「NHK受信料支払い半年間凍結」のお勧め
「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、昨日(4月21日)NHKを訪れて籾井勝人会長の辞任を求め、同会長が4月中に辞任しない場合には、半年間の受信料支払い凍結を視聴者に呼びかける運動をスタートさせることを通告した。
その運動方針の概略が、同会のホームページに掲載されている。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/
受信料支払いの拒否ではなく、支払いの凍結。それも半年間と期間を区切ってのもの。その半年の間に籾井会長が辞任すれば、凍結を解除し遡って未払い分を支払う。仮に、その時期が半年経過後であっても、未払い分の清算を呼び掛けるという。よく練られた優れた運動方針であることを改めて確認して支持を表明したい。
運動として「優れた」方針という意味は3点に集約されよう。まず「運動に道理がある」、次いで「多くの人に参加してもらいやすい」、さらに「要求実現に実効性が高い」ことである。
まず、道理がある。運動目的の道理の存在についてはいまさら言うまでもない。そのポイントは、放送法の立法趣旨がNHKの権力からの独立の確保にあるにもかかわらず、安倍晋三の「お友だち人事」が立法の理念を極端に破壊していることにある。これを是正しようという、運動「目的」の正当性が大前提。そのことは当然として、いま、運動方針の吟味に際して問題とすべきは、運動の「手段」として社会的に是認さるべき道理を具備していること。それあって初めて、多くの運動参加者が自らの行動について正当性の確信をもつことができる。
「視聴者コミュニティ」の代表である醍醐聡さんは、「受信契約は一方的な義務ではない。NHKと視聴者の相互信頼からなる契約だ。籾井氏によって信頼が壊されているなかで、支払い凍結は当然の権利だ」と語っている(本日付赤旗)。まことにもっともな道理ある説明ではないか。NHK側の信頼関係損壊への視聴者の対抗手段として適切であって、「過剰な反応」だの、「権衡を失する」などという言いがかりを許さない。社会的な支持を獲得することに十分な道理をもっている。
なお、道理の上で大切なことは、良心的なNHK職員への配慮がなされていることである。会の名称が「NHKを激励する」との文言を含んでいる。籾井や百田・長谷川を激励する趣旨ではない。権力からの締め付けの中で、ジャーナリストとしての良心を貫こうとしている現場の職員との連携を大切にする立ち場からも、「半年間の支払い凍結」という運動手段は道理がある。
次いで、多くの人に参加してもらいやすいこと。おそらくこれが、再重要のポイントである。「受信料不払い」となれば、まなじりを決した決意が必要と考える人も少なくなかろう。「支払い凍結」であれば、気楽にいける。「半年間だけ」と期限を切っのものであれば、なおのこと運動参加のハードルは低いものとなる。多くの人が参加しやすくなっている。
「NHKに打撃を与える運動に参加するのだから何らかのリスクを覚悟しなければならないのではないか」とご心配の向きに、「大丈夫ですよ。覚悟などする必要はありません。心穏やかに『半年間の支払い凍結を』」と呼び掛けたい。
刑事弾圧のあり得ないことは4月18日の当ブログで、既に詳述したので繰り返さない。下記URLを参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2496
そのブログに、民事的なことにも触れてはいるが、少し補充をしておきたい。
NHK受信料の支払い義務は受信契約締結の効果として生じるのだから、民事上の債務不履行という状態にはなりうる。借金の返済が遅滞している、家賃の支払いが滞っている、キャッシングの決済が未了となっている、などと同じ事態。「滞納になっている」のだ。だから、NHKから民事的な催告があることは当然のこととして予想される。それ以上の強硬手段として、民事訴訟の提起があるかといえば、ないと考えるのが常識的な判断。
