(2023年8月16日)
毎年、熱い夏の真っ盛りの8月15日に、あの戦争の敗戦記念日を迎える。
敗戦の4年前、1941年の8月には、天皇制政府はまだ対米英戦開戦の決断をしていない。アメリカの対日石油輸出全面禁止の経済制裁に戦火で応じるべきか対米外交で事態を切り拓くか、まだ近衛内閣が右往左往している時期。歴史を巻き戻すことができるのなら、このときに無謀な選択肢の回避あれば、300万に近い日本人の死は防げた。さらには2000万人に近い近隣諸国民に対する殺戮も防止できた。
41年9月6日の御前会議で、開戦の方向性がほぼ決まったとされる。その前日、天皇(裕仁)は、陸軍参謀総長と海軍軍令部長を呼びつけて、「(対米開戦をした場合に)必ず勝てるか」と聞いている。もちろん、彼我の戦力の大きな落差を知悉している専門家が、「勝てます」というはずもない。それでも、舵は開戦の方向に切られて行く。無責任の極み。
その年の10月には近衛が政権を投げ出し、主戦派の陸相東条英機に組閣が命じられる。こうして、国民の知らぬうちに12月8日開戦の準備が進む。宣戦布告なき不意打ちによる緒戦の戦果を、裕仁はいたく喜んだという。
しかし、42年の夏には既に形勢が逆転していた。早くも4月にドゥーリットルの東京空襲があり、6月にはミッドウェー海戦での大敗北があった。43年の夏は撃墜された山本五十六国葬の後に迎えている。多くの人が、日本は勝てないのではないかと思い始めていたころ。そして、44年の夏には、サイパン守備隊全滅後に東条内閣が倒れて小磯国昭内閣が成立している。既に敗戦必至の夏であった。
そして1945年の特別に熱い夏、何よりも「遅すぎた聖断」がもたらした惨禍の中で迎えた夏である。為政者の決断の遅延がかくも甚大な被害をもたらすという典型として記憶されねばならない。天皇(裕仁)が「一撃講和論」や「国体護持」に固執せず、早期降伏を決断していれば、東京大空襲も沖縄の悲劇もヒロシマ・ナガサキの惨劇もなかった。天皇(裕仁)の責任が開戦にあることは当然として、終戦遅延の責任も忘れてはならない。
その天皇(裕仁)の孫(徳仁)も出席して、昨日政府主催の「全国戦没者追悼式」が挙行された。毎年のことではあるが、主催者である首相の式辞には大きな違和感を禁じえない。昨日の岸田首相式辞全文を引用して、点検しておきたい。以下「」内が首相式辞であり、続く( )内が私のコメントである。
「天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」
(冒頭に「天皇、皇后両陛下のご臨席」はあり得ない。あたかも式の主役が「天皇、皇后両陛下」であるごときではないか。冒頭の呼びかけは、何よりも「戦没者」あるいは、「戦没者のご遺族」としなければならない。「天皇、皇后両陛下」への言及はなくてもよい。あっても最後でよい。そして、天皇を「仰ぐ」必要はまったくない)
「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に倒れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。今、すべての御霊の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」
(「祖国」に違和感が拭えない。「祖国の行く末を案じつつ戦場に倒れた」人がなかったとは言えないにもせよ、多数であったはずはない。少なくとも、ここに真っ先に掲げることではない。無惨に自分の人生を断ち切られた無念。家族や愛する人との離別を強いられた怨みや悲しみや悔恨の情なら共有できる。「祖国」や「国体」が顔を出せばシラケるばかり)
「今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。」
(常套文句だが、明らかに間違っている。これでは、戦争賛美の文脈ではないか。「今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」とは、「あなた方が命を掛けてあの戦争を果敢に戦ってくれたおかげで、生き延びた者が今日の平和と繁栄を手に入れた」「あの戦争が今日の平和と繁栄をもたらした」と読むしかない。あたかも、あの戦争が正しいものだったと言わんばかりではないか。戦没者に捧げるものが「敬意と感謝の念」ではおかしくないか。実は、あの不正義の侵略戦争に加担させられた多くの戦没者の戦闘行為は、今日のわが国の「平和」や「繁栄」に何の因果関係も持たない。あの戦争を徹底して否定することから、今日の「平和」も「繁栄」も出発しているのだ。だから、戦没者に捧げるべきは「謝罪と悔恨と不再戦の決意」でなければならない)
「いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。国の責務として、ご遺骨の収集を集中的に実施し、一日も早くふるさとにお迎えできるよう、引き続き、全力を尽くしてまいります。」
(異論はない。厚労省によると22年末時点で海外での戦没者およそ240万人のうち、半数近い112万人ほどの遺骨が未収容のままなのだという。急がねばならない。「引き続き、全力を尽くす」では、あたかもこれまでも「全力を尽くして」きたようではないか)
「戦後、わが国は一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。
(正確には、「戦後、わが国の政権与党は一貫して、再軍備を図り国防国家建設を目指してまいりましたが、国民多数がこれに与せず、結果として平和国家としてその歩みを進めてまいりました」と言うべきだろう)
「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いを今後も貫いてまいります。いまだ争いが絶えることのない世界にあって、わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携え、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、そして、これからの世代のために、国の未来を切り開いてまいります。
(「積極的平和主義」がいけない。これは、安倍晋三以来、圧倒的な軍事力の増強によって自国の平和を守ろうという考え方を意味する。「積極的平和主義」の旗のせいで、「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓い」は、再び敗戦の憂き目を見ることのなきよう軍備を増強する、という意味になりかねない)
「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまにはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」
(この文章は良い。飾り気なく、分かり易く、遺族の気持ちに添うものとなっている)
天皇(徳仁)もこの式に出席しただけでなく、一言述べている。首相と違って、その存在自体が違和感の塊なのだから、その一言々々に改めての違和感を論じるまでもないと言えばそのとおりではあるのだが…。
「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」
