日中友好協会・文京支部が、8月8日?10日の3日間、文京シビック内のアートサロン(展示室2)で開催した、「平和を願う文京戦争展―日本兵が撮った日中戦争」の総括会議が8月28日夕刻に開かれた。ノモンハンから帰日したばかりの私も参加した。
この企画、3日間で1500人の熱心な入場者を得てたいへんな盛況だった。開会時間は延べ24時間で、1時間当たり55人の入場者が途切れず続いた計算になるという。その盛況の原因の第一は、文京区教育委員会が後援を拒否したことが話題となったから。とりわけ、東京新聞がそのことを大きく記事に取りあげたことから知られるところとなった。この企画を「新聞」で知った方が36%にも達していた。アンケートにそのことに触れた人が多かったことが報告された。
だから良かったかというとそうではない。入場者のほぼ4割が70代以上の高齢者、10代・20代は極めて少ない。教育委員会後援があれば、学校の生徒に呼びかけることができるという。戦争の実態を若者に知ってもらうために、次回は粘り強く各教育委員に要請し説得する活動をしようという意見が交わされた。
任意のアンケート回答要請に、427人の方が回答してくれた。これは、たいへんな高率である。その中に、
☆毎年やってほしい
☆もっと若い人に見てもらえるように
☆全国色々な所で開催して欲しい
☆3日では短い、展示期間をもっと長く
☆もっと広い会場で
などの提案が書き込まれていた。
また、アンケートの中で、次の中学生の感想文が目を惹いた。
「なんでも武力で解決しようとした日本はもう少し他の解決策があったのではないかと思った。」
「日中戦争のことについては、あまりくわしく知りませんでしたが、罪のない人、子どもや老人が沢山殺されてしまったという事実を知り、このようなことは二度と起こしてはいけないと思いました。」
「罪のない人が大勢まきこまれる戦争がもう二度と起こらないようになってほしいと思う。村瀬が残してくれた写真で当時の状況が知ることが出来ました。」
「日本の戦争の仕方や武力で解決しようとする姿勢に納得がいかなかった。」
なお、韓国のテレビ局2社が取材に訪れたという。中国のメディアは来なかった。
意見交換の中で、印象に残ったのは、戦争を語る上での被害面と加害面のどちらを語るかの姿勢の問題についてである。
今回の「文京戦争展」は、文京区(当時は本郷区)出身の兵士が撮った中国戦線での写真展示と、文京の空襲被害の展示と語り部の2本立て。前者には、南京虐殺の現場写真や生々しい従軍慰安婦の写真もある。加害者としての皇軍が映し出されている。後者は、戦争被害による区民の辛苦。おそらく、後者だけなら、文京の教育委員会が後援を拒否することはなかっただろうという。
実は、文京区自身が戦争展をしたことがあるという。その内容は、空襲被害、原爆被害に限られた、徹底した戦争の被害実態についてのものだったとのこと。しかし、侵略戦争による近隣諸国への加害責任を語らずして、あの戦争を全面的に語ることはできない。
我々は、加害責任を避けることなく、戦勝・敗戦に関わりなくすべての国の民衆の戦争被害の悲惨さを、あるがままに訴えよう。官製戦争展が自国の被害だけの展示にこだわるのなら、我々は加害責任をこそ戦争を知らない世代に見てもらわねばならない。そのような合意がほぼできたように思う。
(2019年8月31日)
一昨日(8月28日)、ノモンハンへの旅から帰日した。充実した6泊7日。まだ、気持は草原の風に吹かれたままである。日常生活の感覚が戻ってこない。
なるほど、内蒙古の草原は確かに広かった。森も、林も、一本の木立ちもない、見はるかす限りの草地が、視界を遮る物なしにどこまでも続く。木陰というものがない。あるのは、空の青と地の緑だけの世界。この果てしない広さの実感は、高地に登ってこそ分ろうというものだが、その登って見晴らすべき高地が見あたらない。
大草原の中に、アスファルト舗装の道路が、1本だけどこまでも真っ直ぐに続く。ハイラルの街からノモンハンの戦場まで250?300キロだという。東京・仙台間の距離なのだ。街の近くには、樹木がある。しかし、街を出てバスでしばらく走ると、間もなく樹木のない草原だけの、行けども行けども同じ景色。ここで育った人は、自ずと世界観も人生観も違うことにならざるを得ない。
この大草原が、国境紛争の舞台となった。満・蒙の国境である。いうまでもなく、満州国は日本の傀儡国家であり、モンゴル社会主義共和国の背後にはスターリンのソ連がいた。満・蒙の小部隊の衝突が、宣戦布告のないまま、日・ソの本格的な大近代戦となったのがノモンハン事件である。この草地から、石油が出るわけではない。鉱物資源もない。薪にする樹木すらないのだ。定住している人は少なく、街らしい街の争奪をしたわけでもない。いったい何のために、両軍ともに2万を超す死者を出す死闘を繰り広げたのだろうか。何のために、この地でかくも多くの人が死なねばならなかったのか。あらためて、戦争というものの理不尽さを痛感せざるを得ない。
戦跡を訪ねての充実した旅だったが、今の中国についてのいくつか印象に残ったことを書き留めておきたい。私の中国語会話能力は、ほぼゼロに等しい。日本語のできる中国人と会話のできる機会に、いくつかの質問をしてみた。私の主たる関心は3点。中国の選挙事情と、漢族の少数民族に対する差別の有無、それに香港の民衆運動の盛り上がりに対する感想である。中国共産党についての評価などは差し控えてのこと。
