澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

黙っていないで声を上げよう、後悔しないように。排外主義は、あらゆる差別の引き金になる。そして、平和と国際協調を危うくする。

(2025年7月17日)
 最近、マルティン・ニーメラーの警句の引用が、あちこちに目につく。不気味なことだが、そういう時代の空気なのだ。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。
 そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

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「100年前、治安維持法が成立したとき、私は喝采した。國體に弓を引く非国民を取り締まるのだから、皇室と神国の弥栄のために万歳と思ったのだ。
 特高が最初共産党を攻撃し、共産党員を拷問で殺したとき、愉快とは思わなかったが私は声をあげなかった。世の中の空気を読んだこともあるが、私は共産主義者ではなかったから。
 労農派の政治家や学者グループが一斉検挙されたときも、私は声をあげなかった。私は主義者でも活動家でもなかったから。
 それから、労働組合や宗教者が弾圧され、学校の先生たちが酷い目に遭い、出版社も文学者も、最後には弁護士までもが逮捕されて、国民の権利を護る者がいなくなった。それでも私は、黙り続けた。時局が時局だから仕方がないと思ったから。
 そして、戦争が始まり、ものを言う自由などまったくなくなった。
 私が間違いを悟って前非を悔いたとき、國體も神国も消滅し、国土は焦土と化していた」

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「戦後80年目の夏の参院選が転機だった。
 その選挙に外国人ヘイトと排外主義を競う風が吹いた。私も、排外主義政党に一票を投じた。インバウンドは不愉快だったし、日本人の賃金が上がらないのは外国人のせいで、彼らは不当に優遇されていると煽られたから。なにかが変わると期待したんだ。
 
 その後間もなく、日本人ファーストや排外主義の背景に、國體思想があることを教えられた。日本人が特別な民族であるのは、いにしえより悠久にこの國をしらす天皇の存在あればこそなのだ。だから、日本人ファーストは当然だ。

 日本人が日本人として胸を張れるのは、万世一系の天皇の貴い血筋が男系男子に連綿と嗣がれているからだ。家父長を中心として一家があり、天皇を家父長とする一国がある。女系天皇などとんでもない。ジェンダー平等なんて日本の国柄に合わない。そのときは、本気でそう思ったんだ。

 日本民族は、血を同じくする家族共同体で、血の繫がらない外国人が排除され、差別されて当然ではないか。皇室という貴い血を認めれば、生まれ、血筋、家柄、門地による差別を認めざるを得ない。外国人差別は、あらゆる差別に拡大した。

 外国人差別や排外主義は、結局のところ近隣諸国との戦争準備だと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。日本人ファーストで、結局何も変わらなかった。ただ、平和と国際協調が危うくなっただけ。もう遅い? いやまだ、遅すぎることはないだろう」

「自党ファースト」の参政党が、TBS『報道特集』に偏向報道攻撃。これは、排外主義批判報道の萎縮を狙った不当な選挙戦術ではないか。

(2025年7月16日)
 参院選の投票日が間近である。選挙情勢の分析やら予測やらの報道がしきりである。前回参院選は2022年7月10日だったが、当時とはまったく様変わりの選挙情勢だという。
 3年前の選挙直前の7月8日、安倍晋三元首相が銃撃されて政治地図が大きく塗り替えられるきっかけとなった。
 そもそも、自民党とは穏健保守から極右までの幅広い政治勢力の緩やかな連合体である。財界の権益擁護派もあれば、農民漁民の利益代表もある。宗教右翼に票田をもつ政治家も、国防族も文教族も外交族も、そして皇国史観や排外主義のイデオロギーにまみれた戦前回帰派まで多様な国民政党として長く政権を担ってきた。
 私が岩手で過ごした10年間余における地元の自民党県連の印象は悪くない。むしろ、地元の民意を汲んで中央の政界と対峙しようという姿勢すら感じさせて、これは手強いという思いが強かった。
 安倍晋三という、けっして保守本流とは言い難い極右政治家が長期に党内権力を握った自民党は、明らかにバランスを欠いた右翼政党になっていた。その安倍晋三亡き後、彼を支えていた党内右翼や有権者右翼はどうなったか。重心を穏健保守に移した自民党に飽き足らない彼らは、党外に流出したのではないか。最近の世論調査や、選挙結果からは、そのように見える。
 財政、税制、外交、保健・福祉・経済振興、政治への信頼…。あらゆる側面での安倍政治の負の遺産に後継の自民党が苦慮している現状を好機として、極右諸政党が安倍支持勢力の受け皿を競っている。

 安倍後継を狙う極右勢力のスローガンは、反共と排外主義である。
 その中で、最も突出しているのが、参政党であるという。これに比較すると自民党などは、随分と礼儀正しく、真っ当に見える。こんな真っ当ならざる政党を大きくしてはならない。

 参政党は、「日本人ファースト」を呼号する。日本人と非日本人とを分けて、非日本人はセカンド以下の扱いとする。同じ社会に暮らす人間に、ファーストもセカンドもあり得ない。この人種や民族による差別は、排外主義として平和や国際協調の障害となる。さらには、血筋や門地に基づく差別の容認につながる。
 
参政党のホームページを覗いてみたら、「TBS『報道特集』の偏向報道に関する申入れと今後の対応について」と題する、お知らせが目に入った。2025.7.14付けである。その全文が以下のとおり。

