皆さん、ご近所の弁護士です。今日も、夕刻から国会の周囲はデモ隊で埋まっています。国会のまわりだけでなく日本中の辻々で、戦争法案反対の声が盛りあがっています。日本共産党文京地区委員会は、今週と来週の毎日「ストップ戦争法案 夕方街頭宣伝」を行っています。たまたま今日は、その場所が本郷三丁目交差点。近所ですから応援のビラ撒きにやって来ましたが、予定外の飛び入りで、マイクを握ります。少しの時間耳を貸してください。
今年は終戦70周年。70年前の今頃、日本は絶望的な戦争の真っ最中でした。7月26日にポツダム宣言を突きつけられ、その受諾を勧告されていたのです。しかし、国民のほとんどは、そんなことは知らなかった。「もうすぐ、本土決戦だ」「今に神風が吹く」、あるいは「撃ちてし止まんあるのみ」と言っていた時期です。
重臣近衛文麿が天皇に上奏文を提出して、「敗戦は必至。一億総玉砕など避けなければならない。軍部を粛正することで英米中と和睦を」と提案したのが、2月14日のこと。正確な情報をもっている者には、それ以前から日本の敗戦が明らかでした。しかし、愚かな天皇は、国体の護持にこだわり「もう一度戦果を挙げてからでないと」と言い続け、無条件降伏に追い込まれたのです。この間に、東京大空襲があり、沖縄地上戦があり、広島と長崎の悲劇があり、ソ連参戦の事態に至ってのようやくの降伏。半年早く降伏していれば、どれだけの命が救われたことでしょうか。
何と愚かな戦争で、かけがえのない国民の命が奪われてしまったのか。70年前の日本国民は、戦争の惨禍を骨身にしみて、再び戦争を繰り返さないことを誓って新しい国を発足させました。その思いの結実が日本国憲法にほかなりません。
再び戦争の悲惨を繰り返さないためにはどうしたらよいか。まずは、為政者にすべての戦争を禁止しよう、そして戦争の道具である軍隊をもたないことを決めよう。それだけではありません。天皇のために命を捨てよという馬鹿げたスローガンがなぜまかり通ったか。民主主義がなかったからだ。国民主権が平和をもたらすだろう。教育の自由も、報道の自由も、何よりも人間の尊重こそが、平和の保障だ。その意味では、日本国憲法は9条だけでなく、前文から103か条の全文すべてが平和を指向した「平和憲法」なのです。
敗戦というこの上ない高価な代償をもって日本は貴重な平和を手に入れました。その貴重な平和は、曲がりなりにも70年続いてきました。しかし、その平和が大きく崩れようとしています。今、国会で審議が進行している戦争法案によってです。安倍首相は、「戦争法案とレッテルを貼るのは怪しからん。これは『平和・安全保障法制』だ、と言っていますが、欺されてはなりません。国会での議論の内容は、どのような条件が整ったら日本は戦争を始めることができるか、というものなのです。まさしく、戦争法案というのがふさわしい。
これまでは、専守防衛が国是でありました。日本がどこかの国から現実に武力攻撃を受けた場合にだけ、自衛のための武力の行使はやむを得ない、と認める。これが専守防衛です。しかし、日本が攻撃を受けていなくても、一定の要件が整えば戦争を始めたっていいじゃないか、というのが安倍政権であり、これを支えている自民・公明の与党です。
日本国憲法が制定された当時、保守政権のリーダーたちは、自衛の戦争も否定していました。「古来あらゆる戦争が自衛のためと称して行われてきた」というのがその理由です。
しかし、保守政権は1954年の自衛隊創設以来、専守防衛路線を国是としてきました。憲法9条も自衛権の行使までは禁じていない。専守防衛の装備・編成しかもっていないから、自衛隊は違憲な存在とは言えない。もちろん、集団的自衛権の行使は自衛権の行使とは次元を異にするもので、明確に違憲。そう言い始めて60年が経過したのです。
専守防衛路線は、自衛隊の存在を法的に承認する意味では、オーソドックスな憲法解釈ではありません。しかし、ともかく60年間安定的に続けられてきた行政解釈です。この解釈を前提に、憲法9条とは何なのか、政府のこれからの外交・防衛政策がどうなるか予想ができるものでした。少なくとも、昨年7月1日以前には。
今、礒崎陽輔という首相補佐官が、「法的安定性など関係ない。大事なのは外国からの脅威にどう対応できるかだ」と言って物議を醸しています。彼らのいう法的安定性とはいったいなんでしょうか。実は、「だるまさんがころんだ」のゲームをイメージしていただくと、ことが分かり易いと思います。
鬼は、後ろ向きで「だるまさんがころんだ」と唱える。鬼以外のみんなは、鬼の見ていないうちに動くのですが、鬼の見ているときにはけっして動かない。鬼にすれば、みんな動かないはずなのに、「だるまさんがころんだ」を繰り返すうちに、確実に鬼に近づいて行くのです。
この一見変わっていないように見えるところが、彼らのいう「法的安定性」。憲法9条の解釈は、文字どおりの戦力不保持から、警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊の存在容認に。そのあとの海外派遣任務の追加。保有する武器の拡大。防衛庁から防衛省への格上げ。次第に、限りなく一人前の軍隊に近づきながら、しかし、少しずつしか変わってこなかった。このことが「法的安定性」の保持です。しかし、最後の一線としての集団的自衛権行使容認だけはできなかった。「だるまさんが転んだ」流のやり方では、どうしても突破できない。礒崎は、このことを正直に、「法的安定性などにこだわっていたのでは、集団的自衛権行使容認はできない」と言っちゃったのです。これが、「法的安定性は関係ない」の真意です。しかし、安倍政権は、相変わらず「だるまさんがころんだ」でやれるんだという建前で通そうとしている。だから、礒崎がホンネを口走ってしまったので大慌てなのです。
昨年7月1日の、集団的自衛権行使を容認した閣議決定にも、「政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。」と明記されています。しかし明記はされているけれど、それは所詮字面だけの無理な話。論理的整合性も法的安定性も投げ捨ててしまおうというのが、ホンネのところ。そのホンネをついつい口走ってしまったので、礒崎という首相補佐官は、今、野党からも政権内部からも詰められているのです。
これは失言というよりはホンネだ。憲法なんか関係ない。邪悪な近隣諸国から攻撃を受ける危険があるのだから、その対応の方が何よりも重要でしょう、ということです。これが、安倍政権全体の憲法についての考え方を表すホンネ。一度露わになった本音は、撤回しても謝罪しても、それこそが発言者の本心であり本性である以上、消し去ることはできません。問われているのは、礒崎という補佐官の個人的な資質ではない。安倍政権の姿勢そのものなのです。
皆さん、70年前の熱かった夏を思い起こしましょう。ようやく手にした平和の尊さを再確認しましょう。危険な戦争法案は廃案にするしかありません。議会の中では、与党勢力が多数派で優位のようですが、実は議会外の国民世論においては法案反対派が圧倒的多数です。法案を廃案に追い込めるか否か、これは偏に世論の喚起と国民の行動にかかっています。
皆さん、ぜひご一緒に戦争法案に反対する世論をさらに強くし、危険な安倍政権を退陣に追い込むよう、力を合わせようではありませんか。
