ小さいゴジラ、レインボーゴジラ、ゴジラの目、尻尾、腕、着ぐるみ、ぶらりんゴジラ、フィルムとしてのゴジラ、小さいゴジラとRマーク、日常のゴジラ、ビデオインスタレーション・ゴジラ
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協会は、毎年3月1日の前後に記念のイベントをおこなう。ビキニ被爆から60周年に当る昨年は大規模な記念講演・演奏会をおこなった。今年の「記念のつどい」は、坂田雅子監督の最新作ドキュメンタリー映画「わたしの、終わらない旅」を一般公開に先駆けて特別先行上映の企画。そして、映画の後に、同監督と世界の核被害地を写し続けてきたフォトジャーナリスト豊?博光氏との対談がおこなわれた。
なお、「わたしの、終わらない旅」の一般公開スケジュールは以下のとおりである。
3月7日(土)?3月27日(金)場所:ポレポレ東中野(中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下)
上映時間:10:30?/12:30?
◎期間中、「核をめぐる」トークイベント開催決定!
<全て10:30の回上映終了後>
3月7日(土)
加藤登紀子さん(歌手)×坂田雅子監督
「母から子へ いのちをつなぐメッセージ」
3月8日(日)
坂田雅子監督 舞台挨拶
3月10日(火)
鎌仲ひとみさん(映画監督)×坂田雅子監督
「福島第一原発の事故から4年を前に、いま伝えるべきこと」
3月14日(土)
後藤政志さん(元・原子力プラント設計者)×坂田雅子監督
「技術者の目から見た原発の安全性/危険性」
3月15日(日)
島田興生さん(写真家)×坂田雅子監督
「ビキニと福島 2つの土地を見つめて」
3月21日(土)
太田昌克さん(共同通信編集委員)
「日米核同盟 原爆、核の傘、フクシマ」
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「わたしの、終わらない旅」は、監督の母である坂田静子さんが遺した一冊の本の問いかけから始まる。静子さんは、1976頃から反原発の運動に深く関わるようになり、1977年5月に「聞いてください」というガリ版刷りのミニコミ誌第1号を発行。92年までの15年間に35号を重ねたという。これが、一冊の合本になって遺されている。なお、静子さんの反原発運動開始のきっかけは、次女雅子さんが、フランスのラ・アーグ核再処理施設の近くに住んで、核の被害への恐怖を語ったこと。
坂田雅子監督は、福島の被害を見つめ、母の遺した訴えを胸に、ラ・アーグ、マーシャル、カザフスタンと、核の被害に翻弄された人々の地を訪ねる。
「福島第一原発の事故がもたらした現実に心震えながら、今は亡き母が数十年前から続けていた反原発運動の意味に、改めて気づいた坂田。彼女は、母親と自身の2世代にわたる想いを胸に、兵器と原発という二面性を持つ核エネルギーの歴史を辿る旅に出る。フランスの核再処理施設の対岸の島に暮らす姉を訪ね、大規模な核実験が繰り返し行われたマーシャル諸島で故郷を追われた島の人々に出会い、そしてカザフスタンでは旧ソ連による核実験で汚染された大地で生きる人々をみつめる。」
私も、本日この映画を観たが、終盤に思いがけない場面に出くわした。
1995年の「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故をきっかけに、原子力委員会が広く国民の意見を聞くとして「原子力政策円卓会議」が開催された。坂田静子も招聘されて、意見陳述をしている。錚々たる肩書の学識経験者にまじって、おそらく一般人としては静子さんが一人だけ。
堂々とこう述べている。
「原子力発電が始まった頃は、原子力羊羹ができるほどの、バラ色の夢が描かれていたのですが、今は、マイナス面も明らかになってきているんですから、国策というものは、もうすっかり状況が違っていると思うんです。それで、原子力基本法、つまり国策を見直すべきではないでしょうか。国策も誤ることがあります。私たちの年代は身を以てそれを経験しました。ドイツは、原子力法を変えて、再処理と高速増殖炉から撤退しました。これから以後のこういう円卓会議は、ぜひ国策としての原子力推進は是か非かというテーマでやっていただきたいと思います。」
オヤと思ったのは、続いて画面は舛添要一(現都知事)の意見陳述をとらえている。20年前の舛添は、こう言っている。
「世界中の原子力発電所を見ても、『もんじゅ』の事故はありましたけど、日本の水準は、極めて安全性は高いし、よその国と比べて、それに携わっている人間の質もそれほどお粗末ではないと思っていますけれども、広東、フウチェン、それから韓国、フィリピン、台湾、いろいろなところでまさに建設ラッシュなんですけれども、その実態を見るとに、チェルノブイルと同じことが起こらない保証はない。こういうことに対する日本の援助ができないのかどうなのか。私は、チェルノブイルというのは、ウクライナですから、遠く離れたヨーロッパの出来事です。10年前にあった。その反省から、原子力サミットが4月にモスクワで行われたばかりですけれども、アジアでもう一遍ああいうことが起こったときに、おそらく日本の原子力発電は全部止めざるを得ないと思います。とても国民感情が許さない」
「アジアでもう一遍ああいうことが起こったときに、おそらく日本の原子力発電は全部止めざるを得ないと思います。とても国民感情が許さない。」まったく、そのとおりだよ、舛添君。アジアどころではない。日本で、「ああいうこと」つまりは、チェルノブイリ級の過酷事故が現実に起こったのだ。「日本の原子力発電は全部止めざるを得ない」「とても国民感情が許さない」のが、今の事態ではないか」
機会があったら、今でもこの通りに思っているのか確認してみたい。舛添さんという人、日本の原発の安全性を盲信していたことはともかく、国民感情の理解の点では、石原慎太郎とは違って案外まともな感覚の持ち主ではないか。
(2015年2月28日)
政治とカネについて疑惑が浮上すると、必ずこう繰り返されてきた。「些細なミス、訂正すれば済むことだ」「法的には問題ないが道義的責任を感じて辞任する」「疑惑を指摘されたカネは直ぐに返還したから、もう問題はない」。それで済まされたのでは民主主義が泣く。今国会で、もう一つのフレーズが付け加えられた。首相自身の言葉としてである。
「知っていたかどうかが重要な要件で、知らなかったから問題ない」というものだ。えっ? 我が耳を疑った。政治家がそんなことを言って開き直ってよいのか。ましてや疑惑の元締である安倍首相がそんなことを言って、批判の矢ぶすまにならないでおられるのか。この国はそれほど生温いのか。権力者に寛大なのか。信じがたい。
西川公也農相の辞任直後に、下村博文文科相の疑惑が浮上した。政治団体の無届け、そして無届け政治団体を通じてのヤミ献金の疑いである。しかも、政治資金規正法違反の疑惑だけでなく、政治資金収支報告書の記載から見えてくる「闇の勢力との黒い交際疑惑」などのスキャンダルが「教育行政をつかさどる責任者として、明らかに不適格」なのだ。しかし、ドミノ倒しになっては政権がもたないとばかりの必死の抵抗を続けている。
ところが、下村だけでなく、さらに望月義夫環境相、上川陽子法相にも疑惑の火がついた。この両名は、いずれも、補助金受領者からの献金を禁じた公職選挙法に違反するというもの。国からの補助金受領者からの政治家への献金は、「補助金受領にお骨折りいただいたことへの謝礼」と見られかねない。見方によっては、キックバックともとらえられかねない。だから、政治とカネとの汚い疑惑を断ちきり、カネに左右されない政治への信頼をゆるがせにしないための制度なのだ。
望月・上川の両閣僚は、この信頼を裏切った。世間はこう考えざるを得ない。「やはり、政治家にカネを渡している企業に補助金が行くんだ」「補助金をもらった企業は、やはり政治家に金を渡してお礼をし、次もよろしくと挨拶するのだ」と。
だから、安倍首相は、望月・上川の両閣僚と一緒に、政治の廉潔性への信頼を汚してたことに対して、深謝しなければならない。ところが、反省の弁を述べるどころか開き直って発したのが、「本人は知らなかったのだから、責任がない」「指摘されてわかったから直ぐカネは返した」「これで何の問題もない」というのだ。
改めて、政治資金規正法第1条を掲げておきたい。安倍晋三も下村博文も望月義夫も、そして法務大臣の立場にある上川陽子も、よくこの条文をかみしめるべきである。
第1条(目的) この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。
望月・上川両名の責任は、「寄附の質的制限」違反であり、その根拠条文は以下のとおりである。
第23条の3
第1項 国から補助金交付の決定を受けた会社その他の法人は、当該給付金の交付の決定の通知を受けた日から同日後1年を経過する日までの間、政治活動に関する寄附をしてはならない。
第6項 何人も、第1項の規定に違反してされる寄附であることを知りながら、これを受けてはならない。
第1項が企業に対する献金禁止規定であり、第6項が政治家の側に対する献金受領禁止規定である。違反に対する制裁は、両者とも「3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」となっている。