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「令和7年7月12日にTBSテレビ『報道特集』で放送された特集企画「外国人政策も争点に急浮上〜参院選総力取材」は、当党の外国人政策について、著しく公平性・中立性を欠いた内容でした。

これに対し、当党はTBSに対し、放送内容の可及的速やかな検証と訂正を求める申入書を提出しました。しかし、TBS側からは以下の通り、「公益性・公共性のある報道である」として、構成の公正性や取材姿勢の偏りといった本質的な問題点には一切触れない回答が寄せられました。

極めて遺憾ながら、こうした対応により、当党と放送事業者との間で、BPO放送人権委員会の申立要件にあたる「相容れない状況」が生じたと判断し、正式に同委員会への申立てを行うことといたしました。

当党は今後も、政治的公平性を損なう報道に対して毅然と対応し、民主主義の根幹である言論の自由と公正な報道の確保を強く求めてまいります。有権者の皆様におかれましても、引き続き本件にご注目いただけますようお願い申し上げます。

報道特集回答
申⼊書への回答をお送りします
今回の特集は、参政党が⽀持を伸ばす中、各党も次々と外国⼈を対象とした政策や公約を打ち出し、参院選の争点に急浮上していることを踏まえ、排外主義の⾼まりへの懸念が強まっていることを、客観的な統計も⽰しながら、様々な当事者や⼈権問題に取り組む団体や専⾨家などの声を中⼼に問題提起したものです。
この報道には、有権者に判断材料を⽰すという⾼い公共性、公益性があると考えております。ご理解いただきますよう宜しくお願い致します。
2025年7⽉14⽇TBSテレビ『報道特集』

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 この番組を視ていない者には、何が問題なのかさっぱり分からない。「当党の外国人政策について、著しく公平性・中立性を欠いた内容でした」では、さっぱり迫力に欠ける。第三者の共感も得られない。これでは抗議の体をなしていない。ともかく気に入らない放送だったから、今後のために、牽制の一言しただけのこととしか考えられない。
 いったい、『報道特集』が参政党の外国人政策について、具体的に何を報じたのか。著しく公平性・中立性を欠いた内容とは微妙な言い方である。「事実無根で、真実性に欠ける内容」とは言わないのだ。いったい何をもって、「著しく公平性・中立性を欠く」と言うのか、その特定は参政党側にある。

 これに対する、「報道特集回答」が、「今回の特集は、…排外主義の⾼まりへの懸念が強まっていることを、客観的な統計も⽰しながら、様々な当事者や⼈権問題に取り組む団体や専⾨家などの声を中⼼に問題提起したものです。」となっているのは、堂々たる回答ではないか。

 「TBS側からは…、『公益性・公共性のある報道である』として、構成の公正性や取材姿勢の偏りといった本質的な問題点には一切触れない回答」という参政党の「反論」は当たらない。どこにどのような構成の公正性にかかわる問題があり、なにゆえに取材姿勢の偏りがあるというのか、まったく明示していないのだから、これ以上の回答は出てくるはずがない。むしろ、具体的に指摘することは、自らの墓穴を掘ることになると恐れているとの推察も可能である。

 「当党は今後も、政治的公平性を損なう報道に対して毅然と対応し、民主主義の根幹である言論の自由と公正な報道の確保を強く求めてまいります」には、苦笑せざるを得ない。公平に見て、次のようなところだろう。
 「当党は今後も、『政治的公平性を損なう』という口実のもとに、自党に不都合な報道に対しては無理にも強い抗議で対応し、我が党を批判する報道の自由は、民主主義の根幹である表現の自由としても認めず、飽くまで『参政党ファースト』の姿勢を強く貫いてまいります」

 結局のところ、自党への批判の報道の萎縮を狙った不当な選挙戦術と言うべきであろう。TBSにこそ、報道の自由を堅持し国民の知る権利に応える毅然たる姿勢を期待したい。TBSだけにではなく、全てのジャーナリズムに。

臣石田和外詠めり 「元号法ができたから6月6日は天皇制危機回避記念日」

(2025年6月6日)
1979年6月6日元号法が成立した。その全文が下記のとおり。

1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

 附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

たったこれだけの法律である。もとより元号使用強制の根拠とはなりえていない。これだけの法律の制定に右翼陣営は総力をあげた。天皇制の礎の貴重な小道具の一つが崩れることへの危機感があったからだ。伝統右翼、生長の家、国際勝共連合、神道政治連盟、神社本庁等々をとりまとめたのが、元号法制化実現国民会議。その議長が、第5代最高裁長官だった石田和外である。戦前は思想判事として知られ、生涯「ぞっとするほどの天皇主義者」であり続けた人物。

石田は、1979年5月9日に亡くなっている。 同年6月6日には、泉下で元号法の成立と天皇制危機回避を喜んだことであろう。こういう輩が、最高裁長官なのだ。

もともと元号は、古代中国の専制君主がでっち上げたもの。「皇帝は時をも支配する」とのイデオロギーの産物である。皇帝が新たな時のはじめである元(年)を定めて、新たな時に名前をつける。これが元号。元号の使用は、皇帝への服属を意味した。古代日本はこれを真似た。そして近代日本は「一世一元」を採用した。こうして、天皇の統治と、臣民の「時の記憶」が重ねられることになった。