(2015年7月31日)
三陸沿岸の漁民102人が岩手県知事に対して「固定式刺網によるサケの採捕」の許可を求めた「浜の一揆」。許可申請は、岩手県から不許可の決定に接した。達増拓也岩手知事の震災復興行政の姿勢に多少は期待もあったのだが、沿岸漁業のボス支配を追認する水産行政を確認する結論となった。
但し、不許可の理由はまったくの形式論に終始し、実質的には判断を避けたものとなった。見方によっては、県は判断を避けて国や裁判所に丸投げしたとも解しうる。注目されている知事選を目前にして、県の漁業界のボスたちにも一般漁民にも、悪くは思われたくないという動機がもたらした選択であるのかも知れない。
その忖度はともかく、結局のところ当初想定したとおりの結論となって、予定のとおりに農林水産大臣に対する審査請求を申し立てとなった。
以下は、その審査請求書の抜粋である。
**************************************************************************
☆ 各審査請求人は、いずれも岩手県三陸沿岸に居住し、一覧表に特定されている各小型漁船を使用して現に漁業を営む漁民であるところ、
2014年9月30日(1次申請)、同年11月4日(2次申請)、2015年1月30日(3次申請)の3回に分けて、
岩手県知事に対して、当該の漁船を使用して、岩手県沖合海面における固定式刺し網漁業の漁法による「さけ」の採捕の許可を申請した。
但し、当該求める「さけ漁」の許可の内容について、自主的に漁獲量の制限を設け、年間漁獲量の上限を10トンとしての許可を求めた。
☆ 請求人らの上記許可申請に対する岩手県知事による不許可処分がなされた。その理由は以下のとおりとされている。
「岩手県漁業調整規則第23条第1項第3号においては、漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合には、漁業の許可をしない旨規定している。そして、同号の審査基準の一つとして本県が定めた固定式刺し網漁業の許可等の取扱方針(平成14年12月25日制定)においては、固定式刺し網漁業を新たに営もうとする者に係る許可は、知事が定めた新規許可枠の範囲内においてすることにしているところ、現在は当該許可に新規許可枠を設定していない。そうであるところ、取扱方針における許可をなしうる場合に該当せず、岩手県漁業調整規則第23条第1項第3号に該当するものである。このことから、本申請は不許可とする。
☆ 以上のとおり、不許可の理由は、まったく形式的なものに過ぎない。要するに、「予め不許可を決めているから不許可なのだ」というだけで、不許可の実質的理由を提示していない。
しかも、「取扱方針」なるものは、誰も見たことがない。そのようなものがあると説明を受けたこともない。純然たる内部文書に過ぎず、県民の権利義務に影響を与えるものてはあり得ない。
☆ 不許可決定は、自ら、「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要があると認める場合には、漁業の許可をしない旨規定している」と、申請に対しては許可が原則であることを認めつつ、本件の許可申請が「漁業調整又は水産資源の保護培養のため必要がある」という例外に当たることについての実質的な理由をまったく提示していないのである。
これだけで、取消理由として十分である。
☆ 速やかな原処分取消裁決が得られない場合には、行政事件訴訟法に基づいて、岩手県知事を被告として、盛岡地裁に不許可処分取消訴訟を提起する予定である。
**************************************************************************
請求人らは、いずれも2011年3月の震災と津波によって甚大な被害を蒙った三陸沿岸の漁民であるところ、漁業による生計を維持し生業を継続するための切実な要求として、さけ漁の許可を得るために本申請におよんだものである。
岩手県三陸沿岸の漁業においては、秋から冬を盛漁期とする「さけ」を基幹魚種とする。ところが、一般漁民には基幹魚種であるさけを採捕することが禁じられている。信じがたいことだが、一般漁民の不満を押さえつけての非民主的で不合理極まる水産行政がまかり通ってきた。
岩手県沿岸のさけ漁は、もっぱら大規模な定置網漁の事業者に独占されており、零細な一般漁民は刑罰をもってさけ漁を禁止されている。事実上、大規模定置網事業者保護のための水産行政であり、浜の有力者の利益を確保するために刑罰による威嚇が用意されているのである。一方に大規模なさけの定置網漁で巨額の利益を得る者がある反面、零細漁民は漁業での生計を維持しがたく、後継者も確保しがたい深刻な現実がある。
宮城県においても青森県においても、当然のこととして一般漁民が小規模な固定式刺し網によるさけ漁の許可を得て漁業を営んでいる。県境を越えて岩手県に入った途端、突然に「さけ漁禁止」「違反は処罰」となるのである。
本件許可申請は、このような不合理な水産行政に反旗を翻す「浜の一揆」の心意気をもっての権利主張である。
定置網漁業を営む大規模事業者は2種類ある。そのひとつは漁業協同組合であり、他のひとつは漁業界の有力者の単独経営体である。
漁業協同組合における民主的運営は必ずしも徹底されておらず、漁協の利益が組合員の利益に還元されない憾みを遺している現実がある。こと、「さけ漁」に関しては、一部の漁協と漁民の利益は鋭く相反している。
また、漁協以外の定置網事業者は例外なく業界の有力者であって、一般漁民をさけ漁から閉め出すことは、大規模事業者の不当な利益を確保する制度として定着している。行政は、この不合理を是正することなく、むしろ業界の有力者と癒着し庇護する体制を確立して今日に至っている。
請求人らは、いずれも岩手県三陸沿岸において小型漁船を使用して小規模漁業に従事する者であって、予てから岩手県三陸沿岸海域においては一般漁民に「さけ」の採捕が禁止されていることを不合理とし、岩手県の水産行政に不信と不満の念を募らせてきたが、「さけ漁禁止」の不合理は、3・11震災・津波の被害からの復興が遅々として進まない現在、いよいよ耐えがたいものとなって、本件申請に至った。
本来は、岩手県の水産行政や、県政が、漁業の振興と漁村集落の維持発展を図るため大規模定置網事業者のさけ採捕独占を問題としなければならない。具体的には大規模事業者によるさけ漁の上限を画して、小型漁船漁業を営む一般漁民の生計がなり立つような水産行政を積極的に展開しなければならない。県にその姿勢がないばかりに、請求人らは、県行政や県政と闘って、自らの権利を実現することを余儀なくされているのである。
岩手県の水産行政は三陸沿岸漁民全体の利益のためにこそある。大規模定置網漁事業者にさけ漁の利益独占を保障するための行政であってはならない。
本来、海域の水産資源は誰にも独占の権利はない。わけても沿岸海域における漁場の水産資源は沿岸漁民全ての共有財産である。