全人代議員の選挙は、確かに行われているという。ただし、一選挙区に候補者は党が指名した一人だけ、この候補者に有権者が信任投票をするのだという。どんな人物か、どんな抱負をもっているか、意識したことはないということだった。我々のイメージする選挙とは、およそ異質のもののごとくである。また、漢民族の他の少数民族に対する圧倒的な優越意識は相当のもので、明らかに問題が伏在している。きっと、なにかの折に顕在化することになるのだろう。
そして、驚いたのは、香港の民衆に対する平均的中国人の敵対的感情である。官製メデイアが、香港の民衆を「暴徒」と言っていることには驚かないが、私が会話の機会を得た狭い情報からの推測ではあるが、中国人の大方が同じ論調なのだ。
私が、日本語の達者なある中国人に、逃亡犯条例に対する香港の人びとの嫌悪感を話題にしたところ、「香港は国ではありませんよ。飽くまで中国の一部でしかない」「国法に従うべきが当然」と強い口調で主張された。「香港が国であろうとなかろうと、住民の意思を尊重すべきが民主主義の基本ではありませんか」とやんわり言うと、「ホントにいつまであんなことをやっているのか。早く解決してもらいたい」と、香港の人びとの心情への思いやりも、連帯感もおよそない。なるほど、これが今の中国なのだ。
もう一つ、空港の出入りに際してのセキュリティチェックの厳格さにも驚き不愉快でもあった。10月1日が70年目の国慶節で、大軍事パレードが予定されていることもあるのだというが、国際線以上に国内線のチェックが厳しい。以前にはないピリピリした空気。これも、今の中国なのだ。
(2019年8月30日)
安全保障理事会と総会ばかりが国連ではない。国連はいくつもの専門機関を擁して、多様な人権課題に精力的に取り組んでいる。労働分野では、ILO(国際労働機関)が世界標準の労働者の権利を確認し、その実現に大きな実績を上げてきた。また、おなじみのユネスコ(国際教育科学文化機関)が、教育分野で旺盛な活動を展開している。
その両機関の活動領域の交わるところ、労働問題でもあり教育問題でもある分野、あるいは各国の教育労働者(教職員)に固有の問題については、ILOとユネスコの合同委員会が作られて、その権利擁護を担当している。この合同委員会が「セアート(CEART)」である。日本語に置き換えると「ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会」というのだそうだ。
各国の教職員の労組が、それぞれに抱える問題をセアートに訴え、国連から各国にしかるべき勧告がなされるよう働きかけている。そのような試みのひとつとして、我が国のいくつかの教職員労組が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげるようセアートに申し立てた。この春、これが正式に取りあげられ、ILOとユネスコ両機関での正式決議が成立し、日本政府に対する勧告となった。このことがもつ意義は大きい。
申し立てを行って、勧告を得たのは、東京と大阪にある二つの独立系教職員組合。「アイム’89東京教育労働者組合」と「合同労組仲間ユニオン」の教職員支部である。小さな組合の大きな成果となった。
アイム’89が申し立てたのは2014年8月。その内容は、1966年のILO「教員の地位に関する勧告」を、日本政府が遵守していないことについての申立だが、その中で「日の丸・君が代」強制問題に言及してこれを是正するよう具体的な勧告を求めるというものである。
「1966年・教員の地位に関する勧告」は、にユネスコが全会一致で採択した教員にとっての「人権宣言」とも言うべきもので、全世界の教員の自由、専門職性を認め、その地位の保護と向上を各国政府に求めたもの。
日本で進行している、学校の卒業式・入学式における「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する」ことの強制は、公権力が教育の場に愛国心強制を持ち込み、教員に対して愛国的な教育を強制するもので、教員の思想・良心の自由、その専門職性に支えられた教職員の教育の自由を侵害するものとなっているという主張。
とりわけ、東京都教育委員会は2003年「10・23通達」を発出し、これに基づいて、全校長が管轄する全教職員を対象に、「会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう職務命令を発し、これに従わない教職員に対する大量の懲戒処分を重ねてきた。既に、500に近い教職員が、戒告、減給、停職処分を受け、処分者には「再発防止研修」が懲罰的に課され、すべての処分者は定年退職後の再雇用希望も拒否されつづけている。
アイム’89によると、「日の丸・君が代」処分に関連する申立の根拠たる事由は、下記の3点だという。
1 教職員は,卒業式・入学式において「日の丸・君が代」への敬愛行為を強制され,思想良心の自由を侵害されています。
