澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

君が代不起立に対する懲戒処分には、理由付記不備の違法という取消事由もある。

(2023年3月24日・連日更新満10年まであと7日)
 昨日、東京「君が代」裁判・5次訴訟の第9回口頭弁論期日が開かれ、原告は準備書面(12)を陳述した。これが、新しい処分違法事由の主張となっている。

 「行政手続法」上、公権力の行使としての不利益処分には処分理由の付記が要求される。その理由付記に不備があれば、それだけで当該の不利益処分は違法とされ、取消されることになる。そのような制度の趣旨を、最高裁は「行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその恣意を抑制するとともに、処分の理由を名宛人(処分対象者)に知らせて不服申立てに便宜を与える趣旨に出たもの」と説明している。

 問題は、どこまでの理由付記が求められるかである。理由付記の制度の趣旨に鑑みて、最高裁は抽象的にはこう言っている。「当該処分の根拠法令の規定内容、当該処分に係る処分基準の存否及び内容並びに公表の有無、当該処分の性質及び内容、当該処分の原因となる事実関係の内容等を総合考慮して決定すべきである」。こう言われても、よく分からない。

 しかし、同じ最高裁が、一級建築士に対する免許取消の処分についての具体例において、必要とされる付記理由の範囲を、「処分の原因となる事実及び処分の根拠法条に加えて、本件処分基準の適用関係が示されなければ、処分の名宛人において、上記事実及び根拠法条の提示によって処分要件の該当性に係る理由は知り得るとしても、いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることは困難であるのが通例であると考えられる」(第3小法廷2011年判決)との判断を示した。

 つまりは、付記すべき理由としては「処分の原因となる事実及び処分の根拠法条」だけでは足りない。これに加えて、「本件処分基準の適用関係」を示さなければならない。そうでなくては、「いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかが分からない」という。換言すれば、「いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかが分かるように、本件処分基準の適用関係まで理由を付記せよ」と言っているのだ。その観点から、最高裁は一級建築士に対する免許取消処分を、理由付記に不備の違法があるとして取り消した。

 もっとも「行政手続法」の当該条項は、公務員の懲戒処分には直接適用はないこととされている。しかし、行政機関が公務員に対して懲戒処分をおこなうに際し、その手続的な適正・公正が同様に確保されなければならないことは、憲法31条(適正手続の保障)に照らして、当然のことというべきである。

 最高裁判決が説く処分理由付記が求められる根拠と具体的な範囲は、君が代・不起立で懲戒処分を受けた本件原告ら各教員の件においても、「処分の名宛人において、当該処分が選択された理由を知ることができる程度の理由の記載が求められる」とした前記最高裁2011年判例の判示が妥当するものというべきである。

 ところで、都教委が公表している服務事故に対する「懲戒処分及び措置の基準」としては、大別して、「措置(文書訓告)、指導、懲戒処分(免職、停職、減給、戒告)」により行政責任が問われるとされている。

 ということは、本件原告ら教員に対する処分理由として、「なにゆえに、措置(文書訓告)でも、指導でもなく、地公法上の『懲戒処分』が必要と判断されたか」まで付記しなければならないが、それはない。したがって、原告らがその理由を読み取ることはできない。このことは、明らかな最高裁が求める理由付記の不備であり、手続上の違法である。

 整理をすれば、こんなところである。
 公務員に対する地方公務員法上の懲戒処分においても、「処分の名宛人において、上記事実及び根拠法条の提示のみならず、いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることができる程度」の理由の記載が要求されているとところ、本件において原告らに交付された各処分説明書においては、これが欠けることが明らかである。原告らは、いかなる考慮を踏まえて文書訓告や指導に止まらない懲戒処分が選択されたかを知り得ず、理由付記として十分ではない。したがって、本件各懲戒処分は理由付記不備の違法があり、手続的に公正・適正を欠くものとして取り消されなければならない。

 準備書面(12)は以上の主張を前提に、いかなる考慮を踏まえて、文書訓告や指導に止まらない懲戒処分が選択されたかを中心に、被告都教委に対して詳細な求釈明をしている。

 この訴訟では、君が代不起立に対する処分を違憲違法とし、また処分権限の逸脱濫用と主張してきた。それに加えて、本準備書面において、理由付記不備の手続き的違法を主張するものである。

校長、お言葉ではございますが、批判のない真面目さは悪をなします。

(2023年3月4日)
本日は、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の原告団会議。遠慮のない意見交換の場でありながら、和気藹々たる雰囲気が心地よい。訴訟進行に伴っての、こまごまとした打合せのあとに、メインの議題として、訴訟に提出する各原告の陳述書の内容の検討がされた。

最初の検討対象が、Sさんの第2稿。第1稿に対する意見を反映したものだが、私の第一印象は「よくできてはいるが、長い」ということ。ワープロソフトで字数を数えると、3万0673字、400字詰原稿用紙換算で77枚、裁判所提出用の標準書式では35ページとなる。ミニ卒論並みではないか。しかし、大方の意見は「長いが、よくできている」という評価。

「裁判官が読む気になってくれるだろうか」というのが、私の危惧だったが、反論が相次いだ。「いや、流れるような文章で読み易い」「どこかをカットして短くするのは難しいのでは」「野球部の顧問としての活動に相当のスペースが割かれているが、省くとすればここかも」「いや、日の丸・君が代にこだわる教員が、実はごく普通の教員だということを理解してもらうためには省かない方がよいと思う」「第1次訴訟では100ページを越す陳述書もあった。それにくらべて、異常に長いというほどではない」。結局は、これ以上長くはせぬよう、更に本人の推敲を期待するという結論に。

次いで、Kさんの第4稿。これはほぼ完成稿だが、結構な長文である。2万5722字、400字詰めで65枚分。この人特有の問題があって長文とならざるを得ないことで了解。この陳述書のなかの「校長が教員に卒業式の(起立・斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が『かしこまりました。しっかり務めます』と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました」という個所がひとしきり話題となった。

「昔の都立高では考えられない風景」「上司からの指示や命令には服従すべきが、当然と思っている雰囲気」「自分の頭でものを考えることを教員が放棄している」「教育現場も、まるで警察や軍隊と同じ上命下服の世界だと思わされている様子だ」「それにしても、最近若い教員が『かしこまりました』というのが気になる」「そう、教員たるもの、かしこまってはいかんのじゃないか」「研修マニュアルで教え込まれているようだが、反射的にこういう言葉が出て来る」「やはり、異議を述べる言葉を準備して、とっさの場合に言えるようにしておかねば」

どういう言葉を準備して、なんと言えばよいだろうか。
まずは、「校長、お言葉ではございますが…」と切りかえそう。
「この職務命令、まさか校長の本心とは思えません」
「すこし、考えさせてください」
「まだ納得いたしかねます」
「せっかくですが、お請けいたしかねます」
「教師を志した私の良心が、起立斉唱を許しません」
「ご了解ください。生徒を裏切ることはできません」
「主体的に生きよ、大勢順応に陥るな、と教えている自分です。到底、この命令に承服できません」

