(2023年6月9日)
本日、現職の天皇(徳仁)の結婚30年だとか。各紙の朝刊に宮内庁提供の最近の家族写真が掲載されている。「結婚30年」、当事者や身内には感慨あっても、とりたてての慶事ではない。もちろん、まったく騒ぐほどのことでもない。
通常、結婚は私事だが、生殖を任務とする世襲君主の場合は特別である。結婚と出産が最大の公務となる。とりわけ、男系男子の血統の存続を至上目的とする天皇後継者の結婚は、男子出産のための公務と位置づけられる。愚かなことではあるが、男子出産を強制される立場の当事者にとっては、さぞかし辛いプレッシャーなのだろう。
周知のとおり、このプレッシャーによって、皇太子(徳仁)の妻は「適応障害」となったと発表されて療養生活を余儀なくされた。周囲からの冷たい目に心折れた、ということだろう。夫は健気にも、妻のことを「僕が一生全力でお守りします」と宣言し続けてきた。何から守ると明言してはいないが、この夫婦も「天皇制なるもの」を相手に闘ってきたごとくである。まことに気の毒な境遇と言えなくもない。
本日朝刊の宮内庁提供の天皇夫婦とその子の家族写真を見て思う。実に質素で飾り気がない。あの儀式の際の、滑稽極まるキンキラキンの洋装和装とはまったく趣が異なる。威厳や、神秘性や、気品や、華美や、伝統やらの虚仮威しがない。この家族写真の天皇は、雲の上の人でも、大内山の帳の向こうの人でもない。徹底して、「中産階級の核家族」「マイホーム・ファミリー」を演出しているのだ。
この事態、右翼諸氏には苦々しいことではなかろうか。本来は神秘的な宗教的権威があってこその天皇である。国民に、「天皇のためになら死ねる」「天皇の命令とあれば死なねばならない」との信仰が必要なのだ。それゆえに、かつて国民の目に触れる天皇の肖像は、本人とは似ても似つかぬ威厳に満ちた御真影であった。「真の影(姿・形)」とは名ばかり。実はフェイクの肖像画を写真にしたもの。天皇制のまがい物ぶりを象徴する貴重な証拠物と言わざるを得ない。
ところで本日、性的少数者に対する理解を広めるための「LGBT理解増進法案」が衆院内閣委員会で審議入りし即日採決された。まことに、不十分な実効性を欠く法案であるにもかかわらず、これほどに右翼の抵抗が強く、これほどに後退した内容となったのは、天皇制の存続への影響に危機感あってのことである。
天皇制とは、天皇信仰であるとともに、「イエ制度」を所与の前提とし、「家父長制」に国家をなぞらえて拵え上げられたイデオロギーである。妻は夫に仕え、子は親に孝を尽くすべきという「イエにおける家父長制」の構図を国家規模に押し広げて成立した。
だから、右翼は「イエ」「家父長制」の存続に極端にこだわることになる。統一教会も同様であり、安倍晋三もしかりである。ジェンダー平等も、フェミニズムも、夫婦別姓も、同性愛も、同性婚の制度化も、ましてや性自認の認容などはあり得ない。その一つひとつが、天皇制存続の危機につながることになるからだ。国民の自由や多様性と天皇制はは、根本において矛盾し相容れない。今、そのことをあらためて認識しなければならない。
このことを説明して得心を得ることは、そう容易なことではない。しかし、極右自らが語るところを聞けば、自ずから納得できるのではないか。その役割を買って出た人物がいる。有本香という、よく知られた極右の発言者。オブラートに包むことなく、率直にものを言うのでありがたい。
ZAKZAKという「夕刊フジ」の公式サイトがある。フジサンケイグループの一角にあるにふさわしく、臆面もない右翼記事が満載。昨日(6月8日)午後のこと、そのZAKZAKに有本香の一文が掲載された。長い々い表題で、「LGBT法案成立は日本史上『最大級の暴挙』 岸田首相は安倍元首相の『憂慮』を理解しているのか 『朝敵』の運命いかなるものだったか」というもの。右翼がジェンダー平等やLGBTを敵視する理由が天皇制にあることを露骨に述べている。これ、「語るに落ちる」というべきか、「積極的自白」と称すべきか。
全部の引用は無意味なので、抜粋する。要点は、以下のとおり。
LGBT容認は、万世一系の皇統を危うくする。皇統を危うくする者は「朝敵」である。これを喝破していたのが安倍晋三。安倍の恩顧を忘れてLGBT容認の法案成立に加担する自民党議員も「朝敵」である。もはや、自民党ではない保守の「受け皿」をつくるべきだ。
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安倍晋三元首相の亡い今、岸田文雄首相(総裁)率いる自民党は、おそらく日本史上でも「最大級の暴挙」をしでかそうとしている。LGBT法案を強引に通そうとしているのだ。
LGBT法案について、安倍氏は法案の重大な問題点を指摘していた。「肉体は女性だが、性自認が男性の『トランス男性』を男性と扱うことになれば、皇位継承者を『皇統に属する男系男子』とする皇位継承の原理が崩れる」。神武天皇以来、万世一系で約2000年(ママ)続く、日本の皇統。これを崩壊させんとする者は「朝敵」である。
皇統の重要性は、皇統が崩壊すれば、日本が終わると言って過言でない。その暴挙を為そうとしている自覚が、岸田首相と政権の人々、自民党幹部にあるのか。同法案推進に努めた古屋圭司氏、稲田朋美氏、新藤義孝氏ら、?安倍恩顧?であるはずの面々は、安倍氏の懸念を何一つ解消させないまま、進んで「朝敵」となる覚悟をしているのだろうか。
古来、朝敵の運命がいかなるものだったかは、あえてここに書かない。万世一系を軽んじ、自分たちが何に支えられてきたかも忘れてしまった自民党の奢(おご)りを、私たちは看過すべきではなかろう。
多少の政局混乱はあるだろうが、それをおそれず、自民党以外の保守の「受け皿」を国民有権者自らがつくるべきだ。
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極右の目から見ると、自民党も「朝敵」なのだ。恐るべきアナクロニズム。こう言う連中が、かつては安倍晋三を押し上げ、また、安倍晋三の庇護の元にあった。
あらためて、天皇(徳仁)の家族写真に問うてみる。
「LGBT容認は、万世一系の皇統を危うくする。皇統を危うくする者は『朝敵』なんだそうですよ。徳仁さん、もしかして、あなたも『朝敵』ではないのかな」
(2023年3月23日・連日更新満10年まであと8日)