(「深い悲しみを新たにいたします」と、その程度のものだろうか。戦没者に対して、いたたまれない自責の念はないのだろうか。痛切な反省の思いの感じられない一言)
「終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。」
(「多くの苦難に満ちた国民の歩み」とは、戦争の惨禍からの立ち直りの過程を言っているのだろうが、「天皇の名による戦争」を起こし、苦難を強い、国体護持のために戦争終結を遅延した祖父の責任を、少しは身に沁みて感じているのだろうか)
「これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。」
(「私たち皆で心を合わせ続けることを、心から願います」って、意識的な天皇独特文法なのだろうか、それとも単なる出来の悪い文章に過ぎないのか)
「ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
(今年も挿入されたこの部分、「過去を顧み、深い反省の上に立って」が話題となっている。しかし、この「過去を顧みての深い反省」は、誰が誰に対して何を反省しているのか、さっぱり分からない。近代天皇制国家による侵略先近隣諸国民に対する殺戮や強奪の反省であれば立派なものだが、残念ながら「謝罪」の言葉がない。自国民に対する天皇の戦争への動員についての反省でも、戦没者遺族には慰謝になるのではないか。来年は、「過去を顧みての深い反省」の内容を明晰にする努力をしてみてはいかがか)
(2023年8月12日)
夏、戦後78年目の8月である。猛暑のさなかではあるが、既に新たな戦前ではないかというささやきが聞こえる中、あの戦争を忘れてはならない、戦争の悲惨と平和のありがたさを語ろう、という催しが例年に増して盛んである。
私の地元文京区でも、シビックセンターで、まず武田美通全作品展「戦死者たちからのメッセージ」(7月20日(水)?25日(火))が開催された。勇ましい兵士ではなく惨めに戦死した兵士、この上なく傷ましい戦没兵の鉄の造形。リアルな軍装のまま骸骨と化した兵士たちの群像が衝撃的である。
物言いたげな鉄の死者たち、死後もなお軍装を解くことを許されない兵士の群像から放たれているものは、鬼気迫る怨みの霊気。決して穏やかに靖国に鎮座などできようはずもない、浮かばれぬ者たち。
この兵士たちは、生前には侵略軍の一員であったろうが、欺され、強いられ、結局は無惨に殺されたことへの、憤懣やるかたない怒りと怨みとそしてあきらめ。生者を撃つ力を感じさせる死者の鉄の造形であった。
https://sites.google.com/view/takedayoshitou/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0
次いで今年も、「平和を願う文京・戦争展」(8月10日(木)?12日(土))が開催されている。宣伝チラシに、「日本兵が撮った日中戦争『南京で何が起こったのか』」とテーマが語られている。
この「戦争展」は、第5回である。2019年の第1回展以来、文京区(教育委員会)に後援を申請している。そして、5回とも却下の憂き目に遭っている。どうにも、納得しがたい。
この間の経緯を昨日(8月11日)の東京新聞が、「戦争写真展の『後援』を文京区教委が5年も断り続けるのはなぜ? 『議論が分かれている』と展示に注文」という見出しで報じている。
「日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮った写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」を巡り、開催地の東京・文京区教育委員会が、主催者の後援申請を認めない状態が五年にわたり続いている。展示の中にある写真説明の表現が、政府見解と異なる点などが主な理由という。一方、主催者側に内容を変える意向はなく、議論は平行線をたどっている。
写真展は二〇一九年、戦争を加害と被害の両面から見つめ直そうと、日中友好協会文京支部が始めた。区出身の村瀬守保さん(一九〇九?八八年)が戦地で撮影した写真のパネルを展示。兵士の日常から遺体が並ぶ様子まで、さまざまな場面が写されている。
主催者側は、第一回から後援を申請。しかし、一九年七月の教育委員会定例会の議事録によると、「議論が分かれている内容で、中立の立場を取るべき教育委員会が後援することは好ましくない」などとして不承認を決定。翌年以降も同様の理由で承認していない。
区教委が問題視しているのは、展示の中にある「(慰安婦の)強制連行」や「南京大虐殺」などの表現だ。だが主催者側は、日中友好協会から写真と説明文をセットで借りており、表現は変えられないとする。日中友好協会文京支部長で実行委員長の小竹紘子さん(81)は「歴史に正面から向き合わなければ、日本が世界から信用されなくなってしまう」として、引き続き区教委の後援を求めていく考えを示す。
一方、区教委の担当者は「南京大虐殺」という表現が政府見解と異なるとした上で、「表現を変えるなどの対応をしてもらうことが、議論の入り口になると考えている」と説明しており、堂々巡りの状況が続いている。」
文京区が平和主義に特に後ろ向きというわけではない。1979年12月には、「文京区平和宣言」を発出している。宣言の文言は、下記のとおりである。
「文京区は、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、ここに平和宣言を行い、英知と友愛に基づく世界平和の実現を希望するとともに人類福祉の増進に努力する。」
さらに、1983年7月には、下記の文京区非核平和都市宣言を発している。
「真の恒久平和を実現することは、人類共通の願いであるとともに文京区民の悲願である。文京区及び文京区民は、わが国が唯一の被爆国として、被爆の恐ろしさと被爆者の苦しみを全世界の人々に訴え、再び広島・長崎の惨禍を繰り返してはならないことを強く主張するものである。
文京区は、かねてより、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、平和宣言都市として、永遠の平和を確立するよう努力しているところであるが、さらに、われわれは、非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、「非核平和都市」となることを宣言する。」
文京区も、形の上では平和を希求する姿勢をもっている。戦争を考える企画を自ら主催することもないわけではない。しかしその企画は、戦争の被害面についてだけ、あるいは日本に無関係な他国間の戦争についてのものにとどまり、日本の加害責任に触れる企画はけっしてしようとしない。後援すら拒否なのだ。
本音は知らず。その表向きの理由を、教育委員会議事録から抜粋すると次のとおりである。
教育長(加藤裕一)「皆さんのご意見をまとめますと、中立公正という部分と、あと見解が分かれているといったところ、あるいは政治的な部分、そういったところを含めて総合的に考えると、今回についてお受けできないというご意見だと思います。それでは、この件については承認できないということでよろしいでしょうか。(異議なし)それではそのように決定させていただきます。」