以下に、陳述書の話題提供の個所を抜粋する。やや長文だが、分かり易い。よくお読みいただくようお願いしたい。
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ロシアでは以前から卒業式などで国歌を流していましたが、義務ではありませんでした。けれど、ウクライナ侵攻を背景に、愛国心教育が強化され、2022年9月から小学校で週の初めの授業前に国旗掲揚と国歌斉唱が義務化されました。民主派への弾圧が続く香港では、中国式愛国教育を徹底して浸透させるため、2022年から国旗掲揚が授業日に義務化されました。ロシアや香港で起こったことは、国旗国歌の強制が、国民の愛国心を強化して戦争に向かわせようとすることや、民主主義の弾圧につながることをはっきり示しています。
先日、職員室で、校長が教職員に卒業式の(起立斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が「かしこまりました。しっかり務めます。」と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました。職務命令書が渡されることに何の疑問も感じていない様子でした。
沖縄修学旅行の際、元ひめゆり学徒の方や沖縄平和ネットワークの方が繰り返し言っていたのは、「真実を見極めてほしい。情報を鵜呑みにしないで、自分の頭で考えて、自分の考えを持ってほしい。」ということでした。それが平和を守るために一番重要なことなのです。しかし、今の都立高校で、真実を見極める力や批判力を身に付けさせることは出来るのでしょうか。評論家・吉武輝子の女学校の教員は戦後彼女に「批判のない真面目さは悪をなします。」と語ったそうです。最近の若い教員はとても真面目です。上司の命令には、どんなことでも素直に従いますし、従わなければならないと考えているようです。けれど、これはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。
私は上司の命令が良心に照らして間違っていると判断された場合は良心に従うべきだと考えます。ドイツでは、過去の戦争において、上司の命令の下に非人道的な行為が繰り返されホロコーストの悲劇が起こったことの反省にたって、軍隊でも「上司の命令が自分の良心に照らして間違っていると判断される時は、命令に従ってはならない」と教育されるそうです。軍隊においてすらそうなのですから、ましてや人間を育てるという崇高な目的を持った教育現場において、教員はたとえ上司の命令であっても良心に照らして間違った命令には従ってはいけないと私は考えます。公教育に携わる者として、自分の未来よりも、この国の未来を考えなければならない、未来に責任を持てる行動をとらなければならないと考えた時、私はとうてい起立することができなかったのです。

学校式典での国旗国歌の起立斉唱強制は、自由権規約18条に違反する。当然に、憲法19条にも。

(2023年2月9日)
 本日、午前11時から、東京「君が代」裁判・5次訴訟の第8回口頭弁論期日。満席の法廷で、原告側から準備書面(11)を要約して陳述した。担当したのは、弁護団最若手の山本紘太郎弁護士。

 今回のテーマは、国連の自由権規約委員会の日本政府に対する総括所見である。「日の丸・君が代」強制問題に触れて、その是正を求める内容となっている。セアートに続いてのダブル勧告となった。いつの間にか、日本は人権後進国になってしまった。同性婚不承認問題、LGBT差別問題、夫婦同姓強制問題等々と同様に、日本の自由や民主主義は、大きく世界の水準から遅れてしまった。日の丸・君が代強制の現場から、「世界水準から遅れた日本の人権状況」が見えてくるのだ。

 以下、山本弁護士の陳述である。じっくりとお読みいただきたい。

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 本日陳述の準備書面(11)につき概要を口頭で説明いたします。

1 準備書面(11)の位置づけ
(1)原告らは、約2年前の2021年3月31日に提訴して以来、10・23通達から始まった国旗国歌についての起立斉唱命令、そして職務命令に従えなかった教職員には機械的累積的に懲戒処分を科すという都教委の処分が違憲違法なものであるとの主張を重ねてきました。そのような中、正に都教委の問題が国連の自由権規約委員会の審査で取り上げられていました。そして、昨年2022年11月3日、自由権規約委員会は日本政府に対して勧告を出しました。その結論を読み上げます。

 38.委員会は、締約国(日本)において思想及び良心の自由が制限されているとの報告に懸念を抱いている。学校の式典で国旗に向かって起立し、国歌を歌うということに従わないという教師の消極的で破壊的でない行為の結果、一部の者が最長6ヶ月の職務停止の処分を受けたことを懸念している。さらに、委員会は、式典中に生徒に起立を強制するために物理的な力が行使されたとされることに懸念している(第18条)。
 39.締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、規約第18条の下で許容される狭義の範囲を超えて制限するようないかなる行動も慎むべきである。自国の法律と慣行を規約第18条に適合させるべきである。

  勧告を踏まえ、原告らの主張のうち、主に憲法違反、条約違反の主張をより盤石なものとすることが準備書面(11)の目的です。
(2)勧告からも明らかなとおり、昨今、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題は、国内に留まらず、国際的な関心事にもなっています。
  国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題について、前回2014年、自由権規約委員会から勧告が出ていたことは、準備書面(8)で主張しました。
  同じ問題で、ILO・ユネスコ合同委員会セアートから、2019年・2022年と繰り返し勧告が出ていることは本訴で主張してきました。
  更に、2022年11月、総括所見において勧告が出されました。
  既に準備書面(8)で主張したところですが、総括所見がどのようなものなのかについて若干補足します。自由権規約40条では、締約国に、条約加入後の一定期間に、条約上の義務履行状況を条約の実施機関である自由権規約委員会に政府報告書を提出し、審査を受ける手続きである国家報告制度を採用しています。条約の実施機関が締約国の条約の実施状況を監視するモニタリングシステムです。自由権規約委員会は、政府報告書の審査の後、自由権規約40条4項の規定に従い適当と考え得る意見として総括所見を出し、締約国に送付します。総括所見は、「序、積極的側面、主要な懸念事項および勧告」から構成され、一般的に自由権規約委員会からの勧告というと、この総括所見における勧告のことを指すことになります。
  総括所見は、締約国の国内法令や行政慣行など、人権侵害の温床となっている問題点の改善を勧告することに力点が置かれています。2022年総括所見においては、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる問題に懸念が示され、勧告が出されました。前回2014年総括所見においても勧告を受けていましたが、2022年の総括所見では、より具体的かつ明示的に問題が取り上げられたことが特徴として指摘できます。
(3)言うまでもなく、日本は条約である自由権規約に批准しています。国際協調の精神が必要であり、条約の実施機関からの指摘は無視できません。
  条約の実施機関からの勧告を踏まえた法解釈の必要性については、最高裁判所自身が指摘しているとも言えます。記憶に新しいところでは、夫婦別姓に関する2021年6月23日の最高裁判決において、その理由と三浦守裁判官の意見において条約の実施機関である女子差別撤廃委員会からの勧告が出たことが指摘され、宮崎裕子裁判官と宇賀克也裁判官の反対意見では、違憲判断を基礎づける事情として勧告が引用されています。また別の、非嫡出子の法定相続分に関する2013年9月4日の最高裁決定においても、違憲判断をする際の一事情として自由権規約委員会などからの勧告を指摘しています。更に、元最高裁判所判事の千葉勝美弁護士は、憲法と国際人権法で共通のテーマが争点となる事件においては、勧告の基である「国際人権法」について、「憲法解釈において、これらを除外する合理的な理由がない限り、参考にしなければならない必須の要素とされているものと考える。」とまで述べています。
  今日において、条約の実施機関からの勧告は、憲法をはじめとする日本の法解釈において必ず考慮すべき事情と言うべきです。
(4)そこで、準備書面(11)では、原告らの主張のうち、その第1において条約違反を、第2において憲法違反を主張します。憲法の掲げる国際協調の精神から2022年総括所見による勧告の存在やその内容を踏まえて法解釈がされなければならないこと、そして、国旗国歌の起立斉唱命令をめぐる法令や被告らの実務は憲法や条約に違反することを明らかにしました。

