(2026年2月18日)
2026年2月17日
改憲問題対策法律家6団体連絡会
社会文化法律センター 共同代表理事 海渡 雄一
自由法曹団 理事長団長 黒岩 哲彦
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 田村 優介
日本国際法律家協会 会長 田中 俊
日本反核法律家協会 会長 大久保賢一
日本民主法律家協会 理事長 稲 正樹
2月8日に投開票された第51回の衆議院議員選挙において、自民党は公示前の198議席から118議席増の316議席となり、参議院で法案が否決されても再議決できる3分の2を超える議席を獲得した。自民党が単独で3分の2を超える議席を獲得したのは同党結党以来初である。連立を組む日本維新の会は36議席を獲得し、衆議院の与党の議席は352議席、全体の75%超となった。
高市首相は、1月19日の記者会見で解散を表明した際、「国論を二分する政策に挑戦する」「高市早苗が内閣総理大臣でよいのか国民の皆様に決めていただく」と発言しており、今後、国民の信を得たとして、様々な政策を推進していくことが考えられる。
しかし、高市政権の本質は、「力による世界秩序」をかかげるアメリカに追従し、大軍拡に邁進し、国家情報局や「スパイ防止法」の創設、「防衛装備移転3原則」の5類型の撤廃、そして自民党が党是とする憲法「改正」を実現し、文字通り日本を「戦争する国」にする極めて危険なものである。こうした高市政権の危険性は、就任早々「台湾有事」が存立危機事態になりうると発言し、東アジアにおける軍事的緊張をこれまでになく高めたり、官邸の幹部が「日本は核兵器を保有すべきだ」という考えを示したと報道されていることを見ればいっそう明らかである。
私たち法律家は、平和憲法を破壊し日本を戦争に導く高市政権の動きに断固として反対する。
今、日本では上がらない実質賃金、止らない物価高、社会保障の貧困といった社会状況に対する不満と不安が蔓延している。総選挙において自民党に勝利をもたらした一因である高市政権に対する高い支持率は、閉塞感を抱いている国民が、そうした現状を変えてくれると期待したことの表れにほかならない。
しかし、新自由主義的な政策の推進によって国民生活を破壊し、「失われた30年」をもたらしたのは連綿と続く自民党政治にほかならない。これを受け継ぐ高市政権では、国民の期待に答えることはけっしてできない。憲法の理念に基づく政治が実現してこそ、国民が真に求める社会、社会保障が充実し、国民が安心して暮らせる社会、大企業より国民生活が優先される社会となる。
選挙結果を受け、改憲に向けた動きが加速するかもしれない。しかし、安倍政権の下で、改憲勢力が衆参両院で3分の2以上を占めた時も、憲法改正の発議はできなかった。国民投票で勝てるという自信がなかったからである。これは、憲法改悪を許さないという全国各地での市民と労働組合と立憲野党による地道な活動によって世論形成をした成果でもある。私たちはこれまでの取組に自信を持ち、あらためて国会内外での改憲阻止・憲法理念の実現を目指す運動を力強く進めていこう。
私たち改憲問題対策法律家6団体連絡会は改憲をゆるさない市民と労組と政党の改めての結集のために今後も全力を尽くす所存である。
以上
(2026年2月13日)
本日14時、東京高裁809号法廷。満席の傍聴者の見詰める中で、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の控訴審第1回口頭弁論期日。事件の内容は、君が代不起立による懲戒処分取消を求めるもの。教員(15名)と都教委の双方が、一審判決を不服として控訴し、それぞれが原判決への不服を控訴状、控訴理由書で述べ、書証を提出した。
原告1名、代理人2名の意見陳述はよく練られたもので聞き応えがあった。裁判官もよく耳を傾けてくれたという印象。
以下にその内容を紹介しておきたい。
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令和7年(行コ)第265号 懲戒処分取消請求控訴事件
控訴人(一審原告) 鈴木毅 外14名
被控訴人(一審被告) 東京都(代表者兼処分行政庁東京都教育委員会)
一審原告鈴木毅意見陳述要旨
1 原告の鈴木毅です。これから2つの意見を述べたいと思います。
2 まずは、何度も処分を受けながら、私が不起立を繰り返してきた理由についてです。それは、端的に言えば、都教委が特定のシンボルへの敬意表明を無理強いする、そのやり方を受け容れることができないということです。
