(2023年3月29日・連日更新満10年まであと2日)
ロシアがウクライナに侵攻して以来の1年有余。この両国がウクライナ全土を戦場とする戦争当事国となってきた。驚いたことに、唐突にロシアがベラルーシへの「戦術核配備」を発表し、ベラルーシが「準・戦争当事国」となった。ロシアとベラルーシとの合意によって、ことし7月1日までにベラルーシ国内に戦術核兵器を保管する施設が建設される予定だという。
昨28日、ベラルーシ外務省は、戦術核の配備は北大西洋条約機構(NATO)などの圧力が原因と主張する声明を発表したという。同声明は、ベラルーシが米国や英国、NATO加盟国などから近年、政治・経済的に「これまでにない圧力にさらされてきた」と西側諸国を非難。「自国の安全保障と防衛能力を強化して対応することを余儀なくされている」と説明している。
ロシアもウクライナも、それぞれの友好国から戦争遂行のための有形無形の支援を受けてきた。むろん通常兵器の提供も受けている。しかし、核配備の受け入れとなれば、話は次元を異にする。この戦時に戦争当事国の一方に対して、対立国を標的とする「戦術核配備」を提供するというのだ。これ以上の威嚇はない。一方当事国への「支援」の域を超えて、対立当事国への敵対関係を宣告するに等しい。それだけの覚悟を必要とすることなのだ。しかも、ロシアとの関係深く、ウクライナとは長い国境を接するベラルーシにおいてのことである。ウクライナ友好国の全てに対する敵対宣言ととられても不自然ではない。
考えるべきは、ベラルーシの決断のメリットとデメリットである。ロシアの「戦術核配備」を受け入れることが、果たして「自国の安全保障と防衛能力を強化して対応すること」になるものだろうか、同国の国際的な威信を高めることだろうか。さらには、ロシアにとっても、有利な戦況をもたらすものとなるだろうか。
ベラルーシ内の「戦術核」発射施設は、戦況がエスカレートした際の第1攻撃目標となる。ウクライナとしては、目と鼻の先に位置する、このとてつもない危険物の存在を見過ごしてはおられないからだ。ウクライナ軍の砲門は、常時この発射施設に向けられる。岸田文雄が言う「敵基地攻撃」の対象施設になるのだ。しかも、いざというときには一瞬の逡巡があっても取り返しのつかないことになるのだから、「自衛的先制攻撃」の誘惑を捨てきれない。「戦術核」配備は、ベラルーシの戦争被害リスクを確実に大きくする。
それだけではない。「西側諸国は、劣化ウラン弾をウクライナに提供する。西側の同盟が核を用いた兵器を使い始めるということになる。そうなればロシアは対応する必要がある」というのがプーチンの理屈である。「劣化ウラン弾提供には、戦術核配備で対抗するしかない」というわけだ。また、ベラルーシとしては、「これまでにない圧力に『対抗』するための戦術核配備」だという。しかし、西側諸国の側から見れば、「ベラルーシへの戦術核配備には、ウクライナへの戦術核配備で対抗するしかない」と言うことにならざるを得ない。明らかに、危険な核軍拡競争の負のスパイラルに足をすくわれている。安全保障のジレンマに陥ってもいる。ベラルーシの安全保障は損なわれることになるだろう。
さらに強調すべきは、ロシアもベラルーシも、核拡散防止条約(NPT)の締約国であることである。NPTは、核兵器禁止条約の厳格さを持たない。しかし、米、露、英、仏、中5か国の「核兵器国」からの核拡散を防止し、「核兵器国」にも「非核兵器国」にも核不拡散義務を課し、締約国には誠実に核軍縮交渉を行う義務を規定している。ロシア、ベラルーシ両国ともに、国際条約を誠実に遵守する姿勢を持たない非文明国として、国際的な権威を失墜することになろう。
この事態は、ロシアにも跳ね返る。戦術核の配備や使用にこだわることは、戦争遂行への自信のなさの表れと見透かされることになろう。そして、国際的な威信の失墜は覆うべくもない。この戦争を見つめる多くの中立国から見離される、あらためての契機となるに違いない。
いま、保守陣営からは、「今日のウクライナは明日の日本だ」「だから侵略に備えて、軍備の増強が必要だ」との声が上がっている。その声が、既に防衛予算の増額に反映し、今後の「大軍拡・大増税」も招きかねない。
しかし冷静に、まずは「明日の日本を今日のベラルーシにしてはならない」と考えるべきだろう。軽々に、核抑止が有効だなどと単純に考えてはならない。いまベラルーシが直面している核配備の大きなデメリットに注視しなければならない。戦術核配備に限らない。実は、戦争当事国の一方に対する通常兵器の提供も、これと同等の有形無形の支援もリスクのあることなのだ。リスクの大きな「大軍拡・大増税」路線に舵を切ってはならない。
そのことは、「明日の日本を今日のウクライナにしてはならない」という平和の道を探ることに通じる。ウクライナにも、ロシア侵攻を避ける途はあったはずである。軍備を固めるのではなく、国連を通じ誠実な外交の通じての平和を確立する道。そのことを徹底検証して教訓を生かさねばならないと思う。
(2023年3月25日・連日更新満10年まであと6日)
昨年の2月24日以後、ウクライナでの戦争が頭を離れない。大規模な殺戮と破壊が繰り返されていることに、怒りと苛立ちが治まらない。1日も早い平和の回復を祈るしかないが、その和平が難しい。人が平和に暮らすことが、どうしてこんなにも困難なのだろうか。
とりわけ、侵略軍であるロシアがウクライナの民間人に危害を加える報に感情が昂ぶる。ウクライナ東部バフムートの戦況について、優勢なロシア軍の攻撃が激しいと言われてきたが、ここ数日、ロシア軍が勢いを失いつつあるとのニュースに、すこしホッとし、しかしなお戦闘はおさまらず、両軍に死者が絶えないことにむねがふたぐ。
そんな折、ロシア前大統領から、「クリミア攻撃なら『核兵器使用の根拠に』」という発言が飛び出した。またまた、落ち込まざるをえない。いや、激怒せざるをえない。