漁業法の理念からも、漁は合理的な制約には服するものの原則は自由である。制約の合理性の内容は「民主化」「実質的な公平」でなくてはならない。しかし、三陸沿岸の漁民は生活に困窮しながら、目の前の漁場において一尾のさけも獲ってはならないとされているのである。しかも、他方では大規模事業者が行う巻き網漁船や底引き網漁で混穫されたさけは、雑魚扱いされて事実上黙認されているなど、強者に甘く弱者にはこの上なく厳しい事態の不合理は、誰の目にも明らかというべきである。
都道府県の水産行政には、漁業法にもとづいて負託された漁業許可の権限があるものとされている。しかし、漁民の許可申請に対しては、飽くまで許可をなすべきことが原則であって、不許可は格別の事情ある場合の例外に限られる。
請求人らは、3・11震災・津波被災後の生活苦の中で、さけ漁禁止行政の継続は、生業の維持と生活再建を破壊するものとの認識のもと、小規模漁民において可能な固定式刺し網による「さけ」漁の許可を求めるものである。
請求人らは、これまでこの不自然で不合理な岩手県の漁業行政に甘んじてきた。しかし、請求人らの生活苦はその不合理に耐え難い限界に達して、ようやくにして公正な漁業資源の配分を要求するに至ったものである。
速やかな原処分取消の裁決を求める。
(2015年7月30日)
7月27日(月)参院審議入りの初日。この日表には出て来なかったが、影の主役は安倍の側近礒崎陽輔だった。あるいは、礒崎がクローズアップさせた「法的安定性」というテクニカルタームであったというべきか。
この日本会議での民主党北澤俊美の質問はなかなかのものだった。この人がかつては防衛大臣だったのだ。民主党政権を壊してしまったことを惜しいと思わせる内容。北澤は「法的安定性」に言及してこう言っている。
「総理、あなたは政治家として本当に責任を果たすつもりがあるなら、集団的自衛権の行使を可能にする憲法改正を正々堂々と掲げ、国民の信を問えばよい。それが王道であります。それなら憲法も立憲主義も傷つくことはありません。ところが、総理は、憲法解釈の変更という言わば抜け道を選び、国会での数に頼るという覇道を邁進しています。抜け道と覇道の行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」
維新の小野次郎も聞かせた。法的安定性に関しては、次のような質問。
「政府が根拠の一つとしている砂川判決から集団的自衛権の合憲性を導き出すことが困難であることについては、これまでに法律家である与党公明党山口代表を含めてほとんどの法律専門家が指摘しているところであります。専門家に受け入れられていないこのような憲法及び法律の解釈で押し通して将来にわたって法的安定性は確保できるのか、どうお考えなのか、御認識をお伺いしたい」
これに対する首相答弁は、従来と変わりばえのない紋切り。まったく迫力に欠ける。この人に丁寧な説明を期待するのは、木によりて魚を求むるの感。
「法案の憲法適合性、政府における検討及び法的安定性についてお尋ねがありました。まず、新3要件については、砂川判決と軌を一にするこれまでの政府の憲法解釈の基本的な論理の範囲内のものであるため、法的安定性は確保されており、将来にわたっても憲法第九条の法的安定性は確保できると考えています。」
これは要約ではない。速記録がこうなっているのだ。
砂川最高裁判決は1959年のこと。1972年の自衛権に関する政府見解は、当然にこれをも踏まえて、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と結論づけたものである。
この72年政府解釈から数えても40年余、54年自衛隊発足時から数えれば60年余。歴代政権は一貫して「集団的自衛権行使は違憲」と言い続けてきた。いわゆる専守防衛路線である。安倍政権は、乱暴にこれを覆して「集団的自衛権行使合憲」としたうえで、集団的自衛権行使を可能とする法案を提出しているのだ。
この安倍政権の姿勢を、野党も国民世論も法律家も、口を揃えて「立憲主義に反する」と言い、同時に「法的安定性をないがしろにするもの」と指摘した。このことを北澤は、「抜け道と覇道」と言い、「行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」と手厳しい。
無論、政権は懸命に防戦している。安倍の答弁に見るとおり、「立憲主義に反しない」「法的安定性は確保されている」と弁明に大わらわだ。
ところが、首相の側近中の側近である礒崎陽輔が、ホンネを言ってしまった。思いがけない世論の反発への焦りもあったろうし、地元の席での気安さからでもあるのだろう。「法的安定性」なんてどうだってよいのだ。憲法解釈の一貫性よりも、中国や北朝鮮の危険に対処することの方が大切だろう。そう言っちゃったのだ。みごとなオウンゴールである。
「法的安定性」とは、分かりきったことのようで、漠然とした概念。有斐閣「法律学小辞典」では、「どのような行動がどのような法的効果と結びつくかが安定していて、予見可能な状態をいう」とある。なるほど、苦心の語釈。
「法の支配」は、権力の恣意を許さないための大原則だ。形だけの法体系があっても、その法の要件と効果が確定せず、曖昧で、ぶれて、改廃きわまりない、あるいは解釈次第で伸び縮み自由では、権力規制の実効性を持ち得ない。法的安定性は、法の支配に伴う必須の要請なのだ。
「法的安定性などはどうでもよい」とは法に縛られない独裁者の言である。こういう為政者のいるところ、法の支配が貫徹する国ではない。「価値観を同じくする国」ともいえない。中枢にこのようなホンネを持ち、このような発言をする者を抱える政権は恐ろしい。憲法の枠も、法律の枠も、目先の政策の必要次第でいとも容易く破られるからだ。
礒崎を切り捨てて「政権は礒崎とは違う」と大見得を切るか、礒崎を抱えたままで「政権の体質は礒崎と同質」と見られても良しとするか、安倍政権のあり方が鋭く問われている。国民は目を見開いて注視している。
(2015年7月29日)
8月13日(木)11時?14時 日弁連講堂「クレオ」で、下記のシンポジウムを開催し、「国民の70年談話」を採択する。日本国憲法の視座から、各分野の戦後70周年を検証し、「安倍政権の戦後70周年談話」に対峙する「国民の側からの70年談話」を決議し採択しようという企画。
この企画への参加を呼びかけるチラシのPDFファイルを、ここからダウンロードして、ぜひ拡散していただくようお願いしたい。
コンセプトは、あくまで安倍政権と対峙する国民の側からの、戦後70年という来し方の総括であり、今後の展望である。各人それぞれの個性ある総括ではなく、「国民」の総括であり展望。国民とは、主権者であると同時に被治者である人々の総体。権力者との対概念にほかならない。
国民の戦後70年の総括が安倍政権と同様となるはずはなく、今後の展望も安倍政権とは異なるものとなる。その国民の総意を、憲法の立場に立脚するものとして確認したい。もっともオーソドックスな憲法の解釈と、その憲法が踏まえた歴史認識を前提とするのが「国民の70年談話」の基本となる。それが、「日本国憲法の視座から」と副題をつけた意味である。
政権の側の「談話」の内容は、安倍首相独特の個性から、歴史認識の記述がきわめて独善的で不十分になることが予想されている。自ら選定した有識者懇談会の意見をさえ聞こうとしていないと報道されている。私たちは、憲法の視座から、公表された安倍談話と対峙させた内容の「国民の談話」を作成して、安倍政権のあり方を根底から批判するものとしたいと思う。