この結論をリードしたのは次の意見である。
坪井節子委員(弁護士)「今の情勢の中で、この写真展、南京虐殺があった、あるいは慰安婦の問題があったという前提で行われる催しに教育委員会が後援をしたとなりますと、場合によってはそうでないという人たちから同じようなことで文京区の後援を申請するということが起きることは考えられると思います。シンポジウムをしますからとか、文京区は公平な立場であるのであれば、あると言った人も後援したんだから、ないと言っている人も後援しろというジレンマに陥りはしないか。そういうところに教育委員会が巻き込まれてしまうのではないか。そこにおいて私は危惧をするんです。教育の公正性ということを教育委員会が守るためには、シビアに政治的な問題が対立するところからは一歩引かないとならないんじゃないかと…。」「そういう意味において、今回の議案については同意しかねるという風にさせていただきたい。」
この「中立・公正」論は、いま全国で大はやりである。歴史修正主義者・ウルトラナショナリストの声高な主張を引用し、これを口実にして、真実から目をそらす手口なのだ。結果として、歴史修正主義に加担することになる。いや、これが、歴史修正主義に与するための常道なのだ。こんな形式論で、結論を出されてはたまらない。それこそ教育委員の見識が問われねばならない。
たとえば、ナチスのホロコーストの存在は歴史的事実と言ってよい。しかし、ホロコースト否定論は昔から今に至るまで絶えることはない。動かしがたいナチスの犯罪の証拠に荒唐無稽な否定論を対峙させて、「中立・公正」な立場からは、「両論あるのだから歴史の真実は断定できない」と逃げるのだ。
小池百合子の「9・1朝鮮人朝鮮人犠牲者追悼」問題も同様である。歴史を直視することを拒否する右翼団体が、「自警団による朝鮮人虐殺はウソだ」「犠牲者数が過大だ」「朝鮮人が暴動を起こしたのは本当だ」と騒いでいることを奇貨として、それまで毎年追悼式典に出していた都知事による追悼文を撤回する口実に使った。
天動説と地動説、両論あるから「中立・公正」な立場からは真実は不明と言うしかない。科学者は進化論を真理というが、人間は神に似せて作られたと信じている人も少なくない。「中立・公正」な立場からは、どちらにも与しない。
教育勅語は天皇絶対主義の遺物として受け容れがたいという意見もあるが、普遍的道徳を説いたものという見解もある。放射線は少量であっても人体に有害という常識に対して一定量の放射線は人体に有益という異論もある。「中立・公正」な立場からは、シビアに問題が対立するところからは、一歩引かないとならないというのか。
中華民国の臨時首都であった南京で、皇軍が行った中国人非戦闘員や投降捕虜に対する虐殺には多くの証言・証拠が残されている。その規模についての論争は残るにせよ、この史実を否定することはできない。日本軍従軍慰安婦の存在も同様である。個別事例における強制性の強弱は多様であっても、日本軍の関与は否定しがたい。あったか、なかったかのレベルでの論争が存在するという文京教育委員諸氏の発言が信じ難く、その認識自体が、政治学的な研究素材となるべきものと指摘せざるを得ない。
一昨年(2021年)の「戦争展」では、来場者に文京区長宛の「要望書」(2020年12月14日付)が配布された。A4・7ページの分量。南京事件も、従軍慰安婦も、史実である旨を整理して分かり易く説いたもの。この件についての歴史修正主義者たちのウソを明確に暴いている。
「史実」の論拠として挙げられているものは、まずは外務省のホームページを引用しての詳細な日本政府の見解。そして、家永教科書裁判第3次訴訟、李秀英名誉毀損裁判、夏淑琴名誉毀損裁判、本多勝一「百人斬り訴訟」などの各判決認定事実の引用、元日本兵が残した記録や証言、南京在住の外国人やジャーナリスト、医師らの証言、この論争の決定版となった偕行社(将校クラブ)のお詫び、日中両国政府による日中歴史共同研究…等々。
それでも、文京区教育委員会は頑強に態度を変えなかった。この展示の中で、一番問題となったのは、揚子江の畔での累々たる死体でも、慰安所に列をなす日本兵の写真でもなく、中国人捕虜の写真に付された下記のキャプションであったという。
捕虜の使役 「漢口の街ではたくさんの捕虜が使われていました。南京の大虐殺で世界中の非難を浴びた日本軍は漢口では軍紀を厳重に保とうとして捕虜の取り扱いには特に気を使っているようでした。捕虜の出身地はいろいろです。四川省、安徽省などほとんど全国から集められているようで、中には広西省の学生も含まれていました。貴州の山奥に老いた母と妻子を残してきたという男に、私はタバコを一箱あげました。」
この文章の中の「大虐殺」「世界中の非難」がいけないのだという。とうてい信じがたい。これが、「日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」(2019年8月2日東京新聞記事見出し)の正体なのだ。
私は、かつて「『南京事件をなかったことにしたい』人々と、『あったかなかったか分からないことにしてしまいたい』人々と」という表題のブログを書いたことがある。
https://article9.jp/wordpress/?p=20462
毎年12月13日が、中国の「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」である。現在、「国家哀悼日」とされて、日中戦争の全犠牲者を悼む日ともされている。この「南京大虐殺」こそは、侵略者としての皇軍が中国の民衆に強いた恥ずべき加害の象徴である。
私も南京には、何度か足を運んだことがある。「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」も訪れている。そこでの印象は、激しい怒りよりは、静かな深い嘆きであった。粛然たる気持にならざるを得ない。
私の同胞が、隣国の人々に、これだけの残虐行為を働いたのだ。人として、日本人として、胸が痛まないわけがない。
しかし、日本社会は、いまだに侵略戦争の罪科を認めず、戦争責任を清算し得ていない。のみならず歴史を修正しようとさえしている。そのことについては、戦後を生きてきた私自身も責任を負わねばならない。安倍晋三のごとき人物を長く首相の座に坐らせ、石原慎太郎や小池百合子のごときを都知事と据えていたことの不甲斐なさを嘆いても足りない。そんな社会を作ったことの責めを自覚しなければならない。
南京事件にせよ、関東大震災後の朝鮮人虐殺にせよ、細部までの正確な事実を特定することは難しい。虐殺をした側が証拠を廃棄し、直後の調査を妨害するからだ。大混乱の中で大量に殺害された人々の数についても正確なところはなかなか分からない。
細部の不明や、些細な報道の間違いを針小棒大にあげつらって、「南京虐殺」も、「朝鮮人虐殺」もなかった、という人たちがいる。事実の直視ができない人たち、見たくないことはなかったことにしたいという、困った人たちである。
「南京虐殺40万人説」はあり得ない、「30万人説も嘘だ」。だから、「実は、南京虐殺そのものがなかったのだ」という乱暴な「論理」。
