澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

危機感溢れる中の憲法記念日

本日は68回目の憲法記念日。戦後70周年に当たるこの年の憲法施行記念日でもある。1946年11月3日に公布された新憲法は、国民への周知のための半年の期間を経て68年前の今日が施行日となった。

その日、政府主催の新憲法施行記念式典が催され、記念国民歌「われらの日本」が唱われた。慶祝の花電車が走り、憲法音頭が踊られた。しかし、68年を経て、いま政権は憲法に冷ややかという域を遙かに超えて、敵意を剥き出しにしている。

第1次安倍政権の時期も憲法受難の時代であった。この政権が、2007年7月の参院選挙で与党大敗となり、その直後に安倍晋三がかつてない醜態をさらして政権を投げ出したときには憲法に替わって快哉を叫んだものだ。その後しばらくは、「憲法の安穏」の時期が続いた。しかし、よもやの第2次安倍政権発足以来、毎年の憲法記念日は改憲をめぐって緊張感が高い。

「憲法の危機」は、明文改憲としての危機でもあり、解釈改憲による憲法理念なし崩し抹殺の危機でもある。今、両様の危機の切迫に警戒しなければならない。

本日の赤旗「安倍壊憲政権に立ち向かう」という標題で、森英樹(名古屋大学名誉教授・日民協理事長)がこう述べている。
「容易ならざる事態の中で迎える今年の憲法記念日は、例年と質的レベルを異にするといわざるを得ません。『戦争立法』=壊憲の先に、文字どおりの改憲を公言する安倍政権のもと、それこそ『壊憲から改憲へ』という『切れ目のない』憲法敵視策の中で迎えることになるからです」

ここでは、「壊憲」=解釈改憲・立法壊憲、「改憲」=明文改憲と使い分けられている。その指摘によれば、「改憲」には前科があるという。

「再軍備が54年の自衛隊設置に及ぶや、政府は…憲法を変えようとしました。しかし国民の反撃にあって改憲は失敗します。すると今度は解釈を変えて『必要最小限の個別的自衛権』保持・行使なら憲法に違反しない、と言い始めました。
 いま、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を合憲にしようとする『解釈改憲』が問題になっていますが、実はもう前科があるのです。ただ、9条があり、…最初の解釈があるので、これを気にして、せめて海外に出て戦争することはしない、という『専守防衛』の『歯止め』を維持してきました。ここを崩そうとするのが今の解釈改憲です」

森が引用する奥平康弘の言葉が印象に残る。
「1月末に急逝された『九条の会』呼びかけ人で憲法研究者の奥平康弘さんが、生前最後の対談で指摘したように『九条は自衛隊設置を許した「個別的自衛権」で歪められ、「集団的自衛権」で無くされようとしている』(『季論21』26号での堀尾輝久氏との対談)のです」

個別的自衛権という名目で、軍事力の保持を認めたことには二面性がある。わが国が保有できる軍事力を「自衛の範囲のものに限定」し、その活動を専守防衛におしとどめたという一面は確かにある。しかし、森や奥平が鋭く指摘するとおり、一切の軍事力の保持を禁じた9条を解釈と立法で「壊した」もう一面があることは否めない。森は、これを「壊憲の前科」というのだ。

今、安倍政権がたくらむ「壊憲」は、「専守防衛」の「歯止め」まで外して、9条を事実上無にしようというものだという、この重大な警鐘を肝に銘じなければならない。

明文改憲に関しては、今さらの「押しつけ憲法論」が安倍晋三の口から繰り返されている。しかし、戦争と軍国主義、国民監視体制から解放されて、平和と自由を獲得した国民は、明らかに新憲法を歓迎した。この憲法を「押しつけられたもの」と意識したのは、旧体制の支配層の生き残りであったろう。いま、安倍晋三が、その立場と自分を重ねて「押しつけ憲法」というのは、旧憲法体制での「既得権益」の再現を狙うものと解するほかはない。

本日の毎日新聞は、十分なスペースを確保して「日本国憲法制定過程をたどる」「憲法はどう作られ、変えられようとしているか」という、いずれも充実した検証記事を掲載して読み応え十分である。これだけの充実した紙面だと、あらためて「新聞ほど安いものはない」と思わせられる。

憲法制定経過の検証の末の毎日の結論は、「押しつけ(憲法論) 薄い論拠」というもの。そして、社説において「押しつけ改憲にさせぬ」と小見出しを付して、「憲法の根本原理を作りかえ、政治が使い勝手をよくするための『押しつけ改憲』には明確にノーを言いたい」と立場を鮮明にしている。

さらに東京新聞の特集が充実している。
同紙の一面トップは、「平和をつなぐ」と題するシリーズの第1回として、美輪明宏を取り上げている。「憲法や平和について議論を深めよう」などという、中途半端で生温い記事ではない。下記のとおり、改憲の危機意識を露わに、平和と憲法を擁護する立場を鮮明にしてのものだ。

「戦争をしない国」を支えてきた憲法9条は今、危機を迎えている。政府は集団的自衛権が行使できるようにする法整備を着々と進め、その先には改憲も視野に入れる。「これからも憲法を守りたい」。戦争を体験した世代から、20代の若者まで、世代を超えてその思いをつなぎ、広げようと、メッセージを発信する人たちがいる。

三輪を語る記事の標題は、「危機迫る憲法 自作反戦歌 今こそ」というもの。
第2次安倍政権発足以来、三輪のコンサートは、反戦を唱うものに変わったという。それも、徹底した筋金のはいった反戦の姿勢。

ロマンあふれるシャンソンとは趣が違う、原爆孤児の悲しみを描いた歌詞。長崎で原爆に遭った自身の体験を重ねた。70年を経ても拭い去れない悪夢。不戦を誓う憲法を手にした時、「もう逃げ惑う必要がない」と安堵した。その憲法が崩れるかどうかの瀬戸際にある。
「私たちは憲法に守られてきた。世界一の平和憲法を崩す必要はない」。若い世代も多い観客に伝えたくて、反戦歌を歌う。原爆体験や軍国主義への強い嫌悪が美輪さんを駆り立てている。

しかも、三輪の語り口はけっして甘いものではない。「そんな(憲法の危機をもたらしている)政治家を舞台に立たせたのは、国民の選択だった。そのことをもう一度考えてほしいと美輪さんは歌い、語り続けている」とする記事のあと、最後は三輪の次の言葉で締めくくられている。
「無辜の民衆が戦争に狩り出されるのではない。選挙民に重い責任があるのです」

憲法記念日の紙面の、一面トップにこのような記事をもってきた東京新聞の覚悟が伝わってくる。社と記者と、そして三輪明宏に深甚の敬意を表したい。

また、同紙は今日で3日、連続して「戦後70年 憲法を考える」シリーズの社説を掲載している。いずれも読み易く立派な内容である。
 戦後70年 憲法を考える 「変えない」という重み (5月1日)
 戦後70年 憲法を考える 9条を超える「日米同盟」(5月2日)
 戦後70年 憲法を考える 「不戦兵士」の声は今 (5月3日)

戦争と統制に抗う、健全なジャーナリズムを衰退させてはならない。その国家統制や社会的なバッシングによる萎縮を許すとすれば、三輪が言うとおり「無辜の民衆が被害に遭うのではない。国民自身に重い責任がある」のだから。
(2015年5月3日)

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