連日のメディアにおけるWBCの扱い方が異常である。過剰なナショナリズムに不気味さを感じざるをえない。本日の報道の中に、「列島歓喜」という見出しを打ったスポーツ紙があった。「列島」は歓喜しない。「列島に暮らす人々皆が歓喜した」というのなら、日本チームの応援をしない者は非国民と言わんばかり。ならば、喜んで非国民となろうではないか。
皇室に慶事があったからとて、祝意の強制なんぞまっぴらである。皇室の弔事にも安倍国葬にも、弔意の強制は御免を蒙る。たかが野球で「列島歓喜」という感性が理解しかねる。いや、うす気味悪いというしかない。
古代ローマの支配者は、人民にパンとサーカスを与えておくことで、支配の安泰をはかった。いまも事情はたいして変わらない。皇帝がしつらえた円形闘技場での見世物が、今は資本の提供する「オリンピック」「ワールドカップ」「WBC」に形を換えられているに過ぎない。
為政者にとっては、野球にせよサッカーにせよ、スポーツに夢中になる国民は大歓迎なのだ。ウクライナでの戦争を忘れ、大軍拡大増税も忘れ、南西諸島への軍備配置も、統一教会と政権与党との癒着も忘れての「列島歓喜」。さながら「鼓腹撃壌」で世は事もなげではないか。現行の社会秩序の維持のために、これ以上のお膳立てはない。
先日、「九条の会」の街宣活動で、私より前にマイクを取った仲間がこう言った。「私は野球が大好きです。毎日WBCを楽しんでいます。こういう楽しみも平和があればこそ。戦争が始まれば、いや戦時色が強まれば野球どころではなくなります。そんな世の中は御免です。野球を楽しむためにも、平和を壊すような動きには、一つひとつ反対していこうではありませんか」
なるほど、そう言った方が人の耳に入る言葉になるとも思ったが、私は一切テレビを見ない。「野球を楽しむためにも平和を」などと無理に言うと、きっと舌を噛んでしまうに違いない。
「侍ジャパン」というチーム名も面白くない。「侍」とは人斬りである。人を斬る技術を錬磨したテロリスト集団ではないか。常時凶器を携帯した危険人種でもある。支配階級の一員として、政治機構を独占し被支配者に君臨する存在。自らは生産に従事せず、人民を搾取し収奪する一員である。そして、自らの君主には絶対服従して腹を切ってみせる狂人でもある。
そんな「侍」たちの活躍に、大多数の日本人が喝采を送っている。そんなときには、誰かが冷ややかな発言をしなければならない。そう、石川啄木のように。
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。
(「悲しき玩具」より)
(2023年3月20日)
書庫の整理をしていたら、「國體の本義 文部省」「文部科学省編纂 臣民の道」「陸軍省兵務課編纂 教練教科書 學科之部」の抜粋が出てきた。40年も前に、岩手靖国違憲訴訟の甲号証として提出したもの。それぞれに甲第141?143号証の号証が付されている。甲第143号証の巻頭に「軍人勅諭」、次いで「戦陣訓」が掲載されている。
靖国訴訟に携わった頃、懸命にこの種の資料を読みあさった。天皇崇拝だの、国体思想だの、招魂だの英霊だのという「思想」が理解できなったからだ。実は今にしてなお呑みこめない。これは「思想」などというに値するものではない。カルトのマインドコントロールの対象でしかないと割り切ると、何を言っているのかすこしは分かる気がする。
国家神道(天皇教)とはカルト以外の何ものでもなく、これを全国の学校を通じて臣民に吹き込んだ教育こそはマインドコントロールであった。これは、統一教会の「教義」と「布教手法」によく似ている。
統一教会の信者にとっては、死後の霊界でのあり方が最大の関心事だという。繰り返し畳み込まれると、一定確率で、地獄に落ちる恐怖から逃れるために何もかも犠牲にして献金をする新たな信者が現れる。この信者の心情を他者が理解することは困難だが、それは間違いだと論理を持って説得することも難しい。これがマインドコントロールというもの。天皇制も国体も英霊も、まったく同じことである。
マインドコントロールの道具としては「國體の本義」が出来のよいもののようだ。無内容な虚仮威しを美辞麗句で飾りたて、論証のできないことを無理にでも信じさせようという内容。「原理講論」の先輩格と言ってよかろう。
「國體の本義」中の、「第一 日本國體」「三、臣節」の長い長い文章の中のごく一部を抜粋してみよう。
「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。
忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。天皇と臣民との関係は、固より権力服従の人為的関係ではなく、また封建道徳に於ける主従の関係の如きものでもない。それは分を通じて本源に立ち、分を全うして本源を顕すのである。天皇と臣民との関係を、単に支配服従・権利義務の如き相対的関係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを対等な人格関係と見る合理主義的考へ方である。個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」
これは恐い。「天皇のために死ぬことは自己犠牲ではない。むしろ、それこそが国民としての真の生き方であり、天皇と一体となった真の生命の獲得方法である」という。これは死の哲学である。あるいは死のカルト。「国民はアリのように、女王アリのために死ね」というのだ。一匹のアリの価値、一人の国民の価値など眼中にない死のカルト。美化した自己犠牲を強要するとんでもない天皇教カルトなのだ。
「皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係であつて、こゝに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国図の君臣の関係は、没人格的の関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした考、個人的抽象意識より生ずる誤に外ならぬ。我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一の関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。我が国に於ては、肇国以来この大道が自ら発展してゐるのであつて、その臣民に於て現れた最も根源的なものが即ち忠の道である。こゝに忠の深遠な意義と尊き価値とが存する。」