2 教員は,卒業式・入学式の実施内容に関して何ら決定権を持ちません。教員は教育の自由の権利を侵害されています。侵害は,年を追うごとに領域 が拡がり,深刻になっています。
3 教職員は,自らの思想良心,教育信念にもとづいて,卒業式・入学式において「日の丸君が代」起立斉唱命令に従わないと,懲戒処分を科され,経済的不利益,精神的苦痛を被ります。そればかりか,考え方を改めるように再発防止研修という名の思想転向を強要されます。また退職時には,再雇用職員への採用が拒否され,5年間の教育的関わりの機会が剥奪されます。
この申立をセアートは受理し調査を実施した。日本政府へ問い合わせもおこない、アイム’89と日本政府の双方にそれぞれ意見と反論を述べる機会を与えたうえで、2018年10月、ILOとユネスコに対する報告・勧告を採択した。この勧告に基づいて、2019年3月ILO理事会が4月にはユネスコ執行委員会が、正式に採択して公表した。
ILOとユネスコの日本政府に対する勧告は、以下の6点である。申立を認めて、「日の丸・君が代」強制を是正するよう求めるものとなっている。
(a)愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b)消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c)懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d)現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e)障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f)上記勧告に関する諸努力についてそのつどセアートに通知すること
ILOユネスコ勧告が、「日の丸・君が代」強制の入学式・卒業式を「愛国的な式典」と呼んでいることが興味深い。「愛国的な式典」に関する教員の義務については、都教委が一方的に命令するのではなく、教職員組合との合意で規則を制定せよという。そして、その規則は「国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容とする」というのだ。これを、世界標準と考えるべきなのだ。
この勧告を受けて、アイム’89は、次のような声明を挙げている。
・日本政府および文部科学省は、「日の丸・君が代」が強制されるべきものではないことを明確に示し、各地方自治体教育委員会に通達すること。
・各地方自治体および各地方自治体教育委員会は、直ちに「日の丸・君が代」を強制する条例や通達等を廃止・撤回すること。
・各地方自治体教育委員会は、「日の丸・君が代」強制による処分のすべてを取り消すこと。
・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、教職員団体と話し合いをする機会を設定すること。
・日本政府および文部科学省、各地方自治体教育委員会は、学校における卒業式・入学式等の実施内容・方法について、すべての教職員および子どもの自由と尊厳が尊重され、ニーズが満たされるものとなるように設定すること。
・文部科学省および各地方自治体教育委員会が設定する教員研修については、 教員の専門的発達を目的とする以外のものとしないこと。
・最高裁判所および下級裁判所は、「教員の地位に関する勧告」および「セアート勧告」に照らし、「日の丸・君が代」強制により損害・不利益を被った者の訴えに対し、正当な補償・救済をすること。
まことにもっともではないか。次に予定されている「東京・君が代裁判」においては、十分にこれを活用したいものと思う。また、大いにこれの宣伝に務め、「日の丸・君が代」強制反対の世論を喚起したい。
(2019年8月29日)
なにかの折に、ふと袖触れあった人を思い出すことがある。その一人に西村秀夫という人がいる。東大の駒場で、新入生として一度だけ口をきいたことがある人。1963年春のことだ。この人は、「教養学部学生部長」という肩書だったはず。
確かではないが、入学手続のためにはじめて登校した日のことだった。前年までは、年額9000円だった授業料が、この年から1万2000円に増額されたことが問題となっていた。
このとき、学生自治会の2年生が、新入生に呼びかけていた。「これから学生部長交渉をする。新入生の中での苦学生は、ともに交渉に参加せよ」というのだ。で、私も、学生部まで出かけた。その席に、学生部長であった西村さんがいた。
他の学生が何を喋ったのかは憶えていない。私は、自分の経済事情を訴えた。
「僕は、1年前に大阪の高校を卒業して上京した。以来親からの仕送りは一切ない。一年間別の国立大学に通い、学費と生活費は、すべてアルバイトと奨学金でまかなってきた。今年からは、この大学の学生となるが、受験料や入学金は、アルバイトで稼いだものでしはらった。痛いのは、これまでもらっていた育英会の特別奨学金(月額7500円)が打ち切られてしまったこと。駒場寮入寮の予定だが、アルバイト漬けの生活は当分変わりそうもない。高額に過ぎる授業料を負担に感じている学生はけっして少なくないはずだ」
