澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

『週刊金曜日』に『東京「君が代」裁判5次訴訟判決』の記事。私にできるリベラル危機の打開策として、『金曜日』の購読を呼び掛けます。

(2025年9月5日)
本日は金曜日。昨日配達された『週刊金曜日』(9月5日号)に目を通す。
表紙に大きく特集テーマが、『子どもも大人も 「学校が苦しい」』と印字されている。その右に、白抜きで『東京「君が代」裁判5次訴訟判決』。

7月31日言い渡しの『東京「君が代」裁判5次訴訟判決』(原告15名)について、これだけのページを割いての報道はとてもありがたい。

永尾俊彦記者取材記事の冒頭に、原告らの入廷デモとその先頭の『押し付けないで! 「日の丸・君が代」』の横断幕の写真。判決評価の主見出しは、「減給取り消す一方で、戒告・再処分は容認」「裁判は、生徒への『日の丸・君が代』強制の歯止め」。

「職務命令の真の目的は教員の服従」とタイトルを打った岡田正則・早稲田大学法学学術院教授のインタビュー記事もある。私の取材コメントも。

編集長(吉田亮子氏)後記では、「学校が苦しい」というメインテーマとの関連で、、「実際、教師らの精神疾患による病気休職者数は過去最多で、もっと多いはずという声もある。教師にとって学校が「苦しい」背景の象徴的なものが、「日の丸・君が代」の強制だろう。学校、そして社会が大人にとって「生きづらい場所」であれば、子どもにとっても同じことである。」と述べられている。

それにしても気になったのは、営業スタッフのお一人の大要以下のつぶやき。

 「『週刊金曜日』のスタッフとなって20年。…入社するにあたっては「戦争はイヤだ」の一念だった。反戦ビラを投函したら逮捕・勾留され、教員が「日の丸・君が代」を拒否すれば処分されたその当時、右に振れた座標軸に恐怖を覚えた。戦争が始まるのではないか? そんな状況から脱するためにはどうすれば良いのか? そのために自分のできること、それは『週刊金曜日』の部数を伸ばすことではなかろうか? そんな思いに至って「金曜日」の門をたたいた。
 そして20年、この国の劣化は記すまでもない。世の中の座標軸は右に振り切って付け足しても追いつかない始末。そして本誌の部数も息絶え絶えだ。これまでも本誌の部数は緩やかに減少を続けてきたが、「原発事故」や「朝日新聞攻撃」等の際、回復の兆しを示すことがあった。この危機の最中、その兆候は見られない。いま何かをしなければともがく毎日だ。」

ウーン。右翼の雑誌があんなにも幅を利かしているのに、「週刊金曜日」の部数は危機のさなかなのか。リベラルの危機が『週刊金曜日』の危機をもたらしているのだろうが、『週刊金曜日』の危機の座視は、さらなるリベラルの衰退をもたらしかねない。私にもできることとして、同誌の購読を呼び掛けたい。

今号(9月5日号)の他の主な記事は、以下のとおり。
「長生炭鉱続報 83年の苦難、海底から」「国は過ちを繰り返すな」「頭蓋骨も大腿骨もここで生きた証しを語り始めた」本田雅和

「ホー・チ・ミン「独立宣言」の意味を考える」「80年前の9月、ベトナムは日本の植民地支配から独立した」 中村梧郎

「詩人 金時鐘インタビュー」「日本の敗戦80年は、同時に朝鮮分断80年」 聞き手/西村秀樹

経営側に、田中優子・崔善愛・想田和弘・雨宮処凛など。そして常連の投稿者として青木理・内田樹・浜矩子・辛淑玉・阿部岳・北野隆一・半田滋・中山千夏等々。

購読申込みは、下記URLから。
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購読期間1年(48冊)の定期購読料が 28,800円(1冊当たり600円)である。

ご購読の程よろしくお願いします。危機に瀕したリベラル救済のために。

星条旗の焼却は国家に対する批判の象徴的行為であり、「日の丸・君が代」不起立は国家に対する敬意表明の消極的拒絶である。アメリカでは星条旗の焼却は不可罰とされたが、我が国の最高裁は不起立への処分を違憲としなかった。このコントラストは民主主義の成熟度の相違として、最高裁の姿勢を批判せざるを得ない。

(2025年8月28日)
 昨日(8月27日)の朝刊を開いたら、気になる見出しが目に飛び込んできた。
「国旗燃やしたら訴追」
 あのトランプが、司法長官に対して国旗焼却者を訴追すべく指示する大統領令に署名したという。日本では、いや、検察部門を司法の一部と考える民主主義国家では考えがたい乱暴な為政者の振るまい。

 現地時間での8月25日に大統領令に署名して、記者に語ったのは、以下のような内容と報じられている。いかにも、トランプらしい語り口。
 「米全土・そして世界中で米国旗が燃やされている」「米国旗を冒涜することは、我が国に対する侮蔑・敵意・暴力の表明だ」「国旗を燃やすことは、暴動を扇動することだ」「米国旗を燃やす連中は、左翼から金を」「国旗を燃やせば、1年間の収監だ」

 続報をネット検索して驚いた。その大統領令署名直後に、これに抗議した活動家が、ホワイトハウスに隣接した公園で、国旗を焼いて逮捕されたという。ならず者トランプの横暴があり、これに必死で抵抗する人たちもいる。これが今のアメリカなのだ。

