ジョージア州の「銃どこでも法」を嘆く
以下は、本日のCNN日本語版ネット配信記事。アメリカの銃「規制」問題についての最新事情をものがたっている。
「米ジョージア州で学校や教会などへの銃携行を条件付きで認める条項を盛り込んだ州法が23日、ネイサン・ディール知事の署名で成立した。
同法は銃の携行を認める場所について規定する内容で、許可証を持つ人物が銃を隠して一部のバーや教会、学校、行政庁舎、空港の駐車場やショッピング街など一部区域に持ち込むことも認めている。同法は7月1日から施行される。
署名式は同州北部エリジェイの屋外ピクニック場で行われ、出席者の多くは拳銃を携行していた。全米ライフル協会の帽子をかぶったり、「銃規制をやめろ」「銃は命を救う」などの横断幕を掲げる出席者もいた。
ディール知事は署名に当たり、「我々の自由を再確認する素晴らしい日」が来たと述べ、同法によって住民は家族を守ることができ、銃を携行できる場所が増えると強調。銃の持ち込みを認めるかどうかは教会やバーなどの所有者が決められるとした。
一方、反対派は同法を「銃どこでも法案」と呼んで批判していた。銃の持ち込みを認める範囲は当初の法案よりは狭められたものの、『これで米国一利用者の多い空港に銃が持ち込めることになり、学校では教室への銃持ち込みを認めるかどうかを巡って激しい論争が持ち上がる』(法案反対組織の幹部)と批判している。」
南部ジョージア州といえば、州都がアトランタ。かの「風と共に去りぬ」の舞台である。コカ・コーラ、CNNなどの企業本社所在地としても、犯罪多発地帯としても知られる。デルタ航空本社もここにあり、アトランタ空港は「世界で最も忙しい空港」という異名をとる。全米で最も銃規制が緩やかというフロリダに隣接してもいる。そのジョージア州での「銃どこでも法」の成立。
オバマ来日中だが、「アメリカのようにはなりたくない」と昔から思ってきた。私のイメージに沈潜しているアメリカの一面は、「差別の国」「格差の国」そして「暴力の国」である。「暴力の国アメリカ」を象徴するものが、「銃の社会」「銃の国」としての実態である。至るところに銃がある。いつ発砲されるかの不安から逃れられない。全米での銃所持率は57.7%に上るという。毎年1万人以上が射殺されている。いやしくも文明国、当然に銃規制の進展があるだろうと思っていたが、実はそうなっていない。ジョージアでの「銃どこでも法」の成立は、銃規制に逆行する全米の傾向をものがたっている。
銃規制に反対する思想は、「自衛のための武力は必要」、「自衛手段を備えることは権利」というもの。「『凶器としての銃』に対抗する手段としての護身の銃」を手放すことはできない、との信念である。
敷衍すれば、こうではないか。殺人や傷害、強盗・恐喝・脅迫の手段となる銃(悪い銃)と、身を守る手段としての銃(良い銃)とがある。「銃は命を救う」「住民は家族を守ることができる」「我々の自由を再確認する素晴らしい日」という発言は、良い銃が必要だし、良い銃が社会に充ちることこそが望ましい、という発想である。あるいは、銃が世に満ちれば、悪い銃は使えなくなるに違いない、というあまりに近視眼的な発想。
もちろん、銃に良いも悪いもない。どの銃にも殺傷力があるだけ。銃は本来的に危険な凶器である。使い手次第で、その危険性が現実化して、悪い銃になる。「良い銃こそ、世に満ちよ」という願いで、規制を解かれて世に出される大量の銃のうち、その一部は確実に「悪い銃」として使われる。
また、はたして銃が世に満ちれば悪い銃が使えなくなるだろうか。昨年9月、「銃の所持と殺人の間には、確実な統計的関連性がある」とする研究報告が、米国医師会雑誌に発表されている。「研究は30年間、全米50州を対象に行われたもので、銃の所持率が1%上がるごとに、殺人率が0.9%上がるとされている」という(AFPの記事http://www.afpbb.com/articles/-/2968025?pid=11340935)。
この結論は常識的なものだが、統計数値に支えられて説得力は大きい。この度のジョージアの立法も、確実に殺人率を上げることに貢献するだろう。
「国家権力に武力の独占をさせてはならない」として、人民からの武器剥奪に抵抗する思想に魅力を感じないではない。しかし、その思想の妥当性は役割を終えた過去のものとなった。歴史的には国民が銃を持つ権利が意味をもっていたが、今や国民が武器をもたないで安全に暮らせる社会の実現こそが具体的な目標となるべきだ。治安の攪乱が、身を守るべき銃を必要とする。治安の確立が銃を必要ないものとする。真に身を守る手段は、銃ではなく、いま人に銃を持たせることになる要因としての、格差・貧困・偏見・憎悪の克服をこそ目指すべきであろう。
この議論は、一国における武装自衛主義と非武装平和主義との論争に通じる。歴史は、国民が武器をもたない社会の形成をめざして、ほぼ実現しつつある。次は、各国が武器を持つ必要のない国際社会を目指すべきが当然だろう。国防軍の増強ではなく、各国間の格差・貧困・偏見・憎悪・収奪を克服して、国家間、国民間の平和的な交流の促進が課題となる。
その先頭に日本か立つことによって「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
なお、アメリカの銃規制反対派の拠りどころは、合衆国憲法である。その修正第2条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」というもの。「人民が武器を保有しまた携帯する権利」とは、「良い銃」の保持が憲法価値にまで高められているのだ。とはいえ、この武器保有の権利も、国民の生命の保全や生活の安全などの他の憲法価値と衝突することとなれば、衡量しなければならない。既に、銃保有の自由が「殺人率」を高めて、国民の生命や社会生活の安全に桎梏となっていることが明らかとなっている以上は、銃規制の合憲性は当然と言うべきではないか。
(2014年4月24日)