西村さんは、真剣に聞いてくれた。2?3の質問の後、こう言った。「キミ、たいへんだね。授業料免除の申請をしたまえ。キミのような学生のための制度だ」。
その場で、授業料免除申請書をもらった。その場で、受け付けてもらったような記憶でもある。おかげで、授業料免除の通知はすぐに来た。私は、授業料の負担からは免れて学生生活を送ることができた。西村さんには、感謝しなければならない。
西村秀夫さんは、新渡戸稲造・矢内原忠雄の直系で、無協会派のクリスチャンだった。学内でも、聖書研究会を主催していたという。しかし、私には聖書への興味はなく、矢内原も新渡戸も眼中にはなかった。西村さんにはその後会う機会もなく、アルバイトに明け暮れた学生生活が終わった。既に故人となった西村さんにお礼を言う機会を失って、ときどきあのときのことを思い出す。
私は、東大では6年間を過ごして退学した。最初の4年間は、きちんと授業料免除の手続をした。が、残りの2年は手続を怠っていた。在学5年目に、はじめて司法試験を受験して不合格となり、翌年合格した。いわゆる「東大闘争」で学内騒然としていた頃のこと。私は、退学して司法研修所に入所することとした。
ところが、司法研修所への入所手続には退学証明書が必要であるという。さらに、「退学証明書発行には遅滞している授業料の納入が必要」だと言われて愕然とした。ひとえに、司法修習生としての給与を得んがために、私は、やむなく2年分の授業料を納入した。気持の上では、「24000円もの大金で、退学証明書を購入」した。
それでも、司法試験と司法修習とは、苦学生にはまことにありがたい制度だった。誰でも受験でき、合格すれば翌年からは公務員に準じた地位を与えられて給与を得ながら法曹実務を学ぶことができた。今のロースクールの制度では、私が弁護士になれたとは思えない。
人は平等という建前だが、実質的な平等を実現するのは難しい。とりわけ、経済的な不平等という圧倒的な現実はまことに厳しい。経済的な格差や貧困をなくすることが、最も望ましいことではあろうが、百年河清を待ってはおれない。経済的な困窮者を救済する幾重もの制度が必要である。その制度の実効性は、はたして進歩しているであろうか。
そして、社会のあらゆるところに、ヒューマニスティクな人が欲しい。西村秀夫さんのような。
(2019年8月28日)
日課となった早朝の散歩では、東大の医学図書館の前をほぼ毎日通る。ここに、「ヒポクラテスの木」と呼ばれるスズカケの木(プラタナス)がある。今、小さなスズが成りはじめたところ。
むかし、ギリシャのコス島に西洋医学の祖と言われるヒポクラテスがいた。彼は、スズカケノキ(プラタナス)の老大木の木陰で弟子達に医学を教えたという。のどかな時代のことだ。ヒポクラテスは、紀元前460頃?377頃の人とされる。
東大にある「ヒポクラテスの木」は、ギリシャから寄贈されたかの老大木の種子から発芽したという由緒正しい若木を育てたものだとか。万世一系の「ヒポクラテスの木」ということらしい。
ヒポクラテスの医学や医学思想は、医学史の専門家以外には興味を惹くものではなさそうだ。彼が有名なのは、医師の倫理としての「ヒポクラテスの誓い」による。
下記は、日本医師会のホームページからの「ヒポクラテスの誓い(訳:小川鼎三)」である。
医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
1. この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。
2. その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
3. 私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
4. 頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。
5. 純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
6. 結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。
7. いかなる患家を訪れる時もそれはただ病者を益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。
8. 医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
9. この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。
一見して、大いに体系性に欠ける9項目羅列の誓いである。この人の思考能力は、医師として大丈夫だったろうか。
第7項の、すべての患者を平等視する思想は素晴らしいものだ。例示として、「女と男、自由人と奴隷の違いなく」が挙げられている。王侯貴族であろうとも庶民であろうとも、貧富の差、人種や民族、宗教の別なく、患者には平等に接するべしとする教えであり誓約。
「ヒポクラテスの誓い」は、この第7項の1項目だけでよかったのに、と思う。あるいは、第3項・4項・8項あたりの、医師としての患者に対する責務についての誓約だけであれば、彼は後世もっと尊敬されたであろうに。