 報道では、男はホワイトハウスに隣接するラファイエット公園で拡声器を使って、「この家(ホワイトハウス)に居座っている違法なファシスト大統領への抗議として、この旗を燃やす」と叫んだ。20年務めた退役軍人を自称するこの男は、「私は皆さんの表現の権利の一つ一つのために戦ってきた」「大統領が何と言おうと、この旗を燃やすのは、合衆国憲法修正第1条で保障された権利だ」と訴えたという。

 周知のとおり、ベトナム反戦の嵐の時期、徴兵カードを焼いたり、国旗を焼く、というかたちの国家への抗議行動が米各地に蔓延した。国旗の尊厳を守ろうとする各州法の「国旗冒涜罪」が、この行為を取り締まった。

 しかし、連邦最高裁は1989年、国旗を焼却したり破損したりする行為に関し、「表現の自由として保護される」との判断を下した。その後、連邦議会は国旗の焼却や破損を犯罪とする法律を成立させたが、最高裁は翌90年にこの連邦法を違憲と判断して、同法による刑事訴追を無効とした。トランプはこの連邦最高裁の判断を覆したいと執念を燃やしているようなのだ。

 著名な判決の一つが、テキサス州法違反を無罪としてジョンソン事件であり、最終決着をつけたのが、連邦法である「国旗保護法」違反の起訴を無罪としたアイクマン事件である。

これらの判決理由の中に、次のようなくだりがある。
 「政府が象徴としての国旗を保護すべく努力する正当な利益を有するとしても、それは政治的抗議として国旗を焼却した者に刑罰を科すことが許されるということを意味するものではない。国旗冒涜を処罰して国旗を神聖化することは、国旗という表象が表している自由を希薄化することになる。」

 この一文は、「政府が象徴としての国旗を保護すべく努力する」ことを「正当な利益」と認めつつ、「国民が政治的抗議の意思の表明として国旗を焼却することを許容する」と言っている。つまりは、《国旗が象徴する国家の尊厳という価値》よりも、《国家を批判する象徴的行為としての国旗焼却の自由の価値》が優越すると判断している。

 また、こんな最高裁判事の「つぶやき」もある。
 「痛恨の極みではあるが基本的なこととして、国旗は、それを侮蔑し手にとる者をも保護しているのである。」
 これは含蓄に富む。私たちが敬意を持ち続けてきたアメリカの自由主義や民主主義の懐の深さを表している。

 この判事にとっては、国旗を焼かれたこと、あるいは国旗を焼いた者を処罰できないのは「痛恨の極みではある」が、米の国旗が象徴する自由とは、政治的意見の表明としての国旗焼却の自由を含むのだから、処罰はできないのだ。

 国旗は国家の「象徴」であり、これを焼却する行為は国家を批判する「象徴的行為」である。
 分かり易いのは、「ハーケンクロイツ」であろう。これは、ナチスが掲げる全体主義・優生思想・アーリア人至上主義・ホロコーストを象徴する。そして、この旗にたいする敬礼は、全体主義を礼賛する象徴的行為である。

 「ダビデの星」は、かつてはナチスによるホロコースト被害の悲劇的な象徴であった。そして今、同じ紋章がガザ虐殺加害の象徴になりつつある。

 「星条旗」は、長く自由と民主主義の象徴として敬意の対象であったが、ベトナム戦争以来大国の横暴や虐殺の象徴となり、今トランプの反知性・排外主義・独裁の象徴となっている。この国旗の尊厳は地に落ちた。トランプ自身が述べたとおり、今や全世界で侮蔑の対象としての象徴性を持っている。

 翻って、「日の丸・君が代」はどうだろうか。この旗の歴史は浅いが、維新以来の70年間、侵略戦争・植民地支配・神権天皇制・天皇制ファシズム・富国強兵・滅私奉公・差別容認の象徴となってきた。要するに「日本国憲法の理念に真反対の理念の象徴」なのだ。この象徴への敬意表明という象徴的行為が、起立斉唱にほかならない。

 アメリカにおける国旗焼却とわが国における起立斉唱強制と。いずれも国家という象徴をめぐっての象徴的行為の許容と強制の問題である。
 国旗焼却は、民衆の側からの国家に対する批判の象徴行為である。連邦最高裁は、これを不可罰とした。一方、起立斉唱は、国家への敬意表明の象徴的行為の強制であるところ、我が国の最高裁はこれを合憲とした。彼我の対照が鮮やかである。
  
 国旗焼却を不可罰とすることは、国家の在り方についての意見の多様性を容認する姿勢を表している。これに対して、起立斉唱の強制は、国家大事という一元的見解に服すべく強要し統制する権力行使を容認する姿勢の表明である。我が国の最高裁の姿勢を情けないとしか評しようがない。

 もっとも、連邦最高裁も、ならずものトランプの意に沿う存在に堕してしまえば、お互い情けなさを慰め合うしかなくなってしまうことになるのだが、まさかそんなことはなかろうと思いたい。

貴重な戦後80年の継続である。けっして、再びの戦前としてはならない。

(2025年8月15日)
 戦後80年目の8月15日である。80年前の今日、無謀で無益な戦争がようやく終熄して旧天皇制国家が事実上崩壊した。そして、まったく新たな原理に基づく新生日本が誕生した。「戦前」が終わって「戦後」が始まった、その節目の日。それ以来の80年の年月は、そのまま私の人生の年輪と重なる。

