(2023年8月16日)
毎年、熱い夏の真っ盛りの8月15日に、あの戦争の敗戦記念日を迎える。
敗戦の4年前、1941年の8月には、天皇制政府はまだ対米英戦開戦の決断をしていない。アメリカの対日石油輸出全面禁止の経済制裁に戦火で応じるべきか対米外交で事態を切り拓くか、まだ近衛内閣が右往左往している時期。歴史を巻き戻すことができるのなら、このときに無謀な選択肢の回避あれば、300万に近い日本人の死は防げた。さらには2000万人に近い近隣諸国民に対する殺戮も防止できた。
41年9月6日の御前会議で、開戦の方向性がほぼ決まったとされる。その前日、天皇(裕仁)は、陸軍参謀総長と海軍軍令部長を呼びつけて、「(対米開戦をした場合に)必ず勝てるか」と聞いている。もちろん、彼我の戦力の大きな落差を知悉している専門家が、「勝てます」というはずもない。それでも、舵は開戦の方向に切られて行く。無責任の極み。
その年の10月には近衛が政権を投げ出し、主戦派の陸相東条英機に組閣が命じられる。こうして、国民の知らぬうちに12月8日開戦の準備が進む。宣戦布告なき不意打ちによる緒戦の戦果を、裕仁はいたく喜んだという。
しかし、42年の夏には既に形勢が逆転していた。早くも4月にドゥーリットルの東京空襲があり、6月にはミッドウェー海戦での大敗北があった。43年の夏は撃墜された山本五十六国葬の後に迎えている。多くの人が、日本は勝てないのではないかと思い始めていたころ。そして、44年の夏には、サイパン守備隊全滅後に東条内閣が倒れて小磯国昭内閣が成立している。既に敗戦必至の夏であった。
そして1945年の特別に熱い夏、何よりも「遅すぎた聖断」がもたらした惨禍の中で迎えた夏である。為政者の決断の遅延がかくも甚大な被害をもたらすという典型として記憶されねばならない。天皇(裕仁)が「一撃講和論」や「国体護持」に固執せず、早期降伏を決断していれば、東京大空襲も沖縄の悲劇もヒロシマ・ナガサキの惨劇もなかった。天皇(裕仁)の責任が開戦にあることは当然として、終戦遅延の責任も忘れてはならない。
その天皇(裕仁)の孫(徳仁)も出席して、昨日政府主催の「全国戦没者追悼式」が挙行された。毎年のことではあるが、主催者である首相の式辞には大きな違和感を禁じえない。昨日の岸田首相式辞全文を引用して、点検しておきたい。以下「」内が首相式辞であり、続く( )内が私のコメントである。
「天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」
(冒頭に「天皇、皇后両陛下のご臨席」はあり得ない。あたかも式の主役が「天皇、皇后両陛下」であるごときではないか。冒頭の呼びかけは、何よりも「戦没者」あるいは、「戦没者のご遺族」としなければならない。「天皇、皇后両陛下」への言及はなくてもよい。あっても最後でよい。そして、天皇を「仰ぐ」必要はまったくない)
「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に倒れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」
(「祖国」に違和感が拭えない。「祖国の行く末を案じつつ戦場に倒れた」人がなかったとは言えないにもせよ、多数であったはずはない。少なくとも、ここに真っ先に掲げることではない。無惨に自分の人生を断ち切られた無念。家族や愛する人との離別を強いられた怨みや悲しみや悔恨の情なら共有できる。「祖国」や「国体」が顔を出せばシラケるばかり)
「今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。」
(常套文句だが、明らかに間違っている。これでは、戦争賛美の文脈ではないか。「今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」とは、「あなた方が命を掛けてあの戦争を果敢に戦ってくれたおかげで、生き延びた者が今日の平和と繁栄を手に入れた」「あの戦争が今日の平和と繁栄をもたらした」と読むしかない。あたかも、あの戦争が正しいものだったと言わんばかりではないか。戦没者に捧げるものが「敬意と感謝の念」ではおかしくないか。実は、あの不正義の侵略戦争に加担させられた多くの戦没者の戦闘行為は、今日のわが国の「平和」や「繁栄」に何の因果関係も持たない。あの戦争を徹底して否定することから、今日の「平和」も「繁栄」も出発しているのだ。だから、戦没者に捧げるべきは「謝罪と悔恨と不再戦の決意」でなければならない)
「いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。国の責務として、ご遺骨の収集を集中的に実施し、一日も早くふるさとにお迎えできるよう、引き続き、全力を尽くしてまいります。」
(異論はない。厚労省によると22年末時点で海外での戦没者およそ240万人のうち、半数近い112万人ほどの遺骨が未収容のままなのだという。急がねばならない。「引き続き、全力を尽くす」では、あたかもこれまでも「全力を尽くして」きたようではないか)
「戦後、わが国は一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。
(正確には、「戦後、わが国の政権与党は一貫して、再軍備を図り国防国家建設を目指してまいりましたが、国民多数がこれに与せず、結果として平和国家としてその歩みを進めてまいりました」と言うべきだろう)
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いを今後も貫いてまいります。いまだ争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携え、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、そして、これからの世代のために、国の未来を切り開いてまいります。