2 準備書面(11)における各主張の概要
(1)条約違反(準備書面(11)第1)
  国連の自由権規約委員会は、原告らの不起立等を自由権規約18条が保障する思想、良心の表明と捉え、都教委の法令や行政慣行が思想、良心の表明の自由を侵害していることに懸念を示し、自由権規約18条に適合するよう、人権侵害の温床となっている都教委の法令や行政慣行の改善を勧告しました。
  自由権規約委員会は、本訴で争われている都教委の法令や行政慣行は自由権規約18条に適合していないと判断しています。
  そして原告らは、条約実現義務がある裁判所には、10・23通達や本件職務命令、本件懲戒処分が条約不適合によって無効になることを宣言すべきであると主張しています。
  起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決が示した憲法19条の人権の保障範囲と自由権規約18条の人権の保障範囲が異なっています。憲法違反とは別個の解釈基準で条約違反は判断されなければならないことを強調しています。
(2)憲法違反(準備書面(11)第2)
  人権の普遍性、国際協調の精神から、その精神、原理原則を同じくする自由権規約を踏まえた憲法解釈をすべきことを3つの視点から主張しました。
  まず、自由権規約委員会の委員から、職務命令に従って教育を行うよう求めることと起立斉唱行為を求めることは別であり、起立斉唱命令による思想、良心の自由の制限と自由権規約18条の適合性を問う質問が出ていました。本件職務命令が教育実施を目的としても、思想、良心の自由の制限は、それはそれとして発生するからです。このような、国際的な常識で違憲審査をすれば、本件職務命令は違憲無効です。明治憲法下における思想弾圧の歴史を反省し、法律の留保を認めず、本来は自由権規約よりも徹底的に人権保障をしているのが日本国憲法だからです。
  次に、2022年総括所見は、自由権「規約第18条の下で許容される狭義の範囲を超えて制限するようないかなる行動も慎むべきである。」と述べます。これは、国家による恣意的な解釈を制限するという違憲審査基準論における二重の基準論の考え方と趣旨を同じくします。憲法と自由権規約はその精神、原理原則を同じくし、国際人権規約に定められた権利は日本国憲法上も保障されているとするのであれば、憲法19条には、自由権規約18条の保障範囲以上の人権保障が求められているというべきです。表明の自由の違憲審査には、少なくとも、いわゆる厳格な審査が必要です。起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決の法理では、人権保障水準が国際社会のものよりも低く、憲法19条がその役割を果たせていません。
  更に言えば、10・23通達など都教委の実務は、法律より上位にある条約である自由権規約への不適合を勧告されました。条約不適合の勧告は2014年に引き続き2回目です。都教委の実務は、ILO/ユネスコ合同委員会のセアートからも勧告を受けています。国際協調の精神は教育の目標の一つです。都教委は、自由権規約や教員の地位に関する勧告に適合するよう率先して対応しなければなりません。しかし、都教委は、何ら実質的な対応をせず、今日に至りました。かような状況で形式的に繰り返し続けられる本件職務命令に合理性を見出すことはできません。そして起立斉唱命令をめぐる最高裁判決の法理によれば、本件職務命令に合理性を見出せなければ、違憲無効です。

3 さいごに
  数多の人権問題を扱う国際機関から個別の問題に勧告が出ると言うのは、決して無視してはならない理由と重みがあります。曲がりなりにも「人権先進国」を標榜する日本においては猶更です。裁判所におかれては、起立斉唱命令をめぐる2011年最高裁判決が出てから今日に至るまでの国内外の社会実態を踏まえ、人権を保障することで国際社会の平和と発展に寄与できるような適正な判断を求める次第です。

国際人権規約委員会の総括所見を尊重して、裁判所は国旗国歌の強制を違憲と判断しなければならない。

(2023年1月12日)
 本日は、東京「君が代裁判」第5次訴訟の弁護団会議。ここしばらくは、ズームでのオンライン会議が続く。その便利さに慣れてはきたが、リアルに顔を合わせないのは、なんとなく物足りないような、淋しいような。

 次回2月9日の第8回法廷には、原告準備書面(11)を提出する。テーマは、国際人権規約委員会の総括所見に表れた「教員に対する、国旗起立国歌斉唱強制の違憲違法」。本日の会議は、その準備書面の案文検討が主たる内容。若い弁護士が新鮮なテーマを立派にこなしている。こちらは、なかなか付いて行くのもたいへん。

 さて、国連の国際人権規約委員会は、2022年11月3日、市民的及び政治的権利に関する規約(通称「自由権規約」)実施状況に関する第7回日本政府報告書に対して、総括所見を発表した。もちろん、関係者の意見を十分に聴取してのことである。

 この総括所見は、不起立等を理由とする教員に対する懲戒処分に懸念を示し、日本の法律とその運用の慣行を、思想及び良心の自由についての『自由権規約18条』に適合させるべきことを勧告した。その勧告の結論は以下のとおりである。

38.委員会は、締約国(日本)における思想及び良心の自由の制限についての報告に懸念をもって留意する。学校の式典において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することに従わない教員の消極的で非破壊的な行為の結果として、最長で6ヵ月の職務停止処分を受けた者がいることを懸念する。委員会は、さらに、式典の間、児童・生徒らに起立を強いる力が加えられているとの申立てを懸念する。(第18条)

39.締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、また、規約第18条により許容される、限定的に解釈される制限事由を超えて当該自由を制限することのあるいかなる行動も控えるべきである。締約国は、自国の法令及び実務を規約第18条に適合させるべきである。

 最高裁判例では、国際協調主義(憲法前文、同98条2項)の立場から、「条約法条約」31・32条に基づき、自由権規約の一般的意見や総括所見を踏まえて法令の解釈適用がされてきている。自由権規約を批准する日本においては、自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約第2条2項)。

 裁判所には、自由権規約の完全な実施が求められている。裁判所も総括所見を踏まえて自由権規約18条を解釈すべきであり、10・23通達もこれに基づく職務命令も条約不適合により無効である。

 自由権規約委員会は、不起立等を、宗教及び信念の自由と同等に保護される思想、良心の自由についての表明と評価し、不起立等を理由に最長で6か月の停職処分にもなる自由の制限は、同条3項の制限を超えて自由を制限しているもので規約不適合の疑いがあるとし、日本政府に対し、法令や実務を自由権規約18条に適合させることを勧告するものである。