 1945年8月15日以前、この国はまことにいびつな神なる天皇が支配する宗教国家であった。日本国民は、神であり主権者でもある天皇に仕える「臣民」でしかなかった。遙かな昔、天皇の祖先神がそのように決めたからだという無茶苦茶な根拠。維新の藩閥政府は荒唐無稽なカルト天皇教の教理をもって日本国民を洗脳することに成功していた。

 天皇教の経典はいくつも拵えあげられた。その主要なものとして、軍人勅諭・教育勅語・國體の本義・臣民の道などが挙げられる。修身や国史の国定教科書も同類で、全国の訓導が学校で天皇教の布教師となって、子どもたちを洗脳した。

 天皇教の現人神でもあり教組でもあった天皇自身の好戦性著しく、自ら大元帥となって侵略戦争と植民地支配に血道を上げた。神なる天皇が唱導する戦争は聖戦である。聖戦は正義である。正義の聖戦が負けるはずはない。

 こうして天皇の赤子たる臣民は、赤紙一枚で侵略戦争に駆り出され、皇軍の一員として近隣諸国の民衆に諸々の残虐行為を重ねた。天皇教の教義は、徹底した皇国ファーストの排外主義・差別主義でもあった。

 もっとも臣民の100%が洗脳されたわけではない。理性をもって天皇教の洗脳に抗った人には、容赦ない野蛮な弾圧が待ち受けていた。その法的道具が、大逆罪であり、不敬罪であり、治安維持法であり、軍刑法等々であった。天皇は一面、恐怖の神でもあった。

 1945年8月15日、国の内外に夥しい死体の山を積み上げて、血生臭い天皇支配の時代がようやく終わり、戦争の時代から平和の時代へと移行した。同時に、滅私奉公を強いた国家ファーストの時代から個人の尊厳を重んじる時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、野蛮な専制の時代から人権と民主主義の時代に、世は確実に遷った。

 この日、日本が受諾を公表したポツダム宣言第6条は、以下のとおりである。
 「我らは、無責任な軍国主義が世界より駆逐されるのでなければ、平和、安全及び司法の新秩序が生じ得ないことを主張しているから、日本国国民を欺瞞して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者の権力及び勢力は、完全に除去されなければならない。」

 「無責任な軍国主義」「日本国国民を欺瞞して道を誤らせ、世界征服に乗り出させた者」とは、臣民を戦争に駆りたてた天皇とその取り巻きの軍部や政治勢力のこと以外にはあり得ない。ポツダム宣言は、これを「完全に除去されなければならない」と言い、日本はこれを受諾しているのだ。

 だから、1945年8月15日は、朝鮮・中国の人々にとってだけでなく、日本の民衆にとっても慶賀すべき臣民からの解放の祝日なのだ。ただし、当然のことながら、目出度いと言えるのは、この戦争で生き残った人だけのこと。駆り出されて侵略に加担した者ではあっても、その戦没の悲劇は直視しなければならない。

 産経新聞の報道によると、自民党の保守系グループ「伝統と創造の会」(会長・稲田朋美元防衛相)が終戦の日の本日、東京・九段の靖国神社を参拝した。「伝統と創造の会」とは、察するところ「歴史修正主義の伝統」と「新たな戦前の創造」の意であろう。

 その稲田は参拝後、記者団の取材に応じ、「前途ある青年たちの命の積み重ねの上に、今の豊かな繁栄する日本がある」「命をかけて、命をささげて家族や地域、国を守ろうとした英霊の皆さんに感謝と敬意を表することができない国というのは、国を守れない」「いろいろな考え方があるが、やはり戦後レジームの脱却の中核は東京裁判史観の克服だ」などと語っている。そりゃオカシイ。

 「命をかけて家族や地域、国を守ろうとした英霊の皆さん」の働きのお陰で、平和と民主主義の時代が開けたのではない。彼らが考えた方法では、何も守ることはできなかった。彼らに表すべきは、「感謝と敬意」ではなく、その義性の痛みへの共感でなくてはならない。

 あの大戦は、我が国未曾有の大事件であった。しかし、この国は、国として、この上ない惨禍をもたらしたあの戦争の原因も、責任の所在も、明らかにすることなく今日に至っている。だから、未だに戦犯(裕仁)の孫が、自分には何の責任もないごとくに「さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」などと原稿を読んでいる。もちろん、加害責任への言及はない。80年前、変わったはずのものが未だにこの程度か、という落胆は避けがたい。

 しかし、国民の戦争を忌避する意識は強い。我が国は戦後80年を戦争をせずに過ごしてきた。不戦を誓った「平和憲法」は、一字一句も改定されることなく無傷のままである。日本の将来に、希望と自信をもとう。戦後80年は、私自身の人生でもあるのだから。

事態は深刻である。民主主義が正常に機能するための条件整備が必要なのだ。いかに迂遠であろうとも。

(2025年7月21日)
 惨憺たる参院選の開票結果である。なんとも虚しい限りの民主主義。社会が壊れかけている感がある。この世の行く末を案じざるを得ない。

 参院は、良識の府ではなかったか。選挙は、その良識を具現する手続ではなかったのか。民主主義の美名を汚し、排外主義を競い合う場にしてしまったのは、いったい誰の責任なのか。

 高校生だった昔の記憶がよみがえってくる。熱心な英語の先生が希望者を募って、課外で原書の購読をやってくれた。その教材が、バートランド・ラッセルの《What is Democracy?》だった。60年安保直後のころ。当時、まだラッセルは生きて活躍していた。