(「積極的平和主義」がいけない。これは、安倍晋三以来、圧倒的な軍事力の増強によって自国の平和を守ろうという考え方を意味する。「積極的平和主義」の旗のせいで、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓い」は、再び敗戦の憂き目を見ることのなきよう軍備を増強する、という意味になりかねない)
「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまにはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」
(この文章は良い。飾り気なく、分かり易く、遺族の気持ちに添うものとなっている)
天皇(徳仁)もこの式に出席しただけでなく、一言述べている。首相と違って、その存在自体が違和感の塊なのだから、その一言々々に改めての違和感を論じるまでもないと言えばそのとおりではあるのだが…。
「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」
(「深い悲しみを新たにいたします」と、その程度のものだろうか。戦没者に対して、いたたまれない自責の念はないのだろうか。痛切な反省の思いの感じられない一言)
「終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。」
(「多くの苦難に満ちた国民の歩み」とは、戦争の惨禍からの立ち直りの過程を言っているのだろうが、「天皇の名による戦争」を起こし、苦難を強い、国体護持のために戦争終結を遅延した祖父の責任を、少しは身に沁みて感じているのだろうか)
「これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。」
(「私たち皆で心を合わせ続けることを、心から願います」って、意識的な天皇独特文法なのだろうか、それとも単なる出来の悪い文章に過ぎないのか)
「ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
(今年も挿入されたこの部分、「過去を顧み、深い反省の上に立って」が話題となっている。しかし、この「過去を顧みての深い反省」は、誰が誰に対して何を反省しているのか、さっぱり分からない。近代天皇制国家による侵略先近隣諸国民に対する殺戮や強奪の反省であれば立派なものだが、残念ながら「謝罪」の言葉がない。自国民に対する天皇の戦争への動員についての反省でも、戦没者遺族には慰謝になるのではないか。来年は、「過去を顧みての深い反省」の内容を明晰にする努力をしてみてはいかがか)
(2023年2月27日)
私は、爆心地近くの広島市立幟町小学校に入学している。「原爆の子の像」のモデル佐々木禎子さんの母校。小学校一年生だった私は、原爆ドームの瓦礫の中で遊んだ。広島が被爆して4年目のこと。そして、同じ広島市内の牛田小学校に転校し、さらに三篠小学校から、宇部の小学校に転校した。どこの小学校だったか、集合写真が1枚だけ残っている。もう、70年以上も昔のこと
私は、戦争のさなかに盛岡に生まれ、盛岡で終戦を迎えたのだから被爆の体験はない。が、原爆の爪痕の残る広島の姿は、おぼろげながらも記憶している。市民の「ピカ」に対する無念と恐怖の感情も。
私の平和志向は、あとで聞かされた戦時中の母の苦労と、この広島での生活体験が原点となっている。原爆こそは絶対悪である。けっして人類と共存することはできない。原爆を無くさなくては、人類が滅亡する。6歳での被爆体験を持つ中沢啓治の思いも同様であったろう。そして、はるかに強烈なものであったろう。
私は「はだしのゲン」には、思い入れが強い。感情を移入せずには読むことができない。広島市教育委員会が、平和教育の小学生向け教材から「はだしのゲン」を外す方針を決めたという報道が無念でならない。広島市よ、おまえもか。
広島市教委は2023年度、市立の全小中高の平和教育プログラム「ひろしま平和ノート」を初めて見直す。その際、小学3年向けの教材として、これまで採用していた漫画「はだしのゲン」を削除。別の被爆者の体験を扱った内容に差し替えるという。
「ゲン」を教材として採用した趣旨は、「被爆前後の広島でたくましく生きる少年の姿を通じて家族の絆と原爆の非人道性を伝える狙いで、家計を助けようと路上で浪曲を歌って小銭を稼いだり、栄養不足で体調を崩した身重の母親に食べさせるために池のコイを盗んだりする場面を引用している」(中国新聞)と報道されている。
これについて、教材の改訂案を検討した大学教授や学校長の会議で「児童の生活実態に合わない」「誤解を与える恐れがある」との指摘が出たという。市教委も同調。その上で、漫画の一部では被爆の実態に迫りにくいとして、もう1カ所あった、家屋の下敷きになった父親がゲンに逃げるよう迫る場面も新教材には載せないという。
戦争は悲惨である。原爆の被害は、その最たるもの。悲惨な場面の描写は避けて通ることができない。被爆者の団体も教材としての使用の維持を求めている。
市教委の今回の措置は実のところ、「悲惨な描写」が理由ではあるまい。「ゲン」がもつ「反戦」の姿勢が不都合なのだ。あるいは『反日』のしせい。戦争とは、加害と被害がないまじったものである。永く続いた日本の保守政権は、過去の戦争の被害の訴えには積極的だが、加害の反省にはまことに消極的である。地方自治体も、戦争の被害者性の訴えには寛容だが、戦争における日本の加害者としての描写には極めて非寛容となる。南京大虐殺にも、シンガポールの大検証にも、三光作戦にも、平頂山事件にも、731部隊にも、従軍慰安婦にも…。
広島・長崎への原爆投下を、それ自体としてだけ見れば、明らかなアメリカの過剰な加害行為で、日本の市民は甚大な被害者である。だから、原爆の被害を訴える展示や集会には、広島市に限らず地方自治体は寛容である。
しかし、「はだしのゲン」は、原爆被害だけを描いていない。原爆被害を素材としながらも、侵略戦争を引き起こした日本の加害者としての戦争責任にも遠慮なく踏み込んでいる。天皇への怨嗟も、軍部の横暴も描いている。戦時下の言論統制にも異議を唱えている。そして、アメリカの戦後責任にも。これが「反戦」の基本姿勢である。そして、ある種の人々から見れば『反日』でもある。これこそが、「ゲン」が単なるマンガを超えて多くの市民から支持された理由であり、同時に右翼や政府や自治体からは疎まれ煙たがられてきた原因なのだ。真実を語ればこその受難というべきであろう。