ここに語られているのは、天皇と臣民の関係である。「義は君臣にして情は父子という、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係」は、「西欧流の、個人を至上とし個人の思考を中心とした誤った考え方」からは理解できない、と言うのだ。理屈は抜きで、ともかく、おのれをなげうって天皇に忠を尽くせと、繰り返す。
おそらくは、疑うことなく、この文部省編纂本を受け入れた国民が多数に及んだのであろう。天皇カルトのマインドコントロールは大きな成功をおさめたのだ。その害悪は、今なお消えていない。
(2023年3月19日)
昨日(3月18日)は奇妙な日だった。早朝のニュースで「プーチンに逮捕状」と聞き、深夜就寝前のニュースが「来週火曜日にトランプ逮捕」と言った。いずれも寝床でのラジオが語ったこと。東と西のゴロツキが法の名において断罪されようということなのだから、これが実現すればこの上ない慶事だが、さてどうなるか事態は混沌としたままである。
トランプは18日、自ら立ち上げた独自のSNS「トゥルース・ソーシャル」に「共和党の最有力候補でありアメリカ合衆国の元大統領が来週の火曜日に逮捕される」などと投稿した。トランプ自らによる、トランプ逮捕予告の記事である。真偽のほどは不明だが、「検察からの違法な情報漏洩」があったことを根拠にしてのことだという。逮捕を免れようと、「抗議しろ、私たちの国を取り戻せ」と自身の支持者に呼びかけている。理性に欠けた狂信的支持層の反応が懸念される。とうてい、民主主義を標榜する社会のあり方でない。
朝に「プーチンの戦争犯罪」を断罪し、夕べに「トランプの破廉恥と、民主主義への敵対姿勢」を確認した日となった。
トランプの投稿は、逮捕の被疑事実や捜査の進展など詳しい経緯には触れていない。それでいて、「抗議しろ、私たちの国を取り戻せ」なのだ。いったい何をどう抗議せよというのか。おそらくは、そんなことはどうでもよいのだ。ともかくも、愚かな自分の支持者を煽動して抗議の声を上げさせさえすれば、逮捕の実行はなくなるだろうという傲り、あるいは願望が透けて見える。こんな人物が、アメリカの大統領だった。そして再選を狙う候補者なのだ。
伝えられているところでは、最も可能性の高いトランプの逮捕理由は、2016年に不倫関係にあったとされるポルノ女優ストーミー・ダニエルズに「口止め料」を支払った問題で、以来今日まで、ニューヨークのマンハッタン地区検察官が捜査を続けてきた。この件について、米メディアは「捜査が大詰めを迎えている」と報じていたという。
問題となっている元ポルノ女優は、かつてトランプと不倫関係にあったとされる。トランプはその関係が明らかになることで大統領選に影響が出ることを懸念し、弁護士を通じて13万ドル(約1700万円)を支払った疑いがかけられている。ニューヨーク州法では、選挙に影響を与える一定額以上の寄付が禁じられており、この口止め料が抵触する可能性が指摘されてきた。トランプを起訴するかどうかは、地区検察官が招集した大陪審が決める。
起訴された場合は、トランプはいったん出頭して逮捕される手続きとなるという。米メディアによると、地区検察官はトランプに対し、大陪審の前で証言する機会を提示したが、トランプは拒んだ。ニューヨーク・タイムズはこうした経過を根拠に「起訴が近いことを示している」と報じた。
トランプを巡っては、脱税疑惑もあり、20年大統領選の結果を覆そうとした疑惑や公文書を私邸に持ち出した疑惑など、複数の案件で捜査が進められている。さすがに「容疑者が大統領」ではシャレにもならない。こんな人物を大統領候補にしているのが、アメリカの一断面なのだ。
思い出す。トランプの顧問弁護士だったマイケル・コーエンのことを。彼は、トランプの代理人として、2016年の米大統領選期間中にトランプとの不倫関係を公表しようとしていたポルノ女優と米男性誌「プレイボーイ(Playboy)」元モデルに口止め料を支払い、これで選挙資金法に違反したとして有罪となった。禁錮3年である。
ポルノ女優のストーミー・ダニエルズと、米男性誌「プレイボーイ」元モデルのカレン・マクドゥーガル両名への不正口止め料の支払いの金額は計28万ドル(約3200万円)と供述していた。コーエンは、この金額はトランプと調整し、最終的にトランプの指示で支払ったもので、当然にトランプも違法を認識していたと述べている。しかし、いまだにトランプは「違法行為を指示したことはない」と否認し続けている。
このコーエン弁護士。安倍晋三・昭恵の夫婦に乗せられながら、途中で切って捨てられて今は下獄している籠池夫妻に似ていなくもない。
ここまで来れば、トランプも退くに退けない。司法当局と争わざるを得ない立場となった。当面は、大陪審の面々に圧力をかけ、徹底して脅すしかない。ということは、ニューヨークの一般市民を敵にまわすということでもある。結局は、偉大なアメリカの実現のために「法の支配」「民主主義」と果敢に闘う大統領候補になるということなのだ。プーチンとトランプ、なんとまあ、よく似ていることか。
(2023年3月10日)
「西暦表記を求める会」です。国民の社会生活に西暦表記を普及させたい。とりわけ官公庁による国民への事実上の強制があってはならないという立場での市民運動団体です。
この度は、取材いただきありがとうございます。当然のことながら、会員の考えは多様です。以下は、私の意見としてご理解ください。
私たちは、日常生活や職業生活において、頻繁に時の特定をしなければなりません。時の特定は、年月日での表示となります。今日がいつであるか、いつまでに何をしなければならないか。あの事件が起きたのはいつか。我が子が成人するのはいつになるか。その年月日の特定における「年」を表記するには、西暦と元号という、まったく異質の2種類の方法があり、これが社会に混在して、何とも煩瑣で面倒なことになっています。