メドベージェフ前大統領は、現在ロシア国家安全保障会議副議長なのだという。その彼が、24日ロシアの記者らとのインタビュー動画をSNSに投稿して、ロシアが実効支配するウクライナ南部クリミア半島の奪還を目指してウクライナ軍が攻撃した場合の対応策として、こう語ったという。
「(ウクライナ軍のクリミア攻撃が)核抑止のドクトリンで規定されたものを含むすべての防衛手段を使用する根拠になるのは明白だ」「国家の一部を切り離す試みは、国家の存在自体への侵害だ」「そのことを、大洋の向こうの『友人』(アメリカ)が理解してくれることを願う」
ウクライナがクリミアを攻撃するなら、核兵器を使用して反撃するぞ、という威嚇である。ロシアは、2014年にはウクライナからクリミアを奪った。そして、2022年には首都キーウに侵攻を開始した。しかし、1年余を経て新たな侵略に失敗し、却ってウクライナにクリミア半島の奪還を許す恐れなしとしない状況とみるや、露骨に核兵器の使用を広言して威嚇しているのだ。
ベドメージェフが言う「核抑止のドクトリン」とは、プーチンが署名した「核抑止の国家政策の基本」(2020年6月2日、大統領令355号)なる文書。通常兵器で攻撃を受けた場合でも、国の存在が脅かされるならロシアは核兵器で反撃できる、と明記されている。
この大統領令は、《I. 総則、II. 核抑止の本質、III. ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件、IV. 核抑止における連邦政府機関の機能及び任務》の4章、20か条から成る。
その基本思想は、「2. 仮想敵がロシア連邦及び(又は)その同盟国に対する侵略を確実に思いとどまるようにすることは国家の最優先課題の一つである。侵略の抑止は、核兵器を含めたロシア連邦の全軍事力の総体によって確保される」「9. 核抑止とは、ロシア連邦及び(又は)その同盟国を侵略すれば報復が不可避であることを仮想敵に確実に理解させるようとするものである」「10. 核抑止を担保するのは、核兵器の使用による耐え難い打撃をいかなる条件下でも確実に仮想敵に与え得るロシア連邦軍の戦力及び手段の戦闘準備並びにこの種の兵器を使用することについてのロシア連邦の準備及び決意である」というものである。ロシアとは、その安全保障の基本を核抑止におく、核依存軍事国家なのだ。
そして、『III. ロシア連邦が核兵器の使用に踏み切る条件』を、次のように定める。「17. ロシア連邦は、自国及び(又は)その同盟国に対する核兵器及びその他の大量破壊兵器が使用された場合並びに通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家の存立が危機に瀕した場合において核兵器を使用する権利を留保する」
読み易いように抜き書きすれば、「ロシア連邦は、通常兵器を用いたロシア連邦への侵略によって国家の存立が危機に瀕した場合において核兵器を使用する権利を留保する」というのだ。
メドベージェフは、ウクライナのクリミヤ攻撃を「通常兵器を用いたロシア連邦への侵略」とし、しかも「国家の存立が危機に瀕した場合」というのだ。なんという、身勝手で理不尽な理屈。そして、核兵器という存在そのものの危険性。
また、メドベージェフは、ICCのプーチンに対する逮捕状発付に触れて、「想像してみよう。核保有国の首脳が、たとえばドイツを訪問して逮捕されたとする。これは何になるか。ロシアに対する宣戦布告だ」「ロケット弾などありとあらゆる物が、独連邦議会や首相府に飛来するだろう」とも述べている。ここでも品位に欠ける露骨な核の脅しである。およそ、真っ当な国の高官の発言ではない。
あらためて思う。核兵器と人類の共存はない。
(2023年3月22日)
岸田文雄はウクライナを訪問し、習近平はプーチンを訪ねた。両者ともに安易な訪問先の選択である。本来の外交は、その逆であるべきではないか。
岸田がモスクワに足を運べば、世界を驚かす「電撃訪問」となっただろう。たとえ成功に至らずとも、プーチンに撤兵を促し、和平の提言をすることで日本の平和外交の姿勢を示しえたに違いない。国際政治における日本の存在感を世界にアピールすることにもなったろう。訪問先がキーウでは、インパクトに欠ける。平和へのメッセージにもならない。NATO加盟国首脳のキーウ訪問に必然性はあろうが、日本の首相がいったいなぜ、何のための訪問だろうか。
また、習がプーチンより先にゼレンスキーと会談していれば、停戦仲介の本気度をアピールできたであろう。しかし、落ち目のプーチンと会うことで、恩を売ろうとの魂胆丸見えの訪露は、やはりインパクトは薄い。
チャップリンの「独裁者」を思い出す。徹底的に俗物として描かれたヒトラーとムッソリーニ、その両者の会談の場面。お互いにマウントをとろうとする所作の滑稽さが、「独裁者」の内面を炙り出す。この映画の公開が、ヒトラー死の5年前、1940年の公開だというから驚かざるをえない。言うまでもなく、習もプーチンもその同類でしかない。
米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは「きょうのウクライナは、あすの東アジアかもしれない」との岸田の発言を引用。「ウクライナ侵攻や中露接近が、台湾有事を警戒するアジアの米同盟国をより結束させている」と報じている。岸田のウクライナ訪問は平和を求めてのものではなく、軍事同盟強化のための外交と受けとめられているのだ。
【ワシントン時事】の報道では、米欧メディアは、岸田と習の動きを、「自由民主主義陣営と専制主義陣営との対比」として描いているという。「日本はウクライナ政府への多額の援助を約束したが、中国は孤立を深める戦争犯罪容疑者のプーチンを支える唯一の声であり続けた」と。岸田も習も、それぞれのブロック強化のために動いているに過ぎず、けっして和平のための戦争当事国訪問ではない、という理解なのだ。