「はだしのゲン」を読み継ぐということは、日本の加害者としての責任を自覚し続けるということであり、反戦の思想を守り続けることでもある。「はだしのゲン」を大切に読み続けよう。
(2022年8月16日)
昨日(8月15日)は終戦記念日だった。「敗戦記念日」と称すべきとの意見もあるが、私は「終戦記念日」でよいとする。敗戦したのは天皇制国家であって、民衆ではないからだ。心ならずも戦禍に巻き込まれ、あるいは洗脳されて戦争に協力した国民の側からは、ようやくの終戦というべきだろう。
その終戦記念日には、毎年「全国戦没者追悼式」が行われる。このネーミングがはなはだよくない。「全戦争被害者追悼式」とすべきであろう。本来、「戦没者」とは戦陣で倒れた者である。従って、どうしても軍人・軍属の戦死・戦病死者を連想する。靖国に合祀される死者と重なる。
1963年5月14日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」以来、「本式典の戦没者の範囲は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人、軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含むものとする。)とする」とされてはいるが、どうしても民間戦争被害者の追悼は隅にやられるイメージを免れない。もちろん、「敵」とされた国の犠牲者への配慮は微塵もない。
昨日の式典での岸田文雄首相式辞全文を紹介して私の感想を述べておきたい。
「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」
式辞の冒頭に、遺族を差し置いての「天皇夫婦のご臨席を仰ぎ」は主客の転倒、順序が逆だ。戦没者にも遺族にも失礼極まる態度ではないか。天皇を主権者国民が「仰ぐ」もおかしい。そもそも、国民を死に至らしめた戦犯天皇(の末裔)をこの席に呼んでこようという発想が間違っている。呼ぶなら、謝罪を要求してのことでなければならない。
「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。」
先の大戦で失われた命は、300万余の同胞のものにとどまらない。300万余の同胞によって失われた近隣諸国の民衆の命もある。その数、およそ2000万人。日本の軍隊が外国に侵略して奪った命である。ちょうど、ロシアがウクライナに侵略して、残虐に無辜の人の血を流したごとくに。被害だけを語って、加害を語らないのは不公正ではないか。
「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」
なんと、自然災害の犠牲者に対する追悼文のごとくではないか。戦争は人間が起こしたものであって、その大量の殺人には理非正邪の判断が必要であり、無惨な死の悲劇には責任が伴う。その追及を意識的に避けるがごとき語り口ではないか。この犠牲の責任を明確にせずしては、「御霊安かれ」は実現しない。遺族も安心できようがない。
「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。」
これは戦没者追悼の常套句だが、警戒が必要だ。この言い回しには巧妙な仕掛けがある。「今日、私たちが享受している平和と繁栄」は、「戦没者が命を懸けて戦った成果」としてあるものではない。「戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」という式辞は、誇張ではなく嘘である。歴史的事実としては無条件敗戦の事態を迎えて戦没者の死は無に帰した。しかし、生存した者が戦争とはまったく異なる方法で国家を再生し「今日、私たちが享受している平和と繁栄」を作りあげたのだ。戦死者たちが夢想もしなかった、「国体の放擲」「民主主義」「人権」にもとづく平和と繁栄である。
とすれば、戦死は余りに痛ましい。その死の痛ましさ、無意味さを見つめるところから、戦後の平和と繁栄の本質を考えなければならない。が、決して政府がそう言うことはない。ときの社会と権力者が望むとおりに、命を捨てた者を顕彰しなければ、次ぎに必要なときに、国民を動員することができない。そのために、戦後の政権は戦死を美化し続けた。岸田も同じである。
「未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。」
それこそ、白々しい嘘だ。沖縄南部の激戦地には、「未だ帰還を果たしていない多くの遺骨」がある。政府は、この遺骨を含む土砂を辺野古新基地の埋立に使おうとしている。まずは、辺野古新基地建設工事の続行をやめよ。
「戦後、我が国は、一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。」
これも不正確だろう。「戦後の保守党・保守政権は、一貫して、日本国憲法を敵視し、大日本帝国憲法への復古を目指してきましたが、国民の間に広範に育った平和を望む声に阻まれて、改憲も戦争も実現せずに今日に至っています」が正しい。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。未だ争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、この国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。」
あらあら、ついに出た「積極的平和主義」。これは安倍造語、その正確な意味は「積極的に軍事力を増強し積極的な外国への軍事侵攻も躊躇しない、積極的な軍事活用による平和」ということ。これで切り拓かれる日本の未来はたいへんなものとなる。
「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」
