私が出会った弁護士(その5) ― 佐藤邦雄
1977年8月、私は東京弁護士会から岩手弁護士に登録替えした。34才になる直前。弁護士経験は満6年余。自分としては、既に中堅弁護士としての力量を身につけているつもり。盛岡の中心部に位置する城趾と中津川を隔てたマンションの小さな2室を借りた。1室がマイホームとなり、もう1室が法律事務所となった。
盛岡は、私の故郷。母の生地でもあり、父の勤務地でもあった。四季折々に美しく穏やかな街。啄木や賢治が過ごした街でもある。ここで働くに当たって、若い私は張り切っていた。自分の力で、なにごとかをなす意気込みに溢れていた。
そんな私の最初の刑事事件が二戸市議選の選挙弾圧事件であり、民事事件としてはある組合の不当労働行為事件だった。もう40年も昔のことで正確には憶えていないのだが、少数組合を代理して会社に内容証明郵便を発送した。組合間差別に対する抗議と是正を求める内容だったはず。誠実に団体交渉に応ぜよ、という内容でもあったと思う。
会社側から、「団体交渉はするけど、その前に会社の代理人弁護士と会っていただきたい」という要請があって、弁護士会で初めてお目にかかったのが、佐藤邦雄弁護士だった。当然のことながら、期前(戦後の司法修習制度開始以前)の長老弁護士。岩手弁護士会の重鎮であった。
私は、相手が重鎮だろうが権威だろうが気にしない。当時はよく回った口で、遠慮なく会社側の対応の不誠実さを難詰した。弁護士の指導も批判したと思う。しばらく私の話を聞いていた、佐藤弁護士はこう言った。
キミ、そんなに老人を苛めるもんじゃない。私は、明日、77才になるんだよ。いろいろ言い分のあることは分かった。急には無理だが、だんだん何とかなるだろうよ。
佐藤弁護士の物言いは、飄々としてトゲトゲしさのないものだった。気の利いた何かを言ったわけではないが、私が感じたのは、独特の風格だった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものか。この交渉に陪席して、その後の実務を引き取ったのが、偶々東京でシビアな交渉相手となったことのある野村弁護士だった。私より3期先輩。
最初私は、佐藤邦雄さんを地元のブル弁(ブルジョワ弁護士)と規定したが、なかなか一筋縄ではおさまらない。けっこう仲良くなった。戦前の弁護士活動の話をよくしてくれた。それが、固有名詞の滑らかに出てくるみごとな話術なのだ。そして、昔の検事や判事がこんなに横柄でひどかったという話になる。とりわけ、我々の世代の知らない陪審裁判の話が興味深かった。戦前の盛岡地裁には、陪審専用法廷も、陪審員用の宿舎もあったという。そして、陪審員を説得して無罪を勝ち取った手柄話を実に楽しそうにした。
私にとって、佐藤邦雄さんが、いかにも戦前からの、弁護士らしい弁護士像となった。もちろん、保守の人。反体制ではないが、明らかに在野の筋をもっていた。当時、岩手弁護士会も、刑法改悪反対、スパイ防止法反対、拘禁二法反対などの運動に取り組んだ。重鎮たちの反対あればできなかったことだが、弁護士会が在野を貫く運動に、重鎮たちが異を唱えることはなかった。
そのころ、佐藤さんの「本職」は、ヤクルト・スワローズ球団の社長職にあった。広岡達朗監督で飛ぶ鳥を落とす勢いの球団を支えていたわけだ。念のために、ネットで調べると、佐藤社長の在職期間は、1973.2?1985.4、広岡監督の在任は1974?? 1979とのことである。嫌みのない球界裏話で、みんなを楽しませていた。
もう少し何かないか。ネットで見つかったのは、岩手高校の文化活動での講演会記録。1950年のこと、講演者は二人。金森徳次郎と佐藤邦雄弁護士である。金森徳次郎は、人も知る制憲議会での政府側答弁の立役者、おそらくはお二人で、若者に「新憲法」のなんたるかを語ったのだろう。
当時、岩手県全体で、弁護士数は30名余に過ぎなかった。佐藤弁護士とも何度かは事件の相手方になったが、自分で書面を書いたり、尋問することはなかった。それでも、佐藤弁護士がいれば、汚いことはしない、上手に落としどころを心得た和解にもっていってくれる。という信頼があった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものであろう。
古きよき時代の、そんな弁護士らしい風格をもった弁護士、佐藤邦雄さん。最初に出会った頃の彼の年齢に私も近くはなったが、到底ああいう風格は身につけられない。
(2019年8月26日)