批判されない権力は間違う。批判を許さない権力は間違いを修正できない。
(2021年12月9日)
昨日の当ブログの記事「1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために」を読み直すと不満足と言うしかない。本日はその補訂である。
不満足は、なによりも「繰り返してはならない12月8日の過ち」のなんたるかが十分に語られていないことにある。いったい、あの時点において、どんな過ちがあっただろうか。
天皇(裕仁)や東條らも、開戦後間もなく戦況が悪化した後は「取り返しのつかない過ち」を反省したに違いない。その反省は、「負ける戦を仕掛けた過ち」以上のものではない。「もっと慎重に時期を選び、もっと十分に準備をして、勝てる戦争をすべきだった」という反省なのだ。天皇(裕仁)は御前会議で、くりかえし「勝てるか」「本当に勝てるか」と軍部に念を押してゴーサインを出している。最高指導者の「過ち」と「反省」は、負けたことに尽きるのだ。決して、「戦争を仕掛けたことの過ち」でも、「平和を維持できなかった過ち」でもない。
責任の所在と軽重は、常に権限の所在と軽重に対応している。厖大な内外の死者を出した悲惨な戦争の責任は、まず開戦の権限をもつ天皇(裕仁)にあり、次いでこれを補弼する任にあった内閣や軍部にも分有されていた。天皇(裕仁)を除く補弼の責任者は、戦後文明の名において裁かれその責任を生命をもって償った。ひとり、最高責任者である天皇(裕仁)のみが、まったく責任をとらなかった。
いかなる戦争も、おびただしい無辜の人々にこの上ない不幸をもたらす。我々は戦後、戦争そのものを悪とする非戦の思想をわがものにし、これを日本国憲法に刻んだ。この視点から、太平洋戦争を開始した指導者たちの責任を厳しく追及しなければならない。日清・日露も韓国併合も日中戦争も、決して繰り返してはならないのだ。
戦争責任の所在とは別に、12月8日の開戦に対する国民の意識や意見にどのような教訓があるだろうか。
人の意見は、基本的にはその人のもつ思想の表れだが、その人のもつ情報によって大きく左右される。12月8日の国民の意見は、開戦後の戦況見通しの基礎となる情報をもっているかいないかで決定的に異なることになった。
近衛文麿、松岡洋右らが「えらいことになった」「僕は悲惨な敗北を予感する」「僕は死んでも死にきれない」などと語ったというのは、しかるべき情報をもち、戦争の結果を予想し得たからであろう。南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」という下手な歌のごときものは嘆息とも感激とも読めなくはないが、いずれにせよこの開戦は「常識ではあり得ぬもの」と認識していたのだ。ある程度の情報はあったのだろう。そして、将来を見る能力も。
他の多くの国民や作家たちは、判断の基礎となる情報をもたない。日本と米国との国力差、工業力差、兵力差、総合的な軍事力の格差、そして教育水準や、国民の戦意等々についての基礎情報を持たぬまま、日本型ナショナリズムの高揚に流されていた。
小林秀雄が日本型ナショナリズムの高揚に流された典型だろう。開戦の詔勅を聞いて<眼頭は熱し、畏多い事ながら、比類のない美しさを感じた><海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた>という。知性あるように見える人も、ここまで洗脳されるのだ。
市井の人々の中に、「英米を敵にまわして勝てるわけがない」と言った多くの人がいたことも記録されている。十分な情報はなくとも、真実を見ようという思想を持っていた人の真っ直ぐな目と意見である。
そして最後が、十分な情報を持ちながら、間違った選択をした、最も愚かで責任の大きな一群。当然にその筆頭に天皇(裕仁)がいる。しかし、当時天皇(裕仁)とその官僚への批判は許されなかった。それが負け続け、被害を拡大しつつなお、戦争をやめることができない原因となった。
権力は間違う。批判を許さぬ権力は大きく間違う。国民からの権力批判だけが間違いを修正しうるが、権力批判は封じられていた。12月8日に噛みしめるべき教訓である。