私も終わりに、いま一度、言っておきたい。「戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を」は、この国が次の戦没者を作らねばならないときのための準備なのだ。真の意味で戦没者の死を意義あらしめるためには、戦争の悲惨さと非人道性を徹底して明らかにし、天皇を筆頭とする戦争犯罪者の責任を、国民自身の手で明らかにしなければならない。そうして初めて、本当の積極的平和が実現し、「戦没者と遺族の平安」がもたらされることになろう。
(2022年4月29日)
本日は「昭和の日」。大型連休の初日だが、東京は生憎の本降りの雨。しかも肌寒い。ツツジも、サツキも、フジも、冷雨にうたれて気の毒の限り。
このぐずついた天候のごとく、このところよいニュースがない。コロナ・ウクライナ・知床事故・道志村…。そして、諸式の物価高である。世の物価はなべて上がるが、賃金は上がらない、年金は下がる。株価だけが人為的な操作で持ちこたえ、持つ者と持たざる者との格差拡大に拍車がかかる。これでどうして、政権がもっているのやら。さらには、敵基地反撃能力だの、中枢機能攻撃だの、核シェアリングだの、防衛費倍増だの。ヒステリックで物騒極まりない見解が飛びかっている不穏さ。
そう思っていたら、北海道新聞のデジタル版に、以下の記事。
「改憲の賛否再び拮抗 9条改正「不要」57% 本紙世論調査」というのだ。これは朗報である。闇夜に一筋の光明とは大袈裟だが、元気が湧く。
「5月3日の憲法記念日を前に、北海道新聞社は憲法に関する全道世論調査を行った。
憲法を「改正すべきだ」は42%(前年調査比18ポイント減)、
「必要はない」は43%(同13ポイント増)
で拮抗(きっこう)した。
前年は新型コロナウイルスへの不安の高まりなどを背景に改憲意見が強まったが、再び賛否が二分する状態に戻った。
戦争放棄を定めた憲法9条については「改正すべきではない」が前年から横ばいの57%で、「改正すべきだ」の35%(同1ポイント減)を上回った。
自民党などはロシアによるウクライナ侵攻を機に9条改正に向けた議論の進展を図っているが、市民の間に改憲論は強まっていないことが浮き彫りになった。」
これが、憲法記念日直前の、全道の憲法意識なのだという。これから、順次全国の世論調査が実施され結果が発表されることになるだろうが、「市民の間に改憲論は強まっていない 」とは幸先のよい調査結果ではないか。
いま、ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、反憲法勢力が懸命に笛を吹いている。曰わく、「自分の国は自力で防衛しなければならない」「平和を望むなら、軍事力の増強が不可欠である」「それに桎梏となっている憲法を、とりわけ9条を変えなければならない」と。
この笛を吹いている側の勢力が、自・公・維・国の保守4党。しかし、国民はけっしてこの笛に踊らされてはいないのだ。むしろ、平和への危機意識が「9条守れ」の声に結実しているのではないか。道新の世論調査が、貴重なその第一報となった。さて、これから、メーデーがあり、憲法記念日となる。改憲阻止の世論を大きくしていきたいもの。
ところで、「昭和の日」である。昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし、侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した、平和憲法に支えられた時代。戦前が臣民すべてに天皇のための滅私奉公が強いられた時代であり、戦後が主権者国民の自由や人権を尊重すべき原則の時代、といってもよい。
本日は、戦前の軍国主義昭和を否定し、戦後の平和主義昭和を肯定的に評価すべき日でなくてはならないが、なんと、本来の「昭和の日」に、もっともふさわしからぬ人物の誕生日を選んだことになる。疑いもなく、昭和天皇と諡(おくりな)された裕仁こそが、戦前の狂信的軍国主義を象徴する人物にほかならないのだから。
あの昭和前期の軍国主義の時代、国民には裕仁や軍部の手口が、見えなかった。いま、プーチン・ロシアが、隣国ウクライナに侵略戦争中の「昭和の日」を迎えてこのことを思い起こすべきだろう。
プーチンの国内世論の支持はすこぶる高いと報じられている。皇軍の侵略を支えた日本国民の民意はそれを圧倒するものだったろう。プーチンの手口はヒロヒトの軍隊とよく似ている。戦前の日本の歴史を見据えて、プーチン・ロシアの責任を見極めよう。そして、プーチンもヒロヒト同様に、内外に戦争の惨禍をもたらした戦争犯罪者であり、平和への敵であることを確認しなければならない。
戦前の軍国主義昭和を否定し、戦後の平和主義昭和を肯定する立場からは、憲法の理念を擁護し、憲法の改正を阻む決意あってしかるべきである。そうであって初めて、「昭和の日」の意義がある。
(2021年12月9日)
昨日の当ブログの記事「1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために」を読み直すと不満足と言うしかない。本日はその補訂である。
不満足は、なによりも「繰り返してはならない12月8日の過ち」のなんたるかが十分に語られていないことにある。いったい、あの時点において、どんな過ちがあっただろうか。
天皇(裕仁)や東條らも、開戦後間もなく戦況が悪化した後は「取り返しのつかない過ち」を反省したに違いない。その反省は、「負ける戦を仕掛けた過ち」以上のものではない。「もっと慎重に時期を選び、もっと十分に準備をして、勝てる戦争をすべきだった」という反省なのだ。天皇(裕仁)は御前会議で、くりかえし「勝てるか」「本当に勝てるか」と軍部に念を押してゴーサインを出している。最高指導者の「過ち」と「反省」は、負けたことに尽きるのだ。決して、「戦争を仕掛けたことの過ち」でも、「平和を維持できなかった過ち」でもない。
責任の所在と軽重は、常に権限の所在と軽重に対応している。厖大な内外の死者を出した悲惨な戦争の責任は、まず開戦の権限をもつ天皇(裕仁)にあり、次いでこれを補弼する任にあった内閣や軍部にも分有されていた。天皇(裕仁)を除く補弼の責任者は、戦後文明の名において裁かれその責任を生命をもって償った。ひとり、最高責任者である天皇(裕仁)のみが、まったく責任をとらなかった。