戦前は元号絶対優勢の世の中でした。「臣民」の多くが明治政府発明の「一世一元」を受け入れ、明治・大正・昭和という元号を用いた表記に馴染みました。自分の生年月日を明治・大正・昭和で覚え、日記も手紙も元号で書くことを習慣とし、世の中の出来事も、来し方の想い出も、借金返済の期日も借家契約の終期も、みんな元号で表記しました。戸籍も登記簿も元号で作られ、官報も元号表記であることに何の違和感もなかったのです。
戦後のしばらくは、この事態が続きました。しかし、戦後はもはや天皇絶対の時代ではありません。惰性だけで続いていた元号使用派の優位は次第に崩れてきました。日本社会の国際化が進展し、ビジネスが複雑化するに連れて、この事態は明らかになってきました。今や社会生活に西暦使用派が圧倒的な優勢となっています。
新聞・雑誌も単行本も、カレンダーも、多くの広報も、社内報も、請求書も、領収書も、定期券も切符も、今や西暦表記が圧倒しています。西暦表記の方が、合理的で簡便で、使いやすいからです。また、元号には、年の表記方法としていくつもの欠陥があるからです。
元号が国内にしか通用しないということは、実は重要なことです。「2020年東京オリンピック」「TOKYO 2020」などという表記は世界に通じるから成り立ち得ます。「令和2年 東京オリンピック」では世界に通じません。
それもさることながら、元号の使用期間が有限であること、しかもいつまで継続するのか分からないこと、次の元号がどうなるのか、いつから数え始めることになるのかがまったく分からないこと。つまりは、将来の時を表記できないのです。これは、致命的な欠陥というしかありません。
とりわけ、合理性を要求されるビジネスに元号を使用することは、愚行の極みというほかはありません。「借地期間を、令和5年1月1日から令和64年12月末日までの60年間とする」という契約書を作ったとしましょう。現在の天皇(徳仁)が令和64年12月末日まで生存したとすれば110歳を越えることになりますから、現実には「令和64年」として表記される年は現実にはあり得ません。そのときの元号がどう変わって何年目であるか、今知る由もありません。天皇の存在とともに元号などまったくない世になっている可能性も高いと言わねばなりません。
令和が明日にも終わる可能性も否定できません。全ての人の生命は有限です。天皇とて同じこと。いつ尽きるやも知れぬ天皇の寿命の終わりが令和という元号の終わり。予め次の元号が準備されていない以上、元号では将来の時を表すことはできません。
今や、多くの人が西暦を使っています。その理由はいくつもありますが、西暦の使用が便利であり元号には致命的な欠陥があるからです。元号は年の表記法としては欠陥品なのです。現在の元号がいつまで続くのか、まったく予測ができません。将来の日付を表記することができないのです。一貫性のある西暦使用が、簡便で確実なことは明らかです。
時を表記する道具として西暦が断然優れ、元号には致命的な欠陥がある以上、元号が自然淘汰され、この世から姿を消す運命にあることは自明というべきでしょう。ところが、現実にはなかなかそうはなっていません。これは、政府や自治体が元号使用を事実上強制しているからです。私たちは、この「強制」に強く反対します。公権力による元号強制は、憲法19条の「思想良心の自由の保障」に違反することになると思われます。
今、「不便で非合理で国際的に通用しない元号」の使用にこだわる理由とはいったい何でしょうか。ぼんやりした言葉で表せばナショナリズム、もうすこし明確に言えば天皇制擁護というべきでしょう。あるいは、「日本固有の伝統的文化の尊重」でしょうか。いずれも陋習というべきで、国民に不便を強いる根拠になるとは到底考えられません。
ここで言う、伝統・文化・ナショナリズムは、結局天皇制を中核とするものと言えるでしょう。しかし、それこそが克服されなければならない、「憲法上の反価値」でしかありません。
かつてなぜ天皇制が生まれたか、今なお象徴天皇制が生き残っているのか。それは、為政者にとっての有用な統治の道具だからです。天皇の権威を拵えあげ、これを国民に刷り込むことで、権威に服従する統治しやすい国民性を作りあげようということなのです。今なお、もったいぶった天皇の権威の演出は、個人の自律性を阻害するための、そして統治しやすい国民性を涵養するために有用と考えられています。
元号だけでなく、「日の丸・君が代」も、祝日の定めも、天皇制のもつ権威主義の効果を維持するための小道具です。そのような小道具群のなかで日常生活に接する機会が最多のものと言えば、断然に元号ということになりましょう。
ですから、元号使用は単に不便というものではなく、国民に天皇制尊重の意識の刷り込みを狙った、民主主義に反するという意味で邪悪な思惑に満ちたものというしかありません。
(2022年12月5日)
中国国歌「義勇軍行進曲」は、抗日戦争のさなかに作られ、侵略者である皇軍との闘いの中で唱われたものである。それが、中華人民共和国成立後に国歌となった。刑事罰をもって国民に国歌の尊重を強制する国歌法の制定は2017年になってのことである。
もともとは、侵略軍と闘った人民解放軍が、広く中国の人民に、立ち上がれ、侵略軍と勇敢に闘おうと呼び掛ける抗日抵抗歌であった。敵を恐れず臆することなく、心を一つにして闘おうと呼び掛ける勇ましい歌詞となっている。
この歌が中国の人民を鼓舞し、愛国心の発揚に寄与したのは、日中戦争と国共内戦の終結までであったろう。憲法上国歌と制定され、国歌法による強制が必要になったのは、人々が以前のようには、愛する国の歌として歌わなくなったからであろう。
そして今、その歌が別の意味を込めて若者たちに歌われているという。「闘いに立ち上がれ、ともに闘おう」と友に呼び掛ける闘いの相手を、侵略者日本ではなく、習近平・共産党とする思いを込めて歌うのだという。何という世の移ろい、そして何という若者たちの知恵であろうか。
この歌の歌詞は次のとおりである。
《義勇軍行進曲》
起来!起来!起来!
(立ち上がれ! 立ち上がれ! 立ち上がれ!)
我們万衆一心,
(我々万民が心を一つにして)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
前進!前進、進!
(前進! 前進! 進め!)
起来!不願做奴隷的人們!
(立ち上がれ! 奴隷になるのを望まぬ人々よ)
把我們的血肉築成我們新的長城!