1項と2項は、ギルドの掟。これが先頭にあるから、印象が悪くなる。日本国憲法が第1章を「天皇」としている如くに、である。
「ヒポクラテスの誓い」ほど有名ではないが、我が国の医師の倫理を記したものには、貝原益軒の養生訓がある。次の一節を引用しておきたい。
(冒頭の「醫」は、医師のこと。益軒は、医師を「君子醫」と、「小人醫」とに分類して、医師となるからには「君子醫」たれとする。そして、「醫は仁術なり」と、儒教的立場から医の倫理を説く。)
醫とならば、君子醫となるべし。小人醫となるべからず。
君子醫は人の為にす。人を救ふに志専一なるなり。小人醫はわが為にす。我身の利養のみ志し、人を救ふに、志専ならず。
醫は仁術なり。人を救ふを以て志とすべし。是、人の為にする君子醫なり。人を救ふに志しなくして、只、身の利養を以て志とするは、是、わが為にする小人醫なり。
醫は病者を救はんための術なれば、病家の貴賎貧富の隔てなく、心を盡して病をなおすべし。病家より招きあらば、貴賎をわかたず、はやく行くべし。遅々すべからず。人の命は至っておもし。病人をおろそかにすべからず。是、醫となれる職分をつとむるなり。小人醫は醫術流行すれば、我身にほこりたかぶりて、貧賎なる病家をあなどる。是、醫の本意を失へり。
その一部を分かり易く現代語訳してみよう。
医業とは、患者を救うための職責なのだから、患者を貴賎貧富で区別することなく、心を盡して診療に努力しなさい。患者の要請があれば、患者の身分に関わりなく、速やかに治療に着手しなければなりません。ぐずぐずしてはいけません。人の命は、とても重く貴重なものなのですから、けっして患者をおろそかにせぬように。
ここには、近代的な人権思想が読み取れる。患者の権利の思想、医師の応召義務にも言及されている。貝原益軒、大したものではないか。
世を見わたせば、確かに「君子醫」がおり、「小人醫」がある。翻って、弁護士にも、「君子たる弁護士」と「小人たる弁護士」があろうか。鈴掛の木を見て思う。「君子たる弁護士」になるのは難しくとも、けっして「小人たる弁護士」にはなるまい。願わくは真っ当な弁護士であり続けたい。
(2019年8月27日)
1977年8月、私は東京弁護士会から岩手弁護士に登録替えした。34才になる直前。弁護士経験は満6年余。自分としては、既に中堅弁護士としての力量を身につけているつもり。盛岡の中心部に位置する城趾と中津川を隔てたマンションの小さな2室を借りた。1室がマイホームとなり、もう1室が法律事務所となった。
盛岡は、私の故郷。母の生地でもあり、父の勤務地でもあった。四季折々に美しく穏やかな街。啄木や賢治が過ごした街でもある。ここで働くに当たって、若い私は張り切っていた。自分の力で、なにごとかをなす意気込みに溢れていた。
そんな私の最初の刑事事件が二戸市議選の選挙弾圧事件であり、民事事件としてはある組合の不当労働行為事件だった。もう40年も昔のことで正確には憶えていないのだが、少数組合を代理して会社に内容証明郵便を発送した。組合間差別に対する抗議と是正を求める内容だったはず。誠実に団体交渉に応ぜよ、という内容でもあったと思う。
会社側から、「団体交渉はするけど、その前に会社の代理人弁護士と会っていただきたい」という要請があって、弁護士会で初めてお目にかかったのが、佐藤邦雄弁護士だった。当然のことながら、期前(戦後の司法修習制度開始以前)の長老弁護士。岩手弁護士会の重鎮であった。
私は、相手が重鎮だろうが権威だろうが気にしない。当時はよく回った口で、遠慮なく会社側の対応の不誠実さを難詰した。弁護士の指導も批判したと思う。しばらく私の話を聞いていた、佐藤弁護士はこう言った。
キミ、そんなに老人を苛めるもんじゃない。私は、明日、77才になるんだよ。いろいろ言い分のあることは分かった。急には無理だが、だんだん何とかなるだろうよ。
佐藤弁護士の物言いは、飄々としてトゲトゲしさのないものだった。気の利いた何かを言ったわけではないが、私が感じたのは、独特の風格だった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものか。この交渉に陪席して、その後の実務を引き取ったのが、偶々東京でシビアな交渉相手となったことのある野村弁護士だった。私より3期先輩。
最初私は、佐藤邦雄さんを地元のブル弁(ブルジョワ弁護士)と規定したが、なかなか一筋縄ではおさまらない。けっこう仲良くなった。戦前の弁護士活動の話をよくしてくれた。それが、固有名詞の滑らかに出てくるみごとな話術なのだ。そして、昔の検事や判事がこんなに横柄でひどかったという話になる。とりわけ、我々の世代の知らない陪審裁判の話が興味深かった。戦前の盛岡地裁には、陪審専用法廷も、陪審員用の宿舎もあったという。そして、陪審員を説得して無罪を勝ち取った手柄話を実に楽しそうにした。
私にとって、佐藤邦雄さんが、いかにも戦前からの、弁護士らしい弁護士像となった。もちろん、保守の人。反体制ではないが、明らかに在野の筋をもっていた。当時、岩手弁護士会も、刑法改悪反対、スパイ防止法反対、拘禁二法反対などの運動に取り組んだ。重鎮たちの反対あればできなかったことだが、弁護士会が在野を貫く運動に、重鎮たちが異を唱えることはなかった。
