(2025年3月3日)
ゴロツキ・トランプを戴くアメリカは、経済マフィアが政権を乗っ取ったという構図となった。ホワイトハウスには、今や理性も品性のカケラもない。アメリカが民主主義の先進国として世界から尊敬を集める日は、もう永遠に来ないかも知れない。アメリカの有権者は、大いに恥じなければならない。
ゴロツキ・トランプは、火事場泥棒でもある。火付け人殺しの侵略者プーチンと同じ穴のムジナとして気が合うようだが、侵略されたウクライナ国民の悲劇に胸を痛める感性の持ち合わせはない。
どのゴロツキにもゴマスリ茶坊主が付いている。トランプにはバンスだ。ゼレンスキーに向かって、「トランプに失礼だ」「トランプに感謝せよ」との繰り返し。「失礼」はおまえだろう。侵略された国の国民にいたわりの言葉はないのか。
アメリカは、世界の文明国と決別し、「価値観を異にする国」となった。もはやこの国には、法の支配も、民主主義も、人権も、権力分立も、多様性の尊重も、真実への敬意も平和主義や国際協調もない。ひたすら、「カネだ」「銭だ」「領土の拡大だ」「支持者の利益だ」としか言葉を知らない野蛮国となった。世界の良識から軽蔑の言葉を投げかけられるだけの存在。アメリカ人よ、こんなゴロツキに乗じられたことを大いに恥じるがよい。
ホワイトハウスでの会談は、大国の無法が、小国の窮状に付け込んで火事場泥棒を演じる一幕を見せつけようというものだった。しかし、一寸の虫にも五分の魂があった。結局、トランプは何ら得るところないまま一幕を終えた。ひたすらに、その無法と醜態を世に曝した末のことである。
ウクライナ側にも誤算ではあっただろう。だが、公平に見て、この意外な一幕は、トランプ政権の無法を世界に印象づけたという点に最大のインパクトがあった。トランプ・アメリカの世紀の失策として後世に残ることになるだろう。
翻って我が国には、かつて、ウラジミールと親友で、ドナルドとも同じ穴にいた政界のトップがいた。あんなのを長年首相にしていたことが、日本の有権者の一人としてなんとも長年恥ずかしかった。いまは、まだマシだ。
我が国の民主主義はプーチンやトランプを生んでいない。それだけで、まだ捨てたものではない。これ以上の民主主義のレベルの切り下げは御免だ。
(2025年2月23日)
2月23日、天皇(徳仁)の誕生日。もちろん、とりたてて目出度い日ではない。思惑ある人だけが大袈裟に空虚な祝辞を述べ合う日なのだが、その空虚さにシラける日。そして、国民一人ひとりの主権者意識や、人権意識の強靱性が試される日。おべんちゃらではない、言いにくいことを言える社会であるかの真価が問われる日でもある。
今だに臣民根性の染みついた愚民連中が「一般参賀」に動員されて、天皇一族がこれに手を振っている滑稽。なんともおぞましい景色。だが、この滑稽、このおぞましさは本日限りのものではない。
愚の極みは、産経新聞の本日の社説の末節。これ1925年の記事ではない。2025年2月23日、今朝の朝刊に掲載されたとおりなのだ。
日本の皇位は初代の神武天皇から第126代の天皇陛下まで一度の例外もなく、男系(父系)の血統で続いてきた。これからも皇統は永く受け継がれていく。世界で最も古くから続く皇室を戴(いただ)く喜びを、この佳(よ)き日にかみしめたい。
「初代から当代まで一度の例外もなく、男系(父系)の血統で続いてきた」は、言うまでもなくフィクションである。が、仮に真実だとして、一体それがなんだというのだ。ミミズだって、オケラだって、生きとし生けるものにして万世一系にあらざるはなし。
「これからも皇統は永く受け継がれていく」「世界で最も古くから続く皇室を戴く喜び」「この佳き日にかみしめたい」は、どっぷり浸ったカルトの世界。皇統・皇室はなにゆえに価値ある存在なのか説明抜きで、ひたすらに「アリガタヤ、アリガタヤ」と呪文を唱える。これが、カルト・天皇教である。
あらためて思う。日本の民主主義は天皇制に抗うところから生まれ、天皇制に対峙して育ってきた。もちろん、今もなお。
実は、我々の身の周りには、下記のとおり、天皇制の遺物が満ち溢れている。真っ当な主権者は、意識的にこれを払い除ける覚悟が必要だと思う。
・日本国憲法は朕の1字から始まる。
日本国憲法は、10章99か条に4か条の補則があって全103か条からなるが、これに貴重な「前文」が付されているのは周知のとおり。そして、「前文」の前に「上諭」といわれる一文が付いている。これが、「朕は」で始まるのだ。「朕は、…この憲法を交付せしめる」と結ばれる。
憲法の第1章は「天皇」である。第1条から8条までが天皇に関する条項。旧「大日本帝国憲法」からの構造をそのまま受け継いだ構造。残念ながら、80年近く、この構造を改正することができずに、今日に至っている。
・三権の長は天皇の任命。
天皇は政治的な権能を一切有しない。が、三権の長を任命する。もちろん、形式的なものだが、まことにもってつまらぬ形式主義。
・内閣総理「大臣」・国務「大臣」とは何たる屈辱。
律令制下では、文字どおりの「大臣」であったろう。これを模した近代天皇性でも、「大臣」に違和感はなかったろうが、戦後80年を経ていまだに「大臣」で恥ずかしくないか。
・即位式のバンザイ。国会開会式の愚かさ。
で、大臣や議員らが、ことあるごとに、「テンノーヘーカ・バンザイ」をやる。どうやら酔余の余興ではなく、素面でやっているようである。
・国歌は「君が代」、国旗はアマテラスの象形。
いまだに、我が国の国歌は天皇讃歌である「君が代」、国旗は天皇の祖先神「アマテラス」の象形である日の丸とされている。
・叙位叙勲・褒賞制度の威力。
子どもがオモチャをもらって喜ぶように、叙位叙勲・褒賞をむやみにありがたがる「オトナ」が少なくない。天皇制の小狡いところ。そして、限りなく汚いところ。
