澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

兵営で迎えた亡父の8月15日

(2022年8月15日)
 この夏、父盛祐と母光子の遺作を集めて追悼歌集を作った。B6版で88ページ、パンレット程度のものだが、できあがってみると感慨一入である。印刷製本は「株式会社 きかんし」にお願いしたもの。数年前に、兄弟4人で作ることを決め、次弟の明(元・毎日新聞記者)が選句し編集していたが、昨夏突然に没した。そのあとを三弟の盛光が完成させた。明の遺した歌も入れ、編集後記は生前に明が書いた通りのものとなった。

 歌集の題は、「草笛」という。父の冒頭の一首からとった。

  校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ

 1914年生れの父と15年生れの母の人生には、戦争が大きく関わっている。父の回顧の歌には召集されての兵役の生活を詠んだものが多い。その中から、終戦時の歌を紹介したい。父は、2度目の召集で配属された弘前の聯隊で終戦を迎え、同年9月12日に召集解除・除隊となっている。

  玉音放送畏め受くと兵われら直立不動に姿勢正せり

  玉音はさだかならねどポツダムの宣言受くと宣らしたるらし

  玉音放送終る即ち兵ぬちに湧き立つ号泣嗚咽の声も

  神風が吹くなど言いし妄想はついにあえなく潰え去りたり

  召集にまた徴用に閲したる七有年の意義は何ぞも

  わが前に南に征きし部隊はも沖縄沖に沈みしと聞く

  もし敵が攻めきたりなば詮はなし肉弾のみと隊長は言う

  朝早く刀振る性となりており戦い敗けて日は経たれども

  菊の紋刻せし銃を廃品の如くに捨てて隊を解きたり

  兵われが人を撃つなく斬りもせで戦さ止みしはみ恵みなるよ

  妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける

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 なお父は、1941年8月から翌年11月まで、当時の満州国黒河省愛琿(アイグン)守備隊の兵営にあって、その頃の軍隊生活の歌が多い。いくつかを掲載しておきたい。

  新妻と語るいとまもあらなくに大陸指して海渡りゆく

  足音をしのばす如く兵どちが輸送列車に乗せられし夜

  わが軍の機密漏れじと汽車の窓夜昼閉じて指すは北満

  アンペラを敷きたる貨車に揺られつつゆさぶられつつ幾日過ぎけむ

  妻の文開くに惜しく背嚢に秘めて炎熱の行軍に発つ

  一杯の水で顔ふき口すすぎ今日も炎天の演習に発つ

  行軍の小休止にも故郷の家族のことを語り合いにき

  陽炎の原を這いつつ幾百里かなた故郷の空を思えり

  北満の昼は灼熱夜に入ればよろず声なき厳寒の底

  夜深み空襲警報と聞きたるは狼の群の遠吠えなりき

  暁になりて知れりと立哨のまわりに狼の足跡あるを

  朝おそく昇りし陽早やうすづきて演習の野に寒気せまり来

  小休止のうたた寝終えて目ざむれば防寒外套に霜の立ちおり

  対岸のソ連の動きただならず厳戒せよと命をうけたり

  黒竜江(アムール)に氷の張れば危ぶめりソ連の軍が襲いこずやと

  指揮官の過ちありて水死せる屍(かばね)ならべり十余の兵の

  大太鼓叩くが如くとどろかせ黒竜江(アムール)の氷ひび割れにつつ

  一木も無き野に伏すときいぶかしもみんみん蝉の鳴くが聞こゆる

  蝿ほどの蝉を見しかば絵にかけり妻へ宛てたる軍事葉書に

  三味線を持ち込みきたり演芸に津軽ジョンガラ弾く兵のあり

  「休日」と小店に貼れる文字だに美しかりき文字の国にて

  足に合う軍靴さがせばどなられき靴に足を合わせるのだと

  動作にぶく気回らずて古兵からとられしビンタ幾つなりしか

  時過ぎて還らぬ兵あり捜さむと戦友(とも)の出でゆく暗き雪夜に

  黒竜江(アムール)ゆ昇りて大き仲秋の血の色の月を二度仰ぎける

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