(我らの血と肉で我らの新たな長城を築こう)
中華民族到了最危険的時候,
(中華民族が最大の危機に到る時)
毎個人被迫着発出最后的吼声。
(誰もが最後の雄叫びを余儀なくされる)
冒頭の「起来! 不愿做奴隶的人?!」は、「起て! 奴隷となるな人民!」「立ち上がれ! 奴隷となりたくない人々よ!」「隷従を拒否する人民よ!」などと訳することもできる。中国人民に、日本の奴隷となるな、そのために立ち上がれ、と呼び掛けているのだ。しかし、今若者たちは、「習近平・共産党の奴隷になるな」「立ち上がれ! 中国共産党の奴隷となりたくない人々よ!」との思いを込めて、この歌を歌って呼び掛け、声を合わせているのだ。
2番の「我?万众一心,冒着?人的炮火,前?!」(敵の砲火を冒し、前進!)の、「?(敵)」とは、「習近平・共産党」を指すものとして歌われる。「みんなが心を一つにし、中国共産党の激しい攻撃を覚悟して立ち向かうのだ!」となる。現に、「習近平は退陣せよ!共産党支配はごめんだ!」というデモのスローガンも現れている。
中国で、「国歌法」が制定されたのは、2017年9月1日、中国の「第12期全人大・常務委員会」においてのことだという。その施行は、同年10月1日の国慶節からのこととなった。
中国では1990年に『国旗法』が、1991年には『“国徽法(国章法)”』が制定された。しかし、『国歌法』の制定は遅れた。2004年憲法で国歌は「義勇軍行進曲」と規定されたものの、拘束力ある立法は避けられていた。2017年の『国歌法』制定は、香港や少数民族の状況を睨んでのものであったろうか。
この国歌法、虫酸が走るような、愛国主義の押し付け、押し売りである。まるで天皇制下の締めつけ。心から思う。中国に生まれなくて良かった。この国には、愛国があって個人の尊厳がない。国家と党の支配への忠誠の証しとしての国旗国歌尊重が義務化されている。皇国並みの愚劣。
国歌法は全16条で構成されるが、重要と思われる条項を示すと以下の通り。
【第1条】国歌の尊厳を擁護し、国歌の演奏・歌唱、放送、使用を基準化し、国民の国家概念を増強し、愛国主義の精神を発揚させ、社会主義の核心的価値観を育成・実践するため、憲法に基づき本法を制定する。
【第2条】中華人民共和国の国歌は「義勇軍行進曲」である。
【第3条】中華人民共和国の国歌は、中華人民共和国の象徴と標識である。全ての国民と組織はすべからく国歌を尊重し、国歌の尊厳を擁護しなければならない。
【第4条】下記の場合は国歌を演奏・歌唱しなければならない。
(1)全国人民代表大会会議と地方各級人民代表大会会議の開幕、閉幕。中国人民政治協商会議全国委員会会議と地方各級委員会会議の開幕と閉幕、(2)国旗掲揚式、(3)重要な外交活動、(4)重要な体育競技会、(5)その他、国歌を演奏・歌唱することが必要な場合、など
【第7条】国歌を演奏・歌唱する時は、その場にいる者は起立しなければならず、国歌を尊重しない行為をしてはならない。
【第8条】国歌の商標や商業公告への使用、個人の葬儀活動など不適切な使用、公共の場所のバックグラウンドミュージックなどへの使用をしてはならない。
【第15条】公共の場で故意に国歌の歌詞や曲を改ざんして国歌の演奏・歌唱を歪曲、毀損した、あるいはその他の形で国歌を侮辱した場合は、公安機関による警告あるいは15日以下の拘留とし、犯罪を構成する者は法に基づき刑事責任を追及する。
対日戦争では、法的強制がなくても、人々は愛情と誇りを込めてこの歌を唱った。今若者たちは、がんじがらめの国歌強制の法のしがらみの中で、この歌「義勇軍行進曲」を、習近平体制に対する「抵抗歌」として歌っている。国旗や国歌とは、所詮強制に馴染まないものなのだ。
(2022年12月4日)
私はSNSというものとは無縁である。そのうえ、サッカーにもワールドカップにも何の興味もない。どこの国が勝とうが負けようがどうでもよいこと。だから、日本共産党の中野区議・羽鳥大輔のツィッターが「炎上」したことに、さしたる関心をもたなかった。共産党議員の発言が、ナショナリズム信奉の右派から攻撃を受けて何の臆するところあろうかと思い込んでいた。
が、不明にして同議員が謝罪したことを知らなかった。「炎上」に屈したとなれば、これは「事件」である。ナショナリズムがいびつな同調圧力となって、真っ当な言論を圧殺する事件。スポーツナショナリズムが容易に反共と結びつくことを見せつけた事件。自由であるべき言論空間が非寛容なヘイト体質の発言者に占拠されているという事件…。とうてい看過できない。
最初に私自身の立場を明確にしておきたい。ドイツと日本のサッカー試合、いつもであれば、どちらが勝とうと負けようともどうでもよい些事に過ぎない。しかし、22年ワールドカップ・カタール大会での日独戦は、背景事情があって事情が異なる。この大会は準備段階から腐敗と差別、人権問題で大きく揺れていた。この問題に、ドイツの協会も選手も問題意識が高かった。日本は問題意識が低いというのではなく、見事なまでに何もなかったといってよい。だから、私はドイツに勝ってもらいたかった。そのドイツが負け、日本が勝ってしまったことを、まことに残念に思う。
昔、小学生だったころ、私のあこがれは白井義男であり、古橋広之進であり、石井昭八であり、山田敬三であり、力道山であった。世界に劣等感を持っていた戦後日本人の一人として、世界で対等に闘える「日本人代表」に拍手を送ったのだ。日本が幅広い分野で世界に対等に伍した存在感を示すにつれて、劣等感の同義であったナショナリズムも希薄になった。今回のワールドカップのごとき、国民がこぞって熱狂することには辟易である。
もしかしたら、最近の日本の、知的・文化的・政治的・経済的な衰退傾向が、再び劣等感に支えられたナショナリズムを刺激しているのかも知れない。メディアのナショナリズム煽動にも大きな違和感を禁じえない。おそらくは、私の感覚は羽鳥大輔に近似している。ただ、それが日本共産党とも近似しているかどうかはよく分からない。何しろ、自党の宣伝ポスターに富士山の写真をあしらう国民意識を重視した政党なのだから。
問題の羽鳥大輔ツィッターは3件ある。うち2件は極めて真っ当な内容である。過激でもなければ人を貶めるものでもない。ただ、日本のサッカーファンやナショナリストには、耳に心地よくないかも知れないが、特に目くじら立てるほどのものではない。これに過剰な批判のツィートが寄せられて「炎上」したのは、社会の多数派の不寛容を表すものにほかならない。ナショナリズムに馴染まぬ者への、一人ひとりの「小さな敵意の表明」の集積が、民主主義も表現の自由も圧殺する事態を生じかねない。
そして、3件目は、残念ながら「炎上」に屈した形での羽鳥の謝罪となった。おそらくは、党からの「指示」ないし「指導」があったと推察される。この事件、いくつもの問題を露呈している。
