(2023年5月10日)
「法民」今号(578号)の特集は、私が担当した。考えさせられる論稿ばかりで、得るものが多かった。ぜひ、多くの方にお読みいただきたい。
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(目次と記事)
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆日本におけるLGBTQと法政策の現状と課題 … 谷口洋幸
◆性的マイノリティの権利:出発点 ─ 国際人権法における議論状況 … 前田 朗
◆「性自認」問題の論争点と論争のあり方 … 齊藤笑美子
◆LGBTQ、SOGI(性的指向・性自認)に関わる差別に対し健康を守るために … 藤井ひろみ
◆LGBTQ+の権利保障をめぐる政治と法 ─ 台湾の経験に学ぶ … 鈴木 賢
◆同性婚法制化を求める取組み
─ 「結婚の自由をすべての人に」訴訟と公益社団法人の取組み … 三輪晃義
◆経済産業省事件 ─ トランスジェンダー女性の職場での処遇差別 … 立石結夏
◆日本の不名誉と怠慢 ─ LGBTQ+をめぐる政治的諸問題の諸相 … 北丸雄二
◆司法をめぐる動き〈83〉
・金沢市庁舎前使用不許可違憲訴訟 … 北尾美帆
・3月の動き … 司法制度委員会
◆連続企画●憲法9条実現のために(45)
・安保法制違憲訴訟をたたかう … 内山新吾
・山梨でのたたかい … 加藤啓二
◆追悼●日本一の労働弁護士?宮里邦雄先生の思い出? … 棗一郎
◆メディアウオッチ2023●《メディアの役割・国会の役割》
予算編成後に始まる財源論議 軍拡・戦後大転換に 憲法・歴史観欠くメディアの姿勢 … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№20〉
「心の共鳴板」が響く限り … 小野寺利孝先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№49〉
自衛隊明記の憲法改正を主張する自民党・公明党・日本維新の会 … 飯島滋明
◆連続企画・学術会議問題を考える(10)
日本学術会議法「改正」法案、今国会提出見送りへ!!
◆時評●日本学術会議は独立性を失うのか … 戒能通厚
◆ひろば●6団体連絡会に参加して … 宮坂 浩
「性的指向におけるマイノリティーの人権」(特集リード)
本号の特集は、比較的に新しい分野の人権とされる課題を取りあげる。
「ジェンダー」や「ジェンダーギャップ」という概念は、社会に定着していると言ってよい。「ジェンダーギャップ」の克服は、既に人権を語る者の共通の課題となっている。
しかし、「ジェンダー・アイデンティティ」というキーワードが社会に定着しているとは言いがたい。「LGBT」(あるいは「LGBTQ+」)や「SOGI」などの用語について共通の理解が既に確立しているとは思えない。多様な「ジェンダー・アイデンティティ」を人権として把握する社会意識はいまだに希薄である。
新しい人権を語るときには、人権論の基本に立ち返らねばならない。人権とは何であるのかという根源的な問いかけが必要となる。人権とは、個人の尊厳にほかならない。いかなる性的指向も尊厳をもって遇されなければならない。個人の尊厳を損なうものは、様々な態様の差別である。性的指向におけるマイノリティが、どのような制度や社会意識において差別されているか、その差別の実態を直視し、差別された当事者の痛みを理解し、その差別を克服の対象として自覚しなければならない。
これまで、差別といえば、民族や人種や国籍や性差や特定の出自・居住地・職業、あるいは身体障害や病気などの属性によるものであった。それぞれに長い反差別の運動があり、差別克服の理論の蓄積もある。しかし、性的指向のマイノリティーに対する差別については、問題が新しいだけに人権擁護を標榜する人々の中にも、理解の不十分を否めない。
本特集は、「性的マイノリティー」といわれる人々に対する差別の実態を踏まえて、その性的な指向を人権と把握する立場から、法論理や、訴訟、立法のありかたについての現状と議論の内容を報告し、人権擁護の立場に立つ者にとってのスタンダードを提供するものである。
さらに、少数者の性的指向について人権としての把握を阻んでいたものは、家父長的な家族制度やそれを支えてきた社会意識ではなかったのか。ジェンダーギャップ克服の課題と、ジェンダーアイデンティテイの多様性の承認とは、実は同根のものではないのかという問題意識を各論稿から読みとることができる。この点では、国際人権の議論で一般化しているという「交差性」(複合的な差別)の概念が示唆に富む。
本特集は8本の論稿から成る。いずれも時宜にかなった、読み応えのある内容となっている。以下にその概要を紹介しておきたい。
巻頭の谷口洋幸論文は、問題の全体像を明晰に解説し、「LGBTQ関連の法政策における注目される論題」として、「同性同士のパートナー関係」「性別記載の変更」「SOGI差別禁止法制」の三つの論題に着目し、現状と課題を概観している。問題状況とあるべき理念を把握するのに適切この上ない好論文となっている。
前田朗論文は、国連人権理事会の担当専門家が二〇二一年に発表した「包摂の法」の解説を通して、国際人権論におけるジェンダー・アイデンティティに関する議論を紹介している。いわゆる先進国が到達した法制度や、国際的な世論や政治的な対応の趨勢を理解することができる。
「LGBTQ」の中で、最大の論争テーマは、「T」(トランス・ジェンダー)における性自認問題である。人権を語る者同士でも、時に激論の対象となる。ここに焦点を絞って「論争のあり方」を論じた貴重な論稿が、齋藤笑美子論文である。これで論争に終止符を打つことにはならなかろうが、その視点はどちらの立場にも示唆に富むものである。なお、問題の本質を「強制異性愛や家父長制との闘いとして理解すべき」とする論者の指摘に真摯に耳を傾けたいと思う。
藤井ひろみ論文は、医学的見地からの性的マイノリティ論である。かつて医学界は、LGBTを異常性愛であり精神疾患であるとして、治療の対象にした。精神疾患視から、人権としての把握への転換が興味深い。なお、この論文の冒頭部分にキーワードとなる各用語の解説がある。ぜひ、これを参照されたい。
鈴木賢論文は、アジアの先進国・台湾における、法制化成功例の報告である。同論文は、法形成のための公式ルートとして、「立法(国会)」「司法(憲法裁判所)」「直接民主主義(国民投票)」があり、これをフル稼働させたことが台湾の成功につながったという。そして、国民的な合意形成に支障になったのは宗教勢力であったということも、参考にすべきであろう。
わが国における同性婚法制化を求める訴訟と運動についての報告が三輪晃義論文である。まず、「結婚の自由をすべての人に」訴訟の意義と狙い、そしてその到達点を確認している。そして、裁判以外での取り組みが、実に楽しそうに生き生きと報告されている。運動論として、興味深い。