そういう人たちの「論理」の存在を盾に、「『南京虐殺』も、『朝鮮人虐殺』もあったかなかったか、不明というしかない」という一群の人たちがいる。実は、こちらの方が、「良識の皮をかぶっている」だけに、もっともっと困った人たちであり、タチが悪いのだ。
旧軍がひた隠しにしていた南京虐殺は、東京裁判で国民の知るところとなった。以来、日本国政府でさえ、「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数は諸説あり認定できない」としている。ところが、「不明」「不可知」に逃げ込む人々が大勢いる。知的に怠惰で、卑怯な態度といわねばならない。これが、後援申請を却下した文京区教育委員の面々である。人として、日本人として、胸の痛みを感じないのだろうか。区教育委員会には何の見識もない。戦争を憎む思想も、戦争への反省を承継しようとの良識のカケラもない。
文京区教育委員会事案決定規則によれば、この決定は、教育委員会自らがしなければならない。教育長や部課長に代決させることはできない。その不名誉な教育委員5名の氏名を明示しておきたい。
教育委員諸氏には、右翼・歴史修正主義者の策動に乗じられ、これに加担した不明を恥ずかしいと思っていただかねばならない。自分のしたことについて、平和主義に背き、歴史に対する罪を犯したという、深い自覚をお持ちいただきたい。
戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民全体が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」に後援を不承認というのは、あまりの不見識。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得してでも、後援実施してこその教育委員の見識ではないか。
「政府や世間に逆らうと面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。
このような結論を出しつつけてきた不名誉な教育委員5氏の氏名を改めて明示しておきたい。なんの役にも立たずお飾りだけの教育委員であることに、少しは反省を気持ちを持っていただきたいのだが…。
教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
なお、田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)は昨年退任し、福田 雅(日本サッカー協会監事)に交替している。あたかも、「日本サッカー協会枠」があるがごとくではないか。はなはだ不明朗で、不快この上ない。
(2023年6月13日)
こちらは「本郷・湯島9条の会」です。貴重な梅雨の合間、お昼休みのひとときですが、しばらく耳をお貸しください。
通常国会の最終盤です。会期末まで、あと1週間。今、国会は、もっぱら数の力が支配する異常な世界となっています。奇妙な法案が次から次へと一丁上がり。なんという政治でしょうか。なんという政治家たちでしょうか。そして、なんという与党と、なんという御用野党。
いま、この異常国会の主役は、《自・公・維・国》という4政党となっています。この4党が徒党を組んで悪法を製造しています。言わば、悪法製造4兄弟。長兄は自民党ですが、自民党だけでは力が足りない。単独採決だ、独走だと叩かれる。これまでは、この自民党と持ちつ持たれつでつるんできたのが次弟の公明党。この党、昔は「平和と福祉の党」と自称していたそうですが、まことに虚しい。そして、このところ自民の右側にしゃしゃり出てはしゃぎ始めた3弟が維新です。そして、あの、例の、とんでもない御用組合の「連合」に支えられた末弟の国民。
この4兄弟の一致協力による努力で、人権と民主主義と平和をないがしろにする悪法が制定され続けています。この4兄弟を呼ぶ順序は、確かに《自・公・維・国》なのですが、覚えやすくは、すこし順序を変えて《自・国・維・公》というべきなのです。で、「国」には濁りを付けて、《ジ・ゴク・イ・コウ》と読んでください。そう、《地獄さ行こう》《地獄へ行こうぜ》と覚えるべきなのです。このままでは、4兄弟に地獄に引っ張られてしまうのが私たち国民です。
いうまでもなく、ここでいう地獄とは戦争のこと。改憲を実現し、9条をなくして、日本を戦争ができる国にするのが、危険な「地獄の4兄弟」。
ご承知のとおり、いま、ウクライナは地獄です。プーチンのロシアを徹底して批判し、非難しなければなりません。そして肝に銘じなければならない。絶対に日本を、ロシアのような、大日本帝国のような、侵略国家にしてはならない、と。
同時に、私たちは学ばねばなりません。ウクライナになってもならない。侵略を受けたウクライナに思いを寄せ、難民支援や復興に援助しなければなりませんが、ウクライナにならないように知恵を働かせ、力を合わせなければなりません。
いま、4兄弟は口を揃えて、こう言います。
「日本をウクライナにしないためには、日本の軍事力を拡大しなければならない」「ウクライナにならないためには、大軍拡もそのための、国債発行も大増税もやむを得ない」「大軍拡こそ平和への道である」「軍需産業育成もしなきゃならん」
「平和を望むなら戦争を準備せよ」「平和のためには軍備拡張が必要だ」。これこそ、古来好戦的な為政者が、繰り返し称え続けてきたき禍々しき呪文です。これに欺されてはなりません。
近代日本は、まさしく「平和のために戦争を準備し、平和維持を名目に際限のない軍備の拡大を続けた」国でした。皇国の平和、東洋平和のために、ひたすら軍事大国化を目指し、戦争を繰り返したのです。で、どうなったか。「平和」は実現しなかった。侵略戦争を続けて、結局国は亡びたではありませんか。
「平和を望んでの戦争の準備」は、必然的に「安全保障のパラドックス」に陥ることになります。自国が軍備を拡張すれば、相手国も負けじと拡大します。相手国が軍備を拡大すれば、自国もそれに負けない軍備を持たなければ安心できない。お互いに相手を信頼していない以上は、お互いに相手を上回る軍備拡大の競争を継続するしかないことになります。それこそ、「自公維国」の4兄弟がいざなう、「地獄へ行こう」の道にほかなりません。
軍事予算を5年で43兆円とし、その後はGDP比2%にするなどは、狂気の沙汰と言わねばなりません。そのための「軍拡予算確保法案」であり、「軍需産業育成法案」なのです。危険な亡国法案というしかありません。
大軍拡には、大増税がセットです。そして、福祉や教育の予算を削らざるを得ません。「欲しがりません、勝つまでは」という世の中に後戻りさせてはなりません。もちろん、地獄へは行きたくない、この世を地獄にしたくもない。今なら、まだ間に合います。
「衆議院の解散近し」とささやかれる昨日今日です。「地獄へ行こう」という4兄弟に、すっぱりと決別されるようお願いして、「本郷・湯島9条の会」からの訴えとさせていただきます。お聞きくださり、ありがとうございます。
(2023年3月22日)
岸田文雄はウクライナを訪問し、習近平はプーチンを訪ねた。両者ともに安易な訪問先の選択である。本来の外交は、その逆であるべきではないか。