確かに、政治家を処罰するためには、「第1項の規定に違反してされる寄附であることを知りながら」という要件の充足が必要である。しかし、何よりも、問題は政治家の行為が犯罪として成立するかどうかではない。先に引用した政治資金規正法の趣旨に明記されているとおり、「政治活動の公明と公正を確保するために」「国民の不断の監視と批判の下に行われ」ことを最重要とするのが法の趣旨である。政治家は、犯罪構成要件の充足如何を問題としてたれりとする次元であってはならない。政治に対する国民の信頼を傷つけたことを謙虚に反省し謝罪しなければならないのだ。それでこそ、「民主政治の健全な発達」を期待することが可能となる。
なお、政治家が自分に政治献金してくれる企業の動向に無関心であることは考えにくい。しかも本件の場合、「鈴与」が受領した補助金の額は2件で合計2億円を超える巨額である。常識的には「知らなかったはずはない」として追及を受けて当然というべきだろう。安倍晋三流の弁護の仕方は強引に過ぎる。また、仮に本当に知らなかったとすれば、相手方企業だけに犯罪が成立してしまうことになる。そのような事態を作出したことにおいて、政治家としては失格と言うべきではないか。
予算委員会での追求の先頭に立っている民主党の諸議員は、よく調べて鋭く質問している。とりわけ、「下村大臣は教育を食い物にしていると言っていい」は、本質をよく衝いていて小気味よい。声援を送りたい。
それにしても、今次安倍内閣は政治とカネの疑惑まみれ。指を折れば、松島みどり・小渕優子・宮澤洋一・江渡聡徳・西川公也、そしてこれに加えて時の人となっている下村博文・望月義夫・上川陽子の3閣僚。「襟を正せ」「姿勢を改めよ」では言葉が足りない。やはり、「顔を洗って出直せ」というしかないのではないか。
(2015年2月27日)
道徳の教科化に関するパプコメが募集されている。3月5日(木)の締め切りが間近となった。是非、多くの方に意見を述べていただくよう、呼びかけたい。もちろん、教育本来のあり方を踏まえて、安倍政権や下村博文文科行政に明確なノーを突きつける意見をお願いしたい。
このパブコメは、行政手続法39条にもとづく意見聴取だが、相当に複雑で意見を述べにくいように工夫が凝らされている。そのためやや面倒ではあるが、負けずに意見を述べていただけるよう、以下に手順を説明し、私なりに内容についての意見を述べておきたい。
政府がおこなおうとしていることは、学習指導要領の改正(真の言葉の意味では改悪、以下「改定」という)である。学習指導要領とは、法律(学校教育法)の下位法規である省令(学校教育法施行規則)にもとづく、「文科大臣告示」という法形式。法律事項ではないから、国会の審議を経る必要がない。だから、パブコメが、国会の論戦に代わるものとして重要なのだ。国民の批判がないとして、易々と改正を許してはならない。
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《手続編》
まずは下記URLを開いていただきたい。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000740&Mode=0
「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等に関するパブリックコメント(意見公募手続)の実施について」という、パブコメ募集についての詳細解説ページが出て来る。落ち度なく、パプコメを提出するためには、これを熟読することが必要なのだが、このページの記載だけでは、何に対して、どのようなパブコメが求められているのかわからない。
ご面倒でも、下段の「関連情報」欄の5個のPDFファイルを開いてご覧いただく必要がある。できたら、プリントアウトしてじっくりとお読みするようお薦めする。
まずは、最初のPDFファイルが「意見公募要領」(全2頁)。
その第1頁に、「(改定)案の具体的内容」として、
(1)「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案等について(概要)」
(2)「小学校学習指導要領案」
(3)「中学校学習指導要領案」
(4)「特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案」を参照とある。
以上の(1)?(4)の資料が、あと4個のPDFファイルの内容となっている。
「意見公募要領」の第2頁に、求める意見の分類項目が???まで、書かれている。パブコメは一括しての意見ではなく、???までのどの分類に属する意見かを特定して提出する必要がある。その面倒さが、コメント提出の意欲を殺ぐものとなっているのだが、めげずにチャレンジしていただきたい。
1通の意見で1分野の意見を提出する。複数の分野についての意見を提出するには、それぞれの分野ごとに各1通の意見提出が必要になる。
???の分類は、「学校教育法施行規則の一部改正案(省令)」と「学習指導要領改定案」についてのもの。細かくは、以下のとおりである。
「第一」学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について
(その改定案の内容は前記「(1)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案について」
「第二」小学校・中学校学習指導要領案について
(その改定案の内容は前記「(2)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 第1章「総則」について
意見を求める事項? 第2章「各教科との関連」について
意見を求める事項? 第3章「特別の教科道徳」「第1目標」について
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
A 主として自分自身に関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
B 主として人との関わりに関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
C 主として集団や社会との関わりに関することについて
意見を求める事項? 第3章「第2 内容」の
D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関することについて
意見を求める事項?
第3章「第3 指導計画の作成と内容の取扱い」について
意見を求める事項? その他
「第三」特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
(改定案の内容は前記「(4)PDFファイル」に記載)
意見を求める事項? 特別支援学校小学部・中学部学習指導要領案について
意見を求める事項? 小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部
学習指導要領の特例を定める告示案について
「第四」意見を求める事項? その他
以上の???のどれに意見を述べるかを特定して、意見を書くことになるが、意見は???に集中することになるだろう。とりわけ?が重大ポイントだ。具体的な意見を作成するには、前記「(2)PDFファイル」を開かないと書けない。
もっとも問題となり得る、中学校学習指導要領・第3章「第2 内容」の「C 主として集団や社会との関わりに関することについて」の改定案は以下のとおり。
C 主として集団や社会との関わりに関すること
[遵法精神,公徳心]
法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。
[公正,公平,社会正義]
正義と公正さを重んじ,誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること。
[社会参画,公共の精神]
社会参画の意識と社会連帯の自覚を高め,公共の精神をもってよりよい社会の実現に努めること。
[勤労]
勤労の尊さや意義を理解し,将来の生き方について考えを深め,勤労を通じて社会に貢献すること。
[家族愛,家庭生活の充実]
父母,祖父母を敬愛し,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと。
[よりよい学校生活,集団生活の充実]
教師や学校の人々を敬愛し,学級や学校の一員としての自覚をもち,協力し合ってよりよい校風をつくるとともに,様々な集団の意義や集団の中での自分の役割と責任を自覚して集団生活の充実に努めること。
[郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度]
郷土の伝統と文化を大切にし,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め,地域社会の一員としての自覚をもって郷土を愛し,進んで郷土の発展に努めること。
[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに,日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努めること。
[国際理解,国際貢献]
世界の中の日本人としての自覚をもち,他国を尊重し,国際的視野に立って,世界の平和と人類の発展に寄与すること。