 細かいことはすっかり忘れたが、その内容が刺激的だったことだけはよく覚えている。それまで、民主主義とは疑いもなく素晴らしいもので、この世に民主主義さえあれば明るい未来が開けると教えられていた。民主主義こそが万能薬という思い込みを真っ向から否定する論旨だった。

 戦前には民主主義がなかったから、国民の自由は奪われ、貧困が蔓延し、侵略戦争が起こって国の内外にこの上ない惨禍がもたらされた。その反省から、日本にも民主主義が導入された。だから、もう大丈夫。国民の自由が奪われることも、貧困が蔓延することも、侵略戦争が繰り返されて国の内外に惨禍をもたらすことも、もうない。民主主義万歳だ。そんな楽観論を、ラッセルの書は、打ち砕いた。

 ラッセルが説いたのは、民主主義が正常に機能するには、それなりの前提なり条件が必要だと言うことであった。その条件が調わないところでの似非民主主義は、権力に正当性を付与するだけの手続に堕する。無益というだけではない。時として、民主主義は危険な権力を生み出す。当然といえば当然のことだが、選挙結果に拝跪してはならない。果たして選挙に表れた民意は正しいか、常に心しなければならない。

 選挙が民主主義の全てではないが、あらためて選挙が正常に機能する条件とはなんだろうか。ラッセルが説くところではなく、昨今の事態を考えたい。
 大きくは、下記の2点に収斂されるのではないだろうか。
 (1) 有権者に提供される選挙情報の正確性の保障と、
 (2) 選挙情報を咀嚼して的確な投票をする有権者の判断能力

 (1)は、主としてはメディアの問題である。文字メディア、放送メディア、ネットメディア、マスメディア、ミニコミ、そして口頭の発言、意見交換…。ごく最近まで、その主流は、新聞とテレビの報道であった。その情報の送り手は、それなりの質を備えていた。有権者が受け取る情報の信頼性は比較的に高いものと前提されていた。

 ところが、ネット文化が一般化されるにつれて、事態は大きく変わってきた。新聞の購買数が激減してきた。若い世代はテレビも視ないという。選挙情報の主役はは、SNSやYouTubeに変わりつつあるという。明らかに、選挙情報の正確性は劣化している。むしろ、デマやフェイク、煽動の情報が有権者に届けられている。

 (2)は、このような劣化した情報の受け手である有権者が、それでも的確な判断ができる能力を備えているのかを問うている。ことは学校教育の質の問題であり、意見交換を重ねての世論を形成する文化に関わる問題である。残念ながら、有権者の能力は不十分極まるとしか言いようがない。

 とすれば、民主主義が正常に機能する条件の成熟はない。むしろ、急速に悪化している。それが、異常な兵庫県知事選挙や、今回の排外主義選挙になっている。明らかなデマとフェイクと煽情的な言動が、有権者のもとに繰り返し届けられ、煽動者の意図に有権者が操られている危険な構図が現実のものとなっている。

 煽動者の狙いは、有権者の不安な心情に付け入り、デマとフェイクと短絡的なキャッチフレーズで、攻撃の対象となる「敵」を作り出すことにある。ポピュリズム政治の通例である。人権という理念や、あらゆる差別を許さないという信念を内面化していない有権者は、ポピュリズム手法に惑わされることになる。

 この危険な事態を何とか是正しなければならない。民主主義を正常に機能させるために、愚直に、繰り返し、デマ情報に警告を発し、排外主義の危険性を訴えていきたい。

参政党・神谷宗幣の演説に見える《歴史修正主義・反共主義・國體擁護、陰謀論、そして教育への介入願望》

(2025年7月19日)
 第27回参院選投票日を明日に控えた本日、毎日新聞夕刊社会面トップの下記の見出しが目に飛び込む。

《史実無視「陰謀論」の典型》《参政党の歴史認識 演説を識者と検証》《「被害者意識」膨らませる手法》

 参政党のデマに対するファクトチェックの集大成と言ってよい内容。参政党の体質や歴史認識を手際よく紹介し批判している。栗原俊夫記者が山田朗教授の見解をまとめたもの。信頼に足りる記事であり、考えさせられる。明日の選挙では、こんな輩が「躍進する」という事態の深刻さを嘆かざるを得ない。

 この記事の検証対象となっている参政党・神谷宗幣の演説内容は、以下の4章句である。

<(日本は)中国大陸の土地なんか求めてないわけですよ。日本軍が中国大陸に侵略していったのはうそです。違います。中国側がテロ工作をしてくるから、自衛戦争としてどんどんどんどん行くわけですよ>

<日本も共産主義がはびこらないように治安維持法って作ったんでしょ。(中略)悪法だ、悪法だっていうけど、それは共産主義者にとっては悪法でしょうね。共産主義を取り締まるためのものですから。だって彼らは皇室のことを天皇制と呼び、それを打倒してですね、日本の国体を変えようとしていたからです>

<大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争ではありません。真珠湾攻撃で始まったものではありません。日本が当時、東条英機さんが首相でしたけど、東条英機を中心に外交で何をしようとしてたかというと、アメリカと戦争をしないことです。そして、中国と和平を結ぶ。当時、中国ってないですけどね、支那の軍閥、蔣介石や毛沢東、張学良、ああいった人たちと、いかに戦争を終わらせるか、ということをやるんだけど、とにかく戦争しよう戦争しようとする人たちがいるわけですよ。今も昔も>