岸田がモスクワに足を運べば、世界を驚かす「電撃訪問」となっただろう。たとえ成功に至らずとも、プーチンに撤兵を促し、和平の提言をすることで日本の平和外交の姿勢を示しえたに違いない。国際政治における日本の存在感を世界にアピールすることにもなったろう。訪問先がキーウでは、インパクトに欠ける。平和へのメッセージにもならない。NATO加盟国首脳のキーウ訪問に必然性はあろうが、日本の首相がいったいなぜ、何のための訪問だろうか。
また、習がプーチンより先にゼレンスキーと会談していれば、停戦仲介の本気度をアピールできたであろう。しかし、落ち目のプーチンと会うことで、恩を売ろうとの魂胆丸見えの訪露は、やはりインパクトは薄い。
チャップリンの「独裁者」を思い出す。徹底的に俗物として描かれたヒトラーとムッソリーニ、その両者の会談の場面。お互いにマウントをとろうとする所作の滑稽さが、「独裁者」の内面を炙り出す。この映画の公開が、ヒトラー死の5年前、1940年の公開だというから驚かざるをえない。言うまでもなく、習もプーチンもその同類でしかない。
米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは「きょうのウクライナは、あすの東アジアかもしれない」との岸田の発言を引用。「ウクライナ侵攻や中露接近が、台湾有事を警戒するアジアの米同盟国をより結束させている」と報じている。岸田のウクライナ訪問は平和を求めてのものではなく、軍事同盟強化のための外交と受けとめられているのだ。
【ワシントン時事】の報道では、米欧メディアは、岸田と習の動きを、「自由民主主義陣営と専制主義陣営との対比」として描いているという。「日本はウクライナ政府への多額の援助を約束したが、中国は孤立を深める戦争犯罪容疑者のプーチンを支える唯一の声であり続けた」と。岸田も習も、それぞれのブロック強化のために動いているに過ぎず、けっして和平のための戦争当事国訪問ではない、という理解なのだ。
外交は難しいが、戦争よりはずっと容易である。そして、戦争を避けるためには外交を活発化する以外にない。小泉純一郎は、北朝鮮との国交回復に意欲を見せ、日朝ピョンヤン宣言の成立まで漕ぎつけた。今振り返って、あの宣言内容の到達点を立派なものと称賛せざるをえない。惜しむらくは、その後の信頼関係の継続に失敗した。無念でならない。
あのとき、北朝鮮との信頼関係構築のチャンスだった。これを潰したのは、右翼勢力を背景とした安倍晋三である。以来北朝鮮との関係を硬直せしめ、拉致問題解決に進展が見られないことの責任の大半は、安倍晋三とその取り巻きにある。
北朝鮮は、人権思想も民主主義も欠いたひどい国ではあるが、それゆえ外交がなくてもよいことにはならない。積極的に接触を試み、相互に対話を積み上げていく努力を重ねなければ、常時軍事的衝突を憂慮しなければならない不幸な関係に陥るばかりである。
中国も同様である。野蛮な中国共産党・習近平体制を肯定してはならないが、外交は活発にしてしかるべきである。媚びることなく、へつらうことなく、もちろん見下すこともなく、対等平等に意見交換を重ねなければならない。合意のできることをみつけ、協働の実績を積み上げなければならない。官民を問わず、あらゆるレベルで、頻繁に。それこそが、常に安全保障の基本である。
(2023年3月14日)
本日の朝刊各紙に、大江健三郎さんの死去が報じられています。亡くなられたのは3月3日のこと、享年88でした。「戦後文学の旗手」「反戦平和を訴え続けた生涯」などと紹介されています。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。
彼は、2004年6月、日本国憲法を守る「九条の会」の結成に参画しています。加藤周一や井上ひさし、奥平康弘、鶴見俊輔らとともに、その活動の中心メンバーとして活動しました。東日本大震災以後は反原発の運動にも参加しています。
九条の会は、上命下服とは無縁の市民運動です。行動の統一方針などはありません。まったくの自発性に支えられて、平和・日本国憲法・第九条を大切に思う人々が寄り合って名乗りさえすればよいのです。全国の地域に、職場に、業界に、学園に、学界に、7500もの「九条の会」が、それぞれのスタイルで結成され、活動を続けています。
私たち「本郷・湯島9条の会」も10年前の春に、そのようにして結成され、細々ながらも、途切れなく活動してまいりました。
2004年に9人の呼びかけで始まった「九条の会」運動。呼びかけ人9人の内、存命なのは澤地久枝さん、お一人となりました。淋しいことではあります。しかし、各地の「九条の会」は、呼びかけ人9人から「指令」も「指導」も受けていたわけではありません。呼びかけの理念に共鳴して、平和・憲法・九条を擁護する自発的な運動を続けていたのですから、大江さんが亡くなっても、九条の会運動がなくなることも、衰退することもありません。
「本郷・湯島9条の会」も、今後とも、自発的な運動を継続してまいります。ご支援をよろしくお願いいたします。
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なお、「九条の会」呼びかけ人・9人のプロフィールは下記のとおり。
井上ひさし 1934?2010年
劇作、小説の両方で大活躍。日本ペンクラブ第14代会長。
梅原猛 1925?2019年
古代史や万葉集の研究から築いた「梅原日本学」で著名。
大江健三郎 1935?2023年
核時代や民衆の歴史を想像力を駆使して小説で描いてきた。ノーベル文学賞受賞。
奥平康弘 1929?2015年。
「表現の自由」研究の第一人者。東京大学名誉教授。
小田実 1932?2007年。
ベトナム反戦などで活躍。地元・兵庫で震災被災者の個人補償求め運動。
加藤周一 1919?2008年。
東西文化に通じた旺盛な評論活動を展開。医師でもあった。
澤地久枝 1930年生まれ。
戦争による女性の悲劇を次々発掘。エッセーも。
鶴見俊輔 1922?2015年
『思想の科学』を主導。日常性に依拠した柔軟な思想を展開。
三木睦子 1917?2012年。
故三木武夫元首相夫人。アジア婦人友好会会長を務めるなど国際交流活動で活躍。
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以下は、「九条の会」発足時に採択されたアピール。
「九条の会」アピール
日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。
ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。
侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。
しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。
アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。1990年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。
20世紀の教訓をふまえ、21世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません。
憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。
私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。
2004年6月10日
井上 ひさし(作家) 梅原 猛(哲学者) 大江 健三郎(作家)
奥平 康弘(憲法研究者) 小田 実(作家) 加藤 周一(評論家)
澤地 久枝(作家) 鶴見 俊輔(哲学者) 三木 睦子(国連婦人会)
(2023年3月11日)
すでに、「名のみの春」ではない。マンサクも、ボケも、アンズもツバキも、モクレンも満開となった。チンチョウゲやミツマタの香りが鼻をつく。道行く人々の動きも伸びやかである。
しかし、毎年この頃は気が重い。昨日3月10日は東京大空襲の日、本日3月11日は、東日本大震災の日である。戦争の被害と自然災害による被害。その警告を正確に受けとめなければならない。戦争被害は避けることができたはずのものであり、津波の被害ももっと小さくできたかも知れない。何よりも、津波にともなう最悪の原発事故の教訓を学び、生かさねばならない。
災害の被害の規模は、死者数で表現される。「東京大空襲では、一晩で10万人の死者を出した」「東日本大震災での死者・行方不明はほぼ2万、そしていまだに避難を余儀なくされている人が3万人」と。一人ひとりの、一つひとつの悲劇が積み上げられての膨大な数なのだが、数の大きさに圧倒されて具体的な悲劇の内容を見過ごしてしまいかねない。数だけからは、人の痛みも、熱さも、苦しさも、恐怖も伝わりにくい。どのように被害が生じたのか、生存者の記憶を語り継がねばならない。
昨日そして今日、多くのメデイアが、1945年3月10日における数々の悲劇と、2011年3月11日の生々しい被災者の記憶を伝えている。そして、「忘れてはならない」「風化させてはならない」「記憶と記録の集積を」と声を上げている。日本のジャーナリズム、健在というべきであろう。
私は生来気が弱い。具体的な悲劇を掘り起こす報道に胸が痛む。涙も滲む。それでも、目を通さねばならない。
昨日の赤旗「潮流」が、公開中のドキュメンタリー映画「ペーパーシティ」を紹介している。その一部を引用しておきたい。
「78年前のきょう、一夜にして10万人もの命を奪った無差別爆撃。おびただしい市民が犠牲となりました。…しかし政府は空襲被害者の調査も謝罪も救済もしていません。元軍人や軍属には補償があるのに▼老いてなお国の責任を問う被害者たち。命あるかぎりの運動には、二度と戦争を起こさせないという固い誓いがあります▼過ちの忘却とのたたかい。江東区の戦災資料センターでは今年も犠牲者の名を読み上げる集いが開かれ、東京大空襲の体験記をまとめた『戦災誌』刊行50周年の企画展も行われています▼都民が編んだ惨禍の記録集。それを支援した当時の美濃部亮吉都知事は一文を寄せました。『底知れぬ戦争への憎しみとおかしたあやまちを頬冠(かぶ)りしようとするものへの憤りにみちた告発は、そのまま、日本戦後の初心そのものである』
そして、本日の沖縄タイムスの社説が、「東日本大震災12年 経験の継承で風化防げ」という表題。原発事故の教訓をテーマとしたもの。これも、抜粋して引用しておきたい。
「世界最悪レベルの福島第1原発事故によって周辺住民の多くが今も避難生活を余儀なくされている。復興庁が発表した2月現在の全国の避難者数は3万884人。原発事故は今も被災地を翻弄(ほんろう)している。
ところが岸田政権は原発依存をやめようとしない。12年前、制御困難の原発事故の恐怖と直面した私たちはエネルギー政策の転換を迫られた。政府は2012年、「原発に依存しない社会」という理念を掲げ、30年代に「原発ゼロ」とする目標を国民に示したはずである。ところが岸田政権はそれとは逆の方向に進んでいる。この目標を放棄すべきではない。
岸田政権はロシアのウクライナ侵攻を背景とした「エネルギー危機」を理由に、原発の運転期間を「原則40年、最長60年」とする現行の規制制度を改め、「60年超運転」を可能とする方針を決めたのである。現在ある原発を最大限活用する方針への転換を図ったのだ。
「原発回帰」へと突き進む岸田政権に対する国民の目は厳しい。多くの国民は岸田政権のエネルギー政策転換を拒否している。私たちは大震災で得た教訓から巨大地震や大津波に耐えうるまちづくりとともに、原発に代わるエネルギーの確保を追求したのだ。政府はその教訓を忘れたのか。目指すべきは「原発回帰」ではなく「原発ゼロ」である。
看過できない岸田政権の方針は他にもある。増額する防衛費の財源として大震災の復興特別所得税の一部を転用するというのである。被災地は今も復興への重い足取りを続けている。それを支えるのが政府の責務ではないのか。復興費を防衛費に回すなど、もってのほかである。ただちに撤回すべきだ。」
戦争も津波も原発事故も、その被害の悲惨さ深刻さを、リアルに語り継がなければ、なにもかにも風化してしまいかねない。意識的に「過ちの忘却とのたたかい」を継続しなければならない。そうしなければ、またまた「御国を護るために戦いの準備が必要」とか、「豊かな暮らしのためのベースロード電源として原発が必要」などとなりかねない。今、国民の記憶力が試されているのだ。
(2023年3月4日)
本日は、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の原告団会議。遠慮のない意見交換の場でありながら、和気藹々たる雰囲気が心地よい。訴訟進行に伴っての、こまごまとした打合せのあとに、メインの議題として、訴訟に提出する各原告の陳述書の内容の検討がされた。
最初の検討対象が、Sさんの第2稿。第1稿に対する意見を反映したものだが、私の第一印象は「よくできてはいるが、長い」ということ。ワープロソフトで字数を数えると、3万0673字、400字詰原稿用紙換算で77枚、裁判所提出用の標準書式では35ページとなる。ミニ卒論並みではないか。しかし、大方の意見は「長いが、よくできている」という評価。
「裁判官が読む気になってくれるだろうか」というのが、私の危惧だったが、反論が相次いだ。「いや、流れるような文章で読み易い」「どこかをカットして短くするのは難しいのでは」「野球部の顧問としての活動に相当のスペースが割かれているが、省くとすればここかも」「いや、日の丸・君が代にこだわる教員が、実はごく普通の教員だということを理解してもらうためには省かない方がよいと思う」「第1次訴訟では100ページを越す陳述書もあった。それにくらべて、異常に長いというほどではない」。結局は、これ以上長くはせぬよう、更に本人の推敲を期待するという結論に。
次いで、Kさんの第4稿。これはほぼ完成稿だが、結構な長文である。2万5722字、400字詰めで65枚分。この人特有の問題があって長文とならざるを得ないことで了解。この陳述書のなかの「校長が教員に卒業式の(起立・斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が『かしこまりました。しっかり務めます』と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました」という個所がひとしきり話題となった。