そのころ、佐藤さんの「本職」は、ヤクルト・スワローズ球団の社長職にあった。広岡達朗監督で飛ぶ鳥を落とす勢いの球団を支えていたわけだ。念のために、ネットで調べると、佐藤社長の在職期間は、1973.2?1985.4、広岡監督の在任は1974?? 1979とのことである。嫌みのない球界裏話で、みんなを楽しませていた。
もう少し何かないか。ネットで見つかったのは、岩手高校の文化活動での講演会記録。1950年のこと、講演者は二人。金森徳次郎と佐藤邦雄弁護士である。金森徳次郎は、人も知る制憲議会での政府側答弁の立役者、おそらくはお二人で、若者に「新憲法」のなんたるかを語ったのだろう。
当時、岩手県全体で、弁護士数は30名余に過ぎなかった。佐藤弁護士とも何度かは事件の相手方になったが、自分で書面を書いたり、尋問することはなかった。それでも、佐藤弁護士がいれば、汚いことはしない、上手に落としどころを心得た和解にもっていってくれる。という信頼があった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものであろう。
古きよき時代の、そんな弁護士らしい風格をもった弁護士、佐藤邦雄さん。最初に出会った頃の彼の年齢に私も近くはなったが、到底ああいう風格は身につけられない。
(2019年8月26日)
久しぶりに落語の話題、「一眼国」を取りあげたい。8代目正蔵(彦六)の持ちネタで、その語り口によく似合った噺。お白州物の範疇に入るのだろうが、考え方の虚を衝いて人権と差別を考えさせられる。
昔は両国広小路が随一の賑わいで、回向院の周りには見世物小屋が並んでいた。てこへんな小屋も多く、「世にもめずらしい目が三つで、歯が二つの怪物」として客を呼び込み、下駄の片方を見せたり、大きな板に血糊を付けて「六尺の大イタチ(鼬)。あぶないよ」と言って見たり。赤子を食べる鬼娘なんていういかがわしいものまであった。
両国で見世物小屋を持っている香具師が諸国を巡っている六部を家に上げて、旅の途中で見聞きした珍しい物や話を聞き出そうとする。その話をもとに本物を探し出し、見世物小屋に出して大儲けをしようという魂胆。六部は、いったんは思い当たることはないと言うが、別れ際に、一度だけ恐ろしい目にあったことを思い出したと、こんな話をする。
巡礼の途中、江戸から北へ140から150里の大きな野原の真ん中の榎の所で一つ目の女の子に出くわして、ゾーッとしたという話。この話を聞いて喜んだ香具師は紙に書きとめ、お世辞たらたらで六部を送り出す。
香具師は早速支度をして北へ、一つ目を探しに旅立った。夜を日に継いで、大きな原にたどり着く。見ると原の真ん中に一本の大きな榎。足を早め近づくと、話に聞いたとおりの「おじさ?ん おじ?さん」という子どもの声。
「いいものあげるから、おいで おいで」と言って、そばへ寄ってきた子どもを抱え込む。びっくりした子どもが「キャ?」と叫ぶと、法螺や早鐘の音とともに、大勢が追って来る。
子どもも欲しいが命が大事、子どもを放りだし一目散に逃げ出したが馴れない道でつまづき、捕まってしまう。代官の前へ引き出され、周りを見ると、みんな一つ目。
代官の吟味が始まる。「これこれ、そのほうの生国はいずこだ。なに江戸だ。子どもをかどわかしの罪は重いぞ。面を上げい。面を上げい!」
「あっ! 御同役、ごろうじろ。こいつ不思議だ。目が二つある」
「調べはあとまわし。早速、見世物へ出せ」
我々は、二眼の国で暮らしている。一つ目も、三つ目もスタンダードから外れた異界の存在だが、一眼国では二つ目の人間が見世物になるのだ。
目の数の違いは、皮膚の色の違いに置き代えられる。白人の国では黒い人が珍しく、黒人の国では白い人が珍奇なのだ。キリスト教圏では仏教徒は化外の人で、日本の近世ではキリシタンは恐るべき罪人だった。古代ギリシャ人は、異民族をバルバロイと呼んで見下した。これは、「言葉の分からぬ野蛮人」なる意味だという。言葉が分からぬのはお互いさまなのに。
人と人とは、みんな違う。グループとグループも違う。違うことを認め合えば共存できるが、不必要に恐れたり、侮蔑したりすると軋轢が生じる。その状態が差別である。差別は容易に敵視に転化して、暴力行為にも発展する。
一つ目だって、二つ目だって、どちらでも不都合なことはない。他の人と違うことが、不幸の一つ目。そして、他の人と違うことがいたわられるのではなく、見世物の扱いを受けるということが不幸の二つ目。
この噺、最後をこう落としたい。
「あっ! 御同役、ごろうじろ。こいつは不思議だ。
貴公 目が二つあるな。いったい二つの目をどう使い分けておる?」
「へい、一つは目の前のものを見、もう一つは忖度のために上ばかりを見続けております」
「なに? 忖度とな。そちらが忖度専用の目であるか。これは珍しい。我が国にはなきもの。やはり調べはあとまわし。早速、見世物へ出せ」
(2019年8月25日)
1975年発刊の五味川純平「ノモンハン」(文芸春秋社)の帯に、本文の一節を引用して、次の記載がある。