そして、立石結夏論文が、トランス・ジェンダー女性の「経済産業省事件」についての一・二審の報告である。原告となった当事者は、性自認女性であるが、性別適合手術を受けることができない。最も厳しい立場の「性同一性障害」者である。職場での「女性としての処遇」を求めての訴えは、一審では国家賠償法上の違法として認められたが、控訴審では否定された。上告審判決はまだ出ていない。当事者の苦悩がよく分かる論文となっている。
最後の北丸雄二論文は、ジャーナリストから見た背景事情についての報告である。現政権の首相秘書官による差別的発言が世論の糾弾を受けるという事件が生じて、この問題は法的・社会的問題としてだけでなく政治問題化した現状にある。自民党右派は性的少数者に対する偏見に、宗教カルトあるいは宗教右翼からの掣肘もあって問題を解決できない。しかし、世界と仕事を行うグローバル企業にとっては、この日本の後れは、経済と雇用に影響する大きな問題と意識されているという。
すべての人権課題がそうであるように、当事者の苦悩、とりわけ差別に対する苦悩について、社会が理解し共感することが出発点である。この理解と共感が広がり、個人の尊厳に関わる人権問題との把握につなげることで道は開けるのであろう。その道は、まだ狭く険しいが、着実に開かれつつある。
(編集委員 澤藤統一郎)
(2023年3月17日)
昨日の東京新聞朝刊トップに、「日本はLGBTQ法整備を」「2月に首相宛促す書簡 差別禁止訴え」「先進6カ国+EU駐日大使」という大見出し。
東京新聞のネット版では、「日本除いた『G6』からLGBTQの人権守る法整備を促す書簡」「首相宛てに駐日大使連名 サミット議長国へ厳しい目」という見出しになっている。いずれにしても、日本は「G7」の中で、たった一国の人権後進国扱いなのだ。G6とEUからの「議長国なんだろう。恥ずかしくないのか。この際何とかしろよ」という苛立ちが伝わってくる。
日本の政府は、この申入に「内政干渉だ」と条件反射してはならない。それでは中国政府並みの政権の実態が見透かされてしまうのだから。「我が国の醇風美俗を害する申入れ」と無視してはならない。それでは、文明国の仲間に入れてもらえないのだから。「うつくしい日本を壊そうとする陰謀だ」などと反発して見せる必要はない。「うつくしい日本を取り戻そう」と目を光らせている人は既に世にないののだから。そして、「同性婚を認めても、LGBTQ差別禁止法を認めても、けっして社会が変わることはない」のだから。
記事の概要は、以下のとおりである。
「先進7カ国(G7)のうち日本を除く6カ国と欧州連合(EU)の駐日大使が連名で、性的少数者(LGBTQ)の人権を守る法整備を促す岸田文雄首相宛ての書簡を取りまとめていたことが、分かった。元首相秘書官の荒井勝喜氏の差別発言をきっかけに、エマニュエル米大使が主導した。G7で唯一、差別禁止を定めた法律がなく、同性婚も認めていない日本政府に対し、今年5月の首脳会議(広島サミット)で首相が議長を務めることも踏まえ、対応を迫る内容だ。」
「日本でLGBTQの権利を守る法整備が遅れていることを念頭に『議長国の日本は全ての人に平等な権利をもたらすまたとない機会に恵まれている』と指摘し、国際社会の動きに足並みをそろえることができると求めた。」
「『差別から当事者を守ることは経済成長や安全保障、家族の結束にも寄与する』と強調。ジェンダー平等を巡り『全ての人が差別や暴力から守られるべきだ』と明記した昨年のG7サミットの最終成果文書に日本が署名したことにも触れ、『日本とともに人々が性的指向や性自認にかかわらず差別から解放されることを確かなものにしたい』と訴えた。」
「大使らは当初、公式な声明を出すことを検討したが、内政干渉と受け取られることを懸念し、非公式に各国の意向を示すことにした。書簡のとりまとめに先立ち、エマニュエル氏は2月15日に日本記者クラブで会見し『(LGBTQの)理解増進だけでなく、差別に対して明確に、必要な措置を講じる』ことを首相や国会に注文した。」
さて、「日本はG7で唯一、婚姻の平等を認めていない。LGBTQの差別禁止法も持たない」ことが、あらためて浮かび上がっている。これまで、「人権や民主主義という共通の価値観」を基盤に、自由主義陣営や民主主義同盟が形作られてきた。いま日本は、その一員であるという資格が問われている。
同日の東京新聞2面の「核心」欄に、「同性愛者を公表している日系のマーク・タカノ米下院議員は首相秘書官(荒井勝喜)の発言に反応し『日米は同盟を動機づける共通の価値観を忘れてはならない。LGBTQの権利に敵対的なのは専制主義者だ』とツイッターに書き込んだ」とある。
選択性夫婦別姓さえ認めないのが自民党の保守派である。さあ、岸田文雄よ。ここがロードスだ、跳べ。ここがルビコンだ、渡れ。自民党保守派総帥の亡霊と決別して、独自の路線に踏み切らねば、政権に明日はない。いや、日本に明日はないのだから。
(2023年2月7日)
昨年末までの臨時国会は「統一教会国会」だった。年が明けの今通常国会は、思いがけなくも「LGBT国会」の趣を呈しつつある。明らかに、前国会の空気と通底してのこと。まことに結構なことではないか。
統一教会の正式名称は「世界平和統一家庭連合」、略称を「家庭連合」としている。「家庭」は「反共」とともに、教団の教義を支えるキーワードの一つである。統一教会と自民党右派勢力は、いずれも「家庭」を旧社会の秩序を支える基礎単位と見た。その共通の理解によって、両者は緊密に癒着した。
この両者にとっての「家庭」とは、「伝統的・家父長制的家族像」と結びつき、個人の人権や自由、平等を抑圧する場でしかない。このような前世紀の遺物である特殊な家庭観からは、「LGBTへの理解」も「選択的夫婦別姓制度」も、あるべき社会の秩序を破壊するものとして、容認しえない。
統一教会とそのイデオロギーが強く糾弾された今、冷静に「『家庭』重視に藉口したLGBT差別や選択的同姓強制制度の不合理」を考える好機とすべきであろう。同性婚にも、選択的夫婦別姓制度にも、いまや反対しているのは、統一教会と癒着していた自民党右派だけなのだから。
混乱を招いている自民党の中心に岸田文雄という人物がいる。この人、何の信念も持たない人の典型に見える。あっちにおもねり、こっちに忖度しているうちに、今や自分が何者であるかを、完全に見失っている。防衛問題しかり、経済政策しかり、そして「LGBT」や「同性婚」「選択的夫婦別姓制度」問題においてしかりである。
彼は、2月1日衆院予算委で、同性婚の法制化を求める立場からの立憲民主党西村智奈議員質問に対して、こう答弁している。
「極めて慎重に検討すべき課題だ」「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だからこそ、社会全体の雰囲気にしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」
つまり、同性婚を認めれば、「社会が変わってしまう」と述べたのだ。これが、彼の信念から出た言葉なのか、党内安倍派へのおもねりによるものであるかは、おそらく彼自身にも分からない。そして、どちらでもよいことだ。
