大波かぶる礒の崎、しぶきはもろに安倍政権
7月27日(月)参院審議入りの初日。この日表には出て来なかったが、影の主役は安倍の側近礒崎陽輔だった。あるいは、礒崎がクローズアップさせた「法的安定性」というテクニカルタームであったというべきか。
この日本会議での民主党北澤俊美の質問はなかなかのものだった。この人がかつては防衛大臣だったのだ。民主党政権を壊してしまったことを惜しいと思わせる内容。北澤は「法的安定性」に言及してこう言っている。
「総理、あなたは政治家として本当に責任を果たすつもりがあるなら、集団的自衛権の行使を可能にする憲法改正を正々堂々と掲げ、国民の信を問えばよい。それが王道であります。それなら憲法も立憲主義も傷つくことはありません。ところが、総理は、憲法解釈の変更という言わば抜け道を選び、国会での数に頼るという覇道を邁進しています。抜け道と覇道の行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」
維新の小野次郎も聞かせた。法的安定性に関しては、次のような質問。
「政府が根拠の一つとしている砂川判決から集団的自衛権の合憲性を導き出すことが困難であることについては、これまでに法律家である与党公明党山口代表を含めてほとんどの法律専門家が指摘しているところであります。専門家に受け入れられていないこのような憲法及び法律の解釈で押し通して将来にわたって法的安定性は確保できるのか、どうお考えなのか、御認識をお伺いしたい」
これに対する首相答弁は、従来と変わりばえのない紋切り。まったく迫力に欠ける。この人に丁寧な説明を期待するのは、木によりて魚を求むるの感。
「法案の憲法適合性、政府における検討及び法的安定性についてお尋ねがありました。まず、新3要件については、砂川判決と軌を一にするこれまでの政府の憲法解釈の基本的な論理の範囲内のものであるため、法的安定性は確保されており、将来にわたっても憲法第九条の法的安定性は確保できると考えています。」
これは要約ではない。速記録がこうなっているのだ。
砂川最高裁判決は1959年のこと。1972年の自衛権に関する政府見解は、当然にこれをも踏まえて、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と結論づけたものである。
この72年政府解釈から数えても40年余、54年自衛隊発足時から数えれば60年余。歴代政権は一貫して「集団的自衛権行使は違憲」と言い続けてきた。いわゆる専守防衛路線である。安倍政権は、乱暴にこれを覆して「集団的自衛権行使合憲」としたうえで、集団的自衛権行使を可能とする法案を提出しているのだ。
この安倍政権の姿勢を、野党も国民世論も法律家も、口を揃えて「立憲主義に反する」と言い、同時に「法的安定性をないがしろにするもの」と指摘した。このことを北澤は、「抜け道と覇道」と言い、「行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」と手厳しい。
無論、政権は懸命に防戦している。安倍の答弁に見るとおり、「立憲主義に反しない」「法的安定性は確保されている」と弁明に大わらわだ。
ところが、首相の側近中の側近である礒崎陽輔が、ホンネを言ってしまった。思いがけない世論の反発への焦りもあったろうし、地元の席での気安さからでもあるのだろう。「法的安定性」なんてどうだってよいのだ。憲法解釈の一貫性よりも、中国や北朝鮮の危険に対処することの方が大切だろう。そう言っちゃったのだ。みごとなオウンゴールである。
「法的安定性」とは、分かりきったことのようで、漠然とした概念。有斐閣「法律学小辞典」では、「どのような行動がどのような法的効果と結びつくかが安定していて、予見可能な状態をいう」とある。なるほど、苦心の語釈。
「法の支配」は、権力の恣意を許さないための大原則だ。形だけの法体系があっても、その法の要件と効果が確定せず、曖昧で、ぶれて、改廃きわまりない、あるいは解釈次第で伸び縮み自由では、権力規制の実効性を持ち得ない。法的安定性は、法の支配に伴う必須の要請なのだ。
「法的安定性などはどうでもよい」とは法に縛られない独裁者の言である。こういう為政者のいるところ、法の支配が貫徹する国ではない。「価値観を同じくする国」ともいえない。中枢にこのようなホンネを持ち、このような発言をする者を抱える政権は恐ろしい。憲法の枠も、法律の枠も、目先の政策の必要次第でいとも容易く破られるからだ。
礒崎を切り捨てて「政権は礒崎とは違う」と大見得を切るか、礒崎を抱えたままで「政権の体質は礒崎と同質」と見られても良しとするか、安倍政権のあり方が鋭く問われている。国民は目を見開いて注視している。
(2015年7月29日)