「日の丸・君が代」に対する人々の感情には複雑なものがあることは周知の事実です。そのような人々に「正しい態度」と称する特定の態度を一律に強要することは個人の思想・良心の自由を侵害します。公教育の現場でこのようなことがあってはなりません。
都立高校の卒業式等においては、1990年以降、学習指導要領改訂にもとづいて「君が代」が全学校に導入されましたが、多くの学校では生徒や保護者に「内心の自由は保障される。起立や斉唱を強制するものではない」と、事前の説明を行うことが定着していきました。これは教師集団の中に「強制は問題」「人権侵害は避けたい」という意識が共有されていた結果であると思います。
ところが2003年に「10・23通達」が出されると、指定された座席で「国旗」に向かって起立し、「国歌」を斉唱すること、などという職務命令が校長から全教職員に出されただけでなく、都教委は生徒・保護者に対する「内心の自由」に関する事前の説明を禁止し、式場はおろか事前のホームルームでの発言すら禁止するようになりました。
都教委は国旗に正対して起立し国歌を歌うことが「正しい態度」であると主張し、教職員にその態度を率先垂範することを命じましたが、このことはその行為に違和感を持つ生徒らには多大な同調圧力をかけることになりました。
さらに都教委は、通達直後の全都立学校での起立状況を監視、集約し、不起立の生徒がいたとの報告を受けると、各学校の卒業式の進行台本に「起立しない生徒には、起立を促す」という指示を書き込ませるようになりました。中には「起立しない生徒には『起立しなさい』と発言する」と書き込んだ学校もありました。この事態を「生徒に対する起立斉唱の強制」と言わずして、どう表現できるでしょうか?そして公権力の末端の位置に立つ教員が、このような行為をすること、あるいはこのような行為に加担するよう命じられることが、憲法上許されるものでしょうか?
憲法上の原理として最も優位に立つべき「個人の尊重」が崩されていくことが、卒業式・入学式という高校生活の節目の舞台で起こっていくことは、生徒の人権を擁護する使命を負っている教師としては看過できません。私は、教師としての信念から、また憲法尊重義務を負う公務員の立場からも、生徒の思想・良心の自由を侵すおそれのある行為に加担することはできません。
また、「10・23通達」発出以降、欠かさず職務命令を出す校長に対して、私はその都度異議を申立ててきましたが、職務命令が撤回されたことは一度もありませんでした。このような状況下で行われる式に際して、私は、「国歌斉唱」の業務においては、非協力、不服従の態度で臨むほかはありませんでした。
3 2つ目の意見を述べます。本訴において都教委が、本件通達と職務命令は国旗国歌法と学習指導要領の趣旨・要請にもとづくもので、かつ命令によって改善すべき事情があったのだから「必要性・合理性があった」と主張し、原判決はそれを受け入れていますが、このような裁判所の評価・判断は改めていただきたいと思います。その根拠は、控訴理由書で示した通りですが、私が高裁での裁判所に特に吟味していただきたいと願うのは、都教委が通達を出す必要性を感じるに至ったほんとうの経過です。
私は通達直後の2004年3月の卒業式で不起立し、戒告処分を受けたのち150名あまりの被処分者とともに東京都人事委員会にこの処分に対する不服申し立てを行い、その後人事委員会審理を行いました。この審理では60名を超える校長、副校長のほか、通達発出時の教育庁指導部長、人事部長、高等学校教育指導課長らへの尋問を行い、私はほぼ全ての尋問に参加しました。ここでは通達発出前後の教育委員会や都議会文教委員会の議事録、臨時および定期の校長および副校長連絡会での伝達内容、通達発出時の説明会の記録などの開示請求を行って得た文書や刊行物に記載された関係者の発言や記述内容などにもとづいて、尋問で事実確認をする作業がくり返されました。その結果、明らかになったことは、学校現場への「日の丸・君が代」の導入について独自のこだわりを持った一部の都議会議員、教育委員による不当な介入があったという事実です。そしてこの介入が都教委担当者たちに通達発出の必要性を惹起し、対策本部の設置、通達の発出、職務命令発出を校長らに強要する行為へとつながったのです。