 同条3項は、「宗教又は信念の自由については、法律に定める制限であって、公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課すことができる。」としており、自由権規約を体系的に解釈すれば、同項は厳密に解釈されるべきとされる。原告らの思想、良心を表明する自由の制約が10・23通達によるもので「法律に定める制限」ではなく、また教育実施と起立斉唱行為では求める内容が違い、日本政府の回答からは安全、秩序、道徳等の具体的な制限事由を見いだせないことから、自由権規約18条に適合しない疑いがあるとする。

 なお、念のため、自由権規約委員会は、不起立等を「消極的で非破壊的な行為」(単に、起立しないだけで、式の進行を妨害したり混乱させることのない行為)と評価し、自由権規約19条の「意見を持つ自由」「表現の自由」とはせず、自由権規約18条の思想、良心を「表明する自由」としている。

 自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約2条2項)。裁判所は、司法権の範囲内で条約上の義務を実現する義務があり、理念を同じくする憲法については条約適合的な解釈を試み、条約違反の法律については国内で適用してはならない。

 裁判所が、締約国の司法機関として、自由権規約を実施する義務を負い、管轄の下にあるすべての個人に対し、 人権享受を確保することをも約束していることに締約国の注意を喚起するものである。日本のように、条約を一般的に受容する体制を取っている国においては、自由権規約2条2項は「立法措置」よりも「その他の措置」を求めており、関連国内法規等が規約と十分に一致していないとき、関連国内法規等を条約適合的に解釈適用することが裁判所の役割として強く求められている。

 以上に確認の通り、裁判所は「総括所見」での勧告を遵守して、10・23通達等は自由権規約18条に不適合であり、無効であることを宣言しなければならない。

国歌とは本来内発的に歌われるもので、法で強制されて歌うべきものではない。

(2022年12月5日)
 中国国歌「義勇軍行進曲」は、抗日戦争のさなかに作られ、侵略者である皇軍との闘いの中で唱われたものである。それが、中華人民共和国成立後に国歌となった。刑事罰をもって国民に国歌の尊重を強制する国歌法の制定は2017年になってのことである。

 もともとは、侵略軍と闘った人民解放軍が、広く中国の人民に、立ち上がれ、侵略軍と勇敢に闘おうと呼び掛ける抗日抵抗歌であった。敵を恐れず臆することなく、心を一つにして闘おうと呼び掛ける勇ましい歌詞となっている。

 この歌が中国の人民を鼓舞し、愛国心の発揚に寄与したのは、日中戦争と国共内戦の終結までであったろう。憲法上国歌と制定され、国歌法による強制が必要になったのは、人々が以前のようには、愛する国の歌として歌わなくなったからであろう。

 そして今、その歌が別の意味を込めて若者たちに歌われているという。「闘いに立ち上がれ、ともに闘おう」と友に呼び掛ける闘いの相手を、侵略者日本ではなく、習近平・共産党とする思いを込めて歌うのだという。何という世の移ろい、そして何という若者たちの知恵であろうか。

 この歌の歌詞は次のとおりである。

《義勇軍行進曲》

起来!起来!起来!
(立ち上がれ! 立ち上がれ! 立ち上がれ!)
我們万衆一心,
(我々万民が心を一つにして)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
前進!前進、進!
(前進! 前進! 進め!)

起来!不願做奴隷的人們!
(立ち上がれ! 奴隷になるのを望まぬ人々よ)
把我們的血肉築成我們新的長城!
(我らの血と肉で我らの新たな長城を築こう)
中華民族到了最危険的時候,
(中華民族が最大の危機に到る時)
毎個人被迫着発出最后的吼声。
(誰もが最後の雄叫びを余儀なくされる)

 冒頭の「起来! 不愿做奴隶的人?!」は、「起て! 奴隷となるな人民!」「立ち上がれ! 奴隷となりたくない人々よ!」「隷従を拒否する人民よ!」などと訳することもできる。中国人民に、日本の奴隷となるな、そのために立ち上がれ、と呼び掛けているのだ。しかし、今若者たちは、「習近平・共産党の奴隷になるな」「立ち上がれ! 中国共産党の奴隷となりたくない人々よ!」との思いを込めて、この歌を歌って呼び掛け、声を合わせているのだ。

2番の「我?万众一心,冒着?人的炮火,前?!」(敵の砲火を冒し、前進!)の、「?(敵)」とは、「習近平・共産党」を指すものとして歌われる。「みんなが心を一つにし、中国共産党の激しい攻撃を覚悟して立ち向かうのだ!」となる。現に、「習近平は退陣せよ!共産党支配はごめんだ!」というデモのスローガンも現れている。

 中国で、「国歌法」が制定されたのは、2017年9月1日、中国の「第12期全人大・常務委員会」においてのことだという。その施行は、同年10月1日の国慶節からのこととなった。

 中国では1990年に『国旗法』が、1991年には『“国徽法(国章法)”』が制定された。しかし、『国歌法』の制定は遅れた。2004年憲法で国歌は「義勇軍行進曲」と規定されたものの、拘束力ある立法は避けられていた。2017年の『国歌法』制定は、香港や少数民族の状況を睨んでのものであったろうか。

 この国歌法、虫酸が走るような、愛国主義の押し付け、押し売りである。まるで天皇制下の締めつけ。心から思う。中国に生まれなくて良かった。この国には、愛国があって個人の尊厳がない。国家と党の支配への忠誠の証しとしての国旗国歌尊重が義務化されている。皇国並みの愚劣。

 国歌法は全16条で構成されるが、重要と思われる条項を示すと以下の通り。

【第1条】国歌の尊厳を擁護し、国歌の演奏・歌唱、放送、使用を基準化し、国民の国家概念を増強し、愛国主義の精神を発揚させ、社会主義の核心的価値観を育成・実践するため、憲法に基づき本法を制定する。
【第2条】中華人民共和国の国歌は「義勇軍行進曲」である。
【第3条】中華人民共和国の国歌は、中華人民共和国の象徴と標識である。全ての国民と組織はすべからく国歌を尊重し、国歌の尊厳を擁護しなければならない。
【第4条】下記の場合は国歌を演奏・歌唱しなければならない。
(1)全国人民代表大会会議と地方各級人民代表大会会議の開幕、閉幕。中国人民政治協商会議全国委員会会議と地方各級委員会会議の開幕と閉幕、(2)国旗掲揚式、(3)重要な外交活動、(4)重要な体育競技会、(5)その他、国歌を演奏・歌唱することが必要な場合、など
【第7条】国歌を演奏・歌唱する時は、その場にいる者は起立しなければならず、国歌を尊重しない行為をしてはならない。
【第8条】国歌の商標や商業公告への使用、個人の葬儀活動など不適切な使用、公共の場所のバックグラウンドミュージックなどへの使用をしてはならない。
【第15条】公共の場で故意に国歌の歌詞や曲を改ざんして国歌の演奏・歌唱を歪曲、毀損した、あるいはその他の形で国歌を侮辱した場合は、公安機関による警告あるいは15日以下の拘留とし、犯罪を構成する者は法に基づき刑事責任を追及する。