外交は難しいが、戦争よりはずっと容易である。そして、戦争を避けるためには外交を活発化する以外にない。小泉純一郎は、北朝鮮との国交回復に意欲を見せ、日朝ピョンヤン宣言の成立まで漕ぎつけた。今振り返って、あの宣言内容の到達点を立派なものと称賛せざるをえない。惜しむらくは、その後の信頼関係の継続に失敗した。無念でならない。
あのとき、北朝鮮との信頼関係構築のチャンスだった。これを潰したのは、右翼勢力を背景とした安倍晋三である。以来北朝鮮との関係を硬直せしめ、拉致問題解決に進展が見られないことの責任の大半は、安倍晋三とその取り巻きにある。
北朝鮮は、人権思想も民主主義も欠いたひどい国ではあるが、それゆえ外交がなくてもよいことにはならない。積極的に接触を試み、相互に対話を積み上げていく努力を重ねなければ、常時軍事的衝突を憂慮しなければならない不幸な関係に陥るばかりである。
中国も同様である。野蛮な中国共産党・習近平体制を肯定してはならないが、外交は活発にしてしかるべきである。媚びることなく、へつらうことなく、もちろん見下すこともなく、対等平等に意見交換を重ねなければならない。合意のできることをみつけ、協働の実績を積み上げなければならない。官民を問わず、あらゆるレベルで、頻繁に。それこそが、常に安全保障の基本である。
(2023年3月18日)
早朝、寝床でラジオのスイッチを入れて驚いた。「プーチン・ロシア大統領に逮捕状が発行されました」と聞こえた。逮捕状を出したのは国際刑事裁判所(ICC)、被疑事実はウクライナでの戦争犯罪。大勢のウクライナの子どもたちの誘拐ということだ。
プーチンに逮捕状とは素敵なニュースだが、現状では逮捕状の執行が不可能に近い。本来であれば、逮捕状発付は、プーチン逮捕、プーチン起訴、プーチンの公判、プーチン有罪の判決、そして刑の執行と進行する予定の最初のステップ。だが、その見通しは暗い。プーチンの身柄の確保が困難なことは百も承知での逮捕状の請求があって、逮捕状の執行困難を自覚しながらの逮捕状の発付である。このことにいったいどのような意味があるのだろうか。
国際刑事裁判所(ICC)は、オランダ・ハーグにある常設国際機関。冷戦終結後、旧ユーゴスラビアやアフリカのルワンダでの集団虐殺などをきっかけに、常設の国際刑事裁判所の設置を求める声が高まり、2003年に設立された。日本を含む123の国と地域が参加しているものの、ロシアやアメリカ、中国などは管轄権を認めていない。要するに、自国が訴追される恐れのある国は参加していないのだ。アメリカがその典型と指摘されてきたが、今回のプーチンへの逮捕状発付をアメリカは積極的に支持している。「逮捕状にはとても説得力がある」「戦争犯罪を犯したのは明白だ」なんちゃって。
ICCが管轄する犯罪は、いわゆる「ジェノサイド」や、一般市民への組織的な殺人や拷問などの「人道に対する犯罪」、戦場での民間人の保護や捕虜の扱いなどを定めた国際人道法に違反する「戦争犯罪」など。
ウクライナへの軍事侵攻をめぐって、国際刑事裁判所は、去年3月、ウクライナ国内で行われた疑いのある「戦争犯罪」や「人道に対する犯罪」などについて捜査を始めると発表し、現地に主任検察官を派遣するなどして調べを進めてきた。
そのICCが、ウクライナのロシア占領地域から子どもたちをロシア領に移送したことが国際法上の戦争犯罪にあたり、しかもプーチンがこれに関わったことが証拠上明らかと判断した。戦時の文民保護を定めたジュネーブ諸条約は、住民の違法な移送や追放を禁じている。裁判所のホフマンスキ所長は声明を発表し「国際法は占領した国家に対し住民の移送を禁じているうえ、子どもは特別に保護されることになっている」「逮捕状の執行は、国際社会の協力にかかっている」と述べ、プーチンの身柄拘束への協力を訴えた。
ICCのカーン主任検察官は、少なくとも数百人の子供が孤児院や施設から連れ去られ、多くはロシア国籍を押し付けられて養子に出された疑いがあると発表した。なお、ロシアで養子縁組を進めたマリヤ・リボワベロワ大統領全権代表に対しても逮捕状が発令されている。
ICCが現職の国家最高指導者に逮捕状を出したのは、スーダンのバシール大統領(2009年)、リビアのカダフィ大佐(11年)に続く3度目。国連安全保障理事会の常任理事国元首では、もちろん初めてとなる。国家元首が戦犯容疑者となったことで、ロシアの国際的な孤立が強まることになった。
当然のことながら、ロシアは強く反発している。ということは、逮捕状発付の影響を無視し得ないと受けとめているのだ。「言語道断で容認できない」「この種のいかなる決定も法律上の観点からロシアでは無効だ」「ロシアはICCに加盟しておらず、何の義務も負っていない。何の意味もない」と述べて非難している。それはそのとおりだ。ウクライナに対する侵略も、民間人の虐殺も、非軍事組織の破壊も、ロシア国内では非難される行為ではない。しかし、ロシア国内での判断がどうあろうと、国際道義がロシアの行為を許さないとしているのだ。「この種のいかなる決定も法律上の観点からロシアでは無効だ」という、ロシアの独善性が批判されていることを知らねばならない。
ボロジン露下院議長は「プーチン氏への攻撃はロシアへの攻撃とみなす」と主張。露国営メディア「RT」トップのシモニャン氏も「プーチン氏を逮捕する国を見てみたいものだ。その国の首都までの飛行時間はどれくらいだろうか」とミサイル攻撃を示唆した。恥ずかしくないか。このような発言、このような姿勢こそが、ロシアの野蛮を証明し、ロシアの国際的威信を貶めているのだ。