いかなる戦争も、おびただしい無辜の人々にこの上ない不幸をもたらす。我々は戦後、戦争そのものを悪とする非戦の思想をわがものにし、これを日本国憲法に刻んだ。この視点から、太平洋戦争を開始した指導者たちの責任を厳しく追及しなければならない。日清・日露も韓国併合も日中戦争も、決して繰り返してはならないのだ。
戦争責任の所在とは別に、12月8日の開戦に対する国民の意識や意見にどのような教訓があるだろうか。
人の意見は、基本的にはその人のもつ思想の表れだが、その人のもつ情報によって大きく左右される。12月8日の国民の意見は、開戦後の戦況見通しの基礎となる情報をもっているかいないかで決定的に異なることになった。
近衛文麿、松岡洋右らが「えらいことになった」「僕は悲惨な敗北を予感する」「僕は死んでも死にきれない」などと語ったというのは、しかるべき情報をもち、戦争の結果を予想し得たからであろう。南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」という下手な歌のごときものは嘆息とも感激とも読めなくはないが、いずれにせよこの開戦は「常識ではあり得ぬもの」と認識していたのだ。ある程度の情報はあったのだろう。そして、将来を見る能力も。
他の多くの国民や作家たちは、判断の基礎となる情報をもたない。日本と米国との国力差、工業力差、兵力差、総合的な軍事力の格差、そして教育水準や、国民の戦意等々についての基礎情報を持たぬまま、日本型ナショナリズムの高揚に流されていた。
小林秀雄が日本型ナショナリズムの高揚に流された典型だろう。開戦の詔勅を聞いて<眼頭は熱し、畏多い事ながら、比類のない美しさを感じた><海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた>という。知性あるように見える人も、ここまで洗脳されるのだ。
市井の人々の中に、「英米を敵にまわして勝てるわけがない」と言った多くの人がいたことも記録されている。十分な情報はなくとも、真実を見ようという思想を持っていた人の真っ直ぐな目と意見である。
そして最後が、十分な情報を持ちながら、間違った選択をした、最も愚かで責任の大きな一群。当然にその筆頭に天皇(裕仁)がいる。しかし、当時天皇(裕仁)とその官僚への批判は許されなかった。それが負け続け、被害を拡大しつつなお、戦争をやめることができない原因となった。
権力は間違う。批判を許さぬ権力は大きく間違う。国民からの権力批判だけが間違いを修正しうるが、権力批判は封じられていた。12月8日に噛みしめるべき教訓である。
(2021年8月17日)
一昨日(8月15日)には、政府主催の式典だけでなく、東京都と都遺族連合会共催の戦没者追悼式が都庁で開かれている。知事や遺族ら90人が参列した。
遺族を代表して追悼の言葉を述べたのは、遺族会女性部幹事の木村百合子さん。木村さんの父は、1944年の終わりに出征。当時、妻のおなかにいた木村さんの顔を見ることなく、45年4月にフィリピン・ルソン島で戦死したという。
木村さんは「どんなに待っても、何年待っても、父は帰ってこない。毎日父を思っています。この心境は遺族でなければ分からない。戦争に行った兵隊さんだけでなく、留守を預かった母たちも大変だったことを伝えたい」と報道陣に語っている。誰もが、共感せざるを得ない。
その木村さんは、式では献花台の前で「安らかにお眠りください」と追悼の言葉を述べ、最後に「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけた。これは悲痛な言葉だ。この問は、次のように続けることができよう。
お父さん、なぜ母や私を残して戦争に行ったのですか。お父さんが戦争に行くことさえなければ、母にも私にも、もっと幸せな別の人生があったはず。どうして見たこともない遠い外国にまで戦争に行ったのですか。どうして戦争に行くことを拒否しなかったのですか。どうして戦争が起きたのですか。誰が、なぜ、戦争を起こしたのですか。どうして、皆で戦争を止められなかったのですか。
その問いは、今なお生々しく、新鮮である。
明治政府は国民の抵抗を排しつつ国民皆兵の制度を確立していった。1873年に陸軍省から発布された徴兵令を嚆矢として累次の法整備を重ね、1927年4月1日に徴兵令全文改正の形式で兵役法の制定に至っている。
その第1条は、「帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」と、男子の国民皆兵制度を定めていたが、当時は例外の範囲が広かった。しかし、アジア太平洋戦争の進展とともに、徴兵免除の範囲は狭められ、兵役の年齢幅は拡げられていった。徴兵の忌避には次のとおり、同法での罰則が科せられていた。
第74条 兵役ヲ免ルル為逃亡シ若ハ潜匿シ又ハ身体ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作為シ其ノ他詐偽ノ行為ヲ為シタル者ハ三年以下ノ懲役ニ処ス
第75条 現役兵トシテ入営スベキ者正当ノ事由ナク入営ノ期日ニ後レ十日ヲ過ギタルトキハ六月以下ノ禁錮ニ処シ戦時ニ在リテ五日ヲ過ギタルトキハ一年以下ノ禁錮ニ処ス
徴兵逃れの涙ぐましい工夫や、信仰上の信念からの徴兵忌避の事例はけっして少なくはない。しかし、多くの国民にとっては、徴兵は「しかたのないこと」「とうてい抗うことのできない宿命」として受けとめられた。「世間」は、徴兵による出征を「御国のための名誉」として送り出し、戦死さえも「名誉の戦死」と褒め称えた。その同調圧力には抗すべくもなく、徴兵逃れは法的に処罰の対象とされただけでなく、社会的に「非国民」の所業と指弾されたのだ。
維新政府は、そのような軍事国家体制を作りあげた。天皇を利用し、教育とマスコミを統制することによって。
「しかたなかったと言うてはいかんのです」は至言である。「しかたなかった」と言わざるを得なくなる前に、国民に不幸を強いる国家を拒否しよう。再び、不幸な子が、亡き父に「お父さん、教えてください。なぜ戦争に行ったのですか」と問いかけることのないように。