「昔の都立高では考えられない風景」「上司からの指示や命令には服従すべきが、当然と思っている雰囲気」「自分の頭でものを考えることを教員が放棄している」「教育現場も、まるで警察や軍隊と同じ上命下服の世界だと思わされている様子だ」「それにしても、最近若い教員が『かしこまりました』というのが気になる」「そう、教員たるもの、かしこまってはいかんのじゃないか」「研修マニュアルで教え込まれているようだが、反射的にこういう言葉が出て来る」「やはり、異議を述べる言葉を準備して、とっさの場合に言えるようにしておかねば」
どういう言葉を準備して、なんと言えばよいだろうか。
まずは、「校長、お言葉ではございますが…」と切りかえそう。
「この職務命令、まさか校長の本心とは思えません」
「すこし、考えさせてください」
「まだ納得いたしかねます」
「せっかくですが、お請けいたしかねます」
「教師を志した私の良心が、起立斉唱を許しません」
「ご了解ください。生徒を裏切ることはできません」
「主体的に生きよ、大勢順応に陥るな、と教えている自分です。到底、この命令に承服できません」
以下に、陳述書の話題提供の個所を抜粋する。やや長文だが、分かり易い。よくお読みいただくようお願いしたい。
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ロシアでは以前から卒業式などで国歌を流していましたが、義務ではありませんでした。けれど、ウクライナ侵攻を背景に、愛国心教育が強化され、2022年9月から小学校で週の初めの授業前に国旗掲揚と国歌斉唱が義務化されました。民主派への弾圧が続く香港では、中国式愛国教育を徹底して浸透させるため、2022年から国旗掲揚が授業日に義務化されました。ロシアや香港で起こったことは、国旗国歌の強制が、国民の愛国心を強化して戦争に向かわせようとすることや、民主主義の弾圧につながることをはっきり示しています。
先日、職員室で、校長が教職員に卒業式の(起立斉唱の)職務命令書を渡しているところを目にしました。若い教員が「かしこまりました。しっかり務めます。」と言って、恭しく職務命令書を受け取っていました。職務命令書が渡されることに何の疑問も感じていない様子でした。
沖縄修学旅行の際、元ひめゆり学徒の方や沖縄平和ネットワークの方が繰り返し言っていたのは、「真実を見極めてほしい。情報を鵜呑みにしないで、自分の頭で考えて、自分の考えを持ってほしい。」ということでした。それが平和を守るために一番重要なことなのです。しかし、今の都立高校で、真実を見極める力や批判力を身に付けさせることは出来るのでしょうか。評論家・吉武輝子の女学校の教員は戦後彼女に「批判のない真面目さは悪をなします。」と語ったそうです。最近の若い教員はとても真面目です。上司の命令には、どんなことでも素直に従いますし、従わなければならないと考えているようです。けれど、これはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。
私は上司の命令が良心に照らして間違っていると判断された場合は良心に従うべきだと考えます。ドイツでは、過去の戦争において、上司の命令の下に非人道的な行為が繰り返されホロコーストの悲劇が起こったことの反省にたって、軍隊でも「上司の命令が自分の良心に照らして間違っていると判断される時は、命令に従ってはならない」と教育されるそうです。軍隊においてすらそうなのですから、ましてや人間を育てるという崇高な目的を持った教育現場において、教員はたとえ上司の命令であっても良心に照らして間違った命令には従ってはいけないと私は考えます。公教育に携わる者として、自分の未来よりも、この国の未来を考えなければならない、未来に責任を持てる行動をとらなければならないと考えた時、私はとうてい起立することができなかったのです。
(2023年2月26日)
昨日、公益財団法人第五福竜丸平和協会の役員懇談会。来年2024年は、ビキニ事件・第五福竜丸被ばくから70年になる。その翌々年2026年は、展示館開館50周年。どのような基本理念で、どのような企画をなすべきか。「ビキニ事件を直接知らない世代が圧倒的多数となる時代に対応する取り組み」についてのフリートーキング。
最初に、奥山修平代表理事から語られたのが、「核兵器の使用も原発への攻撃も、今差し迫った問題となっており、終末時計が1分30秒前まで進行している現状。一方、ビキニ事件を直接には知らない世代が圧倒的多数となっている。こんな時代の節目の時に、どのような事業をなすべきか率直にご意見を伺いたい」という問いかけ。
この冒頭挨拶の中に、こんなエピソードが添えられた。「ある大学の教員が、学生に三つのキーワードでの作文を求めた。『英霊』『真珠湾』『B29』。もちろん日本の戦争への加害と被害の認識を問うたものだが、期待した反応は少なかったという。中には、『英霊とは英国の幽霊』『真珠湾とは、伊勢の養殖真珠産地』『B29とは特別に濃い鉛筆』というコメントもあって、愕然としたという。大切な戦争体験の承継ができていない。ビキニ事件も、記憶を失ってはならないし、失わされてはならない」
この冒頭発言に続く提案として、「映像世代の若者をターゲットに、動画やユーチューブサイトの活用を」「若者には、アニメが訴える力を持っている。自主作成援助の企画を」「平和の折り鶴という固定観念を打ち破るドラゴンの折り紙はできないか」「来年は辰年、ドラゴンのオブジェに、ウロコにたくさんのメッセージを書いてもらう参加型イベントはどうだろうか」「フィールドワークの充実を」と意見が飛び交う。いちいちもっともで、私なんぞが口出しのしょうもない。
ところで、本日は2月26日。1936年の今日、雪の降る東京で陸軍の一部がクーデターを起こしている。翌2月27日「戒厳」が宣せられ、同月29日に鎮圧されている。この事件で陸軍の統制派が権力を掌握して軍部独裁を確立し、国家総動員法(38年)から大政翼賛会(40年)、そして太平洋戦争(41年)へと転げ落ちていくことになる。
5・15事件も、2・26事件も、しっかりと記憶を新たにし、教訓を噛みしめておかねばならない。若者が『英霊』も『パールハーバー』も『B29』もよく分からないというのでは、戦前の過ちを繰り返さぬような社会を作れるのか、心もとない。2・26事件では、戒厳令の危険を知ってもらわねばならない。
戒厳令問題は、過去の話ではない。自民党改憲草案(2012年4月27日)の緊急事態条項(「第9章」98条・99条)には、国家緊急権発動の一態様として「緊急事態宣言」が書き込まれている。戦争・内乱・大災害等の非常時に、憲法を一時停止して政権の専横を可能とするもの。自民党は、明文会見によって「戒厳令」の復活をたくらんでいるのだ。
大江志乃夫「戒厳令」(岩波新書・1978年)は、今読み直されるべき書である。戒厳令についての詳細を理解し、自民党改憲案の危険に警鐘を鳴らすために。
この書では、2・26事件の顛末を次のとおり、簡明にまとめている。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁錮刑多数という大量の重刑者を出した。」
この書の冒頭に、2・26事件を起こした反乱青年将校たちが自分たちの政治綱領として信ずることの厚かった『日本改造法案大綱』の第一条が紹介されている。