なお、ロシアはウクライナから多数の子どもたちをロシアに連れ去っていること自体は否定していない。「連れ去りではなく保護した」「危険な戦闘地域から避難させた」と主張している。その上で、ウクライナの子どもをロシア人の養子にする取り組みを進め、ロシアの主張に沿った愛国教育を行っていると報道されている。プーチンはこれらの取り組みを推進する大統領令に署名しているという。
一方、これも当然ながら、ロシアの責任追及を訴えてきたウクライナはICCの決定を歓迎している。ゼレンスキーはSNS上に公開したビデオメッセージで、「歴史的な決断だ。テロ国家の指導者が公式に戦争犯罪の容疑者となった」と述べている。また、シュミハリ首相もSNSに、「プーチン大統領に逮捕状が出されたことは正義に向けた重要な一歩だ。この犯罪やその他の侵略の犯罪に責任があるのはプーチン大統領だ。テロ国家の指導者は法廷に出てウクライナに対して犯したすべての犯罪について裁かれなければなない」と投稿した。
ウクライナの司法当局は、ロシアの軍事侵攻が始まって以降、東部のドネツク州、ルハンシク州、ハルキウ州、それに南部ヘルソン州であわせて1万6000人以上の子どもがロシアによって連れ去られたことが確認され、実数はさらに多い可能性があるとされている。コスティン検事総長は、17日、「ロシアは子どもたちを連れ去ることでウクライナの未来を奪おうとしている」と述べた。
メディアに、国際刑事裁判所の元裁判官だった、中央大学の尾崎久仁子特任教授の指摘が紹介されている。「あえて逮捕状を出したと公表したのは子どもの連れ去りがいまも引き続き行われているので、こうした犯罪が繰り返されることを阻止するとともに、ほかの非人道的な行為を抑止する狙いもある」「ロシアという国連安保理の常任理事国である大国の現職の大統領がこういった犯罪で逮捕状を請求され、正式に被疑者になることが国際社会に与える影響は大きい。いままでロシアに対して中間的な対応をとってきた国々に一定のインパクトを与えるだろう」。なるほどそうなのだろう。
ウクライナのコスティン検事総長は「逮捕状が出されたということは、プーチン大統領は、ロシア国外では逮捕され裁判にかけられるべき人物となったことを意味する。世界の国々の指導者は、プーチン大統領と握手をしたり、交渉したりすることをためらうようになるだろう。これはウクライナと、国際法の秩序全体にとって歴史的な決断だ」と発言した。
折よくというべきか、あるいは折悪しくか、明後日(20日)には、このタイミングで中国の習近平がロシアを訪問する。さて、習は、逮捕状の出ている「国際指名犯・プーチン」と躊躇なく握手をするだろうか、あるいはためらいを見せるだろうか。
(2023年2月24日)
先日のとある日。寒さは緩み風もなく、青空に春の陽の光がきらめく素晴らしい日。都心にありながら、深山幽谷と見まごうばかりの小石川植物園。梅園は、6分から7分咲きの今が見頃。しかも、訪れる人もまばらで、赤い梅、白い梅、目を愉しませる花の下で、ウトウトとしていると、極楽もかくやと思われる心地よさ。
ではあるけれど、思い起こさざるを得ないのがウクライナのこと。この瞬間にも街々では砲弾が飛び交い、多くの人々が殺され、焼かれ、家を壊され、電力や飲み水を断たれて、地獄絵図さながらの様相であるということ。眼前の風景と彼の地の惨状との、何という大きな隔たり。結局、素晴らしい梅を見ても、彼の地の戦争を思うと、何とも心穏やかではおられない。
美味しいものを食べても、馴染んだ曲に耳を傾けても、近所の公園に遊ぶ保育園の子どもたちを眺めても、やはり心穏やかではいられない。こちらが長閑であればあるほど、ウクライナが思いやられる。彼の地では、人が殺されている。心ならずもの殺し合いが強いられている。人の平穏な暮らしが奪われ、恐ろしい不幸が蔓延している…。しかも、ウクライナに起こったその不幸が、我が国に起こらないという保証はない。もしかしたら、今日のウクライナの景色は、明日の我が国のものであるかも知れないのだ。
人は、何のために生まれてきたのか。人を殺すためではない。人に殺されるためでもない。せめて穏やかに、つつましく、平和に生きたい。寿命を全うしたい。誰にも、そのささやかな望みを断つことができるはずはない。にもかかわらず、プーチンはロシアの若者に命じた。「人を殺せ、そのために自分の命を惜しむな」と。もとより、彼にそんな権限はあり得ない。
1年前の今日、何とも理不尽極まる戦争が始まった。戦争を仕掛けたのは、ロシアだ。国境を越えて、ロシアの軍隊がウクライナに攻め込んだのだ。ロシアとプーチンは、永久に侵略者の汚名を雪ぐことはできない。この戦争によってウクライナの多くの軍人も民間人も、命を失い、負傷した。家族と離れ離れになり、住むところを奪われた多くの難民が生まれ。侵略された側の悲惨な戦禍。
だが、悲惨はこの戦争に動員されたロシアの若者の側も同様。心ならずも訓練未熟のまま戦場に駆り出され、戦闘の技倆なく、多くの若者が殺された。ウクライナ兵に殺されたと言うよりは、プーチンに殺されたと言うべきではないか。
どうすればこの戦争を終わらせることができるのか。世界は無力のまま、無為に1年を過ごした。国連安保理の常任理事国5か国のうち、1国が侵略戦争を起こし、もう一国が、事実上これを支援している。世界は良識で動いていない。
この現実の中で、世界は戦争終結の方法を見出すことはできないままだが、侵略者ロシアは多くのものを失っている。この国を偉大な国だと思う者はもういない。もはや尊敬される国ではなくなっている。世界に印象づけられた「道義に悖る国」という刻印は容易に消えない。この国を見捨てて国外に逃亡する若者はあとを絶たない。国民からも見離されつつあるのだ。