(2021年2月9日)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所のみなさま。私が最後のスピーチを担当いたします。コロナ風吹く中のお騒がせですが、もう5分と少々の時間、耳をお貸しいただくようお願いします。
森喜朗という、昔首相だった化石のような人の東京五輪の組織委員会会長としての女性蔑視発言が話題となっています。この人の発言の不適切なことは、誰にも分かり易いところですが、今大きな問題とされているのは、この人がJOCの評議員会で発言していたとき、誰もこの発言を問題視せず、むしろ男性会員からの笑い声さえ漏れていたと報じられていることです。
森喜朗のあからさまな女性蔑視発言を批判する人が一人もいなかったということは、評議員会参加者が、その沈黙によって差別を肯定し賛同し加担したということにほかなりません。外部からそのように見られるというだけではなく、そのような方針で組織が動いていくことになるのです。評議員会出席者一人ひとりの責任は、まことに重大と言わねばなりません。
このことは、私たち一人ひとりに問題を投げかけています。時として沈黙は、権力者や社会的強者の大きな声に賛同したことになるということです。女性差別、民族差別、宗教差別、思想差別、家柄による差別、職業や収入による差別…、あらゆる差別を許してはなりません。許してはならないということは、差別を傍観してはならず、明確に反対だということを表明しなければならないということです。
かつて、日本は暴走して侵略戦争の過ちを犯し、外には2000万人、内には310万人もの犠牲者を出しました。その重大な責任はどこにあるのか。もちろん、誰よりも天皇がその責任を負うべきで、次いで天皇を操り人形として戦争遂行に利用した軍部や政治家やメディアの責任を曖昧にしてはなりません。しかし、多くの国民の加担なしには戦争はできません。自分は決して戦争に賛成ではなかったというのが、大多数の国民のホンネであったと思います。しかし、戦争に反対と声をあげたのは一握りの人々に過ぎませんでした。大多数の人々は、沈黙することで、戦争に賛成し、侵略に加担したのです。
東京オリパラや、原発政策は、聖戦完遂に似ているように思えてなりません。きちんと反対の意思表示をせず、沈黙していることは、結局のところ、政府の政策に賛成とみなされてしまうのです。いま、「森喜朗発言を許さない」「あらゆる差別に反対する」と、一人ひとりが声をあげることが大切だと思うのです。
さらに別の角度からも問題が指摘されています。森喜朗の女性蔑視発言を批判する世論に抗して、政権や与党から、森擁護の声が上がっていることです。
圧倒的な世論が「こんな発言をする人物は、組織委員会会長として不適任」「森さんは辞任すべきだ」「東京オリンピックもやめた方がよい」となっています。この世論に抵抗するように、多くの政治家や保守の言論人が、こう言っています。
「森発言は不適切ではあったが、既に本人は反省し謝罪し発言を撤回しているではないか」「いまは、批判しているときではない。オリンピックをどうしたら成功に導くことができるのか、皆で知恵を出すべきだ」
その代表が、菅義首相、萩生田文科大臣、二階自民党幹事長、などの面々。そして肝心のIOC自身が、これに同調するようないいかげんな姿勢なのです。果たして、これでよいのでしょうか。
JOCだけではなくIOCも、このようにいいかげんで、清潔さを欠いた組織であることが明らかになってきました。私たちは、黙っていることはできません。いま沈黙をすることは、森発言を許す、菅・萩生田・二階・JOC・IOC発言に賛同したことになってしまいます。何らかのかたちで、声をあげようではありませんか。
「私は、女性蔑視を許さない」「性差別だけでなく、あらゆる差別に反対する」「差別発言の責任を明確にして、森喜朗は組織委員会会長の職を辞任せよ」「森喜朗が辞職しないのであれば、組織委員会は解任せよ」「政府や与党は、森を擁護するな」「差別者が推進する東京オリパラを返上せよ」
(2020年8月15日)
8月15日。75年前の今日、「戦前」が終わって「戦後」が始まった。時代が劇的に変わった、その節目の日。天皇の時代から国民の時代に。国家の時代から個人の時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、専制の時代から民主主義の時代に…。
その時代の変化は、「敗戦」によって購われた。「敗戦」とは、失われた310万の国民の生命であり、幾千万の人々の恐怖や餓えであり、その家族や友の悲嘆である。人類にとって、戦争ほど理不尽で無惨で堪えがたいものはない。敗戦の実体験をへて、国民は戦争の悲惨と愚かさを心に刻んで、平和を希求した。
再びの戦争の惨禍を繰り返してはならない。その国民の共通意識が、平和憲法に結実した。日本国憲法は、単に9条だけではなく、前文から103条までの全ての条文が不再戦の決意と理念にもとづいて構成されている。文字どおりの平和憲法なのだ。
以下のとおり、憲法前文は国際協調と平和主義に貫かれている。8月15日にこそ、あらためて読み直すべきある。
「日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果…を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する。」(第1文)
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(第2文)
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(第3文)
とはいえ、日本国憲法を理想の平和憲法というつもりはない。この前文には、日本の加害責任についての反省が語られていない。そして、この戦争の被害・加害を作り出した国家の構造と責任に対する弾劾への言及がない。