これに対する意見を、1000字以内で書いて、「意見提出フォーム」を利用して発信する。
意見提出フォームを利用しなくてもよい。
郵送は、〒100?8959 東京都千代田区霞が関3?2?2
文部科学省初等中等教育局教育課程課宛
FAX番号:03?6734?4900
電子メールアドレス:doutoku@mext.go.jp
なお、「判別のため、件名は【省令案等への意見】としてください。また、コンピュータウィルス対策のため、添付ファイルは開くことができません。必ずメール本文に御意見を御記入ください」と注文がなかなか細かい。
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《内容編ーその1》
道徳の教科化については、いろんな問題点が指摘されている。
私も、当ブログにいろいろ書いてきた。この機会に要点を再掲しておきたい。必ずしも、以前書いたとおりではない。
国家よりも社会よりも、「個人の尊厳」こそが根源的な憲法価値です。その尊厳ある個人の主体を形成する過程が教育です。公権力は、教育という個人の人格形成過程に国家公定の価値観をもって介入をしてはならない。これが当然の憲法原則であるはず。国民の価値観は多様でなければなりません。学校の教科として特定の「道徳」を子どもたちに教え込むことが許されるはずはありません。
とりわけ、多様な考え方が保障されなければならない国家・集団と個人との関係について、道徳の名の下に特定の価値観を公権力が子どもたちに刷り込むことには警戒を要します。
国家は、統御しやすい従順な国民の育成を望みます。「国が右といえば右。けっして左とは言わない人格」がお望みなのです。国民を主権者としてみるのではなく、被治者と見て、愛国心や愛郷心、社会の多数派に順応する精神の形成を望んでいるのです。このような、権力に好都合な価値観の注入が道徳教育の名をもって学校で行われることには反対せざるを得ません。
戦後民主主義の中で、道徳教育は、修身や教育勅語の復活に繋がるものとして忌避されてきました。それが、少しずつ、しかし着実に、復活しつつあります。かつて、学習指導要領における国旗国歌条項は、一歩一歩着実に改悪が進み、今や「日の丸・君が代」強制の時代を迎えています。今回の中教審答申も、その恐れが十分。道徳教育の在り方もこのような道を歩ませてはならないと思います。
旭川学テ最高裁大法廷判決は、到底十分な内容とは言えませんが、少なくとも真面目に教育というものに正面から向かい合って考えた内容をもっているとは思います。その判決理由では、教員を、教育専門職であるとともに良質の大人ととらえています。教育とは、そのような教員と子どもとの全人格的な触れあいによって成立する、「内面的な価値形成に関する文化的な営為」とされています。道徳についても、子どもに教科として教え込むのではなく、教師との触れあいのなかから子どもが自ずと学びとるものということでしょう。子どもは、教師からだけではなく、友だちとの触れあいのなかからも市民道徳を学び取っていくものと考えられます。基本的には、これで十分ではないでしょうか。
これを超えて、学校で教科として道徳を教え込むことの是非については、二つの極端な実践例を挙げることができます。そのひとつが戦前の天皇制国家において、臣民としての道徳を刷り込んだ教育勅語と修身による教科教育です。天皇制権力が、自らの望む国民像を精神の内奥にまで踏み込んで型にはめて作り上げようとした恐るべき典型事例と言えましょう。
もう一つが、コンドルセーの名とともに有名な、フランス革命後の共和国憲法下での公教育制度です。ここでは、公教育はエデュケーション(全人格的教育)であってはならないと意識されています。インストラクション(知育)であるべきだと明確化されるのです。インストラクションとは客観的な真理の体系を次世代に継承する営為にほかなりません。真理教育と言い換えることもできると思います。意識的に「徳育」を排除することによって、一切の価値観の注入を公教育の場から追放しようとしたのです。価値観の育成は家庭や教会あるいは私立学校の役割とされました。公教育からの価値観注入排除を徹底することによって、根深く染みついている王室への忠誠心や宗教的権威など、アンシャンレジームを支えた負の国民精神を一掃しようとしたものと考えられます。
おそらく、この天皇制型とコンドルセー型と、その両者を純粋型として現実の教育制度はその中間のどこかに位置づけられるのでしょう。私自身は、後者に強いシンパシーを感じますが、戦後の現実は、一旦天皇制型教育を排斥してコンドルセー型に近かったものが、逆コース以来一貫して、勅語・修身タイプの教育に一歩一歩後戻りしつつあるのではないか。そのような危機感を持たざるを得ません。
とりわけ、第1次安倍内閣の教育基本法改悪、そして今また「戦後レジームからの脱却」の一環としての「教育再生」の動きには、極めて危険なものとして強い警戒感をもたざるを得ません。
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《内容編ーその2》
私は「道徳」という言葉の胡散臭さが嫌いだ。多数派の安定した支配の手段として、被支配層にその時代の支配の秩序を積極的に承認し内面化するよう「道徳」が求められてきた歴史があるからだ。
強者の支配の手段としての道徳とは、被支配者層の精神に植えつけられた、その時代の支配の仕組みを承認し受容する積極姿勢のことだ。内面化された支配の秩序への積極的服従の姿勢といってもよい。支配への抵抗や、権力への猜疑、個の権利主張など、秩序の攪乱要因が道徳となることはない。道徳とは、ひたすらに、奴隷として安住せよ、臣下として忠誠を尽くせ、臣民として陛下の思し召しに感謝せよ、お国のために立派に死ね、文句をいわずに会社のために働け、という支配の秩序維持の容認を内容とするのだ。
古代日本では、武力と狡猾とをもって割拠勢力の勝者となった天皇家を神聖化し正当化する神話がつくられ、その支配の正当化神話受容が皇民の道徳となった。支配者である大君への服従では足りず、歯の浮くような賛美が要求され、その内面化が道徳とされた。
武士の政権の時代には、「忠」が道徳の中心に据えられた。幕政、藩政、藩士家政のいずれのレベルでも、お家大事と無限定の忠義に励むべきことが内面化された武士の道徳であった。武士階級以外の階層でもこれを真似た忠義が道徳化された。強者に好都合なイデオロギーが、社会に普遍性を獲得したのだ。
明治期には、大規模にかつ組織的・系統的に「忠君愛国」が、臣民の精神に注入された。その主たる場が義務教育の教室であった。また、軍隊も忠良なる臣民を養成する教育機関としての役割を担った。さらに、権力の片棒を担いだマスメディアもその臣民の道徳涵養の役割を買って出た。荒唐無稽な「神国思想」「現人神思想」が、大真面目に説かれ、大がかりな演出が企てられた。天皇制の支配の仕組みを受容し服従するだけではなく、積極的にその仕組みの強化に加担するよう精神形成が要求された。個人の自立の覚醒は否定され、ひたすらに滅私奉公が求められた。
恐るべきは、その教育の効果である。数次にわたって改定された修身や国史の国定教科書、そして教育勅語、さらには「国体の本義」や「臣民の道」によって、臣民の精神構造に組み込まれた天皇崇拝、滅私奉公の臣民道徳は、多くの国民に内面化された。学制発布以来およそ70年をかけて、天皇制は臣民を徹底的に教化し臣民道徳を蔓延させた。今なお、精神にその残滓を引きずっている者は恥ずべきであろう。この経過は、馬鹿げた教説も大規模に多くの人々を欺し得ることの不幸な実験的証明の過程である。
戦後も、「個人よりも国家や社会全体を優先して」「象徴天皇を中心とした安定した社会を」などという道徳が捨て去られたわけではない。しかし、圧倒的に重要になったのは、現行の資本主義経済秩序を受容し内面化する道徳である。搾取の仕組みの受容と、その仕組みへの積極的貢献という道徳といってもよい。
為政者から、宗教的権威から、そして経済的強者や社会の多数派からの道徳の押しつけを拒否しよう。そもそも、国家はいかなるイデオロギーももってはならないのだ。小中学校での教科化などとんでもない。
道徳を説くのであれば、まずは総理大臣にせよ。
「コントロールできています。完全にブロックしています」などと、嘘を言ってはいけない。人の話を聞かずに、「ニッキョーソ!」などと卑劣なヤジを飛ばしてはならない。
次に文科大臣にすべきだろう。政治資金規正法の趣旨を明らかに脱法しておいて、「違反はない」などと開き直ってはならない。この二人を辞めさせることが、子どもたちに、もっとも適切な道徳の教育になることだろう。
(2015年2月26日)
「被告本人」の称号をもつ澤藤です。
本日の「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴にも、そしてまた法廷後の報告集会にも多数ご参集いただき、まことにありがとうございます。
私は表面的には強がっていますが、本当は気が小さいのです。本日も緊張して法廷にまいりました。そして、法廷に入ってたくさんの方のお顔を拝見し、多くの人に支えられているという実感を肌に感じ心強い思いをあらたにして励まされました。
もちろん、傍聴や集会にご参加の皆さまが、澤藤個人の支援というよりは、DHCスラップ訴訟のもつ民主主義への攻撃に立腹し危機感をもってのこととはよく承知しています。