元号は天皇の治世には不可欠のアイテムではあったが、今やアナクロニズムの象徴。日常生活にも、ビジネスにも不便この上ない。何しろ、いつまで続くか、いつリセットされるか分からない。今日の元号が明日も続く保証はないのだ。不便だけでなく、国際関係との共時感覚を麻痺させ、独善日本の形成の要因ともなりかねない。

こんな不便この上ない欠陥表記方法の強制はやめさせようと言い続けているのが、
「西暦表記を求める会」
https://seirekiheiyo.blogspot.com/p/blog-page_15.html

ぜひ、ホームページを覗いていただきたい。なかなかの充実ぶりである。

6月4日である。36年前の今日、人民解放軍が人民を標的に発砲した。撃たれたのは、天安門広場に集まった市民だけではない。民主主義も人権も、社会主義に対する信頼も撃たれて深く傷ついた。私も撃たれた。私の中の根拠のない信仰が直撃されて吹き飛んだ。

(2025年6月4日)
 1989年6月4日早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「人民からは針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の人民解放軍であった。人民から生まれ、人民とともにあるはずの人民解放軍。その人民解放軍が人民に銃を向け発砲したのだ。何のためらいもなく、容赦なく。

 天安門広場に集まった大群衆は、党と国家の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権という文明の普遍的価値も虐殺された。以後、中国は民主主義や人権とは無縁の野蛮国となる。そして人民解放軍は、人民の軍ではなく、党幹部の私兵となった。

 あの日、私の中で撃たれて崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。いま、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。

 中国共産党は、民主化を求めた人々の運動を『反革命暴乱』とし、「党と政府は旗幟鮮明に動乱に反対して社会主義国家の政権を守った」と言っている。中国共産党にとって、人民の民主化運動は『反革命暴乱』なのだ。

 この衝撃の「事件」だけでなく、事後の対応にも許しがたいものがある。我々が、日本の保守勢力を「歴史修正主義」と非難していることを、中国共産党もやった。事件そのものがあたかもなかったごとくに、事実を語る言論は統制され、歴史は塗り替えられようとしている。これが天安門以後の中国共産党の実像である。

 そして、さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、腕力において劣勢を免れない。

 習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。

憲法は卵(鶏卵)に喩えられる。大事な人権が黄身(卵黄)であり、これを包んで護る白身(卵白)のごとくに統治機構がある。では、天皇は卵のどこに位置する?

(2025年5月26日)
 先日、政教分離の意味するところについて私見を報告する機会を得た。その話の中で、憲法を卵の構造に喩えて政教分離と信仰の自由との関係の説明を試みた。大要、以下のとおり。

 政教分離は、それ自体が重要な憲法原則ではありますが、あくまで手段的価値に過ぎません。手段としての政教分離が支えている目的的な憲法価値は信仰の自由という人の精神の核心に関わる基本的人権です。究極の価値としての精神的自由を擁護するために、権力をもつ側に課せられている準則が政教分離。この関係が、制度的保障という言葉で表現されています。

 このような、人権と制度の関係はいくつもあります。たとえば、学問の自由と大学の自治。表現の自由と検閲の禁止。平和に生きる権利と戦争の放棄・戦力不保持。

 むしろ、個別の権利と制度の関係というよりは、憲法の全体構造が、究極の目的的価値としての人権と、この人権を保障する手段的価値を担う諸制度からできていると言ってよいと思います。

 憲法全体の構造の比喩として、卵をイメージしてください。白身(卵白)に包まれ、白身に護られて、卵の真ん中に大切な黄身(卵黄)が位置しています。黄身(卵黄)が人権で、人権を護るための手段と位置づけられている白身(卵白)にあたるものが統治機構です。

 オーソドックスな憲法の構造の理解は、「人権」と「統治機構」の2部門からできています。つまり、黄身と白身です。壊れやすく大切な人権という黄身(卵黄)は個人の尊厳を核心として精神的自由や経済的自由、生存権や参政権などからできています。これを守るために、白身が包んでいる。そっと優しく黄身を支え、人権への攻撃を身を挺して護るのが白身の役目。これがちょうど人権と統治機構の関係にほかなりません。

 しかし、実のところ、黄身(卵黄)にとって最も危険なのは、白身(卵白)を構成する権力にほかなりません。そこで、白身が黄身を傷付けることがないようにいくつもの工夫がほどこされています。法の支配、立憲主義、民主主義、選挙、三権分立、二院制、議院内閣制、司法の独立、地方自治…。全て、白身(卵白)が大切な黄身(卵黄)を傷付けないように自制をすべき工夫です。これなければ、弱い黄身(卵黄)は、あっという間に潰されてしまいます。

 政教分離も白身(卵白)の一部で、黄身(卵黄)の一部である信仰の自由を保護する関係にあるものとご理解ください。「政」(政治権力)と「教」(宗教、とりわけ国家神道)の分離を命じられているのは、国であり自治体でありその機関です。公権力が特定の宗教と結びつくことのないよう憲法上の禁止命令を遵守して、国民の人権の一つである信仰の自由を守ることができるのです。