「戦争の惨禍」という言葉は、戦争による日本国民の被害を意味する。政府と国民が近隣諸国に及ぼした、遙かに巨大な被侵略国の被害を含むものと読み込むことはできない。日清戦争以来日本が関わった戦争の戦場は、常に「外地」であった。敗戦の直前まで、「本土」は戦場ではなかったのだ。日本本土の国民にとって、戦争とは、外征した日本の軍隊が、遠い外国で行うものだった。その遠い外国に侵略した皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆の悲嘆に対する認識と責任の意識が欠けている。
また、日本の植民地支配・侵略戦争をもたらし支えた日本の国家機構が天皇制であり、その最大の戦争責任が天皇裕仁にあることは自明というべきである。にもかかわらず、日本国憲法は、その責任追及に言及することなく、象徴天皇として天皇制を延命してさえいる。敗戦の前後を通じ、大日本帝国憲法と日本国憲法の両憲法にまたがって、裕仁は天皇でありつづけたのだ。
国民を戦争に動員するために、聖なる天皇とはまことに便利な道具であった。神なる天皇の戦争が万が一にも不正義であるはずはなく、敗北に至るはずもない。日本男児として、天皇の命じる招集を拒否するなど非国民の振る舞いはできない、上官の命令を陛下の命令と心得て死をも恐れず勇敢に闘う。ひとえに陛下のために。天皇制政府はこのように国民をマインドコントロールすることに成功していたのだ。
3代目の象徴天皇(徳仁)が、本日全国戦没者追悼式に臨んだ。主権者国民を起立させての発言の中に、「過去を顧み、深い反省の上に立って」との一節がある。「過去天皇制が自由や民主主義を弾圧したことに顧み、その罪科の深い反省の上に立って」との意であれば立派な発言なのだが…。
また、同式典では、アベ晋三がいつものとおり、こう式辞を述べた。
今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
この言い回しに、いつも引っかかる。「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」とはいったいどういうことなんだ。
天皇のための死も、国家のための死も、死はまことに嘆かわしく虚しいものだ。これを「尊い犠牲」などと美化してはならない。天皇と政府は、戦没者とその遺族にひたすら謝罪するしかないのだ。特攻の兵士の死が、レイテで餓死した将兵の死が、東京大空襲や沖縄地上戦での住民の死が、何故「尊い犠牲」であろうか。全ては強いられた無意味な死ではないか。その死を強いた者の責任をこそ追及しなければならない。
コロナ禍のさなか、世の人の憂いをよそに季節はめぐる。里桜も終わってツツジが咲き、蓮の浮き葉が水面を覆い始めた。少し歩くと汗ばむ陽気。天気も申し分ない本日、「昭和の日」だという。いったい、それは何だ。
1948年制定の「国民の祝日に関する法律」(祝日法)は、その第1条で、「国民の祝日」の趣旨を述べる。
第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
なかなか意味深長ではないか。日本国民は、「自由と平和を求めてやまない」というのだ。自由も平和も、富国強兵の戦前にはなかった。挙国一致・滅私奉公は、臣民の自由を抹殺した。天皇の神聖性を否定する思想も信仰も言論も結社も弾圧された。そして、戦前の日本は軍国であった。侵略戦争も植民地主義も国是であった。
天皇は国民皆兵の臣民に向かって、「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」などと、超上から目線でエラそうに言って、臣民には死ねと命じて、自らは生き延びた。こんな不条理に怒らずにはおられない。
「自由と平和を求めてやまない」という、この国民の祝日の趣旨は、明らかに戦前の不合理を否定した新憲法の価値を謳っている。
その祝日法は数次の改正を経て、現行法では「昭和の日」をこう定めている。
第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
これも意味深である。「激動の日々」とは、あの戦争のこと以外に考えようがない。敢えて「戦争」と言わないのは、「戦争の日々」だけではなく、「戦争を準備し、戦争に突き進んだ戦前の日々」を含むとの含意であろう。日本国憲法の言葉を借りれば、「政府の行為によって戦争の惨禍を起した」反省の対象たる日々である。
昭和の日の定めの文言は、昭和という時代を「戦前」と「戦後」に二分して対比し、戦前を否定し戦後を肯定している。しかし、戦前を「激動」としか言わず、戦後を「復興を遂げた」としか言わない。国民主権も、民主主義も、人権尊重も、天皇制も、自由も、平和も出てこない。なんとも、いいかげんで不満の募るところではある。
何よりも、どうして昭和の日が4月29日なのか。それが語られていない。戦前と戦後を対比するにふさわしい日は、8月15日であろう。あるいは、ポツダム宣言受諾の8月14日。この日を境に、日本という国の拠って立つ基本原理が大転換したのだ。
昭和を戦争の時代と顧みるならば、8月6日の広島市民の被害の日、あるいは12月13日の南京市民に対する加害の日がふさわしかろう。
昭和を戦争開始の責任反省の観点から顧みるならば、9月18日か、7月7日か、あるいは12月8日となるだろう。
なぜ、4月29日なのか。なぜ、国民を不幸に突き落とした最高戦争責任者の誕生日なのか。なぜ、戦前天長節として臣民に祝意表明を強要された日が昭和の日なのか。
コロナ禍で、外出自粛を要請されている今日の「昭和の日」である。昭和という時代をよく考えてみたい。自ずから、戦争を考え、戦争の責任を考え、とりわけ天皇の戦争責任を考え、戦後国民が手にした貴重な自由や平和の価値を考えなければならない。
(2020年4月29日)
昨日(10月10日)の午後、東京地裁で建造物侵入の罪に問われた香港人2人の被告に有罪判決が言い渡された。
被告の1人は郭紹傑(グオ・シウギ55才)、言い渡しの量刑は懲役8月・執行猶予3年(求刑1年)。もう一人は厳敏華(イン・マンワ27才)、懲役6月・執行猶予3年(求刑10月)。2人は即日控訴したという。