DHCスラップ訴訟のもつ危険性とは、政治的言論の圧殺であり、カネで政治を買おうという策動の貫徹であり、また規制緩和による消費者利益の侵害でもあり、さらには司法を言論弾圧に悪用することでもあります。皆さまは、それぞれの問題意識から、このDHCスラップ訴訟に関心をもたれていることと思います。
とはいうものの、直接の被害者は私です。攻撃されている民主主義的諸理念を代理して、ほかならぬ私がDHCスラップ訴訟の不当を訴えなければならない、そう思っています。
幸い、多くの方にこの場にお集まりいただいています。同期の弁護士の皆さま、私が所属していた東京南部法律事務所の皆さま、消費者委員会活動で苦楽をともにした皆さま。とりわけ、航空関係労働組合の皆さまや、「日の丸・君が代」訴訟原告団の皆さま、その他たくさんの皆さまからご支援をいただいていることに心から感謝申し上げます。弁護士生活40年にして、どれだけのことをしてきたかの通信簿をいただいているような気持です。
さて、次回の口頭弁論期日は第7回(第1回は被告欠席ですので、実質第6回)となり、いよいよ大詰めとなります。もしかしたら、結審の見えてくる法廷になるかも知れません。日程は下記のとおりですので、是非また法廷傍聴にお越しください。
4月22日(水)午後 1時15分 東京地裁631号法廷です。
恒例のとおり、法廷後に報告集会を開催いたします。場所は未定ですが、決まり次第ご通知いたします。
訴訟の経過については光前幸一弁護団長からご報告があったとおりです。これまで、本件の判断枠組みを「事実摘示型」名誉毀損訴訟ととらえるか、それとも「論評型」と考えるかについて裁判所の態度は不明確でしたが、本日の法廷ではかなり明確に「論評型」ととらえることを表明したものとの印象を受けています。
法廷は口頭弁論の場です。私は常々、もっと当事者と裁判所との率直な意見交換があってしかるべきだと考えています。裁判官はそのときどきの自分の心証の傾きを明確にしながら、さらに両当事者の訴訟活動を促すべきだと考えています。それでこそ、焦点の定まった審理が進行するはずではないでしょうか。
本件では、毎回の法廷において相当に被告弁護団と裁判所との口頭のやり取りがおこなわれます。私も必ず発言することにしています。本日の被告弁護団と裁判所とのやり取りの中で、裁判長は「最高裁判例の判断枠組みに従う」ことを始めて口にしました。「個別のケースごとに事案の内容が違うことは当然として、枠組みは最高裁判例に従う」という趣旨。
すかさず光前さんが、「具体的にはどの判決を念頭に置いて、判例の枠組みと言っておられますか」と質問したところ、裁判所から「平成元年判決」との回答を得ました。その前提で、裁判所は「結局、『論評としての域を逸脱したもの』というのが原告のご主張で、『論評としての域を逸脱していない』というのが被告のご主張と理解しています」とのこと。
1989(平成元)年12月21日判決(長崎教師批判ビラ配布事件)の最高裁判決で、「前提としている事実が真実であることの証明があったときは、人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り、名誉侵害の不法行為の違法性を欠く」と明言しました。これは「フェアコメントルール」(公正な論評の法理)を採用したものと評されており、論評型の典型判例です。
裁判所は、この判決を念頭に「論評としての域を逸脱してはいないか」を、争点に据えたと発言したのです。もちろん、裁判は進行中ですから、裁判所の態度が決定したわけではありません。しかし、原被告双方はこの点を意識して今後の主張立証を積み重ねることになります。
さらに、光前さんから、「『論評としての域を超えた』とは、『人格攻撃にわたるなどの表現の態様の問題』と、『推論の合理性を逸脱している』という両様の問題があり得ると思いますが、裁判所はどのようにお考えでしょうか」との質問に対して、裁判長は「両方ありうるのではないでしょうかね」という曖昧な返事でした。
なお、平成元年最高裁判決に対して、1997(平成9)年9月9日最高裁判決(ロス疑惑夕刊フジ事件)があります。同判決は、「事実を摘示しての名誉毀損」と「意見ないし論評による名誉毀損」との枠組みの違いを明確に意識しつつ、「原告について『犯罪を犯した』とする記事は、事実を摘示するもの」としています。
言わば、論評型の「平成元年判決モデル」と、事実摘示型の「平成9年判決モデル」の二つがあるといって差し支えないと思います。裁判長からは、「平成9年判決も、平成元年判決と趣旨は同じだと理解しています」という「裁判官的発言」もありましたが、結局のところ「本件は論評型として取り扱う」という判断が示されたと言ってよいと思います。
光前さんからご説明あったとおり、被告は次回までに、原告準備書面4に対する全面的な反論の準備書面を提出することになります。その眼目は、名誉毀損訴訟の判断の在り方は、その言論をとりまく状況によって、とりわけテーマと批判の対象となる人物の属性によって異なってきます。平成元年判決と、平成9年判決との違いの理由は、既に準備書面で説明済ですが、あらたな主張整理に基づいて、憲法21条の基本理念から再度説明することとなるでしょう。そのときには、原告吉田は自分を「私人に過ぎない」と言っていますが、トンデモナイ。8億円を政党の党首に政治資金として拠出した人物は、高度の「公人」あるいはそれに準ずるものとなることが強調されるでしょう。また、念のために、澤藤ブログが言及しているサプリメントに関する規制緩和問題についても準備書面で説明し、ブログ記事の論評が正鵠を射たものであることを主張して、必要な書証を提出することになります。
その作業を終えれば、次回でほぼ主張は尽くされることになります。少なくとも、裁判所が関心をもつ点についての主張は完了です。その上で、さて次回をどうするか、どうなるか。一つの山場となるはずです。
また、本日は専修大学の内藤光博教授(憲法学)から、「スラップ訴訟と表現の自由」というミニ講演をいただきました。
民事訴訟とは本来人権保障の一環として侵害された権利を回復するためにある。その本来の使命とはまったく異なり、表現の自由に対する弾圧手段として訴訟を悪用しているのがスラップ訴訟。
スラップ訴訟は勝訴による人権回復を目的とするものではなく、批判の言論に対しての萎縮効果を狙うもの。アメリカの各州の州法にあるような「スラップ被害防止法」が必要ではないか。少なくとも、濫訴者やこれを幇助する弁護士などに何らかの制裁が必要ではないか、とのお話しがありました。
キーワードは萎縮効果です。DHCや吉田の狙いが、批判的言論の萎縮にあることは明らかなのですから、けっして萎縮してはならない。自分にそう言い聞かせています。しかし、これはおそらく私が弁護士だから言えることではないかとも思っています。
私は弁護士ですから、誰に対しても臆することなく萎縮することもなく、言論活動ができる立場にあります。しかし、商売をしている人、勤め先のある人、公務員などにはなかなか難しいことではないでしょうか。私は弁護士として、社会から与えられた「自由業」としての立場に伴う責務を痛感しています。不当な圧力に弁護士が萎縮してしまってはならない。弁護士だからこそ、最前線でこの不当と闘わなければならない。そのような意気込みで法廷の闘いを続ける覚悟です。
是非皆さま、今後とも引き続いて、気の弱い私を支援し励ましていただくようお願いいたします。
(2015年2月25日)
西川公也農相の政治献金問題がおさまりつかず辞任にまで発展した。これに安倍首相の「ニッキョーソはどうした!」ヤジ事件のおまけまでついて、政権への震度は思った以上に大きくなりつつある。
これまで何度も聞かされた言葉が繰り返された。「法的には問題ないが道義的責任を感じてカネは直ぐに返還した」「あくまで法的に問題はないが、審議の遅滞を招いては申し訳ないので辞任することにした」。要するに、「カネを返せば問題なかろう」「些細なミス、訂正すれば済むことだ」「やめて責任を取ったのだからこれで終わりだ」。終わりのはずを蒸し返し執拗に追求するのは、些細なことを大袈裟にしようという悪意あってのこと、という開き直りが政権の側にある。
しかし、既視感はここまで。今回は、世論もメデイアも野党も、この「カネを返したから、訂正したから、辞めたから、一件落着」という手法に納得しなくなっている。トカゲのシッポを切っての曖昧な解決を許さない、という雰囲気が濃厚に感じられる。問題の指摘を続ける野党やメディアへのバッシングも鳴りをひそめている。
本日(2月24日)の各紙夕刊に「首相の任命責任、国会で追及へ」「野党首相出席要求」「衆院予算委が空転」の大見出し。野党各党の国対委員長が国会内では、「西川氏辞任の経緯や、首相の任命責任をただす考えで一致した」と報じられている。何が起こったのかを徹底して明らかにし、問題点を整理して、不祥事の再発防止策を具体化する。刑事的制裁が必要であればしかるべき処分をし、制度の不備は改善し、責任の内容と程度とを明確にして適正な世論の批判を可能とする。そのような対応がなされそうな雰囲気である。
今朝の朝刊6紙(朝・毎・読・東京・日経・産経)の社説がこの問題を取り上げている。世間の耳目を集める問題では、おおよそ「朝・毎・東京」対「読売・産経」の対立となり、日経がその狭間でのどっちつかずという図式になる。ところが今回は違う。産経の姿勢がスッキリしているのだ。少し驚いた。