羽鳥の最初のツィートは、毎日新聞の「ドイツ代表、試合前の写真撮影で口塞ぐ 腕章禁止に抗議」の記事を引用して、以下をリツイートするもの。
「日本とドイツのサッカー協会の差を見せつけられちゃうし、日本代表は勝っちゃうしで、残念というほかない。」
「腕章」は多様性を訴えるメッセージ。ドイツは、その腕章の着用を禁じた国際サッカー連盟(FIFA)に抗議をしたのだ。これに対して、日本は何もしなかった。日本サッカー協会会長の田嶋幸三は、わざわざ練習場を訪れて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」と述べたという。だれ一人、これに異議を唱えた選手はいない。
日本のスポーツ界の実状をよく表している。「昔軍隊、今運動部」である。ドイツと日本とは、その人権意識の高さにおいて、月とスッポン、雲と泥との差なのだ。偏狭なナショナリズムよりも普遍的な人権が重要だとする立場からは、「ドイツが負けて日本勝った。まことに残念」となってなんの不思議もない。
羽鳥は、第1ツィートへの批判に反論する形で、以下の第2ツィートを投稿した。
「この意見も前の意見も私個人の意見ですが、日本代表の戦いはすごいと思いますし、ものすごい努力をされたと思います。しかし、『日本代表を応援し、その勝利を喜んでいなければ日本人に非ず。そう考えてないなら黙っていろ』という空気の中で、『日本が勝ってよかった』とはとても思えません。」
私もまったくの同意見だ。どんな理由でどこの国のチームを応援してもしなくても、他人からとやかく干渉される筋合いはない。「オマエも日本人なら当然に日本を応援しろ」「日本の勝利を喜べない者は日本人ではない」という非寛容な社会的同調圧力が、戦前は「非国民」攻撃となり、最近は「反日」攻撃に言葉を変えている。
この羽鳥ツィートに対する批判を拾ってみた。悲しいかな、これが今日の日本の主権者多数派の民度のレベルなのだ。この人たちが、安倍長期政権を支えたと言えよう。
「さっさと日本から出て行きやがれ」「日本を嫌い、日本を蔑んで溜飲を下げていながら一方で日本に依存し続ける。真正の恥知らずだな」「なんだこいつ」「素直に日本嫌いって言えよ笑」「多分、ルーツが日本にないんや」「仕方ないわ。媚中とか親中どころやなくて、中国そのものなんやろな」「中国や北朝鮮を応援してる人でしょ?」「ばかだし、日本から出て行って欲しい」「共産党って本当に日本の事キライだよね」「共産党ってそういう党なんだ」「そうなんよ そういう党なんよ」「僕、サッカー興味ないのですが、狂産党の凄さは、伝わりました。」「どうせ、コメントで馬脚を表しているけど反日議員でしょ。税金泥棒議員は消えなよ」「さすが日本共産党と言うのやら…」「日本代表が勝って残念って何を考えているのですかね?こんなのが日本の国政政党ですから。日本国民はしっかりと考えなければならないのです」「『日本が勝って残念』と思う感性の人が区議というのがやべぇと思うんだが」「天皇制問題や自衛隊問題で同調圧力に屈し続けてきた日本共産党の上層部から圧力があったのではないかなと思えてしまいます」「日本人の台詞じゃないですね」「普段サッカーを観ない人間でも、日本代表が勝てば嬉しいのにね」「ドイツが勝った方が嬉しいはまだ分かるが(死ぬほど大好きな選手がいる等)、日本が勝って嬉しくないはおかしいでしょ」「共産党が『日本』と付けるな。日本が穢れる。立憲君主制すらまともに知らん無能議員の無知極まりない」「日本共産党はこんな、礼儀の無い党派で相手にするべきではない」「日本から消滅すべき党派」「人が喜んでるところに水をさしておいて捻くれた理屈でゴネてよく言うよ!左翼共産党ほど自分達の意見以外まったく認めないくせに」
このような「炎上」の結果、羽鳥議員は突然謝罪に転じる。おそらくは、不本意ながらにである。羽鳥議員には無念であったろうが、問題は個人的な無念よりは、ナショナリズム批判の言論が撤回に追い込まれたことの社会的影響である。謝罪文言は以下のとおり。問題の局面がすり替えられての謝罪であることは、自分自身がよく分かっているはず。
「多くの方からご指摘がありまして現在は以下のように思っています。
選手のみなさんは、努力を重ねフェアプレイで全力を尽くして戦ったわけで、その双方に対して敬意を払うことが政治に携わるものとして当たり前の態度でした。『日本代表が勝って残念』という言動は間違いでした。申し訳ありません。」
さて、無邪気にナショナリズムに酔っている「日本大好き」人間をどう見るべきだろうか。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」とは、史上最高の箴言である。そして、「パンとサーカス」はこれ以上のない警句。この組み合わせは、今、こう分裂するのではなかろうか。「誠実に生きようとする人は、パンのみにて生きることはできない。生きるためには自由と人権と民主主義が必要である」「愚民もパンのみでは統治に十分ではない。スポーツとナショナリズムを与えておく必要がある」
古代ローマでの、生臭い「サーカス」は、いまワールドカップやオリンピックに姿を変えている。ローマの権力者は、市民に「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」を提供することによって、市民を政治に無関心な愚民とした。いま、意識的にその政策が行われ、しかも一定の成功をおさめているのではないだろうか。
スポーツナショナリズム恐るべし、と言わねばならない事態である。
(2022年11月27日)
文鮮明の語録を毎日新聞が追っている。これは、読み応えがある。
昨日朝刊の一面左肩の見出しは、「旧統一教会 『天皇は平凡』『対馬は韓国』 文鮮明氏、02・04年に」「保守と相いれぬ発言」という見出し。
旧統一教会の創始者文鮮明が、2002年に韓国内で信者に向けて行った説教で、日本の天皇を「平凡」と表現し、その約2年後には長崎県の対馬(竹島だけでなく)を「韓国の土地」と明言していたという記事である。癒着していた日本の保守派議員が、こんな基本的な統一教会の姿勢を知らなかったとは考え難い。天皇の評価や領土問題での齟齬よりは、「反共」の一致点を選択したのだと考えざるを得ない。
厖大なハングルの「文鮮明先生マルスム(御言(みこと))選集」から毎日が、抽出したのは、おおよそ以下の発言である。なお、この発言録中の「文先生」は、文が「先生」を自称しているもの。日本語では不遜だが、韓国語でのニュアンスは分からない。
「日本の皇太子が一般国民の娘を選んで結婚したでしょ? それは誰も宮中生活をしたくないということだ。一般人になりたいということだ」
「日本の宮殿の伝統がめちゃくちゃになった。平成、ぺちゃんこになった」
「日本の天皇は賢い天皇か、平凡な天皇か?」
「平凡な天皇です」(会場の反応)