2人は何をしたのか。昨年(2018年)12月12日、南京大虐殺への抗議活動のために靖国神社(東京都千代田区)の敷地に入って、郭氏が横断幕を広げて抗議のパフォーマンスをし、厳氏がこれを撮影した。「サンデー毎日」記事に拠れば、「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳で『南京大虐殺を忘れるな! 日本の虐殺の責任を追及する』と中国語で書かれた横断幕を広げ、東條英機元首相の位牌を模した紙を燃やし、もう一人はそれを撮影していた」という。南京大虐殺は、1937年12月13日皇軍の南京占領に始まる。12月12日の靖国での行動は、翌13日に「南京大虐殺を忘れるな!」という放映のためであったろう。彼らにとっては、その撮影場所は靖国神社でなければならなかった。
靖国神社の開門時刻は午前6時という。この撮影時刻は早朝7時のこと。混乱はまったく起きていない。実害のない行為だった。2人に気づいた守衛に制止されて、2人は撮影を止め境内から退去の寸前に、現行犯逮捕され、起訴された。以後10か月間,保釈申請と却下が繰り返され、長期勾留が続いた。支援団体は、この事態を「見せしめ勾留」と抗議し続けてきた。実に、300日間の長期勾留となった。
問題はいくつもある。まず、犯罪構成要件の解釈。本来厳格であるべき解釈が、こんな緩い解釈でよいのだろうか。
刑法第130条(住居侵入等)「正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。」
公訴事実は、「被告人両名は、共謀の上、正当な理由がないのに、…(靖国神社の)「外苑」と称される敷地内に、同神社神門前、参道入り口から侵入した」というもの。2人は、施錠を壊しあるいはドアを破って建造物に侵入したわけではない。だれもが平穏にはいることのできる「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳」まで足を運んだことが、「建造物」に「侵入」したとされた。朝日は、「靖国神社境内は「建造物」 侵入し抗議の中国人2人有罪」と見出しを打った。「敷地」が「建造物」であり、だれもが平穏に入れるところに「侵入」とされたわけだ。
判決理由で野沢晃一裁判長は「抗議活動は宗教施設の平穏な環境を害する」と指摘し、「管理権者は参拝以外の目的による立ち入りを禁止しており、管理権を侵害している」と述べたという。はたして、本当にそうなのか、これでよいのだろうか。
この事件では、靖国神社になんの実害もない。2人の靖国神社境内立ち入りの意図が、靖国神社に何らかの実害をもたらすことにあったわけでもなく、表現の自由行使という側面は否定しえない。この微罪に対して、逮捕し、起訴し、さらに10か月に及ぶ勾留を敢えてしたのだ。まさしく「見せしめ弾圧」というにふさわしい。カルロス・ゴーンのケースよりも、はるかに深刻な「人質司法」弊害の典型例というべきだろう。
郭被告は、昨年(2018年)12月『長期勾留』に抗議して、約100時間絶食し、その結果同27日体調不良で検査のため病院に運ばれた」という。また、第1回公判の罪状認否では、「戦争責任を認めないことへの抗議行動で、表現の自由の範囲内だ」と主張したと報道されている。
この事件の被告2人の立場は極めて弱い。天皇代替わりで日本のナショナリズムが沸騰しているこの時期、政権と靖国と日本社会の圧倒的多数派世論を直接の敵にまわしているからだ。しかも、外交的に困難な事情として、中国は味方になってくれないということもある。しかし、最も弱い立場の人権こそが擁護されなければならない。ゴーンのように注目されないこの事件に、世論の関心を期待したい。
むしろこの機会に、2人が訴えたいとした香港の人びとの、靖国に象徴される日本の加害責任追及の声に耳を傾けたい。
以下、9月24日東京新聞朝刊「こちら特報部」「市民運動弾圧のにおい」から抜粋して引用する。
まず、香港事情に詳しいジャーナリスト和仁廉夫氏の説明。
米国と開戦した日本が最初に占領したのが、イギリス領だった香港だ。1941年12月25日から3年8ヵ月、軍政下に置いた。殺りくや略奪も多発したという。厳被告も、香港で暮らしていた祖母が日本兵にレイプされないよう、泥墨を顔に塗って男の子のように装い、難を逃れたという経験を聞いて育った。
「72年に日中の国交は正常化した。その後、日本社会は加害の歴史に目を背けてきた。最近はその傾向か強まっている。謝罪も償いも受けられなかった人々に不満が高まっている」と和仁さんは語る。
「靖国神社はアジアの人々にとって先の戦争の象徴だから、日本社会が戦争責任に向き合わない限り、同様の抗議は繰り返されるだろう」
そして、これも「特報部」からの抜粋。
立命館大学法科大学院の松宮孝明教授(刑法)は検察側の解釈に疑問を持つ。
? 「建造物内部に侵入したのと同じ程度に建物内の平穏が乱されたのでなければ、建造物侵入罪を適用すべきではない」。そして「建造物侵入を唯一の罪として、検察官の裁量で適用が拡大されるなら、市民運動の弾圧にも使える」と問題点を指摘する。
すでに弾圧のにおいがする事件も起きている。
一つは「立川テント村事件」。東京・立川の自衛隊官舎の集合ポストに反戦ビラを投函した市民グループの3人が住居侵入罪に問われた。もう一つが「政党ビラ事件」。こちらは、葛飾区のマンションのドアポストに日本共産党の議会報告ビラなどを入れていた男性が同罪に問われた。いずれも2004年に起きた。
松宮氏は「立川の事件では日中に平穏のうちに行われたビラまきが住居侵入だとして逮捕され、長期間、拘束された。住居でも建物でも、付随した土地での管理者の意に反する行動はすべて侵入罪に問われかねない。特に政治色を帯びた活動が狙われ、思想弾圧の道具にも使われるようになる」と批判する。
さらに松宮氏は香港の2人の勾留が長期に及んだことに疑問の目を向ける。「建造物侵入しか罪状がなくても、ここまで取り締まれるという先例をつくるための裁判ではないか」「日本の市民社会を萎縮させる可能性を持つ、大変危険な裁判だ」。
昨日の判決は、この疑念を払拭することなく、むしろ疑念を確認するものとなってしまった。控訴審の帰趨にも、注目しなければならない。
(2019年10月11日)