・国民の祝日は、天皇教の「祭日」である。四方拝・紀元節・皇霊祭・新嘗祭・明治節・天長節…と限りがない。今さら言うまでもないことだが。
・御苑・恩賜公園・御製・賜杯・皇室御用達・天皇賞、等々のオンパレート。東京六大学で優勝を争っている選手諸君、天皇杯の授与を受けることは、いったい名誉なことなのか。天皇の名による戦争で、多くの先輩たちは戦死を余儀なくされたではないか。天皇杯に抵抗はないのか。
・元号使用強制の不都合
国民の私生活に天皇制を浸透させようという試みの最たるもの。意識的に、元号使用を拒否したいものである。
・メディアの天皇・皇族へのいたずらな敬語の使用には虫酸が走る。普通にやったらよかろうに。
・神宮・神社・靖国・護国神社・忠魂碑…。全国至るところに、天皇教と、天皇の戦争の遺跡・遺物が。
・天皇・皇室・皇族の税金と広大な土地の無駄遣い。国民の困窮を他人事にしながらの、働かざる者の栄華。
・最後に、皇族の絶滅危惧回避策としての女性天皇問題。
ここしばらくは、憲法改正を発議して、天皇制を廃絶する展望は描きにくい。それよりは、安倍派主導の男系男子主義の墨守で、天皇制の自然死を待つ方が、現実的なのかも知れない。
いろんなことを考えざるを得ない、天皇誕生日である。
(2025年1月21日)
2025年1月20日、アメリカ合衆国第47代大統領として、ドナルド・トランプが就任した。選挙という民主主義における手続を経てのことである。
この日人類は、この男の頭一つ分、確実に野蛮の度を高めた。フェイクな情報に操られる衆愚が作り出した歴史の逆流が多くの人々を巻き込んで巨大な潮流となり、醜悪な権力を作った。民主主義の空虚な実態を曝け出している。
東にプーチンと習近平、そして西にトランプである。なんたる悪夢。世界に暗黒の3王朝鼎立の構図である。民主主義が敗北している。平和と人権が崩れている。
二つの大戦を経て、人類が到達した「常識」が厳しい挑戦を受けている。このままで、人類が生き延びていけるだろうか。
吐き気を催すほどの不愉快な就任式の演出であった。驚くべきことに、世界の富の大半を我が手にしていると言われるハイテク企業の総帥たちが、君臨するトランプの側に恥ずかしげもなく侍っている。
資本の資本による資本のためのトランプ政権。その政権を、貧しい群衆が、嬉々として支えているのだ。愚かしくもあり、恐ろしくもある、何というパラドックス。
ちょうど100年前の日本で普通選挙(とは言え、男子のみ)が実施されたとき、選挙によって人民の利益に奉仕する政治が実現するかの評価は区々に分かれた。天皇制権力の側は、普通選挙の民主主義的効果を過度に恐れた。
それゆえに普通選挙法(正確には改正「衆議院議員選挙法」)に、人民には自由な選挙をさせない徹底した規制を盛り込み、さらに抱き合わせで治安維持法を制定した。天皇制下の選挙制度とは、治安維持法とともにあったことを記憶しなければならない。
今、治安維持法はない。選挙運動の自由も緩和されつつある。それでも、勤労大衆の利益を標榜する政党が政権を取ることはない。実は、ここにもトランプのパラドックスが見える。
選挙が代議制民主主義における中核の制度として本来の機能が発揮されるためには、主権者に正確な情報の提供が保障されていること、そして有権者に立候補者の資質や政策を選択する能力が備わっていることが条件となっている。
中国のようにはなりたくない。ロシアのようになってもならない。そして、トランプのアメリカにも。吐き気を催すほどのバカげた就任式を見せつけられて、私たちの国の民主主義を大切にしたいものとあらためて思う。
(2024年12月8日)
12月8日、けっして再びの戦争を起こしてはならないとの誓いを新たにすべき日である。あの戦争の究極の責任者は誰か。回答は幾様にもあるだろうが、天皇と軍隊の責任を挙げることに大方の異存はないだろう。民主主義の欠如と、野蛮な武力が戦争の惨禍を引き起こした。
軍隊は危険な存在である。国防を建前にしながらも、易々と自国の人民に銃を向ける。為政者にとって、これ以上に頼もしく強力な統治の手段はない。
平時においては、軍は人民を威嚇するだけの存在に過ぎないが、非常時にはその実力を行使し武力をもって人民を制圧する。その典型が戒厳令である。いつ、何をもって非常の事態というのかは、軍を統率する為政者の一存で決まる。
戒厳令とは、民主主義を停止して軍に全面的な統治の権限を委ねることである。民主主義が権力を制約する理念と制度である以上、権力行使に対する民主的束縛を解放する威厳令は、常に権力者にとって妖しい魅力に輝いている。
戒厳令が施行されれば、民主主義は眠り込まされる。場合によっては永遠の眠りとなりかねない。戒厳令は民主主義の対立物というだけのものではない。民主主義を死滅させかねない劇薬でもある。
1989年6月4日、戒厳令下の中国人民解放軍は天安門広場とその周辺に市民的自由を求めて集まった群衆に発砲し、流血の惨事を引き起こした。権力を握る中国共産党の命じるままにである。この日、人民から生まれた人民解放軍が、人民に銃を向けただけなく、実弾を発砲して、人命を奪い、自由や民主主義を求める人民の声を封殺した。この日、中国の民主主義も殺戮されたのだ。
2024年12月3日、韓国の尹錫悦大統領が「非常戒厳」を宣布した。韓国軍に国会の包囲と制圧が命じられた。戒厳令が民主主義の停止である以上は、議会の制圧は当然のこととなる。議会内の議員の逮捕や排除も命じられたという。
しかし、軍は結局この命令に従わなかったと報じられている。これが、戒厳令の発動を失敗に終わらせた。その直接的な要因は成熟した軍隊の抗命であったが、軍隊の抗命は、大統領糾弾を叫ぶ圧倒的な国民世論に支えられたものであった。