 この説明に、直ちに質問があった。「憲法全体を卵と見た場合、天皇はどこに位置しているでしょうか。まさか黄身ではないのでしょうが、果たして白身の一部なのでしょうか。卵の殻の外側の存在でしょうか」。

 以下が私の回答だが、どんなものだろうか。

 「なるほど、天皇の存在は盲点ですね。人権を中心に憲法を体系的に理解しようとすると、黄身と白身は助け合い補い合う関係として完結しますから、卵の構造のなかに、本来天皇のはいりこむ余地はなく、存在の必然性がない無用の長物です。

 とは言え、天皇は憲法の明文に規定された存在です。近代憲法に無用な存在なのに、敗戦時の民主化の不徹底の賜物としてこの異物が残存してしまった。憲法を改正して天皇をなくするまでは、卵の殻の外に押し出すことはできませんから、白身の一部に異物として存在することを認めざるを得ません。この異物が、万が一にも黄身(卵黄)を傷付けることのないように気を付けながら、その役割を少しずつ小さくしていくことが、民主主義社会の主権者の課題だと思います。」

5月17日(土)「政教分離の会」主催の公開学習会ご案内。「岩手靖国違憲訴訟・東京『君が代』裁判から見えてくる象徴天皇制の危うさ」 私がお話いたします。

(2025年5月12日)

有田芳生さんの統一教会に対する「対スラップ・反撃訴訟」。5月15日(木)午後の第1回口頭弁論傍聴と、閉廷後の報告集会にご参加ください。

(2025年5月11日)
  【統一教会スラップ・有田事件】に対する「反撃訴訟」の第1回口頭弁論期日は以下のとおり。
 日時 2025年5月15日 午後2時~
 場所 東京地裁103号法廷(地裁1階・一般傍聴席約90席)

 進行 原告 訴状・第1準備書面陳述 甲号証提出
    被告ら 答弁書陳述 乙号証・丙号証提出
    原告本人有田芳生意見陳述・原告代理人光前幸一訴状要約陳述
    被告代理人山地博貴意見陳述

 閉廷後、同日午後3時半〜

     裁判所の裏(東)側 弁護士会館5階502号室で報告集会
     
・有田さん挨拶、代理人解説、支援者発言
     ・前川喜平さん(元文化庁宗務課長) 記念講演


 統一教会は、日本テレビの報道番組「スッキリ」にコメンテータとして出演した有田芳生さんの8秒間の発言を同教団に対する名誉毀損と主張し、2200万円の損害賠償請求訴訟を起こした。

 有田さんだけでなく、併せて日本テレビも被告とした、明らかにテレビ番組における統一教会批判の言論萎縮を狙った典型的なスラップ訴訟である。

 このスラップ訴訟は、当然のことながら一審・二審とも統一教会の敗訴となった。東京高裁で控訴棄却の控訴審判決が言い渡されたのが2024年12月23日。いま、統一教会は最高裁に上告受理申立を行ってはいるが、逆転の可能性は微塵もない。

 この不当なスラップ訴訟による被害は大きい。有田さん本人の経済的・精神的被害もさることながら、メディアの言論の自由や、国民の知る権利が蹂躙されている。

 有田さんは、統一教会スラップの違法を明らかにし、言論の自由を守るために、攻守ところを変えた反撃訴訟に立ち上がった。本年1月23日、有田さんが原告になっての1100万円の損害賠償請求事件の訴訟を東京地裁に提起した。被告は、宗教法人統一教会だけではなく、スラップ提訴の意思決定をした法人の田中富廣会長、及び顧問の福本修也弁護士を加えた3名。社会に横行するスラップの違法を確認する判例を確立し、言論の自由・国民の知る権利擁護に寄与する判決を勝ち取りたい。

憲法記念日に思う。「日本の民主主義は、天皇制に抗うところに生まれ、天皇制に対峙して育った。今なお、日本の民主主義は天皇制と対峙し続けており、これを克服し得ていない。」

(2025年5月3日)
 憲法記念日である。日本国憲法の前途を祝するがごとき好天。空は澄んで高い。薫風の中の新緑がまぶしい。平和と人権の砦となっている日本国憲法を、政権や自公維国などの改憲勢力の攻撃から護り抜く決意を新たにしたい。

 もちろん、日本国憲法は不磨の大典ではなく、理想の憲法でもない。不合理な点も不十分な点も多々ある。しかし、人権尊重を第一義とし、統治機構の基本理念として、国民主権・権力分立・平和主義を掲げる現行憲法が擁護に値するものであることに疑問の余地はない。「憲法改悪阻止」の一点で、幅の広い連帯を大切にしたい。

 とは言え、この憲法を聖典の如くに拝跪する姿勢は危うい。歴史の進展段階の特定の一時期に、時代が生んだ憲法である。その解釈も運用も、国民世論次第でよくも悪くもなる。さらには、憲法の条文自体が真の意味で「改正」もされ、「改悪」の憂き目を見ることにもなる。

 「憲法改悪阻止」をスローガンとする人々にとっても、この憲法の先進性のみならず、後進的な側面を認識しておくことは重要だと思う。そのような視点から、以下に日本国憲法の後進性に言及してみたい。結論からいえば、日本国憲法の後進性の主たる側面は、天皇制を廃絶できずに残存させたところにある。