この異常な介入の実態は、通達発出後に、不当な介入した当事者自身がその真の目的について各方面で語っています。たとえば、米長邦夫教育委員は園遊会で当時の天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけ、「強制になるということではないことが望ましい」と返された話は広く報道されましたし、鳥海巌教育委員が通達発出翌年の教育施策連絡会で、通達に反対する教職員について「半世紀の間につくられたがん細胞のようなもの。少しでも残せばすぐ増殖する。徹底的にやる」などと述べたことも広報に掲載されました。彼らの介入は、個人的信念の実現や特定の教職員に対する弾圧を意図したものであり、不正な動機にもとづくものです。
このような不当な介入によって発出された10・23通達は、現在も改廃されることなく生き続けています。そしてこの通達下の卒業式・入学式は、学校のさまざまな教育活動の中で唯一、学校ごとの教育課程の編成権を無視して、一から十まで全て都教委の指示に従った内容で実施される特別な行事となっています。そしてこの行事は「国歌斉唱」の40秒間にピークを迎えます。
4 都立学校では2017年を最後に、不起立を理由とした懲戒処分は発令されていませんが、現在に至るまで、すべての教職員に職務命令が発令されて続けています。私には、2017年以降、式進行中も式場外で警備や受付などの業務にあたれという命令が出されていますが、「国歌斉唱」を命じられている同僚たちの間には、「服務事故」に対する恐怖心を生じさせています。都教委は「国歌斉唱」時に最大限の教職員を動員するよう指導しており、式場内外で誘導、受付、救護などの業務にあたっていた教職員も「国歌斉唱」予定時刻前には会場内の指定された座席に着席させ、「国歌斉唱」後は再び本来の業務に戻らせるといった命令も出されています。たとえば今年の入学式では、撮影による記録を担当している教員には次のような動きを命じられていました。「9時20分、会場の撮影開始、9時38分、写真担当者はカメラ撮影を中断、録画担当者は固定してあるビデオを録画状態のままにし、それぞれ決められた座席へ移動、着席。10時5分、国歌斉唱が終了して着席後に、担当者は座席を離れ、撮影再開。」という塩梅です。
着席が命じられた同僚は、指定された時間に着席していないと「服務事故」で処分されかねないと、緊張感をもって会場へと移動します。そして「国歌斉唱」の際は、副校長が不在の者、不起立者が生じていないか職員座席表を手に監視します。これが都教委の求める「厳粛な式典」の、最も「厳粛な」瞬間なのです。今、10・23通達とそれにもとづく職務命令は、「国歌を斉唱するものとする」という学習指導要領の目標を超えて、年に2回、教職員に「服務事故」への恐怖を背景に服従させるシステムへと転換してしまっているのです。
このような通達と職務命令に必要性・合理性があるとは考えられません。裁判所には原告らが提出しているに至る経過に関する証拠や主張を再度吟味し直していただき、不十分であった事実認定を改め、「10・23通達」が持つ本質的問題を捉えた賢明なる判断をしていただきたいと思います。
以上
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1審原告ら訴訟代理人弁護士白井劍
1 客観的アプローチとは本件では、国旗・国歌に対する敬意表明を個人に義務づけることの可否が問われています。その義務づけを公権力が行なうことを、立憲民主政の憲法体系は許すのか。わたしどもが「客観的アプローチ」と呼んでいるものは、この根源的な問いかけのことです。
2 国家シンボルに焦点を当てねばならない
国旗・国歌が国家シンボルであることに焦点を当てなければなりません。そうでなければ、話が捻じ曲げられてしまいます。10・23通達事件に関する一連の最高最判判決において、千葉勝美裁判官は補足意見のなかで、「自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり、社会秩序が成り立たなくなる」と述べました。国旗・国歌が国家シンボルであることに焦点を当てなければ、この補足意見のような見当違いの話にされてしまいます。本件は、漠然と思想良心の自由一般と義務一般の関係とを問う問題ではないのです。あくまでも国家シンボルに対する敬意表明をめぐる問題です。
3 都教委によるすべての教職委に対する義務づけ
国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することは、国旗・国歌に対する敬意を表明する行為です。それが、都立高校および都立特別支援学校のすべての教職員に、一律に出される職務命令によって、義務づけられます。そのような事態がそれぞれの校長のそれぞれの判断の集積であるはずはありません。もしそうであれば、ただの1校のもれもなくすべての都立学校でそのような事態になるはずはありません。10・23通達はすべての校長に対して職務命令を出すことを義務づけたのです。都教委が、通達と校長の職務命令を介して、すべての教職員に、国旗・国歌という国家シンボルに対する敬意表明を義務づけたのです。それを2003年10月以降の卒業式、入学式、周年行事でくり返してきました。
