大本営発表とNHK
「営」の旧字は營。その冠はかがり火の象形なのだそうだ。篝火を焚いた軍隊の所在地を指す。兵営、陣営、野営、入営、営倉などの熟語に本来の意味が表れている。総司令官が所在する営が「本営」。これに大を付けた大仰な造語が「大本営」。大元帥である天皇が所在する陣営、くらいの意味であったろう。
平凡社の世界大百科事典によると、大本営とは「戦時または事変において天皇の隷下に設置された第2次大戦前の最高統帥機関。最初に法令化されたのは1893年5月の〈戦時大本営条例〉で,1年後の日清戦争時に初めて設置された」という。
太平洋戦争開始以来戦況に関する情報は一元的に管理され、「大本営発表」としてNHKから放送された。それ以外の情報は流言飛語とされて、厳重な取り締まりの対象となった。
第1回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時の対米英開戦を告げるもの。同7時に、NHKラジオによって以下のとおり報道された。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
この日、NHKは「ラジオのスイッチを切らないでください」と国民に呼び掛け、9回の定時ニュースと11回の臨時ニュースを大戦果の報で埋めつくした。そのほかに、「宣戦の詔書」や、東条首相の「大詔を拝し奉りて」などが放送された。こうして「東条内閣と軍部はマスコミ(NHK)を最大限に利用し、巧みな演出によって国民の熱狂的な戦争支持熱をあおり立てた」(木坂順一郎「太平洋戦争」)。
その後、NHKの大本営発表は846回行われたという。発表の形式はアナウンサーが読み上げるものと、陸海軍の報道部長が読み上げるものとの2種類があった。いずれにせよ、戦争遂行にNHKはなくてはならぬものとなり、NHKと大本営発表との親密な関係は、戦時下の日本国民の意識に深く刻みこまれた。
大本営発表は、今は「インチキ情報」の代名詞。主権者としての国民に対する真実の情報提供ではない。戦争遂行に国民を鼓舞する目的のプロパガンダであった。情報を握る地位にある者は、そのすべてをそのまま伝達すべき時に、他の方法をとりうる。握りつぶす、改変する、誇張する、取捨選択して一部だけを出す。自分に都合のよいように操作が可能なのだ。権力を持つ者に情報が集中し、集中した情報を操作することによって権力は維持され強化される。
特定秘密保護法反対運動の中で再確認したとおりである。権力が、情報操作を行うことによるプロパガンダを行ってはならない。権力に不都合な情報を、刑罰をもって秘匿するようなことがあってはならない。国民は、正確な情報を知る権利がある。
民主的な運動が、権力の大本営発表的プロパガンダを指弾し、再びこのようなことがあってはならないとするのは、主権者たる国民を対象とした情報操作が民主主義の拠って立つ土台を揺るがすからである。戦前のNHKも、その積極的共犯者として指弾されざるを得ない。
戦前のNHKは、形式は国営放送ではなく社団法人日本放送協会ではあったが、国策遂行の役割を担った事実上の国営放送局であった。大本営発表に象徴される戦争加担の責任は免れない。その反省から、1950年成立の放送法は、NHKを国策追従から独立した公共放送と位置づけた。
敗戦を挟んで、戦前と戦後との比較において、権力の集中から分立へという視点が重要だ。富国強兵がスローガンだった時代、あらゆる局面での権力の集中が国策に合致するものであった。戦後は、議会も行政も司法も天皇大権から独立した存在となった。教育も国家の統制を排する建前の制度となった。放送もそうだ。公共放送は、国営放送でない。国家との一体性を否定し、国家からの統制に服することなく、戦前大本営発表の垂れ流し機関であった愚を繰り返してはならないとするのが、放送法の精神である。
1月25日の籾井勝人新会長の就任記者会見における「政府が右というときに、左というわけにはいかない」という発言は、NHKの戦前戦後の歴史や教訓に学ばず、再びの大本営発表の時代を招きかねない危険を露呈したものである。今後は口を慎めばよいという類の問題ではない。籾井氏が、およそNHKの会長職にふさわしからぬ人物と判明した以上は、辞職していただく以外にはない。この重責は、それにふさわしい人格が担うべきなのだから。
(2014年1月29日)