そして、世界中に平和を願う多くの人がいる。多くの人の声がロシアを弾劾している。多くの人が、ウクライナの平和のために尽力している。国連総会では多くの国が、ロシア非難決議に賛成している。平和を願う世界の良識はけっして微力ではない。この良識の声を、力を、行動を積み重ねるしか、今は方法がない。
いつか、心おきなく、ウメを愛でることができる日が来る。きっと来る。
(2023年2月22日)
もうすぐ、ロシア軍がウクライナに軍事侵略を開始して1年になる。昨21日、プーチン大統領は、戦争開始後初めての年次教書演説をした。
そこで彼はこう語ったと報道されている。
「彼らが戦争を始めたのだ。ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側にある。そしてもちろん、キエフ(キーウ)の現政権にも」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りのことをした」「戦争を引き起こしたのは彼らであり、私たちはそれを止めるために武力を行使し続けている」
これは、逆説でも隠喩でもない。プーチンは、ためらいなく国民に語りかけ、ロシア国民の多くは違和感なくこの言に耳を傾けて共感し、受容している。これは奇妙なことなのだろうか。
戦前の日本人の多くが、同じ意識構造ではなかったか。まさか自国が非道徳的な不義を働き、皇軍が不当な侵略戦争を行うとは考えたくもないのだ。だから、自国の外に軍隊を侵攻させ、遠い他国の地で戦闘を開始しても、これを侵略とは思わない。不逞鮮人を掃討し、暴支を膺懲する正義の武力行使だと信じて疑わなかった。自国の武力行使は正義で、これに抵抗する「敵」の武力行使は不正義だった。この信念を否定する情報も意見も、意識的に受け付けなかったのだ。
ロシア国民も同じ心理なのだろう。昨年2月24日、ロシア軍の戦車隊が国境を越えてウクライナ領土に進軍したことは紛れもない事実である。しかし、それを「自国軍隊の侵略」とは認めたくない。「彼らが戦争を始めたのだ」と言ってもらいたいし、そう信じたいのだ。
「ウクライナ紛争をあおり拡大させ、犠牲者を増やした責任はすべて西側とゼレンスキーにある」「ロシアは、ウクライナの問題を平和的な手段で解決するために可能な限りを尽くした」「今も、私たちは戦争を止めるために、やむなく武力を行使し続けている」というのは耳に心地よい。そう言う指導者の演説を聞きたいし、信じたいのだ。
「米欧はロシア国境付近に軍事基地や秘密の生物研究所をつくっている」「欧米の包囲網は第2次大戦のナチスドイツの攻撃そのものだ」「西側は19世紀から、今ではウクライナと呼ばれる歴史的な領土を我々から引きはがそうとしてきた」「西側の目的は、ロシアを戦略的に敗北させることにある。我が国の存続がかかっている」
こういうプーチンの根拠の乏しい演説にも、聴衆は何度も立ち上がって拍手を送った。問題は、演説内容の真実性ではない。自国の正義を信じたい国民への慰めの言葉が欲しいのだ。
一方のバイデンも、21日ポーランドで演説した。ウクライナへの侵攻の正当化を試みるプーチンに対抗して、その主張は虚構にすぎないと切り捨てた。彼の描く図式は、「ロシアの専制から自由や民主主義を守る戦い」である。
バイデンはこう言った。「プーチンが今日話したような『西側がロシアへの攻撃をたくらんでいる』などということはありえない」「今夜はもう一度、ロシア国民に語りかけたい。米国と欧州各国は、ロシアを支配しようとも破壊しようとも思っていない。隣国との平和な暮らしを望むだけの何百万人ものロシア国民は敵ではない」「プーチンはいま、1年前には起きえないと思っていたことに直面している。世界の民主主義は強くなり、独裁者たちは弱くなった」
また、プーチンを「専制君主」「独裁者」と呼び、その予測や期待がことごとく外れてきたことを列挙した。戦争が続くのはプーチンが選んだ結果だとして、「彼は一言で戦争を終わらせられる。単純だ」とも語った。
バイデンの演説の聴衆は3万人とされている。ポーランドやウクライナ、米国の国旗を持った人たちが時折歓声を上げながら耳を傾けたという。
両人の演説は、いずれも100%の嘘ではない。誇張や願望のいりまじった内容。しかし、どう考えても、プーチンの側に分が悪い。相対的にバイデンが真実を語っている。かつては、世界の紛争の元兇であったアメリカである。いったいいつから、アメリカが正義面して、民主主義や人権を語れるようになったのだろうか。中国やロシアにおける「専制君主」「独裁者」の「功績」というほかはない。
そしてもう一点強調しておきたい。真実ではなく、心地よい言葉を聞きたいという国民の心理は、ロシア国民や戦前の臣民に限らない。少なからぬ現在の日本人も同様なのだ。今なお、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦の存在もデマだ」「関東震災後の朝鮮人虐殺も嘘だ」という類いの言説の基礎にあるものとして無視し得ない。
(2023年1月26日)
森喜朗とは、元ラグビー選手であり、元首相である。元ラグビー選手にふさわしくいかにも身体は重そうだが、元首相だけにいかにも口は軽い。口の軽さは、特に責められるべきことではない。なにせ、誰にも言論の自由は保障されている。それにしても、「元首相」とは、こんな程度のものなのだ。
昨日、森は東京都内のホテルで開かれた「日印協会」の会合に出席して、こんなことを口走ったという。
「こんなにウクライナに力を入れてしまって良いのか。ロシアが負けることは、まず考えられない」「せっかく積み立てて、ここまで来ている」
ウクライナに肩入れが過ぎれば、これまで構築してきた日ロ関係が崩壊しかねないとの認識を示したものという。
昨年の11月18日にも、よく似た発言があった。このときは、維新の鈴木宗男(参院議員)のパーティーでのあいさつだった。内容は、以下のとおりのゼレンスキー批判である。