4 国家シンボルに対する敬意を義務づけるとはどういうことか
国家シンボルに対する敬意の義務づけは、国家の権威を受け入れることの義務づけです。そのことは、「国旗損壊罪法案」が鮮やかに示しています。「国旗に敬意を払うのは当然だ。これを侮辱する行為は処罰せねばならない」という法案です。かつて1987年に沖縄国体「日の丸」焼却事件がありました。那覇地裁でも福岡高裁那覇支部でも、建造物侵入・器物損壊・威力業務妨害で懲役1年執行猶予3年の判決でした。これらの罪名とは別に、あらたな罪名を創設しようという法案です。その保護法益はもちろん他人の財物ではありません。そうではなく、「国家の権威」が保護法益です。国旗に対して敬意をもつことの義務づけは、いま、学校の門を飛び出して、広く国民全体におよぼうとしています。
5 国旗や国歌が象徴するものは「国のありよう」
国旗と国歌は、国家(くに)を象徴する国家シンボルです。国旗と国歌によって象徴されるものは、もちろん個々の政策や政権ではありません。しかし、政治的に中立な無色透明の存在でもありません。そうではなく、政治的色彩や個人に向き合う姿勢をも含めた、「国のありよう」です。国のかたち、くにがら(国柄)と言ってもよいです。「国のありよう」は、1945年以前、「國體」と呼ばれました。
そのような「国のありよう」が、旗や歌という具象として立ち現れるのです。それが国家シンボルとしての国旗・国歌です。
6 「国のありよう」に対する異議を強制的に排除するのは全体主義
ひとが国家(くに)に対する敬意をもてるかどうかは、「国のありよう」によって異なります。自分の国だからといって、当然に敬意をもつとは限りません。
「国のありよう」に関する異議を表明する自由が保障されていて初めて、民主主義が成立するのです。国旗・国歌が象徴する「国のありよう」に対する敬意を強制するということは、「国のありよう」に対する異議を排除するということです。その異議を排除してしまう社会は全体主義社会です。異議が押し殺され、国家の権威を受け入れることを強いられる社会です。
7 学校を全体主義の飛び地にする
国家シンボルに対する敬意表明を義務づけることは、国家に対する敬意表明を義務づけることです。「国のありよう」に対する異議を排除して、その権威を認め受け入れよという義務づけです。それは学校を全体主義の飛び地にするものです。
8 不起立は積極的な物理的妨害ではない
本件は、積極的な物理的妨害事件ではありません。卒業式等を積極的、物理的に妨害したものでないことは最高裁も認めています。仮に積極的な物理的妨害行為であれば、話は別です。しかし、平穏な態様の「不作為」であってさえも許されないとすれば、それは全体主義というほかありません。控訴人らがおこなったことは、ただ単に国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを「しなかった」、つまり「敬意を表明しなかった」というだけの、消極的行為であり、物理的妨害にはならない行為でした。それにもかかわらず、懲戒処分という教育公務員の世界では非常に重いペナルティーを科されているのです。非違行為といっても文書訓告ですむことも少なくありません。文書訓告は懲戒処分にいたらないペナルティーです。一番軽い懲戒処分とされている戒告処分さえも、じつは非常に重いペナルティーです。
9 最後に
仮に、司法が、10.23通達にもとづく職務命令を許さないという毅然とした態度をとっていれば、国旗に対する敬意を国民全体に刑罰をもって義務づけようとする、今日の事態はなかったはずだとわたしは思います。この先も司法が毅然とした態度を示さなければ、全体主義に向かう傾向はさらに強まっていくだろうと思います。
裁判所には、ぜひ、立ち止まって慎重に熟考を重ねていただきたい。
いま、裁判所がどのように判断するかによって、原告らの侵害された権利と名誉が回復されるか否かが決まります。それだけでありません。この国のありようが決定づけられるかもしれません。その重みに思いをいたしていただきたいのです。最後にこのことを申し上げて、わたしの弁論を終わります。
