宗教弾圧を阻止し平和を守るための宗教協力ー「新宗教新聞」を読む
月に一度、律儀に「新宗教新聞」が送られてくる。購読申込みをした覚えはなく、継続配達を希望したこともない。それでも、毎月々々月末ころに確実に郵送される。岩手靖国訴訟受任時に新宗連とのささやかな交流があって以来のこと。既に30年にもなる。
かつて私は、厳格な政教分離を主張して、国や自治体と対立した。そのとき、自ずと宗教者とは蜜月の関係となった。ところが、霊感・霊視商法が跋扈したとき、私は被害者の立場から宗教団体(あるいは「宗教団体まがい」)の批判に遠慮をしなかった。おそらく、そのときに宗教者との「蜜月」は終わった(のではないか)。
今私は、新宗連だけでなく、どこの宗教団体や連合体とも交流はない。唯一の「交流」が、毎号送られてくる「新宗教新聞」である。私はこの新聞の愛読者として毎号よく目を通している。加盟各教団の行事紹介にはさしたる興味はないが、紙面の真摯さに好感を持たざるを得ない。
ご存じのとおり、「新日本宗教団体連合会」(新宗連)の機関紙である。毎号題字の前に、3本のスローガンが並んでいる。「信教の自由を守ろう」「宗教協力を進めよう」「世界の平和に貢献しよう」。私の記憶では、かつてはもう一本「政教分離」のスローガンがあったが今は消えたのが残念。もっとも、同紙の政教分離違反への監視の眼は鋭い。安倍晋三の靖国参拝や真榊奉納に対する批判声明などは、意を尽くして行き届いたものだ。何より、宗教者らしい礼節を尽くしたものとして心に響くものがある。
毎号のことだが、紙面は、まさしくこの「信教の自由」「宗教協力」「平和」という3本のスローガンにふさわしいものとなっている。
まずは、「平和への貢献」。今号(4月27日号)にも、「平和」があふれている。「戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8・14式典)準備」「沖縄慰霊平和使節団」「平和への巡礼」「長崎・原爆落下中心地講演慰霊祭」「終戦70年特別事業」「アジア懺悔行」「前事不亡・後事之師」「世界平和を誓う」「平和への祈り」…。
次いで、「信教の自由を守ろう」。東北総支部の「信教の自由とは何か」をテーマとした学習会が紹介されている。そこでの組織内講師の発言が注目される。
「これまでの信教の自由のとらえ方は、教団の信教の自由が中心だったが、宗教界の既得権益を守る活動のような誤解を受けがちだった。基本的人権の根源である個人の信教の自由を出発点としたい」というもの。そのうえで、「教団の自由」と「個人の自由」の関係を、大学の自治を例に挙げて、「個人の自由」を基本としながら、その保障のための「教団の自由」の大切さを説いている。国家権力による個人の信教の自由攻撃に対する防波堤としての教団の自由という位置づけ。なるほど、テーマとしてたいへん興味深く面白い。
そして、「宗教協力」である。「新宗連活動の原点と歴史」という連載コラムで、新宗連の設立にGHQの関与があったことを初めて知った。見出しが「信教の自由守るための団結を」「宗教弾圧知るウッダート氏が提案」というもの。
1951年3月末に、GHQ民間情報教育局の調査官ウィリアム・ウッダートなる人物が、後に新宗連初代理事長になる御木徳近(元ひとのみち、現PL教団の2代教祖)に面会した。この調査官は、「ひとのみち教団」や「大本教」などへの戦前・戦中の過酷な宗教弾圧をよく知っており、日本において、再び宗教弾圧が起きることを懸念して新宗教団体が団結する必要性を次のように説いたという。
「戦後、新憲法ができて信教の自由が得られても、日本という国は、いつか右傾して、宗教の弾圧がまた始まる可能性がないとは言えません、そんな時にはやはり新宗教が主として弾圧の対象となるでしょう、そんな時に、戦前のひとのみち教団や大本数のように孤立していて個々バラバラであっては、国家権力に対抗することは不可能です。そこで、これからは新宗教も手を握りあい、団結・協力してそれに対抗しなければいけません」
この経過は、新宗連の初代事務局長を務めた大石秀典の『真生滔々』(新宗教新聞社刊)に詳しいそうだ。
これがきっかけとなって、同年10月17日新宗連結成の運びとなる。元々、新宗連は権力による宗教弾圧を避けようとして結成されたものなのだ。
同じコラムの中に、御木徳近が後年こう語ったと紹介されている。
「神仏の道を説く者がなんのためにいがみ合うのでありましょうか。いかなる宗教も平和を欣求してやまぬものであるはずです。神仏のみこころは、平和な人間世界を具現することにあると思います。心の平静を保ち、みんなで仲良く世界中の人が、信教の別を超越し、無信仰者もともに、平和社会具現のために尽くしてこそ、神仏のみこころにかなうのであります」
宗教協力は、国家権力から信教の自由を擁護するためのものでもあり、平和社会具現のためのものでもあったという。3スローガンが三位一体の調和という次第なのだ。
(2015年5月2日)