「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」「戦争には勝ちか、負けかのどちらかがある。このままやっていけば(ロシアが)核を使うことになるかもしれない。プーチン氏にもメンツがある」「(岸田政権は)米国一辺倒になってしまった」
このときは、鈴木宗男も口を揃えて「ロシアが悪く、ウクライナが善だというのは公平ではない。先に手を出したのが悪いが、原因を作った者にも一抹の責任がある」と言っている。
森の失言で有名なのは、例の「神の国」発言。首相を務めてい2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会においてのことである。
「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」
現職の首相がこう言ったのだ。この人の頭の中には「国民主権」も「政教分離」も「日本国憲法」もない。神なる天皇がしろしめす大日本帝国憲法があるのみ。
21年2月には、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長だった森は、日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べ、会長辞任に追い込まれた。
こういう「失言」前科を持つ森に対して、ネット上最も多く飛びかった呟きの内容は、「これが元首相の発言なのか。恥ずかしい」というもの。「怪しからん」「愚かな」という森非難ではなく、「失言」を聞かせられる側が「恥ずかしい」というのだ。どうしてなのだろうか。
日本国民は、こんな人物を首相にしてしまった。仮にも民主主義を標榜する国の首相である。間接的にもせよ、国民が我が国の政治上のトップリーダーとして選んだのだ。自分は投票したのではないとは言え、こんな人物を首相にしてしまう政治風土に無責であるはずはない。このことが「恥ずかしい」。
他国の民衆に対しても、過去の国民に対しても、そして自分自身に対しても、「身体は重そうだが、口は軽い」こんな程度の人物を首相にしてしまった、このあるまじきことことが、国民の一人として恥ずかしいのだ。
思い起こせば、安倍晋三・菅義偉官・麻生太郎・野田佳彦・小泉純一郎等々が皆、こんな程度の人物を首相にしてしまったことで、日本国民は慚愧に堪えないのだ。
首相経験者諸氏よ、口の軽さは特に責められるべきことではない。誰にも言論の自由は保障されている。ではあるがその軽口の罪はけっして軽くはない。なにせ、我々が選んだ「元首相」とは、こんな程度のものだったのかという強い自責の念を国民に強いることになるのだから。
(2023年1月17日)
鈴木宗男という政治家がいる。中川一郎の秘書から自民党の議員となり、今は、維新に所属している。親露派として知られる人だが、むしろ、親プーチン派というべきだろう。彼の1月6日ブログが、その親露・親プーチンと、反ウクライナの姿勢を世に発信して話題となった。
「プーチン大統領が日本時間6日、18時から36時間の停戦を国防軍に命令している。
ロシア正教のクリスマスは1月7日である。祈りの時間を与えようと考えるプーチン大統領は、いかなる状況であっても失ってはならない人としての心が感じられる。一方、ウクライナ側はこの停戦を評価するどころか『偽善は自分の中に留めておけ』と極めて強い口調で批判しているが、闇雲に批判するゼレンスキー大統領の頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない。
ウクライナにも熱心なロシア正教の方が沢山いるので、プーチン大統領は配慮しての36時間停戦を発表したと私は受け止めている。
そもそも論だが、ウクライナは自前では戦えない国で、アメリカ、イギリスから武器や資金援助を受けてかろうじて戦っているのではないか。
自分の力で戦えない国がどうして大きなことを言えるのか。その感覚がウクライナ問題の根源である。冷静に大局観を持って対応すべきではないか。
プーチン大統領の新年のお年玉とも言うべき『停戦』を、G7、G20の首脳は重く受け止め、停戦を実現してほしいものである」
分かり易い文章。鈴木の国防観、国際感覚、そして「冷静な大局観」がよく表れている。もっとも、この人の一方的な親プーチン姿勢には、「頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない」。
この人の最新のブログが、また、なかなかのもの。昨日付けの「ムネオ日記」にこうある。こちらは、けっして分かり易くはない。
「ウクライナ紛争の報道で、ロシアが攻撃しウクライナ人が何人亡くなったというニュースは出るが、ウクライナの攻撃によりロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースは出ない。」
(最初は誤読した。鈴木宗男もロシアの戦況に関する報道統制を批判したのかと思ったのだが、どうやらそうではない。報道機関の不公正を非難する主旨のようなのだ。しかし、ロシアの当局が正確な情報を出さないのだから、「ロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースが出る」わけはない。もっとも、1月1日のウクライナ東部占領地域でのロシア軍臨時兵舎攻撃での被害を89人のロシア動員兵が死亡したと認めた。これが、事情あっての異例なこととと伝えられている)
「メディアは公平とか公正を旨としてと、よく使うがウクライナ問題に関しては圧倒的にウクライナの報道量が多いと感じる」
