澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「婦人」という言葉の生成・発展・衰退と、その必然。

(2021年3月8日)
本日は「国際女性デー」。森喜朗という功労者のおかげで社会の関心が高い。ところで、かつては「国際婦人デー」と言っていたはず。いったいいつころから、「女性デー」となったのだろうか。「婦人」から「女性」へ。その変化は、何を物語るのだろうか。

ネットを検索していたら、たまたま広井多鶴子(実践女子大学教授)の《「婦人」と「女性」?ことばの歴史社会学?》という論文に出会った。これが、すてきに面白い。いろんなことを教えてくれる。
http://hiroitz.sakura.ne.jp/resources/%E8%AB%96%E6%96%87/woman.pdf

この論文を読んでなるほどと思う。「婦人」という言葉の使われ方は、時代の社会意識を映してきたのだ。納得できる内容だし、何よりも「ことばの歴史社会学」というタイトルがピッタリではないか。

以下に、A4・8枚のこの論文の一部を引用させていただき、「婦人」という語彙の生成・発展・衰退の経過を追ってみたい。やや荒い整理とはなることはお許しいただきたい。

明治以前、「女性」の一般呼称としての語彙は、「女」であった。「長幼の序、男女の別」が道徳の基本とされ、「女三界に家なし」「三従の教え」を女性の処世訓と教え込まれ、「男尊女卑」を疑うべくもない身分制秩序の時代。その中では、「男」に対する「女」は、差別にまみれた社会意識を表現する言葉でしかなかった。

近代以後、自我に目覚めた女性を語る文脈で「婦人」が登場する。1885年に初めて「婦人」をタイトルとする書籍が登場したという。この時代を、広井論文はこう説明している。

「一婦一夫制や男女同権、女子教育の振興を主張した明治初期の啓蒙思想家の言論では、女よりも女子や婦人が好まれたものと考えられる。それは、言論・評論の場が公共空間として形成されていくにつれて、女ということばの持つ日常性や蔑視、さらには性的な意味合いが忌避されたからではないだろうか。」

こうして、「婦人」は、主として運動の用語として市民権を獲得してゆく。

「木下尚江『社会主義と婦人』(1903 年)、平民社同人『革命婦人』(1905年)、堺利彦『婦人問題』(1907年)、山川菊栄『婦人の勝利』(1919年)のように、社会主義関係の著書が好んで婦人を用いるようになる。」「平民社の西川文子らによる『真新婦人会』(1913年)、平塚らいてうの『新婦人協会』(1920 年)、市川房枝らの『婦人参政権獲得期成同盟』(1924年)といった社会改良を目指す婦人団体も結成される」

一方、『帝国婦人協会』、『愛国婦人会』『国防婦人会』『愛国婦人会』『大日本婦人会』など体制的な女性団体名も「婦人」を冠した。「女性の団体は運動や思想の内容を問わず、その多くが婦人を名乗ったのであり、こうして婦人は、婦人団体や婦人運動の用語ともなったのである。」

しかし、「婦人」は廃れて「女性」にその地位を譲ることになる。この点について、広井論文は、「婦人」の持つ言葉としてのイメージの限界を以下のように明晰に指摘する。

婦人はまた、男-女、男子-女子という対義語を持たず、妻という原義を払拭しえないために、女や女子という言葉以上に、女としての特殊性や独自性を強調することばである。戦前、婦人記者、婦人運動、婦人参政権といったことばが次々に作られていったが、女性の社会的な活動を意味するこれらの言葉ですら、結婚や家庭、妻、母、主婦といったイメージを拭い去れなかった。婦人は外で活躍しつつも、常にどこか家庭に拘束されている存在なのである。おそらく、婦人の持つこうした限界ゆえに、新たに「女性」という言葉が普及したのだろう。

「おわりに」として、広井教授はこう語っている。なるほど、なるほどと頷くしかない。

 婦人は、結婚や家庭での女性の新たな役割と尊厳を模索した明治啓蒙思想の中で使われ始め、そうした言論や運動の中で広がっていった新しいことばであった。既婚女性を意味した婦人は、娘を意味した女や女子よりも、結婚生活における女性の地位を高め、女性に対する社会的・公的敬意を得るための用語としてふさわしいものだったにちがいない。1880 年代から1920年代は、婦人ということばが最も精彩を放ち、その力を発揮した時期であった。

 しかし、婦人はまた、ようやく獲得した社会的・公的な敬意と裏腹に、女性を家庭や結婚に拘束し、よき妻、よき母たることを女性に求めることばでもあった。だからこそ言論や運動の用語として、さらには行政の用語として広く普及することになるのだが、そのことが逆に、婦人ということばの一般性・普遍性を喪失させることにもなった。一方、より客観的・普遍的な女性-男性ということばが創出され、1930年代になると、女性の代表的な呼称は、婦人から女性に移っていく。

 戦後、経済成長とともに専業主婦が一般化する中で、婦人は『婦人画報』や『婦人公論』の読者層が示すように、中流階層の主婦をイメージさせる言葉として生き延びる。だが、このことは、婦人が女性の一般呼称としても、また言論や批判の言葉としても、すでにその力を減じていたことを意味する。…そして、性別役割分業自体を批判する1970年代の女性解放運動では、もはや婦人を名乗ることはなかったのである。

言葉は社会的存在である。社会が言葉の意味とイメージを作る。旧時代の「女」の意味は、「差別に甘んじる性」であったろう。これを克服すべきとする社会意識の形成の中で、「女」は嫌われ「婦人」が用いられた。しかし「婦人」は、女性の権利獲得運動が進展して、性別役割分業自体を否定すると、たちまち限界を露呈する。新たに形成された社会意識は、良妻賢母型女性像と離れがたいイメージの「婦人」を嫌って「女性」を選択することになる。

運動が社会意識を変え、変えられた社会意識による取捨選択によって、言葉が変遷していくのだ。「国際婦人デー」って、いつころまで言っていただろうか。そりゃ大昔のことなのだ。

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