✦日本国憲法は「朕」の1字から始まる。
 周知のとおり、日本国憲法には優れた前文があるが、その前に「上諭」という一文がある。その冒頭の1字が「朕」なのだ。さらに憲法の第1章は「天皇」であり、第1条から8条までが天皇に関する条文。全103か条(含補則)の条文の最初の単語が「天皇」であって、主権者国民ではないことが情けない。
 「大日本帝国憲法」を受け継いだ不徹底な構造だからである。残念ながら、80年近くこのいびつな憲法の構造を「改正」することができていない。

✦内閣総理「大臣」・国務「大臣」とは何たる滑稽
 律令下では、文字どおりの「大臣(おおおみ・おとど)=天皇の大いなる臣」であった。王政復古の近代天皇制でも、「大臣」に違和感はなかったろうが、戦後80年を経ていまだに「大臣」とは滑稽千万、残念至極というほかない。

✦天皇の存在自体が、民主主義における後進性を再生産している
・国会開会式における主権者代表を見下ろして、文字どおり上から目線の「お言葉」。
・国歌は天皇讃歌「君が代」、国旗は天皇の祖先神アマテラスの象形「日の丸」。
・天皇は、叙位叙勲・褒賞を行う。子どもがオモチャをもらって喜ぶように、そんなものを欲しがるオトナが少なくない。その現実が天皇制を支えている。
・国民の祝日の多くが、いまだに天皇信仰の「祭日」である。
 四方拝・紀元節・天長節・皇霊祭・新嘗祭・明治節…の焼き直し。
・天皇は、春・秋に、園遊会を催す。皇族も出てくる。招待者1400人規模。これに招かれたい、出席したい、天皇と話をしたい俗物がウヨウヨ。
・御苑・恩賜公園・御製・天皇賞・賜杯・天皇杯・皇后杯・皇室御用達等々。
 東京六大学野球の選手諸君に聞きたい。天皇杯に抵抗感はないのか。天皇の名による戦争で、多くの先輩たちが戦死を余儀なくされたではないか。
・一世一元と元号使用強制は、国民生活に天皇制を浸透させようという試みの最たる成功例。現代世界に例のない欠陥年表記法(将来を表記できない)である元号使用を意識的に拒否すべき。「元号」「改元」「元年」の元とは、天子が支配する時の初めの意味。「令和の百姓一揆」「平成の不況」などという時代表現もやめよう。
・神宮・神社・靖国・護国神社・忠魂碑…。
 全国各地の至るところに、天皇教と、天皇の戦争遺跡・遺物が。
・天皇・皇室・皇族の税金と広大な土地(皇居や御用邸)の無駄遣い。
 国民の困窮を傍観しつつ、働かざる者の贅沢。(学術会議予算が10億弱である)
 皇室費(内廷費3億2,400万円・皇族費2億3,577万円・宮廷費108億1,223万円)と、宮内庁費(119億1,431万円) 
・2025年4月12日、天皇は大阪万博開会式に出て、式辞を述べて、政治性濃厚で危険な万博の人寄せパンダの役割を果たしている。
 
✦天皇制と民主主義
・天皇は、かつては神なる権威として君臨し、主権者として臣民を統治した。
 支配の権能を失った今も、神の末裔たる精神的権威として振る舞い続けている。
・健全な民主主義の成立は、自立した精神をもつ主権者の存在を前提とする。
 精神的権威は、その権威を認める者に「服従の心理」として機能する。
・天皇の権威を否定して「服従の心理」を克服することが、民主主義の課題である。
 権威に恐れ入らぬ精神、まつろわぬ批判の姿勢の涵養が必要である。
・象徴天皇とは、明治政府の創作した「神権天皇」の残滓として、けっして人畜無害ではなく、主権者の精神的自立の障害物となっている。
・その意味で、象徴天皇は退化した無害な盲腸ではなく、国民の精神の自立を蝕む有害なガンと認識すべきである。常に、転移と進行の危険がつきまとっている。
・象徴天皇を侮ってはならない。象徴天皇制批判を躊躇し怠ってはならない。

✦天皇信仰との訣別を
・戦前の天皇は、宗教的権威を基礎に陸海軍を統帥し統治権の総覧者となった。
 象徴天皇は三層構造をもった神権天皇の末裔であり、その宗教性の残滓は色濃い。
・かつて、政治宗教である天皇教が、信者たる臣民にその教義の受容を強制した。
 天皇教とは、皇祖皇宗と現人神を神聖な崇拝対象とし、天皇自身を最高祭司(教祖)とする信仰である(「国家神道」は、上品に過ぎるネーミング)。
・天皇教の教義は、万世一系の血統を高貴で神聖として崇拝するだけのもので、
 社会がイメージする典型的なカルトそのものである。
・ミミズもオケラも、生きとし生けるものにして万世一系にあらざるはない。
 天皇教は、高貴な血と卑賤な血とを分ける差別信仰に外ならない。
・かつて天皇教は、信者(臣民)の理性を眠らせ、教祖が一国の主権を簒奪した。
 オウムは重武装を、統一教会は銃の大量輸入を企てたが、いずれも挫折している。
 天皇教だけが、マインドコントロール下の陸海軍と将兵をもつことに成功した。
・日本国憲法下に天皇教の残滓は象徴天皇として、いまだに信仰者も絶えない。
 マイホーム型のソフトな教祖の伝道手法に幻惑されてはならない。