(この一文には怒りを抑えがたい。加害者と被害者の間の「公平・公正」とは、いったいどうあるべきと考えているのか。ロシアの軍隊が国境を越えてウクライナに攻め込んで、ウクライナの人々の生活の場を悲惨な戦場にしたのだ。死亡者も負傷者も、破壊された建物も公共施設もインフラも、被害のすべてがウクライナのもので、ロシアのものではない。ロシアには民間人の犠牲者はない。報道量に絶対差があって当然ではないか)
「こうした流れに視聴者も段々引きずられ、ウクライナに同情が寄る面が出てくるのではないか。」
(断じてそうではない。人々を、反ロシア・反プーチンとしているのは、侵略者に対する憎しみである。親ウクライナの心情は、被侵略者への同情である。侵略者側と被侵略者側、この立場の違いの大きな落差がロシアとウクライナに対する感情を分けている)
「それぞれ世界でたった一つの命である。命を守るためには『停戦』しかない。 メディアから『停戦すべきだ』という発言がないことは残念である。15日のワシントンにおける岸田総理の記者会見でも停戦に向けての言及はなかった」
(人の命が大切なことは言うまでもない。その命を奪っている犯罪国がロシアであり、その首魁がプーチンではないか。昨年2月24日のウクライナ侵攻の前史として両国間にどんな経緯があったにせよ、戦車で国境を越えたプーチンの罪業は消せない。鈴木宗男も、プーチンに対して、潔くその罪を認めた上で停戦に応じるよう、強く進言すべきではないか)
「『核なき世界』という前に、先ずは『停戦』と思うのだが…」
(最後は、意味不明の一文。しかし、ここにも核による反撃をチラつかせるプーチンの罪を薄めようとの意図が感じられる。停戦はあってしかるべきだが、加害者と被害者の区別を曖昧にしてはならない)
(2023年1月10日)
本郷・湯島の皆様、こちらは「九条の会」です。年は新たまりましたが、目出度くはありません。お年玉の代わりに、大軍拡大増税というのですから。その皺寄せは、福祉や教育の予算を削減となるでしょう。物価は上がる、賃金も年金も追いつかない。コロナの勢いは止まらない。安心して暮らせません。
そして、何よりも平和が危うい。今、ウクライナでは現実に、砲弾が飛び、ミサイルの攻撃が行われています。おびただしい人が死に、血が流されています。人類は、何と愚かなことを繰り返していることでしょうか。日本にとっても、他人事ではありません。
この事態に最も重い責任を負うべきは、言うまでもなくロシアのプーチンです。皆さん、そのプーチンの年頭所感をお聞きになりましたか。彼は、ウクライナへの侵略者でありながら、国民には「祖国防衛のための軍事行動だ」というのです。「祖国の防衛はすべての国民の神聖な義務である」、「祖国の防衛は、次の世代の国民への神聖な義務である」などと。
今ロシアがウクライナで行っている軍事行動は、明らかに侵略戦争と言わねばなりません。それを彼は、「祖国防衛行動」と言っています。これが権力者の常です。「侵略戦争」を「自衛のためのやむを得ない軍事行動」と言うのです。自国は常に正しい被害者で、国境を越えて出兵しても「やむを得ない自衛の行動」だという。そうしなければ攻め込まれるのだから、と。まるで、「自衛のための敵基地攻撃能力論」ではありませんか。
皆さん、欺されてはなりません。悪徳商法の甘い言葉にも、統一教会やその同類のカルトが語る因縁話や献金勧誘にも。そして、最もタチの悪い政権のウソにもです。
かつて、日本の国民の全てが欺されました。天皇が神であるとか、日本が神国であるとか、戦争すればカミカゼが吹いて日本は必ず勝つとか。荒唐無稽な嘘っぱちにダマされての戦争で、310万もの命が奪われました。それだけではなく、2000万ものアジアの人を天皇の軍隊が殺しました。もう、再び欺されてはなりません。
軍事予算を倍増し軍備を拡大し敵基地攻撃能力を誇示することで、中国やロシアや北朝鮮との平和が作れるでしょうか。戦争になってもよいということなのでしょうか。岸田内閣には、安全保障政策の大転換を勝手に決めるなと、声を上げようではありませんか。
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岸田政権にだまされるな
「本郷湯島九条の会」石井 彰
新年初の「本郷湯島九条の会」の昼街宣は、北西の風5mのなかで、8人の方々によっておこないました。温度は10度近くありましたが、風が冷たいひとときになりました。
マイクは、岸田文雄政権による戦後安全保障政策の大転換を訴え、「欲しがりません、勝つまでは」、「神風が吹く」といわれた戦前と同じように国にだまされてはいけない、と訴えました。
いまアメリカの軍事戦略にそって岸田政権は、安全保障法制という戦争法で「集団的自衛権の行使」に基づいて、「敵基地攻撃能力保有論」を国民に迫っています。敵基地攻撃能力を持つことをアメリカに誓約した政府は、軍事費を国内総生産GDPの2%にすると言いだし、2023年から27までの5年間で43兆円の軍事費にします。これはアメリカ、中国に次ぐ世界第3位の軍事大国になることになります。これが政府の言う「専守防衛」の真実です。「自分の国は自分で守る」と岸田文雄首相は言いますが、政府がアメリカに誓約したのは、アメリカのおこなう戦争に付き従い、その先兵として「敵を先制攻撃」するというものです。それは暮らしと経済の破壊をもたらすことは必至です。
さらに日米安全保障条約第5条で、「共同防衛」という名の日本の自衛隊がアメリカ軍の指揮下で先兵の役割を果たすことになります。
今こそ、日本国憲法第9条を守り、アジアへ世界へ発信するために日本の役割はあります。
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[プラスター]★先制攻撃の敵基地攻撃能力保有はやめろ、★国にだまされるな、★岸田文雄首相にだまされるな、★国民が苦難を強いられているのに軍拡を進める岸田は止めろ、★軍事費を増額するというなら国民に信を問え、★岸田文雄政権は退陣しろ、★新型コロナに対してちゃんと対策を立てろ。