その2日後、荒井勝喜首相秘書官が、オフレコの会見で性的少数者や同性婚をめぐり問題発言に及ぶ。
「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「秘書官室もみんなが反対している」「同性婚を認めたら国を捨てる人がでてくる」
「首相だけではなく、僕だって(LGBTは)見るのも嫌だ」というのだ。「首相だけではなく、秘書官室もみんなが(同性婚に)反対している」だけでなく、「同性婚を認めたら、首相が『社会が変わってしまう』と言った通り、日本を捨てる国民が出てくる」とも言う。つまり、すべては秘書官として、首相の発言をフォローしたつもりだったのだろう。あるいは、徹底しておもねりの姿勢を見せたとも言うべきだろう。これが、岸田の言いたかった本音と読むこともできる。
このオフレコでの発言が記事になって、世の空気が変わった。事態を重く見た首相は4日に荒井を更迭。その差別発言について「不快な思いをさせてしまった方々にお詫び申し上げる」と陳謝した。「まったく政府の方針と反しています。国民に誤解を生じたことは遺憾だ」「言語道断」とも言ったが、何とも白々しい。
この事態への対応策として、自民党は一昨年お蔵入りしていた「LGBT理解増進法案」を、埃を払って持ち出してきた。茂木幹事長は会見で、「一昨年の場合、国会の日程で(LGBT理解増進法案の)提出には至らなかった。(今国会で)法案提出に向けた準備を進めていきたい」と語ったという。さて、そんな程度で治まるものか。
なお、一昨年5月自民党が法案提出を見送ったのは、国会の日程の都合ではない。「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」とする目的と基本理念に、右派の議員が声高に反対したからだ。安倍晋三亡き今、どうなるだろうか。
なお、首相の念頭には、今年5月のG7サミットが消えない。同性婚を認めていないのは、G7の中で日本一国だけである。理念ではなく、信念からでもなく、ただただ面子のために何とかしたいところのごとくである。
ところで右翼とは、個人の自立や自由、多様な生き方を否定する立場を言う。秩序が大好きで、常に権力的統制に親和性を示す。この人たちは、同性婚や選択的夫婦別姓の制度が出来ると、社会が崩壊すると心配するのだ。岸田も、荒井も、社会が壊れる、国民が国を見捨てると心配している。
この心配性の人たちに、「明日も太陽は昇る」と訴えたニュージーランド議会の名演説が今また、日本のネット上で再び注目されて話題になっている。その人、モーリス・ウィリアムソン議員はこう言っている。
「社会の構造や家族にどのような影響を与えるのか心配し、深刻な懸念を抱く人たちがいるのは理解できる」。しかし、「法案は愛し合う2人が結婚でその愛を認められるようにするという、ただそれだけのことだ」「(法案が成立しても)明日も太陽は昇る。あなたの十代の娘は何でも分かっているように口答えするだろう。あなたの住宅ローンは増えない。世界はそのまま続いていく。だから大ごとにしないで」
ニュージーランドには、今日も太陽が昇っている。日本を除くG7の国々にも。
(2023年2月2日)
一昨日(1月31日)、横浜地裁川崎支部で、やや奇妙な判決の言い渡しが報じられている。この奇妙な判決、統一地方選を目前にした今、軽視し得ない。
「選挙ヘイト」という言葉は以前からあったのかも知れないが、4年前の統一地方選挙戦で大きな問題となった。差別を専らにする団体が候補者を立て、選挙運動の名を借りて、大っぴらに差別をあおるヘイトスピーチが行われた。選挙制度が想定してこなかった事態である。我が国の民主主義の成熟度が劣化していることを象徴する現象と言ってよい。
差別的言動で知られる桜井誠を党首とする「日本第一党」なる政党が、2019年4月の統一地方選挙に、12の地方議会議員選に候補者を擁立した。当然のごとく全員落選ではあったが、彼らはけっして当選を目指して立候補したわけではない。彼らの目的は、選挙による言論の形式を借りて、差別的言論を有権者に発信しようということなのだ。ヘイトスピーチの場の獲得を目的とした立候補と言ってよい。
このとき、「日本第一党」は、川崎市議選に公認候補は立てなかったが、佐久間吾一という人物を大っぴらに支援した。この人、2回目の立候補。選挙公報に「保守系政党の主催する政治塾の塾生として政治に関する勉強と人脈を広げてきました」とある。そして「不法占拠池上町の解決」「表現の自由弾圧条例絶対反対」などを公約に掲げている。彼が反対する「表現の自由弾圧条例」とは、民族差別のヘイトスピーチ規制条例のこと。要するに、「ヘイトスピーチを規制するな」というのだ。
この選挙での佐久間の得票は959票で落選だった。最下位当選者の得票の約4分の1で、得票率は1・4%。ヘイトに反対する立場の市民団体からは、「(佐久間候補は)第一党と組んだことで差別する目的がはっきりし、当て込んだ保守層の支持も得られなかったのでは」とみられている。
この選挙が終わった後に、名誉毀損損害賠償請求の提訴があった。日本第一党の支援を受けた佐久間のヘイトスピーチ被害者が裁判を起こしたのではない。佐久間が原告となって、佐久間のヘイトスピーチを批判した新聞記者(神奈川新聞の石橋学記者)を被告とした裁判である。しかも、提訴は2件起こされ、併合して審理され判決になった。新聞社は被告にされていない。
併合前の各事件の請求金額はいずれも140万円で、併合されて合計280万円となった。1件は石橋記者が執筆した神奈川新聞の記事が、もう1件は街頭での選挙演説現場における石橋記者の発言が、原告の名誉を毀損したと主張されている。
判決の結論は、「神奈川新聞記事」の正当性を認めて請求棄却としたが、「選挙演説現場における記者の発言」の一部は違法とされ15万円の支払を命じた。これは信じがたい、表現の自由に対する裁判官の感覚を疑わざるを得ない。
この点について、東京新聞の記事を引用する。
「判決などによると、佐久間氏は19年2月の集会で川崎区池上町について『旧日本鋼管の土地をコリア系が占拠』『共産革命の拠点』などと発言。記事は(この発言を)『悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗(ひぼう)中傷』と断じた。判決は、記事は公益目的であり重要な部分について『真実』として請求を退けた」
「一方、同年5月の街頭演説中に石橋記者が『デタラメを言っている』などと指摘した発言については、『虚偽やデタラメと一方的に断じることはできない』として請求を認めた」
石橋記者の『デタラメを言っている』は、もとより同記者の意見ないし見解である。その発言が名誉毀損に当たるか否かは、背景事情や具体的な状況によって左右される。仮に、名誉毀損に当たるとしても、その意見の前提となる事実の真実性の立証は十分に可能ではないか。