NHKの側に立って考えてみよう。
「この件で、何万件も提訴して、訴状を送達して、第1回の口頭弁論期日を決めて、答弁書の提出を受けて、再反論して…、証拠を提出して…、半年の間に結審して、判決を取ることなどまず不可能だ。ましてや、判決に基づく強制執行などあり得ない。だから、訴訟費用と手間暇かけての提訴は、絶対にペイしない。せっかく手間暇かけての裁判の途中で半年経って任意に支払われたら、それで訴訟は終了なのだから。たくさんの人が支払い凍結となれば、膨大な訴訟コストでNHKは経済的な苦境に追い打ちを受けることになる。半年経っても支払わない人にだけ、選択的に提訴を考えるという方針を採った方が賢いやり方だ。」
だから、NHKの提訴は考えにくいが、なにしろ籾井会長を擁するNHKの経営陣である。コストを無視しての提訴が絶対にないとは言えない。万が一には提訴されることもありうるだろう。しかし、提訴されたところで大したことにはならない。貴重な経験と思っていただいて結構なのだ。衛星契約で、せいぜいが1万3000円程度の裁判なのだから。
催告がNHKから届いているかぎりは、慌てることはない。無視していてもよい。内容証明郵便による催告でも同じこと。しかし、裁判所から来た場合には、放っておいてはいけない。おそらくは、簡易裁判所からの督促手続としての「支払い命令」が先行すると思われる。これを放っておくと、確定判決と同じ効果が生じることになるから、異議の申立をすることになる。すると、正式裁判に移行する。1万円程度の裁判。NHKの方が辛いだろう。
仮に、NHKからの提訴があった場合には、多くの視聴者が共同して応訴することになるだろう。その場合には、視聴者側の言い分を堂々と述べることになる。受信契約は双務契約であるから、NHK側が自分の債務を履行していることが大前提でなくてはならない。放送法に定められた公共放送としての責務をきちんと果たしているかを問題としなければならない。籾井会長や、百田・長谷川などの経営委員の、人選や言動、あるいはその放送内容への影響などが裁判の焦点となるものと考えられる。安倍晋三の女性国際戦犯法廷取材番組への介入の事実も再度問題となろう。大裁判といってよい。到底半年で決着がつくはずもない。凍結期間半年が経過すれば、裁判も終了する。
そして、半年間の支払い凍結が、会長の辞任という要求実現に実効性の高い手段であることは、いうまでもない。籾井会長の辞任を勝ち取ることができたら、安倍改憲志向政権に大きな打撃を与えることができる。この運動是非とも成功させたい。NHKの権力からの独立性確保のために、民主主義の大義のために、NHK受信料支払い半年の凍結をお勧めする。
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「人間の品質管理」を連想させる、キリンとライオンの殺処分
トゲのように心に刺さって忘れられない記事がある。「デンマークの動物園 今度はライオン四頭殺処分」という3月26日付け毎日新聞の報道。詳細はつぎのとおり。
2月9日、デンマークのコペンハーゲン動物園が、飼育していた1歳6カ月の健康な雄のキリン「マリウス」を殺して、ライオンの餌にした。それも、子どもを含んだ来園者の目の前で解体し、ライオンの檻に入れて食べさせた。インターネットサイトに載っている写真の、横たわった血だらけのキリンのうつろな目が正視に堪えない。
ほかの動物園や個人からの引き取りの申し出を拒否して、この処分を強行したので全世界から批判が殺到した。動物園側の主張は、「マリウスの遺伝子は繁殖という目的からすれば、平凡すぎた」「キリンの解体は来園者にとって遺伝的多様性を学ぶ機会である」「キリンの肉はもったいないのでライオンの餌にした」というもの。