まず標題をならべてみよう。
朝日「農水相辞任 政権におごりはないか」
毎日「西川農相辞任 政権自体の信用失墜だ」
東京「西川農相辞任 返金で幕引き許されぬ」
産経「西川農水相辞任 改革に水差す疑惑を断て」
日経「農相辞任で政策停滞を招くな」
読売「西川農相辞任 農業改革の体制再建が急務だ」
標題はほぼ内容と符合している。朝日・毎日・東京が、徹底した疑惑の解明を求め、安倍政権の責任を論じている。それぞれ的確に問題点を指摘し、首相の責任の具体化を求める堂々たる内容。読売と日経が明らかに立場を異にし、「切れ目のない政策継続」に重点を置き、安倍政権を擁護してその傷を浅くする役割を演じようとしている。
産経の「改革に水差す疑惑を断て」という標題だけが、「改革の継続」と「疑惑を断て」のどちらに重点が置かれているのかわかりにくい。ところが、その内容は、安倍政権に手厳しい。「改革や農業政策の継続」の必要は殆ど語られていない。普段の安倍晋三応援団の姿勢とはまったく趣を異にしている。この産経の論調は、日経・読売2紙の安倍政権ベッタリ姿勢を際立たせることになっている。これは、一考に値するのではないか。
以下、主要な部分を抜粋する。
「国の補助金を受けた会社から寄付を受けてはならないことなど、政治家としてごく基本的なルールを軽視していた。その結果、職務遂行に支障を来す事態を自ら招いたのであり、辞任は当然だ。安倍晋三首相の任命責任も重い。…閣僚らに厳格な政治資金の管理を求めるのはもとより、『政治とカネ』の透明化へ具体的措置をとるべきだ。
問題視されたのは、日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加する直前、砂糖業界の関係団体から西川氏が代表の政党支部に100万円が寄付されたことなどだ。西川氏は自民党TPP対策委員長だった。しかも、業界団体である精糖工業会は国から補助金を受けていた。政治資金規正法は1年間の寄付を禁止しており、別団体からの寄付の形がとられた。こうした行為に対し、脱法的な迂回献金との批判が出るのは当然だろう。同支部は補助金を受けた別の会社からも300万円の寄付を受けた。
首相や西川氏の説明は『献金は違法なものではない』ことを主張するばかりで、不適切さがあったとの認識がうかがえない。砂糖は日本にとってTPPの重要品目であることからも、政策判断が献金でゆがめられていないか、との疑念を招きかねない。
形式的には別の団体が寄付を行っても、実質的に同一の者の寄付とみなされるものは、規制をかける必要が出てくるだろう。脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ。」
おっしゃるとおり。まことにごもっとも、というほかはない。とりわけ、「脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ」には、諸手を挙げて賛成したい。8億円もの巨額の裏金を、明らかに政治資金として政治家に交付しておいて、「献金なら届けなければ違法だが、貸金なら届出を義務づける法律はない」と開き直っている大金持ちがいる。このような「脱法を封じる法改正」を実現すべきは当然ではないか。
各紙の社説を通読して、その全体としての批判精神に意を強くしたが、いくつかコメントしておきたい。
東京新聞は、次のようにいう。
「業界との癒着が疑われる政治献金はそもそも受け取るべきではなく、返金や閣僚辞任での幕引きは許されない。与野党問わず『政治とカネ』をめぐる不信解消に、いま一度、真剣に取り組むべきだ」「カネで政策がねじ曲げられたと疑われては、西川氏も本望ではなかろう」
具体的事例を通して、政治資金規正法の精神を掘り下げようとする論述である。
「業界との癒着が疑われる政治献金は受け取るべきではない」というのは、もちろん正論である。「カネで政策がねじ曲げられてはならない」とする民主主義社会の大原則がある。「業界との癒着が疑われる政治献金」は、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こすものである。つまりは、政治の廉潔性や公正性に対する信頼を傷つけるものとして、授受を禁ずべきなのだ。
企業や金持ちから政治家に渡されるそのカネが、現実に廉潔なものか、あるいは政治をねじ曲げる邪悪なものであるかが問題なのではない。国民の政治に対する信頼を傷つける行為として禁止すべきなのだ。「私のカネだけは廉潔なものだから、献金も貸金もなんの問題ない」という理屈は、真の意味で「いくら説明してもわからない」人の言い分でしかない。
なお、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こす政治献金は、「業界との具体的な癒着が疑われる政治献金」に限らない。企業や団体、富裕者の献金は、すべからく財界や企業団体の利益となる政治や政策への結びつきをもたらすものとして、政治の廉潔性や公正性に対する社会の信頼を傷つけるものである。献金にせよ、融資にせよ、本来一般的に禁ずべきが本筋であろう。少なくも、上限規制が必要であり、透明性確保のための届出の義務化が必須である。
毎日が、社説の文体としては珍しい次のような一文を載せている。
「『いくら説明をしてもわからない人はわからない』。自ら疑惑を招いての辞任にもかかわらず、まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って記者団に語る西川氏の態度に驚いてしまった。」
私も、自らの体験として、「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って語る態度」に思い当たる。
2012年12月都知事選における宇都宮候補の選挙運動収支報告書を閲覧して、私は明らかな公選法違反と濃厚な疑惑のいくつかを指摘した。当ブログで33回にわたって連載した「宇都宮君立候補はおやめなさい」シリーズでは、この公選法違反の指摘は大きな比重を占めている。「自らの陣営に法に反する傷がある以上、君には政治の浄化などできるはずもない。だから宇都宮君、立候補はおやめなさい」という文脈でのことである。
この指摘に対して、2014年1月5日付で、宇都宮陣営から「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」なるものが発表された。中山武敏・海渡雄一・田中隆の3弁護士が、まさしく「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って」の居丈高な内容だった。
同「見解」は、まことに苦しい弁明を重ねた上、「選挙運動費用収支報告書に誤った記載があることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」と開き直った。3弁護士は、「陣営に違法はなかった」ことを主張するばかりで、自ら資料収集ができる立場にありながら、具体的な説明を避け、資料の提示をすることもなかった。
宇都宮君も、中山・海渡・田中の3弁護士も、もちろん違反の当事者である上原公子選対本部長(元国立市長)も熊谷伸一郎選対事務局長も、今、野党とメディアが政権に求めているとおりに、経過を徹底して明らかにして自浄能力の存在を示し、謝罪すべきである。そのうえで、「2014年1月5日・3弁護士見解」を撤回しなければ、選挙の公正や政治資金規制について語る資格はない。
私は、「保守陣営についてだけ厳格に」というダブルスタンダードを取らない。宇都宮君らが選挙についてどう語るかについてこれからも関心をもち、その言動に対しては保守陣営に対するのと同様に、批判を展開したいと思っている。
自浄能力のない政権へは、野党とメディアの批判が必要である。革新陣営が広く社会的な信頼を勝ちうるためにも、私の批判が有用だと信じて疑わない。
(2015年2月24日)
私が被告になっているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論が近づいてきました。日程をご確認のうえ、是非傍聴にお越しください。
2月25日(水)午前10時30分? 口頭弁論期日
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の地裁庁舎6階南側)
同日11時00分? 弁護団会議兼報告集会
東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)
今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、
被告が再度の主張対照表を提出し、原告が被告の準備書面4に対する反論の準備書面4を陳述の予定です。
法廷終了後の報告集会兼弁護団会議は、東京弁護士会館507号室で、11時?13時の時間をとっていますが、実際には正午少し過ぎくらいまでになると思います。
報告集会の予定議事は次のとおりです。
☆弁護団長の進行経過と次回以後の展望の説明。
裁判所の求釈明の趣旨と本日陳述の準備書面の内容
当日の法廷を踏まえて、次回以後の審理の展望
☆ミニ講演 「スラップ訴訟と表現の自由」
内藤光博専修大学教授
☆議事1 審理の進行について
本日までの審理の経過をどう見るか。
今後の主張をどう組み立てるか。