通例、軍隊とは上命下服の厳正な規律下にある。この規律を欠いて文民統制に服さない軍隊の危険は言うまでもない。さりとて、中国共産党の命令に盲従して人民を殺戮した人民解放軍も危険極まる存在である。
国連の国際法委員会(ILC)が、ニュルンベルク裁判で確認された戦争犯罪に関する法原則を成文化した、7か条の「ニュルンベルク諸原則」というものがある。その第4原則が「政府または上司の命令にしたがって行為した者は、道徳的選択が現実に可能であったとき、国際法上の責任を免れない」と宣言している。
訳文の完成度が低いが、違法行為を犯した将兵は、「政府または上司の命令にしたがったのだから」という理由では免責されないのだ。
兵の主たる任務は、殺人である。あるいは、放火であり、建造物破壊である。いずれも、一般には犯罪とされる違法行為。その任務遂行としての違法行為が、上官の命令であるからして免責されることはないというのだ。
韓国の将兵はこのことをよく心得ていた。そのゆえの抗命であった。携えていた銃に実弾は装填されていなかったともいう。立派なものであったと思う。
もちろん、日本国憲法に戒厳令の制度はない。戦前の反省を踏まえ、意識的に類似の制度も作られなかった。にもかかわらず、何とか戒厳令に似たものを作ろうという狙いが、2012年自民党改憲草案における緊急事態条項に透けて見えている。
その文案は、「国会による法律の制定を待ついとまがないと認める特別の事情があるときは、内閣は、…政令を制定することができる」という、国会という民主主義の根幹をなす機関の機能を停止して、内閣が立法権まで吸収しようとのたくらみである。その危険性を見抜かなくてはならない。
戦争は民主主義のないところに起こる。また、戦争は未成熟の野蛮な軍隊を抱えた国に起こる。12月8日の今日、中国と韓国のそれぞれの例から教訓を引き出して、他山の石としたい。
(2024年11月12日)
小春日和のお昼時。「本郷・湯島9条の会」の街頭宣伝活動。14人が参加した。いや、15人と訂正しなければならない。
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昨日、特別国会開会となり、首班指名の決選投票の結果、石破茂第2次政権が発足しました。その石破さんの態度の殊勝で神妙なことが印象的です。しかしこの人、態度も言うことも、コロコロ変わることで有名です。なぜ今こんなにも、神妙なのか。それはちっとも不思議ではありません。主権者の意思次第なのです。
かつて、安倍晋三という傲慢極まりない首相がいました。嘘とごまかしで有名な人です。モリ・カケ・サクラ・クロ・カワイという諸事件を引き起こし、身贔屓な人事で勢力を作った人。なぜこんなことができたか。国民が増長させたからです。
国民が何を間違えたか、安倍晋三を総裁とする自民党、安倍晋三を総理とする政権を支持したからです。彼は、国民をナメ切って、嘘とごまかしの政治を続けて、歴代最長政権の記録を作りました。このような国民の安倍自民党への支持が、腐敗したアベ政権を生み出したのです。裏金政治は、そのなれの果ての姿です。
政権とは、甘やかせば必ずつけあがるものなのです。付け上がり甚だしかった安倍政権がそのよい見本です。今度の選挙では、国民は石破自民党を甘やかさず、お灸を据えました。これが素晴らしい効き目。
前回の2021年総選挙に較べて、自公両党の得票は、650万票減りました。そして、73議席を減らして、自公は215議席に後退しました。事後の追加公認を加えても、過半数議席233に手の届かない少数与党。
少数与党であればこそ、石破政権は神妙に国民の声に耳を傾けなければなりません。石破総理の神妙さは、この緊張関係がもたらしたものです。
少数与党からの改憲発議などあり得ません。しばらくは憲法改悪の策動も鳴りを潜めることにならざるを得ません。そして、裏金政治をきれいにするために、政治資金規正法の再改正もやると、自分から言い出している様子です。
強すぎる与党は禁物です。侮ることのできない野党との緊張関係で、民意が反映されます。強すぎる与党の政権は、閣議決定だけで物事すべてを決めてしまいます。これでは、良い政治ができるわけはない。いつまでも、政権与党の頭を叩き続けて強大にせぬよう、心がけが肝要です。
今回、与党が弱くなったとたんに、しゃしゃり出てきたのが「ゆ党」と呼ばれる連中です。野党でも与党でもないから「ゆ党」。実は、与党の補完勢力で、与党が劣勢になれば、その受け皿となるのが主たる役割。
神妙な石破さんを、いつまでも神妙で謙虚なままに保つ否決は、あらゆる選挙において、与党に過大な票をやらないこと、それだけでく、与党から離れた票の受け皿となる「ゆ党」にも、ご用心・ご用心。
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本日の街宣活動中に、思いがけないことがあった。男子中学生の何人かの集団が、わたしたちの街宣を見ながら通過して、「今、学校で習っているよ」と、憲法9条の暗唱を始めたのだ。「すごい」「素晴らしい」と、声をかけているうちに道路を渡って行ってしまった。
その後、同じ制服の中学生の一人が、興味深そうに私たちのプラスターを眺めている。そこで声をかけてみた。「ねえ、キミも一緒にプラスター持って立ってみない?」 そしたら、「ハイ」という答え。「被団協ノーベル平和賞おめでとう、憲法9条も喜んでます」というプラスターをしっかり読んで、胸にかざして私の横に立ってくれた。
そして、自主的に人通りの多い方に移動して、5分以上もスタンディングを続けて、「もう時間がありません」と立ち去った。別れるときには握手し、名残惜しそうに小さく手を振って歩いて行った。わたしたちにとって初めての経験。何とも嬉しい一幕。