<(共産主義者は国体を)自分たちだけでは変えられなかった。彼らは何をしようとしたか。政府の中枢に共産主義者とかを送り込んでいくんですね。スパイを送り込んでいくんですね。そして日本がロシアや中国、アメリカ、そういったところと戦争をするように仕向けていったんです。ロシアとされると困るんです。旧ソ連ですね、ソ連は共産主義だから。じゃあアメリカやイギリス、そのバックアップを受けている中国とぶつけよう。それで日本は戦争に追い込まれていったという事実もありますよね。教科書に書いてないですよ。なぜか。戦後の教科書は、彼らがチェックしてきたからです。こういうことをちゃんと、国民の常識にしないといけない>

 驚いた。これ、ドラマの中のセリフでも、ものを知らないオヤジが飲み屋で喚いた戯言でもない。一党の代表が、白昼の街頭でマイクを握って、人に聞かせている内容なのだ。安倍晋三だって、これほどひどくはなかったろう。

この中に見える主張を整理してみる。

1 日本は中国を侵略していない。中国側のテロ工作に対して、日本軍は自衛戦争をしただけ。(悪いのは中国、日本は悪くない)

2 大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争ではない。日本は対米・対中外交で和平を追求していたが、「戦争しようとする人たち」のせいで開戦になった。(日本は悪くない)

3 共産主義者は天皇制を打倒して日本の国体を変えようとしていた。共産主義を取り締まる治安維持法を悪法というのは共産主義者にとってだけのこと。(悪いのは共産主義)

4 共産主義者は政府の中枢にスパイを送り込んで、日本がロシアや中国、アメリカと戦争をするように仕向けた。それで日本は戦争に追い込まれていった。(悪いのは共産主義、日本は悪くない)

5 以上のことは教科書に書いてない。なぜか。戦後の教科書は、「彼ら」がチェックしてきたから。こういうことを国民の常識にしないといけない。

 まとめてみれば、ありきたりの歴史修正主義(侵略戦争否定)・反共主義・國體擁護、陰謀論、そして教育への介入願望である。どうして今ごろ、こん手垢のついた愚論が、有権者の一部に浸透していると言われるのだろうか。不思議でならない。

 戦後80年を経て、日本の国民が戦争体験を忘れつつあるのではないだろうか。何があの戦争の惨禍を生み出したのか、真剣に歴史を紐解き歴史の真実から学ぼうとする姿勢が過去のものとなりつつあるとすれば、事態は深刻である。

 毎日記事は、次のように述べている。

 「近現代史を巡る(参政党の)歴史認識には、戦後歴史学が積み上げてきた研究成果を、全否定するような主張も目立つ。」

 「こうした歴史認識について、山田教授は「戦争は『共産主義者』の陰謀という見方は、戦前から存在する典型的な陰謀史観。事実認識としては全く誤っている」と指摘する。」

 「なぜ、こうした「陰謀論」が公然と語られ、また、影響力を持ち続けるのか。山田教授は「真面目な歴史学や地道なジャーナリズムの成果が、出版や教育を通じて一般化されておらず、歴史的事実を無視した極端な議論が『面白い』『新しい』と受け取られてしまう状態が広がってしまっている。戦後80年の節目に、こうした状態を転換したい」と話している。」

 
 戦後80年の夏は、暑苦しく、重苦しい夏になりそうである。排外主義者の主張が歴史修正主義とだけでなく、反共や國體擁護論と結びついていることを確認して、何故あの戦争が起きたのかを考える夏としなければならない。

黙っていてはいけない。声をあげよう、後悔しないように。排外主義は、あらゆる差別の引き金になる。そして、平和と国際協調を危うくする。

(2025年7月17日)
 最近、マルティン・ニーメラーの警句の引用が、あちこちに目につく。不気味なことだが、そういう時代の空気なのだ。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。
 そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

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「100年前、治安維持法が成立したとき、私は喝采した。國體に弓を引く非国民を取り締まるのだから、皇室と神国の弥栄のために万歳と思ったのだ。
 特高が最初共産党を攻撃し、共産党員を拷問で殺したとき、愉快とは思わなかったが私は声をあげなかった。世の中の空気を読んだこともあるが、私は共産主義者ではなかったから。
 労農派の政治家や学者グループが一斉検挙されたときも、私は声をあげなかった。私は主義者でも活動家でもなかったから。
 それから、労働組合や宗教者が弾圧され、学校の先生たちが酷い目に遭い、出版社も文学者も、最後には弁護士までもが逮捕されて、国民の権利を護る者がいなくなった。それでも私は、黙り続けた。時局が時局だから仕方がないと思ったから。
 そして、戦争が始まり、ものを言う自由などまったくなくなった。
 私が間違いを悟って前非を悔いたとき、國體も神国も消滅し、国土は焦土と化していた」

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 「最初、排外主義政党がインバウンドや在日を攻撃したとき、私は拍手を送った。私は日本人なのだから。
 次ぎに、排外主義政党の矛先が共産党に向けられたとき、私は意外には思ったが、声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
 さらに、排外主義者たちの標的が、フェミニストや、LGBTや、障害者に拡がったとき、私はこれはまずいと思ったが、声をあげなかった。私自身はフェミニストでも、LGBTでも、障害者でもなかったから。
 排外主義者たちの大声が、「國體を擁護せよ」「女系天皇に反対する非国民を撲滅せよ」と叫び始めた時、私はこれはそれは違うと思ったが、声をあげなかった。とても、声を上げられる空気ではなかったから。
 キナくさい世の中になって私は排外主義政党への投票を後悔した。しかし、ときはすでに遅かった。到底、声を上げることなどできはしない」