「平凡な天皇だから中心もなく、ぺちゃんこになって、流れている。何も誇れることがない」
「文先生(私)はどうなのか。日本の天皇より賢くないか、賢いか?」
「賢いです」(会場の反応)
「文先生(私)にとって日本国は一番目の怨讐(えんしゅう)の国だった。日本の(皇居正門に架かる)二重橋を自分の手で断ってしまおうと考えた。裕仁天皇を私が暗殺すると決心した」
ただ、文氏はこの「決心」が過去のものだったことを示唆する言葉も続けている、という。
「地理的に見ると対馬が韓国に属している。そこにはカササギ(カラス科の鳥)がいる。日本にはカササギがいないだろ? だから韓国の土地だ」
島根県の竹島(韓国名・独島)にも触れ「今、日本人が独島を自分たちの土地だと言う。これは問題だ」
韓国では、政治家が日本と対立する問題を「内向き」にナショナリズムをあおった表現で語り、支持を集めようとすることは珍しくない。文氏も韓国と日本で発言内容を使い分けていた可能性はある。
統一教会は、「『日本はかつて韓国を迫害した罪の償いとして韓国に貢ぐべきである』という教えはない」と強調。「『反日カルト』ではないかという批判は左翼勢力が流したデマ情報で、その目的は保守派に対する分断作戦だ」と主張している。
これまで関係を築いてきた保守派から「反日」と見なされることへの警戒感がにじむ。
桜井義秀・北海道大大学院教授(宗教社会学)は「文氏の考えはコリアンナショナリズムの面があり、日本の皇室の伝統や国益、国民生活を考える保守思想ではなかった。日本の政治家もそれを全く知らなかったとは考えられず、選挙に役立つからといって教団を利用した政治家は本当の保守を名乗れないだろう」と批判した。
文が説教の中で信者に「私は日本の天皇より賢くないか、賢いか?」と問いかけ、「賢いです」と答を誘っているのだ。教祖と天皇を比較させ、「教祖が天皇よりも賢い」と言わせている。これに、よく似た話を思い出す。
私は、ある新宗教の宗教二世として育ち、高校3年間を教団が経営する私立学校で学んだ。2年生の時か3年だったか記憶は薄れているが、カリキュラムに週一回の「宗教の時間」が組み込まれていた。そこで、教団の幹部から、教団の歴史を学んだ。その際、戦前の教団が天皇制から、如何に理不尽な弾圧を受けたかについての説明があり、深く印象に刻んだ。特高警察や思想検事、そして天皇の裁判所には憤りを覚えた。この思いは今も消えることがない。
その教団は、戦前大阪府の布施に本殿を持ち、その千畳敷の大広間の正面に、「敬神尊皇」の額を掲げていた。この額の4文字が不敬だとされた。「敬神」の神は教祖を指し、「尊皇」より先に位置している。これは「教祖は、天皇よりも偉い」と誇示しているのだという糾弾。どうして、「尊皇敬神」としないのだ、という暴力団まがいのこじつけ。
さらに、この教団の教義には、人々の不幸は、全て神の御心に背いた結果の『みしらせ』であるとし、教祖は人の『みしらせ』を癒すための『こころえ』を授けることができるとする。教祖がそのみしらせを引き受ける『お振り替え』という神事もあった。これを、特高や思想検事は、「天皇は風邪をひく。これを『みしらせ』というか」「天皇の患いを治せるのは、教祖だけということになる」「天皇よりも教祖が偉いというのが、教義ではないか」と追及し、結局教祖は不敬罪で起訴され、未決の内に病死。その長男の二代目は不敬罪が確定して、終戦まで下獄している。また、この教団は、戦前の「宗教団体法」による解散命令を受けている。
教祖も天皇も、信仰の対象である。信者にとっては、我が神、我が教祖、我が天皇の絶対性は揺るがぬところだが、信仰集団の外から見れば、教祖も天皇もただの人に過ぎない。教祖と天皇どちらがエラいか賢いか。比較しようという発想自体が愚かというほかはない。統一教会も、天皇教・天皇制も。
(2022年8月16日)
昨日(8月15日)は終戦記念日だった。「敗戦記念日」と称すべきとの意見もあるが、私は「終戦記念日」でよいとする。敗戦したのは天皇制国家であって、民衆ではないからだ。心ならずも戦禍に巻き込まれ、あるいは洗脳されて戦争に協力した国民の側からは、ようやくの終戦というべきだろう。
その終戦記念日には、毎年「全国戦没者追悼式」が行われる。このネーミングがはなはだよくない。「全戦争被害者追悼式」とすべきであろう。本来、「戦没者」とは戦陣で倒れた者である。従って、どうしても軍人・軍属の戦死・戦病死者を連想する。靖国に合祀される死者と重なる。
1963年5月14日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」以来、「本式典の戦没者の範囲は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人、軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含むものとする。)とする」とされてはいるが、どうしても民間戦争被害者の追悼は隅にやられるイメージを免れない。もちろん、「敵」とされた国の犠牲者への配慮は微塵もない。
昨日の式典での岸田文雄首相式辞全文を紹介して私の感想を述べておきたい。
「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」
式辞の冒頭に、遺族を差し置いての「天皇夫婦のご臨席を仰ぎ」は主客の転倒、順序が逆だ。戦没者にも遺族にも失礼極まる態度ではないか。天皇を主権者国民が「仰ぐ」もおかしい。そもそも、国民を死に至らしめた戦犯天皇(の末裔)をこの席に呼んでこようという発想が間違っている。呼ぶなら、謝罪を要求してのことでなければならない。
「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。」
先の大戦で失われた命は、300万余の同胞のものにとどまらない。300万余の同胞によって失われた近隣諸国の民衆の命もある。その数、およそ2000万人。日本の軍隊が外国に侵略して奪った命である。ちょうど、ロシアがウクライナに侵略して、残虐に無辜の人の血を流したごとくに。被害だけを語って、加害を語らないのは不公正ではないか。
「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」
なんと、自然災害の犠牲者に対する追悼文のごとくではないか。戦争は人間が起こしたものであって、その大量の殺人には理非正邪の判断が必要であり、無惨な死の悲劇には責任が伴う。その追及を意識的に避けるがごとき語り口ではないか。この犠牲の責任を明確にせずしては、「御霊安かれ」は実現しない。遺族も安心できようがない。
「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。」