「石橋記者の弁護団は『判決は記者の批判の正当さを認めた。池上町の住民の名誉は守られた』と評価。その上で演説中の名誉毀損の認定は『取材や批判を萎縮させ、表現の自由を揺るがす』として東京高裁に控訴する方針を示した」という。控訴審に期待したい。
2013年から川崎市内でヘイトデモが激化。これに対抗する反差別の運動が高まり、国のヘイトスピーチ解消法や市条例の制定につながったという。
「石橋記者は『外国人には選挙権もない。法律や社会を変えられるのは(われわれ)多数派だけだ』と確信し、取材を続けている。判決を受けて『声を上げてくれたマイノリティーの勇気と犠牲によって、差別を批判し、命を守る記事を書いてきた。私は少しも萎縮させられないし、萎縮しない』と話した」(東京新聞記事より)
「私は少しも萎縮しない」という石橋記者。その意気や良し、である。この記者の意気に応えて、高裁判決も「その理念や良し」「その憲法感覚や良し」となってほしいものである。
(2022年12月27日)
慌ただしい 年の暮れに、慌ただしい閣内の人事。秋葉賢也復興相と杉田水脈・総務政務官が更迭された。形の上では、任意の辞表提出が受理された。
岸田首相は、いつもながらの口先だけの「私自身の任命責任について重く受け止めている」。既視感ある光景というほどのことではない。何度も見飽き聞き飽きたことの繰り返し。この内閣発足は8月10日。4か月前のあのときから「秋の山寺」という言葉が飛び交い、誰が見ても不適切な杉田水脈の政務官登用には、世論への挑戦という臭いがした。あるいは安倍晋三後継勢力への阿りであつたか。
これで、「秋の山寺+1」の閣僚と、ヘイトの杉田が一掃されたことになるが、この間岸田の支持率は下がり続けた。世論は、「岸田内閣の本性見たり」という気分になったのだ。
岸田首相の、杉田更迭の説明は以下のとおりである。
杉田から、「差別意識はなく、その旨説明を尽くしたが、結果として国会審議に迷惑をかけることになった。過去の言動について精査して、問題があると判断したものは撤回することとしたが、自らの信念に基づき、撤回できないものもある。行政に迷惑をかけることはできないため、区切りがついたこの時点で辞任したいとの意向が示された」
おやおや、杉田はちっとも反省していないのだ。むしろ、「自らの信念に基づき、撤回できない」とさえ言ってのけている。岸田は、杉田の無反省を咎めていない。叱責するでもなく、更迭理由とするでもなく、聞き置くだけ。さすが、「聞くだけが特技」のお人。
また、辞表を受理した松本総務大臣は、「政府の一員として迷惑をかけてはいけないと考え、判断したという報告だった」と述べている。杉田水脈には、政府に迷惑をかけたという認識があるだけ。差別された少数者や、人権を重んじる市民社会への責任は感じていないのだ。
そして、杉田水脈自身が、「真意伝わらなかった」と開き直っている。「こんな人物」が大手を振って歩けるのが、日本の保守政界であり、「安倍政治」であり、岸田政権なのだ。
杉田の「辞任記者会見」の要旨は、「私の過去の発言、拙い表現に厳しいご指摘があり、それを重く受け止めて反省し、一部を取り消したが、その真意がなかなか伝わらないということもあった」「内閣の一員として迷惑をかけられないということで総合的に判断して、年末の節目としてこのタイミングで(辞職願を)提出した」(朝日)というもの。虚飾を剥げば、次のようなものである。
「私の過去の差別発言、本音の表現が、思いがけなくも厳しい世論の批判に遭い、その批判に対して、心ならずも『重く受け止めて反省し、一部を取り消します』と言わねばならない羽目に陥った。それを『私の真意がなかなか伝わらない』と誤魔化してきたのだが、岸田内閣がとても支えきれないと私を切る判断と知らされた。たいへん不本意ではあるが、力関係を総合的に考慮して更迭に抵抗できない。やむを得ないので、年末の節目のこタイミングで(辞職願を)提出して、多少の体面を保つより仕方がない」
各社が、記者会見の一問一答を載せている。その一部を引用しておきたい。質問に対して、きちんと答えずにはぐらかす回答の仕方は、安倍晋三に学んだものだろう。何を言っているんだかよく分からず不愉快なやり取りだが、分かることは、この人のヘイトスピーチは「自分を応援する支援者もいる」という自信に支えられていることである。
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――このタイミングで辞職願を提出した理由は。
◆先の国会で、私の過去の発言、拙い表現にいろいろ厳しいご指摘があり、それを重く受け止めて反省し、一部は取り消したが、さまざまな発言を精査する中で、やはり私の真意を分かっていただきたいという思いがある一方、その真意がなかなか伝わらないのではないかということもあった。私自身、信念を持ってやってきたので、信念を貫きたいと思う一方で、内閣の一員として迷惑をかけるわけにはいかないという思いもあり、総合的に判断して、年末の節目ということでこのタイミングで辞表を提出した。
――信念を貫くために辞職願を提出したのか。
◆国会でも、私の発言の追及でずいぶんと時間をとってしまったこともあり、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないと思った。また、この間、岸田文雄首相と松本総務相にすごくしっかり支えていただいて、私からは感謝しかないが、これ以上、迷惑はかけられないと思った。
――謝罪、撤回した発言以外も精査したとのことだが、そういったものも含めて発言自体は、信念を持って発言したことであって問題ないという考えなのか。
◆そうだ。そういう発言を聞いて応援をしてくださっている支援者もたくさんいる。
――これ以上、謝罪、撤回することはないか。
◆はい。しっかりと皆さんに真意を理解していただければ(と思う)。何度も申し上げているが、差別はしていない。ただ、その真意が伝わりづらいということだ。
――過去の発言で性的少数者の団体などが抗議したが、対応はどう考えているのか。
◆何度も申し上げているように拙い表現によって傷つかれた方がいるのであれば、謝罪する。ただ、それ自身が差別ではないということはずっと申し上げている。国会の場で謝罪、撤回したので、それをもって今回の謝罪と撤回にさせていただいたということだ。
――今後の政治活動についてはどう考えているか。
◆私を支援してくださっている方々がいっぱいいるので、代議士として、その方々の代弁者として、しっかり政治家として頑張ってまいりたい。
――杉田氏の貫きたい信念とはどういったものか。
◆私自身は差別は絶対にあってはいけないと思っている。そんな中で、やはり正直者がばかを見るというような社会にはしたくないと思っている。やっぱり、一生懸命頑張っている人が報われる社会にしていきたい。(毎日より)
(2022年10月29日)
東京都総務局に人権部がある。結構なことだ。この人権部が、東京都人権プラザという施設を開設している。運営主体は公益財団法人東京都人権啓発センター。常勤役員1人、常勤職員数18人(うち都派遣7人)という構成。
このセンターのホームページを開くと、立派な理事長挨拶が飛び込んでくる。