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「戦後80年目の夏の参院選が転機だった。
 その選挙に外国人ヘイトと排外主義を競う風が吹いた。私も、排外主義政党に一票を投じた。インバウンドは不愉快だったし、日本人の賃金が上がらないのは外国人のせいで、彼らは不当に優遇されていると煽られたから。なにかが変わると期待したんだ。
 その後間もなく、日本人ファーストや排外主義の背景に、國體思想があることを教えられた。日本人が特別な民族であるのは、いにしえより悠久にこの國をしらす天皇の存在あればこそなのだ。だから、日本人ファーストは当然だ。
 日本人が日本人として胸を張れるのは、万世一系の天皇の貴い血筋が男系男子に連綿と嗣がれているからだ。家父長を中心として一家があり、天皇を家父長とする一国がある。女系天皇などとんでもない。ジェンダー平等なんて日本の国柄に合わない。そのときは、本気でそう思ったんだ。
 日本民族は、血を同じくする家族共同体で、血の繫がらない外国人が排除され、差別されて当然ではないか。皇室という貴い血を認めれば、生まれ、血筋、家柄、門地による差別を認めざるを得ない。外国人差別は、あらゆる差別に拡大した。
 外国人差別や排外主義は、結局のところ近隣諸国との戦争準備だと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。日本人ファーストの政策で、結局私に何の得るところもなかった。ただ、平和と国際協調が危うくなっただけ。 もう遅い? いやまだ、遅すぎることはないだろう」

「自党ファースト」の参政党が、TBS『報道特集』に偏向報道攻撃。これは、排外主義批判報道の萎縮を狙った不当な選挙戦術ではないか。

(2025年7月16日)
 参院選の投票日が間近である。選挙情勢の分析やら予測やらの報道がしきりである。前回参院選は2022年7月10日だったが、当時とはまったく様変わりの選挙情勢だという。
 3年前の選挙直前の7月8日、安倍晋三元首相が銃撃されて政治地図が大きく塗り替えられるきっかけとなった。
 そもそも、自民党とは穏健保守から極右までの幅広い政治勢力の緩やかな連合体である。財界の権益擁護派もあれば、農民漁民の利益代表もある。宗教右翼に票田をもつ政治家も、国防族も文教族も外交族も、そして皇国史観や排外主義のイデオロギーにまみれた戦前回帰派まで多様な国民政党として長く政権を担ってきた。
 私が岩手で過ごした10年間余における地元の自民党県連の印象は悪くない。むしろ、地元の民意を汲んで中央の政界と対峙しようという姿勢すら感じさせて、これは手強いという思いが強かった。
 安倍晋三という、けっして保守本流とは言い難い極右政治家が長期に党内権力を握った自民党は、明らかにバランスを欠いた右翼政党になっていた。その安倍晋三亡き後、彼を支えていた党内右翼や有権者右翼はどうなったか。重心を穏健保守に移した自民党に飽き足らない彼らは、党外に流出したのではないか。最近の世論調査や、選挙結果からは、そのように見える。
 財政、税制、外交、保健・福祉・経済振興、政治への信頼…。あらゆる側面での安倍政治の負の遺産に後継の自民党が苦慮している現状を好機として、極右諸政党が安倍支持勢力の受け皿を競っている。

 安倍後継を狙う極右勢力のスローガンは、反共と排外主義である。
 その中で、最も突出しているのが、参政党であるという。これに比較すると自民党などは、随分と礼儀正しく、真っ当に見える。こんな真っ当ならざる政党を大きくしてはならない。

 参政党は、「日本人ファースト」を呼号する。日本人と非日本人とを分けて、非日本人はセカンド以下の扱いとする。同じ社会に暮らす人間に、ファーストもセカンドもあり得ない。この人種や民族による差別は、排外主義として平和や国際協調の障害となる。さらには、血筋や門地に基づく差別の容認につながる。
 
参政党のホームページを覗いてみたら、「TBS『報道特集』の偏向報道に関する申入れと今後の対応について」と題する、お知らせが目に入った。2025.7.14付けである。その全文が以下のとおり。

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「令和7年7月12日にTBSテレビ『報道特集』で放送された特集企画「外国人政策も争点に急浮上〜参院選総力取材」は、当党の外国人政策について、著しく公平性・中立性を欠いた内容でした。

これに対し、当党はTBSに対し、放送内容の可及的速やかな検証と訂正を求める申入書を提出しました。しかし、TBS側からは以下の通り、「公益性・公共性のある報道である」として、構成の公正性や取材姿勢の偏りといった本質的な問題点には一切触れない回答が寄せられました。

極めて遺憾ながら、こうした対応により、当党と放送事業者との間で、BPO放送人権委員会の申立要件にあたる「相容れない状況」が生じたと判断し、正式に同委員会への申立てを行うことといたしました。

当党は今後も、政治的公平性を損なう報道に対して毅然と対応し、民主主義の根幹である言論の自由と公正な報道の確保を強く求めてまいります。有権者の皆様におかれましても、引き続き本件にご注目いただけますようお願い申し上げます。