 対日戦争では、法的強制がなくても、人々は愛情と誇りを込めてこの歌を唱った。今若者たちは、がんじがらめの国歌強制の法のしがらみの中で、この歌「義勇軍行進曲」を、習近平体制に対する「抵抗歌」として歌っている。国旗や国歌とは、所詮強制に馴染まないものなのだ。

裁判所も、都教委も、小池百合子も、この教員の声を聴け。

(2022年11月25日)
 昨日、《東京「君が代」裁判5次訴訟》での第7回口頭弁論が開かれた。満席の709号法廷で、原告のお一人が、再処分の不当を「イジメ」だとする意見陳述を行った。まったく、おっしゃるとおりだと思う。裁判官3人は、きちんと耳を傾けている様子ではあったが、どれだけ身に沁みてお分かりだろうか。
 下記に、その意見陳述の要旨を掲載する。

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  東京「君が代」裁判五次訴訟 第7回口頭弁論 原告意見陳述要旨

                                  原告 F(都立J高校全日制勤務)

 私は2005年3月に、卒業式での2回目の不起立を理由として東京都教育委員会によって減給処分を受けました。この減給処分は、2013年9月の最高裁判決によって取り消されましたが、同じ年の12月には、改めて処分を出しなおすということで、新たに戒告処分を受けています。

 都教委は再度の処分を発令した理由として、「誤った処分を正し、正しい処分へと訂正した」と主張しているとのことですが、この理由づけは後付けの言い訳にすぎません。処分の真の目的は、都教委の意に従わない者に対する攻撃の徹底であって、強大な権力を背景にした、少数者に対する「いじめ」であるとしか私には思えません。
 都教委は、いじめ防止に取り組むように各学校に指導を続けてきていますが、その中でいじめの存在を認定する根拠の一つに、「被害者が「いじめ」と捉えていること」というものがあります。君が代不起立者に対する都教委の取り扱いは執拗で理不尽な「いじめ」であると捉えている被害者は、私だけではありません。

 私の不起立に対する減給処分は最高裁で違法と判断されて処分の取消が命じられました。都教委の職務が違法と断じられたにもかかわらず、関係した職員は誰もその責任を取ることがなく、また、私たちに対する、そして都民に対する謝罪ないしは釈明のコメントを出すことも一切ありません。この係争事件に対して、都教委は裁判担当職員や顧問弁護士に多大な人件費や経費を支出し、原告には遅延損害金を支払いましたが、この財源は言うまでもなく都民の税金です。違法な処分を発したことによって都民に間接的に損害を与えたことにっいて、何ら説明もなされなかったことは、都民の信頼を裏切る信用失墜行為に相当するのではないでしょうか?

 一方、都教委は私たちに減給処分を出した時には、報道機関に対して発表を行い、処分情報を長期にわたってホームページで公開しました。これらのことは、私たちの不起立を非違行為として世間にさらす一方で、自らの不祥事には蓋をする全く不公正な行為ですし、私たちに加えられた不利益や名誉棄損が回復されていないことは、非常に残念です。そしてこのような状態の中で、再処分としての戒告処分が発令され、再び非違行為があったとして、都教委のホームページ上に晒されたのです。

 2013年9月の最高裁判決では「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべきである」と裁判官の補足意見が付け加えられました。はたして、このような再処分の発令が「謙抑的な対応」と言えるでしょうか?
 
 最高裁は、都教委に対して良識的な対応をやんわりと求めたのかもしれませんが、都教委は、使える手は何でも使うという姿勢で権力を行使している状態にあると思います。そしてとことん処分で不起立教員を追い込むことを全都に晒すことによって、教育現場はさらに萎縮していきました。私は、このような負のサイクルに歯止めをかけ、教育現場の改善のためにも再処分の取り消しを求めます。

 再処分について改めて強調しておきたいことがあります。都教委は「減給処分は違法とされたから、裁判所が認めた戒告処分を出し直す」と主張していますが、再処分として出された戒告処分による経済的損失が、2005年当時に私が受けた減給処分より実質的に重い処分に変えられたという事実です。「10 ・23 通達」による「日の丸・君が代」の強制に対し、処分を振りかざされても異を唱えた教職員が膨大な人数に及んだと見るや、2006年に都教委はそれまで何十年も変えなかった懲戒処分に伴う給与支給に関する規定を変更し、勤勉手当の減額率を倍増させ、昇給率を下げることを決定し、戒告処分でもそれまでの減給処分を上回る経済的不科益を伴うものとしました。さらに、2012年1月、「裁量権の逸脱濫用により違法」として減給処分が取り消された最高裁判決が出されたのちの2013年には、処分量定に関する規定の再改定を強行しました。このことは、戒告処分を従来の減給処分より実質的に重い懲罰とすることで、都教委が裁判で負けても教職員に従前以上の圧力をかけることができもので、実質的に最高裁判決の効力を失わせ、判決に抗う行為であるという他はありません。

 2003年の「10.23通達」発出から20年が経とうとしています。都立高校は大きく変わってしまいました。「日の丸・君が代」処分のことも、この処分以前の卒業式や入学式のことも知らない教員や生徒が多くなってきました。既に若い教員たちにとって、卒入学式における「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱、職務命令による式の実施、座席の指定等は当たり前、2006年の通達から始まった職員会議での挙手裁決禁止も当たり前のことになっています。

 2003年当時は、ほとんどの教員は「日の丸・君が代」の強制に反対しており、卒業式や入学式の開始前に、生徒や保護者に対して「式次第には国歌斉唱とありますが、強制ではありません」と説明することが多くの学校で行われていました。しかし「10.23通達」によって起立斉唱の職務命令が出され、命令に背けば処分となり、何度も命令違反を繰り返すと、累積加重で懲戒免職もあり得ると言われ、ある種のパニックが起きました。私たち教員は職務命令に対してどうするべきか、態度決定を迫られました。多くの教員は、処分を恐れ理不尽ながら起立する道を選びましたが、不起立を選択した教員も少なくおりませんでした。

 異例の大量処分が発令された2004年、都教委は、処分された教員だけではなく、処分された教員のいる学校に対して、非違行為の再発を防止すると称して、全教員の参加を強制する「再発防止研修」を命じました。あたかも連帯責任を取らせるような研修ですが、その背景には、起立を強いられた教員の僻屈した思いを不起立教員に向けさせ、命令に従った教員と命令に背き処分された教員との間を分断する狙いがあったのだと思いますL言い換えれば、都教委が率先して同僚へのいじめに加担させる行為を行ったのです。
 この研修に関し、学校によっては不起立教員を非難する事例もあったとは聞きますが、多くの場合は、不起立者に同情的で、理不尽な仕打ちをする都教委に対する抗論や怒りの声が上がっていました。

