どうやら日本は、いまだに『神の国』『天皇の国』のごとくである。
(2023年1月5日)
昨日、1月4日が世の「仕事始め」。首相である岸田文雄も、この日仕事を始めた。その一年の最初の仕事が伊勢神宮参拝という違憲行為。年頭の記者会見を伊勢市で行うという、何ともグロテスクな時代錯誤。
いま、統一教会のマインドコントロール被害をめぐって、「政教分離とは何か」、「信教の自由の本質をどう見るのか」、「統一教会加害の社会心理学的背景は何であるのか」という真摯な論議が巻きおこっている。そのさなかでの天皇の祖先神を祀る神社への年頭参拝の無神経。戦前の天皇教は、日本国民1億をマインドコントロールすることに成功した。その残滓をどう克服するかが、マインドコントロールから解き放たれた戦後民主主義の最大の課題であったはず。にもかかわらずの天皇教本殿への首相参拝である。意識的か無意識か、政権トップが憲法の理念を尊重しようという姿勢に著しく欠けるのだ。この国の立憲主義は、まことに危うい。
その点では、立憲民主党・泉健太も負けてはいない。何と、元日には乃木神社の写真をツィッターに掲載したのだ。これに対する当然の批判に、感情的な反発をして物議を醸している。
彼の1月3日ツィッターはこう言う。
「『乃木神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。乃木神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
彼が、歴史を学ぶ姿勢をもっているとは思えない。よく似た論理を繰り返し、聞かされてきた。中曽根や、小泉や、安倍晋三や高市が、下記のように言ってたことと変わりはない。要は、政治家としての民主主義的な感度が問われているのだ。
「『靖国神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。靖国神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
前川喜平が、冷静にこう批判している。「明治天皇に殉死した長州閥の軍人を神と崇める行為。無自覚なのか意図的なのか知らないが、これにより失う支持者は、得られる支持者より多いだろう。」
乃木は、天皇制の時代に忠君愛国の手本となった軍人。君国のために多数の部下に「死ね」と命じた愚将の典型。これを神として祀る神社への参拝は、極右や安倍晋三崇拝者にのみふさわしい。およそ、平和や、民主主義や人権を口にする人が足を運ぶところではない。
1月4日朝の泉ツィッターには、さらに驚かざるを得ない。
「本日は伊勢神宮参拝と年頭記者会見の予定です。『皇室の弥栄』『国家安泰』『五穀豊穣』を祈願するとともに、やはり全国民皆様の』平和」と「生活向上」が大切。そのために一層働くことを誓ってまいります」
岸田に張り合って、泉も伊勢参拝なのだ。その上で、まず『皇室の弥栄』『国家安泰』を祈願するという。この人何を学んできた人なのだろうか。いまだに、天皇教のマインドコントロールに縛られたままのお人のようである。
もう一つ、1月4日毎日朝刊の古賀攻(専門編集委員)コラム「水説」に驚いた。『憲法1条を顧みぬ国』という表題なのだ。内容は、天皇の血統が絶えることを憂慮して対策を講ずるべきだという趣旨である。天下の毎日の編集委員がこう言い、毎日が恥ずかしげもなく紙面に掲載する、その現実を嘆かざるを得ない。
憲法第1条は、こう述べている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権 の存する日本国民の総意に基く。」
この憲法第1条は、天皇を主語にしてはいるが、国民主権宣言条項である。天皇主権を否定し、天皇の地位は主権者国民が認める限りのものに過ぎないと明示する。国民主権の欠如を『憲法1条を顧みぬ国』と愁うるのは分かる。が、「このままだと皇室は確実に核家族化し、将来の天皇を身近に支える皇族がいなくなってしまう」と嘆いてみせる前に、日本の民主主義や人権のあり方をこそ嘆くべきだろう。
このコラムの書き出しはこうである。
「3年ぶりの新年一般参賀に姿を見せた皇族が<少ない>と思ったのは気のせいで、実際には愛子さまと眞子さんの入れ替わりだけだという。こちらが心配性になっているせいかもしれない。」
つまらぬことを心配しているというにとどまらない。愛子『さま』と眞子『さん』の使い分けがばかばかしい。
世襲という制度は忌むべきものである。人は平等であるという文明社会の公理に反する。克服すべき人間不平等時代の野蛮な遺物である。社会は、政治家の世襲については批判する。資産家の二代目三代目も軽蔑する。しかし、世襲制度の本家は皇室であろう。皇室や皇族の世襲をこそ批判しなければならない。
このコラムは、最後をこう締めくくっている。
「憲法1条は、天皇を国および国民統合の象徴、その地位を「主権の存する国民の総意に基づく」と定める。憲法秩序の骨格なのに、(皇位継承の安定化措置を提言する)17年前の首相演説はうやむやになり、国会が求めた報告も放置したまま。それで済ませる感覚が不思議でならない」
私はこう思う。天皇を「憲法秩序の骨格」と言ってのける感覚の論説委員がいまだに存在し、大新聞がそのような論説を掲載することが、不思議でならない。
伊勢神宮・乃木神社・天皇は、国家神道・軍国主義・権威主義・世襲制に貫かれている。いずれも御しやすい国民精神を涵養するためのマインドコントロールの小道具、大道具にほかならない。そして今、これを批判しないマスメディアに支えられている。