■報道特集回答
申⼊書への回答をお送りします
今回の特集は、参政党が⽀持を伸ばす中、各党も次々と外国⼈を対象とした政策や公約を打ち出し、参院選の争点に急浮上していることを踏まえ、排外主義の⾼まりへの懸念が強まっていることを、客観的な統計も⽰しながら、様々な当事者や⼈権問題に取り組む団体や専⾨家などの声を中⼼に問題提起したものです。
この報道には、有権者に判断材料を⽰すという⾼い公共性、公益性があると考えております。ご理解いただきますよう宜しくお願い致します。
2025年7⽉14⽇TBSテレビ『報道特集』

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 この番組を視ていない者には、何が問題なのかさっぱり分からない。「当党の外国人政策について、著しく公平性・中立性を欠いた内容でした」では、さっぱり迫力に欠ける。第三者の共感も得られない。これでは抗議の体をなしていない。ともかく気に入らない放送だったから、今後のために、牽制の一言しただけのこととしか考えられない。
 いったい、『報道特集』が参政党の外国人政策について、具体的に何を報じたのか。著しく公平性・中立性を欠いた内容とは微妙な言い方である。「事実無根で、真実性に欠ける内容」とは言わないのだ。いったい何をもって、「著しく公平性・中立性を欠く」と言うのか、その特定は参政党側にある。

 これに対する、「報道特集回答」が、「今回の特集は、…排外主義の⾼まりへの懸念が強まっていることを、客観的な統計も⽰しながら、様々な当事者や⼈権問題に取り組む団体や専⾨家などの声を中⼼に問題提起したものです。」となっているのは、堂々たる回答ではないか。

 「TBS側からは…、『公益性・公共性のある報道である』として、構成の公正性や取材姿勢の偏りといった本質的な問題点には一切触れない回答」という参政党の「反論」は当たらない。どこにどのような構成の公正性にかかわる問題があり、なにゆえに取材姿勢の偏りがあるというのか、まったく明示していないのだから、これ以上の回答は出てくるはずがない。むしろ、具体的に指摘することは、自らの墓穴を掘ることになると恐れているとの推察も可能である。

 「当党は今後も、政治的公平性を損なう報道に対して毅然と対応し、民主主義の根幹である言論の自由と公正な報道の確保を強く求めてまいります」には、苦笑せざるを得ない。公平に見て、次のようなところだろう。 

 「我が党は、今後とも『政治的公平性を損なう』という口実のもとに、我が党を批判する報道の自由はけっして認めず、我が党に不都合な報道に対しては徹底して強い抗議の姿勢をもって対応し続けます。一方、我が党の肩をもつ報道には、民主主義の根幹である表現の自由の大原則を根拠として、その擁護に全力をあげ、揶揄や批判を許しません。さらに、我が党が他党を批判する言論と、我が党の持論である排外主義と國體賛美の主張についての批判も許さず、『参政党ファースト』の姿勢を強く貫いてまいります」

 結局のところ、自党への批判の報道の萎縮を狙った不当な選挙戦術と言うべきであろう。TBSにこそ、報道の自由を堅持し国民の知る権利に応える毅然たる姿勢を期待したい。TBSだけにではなく、全てのジャーナリズムに。

臣石田和外詠めり 「元号法ができたから6月6日は天皇制危機回避記念日」

(2025年6月6日)
1979年6月6日元号法が成立した。その全文が下記のとおり。

1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

 附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

たったこれだけの法律である。もとより元号使用強制の根拠とはなりえていない。これだけの法律の制定に右翼陣営は総力をあげた。天皇制の礎の貴重な小道具の一つが崩れることへの危機感があったからだ。伝統右翼、生長の家、国際勝共連合、神道政治連盟、神社本庁等々をとりまとめたのが、元号法制化実現国民会議。その議長が、第5代最高裁長官だった石田和外である。戦前は思想判事として知られ、生涯「ぞっとするほどの天皇主義者」であり続けた人物。

石田は、1979年5月9日に亡くなっている。 同年6月6日には、泉下で元号法の成立と天皇制危機回避を喜んだことであろう。こういう輩が、最高裁長官なのだ。

もともと元号は、古代中国の専制君主がでっち上げたもの。「皇帝は時をも支配する」とのイデオロギーの産物である。皇帝が新たな時のはじめである元(年)を定めて、新たな時に名前をつける。これが元号。元号の使用は、皇帝への服属を意味した。古代日本はこれを真似た。そして近代日本は「一世一元」を採用した。こうして、天皇の統治と、臣民の「時の記憶」が重ねられることになった。

元号は天皇の治世には不可欠のアイテムではあったが、今やアナクロニズムの象徴。日常生活にも、ビジネスにも不便この上ない。何しろ、いつまで続くか、いつリセットされるか分からない。今日の元号が明日も続く保証はないのだ。不便だけでなく、国際関係との共時感覚を麻痺させ、独善日本の形成の要因ともなりかねない。

こんな不便この上ない欠陥表記方法の強制はやめさせようと言い続けているのが、
「西暦表記を求める会」
https://seirekiheiyo.blogspot.com/p/blog-page_15.html

ぜひ、ホームページを覗いていただきたい。なかなかの充実ぶりである。

6月4日である。36年前の今日、人民解放軍が人民を標的に発砲した。撃たれたのは、天安門広場に集まった市民だけではない。民主主義も人権も、社会主義に対する信頼も撃たれて深く傷ついた。私も撃たれた。私の中の根拠のない信仰が直撃されて吹き飛んだ。