著者は言う―自分の戦争年間の体験を歴史の時間的順序に配列し直してみて気づいたことは、ノモンハンの時点に、その後数年間の日本の思い上りや、あがきが、集約的に表現されていたことである。ノモンハン事件は、小型「太平洋戦争」であった。ノモンハン事件は太平洋戦争の末路を紛うことなく予告していたのである。ノモンハン事件をあるがままに正当に評価すれば、それから僅か2年3ヵ月後に大戦に突入する愚を日本は冒し得なかったはずであった。
ノモンハン――みはるかす大平原に轟いた砲声は、日本にとっては、運命が扉を叩く音であった。日本の指導者たちはそれを聞きわける耳を持たなかった―と。
これは、名文である。戦後になってからだが、ノモンハン事件の重大さを、多くの人が漠然と感じていた。その重大さの本質を的確に表現した一文。ノモンハンの時期は、第2次大戦の直前に当たる。日本は、ソ連と、本格的近代戦の予行演習をしたのだ。五味川は、それを「小型太平洋戦争」と表現した。
その予行演習で、日本軍は手痛い敗北を喫した。それでも、その教訓を生かすことのないまま、英米蘭との開戦に踏み切り、310万人の死者を出して、太平洋戦争を終えた。五味川は、あとがきでこう記している。
? ノモンハン戦失敗の図式は三年後のガダルカナル戦失敗の図式に酷似している。特に作戦指導部の考え方において、そうである。作戦指導の中枢神経となった参謀二名が両戦に共通しているからでもあろうが、当時の軍人一般、ひいては当時の日本人一般の思考方法が然らしめたものであろうか。先入主に支配されて、同じ過誤を何度でも繰り返す。認識と対応が現実的でなく、幻想的である。観測と判断が希望的であって、合理的でない。反証が現われてもなかなか容認しない。
五味川のノモンハン作戦指導部に対する評価は厳しい。
「前線将兵は奮戦しても、後方に在る高級司令部の戦闘構想と戦力補給の関係は画餅に近いものがあった。国が貧しいといえば、すべてそこに起因するが、出来ることまで出来ていないのは、戦争そのものを組織する能力が乏しかったとしか考えられない」。「日ソ両軍の間には・・・戦闘を組織的に遂行するための配慮の密度に甚だしい差があり、戦闘の予備段階で既に直接に勝敗を分つほどの懸隔があった」「この考え方の安易さと粗末さは、これが軍事のプロかと呆れるばかりである」。
「参謀たちは性懲りもなく敵の兵力使用を低く見積っていた。戦って失敗すると、敵の兵力が意外に大きかったという」「この思い上がった愚かしさは、ほとんど理解の外である」「日本軍は、一度やって失敗したことを、同じ方法、同じ兵力で、二度三度やろうとした。他に手がないから仕方がないというのでは、近代的な戦闘を組織することはできないのである」。
こうして、死なずに済んだはずの兵士に代わって、五味川は、高級参謀たちの無能と怠惰を切歯扼腕する。そのとおりだと思いつつ、違和感も禁じえない。戦史を読むときに、いつも感じる違和感。では、もっとセオリーに忠実に、もっと巧妙に、もっと戦意を昂揚して戦闘すべきだったのかという違和感。戦闘に負けたことが責められるべきことで、勝っていればよかったのか。
五味川のノモンハン事件に対する総括的な評価として、「国家の面目にかけて、不毛の地の寸土を争い、夥しい鮮血が砂漠に吸い込まれた」という一文がある。これには違和感がない。戦争自体が愚行なのだ。責任を負うべきは、戦闘を起こしたことであって、けっして負けたことではない。
ソ連を相手に近代戦争のなんたるかを知った旧軍が、なぜ、もっと大きな規模で同じ過ちを繰り返して、壊滅的な敗北に至ったか。ノモンハンの現地に行っただけでは分かるはずもなかろうが、考えるきっかけくらいにはなるだろう。
今日は一日ノモンハン。ハイラルから、200?250キロの距離だという。
(2019年8月24日)
本日(8月23日)が、ノモンハンへの旅の2日目。早朝、空路北京から内蒙古のハイラルに飛ぶ。ここが、ノモンハン事件を主導した第23師団司令部があったところ。39年5月の小規模な第1次衝突も、6月からの大規模な戦闘も、師団長(小松原道太郎中将)が、東京の陸軍省、参謀本部の紛争不拡大方針の指示を無視して、現地の判断で決行したものだという。
師団司令部遺跡では、当時の遺品を展示しているという。また、師団司令部だけでなく、旧日本軍の要塞址やハイラル神社も残っているそうだ。本日は、一日ハイラルを見学してハイラル泊となる。
ところで、五味川純平の力作「ノモンハン」の冒頭に、戦場となったノモンハンの風景が、次のように描写されている。
戦場となったノモンハン付近は、満州の西北、興安北省(旧称)が外蒙古と境を接するあたりの砂漠と草原の大波状地帯である。大小の砂丘が無数に起伏している。雑草や低い潅木群が点在するほかは空々漠々としている。戦闘は、日を追って、砂丘地帯と草原と若干の湖沼地帯にわたって展開された。
気の遠くなるような広さである。見渡す限り平原がひろがっている。単調そのものである。徒歩行軍する部隊にとっては、この単調はやりきれない。早朝野営地を出発するときから、その日の夕刻に到着する地点が見えている。これが、歩いても歩いても距離が縮まらない。兵隊の俗語に「顎が出る」という表現がある。重い装具を背負い、太陽に灼かれ、汗の塩を吹き出しながら、いっこうに近づかない目標を怨めしげに見て歩くのは、確かに顎が出る仕事である。
