宗教的な熱狂の政治との結びつきは危険である。天皇教もオウムも、そして統一教会においても。
(2022年8月14日)
統一教会をめぐる一連の議論の中で、「この団体は本当に宗教団体なのか、実は反共を掲げる政治団体に過ぎないのではないか」という疑問が散見される。もちろん、このような団体に「信教の自由」を口にする資格があるのか、という問題意識を伏在させての疑問である。
しかし、結論から言えば、統一教会(ダミーやフロントも含めて)とは、「宗教団体でもあり、政治団体でもある」と言わざるをえない。もっとも、宗教団体性を認めたところで、刑事的民事的な違法行為が免責されることにはならない。この点での宗教団体の特権はあり得ない。
問題は別のところにある。宗教団体でもあり同時に政治団体でもある統一教会の、宗教性と政治性の結びつき方がきわめて危険なものと指摘されなければならない。
宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させる。場合によっては圧殺もする。理性を喪失した信者が宗教指導者に心身を捧げ、宗教指導者がその信者を政治的な行動に動員する。場合によっては犯罪行為や軍事行動にまで駆りたてる。このような宗教の俗世への影響は、古今東西を通じて人類が経験してきたことであって、統一教会もその一事例である。
宗教的熱狂が信者を支配して反社会的行為に駆りたてるその小さな規模の典型を最近はオウム真理教事件で見たところであり、大きな規模としては天皇教という宗教が大日本帝国を支配した成功例から目を背けてはならない。
明治政府が作りあげた天皇教(=国家神道)は、天皇とその祖先を神とする宗教であり、同時に天皇主権を基礎付ける政治思想でもあった。現人神であり教祖でもあった天皇は、同時に政治的な統治者ともされた。大日本帝国は、日本国民を包括する狂信的宗教団体であり、その狂信に支えられた統治機構でもあり、さらに排外的な軍事的侵略組織でもあった。
恐るべきは、国民の精神を支配した天皇教の残滓がいまだに十分には払拭されぬまま、今日にも生き残っていることである。その典型を小堀桂一郎という人物の言説に見ることができる。この人、常に「保守の論客」として紹介される、東京大学名誉教授である。
真面目に読むほどの文章ではないが、一昨日(8月12日)の産経・正論欄の「この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏」という記事を紹介したい。
この表題における「安倍氏」とは、国葬を予定されている安倍晋三のこと。「叡慮」とは、敗戦の責任をスルーした天皇裕仁の「考え」あるいは「気持」、ないしは「望み」であろうか。その、ばかばかしい敬語表現である。「応へた」は、誤字ではない。これもばかばかしい、旧仮名遣いへのこだわり。結局、「安倍晋三とは、裕仁の期待に応えたアッパレなやつ」というのがタイトル。
少しだけ抜粋して引用する。洗脳された人間の精神構造の理解に参考となろうからである。なお、このような、もったいぶった虚仮威しの文体は、内容の空虚を繕うためのもの。このようにしか書けない人を哀れと思わねばならない。
「昭和20年8月14日付で昭和天皇の「終戦の詔書」を奉戴(ほうたい)した事により辛うじて大東亜戦争の停戦を成就し得てから本年で77年を経た。
この日が近づくと自然に思ひ浮ぶのは、言々句々血を吐く如き悲痛なみことのりを朗読されたあの玉音放送である。承詔必謹の覚悟の下に拝聴した詔書の結びの節をなす<…総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ遅レサランコトヲ期スヘシ>のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」「あの詔勅の核心をなす叡慮(えいりょ)に背く事の多い、恥づべき歴史を国民は辿(たど)つて来たのではないか、と慙愧(ざんき)の思ひばかり先立つ一方で、ふと思ひ返すと去る7月8日に何とも次元の低い私怨から発せられた凶弾を受け、不条理極まる死を遂げられた安倍晋三元首相の存在が俄(にわ)かに思念の裡(うち)に甦(よみがえ)つて来た。
安倍氏は疑ひもなく戦後の我が国に現れた政治家の中で最大の器量と志を有する人だつた。詔書に謂(い)ふ「世界の進運」に大きく寄与する事を通じて国体の精華を発揚する偉業を成し遂げた人である。氏にはまだ自主憲法の制定、皇位継承の制度的安定化といふ必須の大事業が未完のままに残されてをり、この二つを成就するための再登場が期待されてゐたのであるから、その早過ぎた逝去は如何(いか)に惜しんでも惜しみ足りない我が国の運命に関はる悲劇である。」
以下、小堀の「皇国史観」「排外ナショナリズム」「軍事大国化願望」「反中論」が臆面もなく綴られる。「平成4年には宮沢喜一内閣が、我が天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下に御訪中を強ひ奉るといふ不敬まで敢(あ)へてした。」などというアナクロニズムまで語られている。
何しろ、「天皇のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」という、嗜虐史観。この人にとっての天皇は、オウム信者にとっての麻原彰晃、統一教会信者にとっての文鮮明と基本的に変わるところのない、聖なる存在であり、絶対者なのだ。
このような偏狭な天皇教信者の精神構造は、日本国憲法の理念を受容し得ない。そんな人が、統一教会とのズブズブを批判されて窮地に立つ安倍や岸田を援護のつもりの論稿なのだろうが、逆効果が必至。何とも虚しい。
確認しておこう。宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させ、反社会的な行為に走らせる。この危険に敏感でなくてはならない。天皇教においても、オウムにおいても、そして統一教会においても。