 しかし、職務命令体制と職員会議での議決禁止体制が浸透していく中で、教育現場では、関連に意見を言い合い、協力して学校運営を行う日常は次第に失われていきました。現場の意見を聞く耳を持たなくなった東京の教育行政は硬直化して、誤ったことを行っても誰も正すことができない状態となっています。これまで20年間にわたって「10.23通達」の撤回を求めてきた私たちですが、謙抑的な姿勢も、柔軟な発想も持てなくなっている都教委に対しては、裁判所が「10.23通達は違法である」と判断していただく他はないと考えています。

 裁判所には、この20年間の経過をよく確認していただき、慎重かつ公正な審理を進めていただくことをお願いいたします。

中国国歌と「香港準国歌」仁川で対決

(2022年11月24日)
 昨日に続いての、国歌の話題。香港を押さえ込んだ中国は香港の民衆に中国国歌(「義勇行進曲」)を強制した。中国への国家忠誠(即ち、習近平共産党への忠誠)を刑罰をもって強制したのだ。これが、中国の人権弾圧体質を物語っている。その中国国歌が、いま韓国でのできごとで話題となっている。

 昨日の当ブログ記事同様、こちらも国際スポーツ大会を舞台にした国歌の扱い。会場に中国国歌(「義勇行進曲」)が流れるべき時に、「香港民主化デモの歌」(「香港に栄光あれ」)が、「誤って」流されたという椿事である。

 11月13日韓国・仁川でのこと。7人制ラグビー国際大会「2022 アジアラグビーセブンズシリーズ」で、香港と韓国が対戦した。その試合前セレモニーでの国歌斉唱時に、中国国歌の伴奏が流されるはずのところで、「誤って」「香港に栄光あれ」が流されたのだ。香港当局や中国にとっては仰天動地のハプニング。香港の民衆や韓国の民主派は、内心ほくそ笑んだに違いない。

 この曲「香港に栄光あれ(Glory to Hong Kong)」は、「2019年の香港での逃亡犯条例改正案をめぐるデモをきっかけに制作された楽曲で、デモ参加者らの間で非公式の国歌のような位置づけにされている一方、香港当局や中国当局などは香港独立をあおるなどとして批判している」(Record China による)という曰く付きのもの。民主化運動の賛歌だったが、香港国家安全維持法が施行された現在は、演奏は事実上禁止されているという。それでも中国に帰属意識のない香港の民主派には、「国歌」に準ずるものだという。

 この事態に、香港政府は過剰に反応した。そうせざるを得ないのだろう。14日、韓国政府に厳重抗議した。「中国国歌の代わりに、暴力的な抗議活動や『独立』運動と密接に関連する曲が演奏されたことに強い遺憾の意を表し、抗議する」というもの。

 アジアラグビーと大韓ラグビー協会は、香港ラグビー総会および香港政府、中国政府に「心からの謝罪」を表明しているというが、問題の余波は広がっており、まだ収束していない。

 興味深いのは、「たかが国歌」についての、関係者のこの大仰な反応である。中国派で固められた香港立法会の某議員は「主催機関は直ちに謝罪したが十分ではない。これは取り返しのつかないミスだ」「国歌演奏と国旗掲揚は厳粛かつ神聖であり、いかなる場合でもミスは許されない。問題の曲は香港人に動乱の傷を負わせたものだ」などと指摘。駐香港大韓民国総領事館に手紙を送り、韓国政府に対し、主催者が過失を厳正に検討するよう促すと同時に、中国人民に謝罪するよう要請するとした。

 香港警察は、国歌条例や香港国家安全維持法(国安法)に違反しないか調査に乗り出す方針だという。香港特別行政区行政長官の李家超は、「現場でこの曲が流されたことに政治的な意図があることは誰もが知っている」「本件が香港国家安全維持法や国歌法に違反するかどうか徹底的に調査を行う」「警察は十分に経験を積んでおり、調査の進展に応じて適切に対処する」と述べている。

 また、政府報道官は、「国歌はわが国の象徴だ。大会主催者は、国歌に正当な敬意が払われるよう保証する義務がある」と述べたという。もっと正確には、こう言いたいのだ。

 「国歌はわが国の象徴だ。我が国の国歌を疎かにすることは絶対に許さない。大会主催者は、我が国の国歌を疎かに扱ったことに、もっと恐縮して見せなければならない。中国国歌には大国中国にふさわしい、特別の敬意が払われてしかるべきなのだから」

 国旗や国歌には常に、こういう七面倒臭さと胡散臭さがつきまとう。

国歌を拒否する選手の爽やかさと、国歌を唱わせようとする権力者の醜さ。

(2022年11月23日)
 臭気芬々のカタールから、一陣の爽やかな風。21日の対イングランド戦の試合前、イラン選手が国歌の斉唱を拒否したとして、大きな話題となっている。これは、イラン政府に対する、「ヒジャブ抗議デモ」への連帯行動なのだ。同時に、「政治問題とは切り離して、サッカーに集中しよう」という、FIFAの姿勢に対する抗議でもあろうか。

 周知のとおり、イランでは、22 歳のマフサ・アミニさんの死をきっかけに、全土で大規模な政府への抗議活動が続いている。アミニさんは9月13日、ヒジャブで髪をしっかり覆っていなかったというだけの理由で風紀警察に身柄を拘束され、警棒で殴打され車両に頭を打ちつけられて、3日後の16日に亡くなった。

 このあと、10代を含むイランの女性たちが、ヒジャブを着けずに外出したり衣服を燃やしたりして抗議の声をあげている。警察の暴力記録した動画の投稿が繰り返されてもいる。これに対する治安部隊の暴力的な取り締まりは凄まじく、イラン・ヒューマン・ライツによると、これまでに少なくとも378人が殺害されたという。

 絵に描いたような、自由を求める国民の運動とこれを弾圧する国家権力との対立の構図。その渦中での、国旗と国歌である。国旗も国歌も、権力側のものであって、自由の象徴ではない。イランでは、この抗議の動きが広がって以降、国歌を唱わないことが政府を批判し、デモに連帯を示すための態度だと広く受け止められているという。

 そのような事態でのワールドカップ。イラン代表の行動に対しては、国内外から注目が集まっていたと報じられている。注目の選手たちは、団結して一致した「国歌斉唱拒否」に踏み切った。国内で続く抗議デモに連帯を示したのだ。それゆえの爽やかな風という印象。

 無邪気に国歌を斉唱できる人は、国家に従順であることに疑問をもたぬ人である。あるいは、国家に従順であることをことさらに示したい人。意識的な国歌斉唱拒否は、国家に対する不服従である。あるいは、国家に対する異議申立て。

 国家の側から見れば、国歌を斉唱する者は、御しやすい歓迎すべき国民像。斉唱せざる人は歓迎すべからざる、国民の国旗国歌に対する姿勢は、権力者側からする反抗心や従順さを計るバロメータなのだ。国家への従順を拒否して自由と人権の陣営の側に就いた、イランの選手団に敬意を表したい。

「東京・教育の自由裁判をすすめる会」第18回(2022年度)総会の報告

(2022年11月20日)
 昨日開催された、「すすめる会」第18回(2022年度)総会の報告である。略称「すすめる会」とはなんぞや。当日配布のパンフの一部をご紹介する。