そんなことがあったから、本日の街宣参加者は、14名ではなく、15名に訂正しなくてはならないことに。
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[プラスター]★これが民意だ!自民党アベ派落選で「改憲論議」は永久凍土に。★トランプに押しつけられた兵器購入「軍事ローン」9兆4,500円。★国民民主の玉木さん、企業団体献金、原発推進反対しなくちゃダメですよ、身辺整理のしましょうね。★殺すな撃つな子ども泣かすな、ネタニヤフよイスラエルよ。★九条の会迷わず平和路線。★被団協ノーベル平和賞おめでとう、憲法9条も喜んでます。★核兵器禁止条約、日本は直ちに批准せよ。★裏金うやむや許さない、参院選で審判くだそう。
(2024年10月30日)
国連の「女性差別撤廃委員会(CEDAW)」が、日本政府に選択的夫婦別姓の導入を勧告したことが話題となっている。ナニ、初めてのことではない。既に、2003年、09年、16年と過去3度の勧告に政府は従わなかったから、これで4度目の勧告となる。政府は、国際的に恥ずべきことと恐縮しなければならないところだが、どうもそのような真摯な姿勢は見えない。人権後進国を以て任ずる政府は、馬耳東風と受け流す算段のようである。
それでもタイミングは良かった。総選挙の争点の一つとして話題となったところだったのだから。選択的夫婦別姓の制度実現に反対しているのは、主要政党の中では、自民党くらい。例によって維新が自民党の肩を持ち、通称使用でよいではないかとうそぶいている。非主要政党の中では、参政党やら日本保守党やらが、「日本の伝統的な家族観」と結びつけた夫婦同姓強制派となっている。とても分かり易い。
提唱されているのは、「選択的夫婦別姓」の制度である。別姓も同姓も強制されることはない。当事者が選択可能な制度に、なにゆえお節介に反対なのか、常識的には理解に苦しむ。参政党やら日本保守党やら、自民党の旧安倍派やらが反対する理由に挙げているのは、「日本の伝統的な家族観」に反し、「日本の伝統的な家族関係」を破壊し、「日本の伝統的な家族制度」を基礎として成り立っているこの社会の秩序を乱すからだということになる。人権の問題ではない、あるべき社会秩序の問題なのだから当事者の選択に任せることなどできようか、というのがお節介派の基本的立場。
「日本の伝統的な家族観・家族制度・家族関係」とは、言うまでもなく「家父長制」のことである。男尊女卑・夫唱婦随・三従の教え・七去の法の「家父長制」。これが「日本の伝統的な家族制度」。こんなものを、どうしてきれいさっぱりと捨てられないのか。
国連の「女性差別撤廃委員会」がそこまで見通してのことかは定かでないが、「日本の伝統的な家族制度」の基盤にまで切り込んだ。それが、皇室典範改正の勧告である。さすが国連である、立派なものだ。
言うまでもなく、皇室典範には、皇位の継承者を「男系男子」に限定している。勧告が明示しているわけではないが、これが、諸悪の根源である。ここにこそ 「日本の伝統的な家族制度」の根源がある。これこそ、選択的夫婦別姓制度の導入を妨げている元兇ではないか。ならば、皇室典範を変えてしまえばよい。
報道では、「委員会の権限の範囲外であるとする締約国の立場に留意する」としつつ、「男系の男子のみの皇位継承を認めることは、条約の目的や趣旨に反すると考える」と指摘。「皇位継承における男女平等を保障するため」、他国の事例を参照しながら改正するよう勧告した(朝日)、という。正論であろう。
当然のことながら、身分差別の残滓である天皇制そのものが「日本の伝統的な負の遺産」ではある。しかし、選択的夫婦別姓を主とするジェンダーギャップ解消の勧告においては、皇位継承権や順位に、性差を除去すればよいと、控え目に考えたのであろう。
これに対する政府の反応が滑稽なほどヒステリックである。「林芳正官房長官は30日の記者会見で、国連の女性差別撤廃委員会が女性皇族による皇位継承を認めていない皇室典範の改正を勧告したことについて、『大変遺憾であり、委員会側に強く抗議し、削除の申し入れを行った』と明らかにした。林氏は『皇位継承のあり方は国家の基本に係る事項であり、女性に対する差別の撤廃を目的とする女子差別撤廃条約の趣旨に照らし、委員会が皇室典範について取り上げることは適当ではない』と指摘した。」(朝日)
いつもは冷静な林さん、本気なの? それともポーズだけ? 「皇位継承のあり方は国家の基本に係る事項」なんて言ってはいけない。そりゃ、天皇に主権があったという大日本帝国憲法時代のはなしじゃないか。国民主権の今、皇室典範は国民の意思次第で変えられる。両院の過半数の議決で、女性天皇を認めればよいだけのこと。
「国家の基本」よりは「人権の保障」が数段大切でしょ。国民の人権保障に有害であれば、国民過半数の意思で天皇制の廃絶だってできる。
それにしても、こういうときによく分かる。天皇制・国体思想が、いまだに世にはびこり、人を惑わして人権侵害の温床となっていることが。
(2024年10月25日)
2024年総選挙、27日の投開票日が明後日に迫っている。自公連立与党の過半数割れもありうるとの調査報道に期待は高まるが、気になることもいくつか。
まずは、共産党の意外な伸び悩みの報道である。
私の理解では、今回の選挙の主要なテーマは安倍政治の「負のレガシー」の清算にある。安倍政治とその後継に最も的確にそして果敢に闘ってきたのは、共産党ではなかったか。にもかかわらず、どうしたわけか今回選挙戦に共産党の影が薄い。選挙結果予測報道では、現状維持が精一杯だという。はて?