✦主権者意識の障害物としての天皇
・象徴天皇の害悪は、臣民根性を涵養し、主権者意識を鈍麻させることにある。その害悪実現の実行主体は、権力、資本、そして社会的同調圧力の3者である。
・象徴天皇を巡る対峙とは、これを強制する権力や資本との対峙であるだけでなく、天皇に敬意を表明すべきが良識であるとする社会的同調圧力との対峙でもある。
・天皇・皇族に対する特殊な敬語は、臣民根性を再生産する小道具である。天皇・皇族に対する批判の言論にいささかの萎縮も遠慮もあってはならない。
・天皇自身に、憲法解釈や出過ぎた象徴としての行為を認めてはならない。
・近代天皇制とは藩閥政府(西南雄藩連合)の創作であって、日本の伝統ではない。
・近代天皇制は儒教的家父長制におけるイエモデルを国家大に拡大したもの。
 「一国は一家である。天皇は慈父であり、臣民は赤子である」
 夫婦同姓の強制にも、ジェンダーバイアスにも、根底に天皇制がある。
・戦前と戦後・大日本帝国憲法と日本国憲法、主権の転換、滅私奉公と個人の尊厳。この切断を曖昧化し、旧社会温存の骨格となっているものが象徴天皇である。
・濃厚に残存する臣民根性を払拭するのか温存を許すのか。常に問われ続けている。

✦差別の根源としての天皇制
・天皇制とは《高貴な血統》という、根底的な差別信仰であり、あらゆる差別の根源となっている。あらゆる差別の解消のために、天皇制の克服が必要である。
・すべての人は、生まれながらにして平等である。これは公理であって例外はない。高貴な血を認めることは、その対極に卑賤な血の存在を認めることである。
・この血統に関する信仰は、ナショナリズムと結びついて排外的差別となり、家父長制と結びついて、ジェンダーギャップをもたらしている。
・唾棄すべきは、門地・出自・家系・家柄・家格・毛並・血筋・氏素性…。これをひけらかす俗物。政治家2世3世の愚物。そして、極めつけが皇室皇族である。
・問題は、血への信仰ゆえに天皇の権威を容認する国民精神(臣民根性)にある。血統の珍重は、競走馬とペット業界のこと。人間界にはあり得ない。

ちょうど100年前に成立した治安維持法。あの暗い時代を繰り返してはならない。

(2025年4月8日)
本郷三丁目交差点ご通行中の皆さま、ご近所の皆様。こちらは「本郷湯島九条の会」です。毎月一度、この場をお借りして、「平和を守れ」と訴え続けております。昼休みのひとときですが、少しの時間耳をお貸しください。

春うらら、まことによいお天気の4月8日です。お釈迦様がお生まれになった日だとか申します。お釈迦様は、生母摩耶夫人の右脇から生まれいでて、そまま7歩を歩いて「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。これを英訳しますと、「Buddha First(お釈迦様第一主義)」と言うんでしょうね。まあ、大昔のことで、赤ちゃんのお釈迦様の言葉だから、とても可愛い。

これを今、ならず者のトランプが、「天上天下、唯アメリカ独り尊し」「天上天下我トランプの思うがまま」と、駄々をこねて、あっちに関税、こっちにも関税と世界の金融市場を掻き回しています。なんと見苦しくも愚かな図でしょう。ちっとも可愛くない。

トランプが自国の産業を保護するために始めた唐突な関税引き上げは、相手国を敵視し威嚇した軍備の増強によく似ています。自国の防衛のためとして、こちらが軍備を拡大すれば、あちらも拡大せざるを得ない。そしたら、さらにこちらも…。お互い、負けるものかとエスカレートすることになる。軍備でも関税でも、問題はどちらがどれだけ、相手よりも優位に立つかということですから、お互いに負けてはいられないことになる。どうしてまた、こんなヘンテコリンで、おかしな人物が強大な権力を握ることになってしまったのでしょうか。

今世界は、確実におかしい。危険な事態と言わざるを得ません。プーチンやネタニヤフ、習近平・キムジョンウンなどが危険でおかしいと思っていたら、「オレだって負けるものか」とトランプがシャリシャリ出てきた。言葉の真の意味での、愚か者でならず者。世界最強国の権力者だけに、トランプ第一です。トランプが群を抜いて最も危険でおかしい。無茶苦茶なことをやり始めて、誰も手を付けられない。

プーチンやトランプに較べればまだマシには見えますが、日本だって危険でおかしい。プーチンやトランプと親友だと自慢する、ヘンテコリンで危険な首相の時代から、日本は確実におかしくて危険になっています。

今年は戦後80年。あの戦争の惨禍に対する反省を踏まえて、平和憲法ができて、国際協調や平和を基本とする国づくりをしてきました。これに真っ向から異を唱えたのが、ウラジミールやドナルドと親密なことを売り物とした、同じ穴の安倍晋三。彼の唱えた「戦後レジームからの脱却」とは、「憲法を根幹において改正し、教育や家族のあり方、経済のあり方も根本的に変更して、戦前の美しく強い国を取り戻そう」というもの。