これは戦没者追悼の常套句だが、警戒が必要だ。この言い回しには巧妙な仕掛けがある。「今日、私たちが享受している平和と繁栄」は、「戦没者が命を懸けて戦った成果」としてあるものではない。「戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」という式辞は、誇張ではなく嘘である。歴史的事実としては無条件敗戦の事態を迎えて戦没者の死は無に帰した。しかし、生存した者が戦争とはまったく異なる方法で国家を再生し「今日、私たちが享受している平和と繁栄」を作りあげたのだ。戦死者たちが夢想もしなかった、「国体の放擲」「民主主義」「人権」にもとづく平和と繁栄である。
とすれば、戦死は余りに痛ましい。その死の痛ましさ、無意味さを見つめるところから、戦後の平和と繁栄の本質を考えなければならない。が、決して政府がそう言うことはない。ときの社会と権力者が望むとおりに、命を捨てた者を顕彰しなければ、次ぎに必要なときに、国民を動員することができない。そのために、戦後の政権は戦死を美化し続けた。岸田も同じである。
「未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。」
それこそ、白々しい嘘だ。沖縄南部の激戦地には、「未だ帰還を果たしていない多くの遺骨」がある。政府は、この遺骨を含む土砂を辺野古新基地の埋立に使おうとしている。まずは、辺野古新基地建設工事の続行をやめよ。
「戦後、我が国は、一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。」
これも不正確だろう。「戦後の保守党・保守政権は、一貫して、日本国憲法を敵視し、大日本帝国憲法への復古を目指してきましたが、国民の間に広範に育った平和を望む声に阻まれて、改憲も戦争も実現せずに今日に至っています」が正しい。
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。未だ争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、この国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。」
あらあら、ついに出た「積極的平和主義」。これは安倍造語、その正確な意味は「積極的に軍事力を増強し積極的な外国への軍事侵攻も躊躇しない、積極的な軍事活用による平和」ということ。これで切り拓かれる日本の未来はたいへんなものとなる。
「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」
私も終わりに、いま一度、言っておきたい。「戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を」は、この国が次の戦没者を作らねばならないときのための準備なのだ。真の意味で戦没者の死を意義あらしめるためには、戦争の悲惨さと非人道性を徹底して明らかにし、天皇を筆頭とする戦争犯罪者の責任を、国民自身の手で明らかにしなければならない。そうして初めて、本当の積極的平和が実現し、「戦没者と遺族の平安」がもたらされることになろう。
(2022年6月20日)
「ロシアのウクライナに対する軍事侵攻が始まってから、もうすぐ4か月。この間、毎日のニュースに胸が痛むね」
「そのとおりだ。戦死者の報道も建物が壊されているのも見るに忍びない」
「早く戦争が終わるといいね」
「それはそのとおりだが、戦争が終わりさえすればよいというものでもないんじゃない。終わり方や終わらせ方が問題だよね」
「えっ? どういう意味?」
「戦争を仕掛けたのはプーチンのロシアだ。明らかな侵略行為で、国連憲章違反だ。このロシアの責任をうやむやにしたままで、戦争が終わりさえすればよいということにはならないと思う。ロシアの責任を明確にして、現状を侵略行為のない状態にまで回復しなければ正義を貫くことができない。再発も防止できない」
「そりゃあ、ウクライナが侵略者を打ち負かして、あなたが言うような戦争の終わり方ができればそれに越したことはない。でもね、なかなかそうはならない。いまの戦況では、戦争は長引きそうよね。戦争が長引けば、毎日毎時、多くの人の命が失われることになる」
「既に多くのウクライナ人の血が流されている。その犠牲はいったい何だったのかということになる。この犠牲を無駄にしないめにも、安易な休戦の妥協は許されない」
「それを言うなら、ロシア国内の論理も同じ。成果のないままの戦争終了は、ロシアの兵の流した血を無駄にすることになる、と言うに決まっている」
「その、どっちもどっちと言う理屈が、我慢できない。侵略した側とされた側を同列に置いてどうするの」
「問題への解答は、結局のところ戦況の現実が決めざるを得ない。今、戦況はロシアに優勢と報じられているし、少なくともこのままでは長引くことは避けられないでしょ」
「いや、ウクライナが持ちこたえれば、アメリカやNATOの武器援助が間に合うことになる。ロシアに対する経済制裁も次第に利いてくる。そうすれば、ウクライナに勝機があるとボクは思う。侵略戦争にいやいや駆り出されたロシア軍と、自分の国土を守ろうというウクライナ軍とでは、士気がまるで違うはずだから」
「仮にそうなるとしても、それまでには多くのロシア軍兵士が死ななければならない。多くは、不本意に戦場に引っ張られた若者たち。その悲惨な死には、やっぱり胸が痛む」
「ボクは、侵略された側のウクライナの民間人や兵の死には胸が痛むけれど、侵略に加担したロシア兵士には同情したくない。彼らが、占領地で行った非道な行為は許せない」
「あなたは過剰なナショナリズムに毒されているようね。国対国、国民対国民という対立図式だけが頭の中に際立っていて、その枠をはずれた、国家対国民の関係での見方はなく、個別の人間は視野にない。国際的な両国民の平和的連帯を追求する視点なんてまったくないのね」
「現実に砲弾が飛び交っている戦争を語っているのに、なんというリアリティに欠けことを言うんだい。侵略国ロシアの責任は、一人プーチンにだけあるわけじゃない。プーチン独裁を許したロシア国民全体が責任を負わねばならない。戦前の天皇制国家の侵略の責任が、一人天皇にだけあるのではなく、天皇制を支えた国民全体の責任だったように」
「その論法は、プーチンや天皇というトップの責任を免罪する常套手段ね。一人ひとりの国民の多くは戦争の被害者なのよ。ロシアの兵士の命だってかけがえのないものでしょう」
「戦争のさなかでは、そんな甘いことを言ってはおられない。ロシア軍兵士の死を歓迎するとまでは言わないが、やむを得ないと割り切らざるを得ない」
「あなたが、そんな冷酷な人間だとは知らなかった」
「ボクも、あなたがそんな夢想家だとは思ってもいなかった」