安倍が作り菅が嗣ぎ岸田が手をつけ損ねた「安倍政治の負のレガシー」。これが顕在化し、誰の目にも明らかとなって政局を動かすまでになった。その目に余るもの典型が「自民党派閥の裏金問題」であり、「政権政党と統一教会との関係」であった。それだけでなく、アベノミクスの後始末も、過剰な防衛予算の負担もある。国民感情の悪化に絶えられず岸田が政権を投げ出しての解散・総選挙となった。対峙しているのは、「安倍政治護持勢力」と「安倍政治を許さない勢力」とである。
これも私の理解では、この間、安倍の防衛政策の変更に関しても、改憲策動に対しても、政治姿勢問題についても、最も果敢に正面から闘いを挑んできたのは共産党ではなかったか。その共産党が、今回選挙戦で主役の座にいないとすれば残念でならない。率直に言えば、自民党の議席が減った分の受け皿として、自民党の補完勢力である維新や国民民主が太るのではさしたる意味はない。
共産党は289小選挙区のうち、213区で候補者を擁立した。何らかの形で野党共闘ができた選挙区以外は候補者を擁立したことになる。これは、小選挙区候補者の選挙活動を比例代表ブロックでの支持を拡大しての議席増につなげる戦略と言ってよいだろう。
小選挙区制という少数政党支持者の民意切り捨て制度のもとでは少数政党候補者の当選は困難である。しかし、小選挙区に候補者を立てなくては、党勢の維持も比例票の掘り起こしも難しくなろう。小選挙区候補は精一杯の候補者活動をしながらも「比例は共産党へ」という形で議席につなげなければならない。
安倍政治を許さない、安倍政治の承継も許さないとお考の有権者の皆様には、ぜひとも、「比例は共産党へ一票」で、安倍政治の最も厳しい批判者である日本共産党の議席増の実現に力を貸していただきたい。
また、もう一つの課題として、東京24区(八王子市)の有権者の皆様に、有田芳生候補への一票をお願いしたい。
安倍政治の負のレガシーとは、経済面では貧困格差を生み出し経済成長も停滞させたアベノミクスという新自由主義政策であり、政治姿勢の問題としては徹底した身贔屓の人事とウソで固めた国会答弁で特徴付けられる。
さらに安倍晋三は、典型的な世襲政治家として、国民の生活感覚を持ち合わせなかった。立憲主義や法の支配を学ぶところはなく、危険な軍事大国化を目標とし、歴代保守政権が堅持してきた専守防衛政策を捨て去った。歴史修正主義者で民族差別を省みなかった。当然にゴリゴリの改憲派で、9条改憲に奔走した。国会での答弁態度は傲慢で、平気で嘘をついてはバレても鉄面皮を押し通した。
理解しがたいことだが、その姿勢が保守の一部からの篤い支持を獲得し、保守の良識派はこれに屈した。安倍亡き今も、安倍的な政治姿勢がまかり通ろうとしてる。その中心に位置しているのが、萩生田光一である。萩生田光一こそ、今回選挙で断固たる主権者の審判を受けるべき人物。
彼は、安倍と加計孝太郎とのスリーショット写真で有名になり、
統一教会との関係で悪名を轟かせ、
しかも、最も著名な「裏金議員」である。
安倍の生前は「安倍の最側近」とされ、安倍亡き今になお遺る、清算されるべき安倍晋三的なものの主要な後継者。
だから、安倍昭恵・櫻井よしこ・高市早苗・松井一郎・小池百合子などなどの醜悪な面々の支援が集中しているのだ。
私は、「統一教会スラップ・有田訴訟」の弁護団の一人として、萩生田光一と統一教会との深い関係を実感している。
この事件は、日テレの報道解説番組で、有田氏か「統一教会ときっぱり縁を切ると言わない萩生田光一」を厳しく批判したことが発端。その批判の中の片言隻句を捉えて統一教会が有田氏を訴えたというもの。つまり、「有田が萩生田を叩いたら、叩き返してきたのは統一教会だった」という構図。萩生田と統一教会とは、かくも親しい。
「統一教会スラップ・有田訴訟」では、今年3月一審判決は被告有田側が全面勝訴し、11月29日に控訴審判決が予定されている。
安倍政治の負のレガシーと厳しく対峙している政治家・ジャーナリストとして、有田芳生氏へのご支持をよろしくお願いします。そして、くれぐれも、比例代表選出選挙では「日本共産党」、あるいは「共産党」と政党名をお書きいただたい。
(2024年10月23日)
総選挙の投票日が近づいている。同時に、最高裁裁判官の国民審査が行われる。誰にバッテンを付けるべきか。
随分以前から議論が分かれるところ。
A「審査対象の裁判官全員に ✕ を付けるべきだ」
B「特に批判すべき裁判官を選んで ✕ を付けるべきだ」
A説の論拠は次のようなところ。
「最高裁なんて、どうせ権力の僕だ」「出世する裁判官に碌な者がいるわけはない」「司法部総体に対する批判として、全員 ✕ とすべき」「そもそも裁判官としての適格性を判断しがたい」
B説は次のように反論する。
「最高裁を人権の砦として育てる努力を放棄してはならない」「最高裁判事も玉石混淆ではないか。玉は評価し、石を批判しなければならない」「司法部総体に対する批判のためにも、国民は不断に監視して裁判官を評価選別しなければならない」「だから、裁判にも裁判官にも監視の目を光らそう」
今回の審査対象の裁判官は6名。日本民主法律家協会のホームページでは、「的確な国民審査をなすべき資料となる、パンフレットを作成し、これをホームページにアップしている。
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa24_6.pdf
結論から言えば、「✕」相当のレッドカードは今崎幸彦・中村愼の2名。限りなく「✕」に近いイエローカードが宮川美津子、平木正洋の2名となる。
選択肢は下記の三つある。
(1) レッドカードの今崎幸彦・中村愼の2名に✕。
(2) レッドカードの今崎幸彦・中村愼に
イエローカードの宮川美津子・平木正洋の2名を加えた4名に✕。
(3) レッドカードもイエローカードも無視して、6名全員に ✕ 。
そのどれでも、選択願いたい。くれぐれも、✕を付けずに白紙のまま投票することのないように。それでは、全員信任したことになってしまう。
今回注目していただきたいのは弁護士出身の宮川美津子裁裁判官である。以前は弁護士出身判事は比較的マシな人だったが今は様変わり。
安倍晋三第2次政権が発足して、彼が最初に任命した弁護士出身の最高裁判事は、あの木澤克之(東弁)だった。弁護士として何か活躍をしたわけではない。安倍のオトモダチだった加計学園の加計孝太郎の同級生で、加計学園の監事だっただけの人物。安倍晋三の恣意的な人事の典型の一つ。
安倍晋三の木澤克之任命については、下記のブログをお読みいただきたい。
澤藤統一郎の憲法日記 » 木澤克之と加計孝太郎と安倍晋三と。ー 仲良きことは麗しいか?