おそらく、彼我の最大の対決点は平和主義のとらえ方となるだろう。憲法9条が指し示す「武力によらない平和」か、安倍政権が打ち出している「積極的平和主義」すなわち武力による抑止力に期待する平和か。この思想の対立を浮かびあがらせることが課題となると思われる。また、この点の理解は、歴史認識の違いから導き出されると考えられる。侵略戦争や植民地支配についての加害者としての真摯な反省を表明するか否かも鋭く対立するところとなるだろう。
期間はきわめて切迫しているが、可能な限り原案を広く世に問うて、多くの人の意見に耳を傾けて成案としたい。この過程にも、ぜひご参加いただきたい。
**************************************************************************
(企画の総合タイトル)
「『国民の70年談話』ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
(企画の趣旨)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・労働・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
**************************************************************************
(プログラム)
◆それぞれの分野における「戦後70年」検証の発言
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉 (東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久 (元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子 (埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い──砂川・長沼訴訟の経験から
新井章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄 (一橋大学名誉教授)
◆「国民の70年談話」案の発表と参加者による採択
主催※「国民の70年談話」代表・新井章
※事務局長・加藤文也 (連絡先 東京中央法律事務所)
以上
(2015年7月28日)
本日(7月27日)延長国会での、戦争法案参院審議が始まった。連日、猛暑の中で、多くの人が国会を取り囲んで法案反対の意思表示をしている。デモも集会も、対外的には世論の盛り上がりを可視化する方策であり、対内的には連帯と団結を確認し拡大する手段だ。反対運動は、確実に拡がりつつある。とりわけ、若者に、女性に、つまりは戦争の被害を最も深刻に受ける層に。また、これまで声を上げにくかった人々も起ち上がりつつある。大いに勇気づけられる。
衆議院の強行採決による敗北感・無力感や焦燥感が感じられない。これは、運動参加者の確信によるものであろう。本日(7月27日)日経と読売が世論調査結果を発表して、7月の各紙の調査が出揃った。日経が「内閣不支持率50%となり、支持率38%を上回った」。読売が、「不支持49%、支持43%」。ともに初めて不支持率が支持率を上回った。産経調査でも、「不支持52・6%、支持39・3%」となっている。すべての調査が示している、この逆転劇の衝撃は計り知れない。安倍政権、盤石のように見えて、実は案外に脆いことをさらけ出した。とても、もう一度の強行採決などできそうにもない。60日ルールの適用も同様だ。
それだけではない。こういうときには、劣勢側の焦りがエラーを招き寄せる。またまた、オウンゴールの1点が献上された。
これまでもたびたび話題の礒崎陽輔首相補佐官が、昨日(7月26日)大分市の講演で、安全保障関連法案が法的安定性を損なうものとの批判があることに反論した。「法的安定性は関係ない。わが国を守るために(集団的自衛権行使が)必要かどうかが基準だ」と述べた、という。「この発言は安保環境の変化に立脚した議論が必要との考えを示したものとみられるが、法的安定性を軽視したとも受け取れる言い方で、野党の反発を呼びそうだ」(共同)。「安保法案『法的安定性確保』軽視発言の礒崎補佐官が大炎上 民主は解任要求、自民も不快感」(産経)と報道されている。
さっそく本日、民主党の枝野幹事長が、記者会見でこの発言を取り上げた。
「法治主義や法の支配は、ルールはこう解釈されて一方的に変更されない(というもの)。であればこそ、そのルールに従ってみんな生きていくことができる。それを法的安定性と呼ぶ。ところが、法的安定性を関係ない、つまり、ルールは都合でころころ変わるということでは、憲法はもとより、そもそも法治主義、法の支配という観点から、行政に携わる資格なし、と思う。安倍首相は法の支配の『いろは』の『い』もわかっていない補佐官をいつまで使い続けるのか」
本日安倍首相は本会議の答弁において「民主党などが『徴兵制復活』と連呼しているが、『徴兵制は明確な憲法違反で導入はあり得ない』と否定した」という。しかし、憲法に「徴兵制は許さない」との条文があるわけではない。徴兵制は、憲法18条で禁止されている「その意に反する苦役」に当たるという解釈が定着して、違憲と言われているのだ。「集団的自衛権行使は違憲」と定着していた解釈を、一転合憲と覆したのは安倍政権である。さらにこの上、「法的安定性は問題ではない」ということになれば、「徴兵制は崇高な国民の自発性に基づく義務であって苦役ではない。したがって合憲であることは明らかである」と、いつでも言い出せることになるのだ。
法案の危険性は次第に国民に浸透しつつある。反対運動は盛りあがってる。運動の成果は目に見えるものとなっている。防戦側はミスの連続だ。最近、公明党支持者の公明党への愛想づかしがニュースに大きく取り上げられるようになってきた。このままでは公明党がもたなくなるだろう。
そのような中で、安倍に何か智恵があるか成算があるかといえば、何もなさそう。本日の参院本会議答弁も、「わが国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増す中、憲法9条の範囲内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために不可欠な法案だ」「参院での法案審議においても工夫を凝らして分かりやすく、丁寧な説明を心掛けていく」と、すり切れたレコード状態だ。的を外した答弁を丁寧に繰り返すことを宣言したに過ぎない。
これなら、法案を廃案に追い込むことのリアリティ十分ではないか。来夏に選挙を控えた参議院である。公明党議員が、この評判の悪い戦争法案成立にがんばれるわけがない。公明がポシャれば、自民党単独では過半数に届かないのだ。
「どうせ数の力で押し通す」「60日ルールの適用が可能なのだから、既に勝負あった」という醒めた発言はけっして的を射たものではない。
政治学の概念として「自己実現する予言」というものがある。「法案は、どうせ通る」「勝負は2014年12月の総選挙で既についている」「結局は議会内の数の力で決まる」という「予言」が重なれば、そのとおりに自己実現することになる。