「21世紀は、「人権の世紀」といわれています。1948年の国連総会において「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と謳われた「世界人権宣言」が採択されて以来、わが国も、人権が尊重される社会の実現を目指して、さまざまな取組を行ってきました。
一方、私たちが暮らす社会を見渡すと、残念ながら、今なお様々な人権侵害が生じています。…差別やいじめ、インターネットを介した匿名型の誹謗中傷など、これまで経験したことのない新たな問題も生じており、差別や偏見を解消する取組が、ますます重要になってきています。…「人権尊重都市・東京」の実現が喫緊、かつ、重要な課題となっています。
弊財団は、東京都の公益法人として、「個人の尊重」と「法の下の平等」の保障という観点に立脚し、人権に関する様々な課題を看過することなくしっかりと見据え、差別や偏見のない明るい社会の実現に向けて、役職員一丸となって取り組んで参ります。」
この立派な理念にもとずく東京都の人権行政が、いま大きな批判を浴びている。「歴史修正主義・レイシズム・検閲」と並べたてられた批判。市民からのこんな怒りのメールが目に痛い。
「よりによって都の人権部が検閲を行ない、朝鮮人虐殺の隠蔽に加担するなんて言語道断です。「人権」を理解しない「人権部」って何ですか? 関係者は処分されるべきです」
各紙がこう報じている。
「朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映、都が不許可に 関係者『検閲だ』」(毎日)
「朝鮮人虐殺言及映像、都職員『懸念』メール 都『稚拙だった』と釈明」(朝日)
「東京都が朝鮮人虐殺題材の映像作品を上映禁止…作者『検閲だ』と批判 都職員が小池知事に忖度?」(東京新聞)
東京都設置の「東京都人権プラザ」での事件である。開催中の企画展で、関東大震災で起きた朝鮮人虐殺に触れた映像作品の上映が不許可とされた。この作品を作った美術家の飯山由貴が昨日(10月28日)記者会見を開いて明らかにし、「都による検閲が行われた。悪質で重大な問題だ」と批判した。
この企画展は「あなたの本当の家を探しにいく」というタイトルで、8月末?11月末の予定で開催。上映中止となった映像は2021年の制作の「In?Mates」という表題。26分程度のフィルム。1930〜40年に都内の精神科病院に入院していた朝鮮人2人の診療記録を基に、ラッパーで詩人の在日韓国人FUNIさんが当時の彼らと今の在日韓国人が抱える葛藤や苦難を表現。在日朝鮮人の歴史を専門とする外村大・東京大教授から「日本人が朝鮮人を殺したのは事実」と説明を受ける場面があるという。
都内で会見した飯山さんによると、11月末までの会期中に映像の上映とトークイベントを計画。だが6月、都人権部からプラザを運営する都人権啓発センターに、上映とイベントを禁じる通知があった。
人権プラザの運営は、都人権部からの指導で行われているが、飯山さんは、入手した人権部からセンターに送られた内部メールの内容を記者会見で公表した。当該メールは、《関東大震災の朝鮮人犠牲者への追悼式典に、小池百合子都知事が毎年追悼文を送っていないことを挙げ、「都知事がこうした立場をとっているにもかかわらず、朝鮮人虐殺を『事実』と発言する動画を使用することに懸念がある」と指摘していた》という。都は、このメールの存在と内容の真実性は認めている。
飯山さんは「在日コリアンへの差別に基づく検閲があったと思う。判断には小池都知事の姿勢が大きく影響しているのでは」と語った。今後、こうした事態が繰り返されないように署名活動を行い、知事宛てに要望書を提出するという。
都人権部の担当者はこのメールの存在と内容を事実と認めたうえで、「取りやめの理由は『障害者と人権』という企画の趣旨から外れているため。企画展はセンターが主催しており、スペースを貸し出して表現者が自由に表現する場ではない」と説明した。
さて、問題は元兇小池百合子の姿勢である。「28日の定例記者会見で、この問題について問われ、『(企画展は)精神障害者の人権がテーマだった。その趣旨に合わないということで(都人権部が)上映しない判断に至ったと聞いている』と説明した。」と報じられている。が、これはおかしい。メチャメチャにおかしい。
なによりも、他人事のごとき語り口がおかしい。「と聞いている」ではなく、自分の判断を語らねばならない。本来であれば、「あたかも、担当者が知事の意向を忖度して上映不許可の判断に至ったごとくに誤解を与えたことをお詫びします。全ての人の人権尊重の立場から、上映になんの問題もありません」と言えば、私も少しは見直したのに。
小池発言の内容もおかしい。「精神障害者の人権がテーマだったから、この映像はふさわしくない」と言うのはおかしい。どの精神障害者も、その属性・その環境にそれぞれの固有の問題を抱えている。女性の精神障害者には、女性特有の精神的な悩みがある。女性の社会的地位の問題を捨象しての「精神障害者の人権」を語ることはできない。労働者の精神障害罹患者には特有の労働環境問題がある。労働環境を捨象しては「精神障害者の人権」を論じがたい。当たり前のことだ。本件の映像は、「戦前の精神科病院に入院していた朝鮮人患者の境遇や苦しみを描き、関東大震災時の朝鮮人の虐殺にも触れた」ものである。「精神障害者の人権」を語るために、これ以上ないテーマではないか。
上映不許可は、小池に深く根差している、歴史修正主義とレイシズム、そして表現の自由に対する尊重の姿勢の欠如がもたらしたものと考えざるを得ない。
歴史修正主義とは、日本の広範な民衆が恥ずべき残虐行為を繰り広げた歴史的事実を認めたくないということである。関東大震災直後に、軍や在郷軍人や警察の煽動に乗せられて、自警団を組織した普通の日本人が、多数の朝鮮人や中国人を残酷になぶり殺したのが史実である。他の右翼と同様、小池もこの史実を認めたくないのだ。
その歴史修正主義の根底には、いわれなき他民族に対する差別意識と、何の根拠もない自民族についての優越意識がある。このレイシズムが、関東大震災後の朝鮮人虐殺犠牲者に対する追悼式への追悼文拒否となっている。知事の追悼文は、1974年の第1回追悼式以来の慣例となっていた。あの極右政治家・石原慎太郎ですら、毎回の追悼文を欠かさなかったのだ。それを、取りやめたのが小池百合子である。
もう一点、小池は、「関東大震災後の朝鮮人虐殺の認識については「東京で起こった大きな災害と、それに続くさまざまな事情で不幸にも亡くなられた方の例がある。全ての方々に対して哀悼の意を表するということで私自身は対応してきた」と述べている。これもおかしい。
自然災害の犠牲者と虐殺による犠牲者とを意図的に同列に置くことで、虐殺の史実を目立たぬようにし、何とか忘れさせよう、歴史から葬ろうというのが、小池の魂胆なのだ。これを受け容れてはならない、だまされてはならない。
(2022年6月16日)