(2025年6月4日)
 1989年6月4日早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「人民からは針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の人民解放軍であった。人民から生まれ、人民とともにあるはずの人民解放軍。その人民解放軍が人民に銃を向け発砲したのだ。何のためらいもなく、容赦なく。

 天安門広場に集まった大群衆は、党と国家の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権という文明の普遍的価値も虐殺された。以後、中国は民主主義や人権とは無縁の野蛮国となる。そして人民解放軍は、人民の軍ではなく、党幹部の私兵となった。

 あの日、私の中で撃たれて崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。いま、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。

 中国共産党は、民主化を求めた人々の運動を『反革命暴乱』とし、「党と政府は旗幟鮮明に動乱に反対して社会主義国家の政権を守った」と言っている。中国共産党にとって、人民の民主化運動は『反革命暴乱』なのだ。

 この衝撃の「事件」だけでなく、事後の対応にも許しがたいものがある。我々が、日本の保守勢力を「歴史修正主義」と非難していることを、中国共産党もやった。事件そのものがあたかもなかったごとくに、事実を語る言論は統制され、歴史は塗り替えられようとしている。これが天安門以後の中国共産党の実像である。

 そして、さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、腕力において劣勢を免れない。

 習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。

憲法は卵(鶏卵)に喩えられる。大事な人権が黄身(卵黄)であり、これを包んで護る白身(卵白)のごとくに統治機構がある。では、天皇は卵のどこに位置する?

(2025年5月26日)
 先日、政教分離の意味するところについて私見を報告する機会を得た。その話の中で、憲法を卵の構造に喩えて政教分離と信仰の自由との関係の説明を試みた。大要、以下のとおり。

 政教分離は、それ自体が重要な憲法原則ではありますが、あくまで手段的価値に過ぎません。手段としての政教分離が支えている目的的な憲法価値は信仰の自由という人の精神の核心に関わる基本的人権です。究極の価値としての精神的自由を擁護するために、権力をもつ側に課せられている準則が政教分離。この関係が、制度的保障という言葉で表現されています。

 このような、人権と制度の関係はいくつもあります。たとえば、学問の自由と大学の自治。表現の自由と検閲の禁止。平和に生きる権利と戦争の放棄・戦力不保持。

 むしろ、個別の権利と制度の関係というよりは、憲法の全体構造が、究極の目的的価値としての人権と、この人権を保障する手段的価値を担う諸制度からできていると言ってよいと思います。

 憲法全体の構造の比喩として、卵をイメージしてください。白身(卵白)に包まれ、白身に護られて、卵の真ん中に大切な黄身(卵黄)が位置しています。黄身(卵黄)が人権で、人権を護るための手段と位置づけられている白身(卵白)にあたるものが統治機構です。

 オーソドックスな憲法の構造の理解は、「人権」と「統治機構」の2部門からできています。つまり、黄身と白身です。壊れやすく大切な人権という黄身(卵黄)は個人の尊厳を核心として精神的自由や経済的自由、生存権や参政権などからできています。これを守るために、白身が包んでいる。そっと優しく黄身を支え、人権への攻撃を身を挺して護るのが白身の役目。これがちょうど人権と統治機構の関係にほかなりません。

 しかし、実のところ、黄身(卵黄)にとって最も危険なのは、白身(卵白)を構成する権力にほかなりません。そこで、白身が黄身を傷付けることがないようにいくつもの工夫がほどこされています。法の支配、立憲主義、民主主義、選挙、三権分立、二院制、議院内閣制、司法の独立、地方自治…。全て、白身(卵白)が大切な黄身(卵黄)を傷付けないように自制をすべき工夫です。これなければ、弱い黄身(卵黄)は、あっという間に潰されてしまいます。

 政教分離も白身(卵白)の一部で、黄身(卵黄)の一部である信仰の自由を保護する関係にあるものとご理解ください。「政」(政治権力)と「教」(宗教、とりわけ国家神道)の分離を命じられているのは、国であり自治体でありその機関です。公権力が特定の宗教と結びつくことのないよう憲法上の禁止命令を遵守して、国民の人権の一つである信仰の自由を守ることができるのです。

 この説明に、直ちに質問があった。「憲法全体を卵と見た場合、天皇はどこに位置しているでしょうか。まさか黄身ではないのでしょうが、果たして白身の一部なのでしょうか。卵の殻の外側の存在でしょうか」。

 以下が私の回答だが、どんなものだろうか。

 「なるほど、天皇の存在は盲点ですね。人権を中心に憲法を体系的に理解しようとすると、黄身と白身は助け合い補い合う関係として完結しますから、卵の構造のなかに、本来天皇のはいりこむ余地はなく、存在の必然性がない無用の長物です。

 とは言え、天皇は憲法の明文に規定された存在です。近代憲法に無用な存在なのに、敗戦時の民主化の不徹底の賜物としてこの異物が残存してしまった。憲法を改正して天皇をなくするまでは、卵の殻の外に押し出すことはできませんから、白身の一部に異物として存在することを認めざるを得ません。この異物が、万が一にも黄身(卵黄)を傷付けることのないように気を付けながら、その役割を少しずつ小さくしていくことが、民主主義社会の主権者の課題だと思います。」

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