☆議事2 DHCスラップ訴訟第1号・折本判決(1月15日・地裁民事30部)をどう評価し、本件にどう活用するか。他事件被告弁護団との連携をどうするか。
☆議題3 今後の立証計画をどうするか。
☆議題4 反訴の可否とタイミングをどうするか。
☆議題5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
☆議題6 同種の濫訴再発防止のために何をすべきか
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DHCスラップ訴訟の傍聴に足を運んでくださる方のなかに、「裁判官が何を考えているのか、さっぱりわからない」「被告側もどうしてこんな事件で足踏みをしているのか理解できない」と声がある。いや、ごもっとも。
多くの方が、問題とされている私のブログを読んだうえで、「こんなことで訴えられること自体が信じられない」とおっしゃる。「そんな訴訟が簡単に終わらず、長引いていることも理解しがたい」「いったい何をやっているのか、どうもわからん」ということになる。
何が問題となっているのか、できるだけこの訴訟の構造をご理解いただけるように、私流に訴訟の全体像と現在の争点を解説をしてみたい。それでも「やっぱり、わからない」と言われるだろうと覚悟しながらである。もちろん、「わからない」とは、「論理的に理解できないということではなく、そんな理屈は納得しがたい」ということなのだが。
訴訟上の主張は、まず原告が組み立てる。本件では、原告両名(DHCと吉田嘉明)は被告(私・澤藤)の5本のブログのうちの16個所を切り出して、この「各表現が名誉毀損に当たる」とした。また、そのうちの3個所は「侮辱にも当たる」と主張している。なお、名誉毀損とは、人の社会的な評価を低下させること。侮辱とは人の名誉感情を傷つけること。
原告は、それゆえ被告ブログの表現は違法で、被告は原告らに違法に損害を与えたことになるので、民法709条の不法行為を根拠に、損害賠償(原告両名で合計金6000万円!!)を支払えという請求をしている。
問題は、私のブログの表現が違法なのかどうかである。
言うまでもないことだが、近代憲法は最も重要な基本権として「表現の自由」を掲げてきた。近代憲法の正統な承継者である日本国憲法も、第21条で表現の自由を保障している。権利として自由を保障するとは、人に迷惑をかけない範囲での行動が認められているということではない。誰をも喜ばせ、誰の毒にもならない類の甘い言論なら、自由を保障する必要はない。誰かを怒らせる言論、誰かを不愉快にし、不都合だから差し止めたいと思わせる言論であって始めて、これを権利として保障することの意味がある。
とりわけ、この世の強者である、公権力・経済的富者・社会的多数派の圧力に抗して、これを批判する言論にこそ、基本権として表現の自由を保障する必要性が大きい。また、言論のテーマとしては、何よりも民主主義的な政治過程の正常な展開に不可欠な世論形成のための国民同士の政治的情報や意見の交換の自由が不可欠である。強者を批判する自由、政治的テーマについて遠慮をせずに語る権利、それこそが言論の自由の内実であり真骨頂である。
だから、言論の自由の旗は誇らかに我が手にはためいており、私の言論は、たとえDHCや吉田が私のブログに腹を立て目くじら立てて、「社会的評価を下げられた」「名誉感情を傷つけられた」と主張しても、それだけで違法とされることはない。
しかしもう一方で、個人の尊重を第一義とする憲法が、人の名誉や名誉感情という人格上の法的利益の尊重を無視しているはずはない。
結局は、「表現する側の言論の自由」と「当該言論によって批判される側の名誉」との調整原理が必要となる。できるだけ明確で通有性のある調整の基準。そのような物差しか秤が欲しいところ。もちろん、憲法の趣旨を踏まえた妥当性の高いものでなくてはならないことが大前提だが、多様な事件ごとにバラバラの基準であっては役に立たない。無限に多様な紛争に解決の指針を指し示し、裁判所に判断を仰げば結論が見えるという、そんな基準であって欲しいものである。
名誉毀損訴訟には、一応の調整法理があるとされている。DHCスラップ訴訟の現段階は、この調整原理適用の法理をめぐっての意見の応酬がおこなわれているのだ。そうご理解いただきたい。調整原理の適用について揉めているのだから、出来のよい調整原理ではない。
これまで判例が積み重ねてきた調整原理とは、まず名誉毀損を「事実摘示型」と、「論評型」に分類する。そして、それぞれのタイプに応じた判断をすることによって、「言論の自由」と「個人の名誉」との角逐を調整している。
「事実摘示型」に分類されると、「公然と事実を摘示して人の名誉を侵害したとして原則違法」の扱いを受ける。そのうえで、当該言論が公共の利害に関する事項にかかわるもので、もっぱら公益の目的をもってなされ、かつ、当該言論の内容が主要な点において真実である(あるいは真実であると信じるについて相当な理由がある)場合には、違法性が阻却されて損害賠償の義務はない、とされる。言論者側に過重な負担が掛けられる。立証責任が果たせなければ敗訴の可能性も出て来る。
「論評型」に分類されたら、それだけで名誉毀損非成立というものではないが、名誉毀損成立の確率は限りなくゼロに近づくと言って差し支えない。
論評型の調整法理としては、英米の名誉毀損法における「公正な論評の法理(フェアコメントルール)」が知られている。公共の利害に関する事項または一般公衆の関心事である事項については、何人といえども論評の自由を有し、それが公的活動とは無関係な私生活曝露や人身攻撃にわたらず、かつ論評が公正である限りは、いかにその用語や表現が激越・辛辣であろうとも、またその結果として、被論評者が社会から受ける評価が低下することがあっても、論評者は名誉毀損の責任を問われることはない」というものである。
アメリカの判例法はさらに、この法理を発展させ、「公正」概念を「客観的公正」であることを要せず、客観的にはいかに偏見に満ち愚劣なものであっても、公共の利害関する事項について真面目な意見を表明するものであれば足りるとされる。多様な言論の並立自体を民主主義に貴重なものとする発想である。その結果、公的人物に関する論評(意見)は、およそ名誉毀損になり得ない傾向にあるとされる。
我が国の最高裁判例は、この点についてのリーディングケースとされる事件において次のように述べている。
「公共の利害に関する事項について自由に批判,論評を行うことは,もとより表現の自由の行使として尊重されるべきものであり,その対象が公務員の地位における行動である場合には,右批判等により当該公務員の社会的評価が低下することがあっても,その目的が専ら公益を図るものであり,かつ,その前提としている事実が主要な点において真実であることの証明があったときは,人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱したものでない限り,名誉侵害の不法行為の違法性を欠くものというべきである。」(長崎・通知表不交付批判ビラ配布事件)
また、最近話題となった小沢一郎の「マンション『隠し資産』報道」事件に関して、東京地裁判決は(高裁もだが、判決が公刊されていない)、記事を掲載した週刊現代(講談社)側の主張を容れて、原告の損害賠償請求を棄却した。その「判例タイムズ」での判決紹介の見出しが「批判の週刊誌記事が、意見ないし論評の表明であるとして、いわゆる『公正な論評』の法理により違法性を欠くとされた事例」というものである。
同事件では、原告側は、週刊誌の記事・見出し・広告を「事実を摘示して原告の名誉を毀損した」と主張した。しかし、判決は「評価について原告と被告の見解が異なるにすぎない」「本件記事は、事実の摘示を含むものとは言えない」「あり得る見方を示す表現の一つにすぎないというべきであり、事実を摘示したものとみることは相当でない」と判断している。
こうなれば結論は目に見えている。
「本件記事は、その性質上、公共の利害に関する事項に係ることは明白であり、記載の内容からみて、専ら公益目的に出たものと認めることができる上、意見の前提とされた具体的な事実の重要な部分が真実であることは明らかでありかつ、論評としての域を逸脱していないというべきであるから,これが違法であるとする原告らの主張は失当である。」
おそらくは、DHCスラップ訴訟・澤藤事件判決も同様のパターンになるものと考えられる。今は、明確な論評型への分類に、裁判所が踏み切る前段階なのだ。
ここで、DHCスラップ訴訟を許さないシリーズの第1弾の一部を再掲したい。
私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
https://article9.jp/wordpress/?p=2386
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2426
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。
読者の皆さまに、民事陪審員となったつもりでご判断いただきたい。名誉毀損訴訟における調整法理などといっても、所詮は結論を決めてからの説明の枠組み。大切なのは、私のブログの言論を違法と葬ってもよいのかという問いかけである。
政治的言論、政治とカネにまつわる言論、規制緩和に関する言論、経済的強者を批判し、民主主義の要諦を衝く言論を違法として、民主主義が成立するだろうか。