人は平等である。これは民主主義社会における公理だ。差別はあってはならない。差別を間近に見ることもおぞましい。差別に曝されている人の辛さは想像を絶する。この世からあらゆる差別をなくさねばならない。あらゆる人がのびのびと生きていけるように。
しかし、現実には差別はなくならない。この世には差別が好きな人が、少なからずいるのだ。たとえば石原慎太郎。民族差別・人種差別・女性差別・障害者差別・思想差別・不幸な者に対する差別、弱い存在に対する差別…。この天性の差別大好き人間に対する糾弾の声が必ずしも社会全体のものとならない。この恥ずべき人物を支持する一定の勢力が確かに存在するのだ。
山縣有朋の死に対して石橋湛山が送った言葉が「死もまた社会奉仕なり」だという。石原の死に際してこの湛山の言葉があらためて引用され、社会は多少健全化されたかと思ったは甘かった。安倍晋三や渡辺恒雄らが発起人となって、「お別れ会」が開催された。差別大好き陣営の総決起集会である。
安倍晋三がこの会で、石原について、「いつも背筋を伸ばし、時に傍若無人に振るまいながらも誰からも愛された方だった」と発言したという報に接して驚愕し、ややあって驚愕した自分を恥じた。私は、差別された側の民族・人種・女性・障害者・思想、総じて弱者が石原を愛するはずはないではないか、差別をあってはならないとする多くの良識ある人々が石原を軽蔑こそすれ、愛するなんてとんでもない、そう思ったのだ。
しかし、石原や安倍の眼中には、差別される人も差別に憤る人もない。石原や安倍が言う「誰からも」とは、差別を肯定し、差別を笑う、差別大好き人間だけを指しているのだ。なるほど、確かに石原は、差別大好き人間の「誰からも」愛される存在だった。そして、安倍もその同類なのだ。
差別とは心根である。人の平等を認めたくないといういびつな精神の表れである。知性に劣り自我を確立できない人物は、常に自分が多数派で強者の側に属していることを確認したいのだ。社会を多数派と少数派に分け、多数派を優れたものとし少数派を劣ったものとする「思い込み」に基づいて、自分が多数派に属することでの安心を求める。
差別大好き人間にとっては、この世の人々が平等であってはならない。社会は水平ではなく凹凸がなければならず、自分が社会の上位の部分に属することを確認せずには安心が得られない。差別はまったくいわれのない侮蔑であるが、この差別を生む構造は、まったくいわれのない尊貴とこれに対する敬意(ないしは、へつらい)とを必要とする。
この世に「貴族」あればこその「卑族」の存在である。かつてはバカバカしくも、人の価値が天皇からの距離で測られた。今なお、その残滓がある。天皇がいるから、被差別部落があり、在日差別がまかりとおる。天皇や皇族に畏れいる心根と、在日や部落差別を受け入れる心根とは表裏一体と言わねばならない。
だから、差別を許さないと考える人が、天皇大好きであってはならない。天皇こそ、日本社会の差別の根源なのだから。今ころ、天皇や皇族なんぞに畏れいってはならない。天皇や皇族に近いという家柄をひけらかす輩を、真の意味で「人間のクズ」であると軽蔑しよう。人の家柄は、誇るべきものでも、卑下すべきものでもない。
再確認しておこう。人は平等である。在日も被差別部落も天皇も、人間の尊厳においていささかの区別もない。これは民主主義社会における公理である。外国人に対するいわれのない差別や、人の血筋をもってする差別の恥ずべきことは当然だが、これと裏腹の関係にある、天皇や皇族を貴しとする感性もまた恥ずべきことと知らねばならない。
(2022年6月5日)
一昨日(6月3日)、東京高裁(渡部勇次裁判長)が「ニュース女子ヘイト報道事件」での控訴審判決を言い渡した。判決の結論は、当事者双方からの控訴を棄却し、昨年9月の一審判決をそのまま維持するとした。
このところ選挙ムード一色の赤旗が、4日の社会面トップでこの記事を報道した。その見出しが、「DHCへの賠償命令維持」「辛淑玉さんへの名誉毀損認定」である。簡潔さがよい。形式的には、一審被告の法人格名は「株式会社DHCテレビジョン」である。そのとおり表記すべきが正確とも言えるだろうが、実質において「DHCテレビ」は、DHCの一部門に過ぎない。「DHCテレビ」はDHCの一人会社である。全株式を所有しているのが親会社DHC。もちろん、 「DHCテレビ」 の代表者はDHCのワンマンにして差別主義者として知られる吉田嘉明(取締役会長)である。このデマとヘイトに満ちた恥ずべき放送は、いくつもの部門をもつDHCの部門の一部に、その社風ないしは体質が表れたと見るべきであろう。違法と断定され、550万円の支払を命じられたのは外ならぬDHCなのだ。
赤旗は、本日も続報を掲載している。「一歩踏み込んだ」「『ニュース女子』訴訟控訴審判決」「原告の辛淑玉さんら評価」という、原告・弁護団の記者会見記事。
一般紙では、東京新聞の報道が、長い見出しで主要な論点を押さえている。「DHCテレビ『ニュース女子』の名誉毀損を認定」「高裁も一審判決支持『番組に真実性は認められない』」
東京新聞の報道は、注目されたところ。何しろ、DHCテレビとならんで被告にされたのが、元東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋なのだから。長谷川はこの番組の司会を務めていた。それでも東京新聞は真摯な報道姿勢を貫いている。そして見出しに「DHCテレビ」を出している。以下、一部を引用する。
「判決は、辛さんが組織的に参加者を動員して過激な反対運動をあおっているという番組の内容に、真実性は認められないと判断。現在もDHCのサイトで番組が閲覧できる状態で「韓国人はなぜ反対運動に参加する?」などとテロップで表示されているとして、「在日朝鮮人である原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない」と言及した。
番組の司会者だった本紙元論説副主幹の長谷川幸洋氏の責任については「番組の制作や編集に一切関与がなかった」とし、一審と同様に認めなかった。長谷川氏が辛さんに損害賠償を求めた反訴も同様に退けた。
番組は東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2017年1月に放送された。昨年9月の一審判決は、DHCに賠償と自社サイトへの謝罪文掲載を命じた。
判決後の会見で辛さんは「名誉毀損が認められてうれしいが、沖縄に対して申し訳ない気持ちもある。平和運動や沖縄を、在日である私を使ってたたくという、二重、三重に汚い番組だった」と振り返った。金竜介弁護士は、判決が出自に絡む誹謗中傷に言及した点に「人種差別をきちんと認めたことは評価できる」と話した。
朝日の見出しは、「東京MXの「ニュース女子」、高裁も「名誉毀損」 賠償命令を維持」である。これはいただけない。この見出しだけだと、東京MXが被告になっているように誤解されかねない。DHCの責任が浮かび上がってこない。
