澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

黙っていてはいけない。声をあげよう、後悔しないように。排外主義は、あらゆる差別の引き金になる。そして、平和と国際協調を危うくする。

(2025年7月17日)
 最近、マルティン・ニーメラーの警句の引用が、あちこちに目につく。不気味なことだが、そういう時代の空気なのだ。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は労働組合員ではなかったから。
 そして、彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」

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「100年前、治安維持法が成立したとき、私は喝采した。國體に弓を引く非国民を取り締まるのだから、皇室と神国の弥栄のために万歳と思ったのだ。
 特高が最初共産党を攻撃し、共産党員を拷問で殺したとき、愉快とは思わなかったが私は声をあげなかった。世の中の空気を読んだこともあるが、私は共産主義者ではなかったから。
 労農派の政治家や学者グループが一斉検挙されたときも、私は声をあげなかった。私は主義者でも活動家でもなかったから。
 それから、労働組合や宗教者が弾圧され、学校の先生たちが酷い目に遭い、出版社も文学者も、最後には弁護士までもが逮捕されて、国民の権利を護る者がいなくなった。それでも私は、黙り続けた。時局が時局だから仕方がないと思ったから。
 そして、戦争が始まり、ものを言う自由などまったくなくなった。
 私が間違いを悟って前非を悔いたとき、國體も神国も消滅し、国土は焦土と化していた」

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 「最初、排外主義政党がインバウンドや在日を攻撃したとき、私は拍手を送った。私は日本人なのだから。
 次ぎに、排外主義政党の矛先が共産党に向けられたとき、私は意外には思ったが、声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
 さらに、排外主義者たちの標的が、フェミニストや、LGBTや、障害者に拡がったとき、私はこれはまずいと思ったが、声をあげなかった。私自身はフェミニストでも、LGBTでも、障害者でもなかったから。
 排外主義者たちの大声が、「國體を擁護せよ」「女系天皇に反対する非国民を撲滅せよ」と叫び始めた時、私はこれはそれは違うと思ったが、声をあげなかった。とても、声を上げられる空気ではなかったから。
 キナくさい世の中になって私は排外主義政党への投票を後悔した。しかし、ときはすでに遅かった。到底、声を上げることなどできはしない」

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「戦後80年目の夏の参院選が転機だった。
 その選挙に外国人ヘイトと排外主義を競う風が吹いた。私も、排外主義政党に一票を投じた。インバウンドは不愉快だったし、日本人の賃金が上がらないのは外国人のせいで、彼らは不当に優遇されていると煽られたから。なにかが変わると期待したんだ。
 その後間もなく、日本人ファーストや排外主義の背景に、國體思想があることを教えられた。日本人が特別な民族であるのは、いにしえより悠久にこの國をしらす天皇の存在あればこそなのだ。だから、日本人ファーストは当然だ。
 日本人が日本人として胸を張れるのは、万世一系の天皇の貴い血筋が男系男子に連綿と嗣がれているからだ。家父長を中心として一家があり、天皇を家父長とする一国がある。女系天皇などとんでもない。ジェンダー平等なんて日本の国柄に合わない。そのときは、本気でそう思ったんだ。
 日本民族は、血を同じくする家族共同体で、血の繫がらない外国人が排除され、差別されて当然ではないか。皇室という貴い血を認めれば、生まれ、血筋、家柄、門地による差別を認めざるを得ない。外国人差別は、あらゆる差別に拡大した。
 外国人差別や排外主義は、結局のところ近隣諸国との戦争準備だと気付くまで、そんなに時間はかからなかった。日本人ファーストの政策で、結局私に何の得るところもなかった。ただ、平和と国際協調が危うくなっただけ。 もう遅い? いやまだ、遅すぎることはないだろう」

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