「天皇ハ全日本国民ト共二国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ、全国ニ戒厳令ヲ布ク」
これは、初めてクーデターの手段としての戒厳を公然と主張したものだという。天皇親政を実現するために、憲法を停止する。具体的には、「貴衆の両院を解散し、全国に戒厳令を布く」というのだ。これが、皇道派青年将校が企図したクーデターだった。
自民党改憲草案も読み較べておきたい。
第99条1項 「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」
緊急事態宣言下、内閣は国会を無視して独裁者として振る舞うことができる。国民は内閣のいうことを聞かねばならなくなる。内閣は、政令を作って「集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト」ができる。もちろん、テレビの放送の停波など簡単なこと。
広島も長崎も、ビキニも第五福竜丸も、そして5・15も2・26も、忘れぬようにしよう。国民が忘れたと見るや、為政者は欺しにかかってくるのだから。
(2023年2月24日)
先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。
ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。
美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。
人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。
1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。
だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。
どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。
この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。
そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。
いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。
(2023年2月22日)
もうすぐ、ロシア軍がウクライナに軍事侵略を開始して1年になる。昨21日、プーチン大統領は、戦争開始後初めての年次教書演説をした。
そこで彼はこう語ったと報道されている。
「彼らが戦争を始めたのだ。ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側にある。そしてもちろん、キエフ(キーウ)の現政権にも」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りのことをした」「戦争を引き起こしたのは彼らであり、私たちはそれを止めるために武力を行使し続けている」
これは、逆説でも隠喩でもない。プーチンは、ためらいなく国民に語りかけ、ロシア国民の多くは違和感なくこの言に耳を傾けて共感し、受容している。これは奇妙なことなのだろうか。
戦前の日本人の多くが、同じ意識構造ではなかったか。まさか自国が非道徳的な不義を働き、皇軍が不当な侵略戦争を行うとは考えたくもないのだ。だから、自国の外に軍隊を侵攻させ、遠い他国の地で戦闘を開始しても、これを侵略とは思わない。不逞鮮人を掃討し、暴支を膺懲する正義の武力行使だと信じて疑わなかった。自国の武力行使は正義で、これに抵抗する「敵」の武力行使は不正義だった。この信念を否定する情報も意見も、意識的に受け付けなかったのだ。
ロシア国民も同じ心理なのだろう。昨年2月24日、ロシア軍の戦車隊が国境を越えてウクライナ領土に進軍したことは紛れもない事実である。しかし、それを「自国軍隊の侵略」とは認めたくない。「彼らが戦争を始めたのだ」と言ってもらいたいし、そう信じたいのだ。
「ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側とゼレンスキーにある」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りを尽くした」「今も、私たちは戦争を止めるために、やむなく武力を行使し続けている」というのは耳に心地よい。そう言う指導者の演説を聞きたいし、信じたいのだ。
「米欧はロシア国境付近に軍事基地や秘密の生物研究所をつくっている」「欧米の包囲網は第2次大戦のナチスドイツの攻撃そのものだ」「西側は19世紀から、今ではウクライナと呼ばれる歴史的な領土を我々から引きはがそうとしてきた」「西側の目的は、ロシアを戦略的に敗北させることにある。我が国の存続がかかっている」
こういうプーチンの根拠の乏しい演説にも、聴衆は何度も立ち上がって拍手を送った。問題は、演説内容の真実性ではない。自国の正義を信じたい国民への慰めの言葉が欲しいのだ。
一方のバイデンも、21日ポーランドで演説した。ウクライナへの侵攻の正当化を試みるプーチンに対抗して、その主張は虚構にすぎないと切り捨てた。彼の描く図式は、「ロシアの専制から自由や民主主義を守る戦い」である。
バイデンはこう言った。「プーチンが今日話したような『西側がロシアへの攻撃をたくらんでいる』などということはありえない」「今夜はもう一度、ロシア国民に語りかけたい。米国と欧州各国は、ロシアを支配しようとも破壊しようとも思っていない。隣国との平和な暮らしを望むだけの何百万人ものロシア国民は敵ではない」「プーチンはいま、1年前には起きえないと思っていたことに直面している。世界の民主主義は強くなり、独裁者たちは弱くなった」
また、プーチンを「専制君主」「独裁者」と呼び、その予測や期待がことごとく外れてきたことを列挙した。戦争が続くのはプーチンが選んだ結果だとして、「彼は一言で戦争を終わらせられる。単純だ」とも語った。
バイデンの演説の聴衆は3万人とされている。ポーランドやウクライナ、米国の国旗を持った人たちが時折歓声を上げながら耳を傾けたという。
両人の演説は、いずれも100%の嘘ではない。誇張や願望のいりまじった内容。しかし、どう考えても、プーチンの側に分が悪い。相対的にバイデンが真実を語っている。かつては、世界の紛争の元兇であったアメリカである。いったいいつから、アメリカが正義面して、民主主義や人権を語れるようになったのだろうか。中国やロシアにおける「専制君主」「独裁者」の「功績」というほかはない。
そしてもう一点強調しておきたい。真実ではなく、心地よい言葉を聞きたいという国民の心理は、ロシア国民や戦前の臣民に限らない。少なからぬ現在の日本人も同様なのだ。今なお、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦の存在もデマだ」「関東震災後の朝鮮人虐殺も嘘だ」という類いの言説の基礎にあるものとして無視し得ない。