この番組を巡っては、BPO放送倫理検証委員会が 東京MX に対して、「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表。遅れてのことだが、 東京MX は番組の放送を打ち切り、辛淑玉さんに不十分ながらも謝罪している。DHCが頑強に、謝罪もせず、番組の削除もしなかった結果が訴訟での決着となった。朝日の見出しは、「東京MX」を「DHC」か「DHCテレビ」とすべきではなかったか。
毎日の見出しも、面白くない。「『ニュース女子』訴訟、制作会社に550万円賠償命令 東京高裁」である。「制作会社」とはそりゃ何だ。「DHC」も「DHCテレビ」も出て来ない。デマとヘイトの企業に、いったい何を遠慮しているのだと言いたくもなる。
当然のことながら、沖縄の報道は辛口である。沖縄タイムスは「沖縄差別 裁判問えず 辛さん勝訴 笑顔なし ニュース女子訴訟」と見出しを打った。辛さんが、「沖縄に対して申し訳ない気持ちもある」と言った点に、沖縄からの共感である。
そして、琉球新報が下記のとおり伝えている。「『プチ勝訴』ニュース女子制作会社が主張、上告も示唆 控訴審判決受け」という見出し。この明らかな敗訴判決を「プチ勝訴」というDHC側の異常な感覚を曝け出している。
「ヘイトスピーチ反対団体の辛淑玉共同代表への名誉毀損を認めた東京高裁の控訴審判決を受け、被告側のDHCテレビジョンが3日午後、東京高裁前で番組の収録を行った。同社の山田晃代表(社長)は「プチ勝訴」などと主張する一方、「金銭的な部分で不服」として賠償責任を負う点に不満を示し、上告を示唆した。
勝訴とは言わない。プチ勝訴と考えている。山田代表は同日午後の控訴審判決後、東京地裁前に姿を現し、報道陣に独自の主張を展開した。「プチ勝訴」とした理由について、同社ホームページで掲載を続ける番組の削除が命じられなかった点を挙げた。一審に続き550万円の賠償命令が出た点には「会社としてはね、やっぱり1円でも」「金銭的な部分で不服とするのは当然」と述べて「不当判決」とした。今後の方針を問われると「もうワンチャンスある」「上告に向けて検討する」として、「事実認定」の変更が期待しにくい最高裁の判断に望みを懸けた。」
この会社の体質がよく表れている。判決理由で「放送内容の真実性は認められない」「現在もDHCのサイトで番組が閲覧できる状態で『韓国人はなぜ反対運動に参加する?』などとテロップで表示されている。だから『在日朝鮮人である原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない』とされていることに何も反省しないのだ。一・二審とも、謝罪文の言い渡しを命じられていることにも意に介している様子はない。
この会社は、つまりはDHCとその経営を牛耳っている吉田嘉明は、根っからのレイシストである。法や判決で命じられない限り、「ヘイトのどこが悪いか」と居直る体質なのだ。一つは判決で、そしてもう一つは良識ある民衆の批判とDHC製品不買で矯正するしかない。
(2022年3月15日)
「死屍に鞭打った」のは、春秋時代の伍子胥である。父と兄の仇である楚の平王の墓を暴き、掘り起こした死体を鞭打って父と兄との恨みを晴らしたという。あまりに殺伐とした野蛮な行為だが、実は、その昔から死者は鞭打たぬものという常識あればこそ語り継がれた故事なのであろう。
石原慎太郎という、民主主義と人権の仇が亡くなったのが今年の2月1日。生前の石原の言動に対する批判の不徹底が歯がゆい。死者に対する肯定的な評価の傾向を「デス・ポジティビティ・バイアス(死による肯定バイアス、DPB)」と呼ぶのだそうだ(3月14日・毎日「過去の言動は死後に美化されるのか 石原慎太郎氏の死去から考える」)。そのような社会的現象が、石原の死にも生じているごとくだが、これは危険なことだ。徹底して、「デス・ネガティブ・バイアス(死による否定バイアス、DNB)」でなければならない。そうでなくては民主主義と人権の恨みは晴らせない。
石原慎太郎が亡くなったその日、法政大法学部の山口二郎が「石原慎太郎の訃報を聞いて、改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある」とツイートした。言わば、「死屍に鞭打った」のだ。これに批判的なリプライ(返信)が殺到したという。「自分も(石原の)遺族のこと傷つけてるのに」などというもの。
一方、同じ1日に共産党委員長の志位和夫は、国会内で記者団に「心からのお悔やみを申し上げたい」と述べた。さらに、「私たちと立場の違いはもちろんあったわけだが、今日言うのは控えたい」と語ったと報道されている。これに対して、SNS上では「礼節を重んじる常識人」「大人の対応」などと称賛の声が目立ったという。SNSとはそういうものなのだ。
私は、石原の訃報に機敏に反応した山口ツィートに共感する。石原とは弱い者イジメを気取って追随者を集めてきた人物である。実は世の中には、弱い者イジメ大好き人間がウヨウヨしている。石原慎太郎とは、彼らのアイドルだった。世に有害この上ない。
志位和夫の本心は知らず、そのわざとらしい振る舞いに辟易する。もっと率直にものを語ってもらいたい。弱者の側の味方に徹してもらいたい。
石原慎太郎は、ヘイトスピーチを振りまく差別主義者であるだけでなく、都政を私物化した、実質的意味での犯罪者でもある。
毎日新聞デジタル(最終更新 2/17 10:47)が、「石原慎太郎氏 都知事としての仕事ぶりはどうだったか」と題して、下記の検証記事を掲載しているのが興味深い。要点をご紹介させていただく。
「1999年に初当選して以来、圧倒的な得票で2回の都知事選を制してきた石原氏が初めて逆風にさらされたのが07年知事選だった。「都政私物化」が争点になったからだ。その源流は「サンデー毎日」が04年1月18日号から6回連載した調査報道「石原慎太郎研究」にある。取材・執筆の大半を私(日下部聡記者)が担当した。
交際費で飲食 登庁は週3日
都知事になった石原氏をそれまで、多くのメディアは国政を巡るキーマンか「ご意見番」的な位置づけで取り上げることが多かった。…むしろ、他の都道府県知事と同じように、自治体の長としての働きぶりを事実に基づいて検証する必要があるのでは――という問題意識が出発点だった。
都の情報公開制度を活用した取材の結果、飲食への交際費支出が異常に多く、米国出張時のリムジン借り上げやガラパゴス諸島でのクルーズ乗船など、海外視察の豪華さが浮かび上がった。一方で都庁に来るのは平均して週3日ほど。日程表には「庁外」とだけ記されて、秘書課ですら動静を把握していない日が多数あった。
サンデー毎日の記事を読んだ都民が石原氏に公金の返還を求めて起こした住民訴訟を契機に、都議会で「都政私物化」が問題化。記事掲載の3年後に知事選の争点となったのだった。
「ちまちました質問するな」
連載をしていた時、私は記者会見に出席して石原知事に見解をただした。
「キミか。あのくだらん記事を書いているのは」
石原氏は開口一番、そう言った。
「知事の親しい人に高額の接待が繰り返されていますが」
「親しい人間で知恵のある人間を借りてるわけですから、それをもって公私混同とするのはちょっとおかしいんじゃないの」