反対に、多くの人が「この闘い、勝たねばならない」ことを理解し確認し、「絶対に勝とう」と決意を固め、そして「きっと勝てる」と確信したとき、運動の昂揚は安倍政権とともにこの法案を葬ることになる。
ものごとをなし遂げようというときには、成功体験のイメージトレーニングの重要性が説かれる。法案を廃案に追い込むとともに、安倍退陣をイメージして、「戦争法案ただちに廃案」「安倍はやめろ」「安倍政権を許さない」のスローガンを高く掲げて、自己実現させようではないか。
(2015年7月27日)
アベ君。私は恥ずかしい。キミに英語を教えたのは私だ。例によって、「昔々ある学校で」のこと。キミは、目立たない生徒だったが、英語だけは人並みの成績だった。英語の勉強はよくしていたように見受けた。だが、キミの英語を学ぶ姿勢には、最後まで違和感を禁じ得なかった。キミほど実用と方便としてだけの英語を身につけようとした学生をほかに知らない。
私は、英語の学びを通じて、生徒には揺るぎのない教養を身につけて欲しいと願い続けてきた。ことあるごとにその旨を語ったはずだ。英語を入り口として、その奥にひらけた英語圏の豊穣な文化は、教養として人格の核になり得るものだ。また、英語を入り口として、英語圏以外の多様な文化とも触れあうことができるようにもなる。
日本の伝統・文化・歴史を真に理解するためには他国の文化を知らねばならない。日本を相対化して見つめる姿勢を持たなければ、独善に陥って日本を正確に見極めることができない。夜郎自大の姿勢を避けつつ、しかも自分の属する文化に誇りを持つためには、教養としての英語が必須だと私は思っている。しかし、この考えはキミには一顧だにされなかった。
あらゆる学問に通じることだ。いったい何のために学ぶのか。何のために科学者となるのか。何のために医学を志し、どのような姿勢で臨床に臨むのか。誰のどのような利益への奉仕を目指して法を学び実践するのか。英語を学ぶキミには、まったく目的意識というものが感じられなかった。
あれから随分と時を経た。キミにジェントルマンとしての教養が身についていないなどと、無い物ねだりをして嘆いているのではない。英語の教師としての私から見て、キミは政治家として不思議な立ち位置にある。私が生徒に望んだことの正反対がキミの今の姿なのだ。
私が望んだことの一つは、日本文化や日本の歴史を相対化して見る眼の育成だ。英米流の普遍的な合理主義に照らして、日本の戦前の神権天皇制や国体思想の非合理を多少なりとも批判する眼をもって欲しいということだ。そうすれば、個人主義や人権思想あるいは抵抗権思想などによく理解が及び、社会的同調圧力に流され易い日本の文化に疑問を持つことができるだろう。「和を以て貴しとなす」などという日本の伝統に叛旗を翻すことまでは望み薄としても、間違っても、戦前指向や偏狭なナショナリズムに染まって、失笑を買うようなことがあってはならない。
もう一つは、英語によるコュニケーション能力を鍛えることで、欧米人に対する無用のコンプレックスを払拭し、堂々と対等意識で対峙する精神を鍛えてほしい、ということだ。
今のキミは、いったいどうなっているのだ。キミの国内政治の基本姿勢は、「戦後レジームからの脱却」であり、「日本を取り戻す」ということだという。これは、英語圏文化から見て非合理極まる戦前指向であり、偏狭なナショナリズムを基本理念としているということ以外のなにものでもない。
もう一つは、キミのアメリカに対する姿勢の問題だ。キミは国内では偏狭なナショナリストとして傲岸きわまりないが、アメリカにはまことに卑屈ではないか。こういう精神性はアンビバレントであるように思えるが、独善と卑屈とがキミの精神の両面として矛盾がなく収まっている。
沖縄問題や思いやり予算がその典型だったが、戦争法案がにわかにクローズアップされてきた。キミは、アメリカ議会の演説で戦争法案の成立をアメリカ合衆国に公約した。まだ、日本の主権者に法案の形も見せていない時点でだ。「アメリカに約束してしまったのだから、もう引き返せない。その約束を守るために、日本の国民を説得する。説得できなければ強行採決をしてでも戦争法を成立させなければならない」というのがキミの姿勢だ。おかしくはないか。
キミは、私が英語を教えた二つの目的を、みごとに二つとも正反対の結果で答えたのだ。教師としては、これにすぎる落胆はない。情けなくも嘆かわしい。
私は、意識的に生徒の教養の核とするにふさわしい英語教材を選んで学習させた。その中の一つに、リンカーンのゲティズバーグの演説があったことを覚えているだろうか。短いものだが、名演説とされているものだ。
その最後のフレーズが、日本国憲法の前文にも取り入れられた次のもの。
…these dead shall not have died in vain―that this nation, under God, shall have anew birth of freedom―and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
(これらの戦死者の死をむだに終らしめないことを、ここで堅く決意することである。この国に、神の下で、新たに自由の誕生をなさしめることである。そして、人民の、人民による、人民のための政治が、この地上から滅びることがないようにすることである。本間長世訳)
キミは、「民意に反してでも、強行採決をしてでも戦争法案を成立させることが、国民のためになるものと後世理解を得ることにきっとなる」という趣旨のことを言ったそうではないか。おそらくは、「私が正しい。だから、民意を無視してもよい。だから憲法解釈を変えたってよい。だから、違憲法案だといわれても意に介さない」
キミは、リンカーンから何も学ばなかった。思い上がりも甚だしい。アメリカの独立宣言も、キング牧師の演説も、キミの人格形成にはかすりもしなかったのだ。私はますます肩身が狭い。
TPPや集団的自衛権は、新たな植民地支配の形ではないか。キミはグローバル化にえらく熱心だが、結局はご主人様への奉仕と、そこからのおこぼれ頂戴に熱心だということだ。私は、世界の誰とも対等な人格としてコミュニケーションができるツールとして、キミに英語を教えたつもりだった。ところがキミは、奴隷主の言葉として英語を学び、上手にご主人の機嫌をとって見せたのだ。この齢でこんな嘆きをしなければならならぬとは、…ああ、無念極まる。
(2015年7月26日)
「安倍・戦後70周年談話」に対峙する、「国民の70年談話」を採択しようという企画のお知らせです。ぜひ多数ご参加ください。できれば、拡散をお願いいたします。
企画の総合タイトル
「国民の70年談話」ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
日時 8月13日(木) 11時?14時
場所 日弁連講堂クレオ(霞ヶ関・弁護士会館2階)
参加費無料ですが、企画へのカンパを歓迎いたします。
**************************************************************************
(企画の主旨)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