その後は、安倍から菅・岸田まで、一弁出身者ばかり。「一弁一弁また一弁」。宮川美津子は、連続6人目の一弁出身者。もちろん、人権派とは無縁。マチベン(町弁)ですらない。典型的な大ローファームの代表で、企業法務の専門家。在野・反権力を真骨頂とする本来の弁護士像とは無縁の人ばかり。
以下にレットカードとイエローカードの4裁判官の評価を、日民協ホームページから転記する。
今崎幸彦
2022年6月24日最高裁判所判事、2024年8月16日より最高裁判所長官。裁判実務の経験は、1983年の裁判官任官から約40年のうち8、9年程度。最高裁事務総局などの司法行政畑を主に歩いてきた典型的司法官僚。
最高裁裁判官任命後の関与判決には、
①名張毒ぶどう酒事件第10次再審請求審特別抗告審で、請求棄却の多数意見を支持(最3決2024年1月29日)
②犯罪被害者給付金の支給について、事実上同姓婚の関係にある者への支給が認められるかに関する判決において、「同性パートナーは犯給法の『犯罪被害者の配偶者』に該当しない」との反対意見(最3判2024年3月26日)
③買収で失職した議員は政務活動費と議員報酬を遡って返還すべきかどうかが問題となった事件で、当選無効までの報酬など元大阪市議に全額返還命じる判決をした事件で、当然に全額返還すべきとの多数意見に対し、議員報酬は返還する必要はないという反対意見(最3判2023年12月12日)。
「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律3条1項4号は、憲法13条に違反する」との判断には与したが、優れた人権感覚は感じられません。経歴としても裁判官の統制を促進する側ともいえ、「憲法の番人」にふさわしいとは思われません。
中村愼
裁判官生活36年5か月のうち、裁判実務を担った期間は、判事補時代を含めても10年弱にすぎません。最高裁調査官、同総務局課長、同秘書課長、同総務局長、水戸地裁所長、最高裁事務総長を経て、最高裁判事になる直前は東京高等裁判所長官を務めるなど、司法行政の中枢を歴任しており、典型的な出世コースを歩んできたと言えます。
なお、検事出向中の約3年間は、外務省条約局事務官や国連日本政府代表部の書記官などを担当していました。
下級審判事時代は民事事件を担当していますが特に注目すべき判決はありません。その一方で、最高裁総務局課長時代に裁判員制度施行前の準備を担当しています。通常、裁判官出身だと民事畑か刑事畑かで区別されるのですが、いずれに属するか明確ではない点で異例と言えます。典型的な「裁判をしない裁判官」であり、司法行政に染まった裁判官に、行政府や立法府に対して毅然とした判断を示すことを期待することはできません。
宮川美津子
宮川美津子氏は、弁護士出身の女性裁判官です。しかし、そのイメージのとおりに社会的弱者の味方であるか、人権の守り手であるか、まったく未知数です。かつては、最高裁判事に任命される弁護士は、東京の3会と大阪その他の地方会からも選任され、企業法務専門弁護士ばかりではなく、多様な弁護士が選任されていました。ところが、安倍晋三政権以来、第一東京弁護士会出身者が続いています。それも、企業法務弁護士ばかり。宮川氏は、連続6人目の一弁出身弁護士、しかも典型的な大手の企業法務専門法律事務所の代表でした。
知的財産法を専門とする弁護士として、パナソニックの監査役や三菱自動車の社外取締役などの経歴を持ち、政府の知的財産関係の審議会にも関わっています。まだ目立った判決への関与はなく、個別意見もありません。従って、決めつけはできませんが、経歴を見る限り、財界や政権に毅然たる姿勢を期待するのは難しいと言わざるを得ません。
平木正洋
2024年8月16日最高裁判所判事に任命。1987年の裁判官任官後、実際の裁判実務担当は15年程度。但し、初任の東京地裁時代、数件の無罪判決に左陪席として関与。東京高裁裁判長時代にも、原審の有罪判決を破棄したことがあります。
司法官僚歴が長い点はマイナス要素。最高裁での関与事例も現段階で不明。但し、過去に数件の無罪判決に関与してきた事実もある点では、全く期待できないとまでは断定できないでしょう。
なお、平木正洋裁判官の人間性については、こんなSNSの投稿がある(10月21日)。発信者は二弁の弁護士である「やまぐち としき」さん。
「今回の国民審査の対象になっている最高裁判事の平木正洋裁判官は、私が修習生として配属された部の部総括でした。
修習中盤の懇親会の際、ある修習生が、法曹一元制度についての見解を尋ねたところ、平木さんは、『修習で何見て来たんだよ!弁護士なんかに裁判官が務まる訳ねーだろ!』と仰いました。
修習の際には、色々なことをおしえていただき、お世話にもなりましたが、人間性には極めて問題がある人物だと思っています。私は国民審査で✕を付けます。
『この人は最高裁判事になる人だから、この話は国民審査の時まで取っておこう』と思い、10年待ちました。『この人は最高裁判事になる人だから、この話は国民審査の時まで取っておこう』と思い、10年待ちました。
質問をした修習生だけでなく、全ての弁護士をバカにする口調で、仰っていました。同席していた修習生はみんな唖然としていました。」
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参考にすべき判決
福島第1原発事故の被害回復を求める集団訴訟は全国各地に32件、原告となった住民の総数1万2千の規模で時代を映す大型訴訟となっています。どの訴訟も、国策として原発を推進した国の責任を問い、違法な国策を裁こうとするもの。その最初の最高裁判決が、2022年6月17日、第二小法廷で言い渡されました。判決対象となった先行4件の高裁判決のうち3件は住民側の勝訴でした。しかし、「6・17判決」は、これを逆転し4件すべての請求を棄却しました。国策擁護の司法の姿勢を露わにしたものと言わざるを得ません。この判決の多数意見(3名)は、結果の不当性だけでなく判決理由の貧弱さも指摘され、詳細な理由を述べて国の責任を認めた反対意見(1名)が高く評価されています。それでも、その後の下級審判決はこれに追随し、さらに2024年4月には第3小法廷が、同じ判断で上告不受理(門前払い)としました。その決定には今崎幸彦裁判官が関与しています。