『東京・教育の自由裁判をすすめる会に入会して、原告団を支援しましょう』

 “すすめる会”は、「10・23通達」に起因する多くの裁判を支援し、学校に自由と人権を取りもどすことを目指して、2005年7月に発足し、活動を続けています。
◆これまでに支援してきた裁判
○東京「君が代」裁判(不当処分撤回を求める裁判)
  第1次訴訟(?2012.1)、    第2次訴訟(?2013、9)、
  第3次訴訟(?2016.7)、    第4次訴訟(?2019.3)
○「君が代」強制解雇撤回裁判 ?20117
○嘱託・再雇用採用拒否撤回裁判
  第1次訴訟(?2011.6)、第2次訴訟(?2018.7)、第3次訴訟(?2018.7)
○「授業してたのに処分」裁判(?2013.12)
○国歌斉唱義務不存在確認等請求裁判(予防訴訟)(?2012.2)
◆次のような活動をしています
 ○裁判原告団への財政援助  ○通信『リペルテ』発行(年4回)
 ○裁判傍聴・要請行動  ○国際人権活動  ○関係団体との連携
 ○他にもいろいろ
◆会員になってください
 (年会費) 個人 2000円   団体 5000円
 (払込先)郵便振替 口座番号 00190-2-668820
   口座名 東京「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会

東京・教育の自由裁判をすすめる会
〒102-0071東京都千代田区富士見1-7-8 第五日東ビル501
e-mail kyouseihantai@gmail.com

 総会プログラムに「会員からの声」が掲載されている。その数、およそ40通。会の性格と会員の真面目さが良く表れている。いくつかご紹介したい。

Sさん(松戸市)「日の丸・君が代」強制反対運動は、戦争反対運動と連帯しています。ロシアのウクライナ侵攻の今、特に大事な運動になっています。

Oさん(赤磐市)自由な教育こそ生きる力を育みます。応援しています。

Aさん(豊橋市)「日の丸・君が代」強制反対裁判をすすめる会の皆様に敬意を表します。

Kさん(調布市)お手数をおかけしました。私は一般事務地方公務員でした。退職後数年たち、購読、どうしようか…と思った事もありますが、広い意味の支援になるかな?何もしないよりは…と考え直しました。ひろい読みする程度です。

Nさん(狭山市)また子供達を戦争に行かせないように頑張って頂きたいです。

Aさん(八王子市)いつも貴重な情報ありがとうございます。起立する、しないで良心をためすようなことをしては民主国家ではしてはいけないこと。憲法を守りぬきましょう!

Nさん(尼崎市)思想良心の自由、教育の自由・独立を守る不屈のだたかいに心から敬意を表します。

Iさん(武蔵野市)いつもお世話になりありがとうございます。67号の小森さんの論調参考になりましたが、2ページ上段の「なぜなら?」のつながりが理解できませんでした。

Wさん(横浜市)6/6に映画「教育と愛国」107Mを見ました。おすすめです。過去30年のことがわかり易く…。

Yさん(三芳町 町議会議員)小森陽一氏の文章はその通りと感銘。君が代斉唱時、私も座った。議長や教育長が問題と言ってくる。戦争は反対だから君が代は歌えない。原告??は涙が出る。勝訴を望む。高校生署名も勇気をもらいました。

Iさん(大田区)大阪高裁判決良かったですね。

Iさん(長崎市)市民活動からの報告を読みながら、ほんとうに大変な日本社会になったと思います。

Hさん(板橋区)大能先生のお話には胸がつまります。

Nさん(鳥取市)運動を続けるしか展望は切り開けません。

Tさん(北社市)マスメディアでは報道されない責重な情報を知ることができます。ありがとうございます。

Tさん(相模原市)連載「今夜も……」楽しく拝読させていただいています。

Kさん(川崎市)編集、発行大へんな仕事ですが、引き続きがんばってください。

Oさん(四街道市)音楽・文学などの情報も載せて下さい。楽しい誌面作りも大切です!

Hさん(立川市)集会・傍聴への参加、すっかり遠のき申しわけなく思ってます。「石原通達」破棄まで見届けるまでは…と思う日々です。

Iさん(横浜市)毎号のニュースで運動の状況がよくわかります。ありがとうございます。

Oさん(八王子市)山藤たまきさんの陳述にぐっと心が締めつけられる思いでした。私は息子の卒業式では立ちませんでした、保護者として(私達夫婦だけ座っていました)。でも職場では立ちました。ただロを真一文字にして歌わないことで自分を納得させていました。皆さんの強さに頭が下がります。

Kさん(八王子市)お互いに決してあきらめずに。

Aさん(豊橋市)かつては小生もへっぴり腰で君が代・日の丸に反対してきました。皆様のがんばりに敬意を表します。

Hさん(川越市)大阪府の敗訴、うれしく思います。

Mさん(杉並区)憲法を変えさせない波を大きくしていく力です。

Nさん(常緑市)粘り強い“闘い”を陰ながら応援しています。

Iさん(町田市)あきらめずにがんばっていただきありがとうございます。せめて会費を払うことで連帯していきます。

Sさん(足立区)原告の方々の不屈の精神に勇気づけられます。どうかコロナ禍の中、お身体に気をつけて下さい。これから年金生活者となりますので、会費のみになります。ごめんなさい。

Kさん(流山市)労働組合とくに教員組合へ共闘するよう申し入れ活動を展開してほしい。ニュース紙面に出ることを期待します。その様子を知って、ぼくの方から訴えができます。

Kさん(習志野市)いつも励まされています。

Nさん(草加市) 夫Tは本年3月20日他界しました。12月をもって貴会を退会させていただきます。長い間ありがとうございました。(妻Y)

Nさん(神戸市)母、Nは21年5月2日に満102歳で永眠いたしました。長い間お世話になりありがとうございました。連絡が遅くなり申し訳ありません。(K)

Hさん(足立区)10月17日にH本人が他界しました。本年度をもちまして退会とさせていただきます。皆様の活動に心から敬意を表します。頑張って下さい。(妻)

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 なお、本会の現在の<共同代表>は下記のとおりである。
 市川須美子(獨協大学、日本教育法学会会長)
 尾山 宏(東京・教育の自由裁判弁護団長)    
 小森陽一(東京大学大学院教授)         
 斎藤貴男(ジャーナリスト)           
 醍醐 聰(東京大学名誉教授)          
 鈴木敏夫(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
 暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)          
 野田正彰(関西学院大学教授)          
 堀尾輝久(東京大学名誉教授) 