後方基地であるハイラルから戦場までは約200乃至250キロ、ソ連側は最も近い鉄道沿線のボルジヤまたはヴィルカから約750キロ、外蒙内の補給基地サンベースからは約450キロである。ソ蒙側に較べてこの補給距離の短いことが、関東軍が作戦を有利と誤判する一因であった。距離差など問題にならない補給力のいちじるしい差をやがて見せつけられることになる。
愛琿(アイグン)に近かったという私の父の駐屯地も、こんなところであっただろうか。何度も聞かされた、父の話がある。岩手で育った父にとってもソ満国境の冬はとてつもなく寒かった。オンドルを焚いた部屋で窓を開けると、冷たい外気が室内の水蒸気を一瞬で凍らせて、部屋の真ん中に数センチの雪が積もるのだという。
また、現地で満月を2度見たそうだ。満州の月は大きい。盆のような月ではない。それこそタライのような満月だった。それが、地平線から出て、地平線に沈むのだと。
その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。達者な筆で、墨の濃淡を描き分け、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。
ノモンハン事件のあと、関東軍は南進論に転じて、戦友の多くは南方に送られて多くが戦死したという。父は、運良く召集解除となって帰宅し、その後2度まで招集されたが、いずれも内地勤務で、終戦は弘前で迎えた。
幸いなことに、父には実戦の経験はない。「たった一度、『明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ』という通知をもらったことがある。緊張この上なかったが、なにごともなくホッとした」。父にとっては、直接には戦闘の悲惨に遭わず、戦争とは軍隊生活のことだった。懐かしい想い出の一齣のようだった。隊内での演芸会やら、素人芝居やらを、楽しげに語ったことがある。戦後、父はときどきは生き残りの戦友会にも出かけた。
これに較べると母は、心から戦争を憎む様子だった。「戦争は身震いするほどイヤだ」「戦争中よいことなど一つもなかった」と繰り返し言っていた。母の妹は、夫を戦争で失っている。戦争を懐かしそうに語る男たちを、身震いするほどにイヤな奴と思っていたのではなかろうか。
(2019年8月23日)
本日(8月22日)、私は内蒙古ハイラルへの旅の途上である。帰京は8月28日夕刻の予定。おそらく、ハイラルでお分かりの方は少なかろう。ノモンハンの近くの街である。戦前、このハイラルに第23師団の本部があった。そして、その近くの満州と蒙古との国境紛争がこじれて、日本とソ連との本格的な近代戦となった。これが、ノモンハン事件。あるいは、宣戦布告なき「ノモンハン戦争」である。
事件は、ちょうど80年前の1939年5月に小規模な現地の衝突から始まる。一旦終熄するが、6月再び大規模な空爆・空中戦・戦車戦となり、9月まで続いて日本軍は手痛い敗北を喫した。このわずかの期間に、日本軍は2万を超す戦死者を出している。双方の死者総数は4万余。大会戦だったといえよう。ソ連側の指揮官が高名なジューコフであった。その戦跡を見学する旅なのだ。
話の始まりは、例によって、ある日吉田博徳さんからお電話をいただいたことにある。「澤藤さん、ノモンハンに興味がありませんか?」と言われる。イエスと答えれば、「では、ぜひご一緒しましよう」となることを承知で、私は「イエス」と答えた。その結果として、本日私は北京に飛んでいる。盧溝橋の戦争博物館を見学して一泊。明日からの3泊4日が、ハイラル・ノモンハンの旅となる。その後北京に泊して、帰京は8月28日の予定。
「ノモンハン・イエス」と答えたには、幾つかの理由がある。
私の父は、招集されて関東軍の兵士となった。ソ満国境の兵営で2年近くを暮らしている。除隊時には叩き上げの曹長だった。駐屯地は愛琿(アイグン)の近くの小さな街とのことだったが、それより詳しいことは分からない。ノモンハンは愛琿の近くとは言い難いが、亡父の過ごしたあたりの風景や空気を感じることができるのではないか。
ノモンハンの戦闘にも興味がある。維新後の日本は、戦争では基本的に成功体験を重ねた。日清・日露そして日独の戦争。その成功体験が日中戦争では、思わぬ長期戦となり、ノモンハンではソ連を相手に明らかな失敗体験となった。にもかかわらず、天皇制日本はこの失敗体験を生かすことなく、対英米開戦に突き進んで、壊滅的な敗戦に至る。いったい、なぜ?
モンゴルの大草原をこの目で見たい。風に吹かれてもみたいという望みもある。吉田さんはいう。「モンゴルの草原の広さはとてつもないものですよ。どこまで行っても、いつまで走っても、まったく景色が変わらない」。日本の景色を箱庭という、その感覚の拠って来たるところを実感してみたい。
そして、最後が吉田さんのお誘いである。これは断れない。吉田さんは、ノモンハン事件の直後、ハイラルの23師団に就役して歩兵連隊の小隊長として2年を暮らしたという。元気なうちに、ハイラル・ノモンハンをもう一度、よく見ておきたいという。98才の吉田さんがそうおっしゃるのだ。「お供します」というほかはないではないか。
(2019年8月22日)