**************************************************************************
◆それぞれの分野における「戦後70年」検証の発言
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉 (東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久 (元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子 (埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い──砂川・長沼訴訟の経験から
新井章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄 (一橋大学名誉教授)
(なお、杉原先生にはご予定の日程調整をお願いしているところです)
◆「国民の70年談話」の発表と参加者による採択
主催※「国民の70年談話」実行委員会 代表・新井章
※事務局長・加藤文也 (連絡先 東京中央法律事務所)
**************************************************************************
いま、政権と国民が、憲法をめぐって鋭く対峙しています。
その政権の側が「戦後70年談話」を公表の予定ですが、これに対峙する国民の側からの「70年談話」を採択して発表しようというものです。そのことを通じて、彼我の思想の差異を明確にし、きちんとした批判をしようというねらいです。
なお、集会のタイトル、主旨等は暫定案とご理解ください。企画の具体化が進行の都度、繰りかえしご案内申し上げます。
(2015年7月25日)
市民運動、社会運動、大衆運動、民衆運動、政治運動…。なんと名付けてもよいが、被治者である市民・国民・住民・消費者が共通の要求を実現しようとする運動(仮に「市民運動」と言っておこう)は、純粋に参加者の自発性に支えられている。その運動体に内部統制の強制力はなく、上命下服の指揮関係を持たない。
市民運動の全体力量は、「参加者の数×各参加者の意欲」と定式化できるだろう。運動の参加人員を大きくするためにも、参加者一人ひとりの行動意欲を引き出すためにも、一人ひとりを尊重する運動スタイルでなければならない。運動参加者が、自分の言葉で語り、自分のスタイルで活動できる多様性を尊重することこそが運動を大きく広げることのカギではないか。
いま、戦争法案反対の国民運動に、若者と女性を中心に運動の新しいあり方が話題になっている。さわやか、かっこういい、自分の言葉で語り、自分のスタイルを大切にする。そのような評価であり期待でもある。
私は、7月5日下記のブログで若者の運動にエールを送った。しかし、その程度。
「7月3日雨の金曜日 澁谷に集まった若者たちに寄せて」
https://article9.jp/wordpress/?p=5164
ところが、同期の友人郷路征記弁護士が若者の行動にいたく感激したとメールを送ってきた。以下、その抜粋である。
SEALD’sのスピーチとコールがメチャカッコいいと思っています。こんなカッコのいい若い女性の口から、「アベハ ヤメロ」、「コクミン ナメンナ」、「センソウシタガル ソウリハ イラナイ」等という激し い言葉が飛び出してくると、私の理性は霧消してしまって、聞き惚れてしまいます。新聞やテレビでは知りえないことです。インターネットの持つ訴求力は、大変なものなのかもしれません。
日曜日、コンピューターの前に座って、ずっとSEALDsの動画、ツイッター等を追いかけてきました。そして、強く心を揺さぶられました。奥田愛基君は「30万人を集めましょう」と言っていましたが、可能性があるかもしれません、彼らなら。
ネットにアップされている彼らのスピーチは、素晴らしいと思いました。
まだ、見ていない方は、ぜひ、クリックして、彼らの訴えに耳を傾けてください。
SEALDS関西の女性のスピーチも、非常に感動的です。まるで、憲法9条が乗り移ったかのような。安倍を断罪する言葉の強さ、鋭さ。その訴える力。激しい言葉を並べるのではなく、大きな声を張り上げるのでもないのですが。言葉が、借り物ではない彼女の信念に裏打ちされているからでしょうし、事態の本質をとても明解に指摘する能力に優れているからでしょうね。前日の日比谷の野音の集会に出たお爺さん、お婆さんをあげて、この人たちが闘い続けてきてくれたから、いまの平和があるというところでは、思わず、うると来ましたね。
スピーチをしている人は、みんな、自分で考えたことを、皆に訴えようと誠実に展開している。押し付けている感じはまったくない。悲壮感などの余分な感情もない。驚くほど、しっかりしている。こんな素晴らしい若者たちがいるなんて、本当に希望を持てます。コールは本当に素晴らしい。ノリがよくて、リズムがあって。
そして郷路君は、同期有志の弁護士が作っているメーリングリストに「希望を拡げたい」というタイトルで次の記事を寄せた。
「前略、突然のメールをお許し下さい。ぜび、お知らせしたいことがあり、ご迷惑をかえりみず、メールをさせていただきました。
7月17日、ユーチューブを徘徊していて、戦争法制に反対する動画が目について、ついクリックしたのですが、すぐ引き込まれてしまいまし た。スピーチをしている女性がとてもカッコ良かったのです。
スピーチの内容は勿論素晴らしかったのですが、その後のコールが一段と素晴らしかった。正直言って、驚きました。その映像は次のリンクをクリックすることで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL0r_ha6smF6TY6DQ4cO_QgXIAvJ62CbSl&index=4
その驚きをメーリングリストに投稿したら、別のスピーチを紹介してもらいました。
https://www.youtube.com/watch?v=BzSwC8wSNNA
7月18日からの3連休は、関連するスピーチを見続けました。それらは、以下に大体纏められています。
https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL90_FDu3Dz6MIauQ6vjUg-igiQ0bl7RIh
結論として、私は、この国の若い世代に、強い希望を抱くことができたのでした。
ツイッターやフェイスブックで、彼らが所属する「SEALD-s」に関する情報を集めました。
SEALD-sとは「(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s・自由と民主主義のための学生緊急行動」の略です。彼らの考え方については以下のウエブを参照してください。
http://www.sealds.com/
彼らは、戦争法制に関しては6分間の動画で要領よく批判していますし、動画の最後では、我々に対する呼びかけをしています。
https://www.youtube.com/watch?v=6LuZDH0GHOE
その呼びかけに触発されて、みなさまに「SEALD-s」のスピーチをぜひ聞いていただきたいと私は思い、このメールを差し上げようと決意をしたのです。