彼が取り戻そうという「戦前の美しい国」っていったいどんな国でしょうか。言うまでもなく、天皇が主権者として君臨する国、富国強兵のために臣民に滅私奉公を求める国。人権も民主主義もなく、差別を容認する国。両性の平等も、思想・良心・信仰の自由も、言論の自由もない国でした。

ちょうど100年前の1925年3月、帝国議会は、稀代の悪法「治安維持法」を成立させました。施行は5月から。敗戦直後の1945年10月にGHQの指令を受けて廃止されるまでの20年間、治安維持法は思想弾圧に猛威を振るいました。

治安維持法の所管は内務省と司法省。つまりは、特高警察と思想検事と、そして思想判事でした。現人神である天皇という荒唐無稽な存在を維持するための非国民狩りに狂奔し、メディアも教育もこれを煽ったのです。大日本帝国とは、挙国一致の治安維持法体制であったと言って差し支えありません。

成立時の治安維持法は7か条。その第1条は、「国体を変革しまたは私有財產制度を否認することを目的として結社を組織しまたは情を知りてこれに加入したる者は10年以下の懲役または禁錮に処す」というもの。事実上、「国体の変革」(天皇制の否定)と「私有財產制度の否認」(資本主義の否定)という思想が処罰対象とされたのです。

治安維持法は小さく生まれて大きく育ちました。はやくも、1928年の緊急勅令に基づく「改正」で、最高刑を死刑とする重罰化とともに、「結社の目的遂行のためにする行為」を処罰する目的遂行罪を新設して処罰範囲を広く拡大しました。「目的遂行のためにする行為」という曖昧な罪で、何でも引っかけ、誰でも、しょっ引けるようにしたのです。

この悪法は、1922年創立の日本共産党弾圧を主たる弾圧目的に制定されたものではありますが、検挙対象は、共産党にとどまりませんでした。言論・出版・労働・宗教・学術・教育・文芸・芸術・法曹等々の各分野に及びました。

その結果、「治安維持法20年間の犠牲者は、…逮捕者が数十万人、送検された者の実数7万5681名。送検後の獄死者1682名、これに拷問により虐殺された者及び獄死した者加えると、ほぼ2千人」とされています。美しい国とは、実はこんな野蛮な国でした。この野蛮な国は、国民を天皇が唱導する聖戦に駆りたてるとともに、戦争に反対する勢力を根こそぎ弾圧の対象としたのです。

戦後80年、日本人の多くは、平和と自由を愛し、差別をなくして、豊かな福祉国家建設を望み目指してきました。もう戦争はないだろう。もう大きな思想弾圧もないだろう。今日より明日は、豊かな住みよい社会になるだろう。そう考えてきましたが、安倍晋三政権以来、私たちの国にはキナくささが抜けません。戦争の準備が着々と進められているという危惧を払拭できません。

皆さん、うららかな春の日和ですが、治安維持法の暗い厳しい時代を忘れてはなりません。戦争に反対すれば、否応なく非国民だとしてしょっぴかれる、あの時代を繰り返してはなりません。今、私たちは言論の自由を持っています。今は、戦争政策を批判することができます。この自由は、使わないと錆び付きます。皆様、ものを言いましょう。戦争に反対。平和を守れ。危険な安保条約は廃棄せよ。防衛予算の増額はやめろ。企業・団体献金は禁止だ。杉田水脈は落選させよう。トランプ批判に遠慮するな。アメリカにおもねらず、中国とも仲良くせよ。消費税はなくせ。大企業と大金持ちから税金を取れ。そして、学術会議の独立性をまもれ。選択的夫婦別姓を実現せよ。再審法制定を急げ。危険な大阪万博やめろ。あらゆる差別を許すな。無法者トランプに屈するな…。

言論の自由を行使し、選挙で主権者の意思を表明しましょう。日本の民主主義を錆び付かせないように。

司法本来の役割は、公権力行使の誤りを糺し憲法の理念を実現することにある。いやしくも司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで、人権の侵害や民主主義的秩序の荒廃に手を貸すようなことがあってはならない。

(2025年3月24日)
 《東京「君が代」裁判・第5次訴訟》が本日結審となり、判決言い渡しは本年7月31日午後2時(東京地裁709号法廷)と指定された。希望をもちつつ、判決を待ちたいと思う。

 実は、この訴訟の最終口頭弁論期日は、いったんは昨年12月16日に指定されていた。ところが、その一週間前になって突然期日延期となった。裁判長交代が理由であることが後に分かった。これまで、原告の切実な訴えに直接耳を傾け、岡田正則教授の証言にも積極的に質問をしていた裁判長の交代は、まことに残念ではあるが、我々は裁判官を選べない。3か月の延期となっての本日、更新弁論に続いて、260頁の原告側の最終準備書面を要約した意見陳述となった。

 本日の法廷の陳述は、原告お二人、弁護士7名の力のこもったものだった。この合計時間はほぼ1時間20分。充実した内容であったと思う。

 《東京「君が代」裁判・第5次訴訟》は、都立学校の教職員が、卒業式・入学式において起立斉唱命令に違反したことを理由とする懲戒処分の取消を求める訴訟である。原告数は15名、取消を求める懲戒処分の件数は26件である。

 26件の懲戒処分の内訳は、減給6件、戒告20件であるところ、戒告20件のうち16件は、過去に減給処分を受けて提訴で争い、取消の判決が確定したあとに、取り消された処分と同一の事実を理由として科された再度の戒告処分(「再処分」と呼んでいる)である。