(石原慎太郎・東京都知事が新銀行東京の幹部らを知事交際費で接待した際の料亭の請求書がある。都への情報公開請求で開示されたこの請求書では、石原氏を含む計9人で総額37万2330円の飲食をした。1人あたり4万円あまりの計算となる。)
「知事は就任直前『交際費は全面公開する』『公開したくないなら、私費で出すべきだ』と言っています。他の道府県のようにホームページで全面公開するようなことは考えていませんか」
「いや、公示の方法はいくらでもありますから。原則的に公示してんだからですね、それを関心のある人がご覧になったらいいじゃないですか」
「本誌は海外出張が必要以上に豪華だと指摘しました」
「必要以上に豪華か豪華じゃないか知らないけど、乗った船のイクスペンス(費用)は払わざるを得ないでしょう。(中略)何か文句あんのかね、そういうことで。ちまちました質問せずに大きな質問しろよ。ほんとにもう」
約20分間続いた記者会見の最後に、私は再度質問の手を挙げたが、石原氏は「もういいよ」と遮り、会見場の出口へ歩きながら「事務所に聞け、事務所に」と言って姿を消した。
公人としての意識がどれだけあったか
石原氏は税金が都民のものであることを、どのくらい認識していたのだろうか。
石原都政最大の失策ともいうべき「新銀行東京」の設立から撤退への過程では、最初の出資金1000億円に加え、破綻回避のための400億円の追加出資にも税金がつぎ込まれた。しかし、経営が好転することはなく、少なくとも850億円の都民の税金が失われた。
振り返ってみれば、非常識な知事交際費や海外出張費の使い方は、新銀行の行方を暗示していたように思える。
若い時から作家として、「裕次郎の兄」として「注目を集め」続けてきた石原氏に、都の予算は公金であり、自身は有権者の負託を受けた公人であるという意識は薄かったのではないかと私は考えている。
高まる「都政私物化」批判の中、石原氏は都知事選2カ月前の07年2月2日の定例記者会見で一転、「反省してます」と述べ、以降は知事交際費の使用状況や海外視察の内容を都のウェブサイトで公表するようになった。選挙戦でも「反省」を前面に押し出した結果、「情報公開」を掲げた浅野史郎・元宮城県知事に大勝したのだった。」
都民は、こんな人物を長年知事にしていたわけだ。都民の民主主義成熟度や人権意識の低レベルを反映したものと嘆かざるを得ない。
(2022年2月23日)
法における正義とは何か、司法の役割とは、裁判官はどうあるべきか。そして人権とは、人間の尊厳とは、差別とは。さらに国会とは、議員とは。もちろん、弁護士のありかたも…。いくつものことを考えさせられ、教えられることの多い、昨日の旧優生保護法・違憲判決である。
まずは、大阪高裁での逆転認容判決を喜びたい。国は、上告することなくこの問題の全面的な政治解決を試みるべきだろう。スモンの橋本龍太郎、ハンセンの小泉純一郎に倣うことができれば、岸田文雄の株も大いに上がろうというもの。
法は正義の体系であり、法の正義を実現する手続が司法である。裁判官は、正義を見極めて判決を言い渡さなければならない。が、何が正義であるかは必ずしも容易に見えない。正義の所在を裁判官に示すのが、法廷での弁護士の役割である。
各地の弁護団に、とりわけ最初にこの事件に取り組んだ仙台弁護団に敬意を表しなければならない。仮に、私にこの事件の受任依頼があったとして、果たして喜んで受けたであろうか、と考えざるを得ない。事案の内容はこの上なく深刻な人権侵害である、しかも国家による違憲・違法な行為。いまだ社会に根強い優生思想と切り結ぶ事案である。真っ当な弁護士なら義憤を感じて役に立ちたいと思うのは当然である。
しかしこの事件、受任して本当に勝てるだろうか。勝訴の見込みは極めて低い。敗訴に終わった場合のリスクを考えると二の足を踏まざるを得ない。これが、普通の弁護士の感覚であろう。
除斥期間の壁はあまりにも高く堅固である。除斥期間の起算点を強制された不妊手術時ではなく、旧優生保護法の「差別条項」が削除され、母体保護法に改正された1996年9月まで遅らせても、除斥期間の経過は明らかである。現実にこの壁を突破できるのか。
むしろ、除斥期間の壁の突破ではなく、この壁を回避して、国会における人権救済立法措置を懈怠したという立法不作為の違法を問うとする請求の建て方の方が、まだしも見込みはあるというべきだろうが、これとて、立法不作為の違法を認めさせることは「ラクダが針の穴を通る」ほどの難しさ。受任の可否を打診された私は、「裁判は困難ですから、行政や国会での救済策が本筋でしょう」などと言っていたかも知れない。
それでも、各地に被害者の人権を救済しようという弁護団が結成されて、8地裁に困難覚悟の提訴がなされた。日本の弁護士、なかなかに立派なものではないか。
「原告らの無念の思いが裁判官の心に届いた」という、昨日判決後の大阪弁護団のコメントが、心に残る。裁判官に求められる最も必要な資質は、この「無念の思い」への共感力である。これあれば、法の正義の実現のために、一般的な法制度の壁を乗り越えることもできる。この判決は、「本件の提訴時には、既に20年の除籍期間は経過していた」ことを認めた上で、「除斥期間適用の効果をそのまま認めることは著しく正義・公平の理念に反する」と判断して、救済につながる除斥期間の適用制限を導き出した。
判決は、要旨以下のとおりに旧優生保護法とこれに基づく「優生手術」強制の違憲違法を認定した。
「旧優生保護法は特定の障害などを有する者に優生手術を受けることを強制するもので、子を産み育てるか否かについて意思決定をする自由や、意思に反して身体への侵襲を受けない自由を明らかに侵害するとともに差別的取り扱いをするものであるから、公共の福祉による制約として正当化できるものではなく、憲法13条、14条1項に反して違憲である。」
この自己決定権や身体の自由、差別を受けない権利の保障の実現が、「法的正義」である。この正義実現のために、時効制度も除斥期間も可能な限り正義実現のための合目的的な解釈を要求される。本判決はその見本となった。
ところで、この判決は、「旧優生保護法の立法目的は、優生上の見地から不良の子孫の出生を防止するものであり、特定の障害や疾患がある人を一律に「不良」と断定するものだ。非人道的かつ差別的で、個人の尊重という日本国憲法の基本理念に照らし、是認できない」(要旨)と述べている。優生思想を反憲法的で唾棄すべきものとする前提で貫かれている。
人は平等である。どの人の尊厳も等しく尊重されねばならない。人に、「良」も「不良」もない。そのようなレッテルを貼ってはならない。ましてや「優生手術」の強制などおぞましいかぎりである。
たまたま、本日は天皇誕生日。その「血統」故に「尊貴」な立場にあるとされる人物と、「血統不良」として子孫の出生防止の見地から若くして「優生手術」を強制された原告らと。同じ国の同じ時代に生きる者の間のあまりに深い落差に目が眩む思いがする。血統における「尊貴」も「不良」も厳格に否定するところから人権の尊重は始まる。