(2024年10月20日)
東京「君が代」裁判第5次訴訟は、12月16日(月)に、最終準備書面を陳述して結審となります。原告側の最終準備書面は、15人の原告に対する26件の懲戒処分の違法性について、憲法・公務員法・教育法・行政訴訟法・行政手続法・国際条約の国内法上の効力などの様々な観点から論ずるものとなっています。
この準備書面を作成する過程で、あらためて「10・23通達」の衝撃を思い起こします。あれから21年になります。予防訴訟提起からも20年。当時は、石原慎太郎という極右の政治家が、右翼の仲間を語らって東京都の教育委員に送り込んでたくらんだ、右翼グループの思いつき的な暴走だと思いました。だから、石原さえいなくなれば、都立の教育現場は正常に戻るだろう。
ところが、石原が知事を退いた後も、「10・23通達」体制は変わらなかった。石原後も、危険なナショナリズム鼓吹の象徴としての「日の丸・君が代」強制が続いています。
この間の一連の訴訟では、当初の石原や都教委の思惑に歯止めを掛け得た点では、一定の成果があったことは確かです。しかし、目標であった通達や処分の違憲性を勝ち取ることはできていません。まだ、道は半ばです。我々は、挑戦を続ける覚悟です。
私たちが取り組んでいる、訴訟の性格と意義について、以下のとおり確認して、共通の認識にしていただきたいと思います。
まず、本件は憲法訴訟です。しかも、個別の条文解釈のあり方を超えて、憲法ないしは立憲主義の根幹に関わる理念を問う訴えと言ってよいと思います。
「国旗に対して起立し国歌を斉唱せよ」とは、「国家の象徴と位置づけられた旗」に正対して起立し、「国家の象徴と位置づけられた歌」を他の起立者とともに唱えという命令です。結局のところ、国家に対する敬意表明の強制にほかなりません。いったい、このような強制が許されるのか、この強制に服さなかったことをもっての制裁が許されるかが問われています。この問いが、憲法ないしは立憲主義の理念の根幹に関わるものです。
「国旗・国歌」の強制において、敬意を表明すべき対象となっているのは、紛れもなく「日本」という国号を付せられた国家です。
国家は複雑な多面性を有する存在ではありますが、国家の本質は権力の主体であることです。本件における強制は、直接には被告東京都・教育委員会によるものですが、その法的強制力の源泉は国家であり、被告が行使する公権力は国家が有する権力の一分枝です。
結局のところ、本件起立斉唱の強制は、権力主体として国家が、主権者の一人であり、かつ基本的人権の主体である個人に対して、「我に敬意を表明せよ」「我を崇めよ」と権力を行使している構図なのです。
国家象徴への敬意表明の強制は、この《権力主体としての国家》と《人権主体としての個人》の対立構造を浮かびあがらせています。明らかに、国家を個人に優越する法的価値としているのです。これは、一世紀前の、大日本帝国憲法の時代の遺物、残滓でしかありません。日本国憲法は、明らかに個人の尊厳を根源的な、国家に優越する価値の源泉としています。国家あっての個人ではなく、個人の尊厳を擁護する必要な限りで国家が存在しているのです。都教委やこれを許容する最高裁の立場は、国家至上主義と言うほかはありません。
また、本件は教育訴訟です。国旗・国歌ないしは、日の丸・君が代に対する敬意表明の強制は、都立学校において教育の一端として行われました。ことは、職務命令を受けた原告らの個人としての問題を越えて、教育の場における公権力の行使のあり方を問う訴訟になっています。
教育は権力の僕ではありません。権力の統制を排した自由な場において行われねばならず、原告らの教育公務員としての専門性が、最大限尊重されなければなりません。都教委の言い分は、「子どもの将来に大きな影響力をもつ教師であるから、職務命令には従うべきだ」と言います。まったく逆で、子どもの将来に大きな影響力をもつことを自覚する真面目で良心的な教員であればこそ、「子どもに寄り添う立場から、職務命令には従えない」のです。
原告ら教育公務員は、子どもたちの教育に携わる専門職従事者として有する裁量を最大限尊重されなければなりません。
また本件訴訟は、行政に法の支配を徹底するための行政訴訟です。既に、岡田正則教授の意見書と学者証人としての証言が詳細に明らかにしているとおり、本件各懲戒処分は、いずれもその内容と手続の両面において、不備、杜撰なものとして、懲戒権濫用ゆえに、処分取消とならざるを得ません。
さらに、本件訴訟では、二つの国際機関からの「国旗・国歌」強制に疑念を表明する勧告の効力が争われています。日本は、ジェンダー平等においても、子どもの人権においても、死刑問題についても、刑事司法手続においても、国際的には人権後進国になってしまった感を拭えません。担当裁判官には国際的な人権水準を理解してもらい、その擁護を訴えたいと思います。
最後に、私たちが訴えている場である裁判所の体質の問題があります。
行政が人権を侵害し教育を歪めているとき、これを正すのが司法の役割です。公正な裁判のためには、司法の独立が必要です。司法の独立とは、結局のところ、一人ひとりの裁判官が、権力や社会的圧力に屈することなく「法と良心」に基づいて裁判ができるということです。行政や最高裁の意向を忖度する裁判官は失格です。