ご支援を御願いしたい。
(2015年2月23日)
昨日(2月21日)の午後、南青山で「『全国沿岸漁民連絡会』結成を目ざす交流集会」が開催され、私も応援団の末席に参加した。なかなかの盛会。熱気があふれんばかり。懇親会の席で、呼びかけ人の一人が「何年か経ったら、あの日の交流会が歴史的な出発点だったと、きっと思い起こすことになるでしょう」と挨拶していた。確かに、そうなりそうな印象だった。
集会は、北海道・岩手・福島・千葉・和歌山の各運動体の代表者5名が呼びかけたもの。静岡、長崎からのメッセージが届けられている。神奈川や高知との連携もあるという。漁業問題は各地にあり運動もあるのだから、いずれ全国的な運動と組織に発展するだろう、そう展望が語られた。
今のところは「交流集会」である。次に「準備会」にして事務局機能を整え、さらに「全国沿岸漁民連絡会」への発展が予定されている。全国組織とすることにより、経験を交流し知恵と力を出し合って相互に各地の運動を援助し合うとともに、全国組織の力で水産庁交渉の主体となろうということなのだ。
各地が抱える具体的問題の内容は、それぞれに異なる。北海道からの参加者は水産資源の持続性の課題を語り、福島は原発事故の漁業への影響を語った。千葉からは、大規模漁業者との軋轢や漁業振興政策の制度改善が問題として述べられた。岩手は、3・11による被災の深刻さと、その後の漁業復興過程における「サケ漁許可」申請問題が、裁判を予定しているものとして報告された。
司会は、手際よく、各地からの報告を「(1)水産資源持続性の問題、(2)漁業をめぐる制度改善の問題、(3)原発の問題」と3点にまとめた。とりわけ、原発問題については、「必ず海岸に設置されて漁場と接している以上、その影響は全国48個所の原発プラントを抱える全ての地域の漁民の問題」と総括されていた。なるほど。
ところで、「沿岸漁民」とは、零細な漁船漁民と海面養殖業者をいう。漁船漁業を営む者については、概ね20トン未満の漁船で漁をする小規模漁業をいうようだ。
配付された資料によると、20トン未満の漁船で漁をする小規模経営体は、昨年の調査で全国で73643を数えるという。漁業経営体総数94522の78%を占める。これが「日本漁業の主役」となのだ。ちなみに、20トン以上の大規模漁船をもつ経営体は2%、大規模な定置網の経営体数も4%にすぎない。
この世界でも、事業体の規模の格差が政治的な力量の格差となり、零細漁民の不公平行政への不信と不満が横溢しているのだ。一つは、水産資源の持続性を確保して、次世代への漁業の継承を実現することが大きな課題だが、根こそぎに資源を取り尽くす大規模事業者への不満が鬱積している。それだけでなく限りある水産資源の公正な配分をどうするかについて、民主的な規制が切実な要求なのだ。
多くの零細漁民が同じような不満と要求をもっている。本来であれば、漁業協同組合が、協同組合の理念に基づいて零細漁民の声を代弁する役割を果たすべきなのだが、一般に現実はそのようになっていない。多忙な零細漁民のリーダーが、時間を割いて仲間の声を糾合し、運動を立ち上げていることは、最大限の敬意を表するに値する。
何人もの会の参加者が口にしていた。
「漁師は、魚を獲るだけで精一杯だし、それでよいと思ってきた」「でも、今のままでは漁業の未来がない。後継者に継承もできない」「やはり、知恵と力を合わせて漁業が継続できるように、運動もしなければならないし、行政との交渉もしなければならない」
もっとも、農業と同様、漁業も新自由主義的「改革」の対象として意識されている。震災からの復興の手段としての特区構想にどう対処すべきかなど問題は山積しており、方針の具体化はけっして容易ではない。
提案された行動指針の原案のなかに、「小規模漁業漁民・家族漁業経営体の生活と権利を守るための活動をおこなう」とある。この立場性が運動の原点だ。
この日の集会は、「浜の一揆」の全国版の萌芽ではないか。このような場に居合わすことができたのは、私の好運である。次の会合が、7月下旬に予定された。もっとたくさんの人々が集って、もっと具体的な運動方針や組織方針が出されることを期待したい。
(2015年2月22日)
私が被告になっているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論が近づいてきました。日程をご確認のうえ、是非傍聴にお越しください。
2月25日(水)午前10時30分? 口頭弁論期日
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の地裁庁舎6階南側)
同日11時00分? 弁護団会議兼報告集会
東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)
今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、
被告が再度の主張対照表を提出し、原告が被告の準備書面3・4に対する反論の準備書面を陳述の予定です。
法廷終了後の報告集会兼弁護団会議は、東京弁護士会館507号室で、11時?13時の時間をとっていますが、実際には正午少し過ぎくらいまでになると思います。
報告集会の予定議事は次のとおりです。
☆弁護団長の進行経過と次回以後の展望の説明。
裁判所の求釈明の趣旨と本日陳述の準備書面の内容
当日の法廷を踏まえて、次回以後の審理の展望
☆ミニ講演 「スラップ訴訟と表現の自由」
内藤光博専修大学教授
☆議事1 審理の進行について
本日までの審理の経過をどう見るか。
今後の主張をどう組み立てるか。
☆議事2 DHCスラップ訴訟第1号・折本判決(1月15日・地裁民事30部)をどう評価し、本件にどう活用するか。他事件被告弁護団との連携をどうするか。
☆議題3 今後の立証計画をどうするか。
☆議題4 反訴の可否とタイミングをどうするか。
☆議題5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
☆議題6 同種の濫訴再発防止のために何をすべきか
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本件はいくつもの重要な意義をもつ争訟となっています。
(1) まず何よりも、憲法21条によって保障されている「表現の自由」が攻撃されています。この訴訟は、不当な攻撃から表現の自由を守る闘いにほかなりません。
しかも、攻撃されている表現は、典型的な政治的言論です。仮に、いささかでも被告の表現が違法とされるようなことがあれば、およそ政治的言論は成り立ち得ません。
(2) 本件で攻撃の対象とされた表現の内容は「政治とカネをめぐる問題」です。具体的には、「大金持ちが、金の力で政治を左右することを許してはならない」とする批判の論評(意見)です。現行法体系における政治資金の透明性確保と上限規制の重要性が徹底して論じられなければなりません。
(3) しかも、原告の攻撃の直接的対象は、8億円という巨額の金員拠出の意図ないし動機を厚生行政の規制緩和を求めてのものとした常識的な批判なのです。厚生行政における対業者規制は、国民の生命や健康に直接関わる、国民生活の安全を守るために必要な典型的社会的規制です。安易な規制緩和を許してはなりません。行政の規制緩和を桎梏と広言する事業者に対する消費者(国民)の立場からの批判の封殺は許されません。
(4) さらに、言論封殺の手法がスラップ訴訟の提起という、訴権の濫用によることも大きな問題点です。経済的強者が高額請求の訴訟提起を手段として、私人の政治的言論を封殺しようとする憲法上看過できない重大問題を内包するものです。これを根絶し、被害を出さないためにどうすべきかをご一緒に考えたいと思います。
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以上のような、意義ある訴訟の舞台設定は、DHC・吉田側が作ってくれたものです。このせっかくの機会を生かさない手はありません。上記(1)の表現の自由は訴訟の結果としての判決で実現するとして、(2) 以下の各問題については、明らかになった問題点を世に大きく訴え、世論の力で制度改革に繋げたいと願っています。
その第1は、(2)の「政治とカネをめぐる問題」です。DHC吉田は、「政治資金に使われると分かりながら資金提供したことについての道義的責任」に関して、「献金なら限度額が法で定められておりますが、貸金に関してはそういう類の法規制はありません。借りた議員がちゃんと法にのっとって報告しておれば何の問題もないのです」と言っています。もし、そのとおりなら、この事件は政治資金規正法の欠陥が露呈したことになります。金力の格差が政治を歪めてはならないとする民主主義の大原則にも、政治資金規正法の趣旨にも反する脱法についての開き直りを許さないために、法改正を目ざさなくてはなりません。
今、西川農相への複数の献金問題が話題を呼んでいます。そのうちの一つが、農林水産省から補助金交付の決定を受けていた精糖工業会からの献金。これを追求された農相と政権は、「精糖工業会そのものからの献金ではなく、会が入っているビルの管理会社(精糖工業会館)からの献金だから問題ない」と言っています。これも明らかな脱法行為。「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく野党からの追及を受けています。