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一審原告ら訴訟代理人弁護士 金井知明意見陳述要旨
1 控訴人ら訴訟代理人の金井です。
私からは、本件各処分が、裁量権の逸脱・濫用にあたり違法であることについて、述べます。
本件の裁量権逸脱・濫用の判断にあたり、重要なことは、「懲戒処分をするかしないか」との点について、処分権者の裁量にも司法審査が及ぼされなければならない、ということです。
そして、その判断にあたっては、懲戒事由に該当すると認められる行為の態様や処分の軽重など、考慮すべき事情が考慮されなければなりません。
この点は、本件に関連する、2012年1月16日最高裁判決も、神戸税関事件最高裁判決を引用して指摘しています。
原判決の問題点は、これらの考慮すべき事情を、考慮せずに、「懲戒処分をするかしないか」との点で判断を誤り、漫然と戒告処分であれば構わないとして、適法としてしまったことにあります。
2 2012年1月16日最高裁判決は、戒告処分については違法とせず、取り消しを認めませんでした。しかし、これは、あくまでも判決当時の状況を前提にして、まだなお違法とまではいえないとの判断したものにすぎません。
判決においても、「当不当の問題として論ずる余地はあり得るとしても、その一事をもって直ちに裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法の問題を生ずるとまではいい難い」と含みを残した内容になっています。
また、本件に関連する、一連の最高裁判決においては、2名の反対意見が付されて、法廷意見に与した裁判官の補足意見も、多くが思想信条の自由の保障に対する配慮が必要であることに言及するなど、強制の抑制を求める内容でした。
これらの点からも、最高裁判決が、今後の状況いかんにかかわらず、戒告処分であれば違法にはならないとお墨付きを与えたものでもないことが分かります。
3 短い時間ですので、ここでは、考慮すべき事情を2点に絞って話をします。いずれも最高裁判決以降の事情です。
1点目は、国際人権の規範では、勤務中の教員であっても、職務命令に従わずに起立をしない権利が保障されるということです。
このことは、懲戒処分の対象となった行為の態様として、当然に考慮しなければなりません。
2018年以降、2つの国連機関から、是正勧告がだされています。
1つは、ILOとユネスコとが設置した合同員会であるCEARTです。
CEARTは、「起立や斉唱を静かに拒否することは、職場という環境においてさえ、個人的な領域の民的権利を保持する個々の教員の権利に含まれる」と指摘します。
そして、懲戒処分を避ける目的で、懲戒手続について教員団体と対話する機会を設けるように是正勧告を行っています。
この点について、都教委は、CEARTの勧告には法的拘束力がないことを主張します。
しかし、法的拘束力が無いから、遵守しなくて良いということにならないことは当然です。
CEARTも、勧告の中で、勧告の前提となる国際基準である「教員の地位勧告」は、標準的な国際文書として、すべての国に適用されることを意図して策定されたものであること、そして、日本もILO及びユネスコの加盟国である事を指摘します。そして、勧告が出されても懲戒処分による強制が改善されないことから、これまで三度にわたり、是正勧告が出される結果となったのです。
是正勧告を行ったもう一つの国連機関は、人権規約委員会です。2022年に、日本政府に対し、総括所見において、国歌起立斉唱の強制が、規約第18条に抵触するとして、是正勧告を行いました。
原判決は、裁量権の逸脱・濫用の判断にあたって、国連機関から是正勧告を受けている点について何らの考慮もしていません。しかし、不起立は、国際的な人権規範である「教員の地位勧告」や自由権規約に照らせば、人権として保障されるのです。懲戒事由の対象となった行為の態様として、当然に考慮されなければならないものです。
4 もう1点は、戒告処分には重い不利益が付随することです。そして、最高裁判決の後、戒告処分による不利益は重くなっています。
原判決は、この戒告処分の不利益について、給与人事制度の適用ないし運用の帰結にすぎないと指摘し、過小な評価をしています。そして、不利益が加重されたことについても、同様に給与人事制度の適用ないし運用の帰結にすぎないと指摘します。
しかし、戒告処分は、その効果として、給与人事制度上の不利益を生じさせるものです。