 下記は、私が担当した、最後の意見陳述である。

1 司法本来の責務と、本来の司法への期待
(1) 結審に当たって、代理人の澤藤から貴裁判所に要望を申しあげます。
  司法本来の役割とは、公権力行使の誤りを正し、憲法の理念を実現することにあります。いやしくも司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで、人権の侵害や民主主義的秩序の荒廃に手を貸すようなことがあってはなりません。
  残念ながら、今、我が国の首都の公教育は、あってはならない異常な事態に呻吟しています。その元兇は、憲法や教育の理念の何たるかについておよそ理解を欠いた東京都の教育行政ではありますが、司法も、その本来の役割を十全に果たしてきたかについて憾みなしとせず、一半の責任を指摘せざるを得ません。
  我が国の教育行政は、いつの間にか複数の国際人権専門機関から、繰り返し是正勧告を受けるという不名誉な人権後進国扱いになっています。実は、同時に我が国の司法の在り方も、国際人権機関からの批判の対象となっているのです。
(2) 原告らは、司法本来の役割に期待して、本件提訴に及びました。侵害された自らの思想・良心・信仰の自由を回復し、さらには、「10・23通達」以来の異常な都立学校の教育を本来あるべき姿に取り戻そうと願ってのことです。
  貴裁判所には、この原告らの切実な願いに、誠実に向きあっていただきたい。本件は、憲法訴訟であり、教育訴訟であり、憲法理念を行政に反映すべき行政訴訟でもあります。いくつもの重要な法的論点を提示しています。原告らの切実な期待に応えて、その判断に遺漏のなきよう十分な配慮をお願いいたします。

2 本件は立憲主義の根幹を問う訴訟です
  何よりも本件は憲法訴訟です。しかも、個別の憲法条文解釈のあり方を超えて、立憲主義の根幹を問う訴えとなっています。
  「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」という本件職務命令は、国旗・国歌が象徴する国家に対する敬意表明の強制にほかなりません。国家とは、公権力の主体であり、公権力の唯一の源泉であります。本件起立斉唱の強制は、《権力主体として国家》が、主権者の一人であり、かつ《人権主体としての個人》に対して、「我に敬意を表明せよ」と権力を行使している構図なのです。
  この構図において、国家と個人との憲法価値の優劣が問われています。憲法は、明らかに個人の尊厳を、根源的な、国家に優越する至高の価値としています。従って、国家が個人に対して、国家象徴への敬意表明を強制することは、原理的になし得ないと言うしかありません。従って、本件各懲戒処分はすべて違憲・違法として取り消されなければなりません。

3 そして本件は、現代の「踏み絵」の違憲性を問う訴訟です
  もう一つの憲法問題が、各原告の基本権侵害です。その典型として、「日の丸・君が代」に対する敬意表明の権力的強制が、強制される者の信仰の自由を侵害するという問題として表れています。
  原告の一人は、起立斉唱の職務命令を受けて、信仰者であることと教師であることとが二律背反となる事態に初めて遭遇し、この葛藤を「踏み絵」と表現しています。信仰を貫けば制裁を受け、制裁を避けようとすれば信仰に反する行為を余儀なくされる、これが現代の「踏み絵」にほかなりません。
  貴裁判所には、真剣にこの原告の言葉に耳を傾け、その痛切さ、深刻さを理解していただくようお願いいたします。
  国歌斉唱時に、自らの信仰の命じるところに従って、自らが信じる宗教的信念を護るために、行事の進行を妨害することのない消極的な態様での不起立・不斉唱に制裁を科すことは許されません。この法理は、憲法を学ぶ者の初歩的な常識であり、国際的な共通認識でもあり、そして、神戸高専剣道実技拒否事件において最高裁が判例として示しているところでもあります。
  仮に司法が、本件の「踏み絵」の違憲違法を看過し追認するようなことがあれば、憲法20条1項の「信教の自由」は、画餅に帰すことになってしまいます。そして、その理は、憲法19条についても、同様なのです。

4 司法とは一人ひとりの独立した裁判官であることについて
  最後に釈迦に説法を申しあげます。憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めています。
  行政が人権を侵害し教育を歪めているとき、これを糺すのが司法の役割であり、唯一司法のみがなし得ることです。その重大な役割を担う司法とは、実のところ一人ひとりの裁判官にほかなりません。「憲法の番人・人権の砦」とは、一人ひとりの裁判官が独立して果たすべき役割を指しています。違法な教育行政を糺し、個人の尊厳を取り戻し、次代の主権者を育てるにふさわしい教育を実現することができるのは、本法廷の裁判官席にある裁判官諸氏以外にありません。
  本件各原告は教員としての良心に従って、必死の思いで立ち上がって本法廷で訴えました。是非とも、この原告らの切々たる魂の叫びに、人として、また憲法擁護の使命を持った法律家として応えていただきたい。
  裁判官の使命は、安易に先例を穿鑿しこれを踏襲するところにはありません。本件具体的事例において、あるべき憲法理念、あるべき憲法秩序、憲法が要請する人権保障や教育の自由を見極めた上、血の通った、そして裁判官の良心に照らして道理のある判決を、心からお願いいたします。

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