さらに、園内のキリンが殖えすぎて(8頭)、近親交配を避けるため殺処分しなければならなかったと主張している。繁殖プログラムに参加しているヨーロッパの動物園団体も規約に則っているとして、この殺処分を支持した。果たして公開についても支持したのだろうか。これらの動物園のキリンの先祖は同系統で、マリウスはどこにもらわれていっても、健全な子どもの父親にはなれない。動物園のスペースは限りがあるので、遺伝子的にもっと価値の高いキリンのために場所を空けなければならないので、去勢しても飼うことはできないともいっている。
当然のことながら、動物愛護団体やたくさんの個人からは非難が殺到した。説明に当たった動物園職員はメールや電話で殺人予告を含む脅迫を受けた。解雇を要求する署名は「マリウス」の助命嘆願の4倍を超える11万通も寄せられたという。
話はこれで終わったのではない。その後の2月25日、その同じコペンハーゲン動物園がそのキリンを食べたライオンのうち4頭をやはり殺処分したという。理由は23日新しい遺伝子を入れるために、若い雄ライオンが搬入されてきたためである。年老いた16歳の雄と雌はこの若い雄と争いになるのを避けるため、また、老いた雄ライオンの子どもである2匹の子ライオンは新しく入る若い雄ライオンに殺される運命にあるため、一緒には飼育できないということらしい。理想的な若々しいライオン家族を作るため、4頭を殺して1頭を搬入したということである。気分が悪くなる。たとえ、ぬいぐるみ遊びでもこんなふうに簡単に気持ちの整理はつくものではない。子どもが古いぬいぐるみを、愛着なく平気で捨てて顧みなかったら、親は仰天するだろう。
しかし、どこの動物園でも飼育スペース確保のために余剰動物を殺処分するのは珍しいことではないらしい。ただ、コペンハーゲン動物園のように挑戦的、衝撃的にそれを公開するようなことはしない。動物園の飼育環境は良くなっているので、動物は長寿を全うする。繁殖技術も向上して、動物の数も増える。近親交配を避けるべく、動物園のあいだで動物の移動をするが、それも限界がある。動物園で生まれた子どもを自然に返すことは大変な困難を伴い、なかなかできることではない。とすれば、現代社会に動物園があるかぎり、コペンハーゲン動物園で起こった悲劇は無数に繰り返されることになる。コペンハーゲン動物園は「キリン」や「ライオン」という、目立って美しい生き物を公開殺処分して、動物園の現実をあらわにし、あえて警鐘を鳴らしたのかもしれない。
確かに、狭い檻の中をグルグル歩き回るクマを観るのは痛々しい。父親のシルバーバックが大きな背中で隠そうとしているゴリラの家族を覗くときはプライバシー侵害を恥じる気分になる。不機嫌そうにじろりと見返すハシビロコウの檻の前は「すみません」と言いながら素通りしたくなる。大きな羽をすぼめたオジロワシやエゾフクロウのしょんぼりした姿は見るに堪えない。たぶん、「見物させる動物園」の役割は終えつつあるのだろう。
だからといって、動物園がキリンを公開殺処分して、ライオンに食べさせる情景を見物させていいはずがない。「ブタやウシを殺して食べている人間が何を言うか、偽善者メ」といわれても、やはりこの殺処分には納得がいかない。合理的と情緒的の境界は明確ではない。人によって文化によってその境界は大きく異なる。殺処分はいいが、公開はいけないという人もいるだろう。コペンハーゲン動物園は非難されても、キリンの殺処分と公開に後悔の念はなく、合理的精神に則ってライオンの処分までつき進んだようにみえる。それとも、ひるんだが故にライオンの処分は公開しなかつたのだろうか。
「マリウス」と名前をつけて、慈しんできた生き物に対する惻隠の情というものはないのか。「マリウス」の生命に対する畏敬の念はないのか。公開で殺し、餌にするのは、「マリウス」の尊厳を踏みにじることにならないのか。抵抗できず、抗議もできない弱い生き物を人間の都合で安易に殺してよいはずはない。環境を破壊し、生息域を狭めてきた張本人の人間が「平凡すぎる遺伝子」とか「飼育スペースがない」といって動物を殺すのは傲慢すぎないか。だれにも「劣った遺伝子」を決め、選別する権利はないはずだ。
こんなに怯えた気分になるのは、動物園のキリンの次は「人間の品質管理」という悪夢が忍び寄っているのではという思いが浮かぶからだろうか。
(2014年4月22日)