例えば、地方公務員法の逐条解説(甲A361)では、戒告処分は、訓告処分や厳重注意といった制裁的実質を備えない指導監督上の具体的措置とは異なり、懲戒処分として一定の効果が有するとして、昇給が延伸され、勤勉手当が減額されることが指摘されています。
また、都教委が作成した、ガイドライン(甲A358)や、教職員宛に配布された書面においても(甲A333)、戒告以上の懲戒処分を受けると、昇給等給与面の不利益が発生し、報道機関に公表され新聞などで報道されるほか、履歴にも搭載される等の不利益が生ずることが明記されています。
懲戒権者である、都教委自身が、給与及び人事制度上の不利益が生ずるものとして、懲戒処分を行っているのですから、単なる制度運用上の帰結ではなく、戒告処分の効果であることは明らかです。
そして、勤勉手当の減額を定める「学校職員の勤勉手当に関する規則」や、昇給延伸を定める「昇給に関する基準」は、懲戒権者である都教委自身が制定したものです。懲戒権者が、戒告処分の効果として不利益が生ずる規則を自ら制定し、懲戒制度を運用しているのですから、戒告処分の法効果として不利益が生じていることは明らかです。
2012年最高裁判決以降、都教委は、自らこれらの規則を変更し、戒告処分を受けた者に対する勤勉手当の不利益の加重し、昇給延伸の幅を増幅させています。その上で、戒告処分を行い、加重した不利益を負わせているのです。単なる、制度運用上の帰結では無く、加重された不利益は、戒告処分の法効果として生じたものです。
そして、戒告処分に伴う、勤勉手当の削減や昇給の延伸は、最高裁判決前の停職処分相当にまで加重されています。
都教委が、不利益が加重される前に、戒告処分による生涯賃金の不利益を約90万円と指摘していましたが(甲A333)、もはや生涯賃金約90万円の目安ではすまないということです。
加重された不利益が生ずること、生涯賃金約90万円を超えるような不利益が生ずることは、当然、懲戒処分をするか否かの判断にあたって、考慮されなければならないものです。
5 一般社会では、国歌斉唱時に立つか立たないか、歌うか歌わないかは、自由で自主的な判断に委ねられています。立たないこと、歌わないことによって不利益を被ることはありえません。
勤務中に職務命令を受けた教職員であってもこのことは変わらないというのが国際人権の考えです。
日本の、東京都の教職員だけ、懲戒処分が許容され、不利益が課される理由はありません。
そして、戒告処分の不利益の重さを考えれば、そもそも「懲戒処分をする」すること自体が裁量権の逸脱・濫用にあたると言わざるをえません。したがって、いずれの処分も取り消されなければなりません。
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なお、都教委側からの人証の申請はなく、教員側からは前川喜平氏一人。その採用を求めて、澤藤から大要下記の意見を述べた。
前川喜平氏の証人採用を求める意見(澤藤)
本件は、国家主義の立場からする教育観と、個人の尊厳を立脚点とする教育観との争いです。教育の場において、国家と個人の憲法価値の優劣、ないしはその根源性が問われています。
この根源的な課題に関して、前川喜平氏ほどふさわしい適格者はいません。同氏は、文科省初等中等教育局長から文部科学事務次官となった方です。国の教育行政の中枢におられて事情を知悉するこの方が、「卒業式・入学式等の学校行事における『国旗・国歌(日の丸・君が代)』への敬意表明の所作としての起立斉唱」を、教員に強制する職務命令や懲戒処分を正当化する客観的な合理性・必要性の有無について証言を求める予定です。
是非とも、この貴重な証人の採用をお願いいたします。
これに対する都教委側の意見は、下記のやや不思議なもの。
「証拠申出書の尋問事項の内、意見書と重なる部分については不要と考える。
また、意見書と重ならない部分について証人が採用になった場合には、反対尋問する意思のないことを予め申しあげておく」
裁判所は慎重で、
「重大な事件であり、主張・書証が厖大でもあるので、次回まで少し時間を置いて十分に検討させていただきたい。」とし、
次回口頭弁論期日を5月29日(金)14時(809号法廷)と指定した。
(2026年2月10日)
2月8日第51回総選挙の開票結果は衝撃だった。嗚呼、何という選挙だ。何という選挙結果だ。何という選挙民だ。これが民主主義か。これが戦後80年民主化の到達点か。最悪の事態に茫然。まるで悪夢だ。暗澹たる思い。元気が出ない。昨日は、一日憂鬱だった。