担当裁判官には、「憲法の番人・人権の砦」たらんと裁判官を志した初心を思い起こしていただきたい。裁判官の使命とは、安易に先例を穿鑿しこれを踏襲することではありません。あるべき憲法理念、憲法秩序、憲法が要請する人権や教育を見極めて、ぜひとも、血の通った道理のある判決をお願いしたい。そう訴えるつもりです。
そして皆さん、私たち主権者がが最高裁裁判官に点を付けて、成績表を渡す機会が近づいています。
10月27日の総選挙の際には、最高裁裁判官の国民審査が行われます。審査対象の裁判官は、6名ですが、私はそのうちの今崎幸彦・中村愼・宮川美津子の3氏に×を付けます。
詳細は、ぜひ日本民主法律家協会のホームページをご覧いただき、最高裁裁判官に批判の×を付けて、主権者からの成績表としてください。
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa24_6.pdf
なお付言すれば、今回注目していただきたいのは弁護士出身の最高裁裁判官です。以前は弁護士出身判事は比較的マシだった。今は様変わりです。安倍晋三第2次政権が発足して、彼が最初に任命した弁護士出身の最高裁判事は、あの木澤克之です。弁護士として何か活躍をしたわけではない。加計孝太郎の同級生で加計学園の監事だっただけの人物。安倍晋三の恣意的な人事の典型の一つです。
その後は、安倍から菅・岸田まで、一弁出身者ばかり。「一弁一弁また一弁」。宮川美津子は連続6人目の一弁出身者。もちろん、人権派とは無縁。典型的な大ローファームの代表で、企業法務の専門家。在野・反権力を真骨頂とする本来の弁護士とは思えません。
(2024年9月5日)
東京新聞の書評欄(9月1日)に原武史の[評]がある。酒井順子『消費される階級』を取りあげて、『「差」と「別」に鋭い視点』とタイトルを付けている。
原武史が『「差」と「別」』と述べれば天皇制についてのこと。「鋭い視点」での、天皇制批判に期待したが、さほどの切れ味はない。
原は、こう言う。『うならされたのは、皇室に対する著者の視点である。「上る」「下る」という京都の地名が示すように、天皇はもともと空間的に「上」の存在だった。明治以降、天皇は日本社会の頂点に君臨するとともに、京都から東京に移ることで「上京」の意味も変わった。そして皇室は戦後もなお、身分制の「飛び地」として維持されたのだ。』
『日本社会にまだ「差」や「別」が多く残っていた時代には、皇室の地位も比較的安定していた。しかし「差」や「別」があってはならないという見方が広がるにつれ、その安定に揺らぎが生じるようになる。
現行の皇室典範は、皇位継承資格を「男系の男子」に限定し、女性天皇も、母親しか皇統に属さない女系天皇も認めていない。一方で世論調査では、国民の8割以上が女性天皇はもちろん、女系天皇にも賛成という結果が出ている。』
酒井の「さらなる平等化に向かっている今、皇室内に冷凍保存されている様々な『差』や『別』は、世間の感覚とかなり乖離しつつあります。皇室を存続させるのであれば、そろそろそのズレをどうにかする時が来ているように思えてなりません」という一文を引いて、原はこう結論する。
「著者のこの言葉は、まさに問題の本質を突いている。身分の「差」と男女の「別」。この「差」と「別」を抱えたまま皇室が首都東京の中心に存在していることの負の側面を、見事に言い当てているからだ。」
ハテ? そうだろうか。 身分の「差」と男女の「別」の対比は、やや分かりにくい。身分の「差」は野蛮な社会が拵えたものとしてその存在自体が不合理なものだが、男女の「別」は生物学的なものでその存在自体が不合理であるはずはない。「夫婦別あり」の「別」は、不合理な社会意識のなせる業ではないか。
身分の「差」を維持しつつの平等の実現はあり得ないが、男女の「別」は必ずしも平等を害しない。身分「差」は絶対悪として身分を廃棄しなければならないが、男女の「別」については、両性の平等を害している不合理な現実を是正しなければならない。
この点に関して、原は「国民の8割以上が女性天皇はもちろん、女系天皇にも賛成という結果が出ている」ことを根拠に、皇位継承資格を「男系の男子」に限定し、女性天皇も女系天皇も認めていない現行の皇室典範を批判する。つまりは、皇室における男女の「別」の存在を批判して、皇室の存在という身分の差を批判せず、むしろ国民世論に追随して存続させようという立論になっている。
原が紹介する酒井の著書の立場は、もっと明瞭に「皇室を存続させるために、世間の感覚とのズレをどうにか修正して、女性・女系天皇を認めるべきだ」と読める。それでよいのか。
憲法14条2項は、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と明記する。人はすべて平等である。一方に「華族・貴族」を認めれば、他方に「賤民・被差別者」を認めることにならざるを得ない。生まれながらの貴い血も、汚れた血もあろうはずはない。人の差別を必要とする社会勢力が、不合理な差別を作り出しているに過ぎない。憲法14条はこれを否定して「華族も貴族も認めない」という。これが日本国憲法の1丁目1番地。
ところが憲法は、「華族・貴族」の存在を否定しながら、その頭目である天皇の存在を認めた。誰が考えてもおかしい、甚だしい矛盾。これが日本国憲法の「飛び地」であり「番外地」。もちろん、憲法起草者としては人畜無害の限りでの天皇の存在を認め、政治的な権能を剥奪された形式的存在に過ぎない、としたつもりではあろう。しかし、身分制度とは、その存在自体が絶対悪と言わねばならない。
結局、酒井も原も、「男女の別」を是正することで「身分の差」を維持しようという論法なのだ。女性・女系天皇を実現することで天皇制の存続をはかろうという立場。私は、その論法に与しない。差別の根源としての天皇制の矛盾は、もっともっと大きくなればよい。誰の目にも耐えがたい不合理として映るまで。国民の大多数が、天皇制そのものを廃棄することによって解決するしかないと考えざるを得なくなるまでに。