「侵略者」と「被侵略者」、「加害行為」と「防御行為」との区別を曖昧にしてはならない。
(2023年1月17日)
鈴木宗男という政治家がいる。中川一郎の秘書から自民党の議員となり、今は、維新に所属している。親露派として知られる人だが、むしろ、親プーチン派というべきだろう。彼の1月6日ブログが、その親露・親プーチンと、反ウクライナの姿勢を世に発信して話題となった。
「プーチン大統領が日本時間6日、18時から36時間の停戦を国防軍に命令している。
ロシア正教のクリスマスは1月7日である。祈りの時間を与えようと考えるプーチン大統領は、いかなる状況であっても失ってはならない人としての心が感じられる。一方、ウクライナ側はこの停戦を評価するどころか『偽善は自分の中に留めておけ』と極めて強い口調で批判しているが、闇雲に批判するゼレンスキー大統領の頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない。
ウクライナにも熱心なロシア正教の方が沢山いるので、プーチン大統領は配慮しての36時間停戦を発表したと私は受け止めている。
そもそも論だが、ウクライナは自前では戦えない国で、アメリカ、イギリスから武器や資金援助を受けてかろうじて戦っているのではないか。
自分の力で戦えない国がどうして大きなことを言えるのか。その感覚がウクライナ問題の根源である。冷静に大局観を持って対応すべきではないか。
プーチン大統領の新年のお年玉とも言うべき『停戦』を、G7、G20の首脳は重く受け止め、停戦を実現してほしいものである」
分かり易い文章。鈴木の国防観、国際感覚、そして「冷静な大局観」がよく表れている。もっとも、この人の一方的な親プーチン姿勢には、「頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない」。
この人の最新のブログが、また、なかなかのもの。昨日付けの「ムネオ日記」にこうある。こちらは、けっして分かり易くはない。
「ウクライナ紛争の報道で、ロシアが攻撃しウクライナ人が何人亡くなったというニュースは出るが、ウクライナの攻撃によりロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースは出ない。」
(最初は誤読した。鈴木宗男もロシアの戦況に関する報道統制を批判したのかと思ったのだが、どうやらそうではない。報道機関の不公正を非難する主旨のようなのだ。しかし、ロシアの当局が正確な情報を出さないのだから、「ロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースが出る」わけはない。もっとも、1月1日のウクライナ東部占領地域でのロシア軍臨時兵舎攻撃での被害を89人のロシア動員兵が死亡したと認めた。これが、事情あっての異例なこととと伝えられている)
「メディアは公平とか公正を旨としてと、よく使うがウクライナ問題に関しては圧倒的にウクライナの報道量が多いと感じる」
(この一文には怒りを抑えがたい。加害者と被害者の間の「公平・公正」とは、いったいどうあるべきと考えているのか。ロシアの軍隊が国境を越えてウクライナに攻め込んで、ウクライナの人々の生活の場を悲惨な戦場にしたのだ。死亡者も負傷者も、破壊された建物も公共施設もインフラも、被害のすべてがウクライナのもので、ロシアのものではない。ロシアには民間人の犠牲者はない。報道量に絶対差があって当然ではないか)
「こうした流れに視聴者も段々引きずられ、ウクライナに同情が寄る面が出てくるのではないか。」
(断じてそうではない。人々を、反ロシア・反プーチンとしているのは、侵略者に対する憎しみである。親ウクライナの心情は、被侵略者への同情である。侵略者側と被侵略者側、この立場の違いの大きな落差がロシアとウクライナに対する感情を分けている)
「それぞれ世界でたった一つの命である。命を守るためには『停戦』しかない。 メディアから『停戦すべきだ』という発言がないことは残念である。15日のワシントンにおける岸田総理の記者会見でも停戦に向けての言及はなかった」
(人の命が大切なことは言うまでもない。その命を奪っている犯罪国がロシアであり、その首魁がプーチンではないか。昨年2月24日のウクライナ侵攻の前史として両国間にどんな経緯があったにせよ、戦車で国境を越えたプーチンの罪業は消せない。鈴木宗男も、プーチンに対して、潔くその罪を認めた上で停戦に応じるよう、強く進言すべきではないか)
「『核なき世界』という前に、先ずは『停戦』と思うのだが…」
(最後は、意味不明の一文。しかし、ここにも核による反撃をチラつかせるプーチンの罪を薄めようとの意図が感じられる。停戦はあってしかるべきだが、加害者と被害者の区別を曖昧にしてはならない)