「大義なき唐突な解散」によって強行された「史上最短の選挙戦」を経ての「降り積もった雪の投票日」における開票結果だった。自民党316議席の大勝。しかも、その自民党は、「石破自民党」でも、「岸田自民党」でもなく、安倍後継を自任する、「禍々しき高市自民党」である。不吉で不穏な空気。この国が内在する危うさをくっきりと浮かびあがらせた。こいつは春から縁起が悪い。悪過ぎだ。
高市早苗とは、ズバリ「女装した家父長」(名言である)であって、女性の権利にもジェンダーギャップの解消にも関心はない。のみならず弱者への慮りにも欠けている。人権よりも国権を重んじ、強い軍事国家、強い経済の提唱者で、政権批判の放送の停波も辞さない強権の志向者でもある。その高市が率いる「高市自民党・高市政権」とは、自民党守旧派が党を乗っ取って最悪の自民党を形成し、その最悪自民党が国政を席捲している最悪の危険な図式なのだ。
衆院の3分の2の議席を確保した「高市自民党・高市政権」が確実にやろうとしていることは、軍備拡張・防衛増税であり、非核三原則の見直しであり、武器輸出解禁であり、スパイ防止法制定であり、国旗損壊罪の制定である。そして、与党・政府一体となっての「改憲・壊憲」にほかならない。労働法制の改悪も進むことになろう。重苦しい空気の時代を覚悟しなければならない。
一方、決してやろうとしないのは、選択的夫婦別姓制度の創設であり、同性婚の承認であり、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性」尊重の深化である。自由で明るい時代はしばらく来ない。
この「高市自民党」に316議席を与えたのは有権者である。この国が内在する危うさの第一は、民主主義の未熟さなのだ。完全な政治制度はあり得ないにせよ、「代議制民主主義」は、他のいかなるものよりも「よりマシな統治制度」とされてきた。その試行錯誤によって、主権者は学びを重ね次第に賢明になってゆくものとされてきた。しかし、この度の選挙結果はなんたることだ。その遅々たる歩みを嘆かざるを得ない。
1925年普通選挙の実施から100年を過ぎた。もっとも、1945年までの20年間は、民主主義という言葉も憚られた天皇主権の時代。帝国議会は天皇の「協賛」機関に過ぎず、選挙は「貴衆両院」の一院だけのものであった。普通選挙は、天皇制を支える外形的立憲主義の小道具に過ぎず、選挙権者は男性に限られてもいた。
1945年の敗戦を経て、民主主義の時代が到来した。衆参両院からなる国会が唯一の立法機関となり、女性参政権も実現した。選挙は、名実ともに民主主義の基軸をなすものとなった。主権者の意思を以て権力を構成し、権力の運営に主権者の意思を反映する手続の根幹となった。しかし、その選挙が高市政権を生み出した。選挙が、人権や民主主義の抑圧者を選び、圧倒的多数の選挙民の利益に敵対する政権を作っているのだ。
フーチンもトランプも、選挙によって政権を握った。ヒトラーもそうだった。選挙は独裁者を作りうる。高市も、後世、その一例と数えられる殊になるのかも知れない。
本日は、月に一度の「本郷湯島9条の会」による本郷三丁目交差点での街宣活動。いつにも増して、スピーチのボルテージが高い。私もマイクを握った。何人かの歩行者が立ち止まってこちらを向いて耳を傾けてくれた。終わりに拍手もあって、励まされた。
「いつまでもがっかりしてはおられません。空元気でも、声を出し、主権者としての意見表明を続けてまいりましょう。
なによりも、今言いたいのは、本日のプラスターに書き込まれているとおり、《私たちは、高市政権に白紙委任をしていない》ということ。私たちは、投票日一日だけの主権者ではありません。365日、毎日24時間、常に主権者です。次の選挙まで黙っているわけにはまいりません。最も大事な主権者の責務は、常に権力を監視し、権力批判を怠らないこと。今こそ、これを実行しなければなりません。
批判のない権力は、必ず腐敗し暴走します。高市内閣のような危険な政権であればなおさらのこと。暴走を止めるためには、主権者みんなが政権の一挙一動に目を光らせ、批判をすること。おべんちゃらを言うことには、なんの意味もありません。
幸い、我々には表現の自由があります。戦前、戦争が近づくにつれて、言論の自由も政治活動の自由も弾圧されました。こうして批判者がなくなった後に、戦争が始められました。そのような痛恨の歴史の教訓を噛みしめなければなりません。
戦前のキナくさい匂い芬々の高市政権です。その危険な動きを封じるよう力を合わせようではありませんか。」
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本日の手製プラスターの数々