それは、私が抱いた希望を拡げることなのだと・・・。
可能であれば、ぜひ、動画を見てその印象を記載したメールを関係する方々に広く送付して頂きたいと思います。このメールの転送でもかまいません。多くの広い層の方々に、希望を拡げることが、岐路に立っている日本の民主主義にとって、立憲主義にとって、平和主義にとって、今、最も大切なことだと思うからです。」
これに対して、仲間ゆえの遠慮なさから、忌憚のない突っ込みの反応が直ぐにあった。このあたりがメーリングリストの面白いところ。
「そんなに若者に変に感動してないで、北海学園事件のときのように貴兄自らが街頭デモやスピーチの先頭に立たなきゃダメだよ。今は傍観者(失礼)的感動の時に非ず。平和国家『存立危機事態』故、戦争法案阻止、安倍内閣打倒に向けて今日明日明後日と大衆行動あるのみ。」
これに対する郷路君の返答が、また素晴らしい。
「僕にとっては、これが戦争法案阻止、安倍内閣打倒にむけての行動なので、頑張ります。昔から、他人と同じ行動は取れないタイプだったので、ゴメンね」
彼は所属する札幌弁護士会の会員全員(メールアドレスの分かる人) に、同文をメール送信したという。
「530通ですね。1通、1通手作業だったので、よく使う指の部分が痛くなりました。」
そして、「嬉しい反応が返ってきています。」と、今度は返事を送信してくれている。
これはすごいことだ。
おそらく彼は、どうすれば保守派も反動派も含めた多くの弁護士の耳に、戦争法反対・安倍政権打倒の訴えを届けることができるだろうかと思い続けていたに違いない。そして、若者たちの訴えを届けようと考えたのだ。
一昔前。街頭に立った若者は、「われわれわぁ、せいけんをぉ、だんことしてぇ、ふんさいするぅ」と、独特の抑揚でアジ演説をした。アメ帝と日本独占資本が敵で、たいていの問題は、その敵とその手先を糾弾することでこと足りた。それも真実かも知れないが、独特のスピーチスタイルであり、仲間内以外には通じない言葉を使って平気だった。今の若者は、もっと多様。自分の言葉で語る人が多くなっている。しかも、シールズの動画を見る限りだが、その語る内容は誰にも了解可能なうえ的確で訴える力をもっている。
札幌弁護士会に所属する全弁護士に若者の声を伝えた郷路君も「自分の言葉、自分のスタイル」にこだわった自分流の運動参加なのだ。戦争法案反対のこの運動、まだまだ拡がりそうではないか。
(2015年7月24日)
私が被告とされているスラップ(言論封殺目的)訴訟。7月1日に結審して、判決言い渡しは9月2日となった。その日のスケジュールをお伝えします。
9月2日(水)
13時15分 東京地裁631号法廷 判決言い渡し
(東京地裁庁舎南側(正面入口から入構して右側)6階)
13時30分 勝訴判決報告集会 第一東京弁護士会(弁護士会館12階)
この日を祝賀の日として集おうではありませんか。
判決は、DHC・吉田嘉明の言論封殺の意図を挫いて、
政治的な言論の自由を確認し、
市民や消費者の立場からの、企業や行政への遠慮のない批判を保障する
そのような内容になるはずです。
法廷傍聴も報告集会も、どなたでも参加ご自由です。言論の自由を大切に思う多くの皆さまに、ご参加されるようお願いいたします。
**************************************************************************
判決言い渡しとなる訴訟は、以下のとおり。
東京地方裁判所民事第24部合議A係平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎
裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭の3名
被告代理人弁護士 光前幸一以下111名
請求内容は、当初2000万円の損害賠償請求。私の3本のブログが、DHCと吉田嘉明の名誉を傷つけたというもの。この提訴を言論封殺目的の不当訴訟だと当ブログで反撃(今日まで48本)したところ、その内の2本が、さらに名誉を毀損するものとして請求を拡張。6000万円の請求となった。提訴時には、ブログ3本で2000万円。請求拡張では、提訴批判のブログ1本が2000万円である。信じがたいことが現実に起こるのだ。
なお、経過は本ブログに全部掲載している。1本2000万円の値がついたブログもぜひお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
前回、7月1日の結審法廷で、私は10分間の意見陳述をした。「スラップに成功体験をさせてはならない」という主旨である。
仮に、本件で私の言論が、いささかでも違法と判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなる。原告吉田嘉明に成功体験を与えたら、吉田自身が図に乗るだけではない。本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになる。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることになる。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはない。
DHC・吉田は、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならない。強調すべき根拠が3点ある。
第1 原告らの「公人性」が著しく高いこと。もともと吉田は単なる「私人」ではなく、多数人の健康に関わるサプリメントの製造販売を業とする巨大企業のオーナーで、行政の規制と対峙しこれを不服とすることを公言する人物である。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与し、さらにそのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立った。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したというべきである。
第2 私(澤藤)の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであること。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の核心。もしも、この私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまう。
第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであること。真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地がない。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎない。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、吉田はこれを甘受しなければならない。