そのうちのお二人メッセージを引用する。

醍醐聡さん
 『東京新聞』11月5日朝刊に「叙勲奈良県警など受賞せず 安倍氏銃撃で推薦見送りか」という記事が掲載されました。行政私物化の限りを尽くした安倍音三氏の国葬となればなおさらですが、万人の死に軽重はないと考える平等原理主義者の私にとって、特定の個人の死を別格扱いする国葬に納得しません。加えて、主義のいかんにかかわらず、権威主義を拒否する私からすれば、行政当局が人間の価値に序列をつける叙勲などもってのほかです。そうした代物に「あの人が」と思うような人まで嬉々として与る光景は見るに堪えません。
 その一方で、さわやかな出来事もありました。広島県府中町議会議員の二見信吾さんは、自分が所属する政党の「上意」にも逆らって、2019年9月の町議会に提出された「天皇陛下御即位を祝す賀詞の決議案」に毅然と反対しました。二見議員は反対討論のなかで、反対の理由の第一として、「天皇陛下におかれましては」、「令和の御代が幾久しく続きますよう」などという賀詞は国民主権の原理と相容れないからだと語りました。
 現行憲法に天皇の地位を定めた条項がある以上、新天皇が即位した時に祝意を表すのは社会的儀礼だという意見があります。しかし、これは学校行事の場で日の丸に向かって起立して国歌を斉唱するのは儀礼的所作だという議論と重なります。
 また、憲法に天皇条項があるからといって、その効力が人間の内心の自由を侵すところまで及んでよいはずがありません。と同時に、「憲法の番外地」と解されている天皇によって、君主としてであろうと象徴としてであろうと、「統合」されてはたまらないというのが私の思いです。
 平等は人間が自分自身の「主」となるための不可欠の条件であり、自律した個人は本物の民主主義の支柱です。日の丸・君が代強制は根津公子さんがいみじくも指摘されたとおり「調教」であり、自律した個人をはぐくむ民主主義社会の教育と相容れません。(2022年11月7日稿)

野田正彰さん
 皆さんの抵抗運動がどれだけ教育の保守化・右傾化を警告する役割を果たしてきたか、感謝にたえません。
 今、学校では発達障害・自閉症スペクトラムのでたらめなラベリング、支援学級の増設で子どもたちが苦しめられ、不当な向精神薬の服用で自殺しています。いじめ問題は、「発達障害の子どもへの支援ができていないから」と偽りの説明が拡がり、自殺する子どもは500人ほどまで増えているのに、問題がすりかえられています。
  「教育に自由を」、自由に子どもだちと接する教師は、苦しむ子どもの本当の支えになるはずです。闘いを深めましょう。

小学校校門の「日の丸」に大きな違和感。

(2022年11月19日)
 本日は、「東京・教育の自由裁判をすすめる会」の第18回(2022年度)総会。会場は後楽園の全水道会館で、私の事務所からは徒歩の距離。歩いている途中に、突然に大きな日の丸が目に飛び込んできた。何だ、これはいったい。

 文京区立本郷小学校の校門に堂々たる一旒の「日の丸」である。これは、戦前の風景ではないか。何ごとならんと、思わず足を止めた。教員であるかはよく分からぬが、近くにいた男性と女性が「なにか御用でしょうか」と声をかけてきた。「日の丸に驚いています。何があるんですか。右翼の集会にでも、学校を貸しているんですか」と聞くと、「今日は、子どもたちの学習発表会なんです」という返事。なるほど、「日の丸」ほどには目立たぬながらも、その旨の看板が立っている。

 「どうしてまた、子どもの学習発表会に、日の丸なんですか」 答はない。クレーマーだと思われたのかも知れない。「日の丸の掲揚に、だれも異論を述べないのですか」 答はない。「なんと、世の中も変わったもんだ。小学校に日の丸か」と、声を出してはみたが、無表情の二人の耳にはいっただけ。

 私が本郷に法律事務所を構えて27年になる。この間、祝日でも民家に日の丸を見たことはない。けっして、「日の丸」大好き地域ではない。なのになぜ、本郷小学校の学習発表会に「日の丸」なのだろうか。旗を立てたきゃ校旗でいいじゃないか。

 この学校、元は「真砂小学校」だった。地元の評判は悪くない、ごく普通の公立小学校。そこに、どうして「日の丸」なのだろう。もしかして、校長が日の丸大好きなのだろうか。あるいは、「日の丸・君が代」大好きの振る舞いが、教育委員会の校長の出世に役立つと思わせる雰囲気があるのだろうか。教職員は、何も言わないのだろうか。父母からの疑問の声は出ないのだろうか。

 ネットで調べて見ると、溝畑直樹校長の実に細かい「学校経営方針」を読むことができる。この校長の熱心さが伝わってくる。が、「日の丸」掲揚方針は出てこない。疑問は深まるばかりである。

 経営方針によれば、目指す学校像は、「子供を自立に導く学校」で、経営理念は、「自らが主体者となって生きる力を育む本郷オリジナルの教育の推進」だと言う。結構ではないか。それが、どうして「日の丸」に結びつくのかが分からない。

【行動面の目標】(おそらくは、生徒についてのものだろう)として、
● 私たちは自立します。
● 私たちは社会と調和して暮らします。
とある。「自立」と「調和」の両立は難しい。「日の丸」は、国家や民族や現行秩序との「調和」の象徴といってよい。明らかに「自立」の目標とは矛盾する。

「先生、どうして校門に「日の丸」なの?」と問い質す子どもこそが、「自立」した子ども像であろう。2000年3月の国立二小卒業式当日、子どもたちは屋上に「日の丸」を掲揚した校長を囲んで質問している。「どうして「日の丸」なのですか」「どうして卒業式に「日の丸」を揚げなければならないのですか」「ボクたちの意見を聞いてくれてもよかったのではありませんか」。校長の回答に納得できない子どもたちの質問が続き、校長は子どもたちに謝罪している。

 後日、このときの様子が、センセーショナルな産経の記事になり、右翼の街宣車が学校に押しかける騒ぎになった。右翼と「日の丸」は、常に好一対なのだ。

 校長の「学校経営方針」の中には、「地域…町の誇りであり、シンボルであり、いつまでも関わり続けたくなる学校」という記述もある。今日は、突然のことで、私も上手にものを言えなかった。今度、本郷小学校の「日の丸」を見たら、落ちついて、この地域にふさわしくないことをアピールしてみよう。

 「本郷小は、『地域社会に開かれた教育』を謳っていますが、この地域に「日の丸」はふさわしくありません。私は長く本郷におりますが、この地域に「日の丸」を歓迎する雰囲気はありません。むしろ、「日の丸」アレルギーの人々を数えることができます。この町の誇りでありたいとする学校に、「日の丸」掲揚は逆行するものでしかありません」

 溝畑校長の方針には、立派なものもたくさんある。たとえば、次の一節。
※ 人権尊重の教育 ー 学校の教育活動全体を通して人権尊重の精神を培い、どの命も等しく大切にし、差別や偏見、いじめを許さない良好な人間関係を築くために主体的・協働的・創造的に行動できる児童を育成する。

 立派なものだ。が、人権とは優れて国家権力からの自由権として機能する。小学校から、国家の象徴である「日の丸」に馴染ませることは、けっして人権尊重の教育とは調和しない。人権よりは国家秩序に従順たれという、国家主義の刷り込みにしかならない。だから、小学校の校門に「日の丸」は、戦前の風景と思わせるのだ。

 はからずも、日の丸・君が代強制反対の裁判を支援する集会に出席する途上での、「日の丸」遭遇記となった。

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