DHC吉田から渡辺に渡ったカネも同じ。「献金ではなく貸金だから、いくら巨額になっても無制限の青天井」では、「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく追及を受けねばなりません。脱法を防ぐ法改正が必要なのです。
また、(3)サプリメントの規制緩和問題についても、(4)目に余るスラップ訴訟防止の方策についても、まずはその弊害の実態をよく認識し、その上で知恵を出し合いたいと思います。
是非、次回法廷のあとの報告集会にご参加いただき、意見交換に加わっていただくよう、お願いいたします。
(2015年2月21日)
「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。
罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。
身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人もいてまだ根絶に至っていない。そのため、ときに物議を醸すことになる。
問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。
多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難に当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとてあまりに斬新を狙うと意味不明となってしまう。
かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であった。しかし、今やすべて死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。
罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。
事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。
以下が、安倍首相らの発言内容。
安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。
安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。
持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。
「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。
私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)
旧友からの音信は嬉しいもの。私の場合は、大学の教養課程の語学(中国語)クラスをともにした27人の仲間が最も懐かしい。人生のスタートラインに立つ手前で、見通しの効かない不透明な将来を語りあった貴重な友人たち。
あれから50年にもなるが、あのころの友人のそれぞれの未来は相互に交換可能だったのだと思う。別にあったかも知れない自分の人生を考えるとき、リアリテイを伴って思い浮かべることができるのは他の26人の現実の来し方。そのなかの一人に、「朝日」に就職して記者人生を全うし、その後「熊野新聞」に移った小村滋君がいる。「もしかしたら、私にも朝日や毎日、あるいはNHKの記者としての人生だってあり得たのかも知れない」「いやそれはあり得ないかな」などと考える。
昨年久しぶりの同級会で、小村君は、新宮の大逆事件関係者顕彰運動について熱く語った。今は廃止された刑法の大逆罪は、法定刑が死刑しかない。その罪名で起訴された者が、首魁幸徳秋水以下の26名。1911年1月に言い渡された判決は死刑24名、有期刑2名であった。この恐るべき天皇制政府による蛮行の犠牲者の中に、「紀州新宮グループ」がある。大石誠之助、高木顕明、成石勘三郎、成石平四郎、峰尾節堂、崎久保誓一の6名。
小村君は、地元の記者として、彼らの事蹟を発掘していたとのこと。いま、彼ら受難者は、「平和・博愛・自由・人権の先覚者」とされ、その「志を継ぐ」という碑が地元に建立されているそうだ。小村君などの地道な調査によるものなのだろう。
さて、刑死100年を記念して、新宮グループの中心人物だった大石誠之助を新宮市の名誉市民にしようという運動が盛りあがったのだそうだ。大石は「ドクトル(毒取る)」の異名で慕われた社会主義者の名物医師。その診療所の玄関には、「(診察費は)できるだけ払ってください」という札が掛かっていたという。
2011年3月新宮市議会は、市民運動が進めてきた「大石誠之助を名誉市民に」と求める請願について、なんと7対10の賛成少数で不採択とした。小村君はこれを残念がる。そして、「新宮の大逆事件に触れていただくときには、大石誠之助を名誉市民にする運動では、共産党市議団の裏切りで市議会で否決されたことを書くように」と念を押されている。共産党市議団にも言い分はあるのだろうが、残念ながら小村君の信頼を裏切ってしまったようだ。細かい経緯は、「大逆事件と大石誠之助ー熊野100年の目覚め」(現代書館刊)に書いてあるそうだ。この書物も、実質小村君が編集したものだという。
ところで、その小村君からEメールで「気まま通信」がときおり送られてくる。配信先は20人程度だそうだ。これは究極のミニコミ。今回は、大阪十三のミニシアターで観た映画「圧殺の海」の感想。辺野古基地建設反対に体を張る人々を描いたドキュメンタリーだ。「気まま通信」では彼の興奮が伝わってくる。これだけは観ておかなくては、と思わせる文章になっている。以下は、その抜粋。
「沖縄ファン」をヤマトに増やそうー映画「圧殺の海」を見て
黒いカーテンを開けると、小さな部屋に、ほぼ満席の観客の視線が一斉に私を見たように思った。「こんなに沢山の仲間がいる」私は、会場に暖かいものがあふれている気がした。ひとり一人、数えたら35人。
安倍政権は昨年7月から辺野古新基地建設に着工、これを阻止しようとする住民を圧倒的な力で押さえこもうとしてせめぎ合いが続いている。
カメラはいつも住民の側にいた。キャンプ・シュワブのゲート前で機動隊と揉み合うときも、海にカヌーで漕ぎ出して海保のボートに追い回され海に投げ出されたときも、カメラは住民の側から、海の中から、当局側を捉えていた。
そして11月の沖縄知事選、12月の総選挙で沖縄4選挙区とも辺野古反対の「オール沖縄」が勝った。にも拘わらず、安倍首相ら閣僚は、面会を求める翁長・沖縄知事に会わなかった。映画は、選挙結果について菅官房長官が「辺野古は粛々と進めるだけ」と鉄仮面のような表情で語るのを映し出していた。
映画が終わって、私は興奮を胸にエレベーターホールに出た。他の30人余も恐らく同じ気分だったろう。「昼食でも一緒しましょう!わざわざ和歌山から来た人を何もなしで返すわけにはいかん」ちょっと恰幅のいい男性が、背の低い日焼けした男性に話しかけていた。大きな声が、映画の興奮の余韻を表していた。「和歌山はどちらですか」「海南です」と二人の問答。私もエレベーターに一緒に乗り込んだ。和歌山かぁ、私も和歌山県の端っこにいた、昼食を一緒したい、と申し込もうか、いやいや見ず知らずが割り込んで邪魔してもなあ。結局、私は遠慮した。しかし胸に暖かいものが湧いた。
この映画は続映を重ねている。「問い合わせが多いので」という。ヤマトンチュウも捨てたもんじゃない。いや沖縄の民意を露骨に敵視し無視する安倍政権の態度が沖縄びいきをふやしているのかもしれない。ヤマトンチュウは元来、判官びいきなのだ。巨人・大鵬・卵焼き人種も多いが、弱い阪神や広島ファンも多いのだ。
1月30日の朝日新聞夕刊に、沖縄県に「ふるさと納税」する人が増えているというコラムが掲載された。例年、1月は1桁しかないのに今年は21日までに96件471万円余が送られてきた。安倍政権の沖縄への対応に対し、「ささやかながら沖縄を応援したい」との声が県税務課に届いているという。
沖縄の大村博さんからの年賀状に『日本の平和と民主主義の展望は沖縄から生まれると言ってよいでしょう』とあった。その前段には、保守やら革新やら古い枠組みを破って、反基地・反辺野古に結集した『オール沖縄』が、昨年の選挙で全勝したことが誇らしげに書かれていた。大村さんは、昨年8月に設立された「琉球・沖縄の自己決定権を樹立する会」の代表幹事の一人だ。「樹立する会」は、沖縄の非武の伝統に基づき基地のない島、東シナ海を平和と共生の海とし、沖縄に国連アジア本部の誘致をめざすという。私も、この会に入れてもらった。新宮の「くまの文化通信」の仲間にも入会希望者はいる。沖縄のささやかな応援団は確実に増えている。これが「本土」に平和と民主主義の展望を開くことに繋がり、大村さんの年賀状の予言が実現するのだ。2015年の初夢でもある。
映画の上映スケジュールは、下記「森の映画社」のサイトをご覧いただきたい。
http://america-banzai.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html
東京では、ポレポレ東中野で2月14日(土)?3月13日(金)まで。
小村君があれだけ勧める映画だ。私も観に行こうと思う。沖縄での闘いに連帯の気持を表すためにも。
(2015年2月19日)