オバマとアベの広島訪問は、「国民の核アレルギーをトゲ抜きする対症療法」に過ぎない
明日(5月26日)から伊勢志摩サミット。地元だけでなく東京までがテロ対策の厳戒態勢。今そこにある不愉快な日常の展開である。
つくづく思う。常にテロに怯えなければならない社会は病んでいる。これに慣れてはいけない。勇ましく「テロと闘う」などという愚を犯すことなく、テロの背景と温床を剔抉して、暴力のない「積極的な平和」を作る努力を重ねなければならない。今、先進国が享受している不公正な豊かさを大きく犠牲にする覚悟で。
もっとも、このサミット警護を口実の厳戒はうさんくさい。「テロ対策」は、治安出動予行演習として格好の機会ということなのだろう。過剰警護についても目を光らせる必要があろう。
ところで、戦争の暴力はテロの比ではないけた外れの悪の極み。その戦争における、超絶した暴力手段が核兵器である。核こそは、人類と共存しえない絶対悪として廃絶しなければならない。人類史において、その核が絶対悪であることを、この上ない規模と質の悲惨さで証明したのが、1945年8月6日の広島であった。そして、同月9日長崎の悲劇が続いた。
今次のサミットを機に、原爆を投下した加害国の大統領が、公式に広島の爆心地を訪れることになった。が、事前に「謝罪抜き」を言明してのこと。その訪問の意味がさまざまに論じられている。
被爆者団体は概ね歓迎の意向である。無理に謝罪は求めないとも言っている。その上で、被爆者との面談を求めている。毎日新聞紙上で、長崎大元学長・土山秀夫さん(91)は、「米大統領の広島訪問 遅すぎた『慰霊の旅』」として、「私も原爆で家族を亡くしているので謝罪を求めたい気持ちは痛いほど分かる。しかし、オバマ大統領を窮地に追い込んでは、米国内の反オバマ勢力に力を貸すだけだ。大統領は『慰霊の旅』として訪問を実現させたと解釈し、受け入れたい」と述べている。
被爆者の言には、侵しがたい重みがある。内容も無理からぬことは思う。しかし、釈然としないままことは目前に迫った。
釈然としないのは、なによりもアベの先導による訪問だからである。戦争法成立を強行し、平和憲法に敵意を剥き出しの安倍晋三が、あたかも日本国民の平和と核廃絶の願いの先頭に立つがごときパフォーマンスに、大きな違和感を禁じ得ない。それでも、このオバマの広島訪問が核廃絶に繋がる第一歩となるならよい。しかし、そのことにモヤモヤ感が払拭できないのだ。「謝罪はしない」ことを予め言明して、オバマはいったい何のために広島を訪問しようというのだ。
昨日(5月24日)の東京新聞夕刊「紙つぶて」欄に、中野晃一が「広島で何を」という記事を寄稿している。
「初めて米国の現職大統領が広島を訪問するというので、メディア論調は歓迎ムード一色です。しかし憲法は核兵器の保有・使用を禁じていないと繰り返す安倍晋三首相に案内されて広島に何をしにいくのでしょう。被爆者への謝罪どころか米国はいまだに核兵器の非人道性を認めていないのですから、社会科見学みたいな話です。中高生なら自分の目で見て感じることから始めればいいでしょう。しかし無知と無関心にあぐらをかいた米国世論の許す範囲で、オバマ氏と安倍氏が日米軍事・原子力同盟の強化目的で広島を訪問するというなら、それは被爆地の政治利用にすぎず、核廃絶には繋がりません。」
問題は、「オバマと安倍が日米軍事・原子力同盟の強化目的で広島を訪問する」と見る確かな視点を持てるか否か。
この点について、本日(5月25日)の毎日朝刊が、「米大統領の広島訪問 私の見方」の連載に浅井基文からの聞き書きを掲載している。タイトルは、「米の責任問い続けよ」というもの。傾聴に値すると思う。全文を引用する。
日米開戦時の日本軍による真珠湾奇襲攻撃と、日本敗戦直前の米国による広島、長崎への原爆投下は、戦後の日米関係において、のどに刺さったトゲとも言うべき要素だ。日米同盟関係は米国が日本を一方的に取り仕切る「おんぶにだっこ」から、いまや日本が積極的に米国の世界戦略に協力する「持ちつ持たれつ」へと様変わりしている。オバマ氏の広島訪問は、変質強化された同盟関係を盤石なものに仕上げる最後のステップと位置づけられているとみる。
米政権にとって「核のない世界」はあくまでビジョンに過ぎない。日本の政権にとっても「核の傘」は同盟関係の基軸だ。オバマ氏の広島訪問が核兵器廃絶の第一歩になるとの期待は幻想で、核兵器の堅持を前提としたセレモニーに過ぎない。
広島と長崎は戦後長年、日本の核廃絶運動の中心的存在として、日米安保体制を最も中心に置く日本政府への対抗軸としての役割を担ってきた。オバマ氏の来訪を無条件に歓迎することは、日米両政府の核政策を全面的に受け入れるという意味に他ならず、日本外交における「お飾り」の役割に徹するということだ。
広島は、戦争加害国としての日本の責任を正面から受け止めると同時に、無差別大量殺害兵器である原爆を投下した米国の責任を問いただす立場を放棄してはならない。そうすることによってのみ、核兵器廃絶に向けた人類の歩みの先頭に立ち続けることができるだろう。
指摘のとおり、日本国憲法の体制に対抗して日米安保体制がある。現実には、日米安保体制という強固な現実に、日本国憲法を携えた一群の民衆が抵抗を続けていると言うべきなのかも知れない。このせめぎあいにおいて、核廃絶の運動は紛れもなく日本国憲法の側の大きな砦である。それ故に、広島・長崎の核は、「戦後の日米関係において、のどに刺さったトゲ」となっているというのだ。
日米の支配層は、このトゲを取り去るか無害化することによって、日米両政府の核政策を完成させたいところ。日本国憲法の理念を擁護する立場からは、このトゲをトゲのままに終わらせず、核廃絶の大きな運動の拠り所としなければならない。
注文を付けないオバマ広島訪問は、核兵器の堅持という現状を前提とした、「核アレルギー対症療法のセレモニー」に過ぎない、というのが浅井説である。私も、これに賛意を表したい。そして、あらためて戦争と核の悪を追求し続ける覚悟を固めたい。
(2016年5月25日)