(2023年1月9日)
宗教専門紙「中外日報」1月5日号に、野田正彰さん(精神病理学者)が寄稿している。『プーチンのロシアと宗教』という標題。短い論文だが、時宜にかなった手応えのある問題提起。
そのまとめの1文が、「私たちは戦後の日本国憲法で、その内実をあまり討論もせず、政教分離の原則と言ってきたが、政治と宗教は深いところで結びついている。今回の統一教会と自民党の癒着問題は、宗教とは何か、考える重要な契機である。ロシアがたどった道、ウクライナ戦争も、政治と宗教が深くからみあっている」と問題を投げかけるもの。ロシアの事情を批判的に学んで、日本の現状をよく考えよという示唆なのだ。
精神科医である野田さんは、1980年代中ごろ、統一教会の洗脳システムによって常時サタンの幻覚に脅えるようになった信者を、患者として治療する機会があった(論考「霊感商法と現代人の心」・『泡だつ妄想共同体―宗教精神病理学からみた日本人の信仰心』93年春秋社に所収)という。
その経験から、統一教会の動向に関心をもつようになった。とりわけ、ゴルバチョフ財団に多額の寄付をして、権力の中枢との密接な関係を築いてから、市民への布教を進めた統一教会の戦略に関心をもち、何度か現地に赴いての調査もしたそうだ。従って、ソ連崩壊後のロシアの宗教事情に詳しい。ロシアでは、「日本や韓国から侵入してきた統一教会やオウム真理教の被害者家族なども面接」をしているという。その野田さんの論考の骨格は以下のとおり。
「1917年11月の『十月革命』でソヴィエト政府樹立を宣言した…ソ連共産党がロシア帝国の最大の悪と考えたのは、帝制(ロマノフ王朝)であり、その文化イデオロギーである東方キリスト教(ロシア正教)であった。ソ連共産党は宗教をレーニン主義の敵とみなした。
ソ連共産党は宗教なるものを全否定したのだが、ここで宗教と考えていたのはロシア正教だった。ロシア帝国、農奴制と皇帝、ロシアの文化に深く浸透し精神的支えになっているロシア正教。彼ら(共産党)はロシア正教を禁止し、神父を追放処刑し、教会を没収解体していった。だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊できても、その無形の思想を破壊するのは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。廃仏毀釈の後の国家神道の形成も似ている。」
「結局、ロシア正教を全否定したロシア共産党だったが、否定の先にあったのはロシア正教の影絵をたどる道であった。90年代のロシア、ウクライナ、バルト三国など、ソ連解体から諸宗教への勃興へ、私は調査を続けながら、ロシア共産主義がいかに宗教(ロシア正教)に似ているか、考えていた。」
野田さんによれば、ソ連共産党は「党という大教団を作り、各地に委員会という教会を作り、荘厳な祭典(メーデー、戦勝記念日など)を繰り返したこと」「異端の粛清と正統イデオロギーの確定がセットになって反復されたこと」において、結局は、ロシア正教の影絵をたどる道を歩んだ。だから、ソ連崩壊後はロシア正教の復活となったというのだ。
「これほども精神を支配してきた共産主義というキリスト教擬似宗教が消えた跡に、真空に吸いこまれる粉塵のごとく諸宗教が吸引されていた。ロシア共産党の二本の柱、KGBと軍。その強固な柱であるKGB育ちのプーチンは、チェチェン人への謀略によって権力を握った後、迷うことなくロシア正教のさらなる復興を進め、新しく選ばれたキリル総主教との関係を強めてきた。真空になったロシア社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、ロシア正教を支援していったのである。」
この野田論考は、読み方によっては恐ろしい暗示である。我が国の敗戦と戦後民主主義社会における宗教事情ないしは政教分離の内実を再検討すれば、国家神道の再興もあり得ると警鐘を鳴らすものではないか。
《敗戦によって誕生した新生日本は、政教分離を宣言し国家と宗教との癒着を全否定したのだが、ここで宗教と考えられていたのは、天皇とその祖先神を国家の神とする国家神道(=天皇教)だった。国家神道は臣民に刷り込まれ、中央集権的な軍国主義体制下の国民意識を支配し、政治・軍事・教育・文化・メディアに浸透して、国民一人ひとりの精神的支柱にもなっていた。
新生日本は、天皇主権を国民主権に転換し、天皇の軍の総帥としての地位を剥奪し、天皇の宗教的権威も神聖性も法的に否定した。併せて、国家主義を脱して、個人主義・自由主義を憲法の根幹に据えた。さらに、戦後民主主義は、政教分離を宣言して国教を禁止し、神官の公務員たる地位を剥奪し、あらゆる神社への公的資金の投入を禁じた。ひとえに、旧天皇制への回帰の歯止めとして、である。
だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊も改変もできようが、その根底にある無形の思想までも消滅させることは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。絶対主義的天皇制の制度を廃止しながら、象徴天皇制を残した中途半端な戦後民主主義においては、その危険は一層大きい》
《かつて、これほどにも国民の精神を支配してきた国家神道=天皇教である。戦後民主主義というイデオロギーが攻撃され、危うくなったときには、形を変えた『天皇教』が復活するれを払拭できない。その素地は実は十分に醸成されており、真空になった日本社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、天皇教即ち国家神道が立ち上がる危険に警戒しなけれぱならない》