吉田は私を含む10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起した。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという典型的なスラップ訴訟である。吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのだ。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意した。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けよう。これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせている。
前回結審後の報告集会では、光前弁護団長の経過と争点についての解説があった。光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。勝訴判決であればよいというのではなく、勝ち方を問題としているのだ。
そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。
勝訴判決のあと、「DHC・吉田やその取り巻きに対する効果的な制裁」を考えよう。言論の自由のための闘いの一環として。
(2015年7月23日)
アベ君。私は恥ずかしい。キミに漢文を教えたのは私だ。「昔々ある学校で」のことだ。キミの漢文理解の素養が貧弱なことには、教師である私にも大いに責任がある。なんとも悲しく、お恥ずかしい限りだ。
キミは、強行採決で幕を閉じた7月15日衆議院平和安全法制特別委員会の質疑において、長妻昭議員の質問に答える中でこう言っている。
「当然批判もあります。しかしその批判に耳を傾けつつ、みずから省みてなおくんばという信念と確信があればしっかりとその政策を前に進めていく必要があるんだろう、こう思うわけであります。」
有名な、「孟子」公孫丑編の一節「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」(自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん)を引用しての信念の披瀝なのだろう。この孟子の一節は、キミの座右の銘と聞いている。これまでも、何度も答弁で引用されたとのことだ。キミの公式ホームページには、キミの政治信条として、この言葉が次のように掲げられている。
「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」
村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております。
だが、この引用は私には理解できない。むしろ、不適切極まるものと言ってよい。ホームページから削除し、今後は一切この名句の引用は辞めたがよい。強くそう願う。キミ自身のためにも、孟子の名誉のためにもだ。そして私の教員人生の汚点を消していただきたいのだ。
私がキミに孟子を講義したときには、真っ先に孟子の革命思想をお話ししたはずだ。貝塚茂樹説を引用して、「孟子」という書物は永く異端思想を含むものとしてとり扱われてきたことをよく教えた覚えがある。
孟子は、周の武王が殷の紂王に反旗をひるがえして討滅し、ついに天下をとったことを正面から是認している。暴虐な君主は民意を失い、そのことによって天命を失い、天子としての統治の正統性を喪失してしまったのだ。これに対して、周の武王は人民の与望をにない、したがって天の命を受けて、天子としての統治の資格を得たのだ。人民の意志にもとづいて武王が紂王を殺しても弑逆の罪を構成しない。そう唱えたのだ。これは、万世一系の国体思想に敵対する危険思想ではないか。
要するに孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない。政権が民意に背けば、天がこれを見放し、人民は専制政府に対して抵抗し革命を起こす権利をもっている。「孟子」はそう宣言したのだ。「孟子」には、このようなラジカルな民主主義的政治思想が含まれている。
キミは、このことを理解しようとしていない。
「孟子」が「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」というとき、これが為政者の言と想定されているはずはない。為政者の言とすれば、「民がなんと言おうとも、為政者の信念を貫いて、民意を踏みつぶす」という意味になってしまうではないか。まさしく、それが今の君の立場だ。だから、私は、悲しくもあり、恥ずかしくもある、というのだ。
キミは、民意から離脱しているというだけでなく、真っ向から批判されていることを自覚している。孟子なら、厳しくキミを叱責して、為政者としての資格喪失のレッドカードを突きつけるところだ。ところがキミは、孟子の言葉を引いて「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」と開き直っている。キミが闘おうと言っている一千万人とは、キミに為政者としての資格を授けた民そのものではないか。キミのいうことは筋が通らない。キミの論理はすっかり混乱している。キミは武王でなく、既に紂王の立場なのだ。だからもう、天はキミの側にない。無理してその地位に留まろうとする悪あがきはやめた方がよい。紂王のごとき悲惨な最期を遂げる前にだ。
私は政治家の座右の銘とすべき名句についても、キミに教えたことがあるが、こちらはキミにはお気に召さなかったようだ。もし、キミがもう一度、政治家として再出発する機会があれば、座右の銘を次の一節に換えたまえ。
子貢、政を問う。子の曰わく、「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」。子貢が曰わく、「必らず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「兵を去らん」。曰わく、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「食を去らん。古えより皆な死あり、民は信なくんば立たず」。
愛弟子である子貢の問に答えて、孔子が政治の要諦を語っている、よく知られた一節。ここには、「食・兵・信」という政治の3価値が並べられて、その価値の序列が話題となっている。いろんな解釈が乱立しているが、私は君にこう教えたはずだ。
「『食』とは経済のこと、あるいは国民の福祉を意味している。『兵』とはいうまでもなく軍備である。そして、『信』とは為政者と人民との信頼関係、すなわち民主主義にほかならない。為政者は、戦争も軍備も撤廃して差し支えない。国民の福利さえも場合によっては削減せざるを得ない。しかし、民主主義だけはけっして捨てる去ることができない」
それが、今の世にまで通ずる孔子の教えなのだ。
アベ君、キミはいま、「『兵』をとって、『信』を捨てた」。民主主義を捨てて、戦争と軍備を選択した。孔子の教えを投げ捨てたのだ。さぞや孔子も嘆いていることだろう。孔子だけではなく、私もだ。そして、日本国憲法も、なのだ。
(2015年7月22日)